ヴィチェンツァ旅行記(ブログ) 一覧に戻る
2014年6月から7月にかけて、イタリア、フランス、スペインを勝手気ままに歩いた一人たびの心地よさが忘れられず、年が明けるや否や新しいプランを作成。今年は昨年最も強く心を惹かれてしまったイタリアに集中することにしました。6月のトスカーナは連日35度を超す猛暑だったので、今年は1か月前倒し。<br /><br />まずは行きたいところをピックアップして、たびの拠点となる都市を選定。宿泊施設を押さえてから、詳細を詰めていくというのが私のスタイルなのですが、例によってこれも見たい、あそこも行きたい・・・とかく欲張りな私のこと、1か月じゃあ全く時間が足りないことがすぐに判明しました。とはいえ、時間とお金は限りあるもの。優先順位を決めて、何とかやりくりをして決めたのが下記のプランです。<br /><br />イタリアには過去3度行ったことがあります。<br />最初のたびは、大学生の頃、スイスのチューリッヒから日帰りで行ったミラノ。最後の晩餐だけ見に行ったような、慌ただしいたびでした。<br />2回目は2001年、シシリアとアルベルベッロ、カプリ島、ローマを2週間かけて回りました。<br />3回目が2014年、ベネチアとトスカーナ州、リグーリア州が中心の2週間。<br /><br />今回は、過去に行ったことのない場所をメインとした旅程となりました。たびを重ねるうちに、自分が最も興味を惹かれるものは、古い建物、神社仏閣教会等、そして彫刻、絵などの美術品 全て人が作り出したものだということがわかってきました。中でも、ここ2、3年、以前はあまり興味が沸かなかった教会に強く惹かれる自分がいます。基本的には無宗教なのですが、現在より人々の心が純粋で、神を敬う気持ちが強かった頃でなければ、創り上げられなかった文化の結晶とでもいうべき施設には畏敬の念を覚えます。というわけで、今回のたびの中心は教会を巡る街歩きとなってしまいました。<br /><br />イタリア語は皆目見当がつかず、付け焼刃で2週間ほど本を見て勉強しましたが、やるとやらないでは大違い。後は度胸と愛嬌?で前進あるのみ。御陰様で、とても自己満足度の高いたびになりました。<br /><br />2015/5/6	水	成田→モスクワ→ローマ<br />2015/5/7	木	ローマ<br />2015/5/8	金	ローマ→ティヴォリ→ローマ<br />2015/5/9	土	ローマ<br />2015/5/10	日	ローマ<br />2015/5/11	月	ローマ<br />2015/5/12	火	ローマ<br />2015/5/13	水	ローマ→ナポリ<br />2015/5/14	木	ナポリ→ソレント→アマルフィ→ラヴェッロ→アマルフィ→サレルノ→ナポリ<br />2015/5/15	金	ナポリ<br />2015/5/16	土	ナポリ→エルコラーノ→ナポリ→カゼルタ→ナポリ<br />2015/5/17	日	ナポリ→バーリ<br />2015/5/18	月	バーリ→マテーラ→バーリ<br />2015/5/19	火	バーリ→レッチェ→バーリ<br />2015/5/20	水	バーリ→オストゥーニ→チェリエ・メッサピカ→マルティーナフランカ→バーリ<br />2015/5/21	木	バーリ→アンコーナ→フォリーニョ<br />2015/5/22	金	フォリーニョ→スペッロ→アッシジ→フォリーニョ<br />2015/5/23	土	フォリーニョ→トレヴィ→スポレート→フォリーニョ<br />2015/5/24	日	フォリーニョ→ペルージャ→フォリーニョ<br />2015/5/25	月	フォリーニョ→コルトーナ→オルヴィエト<br />2015/5/26	火	オルヴィエト→チヴィタ ディ バーニョレージョ→オルヴィエト<br />2015/5/27	水	オルヴィエト→アレッツォ→オルヴィエト<br />2015/5/28	木	オルヴィエト→フィレンツェ→ボローニャ<br />2015/5/29	金	ボローニャ→ラヴェンナ→ボローニャ<br />2015/5/30	土	ボローニャ→モデナ→ボローニャ→フェラーラ→ボローニャ<br />2015/5/31	日	ボローニャ<br />2015/6/1	月	ボローニャ→パドヴァ→ヴィチェンツァ<br />2015/6/2	火	ヴィチェンツァ→パドヴァ→ヴィチェンツァ<br />2015/6/3	水	ヴィチェンツァ→ヴェローナ→ヴィチェンツァ<br />2015/6/4	木	ヴィチェンツァ<br />2015/6/5	金	ヴィチェンツァ→ミラノ<br />2015/6/6	土	ミラノ<br />2015/6/7	日	ミラノ<br />2015/6/8	月	ミラノ→モスクワ→<br />2015/6/9	火	→成田<br /><br />パッラーディアン博物館のあるコンタラ・ポルティ通りを更に奥まで進んでいきます。狭い通りですが、特徴的な建造物が一杯!<br /><br />

イタリア あっちも! こっちも! と欲張りなたび その91 ヴィチェンツァ5

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2015/06/04 - 2015/06/05

5位(同エリア69件中)

2

128

junemay

junemayさん

2014年6月から7月にかけて、イタリア、フランス、スペインを勝手気ままに歩いた一人たびの心地よさが忘れられず、年が明けるや否や新しいプランを作成。今年は昨年最も強く心を惹かれてしまったイタリアに集中することにしました。6月のトスカーナは連日35度を超す猛暑だったので、今年は1か月前倒し。

まずは行きたいところをピックアップして、たびの拠点となる都市を選定。宿泊施設を押さえてから、詳細を詰めていくというのが私のスタイルなのですが、例によってこれも見たい、あそこも行きたい・・・とかく欲張りな私のこと、1か月じゃあ全く時間が足りないことがすぐに判明しました。とはいえ、時間とお金は限りあるもの。優先順位を決めて、何とかやりくりをして決めたのが下記のプランです。

イタリアには過去3度行ったことがあります。
最初のたびは、大学生の頃、スイスのチューリッヒから日帰りで行ったミラノ。最後の晩餐だけ見に行ったような、慌ただしいたびでした。
2回目は2001年、シシリアとアルベルベッロ、カプリ島、ローマを2週間かけて回りました。
3回目が2014年、ベネチアとトスカーナ州、リグーリア州が中心の2週間。

今回は、過去に行ったことのない場所をメインとした旅程となりました。たびを重ねるうちに、自分が最も興味を惹かれるものは、古い建物、神社仏閣教会等、そして彫刻、絵などの美術品 全て人が作り出したものだということがわかってきました。中でも、ここ2、3年、以前はあまり興味が沸かなかった教会に強く惹かれる自分がいます。基本的には無宗教なのですが、現在より人々の心が純粋で、神を敬う気持ちが強かった頃でなければ、創り上げられなかった文化の結晶とでもいうべき施設には畏敬の念を覚えます。というわけで、今回のたびの中心は教会を巡る街歩きとなってしまいました。

