2017/01/28 - 2017/01/28
459位(同エリア4335件中)
ベームさん
快晴で温かいとの天気予報に背中を押されて、今日は東京、隅田川の東/墨東、向島を歩きました。
大昔この辺りは入江で牛島、寺島など幾つか島が浮かんでいて、浅草側から見て向うの島の意味で「向島」と云われていたらしいです。須崎/洲崎という地名も入江だったことを示しています。また江戸時代、ここは江戸の外、江戸の向こうだったので江戸の人は向島と呼びました。
隅田川の左岸、墨堤は上野寛永寺境内、王子の飛鳥山、品川の御殿山と共に江戸の桜の名所でした。特に墨堤は隅田川両岸の情緒と合わせ江戸の人々の行楽の地でした。他は幕府や寺の領地だったので遊興は禁じられていましたが、墨堤はそれが認められていたのでなおさら賑わいました。
この地にも多くの文人墨客が住んでいましたが、本郷、上野辺りがなんとなく明治、大正の山の手のハイカラなイメージがあるのにたいし向島は江戸情緒を伝える下町のイメージがあります。実際向島には依田學海、饗庭篁村、淡島寒月、成島柳北、幸堂得知、榎本武揚など江戸の文化をを継承する文人が住んでいました。
今日はそういった痕跡を訪ねてみようと思います。
写真は牛嶋神社の撫牛。
-
横浜からJR上野・東京ライン、地下鉄銀座線を乗り継ぎスタートは浅草です。
9時20分ころ。 -
地上に出た所は吾妻橋の袂です。
-
抜けるような青空。風無く寒くなく絶好の散策日和です。
-
その1の地図です。
左下の浅草から吾妻橋を渡り、長命寺辺りまで赤線のように歩きました。 -
赤い欄干の吾妻橋。
当初1774年の架橋。大川橋、後東橋、吾妻橋と名前が変わる。明治20年にアーチ形の鉄の橋となったが床が木造だったため関東大震災で焼失。
現在の橋は昭和6年の架橋。
大きな橋にはアーチが似合う。アーチがないと平板でなんとなく掴みどころがないですね。 -
吾妻橋は落語や講談で身投げの名所となっています。夏目漱石の「吾輩は猫である」で理学士寒月君が身投げしそこなったのもこの橋でした。
ある宵のこと、寒月君はヴァイオリンを抱えてこの橋を通りかかった。と川の中から愛しい人の声が寒月君の名をしきりに呼ぶ。寒月君は恋人のもとに行こうと欄干によじ登り躊躇なく飛び込む。しばらくして寒月君は気を取り戻す。体は濡れていない、腰が痛い。どうやら生きているようだ。
寒月君は欄干の上から誤って橋の上に飛び降りたのでした。
ちなみに心中の本場が向島、犬に食いつかれるのが谷中の天王寺。 -
下手の駒形橋。
江戸の隅田川に架かる橋は外敵からの侵入を防ぐため千住大橋しか無かったが、その後火災時の避難の必要性から両国橋、新大橋、永代橋、続いて吾妻橋(当初は大川橋)が造られていった。
今は30以上、人の渡れる橋は26あるそうです。ちなみに最も新しいのは築地大橋で平成30年の完成。 -
あづま地蔵尊。
渡った先の橋の袂に関東大震災の犠牲者の慰霊碑がありました。
多くの人が火勢に追われ隅田川に飛び込み溺死しました。
ここには橋ができる前は竹町の渡しがありました。 -
目の前にアサヒビールと住都公団ビル。
墨田区役所、アサヒビールのある一帯は江戸末期越前福井藩主佐竹氏の庭園「浩養園」という名園でした。その後アサヒビール吾妻橋工場となり、再開発で今のようになりました。 -
墨田区役所のテラスから。
-
テラスの一隅に建つ勝安芳(海舟)の像。
勝海舟(1823/文政6年~1899/明治32年)は今の本所両国で生まれています。それで墨田区役所にその像があるのでしょう。
