2017/03/16 - 2017/03/16
107位(同エリア138件中)
ムッシュさん
宇津谷峠入口から岡部宿、藤枝宿を経て島田宿入口の大井川まで。
【岡部宿】
【藤枝宿】
藤枝の地は古代から人が生活を営み、平安時代には役所が置かれていた。江戸時代には22番目の宿場町であると同時に、田中城の城下町として栄えた。
- 旅行の満足度
- 4.0
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富士山の雪景色
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丸子宿の山間にある道の駅から、歩き始めます。
『東海道の難所 宇津の谷峠 国史蹟指定』
「 蔦の細道(平安の道) 峠越えの古い東海道
一つの峠に4本のトンネル
・明治のトンネル 標高115m 長さ203m
・大正のトンネル 標高107m 長さ227m
・昭和のトンネル 標高 70m 長さ844m
・平成のトンネル 標高 70m 長さ844m 」
宇津ノ谷峠には、明治時代のトンネル、昭和初期のトンネル、国道1号線 上りの昭和中期のトンネル、
1号線下りの平成七年完成の新トンネルの計4本のトンネルがあり、一つの峠に
4本も掘られているのは世界でも珍しいとのこと。 -
これから宇津谷峠に向かって坂道を上がります。
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峠道の麓付近には、街道筋に住宅が見えます。
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この住宅は、【御羽織屋】と呼ばれます。
天正18年(1590年)小田原征伐に向う豊臣秀吉が当家に寄り、秀吉が馬の草履を取り替えようとした際、3脚分しか渡さない主人に、後の一足は如何したかとその理由を尋ねたところ、「4」を避け勝利の祈願を伝えた。秀吉は縁起の良い話を大変喜び、見事勝利した時に褒美として着用の陣羽織を与えたと言われている。後に家康も当家に立ち寄り羽織を拝見し、茶碗を与えています。参勤交代では大名が秀吉公にあやかるように羽織を見に訪れた。
【秀吉公のお羽織の由来】
天正十八年(1590)秀吉が小田原の北条氏を攻めたとき、宇津谷に休息した。その際、当家の祖先が馬の沓を献上し、また戦陣の勝利を示すような縁起のよい話しをしたので、帰りに立ち寄って与えたのが、当家所蔵のお羽織である。表は紙、裏はカイキ、後に家康もこの羽織を見て記念に茶碗を与えたが、これも当家に所蔵されている。 東海道宇津谷 石川家 -
この住宅は、御羽織屋と呼ばれます。
旧東海道宇津ノ谷(うつのや)峠の登り口にお羽織(はおり)屋、秀吉が褒美に胴腹(どうぶく、陣羽織の一種)を与えた店として知られている
宇津ノ谷名物の十団子(とおだんご)を販売している
十団子は苦難除けの小粒の団子で、鬼退治の伝説が残されている
店内には今でも秀吉の胴腹が展示されている -
御羽織屋を過ぎると、人家も途切れ、急坂になった。途中から下方に見える人家を上から撮る。
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登山道の途中には花と石仏。
嘉永五年(1852)と大正5年(1916)建立の馬頭観音像が祀られています。 -
更に上って 、途中から下方に見える人家を上から撮る。中央が街道です。
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これは、昔のフォト。
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浮世絵著作権フリー作品「東海道五十三次」からの画像
【東海道五拾三次之内 岡部 宇津之山 広重】22
豊臣秀吉が小田原攻めのために10万の大群を率いて通り、徳川家康は関ヶ原に向かって20万の兵馬とともにこの道を通った、狭い道ではさぞ難儀しただろう。
岡部宿:宇津の山
急傾斜に挟まれる宇津ノ谷峠。ここを越える唯一の道だった蔦の細道は、平安時代の「伊勢物語」にも登場する難所だった。
『安藤広重の東海道五拾三次之内・岡部「宇津之山」』
「難所といわれる宇津谷峠を越えると岡部宿である。薪を運ぶ木こり、菅笠をかぶる旅人。
奥に見える町へ出入りする様子である。
昼なお暗い山合いの川は段差で表現されるような急流で、左右の山の勾配も急である」 -
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【宇津ノ谷峠】
地蔵堂跡からすぐ峠に着きます。この峠には平らな所がなく道はすぐ下りになり、「宇津ノ谷峠の道について」の下記説明板が置いてありました。
