2017/01/28 - 2017/01/28
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ベームさん
その1の続きです。
言問団子で一休みし,墨堤から鳩の街、向島百花園から東向島の玉の井を巡り永井荷風の世界を訪ねました。
私の場合朝から夕方まで7時間ほど歩きまわり、散歩なんて風雅なものではなくて苦行です。
写真は美味しかった三色の言問団子。
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向島その2の地図です。左下、長命寺から右上玉ノ井、東武東向島駅まで。
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長命寺裏から墨堤に登りました。
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桜橋。
隅田川を挟む台東区と墨田区が姉妹区の提携を結んだ記念に造られ昭和60年完成。
建造費も両区折半だそうです。 -
高い所から見るとエックス形をした隅田川唯一の歩行者専用の橋です。
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桜橋全景。
区のホームページから借用しました。 -
ポトマックの桜の説明板がありました。
明治の末東京からワシントンに贈られた向島の桜(ポトマック河の桜)の子孫が、昭和60年、桜橋の架橋に際しワシントンから贈られてきたものです。約70年ぶりの里帰りです。 -
そばに立つこれがその桜でしょうか。一寸痩せていますね。
墨堤の桜は江戸時代から今に至るまで有名ですが、こんな光景もあったそうです。
明治34年刊の「東京風俗志」の一節。
「花見の客の雑踏狼藉は筆にも記しがたし。明治33年4月15日の日曜日に向島にて警察官の厄介となりし者酩酊者二百五人喧嘩九十六件、うち負傷者六人、迷子十四人・・・。」
今はみんな賢くなり、花見もおとなしくなったものです。 -
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明治31年頃の墨堤の花見。
山本松谷:新選東京名所図会より。
まさに春のうららの隅田川です。帆掛け船が浮かび、遠くに筑波の山。
今の花見は車座になっておとなしく騒ぐだけで芸がないが、明治のころはおかめやひょっとこ、花魁などに仮装して踊り狂うことも多かった。やがて風俗紊乱の惧れありとてご法度となる。 -
墨堤からの押上のタワー。
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心は早くも春のうららの隅田川。
昔この辺りに竹屋の渡しがありました。向うの橋は桜橋。
1800年頃、対岸山谷堀に竹屋という船宿があって一人2百文で渡しを始めた。
こちら側の茶店の主が「おーい、竹屋の人」と叫ぶと船宿から船を出したという。ある時茶屋に美声の女将がいて、その声を聴くために船に乗ったという好き人もいたとか。向島から今戸に乗る人は浅草の芝居見物か吉原遊びが多く、今戸側から向島に渡る人は春の花見のほか自然の残る風景を愛でる人たちが多かったらしい。
川を横切るのに大して時間はかからないと思いますが、ござ、蒲団は当然としてお茶、煙草盆まで用意してあったそうです。 -
上流方面。隅田川はその源は奥秩父の甲武信ケ岳から発する荒川です。その最下流域、いまの墨田区、江東区辺りは明治、大正になっても度々荒川の増水による大水害に見舞われました。そこで大正から昭和の初めにかけて北区の岩淵水門から荒川放水路の開削が行われ、完成した荒川放水路が荒川の本流となり、岩淵水門からもとの荒川が隅田川と改称されたのは1965年の事です。それまでは千住大橋から下流を隅田川と呼んでいました。
石神井川、神田川、日本橋川、北十間川、小名木川を合流し全長23.5キロあります。 -
昔早慶、東大、一橋大学の対抗戦のニュースを見た記憶があります。
学校対抗の競艇が最初に行われたのは明治17年でした。端艇競漕と言われました。河岸には各大学の艇庫が並んでいました。隅田川の水質汚染で昭和36年無くなりましたが今は早慶レガッタが復活しているそうです。
永井荷風の随筆「向島」には”橋場辺の岸から向島を見ると、帝国大学のペンキに塗られた艇庫が立っていて、毎年堤の花が咲く頃、学生の競艇が行われて、そのあたり一帯が競漕を見にくる人で賑やかになる。堤の上に名物言問団子を売る店があり、・・・。”と書いています。帝国大学は鉢巻の色で、赤の医科、青の法科、白の工科が競いました。
あの夏目漱石が大学予備門のころ(明治17、18年頃)ボートに夢中になっていたとか、記憶違いかもしれません。 -
墨堤常夜灯。