生誕180年、2003/平成15年建立。 -
隅田川に注ぐ北十間川(もと源森川)に架かる枕橋。
もともとここには源森橋と水戸藩の新小梅橋の二つの橋が並んで架かっていて、それを合わせ枕橋と称しました。なぜ枕かというと、普通夜具には枕が二つ並べてあるからです。なかなか艶っぽい。 -
明治にはいり新小梅橋が廃され源森橋の方を枕橋と改称しました。
当初1662年の架橋で今の橋は昭和3年。橋の袂に政財界人ご贔屓の「八百松」という有名な料亭があったが関東大震災で焼失しました。 -
2代目歌川広重描く枕橋のレリーフ。
隅田川八景 枕はし夜雨 -
明治31年頃の枕橋。
山本松谷:新選東京名所図会より。
大きく突き出ている建物は政財界人御贔屓の高級料亭「八百松」。
枕橋の下をくぐり、北十間川から隅田川に物資が続々と運ばれている。
対岸には浅草十二階(凌雲閣)の塔、遥に富士山の姿。 -
枕橋の上から。
北十間川、スカイツリーと東武線です。 -
渡った所は隅田公園の入り口。
隅田公園は隅田川の両岸にあります。 -
旧水戸藩下屋敷跡です。
関東大震災の後火よけ地の目的も含め帝都復興計画により整備され昭和6年開園しました。 -
直ぐ目につくのが大きな藤田東湖通称「正気(セイキ)の歌」碑。
藤田東湖:1806~1855年。水戸藩士。
藩主徳川斉昭に重用され水戸藩政改革に尽力。その水戸学の思想は尊王攘夷運動に大きな影響を与えた。一時斉昭の失脚により東湖はここ江戸下屋敷に幽閉されている。その時書いたのが「正気の歌」。
1855年安政の大地震で死去。 -
正気の歌碑。
-
最初に探したのは俳人富田木歩(とみたもっぽ)終焉の地の碑です。
本名富田一(はじめ)。1897/明治30年~1923/大正12年。大正の啄木と云われた俳人。
向島小梅町に生まれる。2歳にして小児麻痺のため全く歩行不能となる。加えて貧困のため就学も出来ず。巌谷小波のお伽噺、俳句などで文字を憶えていく。
16歳のころから句作を始め、ホトトギスなどの俳句誌に投稿、徐々に名を知られるようになる。20歳の時生涯の友新井声風を知る。
句作、その指導の傍ら貸本屋を営みようやく生活が安定してきた矢先、大正12年9月1日関東大震災発生。 -
新井声風は歩けない木歩が心配で真っ先に向島の木歩のもとに駆けつける。潰れた家の庭先で呆然と座っている木歩を声風は背中に背負い隅田川まで逃げるが橋はすでに焼け落ちている。
後ろは火の手、前は隅田川、もはや川に飛び込むほかは無い。足は萎えていても重い木歩を抱えて隅田川を泳ぎ渡ることは不可能である。
紅蓮の炎は墨堤の上に襲い掛かる。絶体絶命。声風は「どこまでも君を連れて逃げたい、逃げたい、・・・が、もうどうにもならない!」と声を掛ける。2人は万感の思いで手を握り合った。次の瞬間声風は隅田川に身を躍らせた。
声風は奇跡的に川を泳ぎ渡り、木歩は墨堤で26歳の生涯を閉じた。 -
富田木歩の句を幾つか。
かそけくも 咽喉鳴る妹よ 鳳仙花 (碑に書かれています)
背負われて 名月拝す 垣の外
たまさかは 夜の街見たし 夏はじめ
行く年や われにもひとり 女弟子 (石川伽羅女のこと)
泣きたきを ふと歌ひけり 秋の暮れ -
北十間川沿いに源森橋へ。
-
源森橋。
当初昭和3年架橋。平成19年今の橋になる。 -
源森橋からのスカイツリーと東武電車。
午前中なのでツリーが逆光になっています。 -
源森橋のすぐ先、隅田公園の向かい側に日本の公認女医第1号となった荻野吟子(おぎのぎんこ)旧居跡があります
-
荻野吟子。1851~1913/大正2年。今の埼玉県熊谷に生まれる。