イタリア語は皆目見当がつかず、付け焼刃で2週間ほど本を見て勉強しましたが、やるとやらないでは大違い。後は度胸と愛嬌?で前進あるのみ。御陰様で、とても自己満足度の高いたびになりました。

2015/5/6 水 成田→モスクワ→ローマ
2015/5/7 木 ローマ
2015/5/8 金 ローマ→ティヴォリ→ローマ
2015/5/9 土 ローマ
2015/5/10 日 ローマ
2015/5/11 月 ローマ
2015/5/12 火 ローマ
2015/5/13 水 ローマ→ナポリ
2015/5/14 木 ナポリ→ソレント→アマルフィ→ラヴェッロ→アマルフィ→サレルノ→ナポリ
2015/5/15 金 ナポリ
2015/5/16 土 ナポリ→エルコラーノ→ナポリ→カゼルタ→ナポリ
2015/5/17 日 ナポリ→バーリ
2015/5/18 月 バーリ→マテーラ→バーリ
2015/5/19 火 バーリ→レッチェ→バーリ
2015/5/20 水 バーリ→オストゥーニ→チェリエ・メッサピカ→マルティーナフランカ→バーリ
2015/5/21 木 バーリ→アンコーナ→フォリーニョ
2015/5/22 金 フォリーニョ→スペッロ→アッシジ→フォリーニョ
2015/5/23 土 フォリーニョ→トレヴィ→スポレート→フォリーニョ
2015/5/24 日 フォリーニョ→ペルージャ→フォリーニョ
2015/5/25 月 フォリーニョ→コルトーナ→オルヴィエト
2015/5/26 火 オルヴィエト→チヴィタ ディ バーニョレージョ→オルヴィエト
2015/5/27 水 オルヴィエト→アレッツォ→オルヴィエト
2015/5/28 木 オルヴィエト→フィレンツェ→ボローニャ
2015/5/29 金 ボローニャ→ラヴェンナ→ボローニャ
2015/5/30 土 ボローニャ→モデナ→ボローニャ→フェラーラ→ボローニャ
2015/5/31 日 ボローニャ
2015/6/1 月 ボローニャ→パドヴァ→ヴィチェンツァ
2015/6/2 火 ヴィチェンツァ→パドヴァ→ヴィチェンツァ
2015/6/3 水 ヴィチェンツァ→ヴェローナ→ヴィチェンツァ
2015/6/4 木 ヴィチェンツァ
2015/6/5 金 ヴィチェンツァ→ミラノ
2015/6/6 土 ミラノ
2015/6/7 日 ミラノ
2015/6/8 月 ミラノ→モスクワ→
2015/6/9 火 →成田

パッラーディアン博物館のあるコンタラ・ポルティ通りを更に奥まで進んでいきます。狭い通りですが、特徴的な建造物が一杯!

旅行の満足度
4.5
同行者
一人旅
交通手段
徒歩
旅行の手配内容
個別手配
  • 左手に現れたのは、パラッツォ・イゼッペ・ダ・ポルト。パッラーディオが1544年に建てた、ポルト家のための最初の邸宅です。博物館になっていたパラッツォ・バルバラン・ダ・ポルトが完成したのは1575年でしたね。<br /><br />ポルト家はヴィチェンツァでもティエネ家と肩を並べる富豪だったようです。イゼッペの妻はティエネ家出身で、ティエネ家の大規模改装工事を始めたアドリアーノとマルカントニオ兄弟とは義兄弟に当たります。その工事の真っ最中に、自らの屋敷をティエネ家の目と鼻の先に建てたというわけです。<br /><br />屋敷は2つの建物と、それを繋ぐ中庭から構成されています。中央扉の上のアティックに、イゼッペと彼の息子の彫像が置かれていたそうですが、気づきませんでした。

    左手に現れたのは、パラッツォ・イゼッペ・ダ・ポルト。パッラーディオが1544年に建てた、ポルト家のための最初の邸宅です。博物館になっていたパラッツォ・バルバラン・ダ・ポルトが完成したのは1575年でしたね。

    ポルト家はヴィチェンツァでもティエネ家と肩を並べる富豪だったようです。イゼッペの妻はティエネ家出身で、ティエネ家の大規模改装工事を始めたアドリアーノとマルカントニオ兄弟とは義兄弟に当たります。その工事の真っ最中に、自らの屋敷をティエネ家の目と鼻の先に建てたというわけです。

    屋敷は2つの建物と、それを繋ぐ中庭から構成されています。中央扉の上のアティックに、イゼッペと彼の息子の彫像が置かれていたそうですが、気づきませんでした。

  • 扉は開かれていましたが、入って良いものやら分からず、通路途中で引き返してしまいました。<br /><br />この屋敷も世界遺産の中にリストアップされています。パッラーディオとイゼッペは大の親友で、そういう意味では、この建物にかけるパッラーディオの情熱は、他の建物にはないものがあったそうです。二人は同じ年の1580年に相次いで亡くなりました。

    扉は開かれていましたが、入って良いものやら分からず、通路途中で引き返してしまいました。

    この屋敷も世界遺産の中にリストアップされています。パッラーディオとイゼッペは大の親友で、そういう意味では、この建物にかけるパッラーディオの情熱は、他の建物にはないものがあったそうです。二人は同じ年の1580年に相次いで亡くなりました。

  • 何せ、ごみ箱まで世界遺産!?♪

    何せ、ごみ箱まで世界遺産!?♪

  • 続いて一本東側の道サン・ガエターノ・ティエネに入り、17世紀末から18世紀初頭にかけて建てられたバロック様式のサント・ステファノ教会前を過ぎます。<br /><br />時刻は午後2時半過ぎ。扉はしっかりと閉じられていました・・・

    続いて一本東側の道サン・ガエターノ・ティエネに入り、17世紀末から18世紀初頭にかけて建てられたバロック様式のサント・ステファノ教会前を過ぎます。

    時刻は午後2時半過ぎ。扉はしっかりと閉じられていました・・・

  • 右隣りにあった教会付属の建物。2階部分中央にあるのが、サント・ステファノ像かしら?

    右隣りにあった教会付属の建物。2階部分中央にあるのが、サント・ステファノ像かしら?