かってここにあった牛嶋神社の常夜灯。隅田川を航行する船や桜見に墨堤を歩く人たちの良い目印になりました。 -
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明治4年建設、高さ4.65m。
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これも名代の言問団子で一休み。
江戸末期、植木職人外山佐吉が長命寺の桜もちにならって団子を売り出した。在原業平の歌「名にし負はば いざ言問はん都鳥 我が思う人はありやなしや」の舞台がこの辺りなので言問団子と命名。
ここでいう都鳥とはユリカモメのことだそうで、ユリカモメなら日本何処にでもいるでしょうが、業平の歌によって隅田川と切っても切れない仲になりました。 -
これ650円だったか。
疲れてきた所だったので程よい甘さで美味しかったです。小豆餡、白餡、みそ餡の三色だそうです。 -
写真撮っても良いとのことで店内。
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店の前に建つ看板。
郡司大尉(郡司成忠)はロシアに対する北方警備、千島開拓の意図で国の正式認可が無いまま80人の同志と共に明治26年3月隅田川から出航。多くの犠牲者をだしこの第一次千島拓殖は事実上失敗に終わっている。
団子屋の近くから出発したというだけで言問団子屋と郡司大尉とは関係ないと思います。幸田露伴の次兄です。 -
墨堤植桜之碑。明治20年建立。
撰文は成島柳北とされるが、柳北は明治17年に亡くなっているのでどうか。予め撰文していたのかも知れません。
今は向島は桜だけが有名ですが元々は月とか雪の名所でした。江戸時代文人墨客、さらには将軍、大名、武士、町人たちはそれを目当てに向島に遊んだのです。また金持ちは寮と言われた別荘、隠居所、妾宅を構えました。 -
これによると墨堤の植樹は江戸時代から将軍家と地元住民の協力で進められたようです。向島百花園の開設者佐原鞠塢(さはらきくう)とか成島柳北も力を入れています。1800年代に植樹が始まり1880年頃今の形に完成したそうです。
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色々な木が植えられています。
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ほころび始めていました。
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野口雨情歌碑。
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昭和8年この地に遊び、言問団子の店で団子を食べながら作ったと云われます。
都鳥さへ夜長のころは水に歌書く夢も見る -
墨堤から降りてきました。
桜のほころぶ前、まだ人の少ない暖かい日に枕橋からこの辺りまで散策するのはさぞ心地よいものでしょう。 -
北に延びる通りは墨堤通り。白鬚神社の方まで続いています。
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向う角に立つのは隅田公園少年野球場のアーチ。
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一本足打法の王少年。
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昭和24年、敗戦日本の少年に希望を与えるために造られた日本最初の少年野球場。あの王選手もここから育っています。
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今日も子供たちが元気に野球をしていました。
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墨堤通りを渡り、電信柱の大まかな案内標識を頼りに依田學海、成島柳北の旧居跡を探して向島5丁目の中を歩きます。
所々に古い民家が残っていました。 -
向島5丁目辺り。
電信柱に付けられた案内板が途中から無くなりうろうろしました。 -
言問小学校のフェンス際にプレートがあります。
途中2,3人の人に訊いてようやく見つけました。地元の人でも”よだがっかい、なるしまりゅうほく、誰?”って感じであまり知らないようでした。
言問小学校前とでも案内に書いてあればすぐ分ったのにと思いました。 -
依田學海(よだがっかい)旧居跡。
1834/天保4年~1909/明治42年。佐倉藩士の子。
漢学者、作家、評論家、劇作家。
明治政府の役人を務め、退官後文筆活動に専念。9代目市川団十郎などと共に演劇改良運動をすすめ歌舞伎の近代化に功績を遺す。森鴎外の漢文の師でもあった。森鴎外もその著「イタ・セクスアリス」などで師をモデルに描いている。