自ら婦人科の診療を受けたとき、医師が男ばかりなのに屈辱を感じ医師を志す。
明治12年東京女子師範学校を首席で卒業。さらに医学を学ぶ。
明治18年、35歳の時湯島に産婦人科医院を開業。
明治41年、この地で開業。大正2年死去。 -
並びにこんな商家がありました。
服仕立物所。今も商いをしているのか。 -
再び隅田公園です。
-
二峯先生の碑。
-
高林二峯(じほう)。
1819~1897年。いまの群馬県安中市生まれ。
幕末から明治にかけての書家。 -
二峯の大きな石碑の横に堀辰雄の住居跡を示す説明板が並んでいます。同じ場所だったのか。
-
堀辰雄ゆかりの地。
1904年東京、麹町で生まれた堀辰雄は2歳から34歳までずっと向島界隈に住んでいました(その間4回も移っている)。
ここは関東大震災で母を失った後1924年/大正13年、20歳から1938年/昭和13年、34歳まで養父と共に住んだところ。
この間代表作「聖家族」、「美しい村」、「かげろふ日記」、「風立ちぬ」が書かれています。
1953年/昭和28年死去、49歳。 -
明治37年麹町で生まれた辰雄は、
1.明治39年2歳の時、堀家を離れた母と共に向島小梅町の叔母の家に住む。
2.母が明治41年彫金師上条松吉と再婚、明治41年4歳~明治43年6歳の間向島中ノ郷町に住む。地図①。
3.明治43年6歳から大正12年19歳、関東大震災まで新小梅町に住む。
この間牛島尋常小学校(地図A)、府立3中(現両国高校)、一高に学ぶ。文学に目覚め室生犀星、芥川龍之介を知る。震災で母を亡くす。地図②。
4.震災後大正13年20歳から軽井沢に移る昭和13年34歳まで、養父上条と共に新小梅町に住む。現在地、地図③。
東大文学部を終え本格的に作家の道を歩む。胸を病み、自宅、軽井沢の旅館、結核療養所を転々としながら「聖家族」、「美しい村」、「風立ちぬ」など代表作を執筆。 -
冬枯れの隅田公園。
-
-
隅田公園のはずれに牛嶋神社の姿が見えました。
-
牛嶋神社。
本所の総鎮守。貞観年間860年慈覚大師の創建と伝えられる古社。
当初もう少し北の弘福寺の隣にあったが関東大震災で焼失し昭和7年今の地に再建。 -
創建当時この地域は牛の放牧がなされ牛島と云われていたとか、昔は入江に浮ぶ島の形が臥牛に似ていたので牛島とか。
牛御前の逸話もあります。 -
手水舎。
-
鳥居が三つくっついているような珍しい形をしています。三輪(みわ)の鳥居と云うそうです。
-
総檜権現造りの社殿。
祭神は須佐之男命(スサノオノミコト)。 -
-
神牛。狛牛です。
-
撫牛(なでうし)。
自分の悪い部分と同じ場所を撫でると病気が治るといわれます。それで私は全部を一撫でしました。江戸時代からの風習です。
この牛は1825年/文政8年頃の奉納。 -
堀辰雄は著「幼年時代」で、幼いころ祖母に牛の御前へ連れて行かれ何度も牛の鼻を撫でた、と懐かしんでいます。
-
牛嶋神社。
子供が生まれた時よだれ掛けを奉納し、そのよだれ掛けを子供に掛けると元気に育つ、ともいわれています。 -
境内にはいろんな碑があります。
包丁塚。
付近には料亭が多く、調理関係の組合が奉納したのでしょう。魚とかふぐのは見かけますが牛とは。牛を包丁で捌くとは残酷です。 -
談洲楼烏亭焉馬(だんしゅうろううていえんば)の狂歌碑。
江戸落語中興の祖と云われる。1743~1822年。元々は本所の大工の棟梁だったが俳諧、狂歌、芝居に興味を持ち戯作者となった。 -