  • でこちらが、先ほど見たファサードとは反対側に当たるパラッツォ・ティエネ。造りが全く異なります。複数の建物の寄せ集めというのが良く分かりますね。

    でこちらが、先ほど見たファサードとは反対側に当たるパラッツォ・ティエネ。造りが全く異なります。複数の建物の寄せ集めというのが良く分かりますね。

  • ティエネ家と道を1本隔てたところに建っていたヴェネツィア風の家並みです。どの方向を向いても、「私も素敵でしょ? 個性的でしょ? 」と建物が囁きかけて来ます。

    ティエネ家と道を1本隔てたところに建っていたヴェネツィア風の家並みです。どの方向を向いても、「私も素敵でしょ? 個性的でしょ? 」と建物が囁きかけて来ます。

  • 次に訪れたのは、町の考古学博物館。ヴァレンティーナが「ここは飛ばしても良いんじゃない?」 と言っていた場所ですが、時間がたっぷりあったので、入場することにしました。ここもミュージアムカードで入場できます。<br /><br />ヴィチェンツァ初日に訪れたサンタ・コロナ教会の修道院だった建物と回廊を改装して、1991年にオープン。中には自然科学と歴史的な出土品が多数展示されていました。

    次に訪れたのは、町の考古学博物館。ヴァレンティーナが「ここは飛ばしても良いんじゃない?」 と言っていた場所ですが、時間がたっぷりあったので、入場することにしました。ここもミュージアムカードで入場できます。

    ヴィチェンツァ初日に訪れたサンタ・コロナ教会の修道院だった建物と回廊を改装して、1991年にオープン。中には自然科学と歴史的な出土品が多数展示されていました。

  • その前に、喉が渇いたので、博物館の前にあるカフェで一休み。店の前に、大きく「Caffe Freddo」と書かれていたので思い切ってアイス・コーヒーを頼んだら、マスターが張り切って、シェーカーを取り出したのにはびっくり!<br /><br />そして出てきたのがこちら。優雅なグラスに入っていますが、甘! 少なく見積もってもお砂糖が角砂糖にして5、6個は入っている感じ。しまった! 「お砂糖なしでね」というのを忘れました。お水が付いてきたので、もっぱらお水で喉の渇きを潤しましたよ。大失敗。

    その前に、喉が渇いたので、博物館の前にあるカフェで一休み。店の前に、大きく「Caffe Freddo」と書かれていたので思い切ってアイス・コーヒーを頼んだら、マスターが張り切って、シェーカーを取り出したのにはびっくり!

    そして出てきたのがこちら。優雅なグラスに入っていますが、甘! 少なく見積もってもお砂糖が角砂糖にして5、6個は入っている感じ。しまった! 「お砂糖なしでね」というのを忘れました。お水が付いてきたので、もっぱらお水で喉の渇きを潤しましたよ。大失敗。

  • 考古学博物館の自然科学部門は、ヴェネト州ヴィチェンツァ地区で発掘された化石や恐竜、初期の哺乳類などの標本がずらり!<br /><br />沢山の小学生に交じっての見学でした。

    考古学博物館の自然科学部門は、ヴェネト州ヴィチェンツァ地区で発掘された化石や恐竜、初期の哺乳類などの標本がずらり!

    沢山の小学生に交じっての見学でした。

  • こちらの生き物は、プロトテリウム・ヴェロネーゼ という絶滅したジュゴンの仲間だそうです。イタリア、スペインの上部始新世の堆積物から発見されたそうで、日本ではお目にかかったことありませんね。

    こちらの生き物は、プロトテリウム・ヴェロネーゼ という絶滅したジュゴンの仲間だそうです。イタリア、スペインの上部始新世の堆積物から発見されたそうで、日本ではお目にかかったことありませんね。

  • 元修道院だけに、フレスコがあちこちに残っています。時々、今どこにいるんだか、わからなくなります。

    元修道院だけに、フレスコがあちこちに残っています。時々、今どこにいるんだか、わからなくなります。

  • こちらの赤いイモリは、日本名ホライモリ。洞窟を住処としていて、ヨーロッパのイタリア、スロベニア、ボスニア・ヘルツェゴビナ辺りで見ることが出来る脊椎動物です。目は退化していますが、光は感じることが出来るそうです。<br /><br />そう言えば、スロベニアのポストイナ鍾乳洞で、これと似た白いイモリを見たような記憶・・・<br /><br />自然科学は(も!)全く得意分野でないので、この辺で歴史的な発掘品のコーナーに移りましょう。

    こちらの赤いイモリは、日本名ホライモリ。洞窟を住処としていて、ヨーロッパのイタリア、スロベニア、ボスニア・ヘルツェゴビナ辺りで見ることが出来る脊椎動物です。目は退化していますが、光は感じることが出来るそうです。

    そう言えば、スロベニアのポストイナ鍾乳洞で、これと似た白いイモリを見たような記憶・・・

    自然科学は(も!)全く得意分野でないので、この辺で歴史的な発掘品のコーナーに移りましょう。

  • 旧石器時代、新石器時代、銅器時代、鉄器時代などをすっ飛ばして、ローマ時代にやって参りました。ヴィチェンツァを含む現在のベネト州は、紀元前49年にはローマ帝国の支配下に入っています。<br /><br />こちらはよく見かけるローマ時代の天井の一部です。細かい彫刻にはうっとりさせられますね。

    旧石器時代、新石器時代、銅器時代、鉄器時代などをすっ飛ばして、ローマ時代にやって参りました。ヴィチェンツァを含む現在のベネト州は、紀元前49年にはローマ帝国の支配下に入っています。

    こちらはよく見かけるローマ時代の天井の一部です。細かい彫刻にはうっとりさせられますね。

  • 1世紀ころの牛の頭部の彫刻。ブケファリオンと呼ばれている、こうした牛の頭部はドーリア式神殿のフリーズによく用いられた装飾だそうです。元々は生贄として捧げられた牛から派生したもののようです。鬣が大層立派ですね!

    1世紀ころの牛の頭部の彫刻。ブケファリオンと呼ばれている、こうした牛の頭部はドーリア式神殿のフリーズによく用いられた装飾だそうです。元々は生贄として捧げられた牛から派生したもののようです。鬣が大層立派ですね!

  • 1世紀ごろの衣装をまとった彫像。

    1世紀ごろの衣装をまとった彫像。

  • 岩の上に座っているニンフの彫像。こちらは2世紀後半の作とされています。肌に吸い付くような衣服のひだが見事。

    岩の上に座っているニンフの彫像。こちらは2世紀後半の作とされています。肌に吸い付くような衣服のひだが見事。

  • 鼻と顎が欠けていなかったら、申し分なかったのに!

    鼻と顎が欠けていなかったら、申し分なかったのに!

  • 続いては、ローマ時代のモザイク登場です。こちらは、ビアデ広場に残されていたモザイクと書かれていました。ビアデ広場というのは、パッラーディアーナ聖堂が建っているシニョーリ広場の一番東側。ヴェネツィア風のコロンナが2本立っている、ローマ時代のフォーラムがあった広場です。

    続いては、ローマ時代のモザイク登場です。こちらは、ビアデ広場に残されていたモザイクと書かれていました。ビアデ広場というのは、パッラーディアーナ聖堂が建っているシニョーリ広場の一番東側。ヴェネツィア風のコロンナが2本立っている、ローマ時代のフォーラムがあった広場です。

  • 狼と戦っている男性の図。もしかして、太ももを噛みつかれて、出血している!?

    狼と戦っている男性の図。もしかして、太ももを噛みつかれて、出血している!?