多くの歌舞伎向け戯曲、「譚海」、「學海日録」など。 -
その横に成島柳北旧居跡の看板が建っていました。柳北のことはその1の長命寺の所で少し触れました。徳川幕府の高級役人だった柳北は幕府瓦解後明治新政府からの度々の招聘に応えず、ここ向島に閑居し余生を文筆家、ジャーナリストとして送りました。
海棠園(かいどうえん)と呼ばれここで没しています。 -
近くに羽子板資料館、羽子板の鴻月があります。
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その前の道を進むと鳩の街通り商店街です。
昭和3年、寺島商栄会として始まった商店街、戦後鳩の街通り商店街と名前を変えています。 -
水戸街道から墨堤通りまでほぼ一直線に続く通りで、東向島1丁目と3丁目の間になります。
この通りの裏側一帯が戦後鳩の街として知られた赤線地帯でした。近くの玉の井が東京大空襲で焼け、その業者が移ってきて始めた私娼街です。進駐軍の兵士で賑わいピークで娼家108軒、接客婦300人を数えたそうです。
昭和33年、売春禁止法施行でその火は消えました。
永井荷風の「春情鳩の街」、吉行淳之介の「原色の街」に描かれています。 -
「春情鳩の街」は向島鳩の街の一軒の喫茶店を舞台に、喫茶店の主人夫婦、そこに勤める女給と馴染みの客たちの物語です。
喫茶店は表向きで実際は娼家、女給は娼婦です。そこに働く女たちは、身は卑しくとも心は純情で、なじみ客に尽くし出来たら幸せな結婚をしたいと望んでいます。永井荷風は良家の子女よりもそういった境遇の女に人の真心を見出しており、同情を寄せています。 -
鳩の街通り商店街。
戦災を受けていない狭い通り、レトロな商店と新しい店が混在する商店街として近年人気が出てきているそうです。
経産省の「新・がんばる商店街77選」に都内では戸越銀座商店街とともに選ばれています。
新吉原が千束に、玉の井が東向島に名前を変えたのに、普通なら避けるであろうマイナスのイメージのある名前を堂々と商店街の名前に付けるとは見上げたものです。 -
総菜屋、八百屋、魚屋、肉屋、駄菓子屋、洋品雑貨屋など軒を並べています。
ここらで足が攣るような気配です。薬屋で薬を買いその場で飲みました。 -
途中寺島保育園というのがありました。
保育園のフェンスに案内板が架かっています。 -
吉川英治旧居跡の看板。25歳の頃この辺りに住んでいたそうです。
1892/明治25年~1962/昭和37年。横浜生まれ。
家庭の貧困から様々な職業を経ながら独学で文筆に励み、ついに国民的大衆作家として名を成す。
「鳴門秘帖」、「宮本武蔵」、「太閤記」、「新・平家物語」、「私本太平記」など。 -
古民家カフェこぐま。
こういった店、はやりです。観光客に人気があるようです。 -
鳩の街通り商店街の墨堤通り側の入り口。
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次に目指すは向島幸田露伴旧居跡です。
”路地”が残っています。。 -
鳩の街通り商店街を出て右に行きます。
東向島1丁目。 -
小さな児童公園がありました。
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露伴児童遊園。ここが幸田露伴が住んだ向島蝸牛庵跡です。
幸田露伴:1867/慶応3年~1947/昭和22年。
明治、大正、昭和を通じての文豪。漢文学、日本の古典にも通じ小説のほか随筆、史伝の著作多数。明治の中頃には尾崎紅葉と共に「紅露時代」を築いた。
「五重塔」、「露団々」、「風流仏」、「天うつ浪」ほか。
作家幸田文は娘、青木玉は孫。 -
明治30年から大正13年まで約27年間向島、当時寺島村、に住んだ。向島では2回(或いは3回とも)住居を変っている。露伴は自分の住まいを「蝸牛庵」と呼んだ。カタツムリのように住まいを変えるからだという。
最初の住まい(明治30年~明治40年)は今明治村に移築されています。 -
此処は2番目の住まいの跡です。明治40年から小石川の傳通院横に移る大正13年まで住みました。前の家は借家でしたが今度の家は自分で建てた新築の家でした。この家で最初の妻幾美を亡くし二度目の妻八代を迎えています。
しかし大正13年に講談社からの1万円の借金のかたにこの家を取り上げられてしまい小石川に移っていきます。出版社は作家の書いたものを売って儲けているのに冷たいです。 -
このパネルによると露伴は明治26年、27歳の時1年間ほど向島白鬚橋辺りに住んだことがあるそうです。そうすると向島に3回住んだことになります。
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露伴の兄弟はみな優れていました。