山東京伝、曲亭馬琴、式亭三馬、十返舎一九、柳亭種彦と共に天明の六歌仙と云われる。
五代目市川団十郎をひいきにし、談洲楼/だんしゅうろうは団十郎/だんじゅうろうをもじったもの。 -
向島の富士講の一つだと思います。
富士山 向島須崎町々会建立と彫ってあります。 -
富士山。
富士講とは江戸時代、富士山を信仰する商人、農民の間に広まった組織。講を作り実際に富士山に登ったり、富士に行けない人のために町、村中に富士山をかたどった富士塚を造って拝んだりした。盛時には江戸八百八講と云われたほど盛んだった。駒込富士神社など富士塚は東京に何か所か残っています。 -
外塀。
-
牛嶋神社から言問通りと見番通りの言問橋東交差点に出ると老舗らしい埼玉屋小梅という和菓子屋がありました。
-
一方の角には上州屋という料理屋があります。
明治、大正時代よく文士たちがここで宴会を開いたとか、そんな文章を読んだような気がします。私の記憶違いかもしれません。
追記:間違いでした。人形町か大伝馬町にあった三州屋でした。 -
見番通りを北(正確には北北西)に歩きました。
見番通りは言問橋東交差点から長命寺辺りまで墨堤通りの内側を走る通りです。通りの途中に見番/向島墨堤組合があるのでこの名が付いています。
地図赤い印の上を左右に通っています。
右が北、左が南。真ん中の橋が言問橋、エックス形の橋は桜橋。運河様の北十間川と下にスカイツリー駅。 -
見番通りの途中にすみだ郷土文化資料館がありました。
-
資料館の角に佐多稲子旧居跡の説明版があります。
-
佐多稲子。明治37年~平成10年。長崎市生まれ。
佐多稲子が長崎から上京し11歳の頃から数年間住んでいた所です。この間にキャラメル工場、上野清凌亭の女中などをして生活し、のちの作品の素材となった。
料亭「清凌亭」で女中をしていた時、立ち居がきりっとして美人だったので客の芥川龍之介に可愛がられた。
体験を基にした「キャラメル工場から」でプロレタリア作家として認められる。日本共産党に入党し、永年婦人の地位向上、民主化運動に活躍。
代表作:「くれない」、「樹影」、「夏の栞」、「私の東京地図」。 -
その先に三囲神社があります。
-
三囲(みめぐり)神社
-
-
三囲神社の謂れは説明板をご覧ください。
弘法大師にまで遡るようです。 -
隅田川七福神のうち恵比寿神と大国神が祀られています。
-
今日は隅田川七福神巡りが目的ではありませんが結果的に最後の毘沙門天/多聞寺を除く寺社を訪れました。
-
三囲神社。
-
拝殿。
-
拝殿を狛犬ならぬ狐のコンコンさんが守っています。
-
-
-
三越のシンボル、三越の池袋店にあったライオン像だそうです。
-
三囲神社と三越/三井家との関係は深いようで、境内には両者の繋がりを示す色々なものが有りました。三囲の字もまさに三井ですね。
昔日本橋の三越の屋上に稲荷があったような記憶がありますが、多分ここの稲荷を勧請したのでしょう。 -
宝井其角「雨乞いの碑」。
元禄6年、大干ばつで雨乞いをする小梅村の百姓を通りすがりの其角が見て、「ゆふだちや 田を見めぐりの 神ならば」の句を神社に献じると翌日雨が降ったという。 -
-
大黒神、恵比寿神。
扉は閉まっていました。 -
幕末を代表する浮世絵師歌川国芳の顕彰碑です。
-
一勇斎歌川先生(歌川国芳)墓表。
-
境内にある顕名(あきな)神社。
三井家の先祖を祀っています。 -
境内。
-
石碑が沢山あります。
多くは狂歌、川柳、俳句です。 -
富田木歩句碑。
夢に見れば 死もなつかしや 冬木風 -
隅田公園で最初に探した富田木歩終焉の地の碑、あの富田木歩(とみたもっぽ)です。