天下の公道となった東海道宇津ノ谷峠はさまざまの人が越した。将軍・公家・大名行列・いろいろな庶民。最後の大行列は明治天皇であった。明治九年(1876)トンネル(現在のレンガ作り)が峠の真下に出来るまで270年間、天下第一の公道だった。峠の標高は170m。東海道分間延絵図によると峠地蔵・六地蔵・供養搭二基・傍示杭二本、有渡郡志太郡境とある。峠地蔵堂は現在慶龍寺本堂となり、供養搭一基は原位置にそのままある。 -
宇津ノ谷峠の街道は天正十七年(1589)秀吉の小田原征伐の際に、大軍を通す為に開削された新道。それ以前は蔦の細道でした。
その昔、頂上近くのこの斜面に地蔵堂を建てるために石垣を作ったのだという。石垣の上が広場になっており、今は「地蔵堂跡」として碑が建てられている。
「地蔵堂跡」
この奥の空き地は、もと延命地蔵堂のあったところで、礎石が散乱し、わずかに往時を忍ばせている。
江戸時代末期の歌舞伎脚本作家、河竹黙阿弥の作で、丸子宿と宇津ノ谷峠を舞台にした「蔦紅葉宇都谷峠」という芝居がある。
盲目の文弥は、姉が彼の将来を憂いて京で座頭の位を得させるために身売りして用立てた百両を持って京に上がる。
文弥は、道中、護摩の灰、提婆の仁三に目を付けられながら丸子宿にたどり着く。
一方、伊丹屋十兵衛は、かつての主人の恩義で借りた百両の返済工面のため京の旧知を頼ったが果たせず、失意のうちに江戸へ戻る途中、丸子に投宿する。
丸子宿の旅籠藤屋にこの三人が同宿したことが、文弥の百両をめぐる凄惨な結末への始まりとなる。
文弥の百両ほしさに十兵衛が宇津ノ谷峠で文弥を殺害してしまう芝居の山場、『文弥殺し』の舞台がここ延命地蔵堂前である。
この延命地蔵尊は、現在慶龍寺に祀られており、縁日は、毎年八月二十三・二十四日である。
平成十年八月 丸子路会 -
峠道の髭題目碑があります、天保六年(1835)建立で、南無妙法蓮華経と刻まれている。
碑の書面に「南無妙法蓮華経」の題目が筆端を髭のようにはねて書く書体で刻まれている。側面には「為人馬安全」「天下太平五穀成就」と刻まれており、旅の安全と世の平和・豊作を願って建立されたことがわかる。裏面には建立年月の「天保六年霜月再興」と「備前国(岡山県)木綿屋門平」をはじめ、清水市から島田辺りまでの建立者達の名前が刻まれている。
このような髭題目は日蓮宗の信仰が盛んな県東部にはごく普通に見受けられるが、中部のこの辺りでは非常に珍しいものである。
岡部町教育委員会 -
峠道を下って、岡部宿の集落あたりに下りてきます。
岡部宿の案内
【旧東海道(別名:大名街道)】
この道は、駿河国の安倍郡と志太郡のさかいにある宇津の山の一番低くなった鞍部にある峠道で、二つの峠越しがあった。一つは、源頼朝以後に開発された東海道本筋の通っている宇津の谷峠で、もう一つは、それ以前の蔦の細道の峠である。鎌倉幕府は部隊の行進ができない旧道を廃し、新道を開いたのが宇津の谷峠道である。上り下り八丁(約870m)の険路であった。ここで鬼退治にからむ十団子の伝説が生まれたのも、難所であった証拠であろう。豊臣秀吉が天正十八年(1590)七月、小田原城を落し、戦勝を誇り、蹄の音をこだまさせつつ通ったのも今は兵士共の夢のあとである。慶長六年(1601)徳川家康が、五街道を設け、交通の便を図ってからこの街道は人や物資の往来がひんぱんとなり、殊に参勤交代の大名行列は豪華絢爛たるもので、二十万石以上の大名は武将が二十騎、足軽が百二十人から三百人もあり、一万石の大名でも五、六十人の共揃えで、その行列はこの峠をうめつくしたことであろう。この道も明治九年トンネルの開通によってとざされたが、明治初期までは上り下りする旅人の難所であった。
岡部町教育委員会 -
宇津ノ谷峠道を下って、最初に【延命地蔵尊坂下堂】ここまで来れば、藤枝からのバスの終点となるバス停もあります。
我々も含め、宇津ノ谷峠を往来する旅人の道中安全を見守っています。
【坂下地蔵 堂】
建立年代、建立者は不明ですが、元禄十三年(1700)に、岡部宿の伊東七郎右衛門、平井喜兵衛、中野陣右衛門の三人が発願して地蔵堂を再建し、堂内の仏具をそろえ鴻鐘を新たに鋳して鐘楼も建立しました。霊験あらたかと村人や近隣の人々に信仰され、その霊験のあらたかさを示す二つの伝説「鼻取地蔵」「稲刈地蔵」が残されています。
堂内には地蔵菩薩像が安置されており、この地蔵尊は宇津ノ谷峠を越えようとする旅人の安全を守り、また、堂前の木陰は旅人の疲れを癒しました。
今でも八月二十三、四日の大縁日には、串に刺した十団子をお供えして供養します。また、新盆供養のために遠方からも参拝者が訪れます。
岡部町教育委員会 -
段丘上に十石(じゅっこく)坂観音堂があります、観音堂の中にはニ基の厨子が安置されています。
【十石坂(じっこくざか)観音堂】 町指定文化財(昭和48年4月指定)
岡部宿案内板のすぐ先にあります。観音堂の右側には沢山の石版・石仏が 整然と並んでいました。