  • モノトーンで、見方によったら、モダン・アートで通用しそうですね。

    モノトーンで、見方によったら、モダン・アートで通用しそうですね。

  • 半分欠落しているのが非常に惜しい作品。動物? と戦ってこん棒を振り上げている男性が描かれていました。

    半分欠落しているのが非常に惜しい作品。動物? と戦ってこん棒を振り上げている男性が描かれていました。

  • 明るいサンタ・コロナ教会の付属修道院だった回廊に出てきました。これまで回ったイタリアの博物館は、その殆どがかつて教会や修道院だった建物を利用していて、発掘された石碑が所狭しと置かれているのが常でしたが、ここも御多分に漏れずの状況。<br /><br />中庭は、一面の芝生。これは珍しいかもしれません。井戸以外の余計なものが一切ありません。

    明るいサンタ・コロナ教会の付属修道院だった回廊に出てきました。これまで回ったイタリアの博物館は、その殆どがかつて教会や修道院だった建物を利用していて、発掘された石碑が所狭しと置かれているのが常でしたが、ここも御多分に漏れずの状況。

    中庭は、一面の芝生。これは珍しいかもしれません。井戸以外の余計なものが一切ありません。

  • 石碑の類には、イタリア語の解説しか見当たらなかったので、ぶらぶらと見て歩くだけにします。<br /><br />サンタ・コロナ教会付属のドメニコ会修道院は、教会が建設を開始した1261年の10年後には作られていたようです。1300年代になると、重大な人権侵害を引き起こしたフランシスコ会に替わり、ドメニコ会が沢山の信者を集めるようになりました。教皇が当時、裁判機能まで備わった悪名高き異端審問所をここに置いたことからも、その勢力がうかがい知れます。<br /><br />1944年の第二次大戦中の爆撃で、修道院の南側と回廊は大きな被害を被りました。見たところ、回廊が南側にないのは、その影響かもしれません。

    石碑の類には、イタリア語の解説しか見当たらなかったので、ぶらぶらと見て歩くだけにします。

    サンタ・コロナ教会付属のドメニコ会修道院は、教会が建設を開始した1261年の10年後には作られていたようです。1300年代になると、重大な人権侵害を引き起こしたフランシスコ会に替わり、ドメニコ会が沢山の信者を集めるようになりました。教皇が当時、裁判機能まで備わった悪名高き異端審問所をここに置いたことからも、その勢力がうかがい知れます。

    1944年の第二次大戦中の爆撃で、修道院の南側と回廊は大きな被害を被りました。見たところ、回廊が南側にないのは、その影響かもしれません。

  • 壁に残っていたフリーズの模様。教会内のものと比べると素朴ですが、 情趣溢れた作風を感じます。<br /><br />素晴らしい教会サンタ・コロナの内部については、こちらをどうぞ。<br />http://4travel.jp/travelogue/11176365

    壁に残っていたフリーズの模様。教会内のものと比べると素朴ですが、 情趣溢れた作風を感じます。

    素晴らしい教会サンタ・コロナの内部については、こちらをどうぞ。
    http://4travel.jp/travelogue/11176365

  • 葬送の石碑と思われますが、なぜか3名が並ぶレリーフが多かったです。中央が夫人で両脇が子供かしら?

    葬送の石碑と思われますが、なぜか3名が並ぶレリーフが多かったです。中央が夫人で両脇が子供かしら?

  • こちらも同じく3人です。表情まではっきりと読み取ることが出来ます。

    こちらも同じく3人です。表情まではっきりと読み取ることが出来ます。

  • 2枚の大きな円筒形の石が重なっているので、どう見ても臼でしょうね。石の周りには碑文が刻まれていました。

    2枚の大きな円筒形の石が重なっているので、どう見ても臼でしょうね。石の周りには碑文が刻まれていました。

  • 回廊の北側から見た、サンタ・コロナ教会です。南側の回廊部分がありません。旧い井戸の位置からすると、かつての回廊はもっと小さいサイズだったようにも思えます。<br /><br />井戸の先に見える建物の残骸は、第二次大戦の爆撃の跡でしょうか?

    回廊の北側から見た、サンタ・コロナ教会です。南側の回廊部分がありません。旧い井戸の位置からすると、かつての回廊はもっと小さいサイズだったようにも思えます。

    井戸の先に見える建物の残骸は、第二次大戦の爆撃の跡でしょうか?

  • 羽の生えたライオンの番。ヴェネツィア勢力下に収まった後の時代のものでしょうね。

    羽の生えたライオンの番。ヴェネツィア勢力下に収まった後の時代のものでしょうね。

  • 1世紀ころの道路標識。砲弾のような形ですね。

    1世紀ころの道路標識。砲弾のような形ですね。

  • 奥に見える建物には、黒く煤けた火災の跡が残り、歴史を物語っていました。考古学博物館には重要な作品はありませんでしたが、この考古学博物館のスタッフは大変親切で、当方の初歩的な質問にも嫌がらずに答えてくれたばかりでなく、帰りには世界遺産に登録されたパッラーディオ関連の建物を紹介した分厚いガイドブックまでプレゼントしてくれました。<br /><br />時間がある方には、静かな時間が過ごせるお勧めポイントです。ジュゴンとホライモリもお忘れなく!

    奥に見える建物には、黒く煤けた火災の跡が残り、歴史を物語っていました。考古学博物館には重要な作品はありませんでしたが、この考古学博物館のスタッフは大変親切で、当方の初歩的な質問にも嫌がらずに答えてくれたばかりでなく、帰りには世界遺産に登録されたパッラーディオ関連の建物を紹介した分厚いガイドブックまでプレゼントしてくれました。

    時間がある方には、静かな時間が過ごせるお勧めポイントです。ジュゴンとホライモリもお忘れなく!

  • ヴィチェンツァの町をさらにそぞろ歩きます。今回何度目? のパッラーディオ大通りです。やっぱりここのバカラが一番! ヴィチェンツァ風バカラの老舗 イル・チェッポ前です。

    ヴィチェンツァの町をさらにそぞろ歩きます。今回何度目? のパッラーディオ大通りです。やっぱりここのバカラが一番! ヴィチェンツァ風バカラの老舗 イル・チェッポ前です。

  • 殆ど消えかかっていますが、美しいフレスコが残るポルティコのある建物が続きます。中央の家は、別名「パッラーディオの家」と呼ばれる、パッラーディオ建築の一つカーザ・コゴッロ。1559年に建てられた建物です。<br /><br />ヴィチェンツァの町の評議会が、公証人ピエトロ・コゴッロの町への永住権と引き換えに、15世紀に建てられた彼の家のファサードを、町の景観に沿うように作り直しを命じ、それを引き受けたのがパッラーディオというわけなのだそうです。

    殆ど消えかかっていますが、美しいフレスコが残るポルティコのある建物が続きます。中央の家は、別名「パッラーディオの家」と呼ばれる、パッラーディオ建築の一つカーザ・コゴッロ。1559年に建てられた建物です。

    ヴィチェンツァの町の評議会が、公証人ピエトロ・コゴッロの町への永住権と引き換えに、15世紀に建てられた彼の家のファサードを、町の景観に沿うように作り直しを命じ、それを引き受けたのがパッラーディオというわけなのだそうです。