長兄成常(しげつね)は実業家、次兄成忠(しげただ)は軍人、千島探検家。弟成友(しげとも)は歴史家、慶応、東京商大教授。
妹延(のぶ)はピアニスト、幸(さち、安藤幸)はヴァイオリニスト。
また露伴の娘文、孫青木玉は作家です。 -
説明を見て当時を偲ぶしかありません。
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幸田露伴文学碑。昭和39年建立。
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向島ゆかりの文人のパネル写真がありました。。
右上から時計回りに:
堀辰雄、森鴎外、吉川英治、正岡子規、谷崎潤一郎、饗庭篁村、淡島寒月、佐多稲子、富田木歩、村上浪六、依田學海、成島柳北、幸田露伴。 -
蝸牛庵跡(右手)を後にします。
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すぐ先に消しゴムメーカー、大正8年創業のヒノデワシ株式会社がありました。
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更に進むと地蔵坂通りに出ました。
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地蔵坂を墨堤の方に下ります
坂下に子育地蔵堂があるのでこの名が付いたのでしょう。 -
地蔵坂通り出口。
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墨堤通りに出たところに日本一きびだんごという団子屋があります。
なにが日本一なのでしょう。味か大きさか値段か古さか。 -
向かいには子育地蔵堂があります。
奥に続く通りは旧墨堤通り。 -
墨堤通りをちょっと左に曲がり志満ん草餅という店で草餅を6個土産に買いました。
今日中に食べろということで、老夫婦二人に6個は多かったです。
屋号は”志”に濁点が付いていて、「じまんくさもち」と呼ぶそうです。創業110年を超す老舗です。 -
子育地蔵堂へ。
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文化年間/1804~1818年隅田川堤防の改修工事中に地蔵尊が発見され、庚申塔のある辻に祀ったのが始まりだそうです。
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ここから白鬚神社はすぐですが、墨堤通りの横の旧墨堤通りを行きました。
今の墨堤通りは真っすぐですが元は所々湾曲していたのですね。関東大震災とか先の大戦の復旧工事で真っすぐになったようです。 -
子育地蔵堂から白鬚神社の間だけ今の墨堤通りの横に元の墨堤通りが残っています。
少しカーヴしています。 -
道端に建っていました。
左が隅田川の対岸、今戸焼の瓦を造っている風景。右は白鬚神社。
絵にあるようにこの地は景勝の地で、神社の松が有名で、「白髭松籟(しょうらい)」と愛でられました。 -
白鬚神社。
ほんの200mの旧墨堤通りでした。 -
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白鬚神社。
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拝殿。
平成2年焼失し平成4年再建。 -
951年、近江の白鬚神社大明神の分霊を勧請。祭神は猿田彦大神(サルタヒコオオカミ)。
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隅田川七福神の寿老神が祀られています。
白髭の名からここに寿老人がおられることにしたようです。 -
墨田区では今寺島ナスを盛んに振興しています。
江戸時代この辺り隅田川上流からの肥沃な土壌での茄子栽培が盛んでした。造られた茄子は隅田川の水運を利用して神田、本所、千住の青物市場/土物店に送られました。
「新編武蔵風土記稿」に「形は少なれどもわせなすと呼び賞美す」と書かれています。 -
鷲津毅堂(わしずきどう)碑。
1825~1882年。尾張藩士で漢学者、儒者。
永井荷風の母方の祖父です。なぜ白鬚神社に碑があるのか分かりません。 -
篆額は三条実美。
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山玉向島講社の碑。
向島にある富士講の一つ。 -
白鬚神社。
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子育地蔵堂の方に戻って向島百花園に行きました。
入口にある東京市碑。昭和14年建立。
読めませんが向島百花園の由来(来由)が書かれているようです。 -
