2017/03/04 - 2017/03/05
425位(同エリア1099件中)
ひま人さん
今回の沖縄の名城で100名城巡りも100城達成しました。約4年かかりました。空路、那覇空港から近い首里城(百名城中100番目)へ。昭和20年(1945年)米軍との沖縄戦で完全に破壊されたが、平成4年(1992年)に、正殿などが旧来の遺構を埋め戻す形で復元されました。ホテルに一泊後、今帰仁城(なきじんじょう・98番)へ。国頭郡今帰仁村に位置する城跡です。14世紀、琉球王国成立以前に存在した北山の国王・北山王の居城でした。次いで最後の中城城(なかぐすくじょう・99番)へ。中頭郡中城村に位置し、15世紀の琉球王国・尚泰久王代・護佐丸のグスク(城)として知られます。
表紙写真は首里城守礼門。二千円札の図柄で知られています。
- 旅行の満足度
- 4.5
- 観光
- 4.0
- ホテル
- 4.0
- ショッピング
- 4.0
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 5万円 - 10万円
- 交通手段
- ANAグループ 私鉄 徒歩
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首里城正殿(復元)正面。那覇市首里にあり、かつて海外貿易の拠点であった那覇港を見下ろす丘陵地にあるグスク(城)です。昭和20年(1945年)の沖縄戦と戦後の琉球大学建設により完全に破壊されわずかに城壁や建物の基礎などの一部が残っています。1980年代前半の琉球大学の移転に伴い、本格的な復元は1980年代末から行われ、平成4年(1992年)に、正殿などが旧来の遺構を埋め戻す形で復元されました。
国史跡指定。世界遺産(琉球王国のグスク及び関連遺産群)登録。但し、登録は「首里城跡」であり、復元された建物や城壁は世界遺産ではありません。 -
正殿前の御庭(うなー)。
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正殿内の「玉座」(復元)。国王の玉座として様々な儀式や祝宴が行われたところです。この玉座は1477年~1526年まで在位した尚真王の肖像画をもとに再現したものです。
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石積の城壁。
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久慶門(きゅうけいもん)。首里城外郭の北側に位置し、かつては通用門として主に女性が使用しました。
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玉陵(たまうどぅん)碑。この碑文は弘治14年(1501年)建てられたもので、玉陵に葬られる人々を規定したものです。尚真王外8人の名が記され、この書付に背くならば、”天に仰ぎ、地に伏して祟るべし”と結んでいます。碑文には長男・次男の名が見えず王室内に対立があり、廃されたとみられています。
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玉陵。歴代国王の墓。1501年、尚真(しょうしん)王が父尚円王の遺骨を改装するために築かれ、第二尚氏王統の陵墓となりました。墓室は三つに分かれ、中室は洗骨前の遺骸を安置する部屋、創建当初の東室は洗骨後の王と王妃、西室には、墓前の庭の玉陵碑に記されている限られた家族が葬られました。全体の造りは、当時の板葺屋根の宮殿を表した石造建造物になっています。墓域は2442㎡。
沖縄戦で大きな被害を受けましたが、1974年から3年余りの歳月をかけ、修理工事が行われ、往時の姿を取戻して今日に至っています。
昭和47年国重文指定、国史跡。
平成12年世界遺産登録。 -
玉陵。東室、中室、西室に分かれています。
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今帰仁城(なきじんじょう)入り口付近。国史跡、世界遺産登録。城域は南北350m、東西800m、面積37000㎡県内最大級の城(グスク)として名高い。
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石積の城壁。14世紀頃の沖縄は北部地域を北山、中部地域を中山、南部地域を南山がそれぞれ支配した「三山県立の時代」でした。北山王は今帰仁城を拠点に沖縄島の北部を中心に支配下とし中国と貿易をしていました。しかし、1416年に中山の尚巴志(しょうはし)によって滅ぼされ、北山としての歴史の幕を閉じることになりました。
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平郎門。本門で、昭和37年に修復されました。琉球由来記に「北山王者、本門、平郎門を守護す」として登場します。
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旧道。曲がりくねった大きな岩盤の谷間を利用し、防衛機能上から幅は狭く急なのぼり道となっています。当時はこの道を利用していました。
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今帰仁城のカンヒザクラ。今帰仁城跡は桜の名所として知られ、毎年1月から2月にかけて桜祭りが行われています。この時期は葉桜になっていましたが一部に桜が見られました。
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御内原(ウーチハル・城内上の御嶽)。今帰仁城に仕えた女官の生活の場所と伝えられ、城内でも神聖な場所です。
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大隅(ウーシミ)。戦時に備え馬を養い、兵馬を訓練した場所として伝えられています。最も高い石垣が築かれた堅牢な城郭です。
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志慶真門郭(シゲマジョウカク)。ここには城主に仕えた身近な人々が住んだと考えれれています。発掘調査によって4つの建物があったことが分かっています。
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主郭(俗称本丸)。発掘調査によって築城から廃城までの時期変遷を確認することが出来たそうです。城内で最も中心的な建物があった場所です。
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火之神の祠。主郭に火の神が祀られていました。
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今帰仁村歴史文化センター。今帰仁城跡をはじめ今帰仁村の歴史と文化を紹介しています。今帰仁城跡から出土した陶磁器などの資料も展示しています。
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歴史文化センターの展示品・金装宝剣拵(千代金丸・国宝指定)。複製で本品は、那覇市歴史博物館にあります。
1416年に中山の連合軍に攻め滅ぼされた時、北山王は攻め立ててきたテンチジアマチジの神が守護してくれなかったとして切りつけた太刀が千代金丸です。自害しようとしたが切れず、志慶真川に投げ捨てます。後に下流域で伊平屋島の人に拾われ王府に献上されたと伝えられています。 -
出土した陶磁器。
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国史跡、世界遺産登録・中城城跡(なかぐすくじょう)。
中城城は、かつて、貿易が行われていた屋宜の港から2kmほどの標高160mの丘陵地上にあります。 -
石積の城壁。連郭式の山城で、六つの郭で構成されています。城壁は主に琉球石灰岩の切り石で積まれており、自然の岩石と地形的条件を生かした美しい曲線で構成されています。14世紀後半頃まで先中城按司(さちなかぐすくあじ)が数世代にわたり、西の郭、南の郭、一の郭、二の郭の主な部分を築き上げ、1440年に読谷の座喜味グスクから移ってきた護佐丸によって、北の郭、三の郭が増築され現在見られるグスクの形が完成したようです。
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裏門。東に向かって建てられた裏門。ペリー探検隊がエジプト式と評した精巧なアーチがひときわ美しい。
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あいかた積み(亀甲乱れ積み)。三の郭。
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北の郭。
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西の郭。
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二の郭。石積技法は布積みで曲線が美しい。
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三の郭。三の郭は新城(ミーグスク)と呼ばれ、石積は技法の最も進んだあいがた積み(亀甲乱れ積)によって築かれています。
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一の郭。中城城で最も広い一の郭。正殿がありました。後に間切番所が建てられ、廃藩置県後はな中城村役場に使用されていたが、沖縄戦で焼失しました。
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北の郭。
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史蹟 中城城跡碑。
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西に方角に向けて建てられた正門(櫓門)。門をはさむように両側に石垣がせり出し、ハンタ通(公道)に向け狭間がつくられています。
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