  • パッラーディオが住んでいたわけでもないのに、何故、「パッラーディオの家」と呼ばれているのか不可解ですね。<br /><br />また書面が一切残っていないことから、いまだにパッラーディオの作品かという論議も生んでいるようです。狭いけれど優雅で力強いファサードは、パッラーディオでないと不可能だという説もありますが、彼の他の建物とはあまりリンクしない気もします。

    パッラーディオが住んでいたわけでもないのに、何故、「パッラーディオの家」と呼ばれているのか不可解ですね。

    また書面が一切残っていないことから、いまだにパッラーディオの作品かという論議も生んでいるようです。狭いけれど優雅で力強いファサードは、パッラーディオでないと不可能だという説もありますが、彼の他の建物とはあまりリンクしない気もします。

  • 上記パッラーディオの家の対面にあったポルティコの柱に惹かれました。丸い部分には何か彫られているように見えましたが、風化が激しくて確認できませんでした。

    上記パッラーディオの家の対面にあったポルティコの柱に惹かれました。丸い部分には何か彫られているように見えましたが、風化が激しくて確認できませんでした。

  • お次のパッラーディオ建築は、サンタ・コロナ教会前の道にあるパラッツォ・モンテ・ミリオリーニ。ダ・モンテ家の邸宅で、1550年から54年の間の建築です。<br /><br />2階の造りはいかにもパッラーディオらしい特徴が見受けられますが、1階の中央扉は石を放射状に積んだ田舎風のよく見かけるもので、建物の他の部分とあまり合っていない気がしました。<br />

    お次のパッラーディオ建築は、サンタ・コロナ教会前の道にあるパラッツォ・モンテ・ミリオリーニ。ダ・モンテ家の邸宅で、1550年から54年の間の建築です。

    2階の造りはいかにもパッラーディオらしい特徴が見受けられますが、1階の中央扉は石を放射状に積んだ田舎風のよく見かけるもので、建物の他の部分とあまり合っていない気がしました。

  • 細い小路を入って来ましたよ。並んでいる建物はてんでバラバラで、統一感はないのに、ちぐはぐな印象を与えないのは何故なんでしょう?

    細い小路を入って来ましたよ。並んでいる建物はてんでバラバラで、統一感はないのに、ちぐはぐな印象を与えないのは何故なんでしょう?

  • 横丁からひょっと顔を出したのは、シニョーリ広場の端にあるヴェネツィアのコロンナでした。<br /><br />先ほど考古学博物館で見たモザイクがあったというビアデ広場を確認したくなったのです。

    横丁からひょっと顔を出したのは、シニョーリ広場の端にあるヴェネツィアのコロンナでした。

    先ほど考古学博物館で見たモザイクがあったというビアデ広場を確認したくなったのです。

  • 広場の塔の奥からパッラーディオの作った二段のファサードのある聖堂が、今日も麗しい姿を見せてくれました。

    広場の塔の奥からパッラーディオの作った二段のファサードのある聖堂が、今日も麗しい姿を見せてくれました。

  • 2本のコロンナの左側の広場がビアデ広場です。

    2本のコロンナの左側の広場がビアデ広場です。

  • ビアデ広場に面して建っていたこちらの教会は、サン・ミケーレ・デッタ・デイ・セルヴィ教会。マリアの下僕会によって建てられた16世紀前半の教会です。<br /><br />ファサードで注目したいのは、中央扉上のペディメントに彫られた1531年というローマ数字。これはまだアンドレア・パッラーディオと呼ばれる前のアンドレア・ディ・ピエトロ(パッラーディオの本名)が石工として働いていた時代の製作なんですって。教会の扉工事は彼が属する工房によって行われたのだそうです。

    ビアデ広場に面して建っていたこちらの教会は、サン・ミケーレ・デッタ・デイ・セルヴィ教会。マリアの下僕会によって建てられた16世紀前半の教会です。

    ファサードで注目したいのは、中央扉上のペディメントに彫られた1531年というローマ数字。これはまだアンドレア・パッラーディオと呼ばれる前のアンドレア・ディ・ピエトロ(パッラーディオの本名)が石工として働いていた時代の製作なんですって。教会の扉工事は彼が属する工房によって行われたのだそうです。

  • 全部で9体の彫像が静かに佇んでいます。大きなペディメントの頂には聖母像。そしてその左右にはマリアの下僕会出身の聖人聖フィリッポ・ベニッツィと聖ジョルジュが立っていました。<br /><br />ファサードは白と茶色の扉のコントラストが美しく、清楚な印象を与えてくれます。若きパッラーディオが働いていた工房が制作した中央扉の明るい色の大理石も良い雰囲気を醸し出していますね。<br /><br />ちょっとだけ中を覗いてみましょう。

    全部で9体の彫像が静かに佇んでいます。大きなペディメントの頂には聖母像。そしてその左右にはマリアの下僕会出身の聖人聖フィリッポ・ベニッツィと聖ジョルジュが立っていました。

    ファサードは白と茶色の扉のコントラストが美しく、清楚な印象を与えてくれます。若きパッラーディオが働いていた工房が制作した中央扉の明るい色の大理石も良い雰囲気を醸し出していますね。

    ちょっとだけ中を覗いてみましょう。

  • 内部は三廊式。身廊部分の天井にはクロスヴォールトのリヴが白と茶の縞々に装飾されています。ゴシックアーチも縞々ですが、柱は縞、白、赤と様々でした。<br /><br />手前の縞々の柱の柱頭は大変豪華で、アカンサス、バラ、天使の頭の組み合わせで構成されていました。<br /><br />奥に見える主祭壇はとても簡素で、小さな磔像が光の中に浮かんでいました。

    内部は三廊式。身廊部分の天井にはクロスヴォールトのリヴが白と茶の縞々に装飾されています。ゴシックアーチも縞々ですが、柱は縞、白、赤と様々でした。

    手前の縞々の柱の柱頭は大変豪華で、アカンサス、バラ、天使の頭の組み合わせで構成されていました。

    奥に見える主祭壇はとても簡素で、小さな磔像が光の中に浮かんでいました。

  • 主祭壇に向かって右側最初の祭壇にあったのは、「聖セバスティアーノ、聖ロッコと共にいる玉座の聖母子」で、ヴィチェンツァ出身の彫刻家兼画家ベネデット・モンターニャの作品。彼の父親は同じく画家で建築家のバルトロメオ・モンターニャ。たまたまですが、国立西洋美術館でバルトロメオの風景画をこの間見て来たばかりです。

    主祭壇に向かって右側最初の祭壇にあったのは、「聖セバスティアーノ、聖ロッコと共にいる玉座の聖母子」で、ヴィチェンツァ出身の彫刻家兼画家ベネデット・モンターニャの作品。彼の父親は同じく画家で建築家のバルトロメオ・モンターニャ。たまたまですが、国立西洋美術館でバルトロメオの風景画をこの間見て来たばかりです。

  • もう1枚気にいった祭壇画がこちら。上半分ではおなじみの受胎告知が行われていますが、下半分には大勢の観客がいて、まるで劇の進行を見守っているかのよう。<br /><br />食い入るように舞台を見つめている人々は全部で5人。解説がなかったので、名前が分かりませんが、赤いベールをかぶっている女性は聖ルチア。司教帽を抱えているカメラ目線の天使が左手で掲げているものが何なのかすごく気になりました。