-
白狐祠(びゃっこし)。
-
白狐祠。
-
三囲神社はとかく狐と縁が深い神社ですが、明治、大正、昭和にかけての戯作者、新聞記者鶯亭金升(おうていきんしょう)の著にこんな話が載っています。本当のことかもしれません。
三囲稲荷の社内に昔は狐の穴があって、茶屋の婆さんが手を叩くと穴から狐が顔を出す。それに油揚げを与える客もあった。
これは次の写真の話と関連しているのかも知れません。 -
老翁老嫗(ろうおうろうう)の石像。
元禄のころ、白狐祠を守っていた老夫婦がいました。
村人が願い事を夫婦に頼むと夫婦は田んぼに向かって狐を呼び出す。するとどこからともなく狐が現れ願い事を叶えていった、という。
村人が感謝の意を込めて奉納したのがこの石像です。
「早稲酒や 狐呼び出す 嫗(うば)が許(もと)」 宝井其角 -
-
三つ穴の灯篭。
伊賀上野城主藤堂高睦が1707年奉納。 -
-
-
三囲神社を後にし水戸街道に出ました。
水戸街道。
水戸街道に出ました。 -
水戸街道を横断してしばらく行くとマンションの角に饗庭篁村(あえばこうそん)旧居跡の標識がありました。
1855/安政2年~1922/大正11年。江戸は下谷龍泉寺町生まれ。
江戸の戯作の流れを汲む作家で演劇、俳諧、花柳界に通じていた。
読売新聞、東京朝日新聞で小説、劇評に健筆をふるう。根岸派の中心で明治20年前後最も人気のある作家であった。
また酒と紀行を愉しむ大人だった。
代表作:「当世商人気質」、「むら竹」、「人の噂」、多くの紀行文。 -
饗庭篁村旧居跡。
-
付近、向島3丁目辺り。
-
殺風景な景観です。
望んでも無駄ですが明治の面影は全くありません。 -
饗庭篁村旧居跡から碁盤状の道を北に歩くと本所高校にぶつかりました。
-
その手前にすみだ福祉保健センター。
-
そこにもプレートが建っています。
-
堀辰雄旧居跡です。
堀辰雄は幼少のころから34歳まで向島界隈に住んでいますが4回ほど転居しています。ここは2番目の住まいがあった所で、再婚した母、継父で彫金師の上条松吉と住みました。4歳から6歳まで2年間ほどでした
堀辰雄の4番目、向島最後の旧居跡が先ほど隅田公園にありました。 -
養父上条松吉は昭和13年死去。辰雄は養父をその死まで実の父と思っていたという。彫金師上条は腕が立ち羽振りが良く、町内のまとめ役だったという。
大震災で隅田川で亡くなった母は辰雄をうちの殿様と言って可愛がった。夫には付けない日でも刺身を辰雄には付けた。出世する子の枕元は通ってはいけないと、寝ている辰雄の足元を通った。菓子などのもらい物があると家のものより先ず辰雄に与えた。等々の話があります。まあ乳母日傘で育てられたのに近かったのでしょう。 -
付近の地図。
-
本所高校の運動場の側に牛島学校跡の看板があります。
明治6年に設立された尋常小学校で堀辰雄、佐多稲子、森鴎外の妹喜美子(小金井喜美子)も通っています。
先の大戦で焼失、その後に今の本所高等学校が設立されています。 -
この辺りに森鴎外の旧居跡も在るはずです。
本所高校をぐるっと廻りこんで桜橋通りに出ました。左墨田中学校、右本所高校。 -
墨田中学の正門前に森鴎外旧居跡のプレートがありました。
森鴎外:1862/文久2年~1922/大正11年。父は津和野藩主亀井家の御典医。
明治5年、10歳の時父に連れられ上京。向島の亀井家下屋敷にいったん落ち着いた後近くの300坪もある屋敷に転居、一家は千住に移る明治12年まで住んだ。 -
そしてバス停の名前も森鴎外住居跡。
