2016/10/15 - 2016/10/15
246位(同エリア499件中)
三峯霧美さん
あちこち出かけて、寺社巡りをしていますが、灯台下暗し、地元の式内社に行っていませんでした。
いつでも行けると思って、なかなか行かない地元。
秋の穏やかな一日、お天気が良いので、急遽思い立ち、中央道で河口湖に行き、浅間神社巡りをしようと出発したのですが、また急遽、予定を変更して、地元の神社巡りに変更しました。
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当初の目論見は中央道に乗って河口湖から浅間神社巡りをしようと自宅を出発。
この日は15日、圏央道のICに行く前に、狭山市の廣瀬神社に寄っていくことにしました。
廣瀬神社は普段は無人で、毎月1日と15日は午前中にお祀りがあり、氏子さんがいらっしゃるというのです。
大きな通りから住宅街の生活道路に入ります、駐車場も適当な感じで、ここに停めていいのかな?と迷いながら駐車。
あら?なんだか神社が賑やかです。 -
なんと、この日は秋の例大祭の宵宮の日でした。お祭りの準備中。
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廣瀬神社 式内社
祭神 若宇迦能売命
創建は景行天皇の御代、日本武尊の東夷征討の折、この地を通り大和国の広瀬に似ているとして、廣瀬大社の神を分祀したと言われていますが、廣瀬大社は武蔵国に分祀を行った記録は残されておらず、社名の由来は、このあたりが川の合流点で瀬が広がっていたのからだろうということです。 -
850年には官社に列せられた記録が残り、式内社の入間郡五座の一つで、地域でも有力な古社です。それなのに、普段は無人とは少々残念ですが。
樹齢800年と言われる大ケヤキ。高さが30mもあります。
神社には狛犬がありません、主祭神が女性神なので、荒々しいものを嫌うということです。 -
お祭りの準備で、御神輿が美しさを競うように並べられていました。一番大きなものは1864年造の狭山市指定文化財、最近古くなった部分を新しく調整したということで、その金額にびっくり!
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うわ~綺麗!滅多にこんなに近寄って見ることができないので、じっくり拝見させていただきました。
社務所に行くとご老人が一人。聞くと留守番してるとのこと「御祭りなんで、もう一杯飲んじゃってんだよ」と笑う。神職さんは氏子さん達と車で、隣村との境のをまわって、お札を立てに行っているというのです。
周囲の町名を挙げて、氏子地域の外から悪いものが入って来ないようにするためで、「こんなことやってるのは、ウチだけだと思うけどな」だそうです。 -
出発したばかりなので、小一時間は帰らない、御朱印は神職さんが戻ってこないと書けないというので、これも何かの縁、この後の浅間神社巡りは中止にして、近くのコンビニのイートインでコーヒーを飲みながら、1時間待つことにしました。
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1時間して神社に戻ると、神職さんと氏子さん達の車が境内に入ってきました。
先ほどの留守番のご老人が「この人たち、一時間も待ってたから御朱印書いてあげて」と若い神職さんにお願いしてくださいました。もう、ほんと、お祭の準備で忙しい所、対応頂きましてありがとうございました。 -
頂いた御朱印、延喜式内と書かれています。なんだかとっても嬉しい。
浅間神社巡りを中止したので、近くの神社を廻ることにしました。まずは入間川を渡り、国道16号沿いの清水八幡宮へ。 -
狭山市 清水八幡宮 祭神 清水冠者義高
9月10月と二度にわたり木曽を旅し、木曽義仲のことを調べる機会がありました。
木曽義仲の嫡男の義高を祀る神社が、普段よく通る16号沿いにあることがわかりました。そういえば、ちいさな神社があったかも・・・。
社殿の西側は細い道と数軒の家があって入間川という狭い場所。 -
清水冠者源義高は木曽義仲の嫡男で、母は巴御前とも、その姉妹ともいわれています。
11歳の時に人質として源頼朝と政子の長女大姫の婿という名目で鎌倉に差し出されます。大姫は幼いながらも義高を慕うようになったそうです。
その後、事態は変わり義仲は朝敵となり頼朝の軍によって討たれてしまいます。 -
頼朝が義高を謀殺すると知った大姫と政子は、義高を女装させ、数人の共の者と馬で鎌倉を脱出させます。しかし夜には頼朝の知るところなり、追っ手を差し向けられます。
入間川の八丁の渡し付近で追いつかれた義高は、追っ手の一人、藤内光澄によって殺害されてしまいます。清水八幡神社 寺・神社・教会
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義高の悲報を知った大姫は水を飲むことすらできなくなるほど嘆き悲しみ、心を病んでしまいます。政子は激怒し頼朝に迫り、光澄をさらし首にします。