入母屋造りの瓦ぶきの観音堂で内陣、外陣の境の格子は非常に細かい技巧が施されている。
江戸時代末期の作と思われ、この観音堂の中に二基の厨子が安置されている。
厨子一
中央にある厨子で、宮殿造り。屋根は入母屋造り、柿ぶき(こけらぶき)で二重垂木、妻入である。彩色がほどこされていて江戸もやや末期の作と思われる。
厨子ニ
観音堂の向かって右側にある。宝形、板ぶき屋根、黒漆塗りで簡素ではあるが品格の高いものである。
江戸も中期以降の作と思われる。
岡部町教育委員会 -
岡部宿の人家が見えてます。
【大旅籠柏屋(かしばや)】です。隣接して【岡部宿本陣跡】がある。
柏屋は内野本陣の別家である山内家が営んでいた。
この建物は、天保7年(1836)に完成。敷地面積2380坪、母屋の延べ床面積は100坪。現在は歴史史料館となっている。 -
岡部宿大旅籠柏屋の横にある【岡部宿本陣址】
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【岡部宿本陣跡公園】です。
岡部宿は、家数487軒、本陣2、脇本陣2、旅籠27、人口2322人
岡部宿は小宿でしたが、難所宇津ノ谷峠を控えると共に、西に大井川、東に安倍川があり、一旦川留になると、旅人で賑わったと云います。 -
岡部宿本陣跡公園です。
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岡部宿本陣跡
内野家が務めていた本陣は、間口15間、奥行き29間、建坪174坪、総畳数129畳あったようです。建物は明治期に建て替えられた。庭園の将軍稲荷、井戸が往時のままのこっている。
【岡部宿のあらまし】
岡部宿は東に宇津ノ谷峠、西には大井川という難所を控えていることから、平安時代後期より宿としての形を整え始めました。鎌倉・室町時代と発展を続け、慶長7年(1602)の宿の指定を受けました。
岡部宿は当初、川原町・本町・横町の3町で構成されていましたが、交通量の増加から寛永年間に内谷村が加わり、明治5年(1872)1月の伝馬所廃止を機に宿駅制度が急速に機能を失うまで、東海道の要衝として栄えました。
江戸時代の作家、十返舎一九の滑稽本「東海道中膝栗毛」にも登場します。雨中の宇津ノ谷峠で滑って転んだ弥次さんと喜多さんが、増水のため大井川が川留めと聞いて岡部宿に投宿する際に一首「豆腐なるおかべの宿につきてげり足にできたる豆をつぶして」と交通の難所であった様子が描かれています。 -
初亀酒造。寛永12年(1636)、静岡市で創業し、明治初期からこの地で製造してる。銘酒初亀の蔵元です。
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【小野小町の姿見橋】
美人の誉が高かった小野小町が晩年東に下るさい、この橋の上に立ち止まり、岡部の山々を眺め、橋の下の水面に映った自分のやつれ、年老いた姿に悲しんだそうです。 -
サッカー選手、中山ゴンの実家です。彼は、藤枝東高校から筑波大学に進学した。。
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サッカーの中山ゴン選手の実家です。彼は、岡部から藤枝東高校、筑波大へと進学し、プロ選手になった。
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秋葉山道の常夜灯
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【田中藩領榜示石蹟】
田中藩は、他藩と接する領地が入り組んでいたため、田中藩を示す榜示石を各所に立てていた。石に刻まれたもじは、田中城主が家臣に命じて書かせたもので、書の見事さは、旅すり文人を驚かせた程だという。
瀬戸新屋村は田中藩領と掛川藩領が入り込む特異な村で、藩境に境界を示す牓示石を立てた。この牓示石は一丈余(約3m)の石柱で、「従是東田中領」と書かれていた。これと対となるのが市内鬼島の「従是西田中領」で、美濃国岩村藩領横内村との境界の法の川の所に立てられていたが、今は西益津中学校に移されている。牓示石は、田中城主本多正意(まさおき)が家臣の書家、藪崎彦八郎に命じて書かせたもので、その書の見事さは旅の文人を驚かせたという。上青島にも牓示石があった(青島史蹟保存会) -
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浮世絵著作権フリー作品「東海道五十三次」からの画像
【東海道五拾三次之内 藤枝 人馬継立 広重画】23
早朝の問屋場で行われる人馬継立(じんばつぎたて)。宿場の活気あふれる様子。
監視する武士や役人も。
上伝馬町の問屋場(といやば)における人馬継立の風景が描かれている。