-
向かいの本所高校前の道路際にも案内板があります。
-
森鴎外住居跡。
森鴎外は進文学社でドイツ語を学ぶため親戚の西周宅に寄宿したり、東京医学校(東大医学部の前身)の寄宿舎生活で父の家には常時は住んでいなかった。しかしこの家は鴎外にとって思い出深い所だったようです。この当時のことは鴎外の妹喜美子(小金井喜美子)がその著「鴎外の思い出」の中で詳しく書いています。
森家はこの界隈で数回転居しています。 -
桜橋通り。
森鴎外住居跡から50mほど。 -
桜橋通りを隅田川の方に歩きました。
-
桜橋通りと水戸街道の交差する向島3丁目交差点。
-
その傍のここで昼にもり蕎麦を食べました。
-
三囲神社の方から延びてくる見番通りに突き当たりました。
見番通りに出たすぐ左に向嶋墨堤組合があります。 -
見番/検番です。
その地の花街の料理屋、芸者置屋、待合、いわゆる三業を管理する組合。
向島のこの辺りは江戸時代からの花街で、江戸情緒を好む文人墨客に愛された。
今も16の料亭、100名を超える芸妓を擁し都内一といいます。
見番/検番です。
その地の花街の料理屋、芸者置屋、待合、いわゆる三業を管理する組合事務所。
向島のこの辺りは江戸時代からの花街で、江戸情緒を好む文人墨客に愛された。今でも料亭16、100名を超える芸妓を擁し都内一だそうです。 -
その料亭の幾つか。
-
和菓子屋「青柳正家」。
-
私の遊びの支払いを公費で賄うどこかの知事さんならいざ知らず、庶民のポケットマネーで行ける所ではありません。
-
若柳舞踊研究所、常磐津稽古場なんて、場所柄ですね。
-
白い塀が目立つ弘福寺の手前の料亭美家古。
-
見番通りに面して弘福寺。
-
牛頭(ごず)山弘福寺。
宇治の黄檗山万福寺の末寺。1673年鉄牛和尚の開山。
白金台の瑞聖寺、本所の五百羅漢寺(今は目黒)と共に江戸における黄檗宗3大寺の一つ。
以前この近く(長命寺の裏)に牛の御前があり、鉄牛和尚がその隣の小高い所に寺を建てた所から牛頭山と称した。正式には「ごずさんぐふくじ」と呼ぶらしい。 -
この寺の境内、いまの料亭美家古の所に淡島椿岳(ちんがく)、淡島寒月が住んでいました。
淡島寒月:安政6年/1859~大正15年/1926。日本橋馬喰町生まれ。
作家、画家、寄稿家、古物収集家。古美術にも造詣の深い趣味人でもあった。
井原西鶴を再評価し幸田露伴、尾崎紅葉らに影響を与える。
明治26年より父の隠居所弘福寺内の梵雲庵(ぼんうんあん)に住む。
作に「江戸か東京か」、「亡び行く江戸趣味」、「梵雲庵雑話」。
淡島椿岳はその父で画家、好事家。 -
宇治の黄檗山本堂を模したもので、上下2層の瓦屋根が美しい。
勝海舟の20歳前後の若いころ数年間この寺に参禅したことがあるそうです。
この寺が旧藩主津和野藩主亀井家の菩提寺であることから今三鷹の禅林寺にある森鴎外の墓は関東大震災まではここにありました。震災復興事業で墨田公園が拡張されることになり墓地が移転。森家で同じ宗旨の寺を探して禅林寺に移ったそうです。 -
ここには七福神の布袋尊。
-
咳の翁媼尊(じじばば/やおんそん)。
真鶴の僧風外和尚が刻んだ父母の像。朝夕拝んで孝養を尽くした。
風外―風の外ー風邪除けから喘息や咳にご利益があるとされる。せき止飴を売っています。
媼のほうがずっと大きく愛嬌たっぷりな顔をしています。 -
おうおうそん/じじばばそん。
-
池田冠山墓碑。
江戸時代後期の因幡藩主。儒学者。
学問、諸芸に秀でた文人大名でした。 -
境内にはそのほか幾つもの碑があります。
-