    もう1枚気にいった祭壇画がこちら。上半分ではおなじみの受胎告知が行われていますが、下半分には大勢の観客がいて、まるで劇の進行を見守っているかのよう。

    食い入るように舞台を見つめている人々は全部で5人。解説がなかったので、名前が分かりませんが、赤いベールをかぶっている女性は聖ルチア。司教帽を抱えているカメラ目線の天使が左手で掲げているものが何なのかすごく気になりました。

  • 再びシニョーリ広場です。初日に回ったカピタニオ宮殿(またの名をカピタニオのロッジア)辺りから塔を振り返っています。

    再びシニョーリ広場です。初日に回ったカピタニオ宮殿(またの名をカピタニオのロッジア)辺りから塔を振り返っています。

  • 次のパッラーディオ建築は、カピタニオ宮殿の裏にあった、写真中央に見えるパラッツォ・ポヤナです。1540年に設計されたもので、建物の工事は1563年から66年にかけて行われました。<br /><br />中央に見えるアーチの下にある路地をまたがって建てられた少々珍しい建物です。

    次のパッラーディオ建築は、カピタニオ宮殿の裏にあった、写真中央に見えるパラッツォ・ポヤナです。1540年に設計されたもので、建物の工事は1563年から66年にかけて行われました。

    中央に見えるアーチの下にある路地をまたがって建てられた少々珍しい建物です。

  • ほらっ! アーチの先には、路地が続いているでしょう。これは、パトロンのヴィンチェンツォ・パヤナたっての希望で、工事が遅れたのは、市の建築許可が1561年にようやく承認されたからなのだそうです。<br /><br />建物がパッラーディオによるものなのかの証拠書面は残されていませんが、2階部分の窓とペディメント、そしてエレガントな付け柱の複合柱頭、エンタブラチュアなどに、パッラーディオの特徴を見ることが出来ます。

    ほらっ! アーチの先には、路地が続いているでしょう。これは、パトロンのヴィンチェンツォ・パヤナたっての希望で、工事が遅れたのは、市の建築許可が1561年にようやく承認されたからなのだそうです。

    建物がパッラーディオによるものなのかの証拠書面は残されていませんが、2階部分の窓とペディメント、そしてエレガントな付け柱の複合柱頭、エンタブラチュアなどに、パッラーディオの特徴を見ることが出来ます。

  • 狭い通りのために、遠景となりましたが、右側奥に見えるアティックと二重の柱頭が目立つ建物が、パラッツォ・ヴァルマラーナ・ブラガ・ローザ。これまでにもしばしば登場したヴィチェンツァの貴族 ヴァルマラーナ家のために建てた屋敷の一つです。<br /><br />なぜか1枚しか写真を撮っていません。

    狭い通りのために、遠景となりましたが、右側奥に見えるアティックと二重の柱頭が目立つ建物が、パラッツォ・ヴァルマラーナ・ブラガ・ローザ。これまでにもしばしば登場したヴィチェンツァの貴族 ヴァルマラーナ家のために建てた屋敷の一つです。

    なぜか1枚しか写真を撮っていません。

  • ドゥオモ再びです。何度見ても大変目立つクーポラですね。<br /><br />ヴィチェンツァ3の旅行記で紹介した写真とは反対側からのアプローチです。パッラーディオは15世紀にロレンツォ・ダ・ボローニャが完成できなかったクーポラの工事を1558年から65年までかけて行い、見事やり遂げたのです。手前にあるドゥオモ付属の3階建ての建物がおもちゃ箱のように見えますね。

    ドゥオモ再びです。何度見ても大変目立つクーポラですね。

    ヴィチェンツァ3の旅行記で紹介した写真とは反対側からのアプローチです。パッラーディオは15世紀にロレンツォ・ダ・ボローニャが完成できなかったクーポラの工事を1558年から65年までかけて行い、見事やり遂げたのです。手前にあるドゥオモ付属の3階建ての建物がおもちゃ箱のように見えますね。

  • 前回歩かなかった、左側廊に沿って歩いていきます。左側廊にも通用口があったんだぁ  と思って通り過ぎようとしましたが、戻って解説を読んだら、なんと! この北口の扉はパッラーディオの制作でした。<br /><br />1560年、ヴァティカンの司教パオロ・アルメニコは、ドゥオモの北側に彼の全負担で扉を作らせてもらえないだろうかと、ドゥオモのチャプレンに相談を持ち掛けました。その数年後に、彼はヴィチェンツァからそう遠くない丘の上に、後にロトンダと名付けられたヴィッラを建てることになります。そう、あのロトンダのオーナーアルメリコ氏とパッラーディオを結び付けたのは、この扉だったというわけなんですね。知らなかった!<br /><br />北通用口は1565年にパッラーディオの設計で完成を迎えました。同じく彼の設計で1558年に造られたヴェネツィアのサン・ピエトロ・カステッロ聖堂の扉と共通点があるようです。

    前回歩かなかった、左側廊に沿って歩いていきます。左側廊にも通用口があったんだぁ  と思って通り過ぎようとしましたが、戻って解説を読んだら、なんと! この北口の扉はパッラーディオの制作でした。

    1560年、ヴァティカンの司教パオロ・アルメニコは、ドゥオモの北側に彼の全負担で扉を作らせてもらえないだろうかと、ドゥオモのチャプレンに相談を持ち掛けました。その数年後に、彼はヴィチェンツァからそう遠くない丘の上に、後にロトンダと名付けられたヴィッラを建てることになります。そう、あのロトンダのオーナーアルメリコ氏とパッラーディオを結び付けたのは、この扉だったというわけなんですね。知らなかった!

    北通用口は1565年にパッラーディオの設計で完成を迎えました。同じく彼の設計で1558年に造られたヴェネツィアのサン・ピエトロ・カステッロ聖堂の扉と共通点があるようです。

  • 礼拝堂の膨らみが連続するドゥオモの左側廊壁です。

    礼拝堂の膨らみが連続するドゥオモの左側廊壁です。

  • ようやくドゥオモのファサードに到着! まだ背の高いクーポラが見えていますよ。

    ようやくドゥオモのファサードに到着! まだ背の高いクーポラが見えていますよ。

  • 次に入場しようと思ってやってきたのはドゥオモ広場にある教区博物館。ヴィチェンツァの教会の歴史とともに残されている貴重な芸術や文化を味わおうとしたのですが、あらっ なぜか閉まっています。現在17:00なので、後1時間はオープンしているはずなんですが、・・・<br /><br />仕方ない。これは帰れっていうことかしら?

    次に入場しようと思ってやってきたのはドゥオモ広場にある教区博物館。ヴィチェンツァの教会の歴史とともに残されている貴重な芸術や文化を味わおうとしたのですが、あらっ なぜか閉まっています。現在17:00なので、後1時間はオープンしているはずなんですが、・・・

    仕方ない。これは帰れっていうことかしら?