前の宿より荷物を運んできた人足と馬がここで交代するところで、次の宿までは別の人足と馬が運ぶのである。 即ち運ぶ人や馬は同じ場所を行ったり来たりしていた。
問屋場を仕切る人は、絵のように高いところにいた。これは、全体を見渡すためである。また、金銭などもめごとがあっても人が上がれないように高くしてある -
東海道(上青島)一里塚跡碑。江戸日本橋より数えて四十九里目です。
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JR六合駅の手前です。藤枝と島田の中間辺り。
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藤枝を抜けて島田に到着です。
【蓬莱橋 ほうらいばし】
島田宿の大井川に架かる木道橋。全長897.4m(別名:約梨=厄無し)で世界一長い木造歩道橋。1997年にギネスに認定登録済。さらに、賃取り橋で有料です。昔は、対岸牧之原台地の茶畑開墾に従事した人たちの通用橋。この道を通り、名物”お茶”を運搬した。
現在は、歩行者100円、自転車100円で通行可。
川底から十数mもの高さだが欄干が低い。ころんだら即、川底へ死のダイビング。
【牧之原台地開墾のために生まれた橋】
大井川右岸にある牧之原台地は全国有数の茶園です。
蓬莱橋は牧之原台地の開墾のため、明治12(1879)年に架けられた農業用の橋です。橋が架けられる前は大井川を小船で渡らなければならず、行き来するのに危険を伴っていました。
現在も蓬莱橋は農道としての重要な役割を担うほか、貴重な歴史的土地改良施設で茶園を管理するために利用されています。
『蓬莱橋の歴史』
明治2年(1869)7月、最後の将軍徳川慶喜を護衛してきた幕臣達が大井川右岸にある牧之原を開拓し、お茶を作り始めた。
当初は大変厳しい環境の中で、筆舌には尽くせない苦労の連続だったが、そのかいがあって順調に茶栽培が営まれ、生活が安定するにしたがって、島田の方へ生活用品や食料品を買いに出かけるようになってきた。
また、島田の方からも初倉に山林、原野の開墾のため出かけるようになったが、大井川を小舟で渡らなければならず、大変危険なことだった。
そこで、島田宿の開墾人総代達は、時の静岡県令(現在の知事)に橋をかける願いを出し許可され、明治12年(1879)1月13日に完成した。
しかし、木橋のため大井川の増水のたびに被害を受けてきたので昭和40年(1965)年4月にコンクリートの橋脚に変え、今日の姿となった。
現在蓬莱橋は、全長897.422m(1997年12月ギネス認定「世界一長い木造歩道橋」)、通行幅2.4mであり、大井川の自然と一体となった木橋として全国的に有名な観光名所となっている(歩行者と自転車の専用橋)。 -
島田 蓬莱橋の夕景(ネットから借用)
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木道橋は【[蓬莱橋】と称す。
全長897mで世界一長い木造歩道橋。897mは、この橋が「長い木=長生き、897=厄なし」の語呂合わせで、縁起が良いと、年間10万人が訪れるとか。
【蓬莱橋の歴史】
1869(明治2)年7月、最後の将軍徳川義喜を護衛してきた幕臣達が大井川右岸にある牧之原を開拓しお茶をつくり始めた。当初は大変厳しい環境の中で筆舌にはつくせない苦労の連続だったが、そのかいがあって順調に茶栽培が営まれ、生活が安定するに従って島田の方へ生活用品や食料品を買いに出かけるようになってきた。また、島田の方からも初倉に山林、原野の開墾のためにでかけるようになったが、大井川を小舟で渡らねばならず大変危険なことだった。そこで、島田宿の開墾人総代達は時の静岡県令(現在の知事)に橋をかける願いを出し許可され、1879(明治12)年1月13日に完成した。しかし、木橋のため大井川の増水のたびに被害を受けてきたので1965(昭和40)年4月にコンクリートの橋脚に変え、今日の姿となった。現在の蓬莱橋は全長897m(平成9年12月 ギネス認定「世界一長い木造歩道橋」)通行幅2.4mであり、大井川の自然と一体となった木橋として全国的にも有名な観光名所となっている。
大井川にかかる蓬莱橋は全長897.4m、通行幅2.4mの昔懐かしい木造歩道橋で、1997年に「世界一長い木造歩道橋」としてギネスブックに認定されました。
現在では数少ない賃取橋で、橋のたもとにいる「橋番」に通行料を支払ってから渡ります。1日250~300人、年間にすると10万人以上が訪れています。
毎年5月には「蓬莱橋ぼんぼり祭り」が開催され、橋はたくさんのぼんぼりで飾られ、さまざまなイベントが行われにぎわいます。(島田市) -
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