その隣に長命寺。ここまでが見番通り。
お寺よりも桜もちの名で有名です。山門を入ったらいきなり幼稚園。どちらが本業か。 -
長命寺弁財天。
創建は平安時代とも慶長年間とも云われる天台宗の寺。本尊の弁財天は伝教大師、一刀三礼の作と云われる。
堂宇はコンクリ-ト造りで味も素っ気もない。 -
寺の名の由来。
縁起によると、この寺はもとは常泉寺と云いましたが案内板にあるように三代将軍家光の命名により長命寺となりました。 -
境内には色んな碑があります。
芭蕉雪見の句碑。
読めませんが「いざさらば 雪見にころぶ所まで」とあるそうです。 -
-
-
紅梅がちらほら。
-
境内の片隅に成島柳北顕彰碑があります。明治18年建立。
-
成島柳北(なるしまりゅうほく)の碑。
1837/天保8年~1884/明治17年。幕府儒官の子として江戸蔵前に生まれる。
旧幕臣、儒者、文筆家、ジャーナリスト。幕末に将軍家奥儒者、侍講、騎馬奉行、外国奉行など歴任。維新後は下野し向島に隠居、新政府から仕官の要請があったが、旧幕臣たるもの明治新政府には仕えず、と拒否、自ら天地間無用の人と称した。まれにみる粋人でもあった。
同じ幕臣で、幕府の要職を務めた榎本武揚が降伏し、新政府の大臣にまでなった生き様とは違いました。
あとでその隠居跡にも行きます。 -
明治8年、創刊された朝野新聞の社長に推される。薩長政府の横暴、言論弾圧に抗し誌上で痛烈に批判、讒謗律(ざんぼうりつ)違反で投獄もされた。その後退職し自適の生活に入ると、関係者が復職を求めてきた。その時の柳北と社員の問答を後に「転職の広告」という雑文に記している。それがまことに面白い。少々長いですが現代語に改めて抄録します。
”社員「社長に戻ってほしい」、柳北「自分はその任ではない、面倒なことは嫌になった」、社員「では編集長になってほしい」、柳北「私は貧しいので社に迷惑を掛けたらば罰金を出す力がない」(当時記事が政府の気に入らなければすぐ罰金が科せられた)、社員「では会計長になってほしい」、柳北「私は二一天作(そろばん)が出来ない」、社員「では配達人ではどうか」、柳北「脚気もちで走れない」、社員「では受付け役になっては」、柳北「私が受付に座っていれば新聞社の悪口を言われるだろう」、 -
社員「では校正係では」、柳北「暗くなってから文字を扱うのは難しい」、社員「それでは貴下が出来ることは何もない、やむを得ないので試しに会社の火之番をやってみないか」、柳北「よろしい」。ここにおいて私は朝野新聞社の火之番(火事見回り)を拝命し会社に戻った。いままで色々経歴したが、火の番をするのは初めてだ。” 柳北先生最後には言い逃れできなくなったようです。
その作「柳橋新誌」は狭斜の地柳橋を舞台とする風俗人情、明治新政府の成り上がり者の高官の遊蕩などを風刺し大人気を博した。
その中でこんなことを書いています。略すると「柳橋の妓は芸を売るものなり、女郎に非ざるなり。芸者を招くのは芸を聴くのであって、寝るのではない。ところが、売ってはいけない色を売らせることもある」
1855年頃、徳川将軍の侍講ともあろう23歳の柳北が書いているのです。もっともこれが公に刊行されたのは、明治7年のことでした。内容が明治新政府を揶揄誹謗するとして、政府は「柳橋新誌」を発刊禁止にしています。
鼻が欠けています。心無い悪戯か,震災で欠けたか。 -
こんな日記もあります。
「酔来テ(よいきたって) 偶折ル(たまたまおる)、未ダ開カザルノ梅。」
酔ってしまって折れてしまった、それでまだ開いていない梅=男を知らない芸者のままだ。意味深長です。いかにも粋人ですね。