  • てなわけで、教区博物館は諦めて帰路につきます。途中で見たお店のディスプレーが美しかった。赤ちゃんの誕生祝に使えそうなグッズが一杯!

    てなわけで、教区博物館は諦めて帰路につきます。途中で見たお店のディスプレーが美しかった。赤ちゃんの誕生祝に使えそうなグッズが一杯!

  • 初日にも外観を写しましたが、パラッツォ・ティエネ・ボニン・ロンガーレ再びです。1572年にティエネ家にためにパッラーディオによって設計され、彼の死後、ヴィンチェンツォ・スカモッツィによって建てられた宮殿でした。パッラーディオは一切工事には関わっていないのです。<br /><br />しかし、今こうして見ると、先ほど訪れたばかりのパラッツォ・バルバラン・ダ・ポルト(パッラーデイオ博物館)と外観が似ていることに気が付きましたよ。パッラディオの陰に隠れていますが、スカモッツィもまた偉大なる建築家でしたねぇ。<br />

    初日にも外観を写しましたが、パラッツォ・ティエネ・ボニン・ロンガーレ再びです。1572年にティエネ家にためにパッラーディオによって設計され、彼の死後、ヴィンチェンツォ・スカモッツィによって建てられた宮殿でした。パッラーディオは一切工事には関わっていないのです。

    しかし、今こうして見ると、先ほど訪れたばかりのパラッツォ・バルバラン・ダ・ポルト(パッラーデイオ博物館)と外観が似ていることに気が付きましたよ。パッラディオの陰に隠れていますが、スカモッツィもまた偉大なる建築家でしたねぇ。

  • 前回写さなかったファサードと反対側に行ってみました。中庭を向いた側は、見事な二重のロッジアになっていて、これぞパッラーディオといった雰囲気に満ちていました。

    前回写さなかったファサードと反対側に行ってみました。中庭を向いた側は、見事な二重のロッジアになっていて、これぞパッラーディオといった雰囲気に満ちていました。

  • 今日は、思いがけず沢山歩いてしまって、休息日とはならなかったので、そろそろ帰るとしますか。

    今日は、思いがけず沢山歩いてしまって、休息日とはならなかったので、そろそろ帰るとしますか。

  • あくる朝、最終目的地ミラノへと旅立つ前に、時間があったので、最後のヴィチェンツァ散策に出掛けました。昨日散々歩いたけれど、見つけられなかったパッラーディオのロッジア・ヴァルマラーナが見つけられれば良いのだけれど・・・

    あくる朝、最終目的地ミラノへと旅立つ前に、時間があったので、最後のヴィチェンツァ散策に出掛けました。昨日散々歩いたけれど、見つけられなかったパッラーディオのロッジア・ヴァルマラーナが見つけられれば良いのだけれど・・・

  • 今日やってきたのは、ジュゼッペ・マッジーニ通りに沿って、町の西側に伸びていた城壁です。長さは2679mあるそうです。町の東側はバッキリオーネ川が流れていて、天然の要塞となっていたため、防御はもっぱら西側を主眼としたものになったようです。<br /><br />現在の壁は3m位で、敵に易々と侵入されそうな、防御には向かない高さでした。

    今日やってきたのは、ジュゼッペ・マッジーニ通りに沿って、町の西側に伸びていた城壁です。長さは2679mあるそうです。町の東側はバッキリオーネ川が流れていて、天然の要塞となっていたため、防御はもっぱら西側を主眼としたものになったようです。

    現在の壁は3m位で、敵に易々と侵入されそうな、防御には向かない高さでした。

  • ゲートにはローマ数字で1925年と書いてあったので、20世紀になってから修復された城門のようです。城壁は、レンガの間に、石やレンガの破片が漆喰で固められたものが7層積み上げられていました。

    ゲートにはローマ数字で1925年と書いてあったので、20世紀になってから修復された城門のようです。城壁は、レンガの間に、石やレンガの破片が漆喰で固められたものが7層積み上げられていました。

  • 先ほどの城門をくぐって、町の中心方向に進むと、城壁の内側にもご覧のような門のある壁が続いていました。何重にも壁が張り巡らされているようです。<br /><br />この何の変哲もないように見える門に目が留まったのは、門の左側に金色のプレートがついていて、そこにアンドレア・パッラーディオの名前が刻まれていたからです。<br /><br />帰ってから調べてようやく何だったのかわかりましたよ。門の奥にあったのはヴィチェンツァのアンドレア・パッラーディオという名前の市立保育園でした。紛らわしいなあ。全く!

    先ほどの城門をくぐって、町の中心方向に進むと、城壁の内側にもご覧のような門のある壁が続いていました。何重にも壁が張り巡らされているようです。

    この何の変哲もないように見える門に目が留まったのは、門の左側に金色のプレートがついていて、そこにアンドレア・パッラーディオの名前が刻まれていたからです。

    帰ってから調べてようやく何だったのかわかりましたよ。門の奥にあったのはヴィチェンツァのアンドレア・パッラーディオという名前の市立保育園でした。紛らわしいなあ。全く!

  • サンタ・マリア・ノヴァ通りにあった、淡いパステルカラーに塗られた住宅です。ピンクの部分の建物の2階の窓がとても素敵でした。屋根の形も可愛らしい。

    サンタ・マリア・ノヴァ通りにあった、淡いパステルカラーに塗られた住宅です。ピンクの部分の建物の2階の窓がとても素敵でした。屋根の形も可愛らしい。

  • そして、こちらが通りの名前の由来になったサンタ・マリア・ノヴァ教会です。ルネサンス様式で1578年にアンドレア・パッラーディオの設計で建てられた教会です。<br /><br />ドゥオモの北扉、クーポラ、サンタ・マリア・ディ・セルヴィ教会の中央扉、サンタ・コロナ教会のヴァルマラーナ礼拝堂といった部分的な設計はありましたが、教会全体の設計ではヴィチェンツァで唯一のものとなっています。

    そして、こちらが通りの名前の由来になったサンタ・マリア・ノヴァ教会です。ルネサンス様式で1578年にアンドレア・パッラーディオの設計で建てられた教会です。

    ドゥオモの北扉、クーポラ、サンタ・マリア・ディ・セルヴィ教会の中央扉、サンタ・コロナ教会のヴァルマラーナ礼拝堂といった部分的な設計はありましたが、教会全体の設計ではヴィチェンツァで唯一のものとなっています。

  • この教会は、アウグスティン会の修道院に付属する小さな教会を建てたいとしたヴィチェンツァの貴族ロドヴィコ・トレントの依頼によるもので、建物は1590年に完成しました。またしてもパッラーディオは完成した教会を見ることは出来ませんでした。というわけで、内部の設計にはアレッサンドロ・マガンツァ、フランチェスコ・マッフェイらが加わっています。フランスのニームにあるローマ神殿を思わせる造りとなっていると、解説には書かれていました。私が2010年にニームに行ったとき、ローマ神殿のファサードは修復中だったので、記憶にないんだけれど・・・<br /><br />教会は19世紀に奉献を解かれており、今は周りを柵で囲まれ、入れないようになっていました。黒ずんだ外壁と柱が少々痛々しい、寂しげな建物でした。