義高の遺骸は里人によって埋められ墓が築かれていましたが、政子は立派な社殿を築き、政子も参内したと伝わります。大姫の心の傷が癒えるのを願ってのことなのでしょう。
大姫はその後、縁談を断り続け、後鳥羽天皇の入内の話もありましたが、20歳で早世します。 -
社殿は1402年の大洪水で流され、再建されることはなく、度重なる洪水で正確な鎮座地も分らなくなってしまいました。幕末に1430年の年号と鎮座の由来と来歴(義高が入間川で殺害されたことなど)を刻んだ石の祠が出土します。
明治に入り現在の場所に八幡宮が再建され、石の祠が本殿として祀られています。
写真は石の祠の覆殿です。
戦国の世とはいえ、なんとも悲しいお話です。一生が50年ほどの時代、人の命は今と比べるととても軽く扱われて、人の死は日常だったのでしょう。 -
清水八幡宮から更に頻繁に通る道沿いにある八幡神社へ
石段の両脇の植え込みのお手入れ中でした。狭山 八幡神社 寺・神社・教会
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この正参道の石段は、16号に抜ける道が開通したため曲がっています。以前はまっすぐに伸びていたそうです。
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八幡神社
祭神 応神天皇
創建は室町時代初期とされ、新田義貞が合戦に向けて戦勝祈願をして勝利を収めたので、必勝の神。 -
新田義貞、駒つなぎの松
1333年5月、新田義貞は小手指原の戦の前に八幡神社で戦勝祈願をし、その際に愛馬をつないだという松。
新田軍は戦を続け鎌倉に攻め入り、鎌倉幕府は滅亡します。
ついさっきお参りした清水八幡宮は頼朝に殺された源義高を祀った神社、こちらはその200年後、鎌倉幕府を滅亡させた新田義貞が戦勝祈願した神社、なんだか、不思議な感覚に陥ります。 -
神社本殿、江戸時代後期(1802年)に作られた彫刻。市指定の文化財です。
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参集殿は、社務所の入り口と、結婚式場の東武サロンの入り口も兼ねています。
中に入ると絨毯が敷き詰められ、受付とソファーのあるロビー、その一角にお札やお守りが並べられています。
受付に御朱印をお願いすると、担当の方が社務所に持っていき「少々お待ちください」というスタイル。これは初体験です。 -
しばらく待っていると、社務所から神職さんが御朱印帳を持ってきてくださいました。意外とシンプルな御朱印。
なんでも、言い伝えで所沢の北野天神さまで雨が降っているときは入間川の八幡さまでは必ず晴れてよい天気になったとか・・・というわけで、その北野天神に向かいます。 -
というわけで、所沢の北野天神です。気が付けばずいぶん長い間参拝していなかった。
式内社の物部天神社と国渭地祇神社(くにいちぎじんじゃ)の二社と天満天神社が合祀されています。
しかし、その二つの式内社の比定社としては認められていないようですが。北野天神社 寺・神社・教会
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南側の正参道 かなり厳かな雰囲気。
社伝によれば、創建は日本武尊が東征のおり、ニギハヤヒノミコトとヤチホコノミコトを祀り、物部天神社・国渭地祇神社となり、995年に菅原道真五世の修成が武蔵守になり武蔵国に下向し、京都の北野天満宮を祀り、三社を合祀して北野天神社というそうです。
また、式内社の出雲祝神社も合祀されてるとも・・・。おそらく、廃絶した式内社を神職の計らいで合祀したのではないか推察されています。 -
源頼義・義家が総社を建立し、源頼朝が社殿を修復し、戦乱で荒廃した諸社を足利尊氏が建立し、再び罹災し、前田利家によって社殿が再興されました。
いや、そうそうたるメンバーじゃないですか。 -
拝殿は平成に入って造営されたもの、あ~そういえば、前に参拝した時は、四角い箱のような拝殿だった記憶がある。それに無人だった記憶も・・・。
実は長男のお宮参りをお願いしようと、2度ほど電話を掛けましたが、誰も出なかったので、所沢の神明社に行ったのです。 -
本殿は安永七年(1779年)に建立され、その後も修繕がおこなわれています。
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御朱印を頂きました。お願いして三つの神社の名前を書いていただきました。
今回のプチ旅で武蔵国入間郡の式内社で、御朱印を頂ける神社の印が揃いました。
ちょっとした達成感があります、しかしもっと早くお参りしておけばよかったかな。
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