東京都立向島百花園。
入園料65歳以上70円。一般は150円でした。
何も訊かずに「70円です」と言われました。自分では若いつもりでも駄目です。 -
向島百花園。
約3300坪。思ったより小さい庭園でした。
パンフレットから。 -
文化・文政の江戸文化爛熟期に作られ、以来多くの文人墨客に愛されてきた。
当初は梅を主に集められたので、亀戸の梅屋敷、臥龍梅の清香庵にたいし「新梅屋敷」と呼ばれた。 -
説明の手間を省くためズルをして入園券をコピーしました。どうかこれを読んでください。
1804年骨董商佐原鞠塢(きくう)が隠居道楽として開いた庭園で、大田蜀山人、酒井抱一、大窪詩仏、谷文晁、村田春海など高踏派の文人墨客が後援した。
百花園の名は画家酒井抱一の命名だそうです。
野趣豊かな四季の庭園です。
鞠塢辞世の歌「隅田川 梅のもとにて我死なば 春咲く花の肥料ともなれ」 1831年、70歳。 -
ここは福禄寿尊です。
隅田川七福神の内6つを訪れたことになります。 -
再建した庭門(柴門)。
門柱の右に大窪詩仏の手による「春夏秋冬花不断」、左に「東西南北客争来」の書。 -
芭蕉句碑。
園内には29の句碑、石柱が建っています。 -
穏やかな日差しに訪れる人もちらりほらり。
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満開の紅梅。
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売店。
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甘酒を飲みました。300円。
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甘酒を作るお店の人。撮影許可を貰いました。
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福禄寿尊堂。
ここの福禄寿は向島百花園の開園者佐原鞠塢秘蔵の陶器のものだそうです。 -
芭蕉句碑。
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白梅はちらほら。
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春の七草。
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寒牡丹。
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梅洞水。
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山上臣憶良(やまのえのおみのおくら) 秋の七草の歌碑。
書家薫堂敬義の絶筆だそうです。 -
御成座敷。
園の設立者佐原鞠塢が建てた建物。徳川11代将軍家斉(いえなり)、12代家慶(いえよし)が御成りになり、ここで休憩したところから御成座敷と称されるようになる。現在有料の集会所として使われています。昭和33年再建。 -
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月岡芳年翁之碑。
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月岡芳年。
1839/天保10年~1892/明治25年。
歌川国芳門の浮世絵師。 -
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其角堂永機句碑。
朧夜やたれをあるじの隅沱川 -
江戸時代後期から明治にかけての俳人。
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萩のトンネル。
萩の咲くころはその花で覆われるのでしょう。 -
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大窪詩仏画竹碑。
明和4/1767年~天保8/1837年。
江戸後期の漢詩人。絵も能くし梅と竹が得意だったという。た。 -
その竹の絵が彫られています。
名碑と云われるそうですがよく分かりません。 -
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献上春の七草籠。
開園当初から園主がお得意様にお歳暮として七草を籠にあしらったものを贈っていたそうで、それが今に続いているそうです。 -
向島百花園を後にします。花時に来てみたいものです。
この辺りは海面より低いのですね。向島一帯は度々隅田川の氾濫で水浸しになっています。 -
明治通り。