それにしても柳北の顔は長かった。
福地櫻痴だったか、馬に乗った成島柳北を見てこんな歌を詠んでいます。
「さてもさても 世は逆さまに成りにけり 乗りたる人より 馬は丸顔」
馬も馬上の柳北を見てびっくりしたでしょう。 -
出羽三山の碑。1828年建立。
江戸時代後期富士信仰と並んで出羽三山(月山、湯殿山、羽黒山)信仰が盛んでした。 -
-
長命水。
付近で鷹狩をしていた将軍家光が腹痛を起しこの寺の井戸の水で薬を飲んだらすぐ治ったので長命水と名付けた。それでそれまで常泉寺と云った寺の名も長命寺に変えました。
家光にあやかって一口飲んでみました。 -
奥に成島柳北の碑。
-
長命寺の裏から出ると墨堤で、牛嶋神社旧跡の碑がありました。いま隅田公園にある牛嶋神社はもとはここにあったようです。
-
墨堤の梅。
-
かなり開花していました。
-
この辺旧跡が目白押しです。
三浦乾也(けんや)。
幕末の陶芸家。6代目乾山を名乗る。長崎で幕府の軍艦建造も行った。 -
長命寺裏にある桜もちの店。
1717年、長命寺の寺男山本新六と云う者が墨堤の桜の葉を使って桜もちを作り売りだしたのが始まりといわれます。今の店の名も山本やです。滝沢馬琴の記録によると一日平均1050個売れたらしい。
味も良かったのでしょうが、一時期この店に二人の美しい看板娘がいて噂が噂を呼びますます評判があがったと云います。落語かなんかわかりませんが、向島に桜を見に行ってきたと云う者、「どうだったい、向島の花は7分かい、満開かい」と聞かれ「桜餅は今が食べごろです」、と頓珍漢な答えをしたそうです。「花より団子」、「花より看板娘」。
水無月の 余花をたづねて 桜餅 正岡子規
葉がくれに 小さし夏の 桜餅 正岡子規
舟つけて 買いにあがるや 桜餅 久保田万太郎
桜餅 食ふて抜けけり 長命寺 高浜虚子
試してみようかと思いましたが中はお客がいっぱいで止めました。 -
この桜もちの家の2階に明治21年、大学予備門時代の正岡子規が数人の書生たちと夏の3か月ほど止宿していました。ところが餅屋の娘が子規に惚れ言い寄って来るので、女にはうぶな子規は逃げ出してしまいます。いろいろ子規関係の本を読んでも子規が女性に惚れたの惚れられたのと云う話はこれだけでしょう。
当時餅屋の娘におろく(お陸)というのがいて、どこという欠点のない顔で、色の黒いのが江戸っ子らしく粋な感じだった、と河東碧梧桐が何かに書いています。
おろくさんが毎日のように給仕のため2階に上がり、子規たちとお喋りしたのは事実のようですが子規との間に恋愛感情があったかは謎です。
逃げ出した子規が移った先が本郷、炭団坂上の旧松山藩主久松家が作った常磐会寄宿舎です。
ここまで向島その1とします。 -
明治31年頃の言問団子と桜餅の店。
山本松谷:新選東京名所図会より。
手前が桜餅の店。左の方に”さくら餅 山本”の幟があります。
奥が言問団子の店。桜が満開で、上方に隅田川。
利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。
コメントを投稿する前に
十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?
サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。
旅の計画・記録
マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?
0
151