向島百花園から東に歩くと明治通りを突っ切り東武鉄道東向島駅に出ました。 -
東向島駅。
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東武の古い車両です。
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東向島粋いき通りなんて、粋でもありませんでした。
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駅ビルの一部は東武博物館になっています。
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東向島駅。以前は玉の井駅でした。
向島の東なんてどこだかわからない。玉の井の方が具体的でいいのに。 -
粋いき通り。
道路端で寺島ナス大PR中。 -
寺島茄子之介、当地のユルキャラにすればよい。
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駅前粋いき通り。
ホッピーあります。安月給の頃ビール代りによく飲みました。 -
粋いき通りを少し北に行くと玉の井いろは通りの入り口に来ました。
かって有名な私娼窟があった所です。鎌倉時代の武将玉の井氏がこの地を拓き住んだことが地名の由来だそうです。 -
玉の井いろは通り。
永井荷風の名作「墨東綺譚」の舞台となったかっての私娼街です。
戦前は通りの南側、それが空襲で焼けてしまい戦後は通りの北側に移りました。
墨の字はサンズイが付くのですが文字化けしてしまいます。 -
昔大正通り(大正天皇即位記念事業)と云いました。
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玉の井カフェ。
寺島・玉の井町おこし委員会運営のコミュニティカフェだそうです。
赤線時代の玉の井のカフェーを連想してしまいます。 -
玉の井界隈は大正中頃から昭和33年売春禁止法施行まで、新吉原の公娼街にたいする私娼街でした。
大正7~8年頃浅草観音堂辺りの銘酒屋(非公認の売春宿)が移ってきたのが始まり。大正12年の関東大震災で浅草十二階(凌雲閣)がつぶれその下に巣くっていた沢山の銘酒屋がどっと玉の井の大正通りに集まってきました。 -
昭和8年の記録によると銘酒屋500件、酌婦1000人以上いたという。毎日訪れる遊客は1万人とも。
水戸街道、大正通り、東武鉄道の整備でアクセスがよくなり大発展しました。 -
東京大空襲で街の殆どが焼失、幾つかの業者が移って行ったのが先ほど歩いた鳩の街。戦後残った業者はいろは通りの北、今の墨田3丁目辺りに移りカフェー街を形成、昭和33年まで続いた。
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ちょっと横に入ると迷路のようで永井荷風はラビリント(迷路)と呼んだ。
荷風の日記「断腸亭日乗」の昭和11年5月16日にこんなことを書いている。
「初めて玉の井の路地を歩みたりしは、昭和7年の正月なり。その時は道不案内にて・・・先月来しばしば散歩し略図をつくり置きたり。路地内の小家は・・・外にて見るよりは案外清潔なり。場末の小待合と同じくらいの汚さなり。1時間5円も出せば女は客と共に入浴するという。ただしこれは最も高価の女にて、並は1時間3円、ちょんの間は1円より2円までなり」 -
これが荷風の作った玉の井の地図です。荷風先生の執着恐るべし。
荷風は鳩の街、新吉原にもたびたび通い題材にしています。よっぽどこういった所が好きだったのでしょう。いや性よりもそういう苦界に身を沈めた女性の生き様に興味があったのだと思います。荷風の主要作品の主人公はほとんど芸者、遊女、カフェーの女給、ダンサー、妾、いわゆる日蔭の花です。荷風は、上流家庭の子女よりもそういった類の女の方が正直で本当の人情、ひとの心をわきまえている、と云っています。 -
以前はこう言った細道の入り口に「抜けられます」とか「ちかみち」、「安全通路」、「玉の井カフェー商店街入口」などの看板があったそうです。
やはり永井荷風の「断腸亭日乗」の昭和7年1月22日にこう書いています。
抄出:「今日は・・・浅草駒形を過ぎ・・・千束町に出て吉原大門前を過ぐ。(あちこち歩いた後)四木橋の影近く見ゆるあたりより堤を下れば寺嶋町の陋巷(ろうこう)なり。道のほとりに昭和道玉の井近道とかきたる立札あり。・・・、大通りを中にしてその左右の小路は悉く売笑婦の住める処なり。」
いかにも荷風好みの散歩ルートです。 -
どぶと消毒液と脂粉の匂いの入り混じった狭い路地の両側にびっしり娼家が立ち並んでいる様はまさに魔窟、私娼窟と言った感じだったでしょう。
高見順はその作の中で書いています。
「路地を行く男は、こうした両側の小窓から女たちの眼と声の一斉射撃を浴びるので、これでなかなか度胸がいる。」 -
「路地の真ん中をほかの用で歩いているかのような足どりで行くのは、こういう場所にまだ慣れないおとこである。ときどき、ちらっと横目で小窓の中をのぞく。声をかけられると、おおげさに飛びのいたりする」
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当時の写真。
「ちょいとにいさん」
「ちょっとちょっと、眼鏡の旦那」
「ちょいと、洋さん」(ちょっと、その洋服を着た旦那さん)
ここを通り抜けるには高見順でなくともよっぽど度胸が要ったでしょうね。
歴史作家半藤一利がこの近くの生まれで、小学生のころ腕白どもとこの界隈を探検していたところ、戸口から女が白い首を出して「まだ早いよ、毛が生えてからおいで」と言われ泡を喰って逃げた、そうです。 -
路地の奥にある東清寺/玉の井稲荷。
玉の井など苦界に身を沈めた女たちの理由の多くは、貧しい生家の家計を助けるため、家族の医療費のため、弟妹の教育のため、生家の借金の整理のためなどで、遊びとか自分の享楽のためなんてものはいなかった。荷風が良家の子女よりもこういう世界の女の方が真の心を持っている、と言う所以です。 -
大正12年ころ大正道路の工事の無事を願い豊川稲荷の分霊を勧請した。
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玉の井町会会館。
玉の井の名を残しています。 -
江戸提灯の店です。
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美味しそうな惣菜のお店です。デパ地下なんかよりこういう所の方が安くて美味しいと思います。
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ラビリントを抜けて粋いき通りに戻りました。東武線のガードをを潜るとその先は大正通りとなっていました。
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今日の終点は東武東向島駅。
朝浅草駅を9時20分ころスタートして今4時過ぎ。7時間ほどうろついていました。歩いてる途中時々足が攣れかかりましたが薬を飲むなどして何とか持ちこたえました。
東武、地下鉄、JRと乗り継いで帰りました。
JR上野・東京ライン、今日は横浜・上野間、往復とも一駅立っただけであとは座れました。老骨の上に歩き疲れると立つのがつらいです。
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この旅行記へのコメント (2)
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- frau.himmelさん 2017/02/17 11:35:41
- ほのぼのとした下町歩き・・・
- ベームさん、こんにちは。
ほんとにいい旅行記ですね。
昨日出先で前編を見せていただいて、後編は家に帰ってゆっくり拝見させていただかなければ・・・、と思ったものでした。
東京の下町、今回は向島界隈ですが、いろんな歴史上の足跡があるものですね。
ベームさんは文学や歴史上の人物に造詣が深いから、ほんとにいろんな方をご存知。
私などはほとんど知らない人も何人かいましたので、通り過ぎてしまうだけでしょうね。
東京の下町散策はベームさんにとって、もはやライフワークといっていいかも。
ヨーロッパ派としてはベームさんを下町にとられるのは脅威ですが(笑)。
苦行って言ってらっしゃいますが、私もそれを心配しておりました。
薬屋さんで薬を買って飲んでまで街歩き続行、いったい何歩くらい歩かれるのだろうって。
あんまりご無理をなさいませんように。
それにしても言問団子のなんとおいしそうなこと。
これがあるから苦行も苦にならない(?)。
himmel
- ベームさん からの返信 2017/02/17 16:15:10
- RE: ほのぼのとした下町歩き・・・
- いい旅行記なんてとてもとても。自分で楽しんでいるのか苦しんでいるのか分からなくなります。
今まで行ったところは比較的歴史上の足跡がまとまっている所で歩きやすかったのですが、これからは広い東京、ルート作りに難儀しそうです。でももう少し続けたいと思っています。ヨーロッパはまだ諦めたわけではありませんが、年々難しくなっていきます。東京の街を歩いていてこけても何とかなりますが外国ではそうも行きません。今年フランスに行って見てどうなるかです。
himmelさんの旅行記、”例年”になく快調ですね、御三方の息の合った旅の様子がうかがえます。
ベーム
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