    この教会は、アウグスティン会の修道院に付属する小さな教会を建てたいとしたヴィチェンツァの貴族ロドヴィコ・トレントの依頼によるもので、建物は1590年に完成しました。またしてもパッラーディオは完成した教会を見ることは出来ませんでした。というわけで、内部の設計にはアレッサンドロ・マガンツァ、フランチェスコ・マッフェイらが加わっています。フランスのニームにあるローマ神殿を思わせる造りとなっていると、解説には書かれていました。私が2010年にニームに行ったとき、ローマ神殿のファサードは修復中だったので、記憶にないんだけれど・・・

    教会は19世紀に奉献を解かれており、今は周りを柵で囲まれ、入れないようになっていました。黒ずんだ外壁と柱が少々痛々しい、寂しげな建物でした。

  • サンタンブロージョ通りでは、かつては教会だった建物が俗化して、劇団の事務所になっていました。この国では、新たな活路を見つかるまでは、放置されるころはあっても決して壊されることはないんですね。

    サンタンブロージョ通りでは、かつては教会だった建物が俗化して、劇団の事務所になっていました。この国では、新たな活路を見つかるまでは、放置されるころはあっても決して壊されることはないんですね。

  • サン・ロッコ通りの突き当りに見えたのは、15世紀末に建てられたサン・ロッコ教会。付属の修道院は19世紀には孤児院となりました。ヴェネツィア様式の鐘楼は1525年の建造。こちらはまだ現役のようでした。

    サン・ロッコ通りの突き当りに見えたのは、15世紀末に建てられたサン・ロッコ教会。付属の修道院は19世紀には孤児院となりました。ヴェネツィア様式の鐘楼は1525年の建造。こちらはまだ現役のようでした。

  • サン・ロッコの方には向かわず、そのままサンタンブロージョ通りを北上します。アントニオ・フォガッツァーロ大通りまで来ると、聖母子のレリーフが壁にある美しい建物の向こうに、派手な外壁の教会が目に飛び込んできました。

    サン・ロッコの方には向かわず、そのままサンタンブロージョ通りを北上します。アントニオ・フォガッツァーロ大通りまで来ると、聖母子のレリーフが壁にある美しい建物の向こうに、派手な外壁の教会が目に飛び込んできました。

  • カルメル会の教会サンタ・クローチェ・アイ・カルミニです。1376年頃の創建ですが、1860年代に、建築家フリードリッヒ・シュミットによりネオ・ゴシック様式に改装されました。やはり、どう見てもイタリア風ではありませんよね。<br /><br />レンガと白い石灰石を幾何学模様で組み合わせた斬新な外観です。左側壁には、尖った円錐形の屋根を持つ礼拝堂が二つ外側に飛び出していました。

    カルメル会の教会サンタ・クローチェ・アイ・カルミニです。1376年頃の創建ですが、1860年代に、建築家フリードリッヒ・シュミットによりネオ・ゴシック様式に改装されました。やはり、どう見てもイタリア風ではありませんよね。

    レンガと白い石灰石を幾何学模様で組み合わせた斬新な外観です。左側壁には、尖った円錐形の屋根を持つ礼拝堂が二つ外側に飛び出していました。

  • 木が邪魔になって、肝心のファサードがうまく写っていませんが、白い石灰岩で作られた中央扉は15世紀の建造です。扉の上のニッチェには大理石製の聖母子の彫像がありました。

    木が邪魔になって、肝心のファサードがうまく写っていませんが、白い石灰岩で作られた中央扉は15世紀の建造です。扉の上のニッチェには大理石製の聖母子の彫像がありました。

  • 幾何学模様の壁を近くで見ると、こんな具合です。レンガ4個分の高さ、2個分の幅があることが分かりました。<br /><br />ファサードをつぶさに観察する前に入場してしまいました。

    幾何学模様の壁を近くで見ると、こんな具合です。レンガ4個分の高さ、2個分の幅があることが分かりました。

    ファサードをつぶさに観察する前に入場してしまいました。

  • いきなり、青いヴォールトが目に飛び込んできました。サファイア・ブルーの星空だそうですよ。一廊式で、外側からも確認できたように、身廊の両側に2つずつ礼拝堂がありました。いずれも同じ様式で統一されていて、16世紀に取り壊されることになった聖バルトロメオに捧げる教会から移設されたとのことです。<br /><br />

    いきなり、青いヴォールトが目に飛び込んできました。サファイア・ブルーの星空だそうですよ。一廊式で、外側からも確認できたように、身廊の両側に2つずつ礼拝堂がありました。いずれも同じ様式で統一されていて、16世紀に取り壊されることになった聖バルトロメオに捧げる教会から移設されたとのことです。

  • ヴォールトの中央部分です。聖母被昇天とそれを見送る使徒達、そしてその周りには福音記者達がフレスコで描かれていました。こちらは19世紀の作だそう。

    ヴォールトの中央部分です。聖母被昇天とそれを見送る使徒達、そしてその周りには福音記者達がフレスコで描かれていました。こちらは19世紀の作だそう。

  • 更にズームアップしてみました。

    更にズームアップしてみました。

  • 現存しない聖バルトロメオ教会から移設された礼拝堂の一つです。祭壇画は光って上手く撮れていません。聖母の下にいるのはキリストの幼子を肩に抱いたパドヴァの聖アントニオだと思われますが、はっきりしません。作者はジョヴァンニ・アントニオ・デ・ピエリだとされていますが、こちらも定かではないそうです。<br /><br />口あんぐりだったのは、その上の半円形部分です。

    現存しない聖バルトロメオ教会から移設された礼拝堂の一つです。祭壇画は光って上手く撮れていません。聖母の下にいるのはキリストの幼子を肩に抱いたパドヴァの聖アントニオだと思われますが、はっきりしません。作者はジョヴァンニ・アントニオ・デ・ピエリだとされていますが、こちらも定かではないそうです。

    口あんぐりだったのは、その上の半円形部分です。

  • 太い花綱の下に並んだ顔、顔、顔。色々な表情の天使や子供? の顔です。これはお初にお目にかかります。すねている顔、泣きそうな顔、驚愕の顔、恨めしそうな顔等々・・・微笑んでいる顔がないのが気がかりです。<br /><br />こちらは、ルネサンス期初期の彫刻家ジョヴァンニ・アントニオ・アマデーオの作風に近いロンバルディア出身のアーチストによる15世紀の作品だそうです。

    太い花綱の下に並んだ顔、顔、顔。色々な表情の天使や子供? の顔です。これはお初にお目にかかります。すねている顔、泣きそうな顔、驚愕の顔、恨めしそうな顔等々・・・微笑んでいる顔がないのが気がかりです。

    こちらは、ルネサンス期初期の彫刻家ジョヴァンニ・アントニオ・アマデーオの作風に近いロンバルディア出身のアーチストによる15世紀の作品だそうです。

  • そしてもう一つの口あんぐり礼拝堂がこちら。<br /><br />聖母子と聖セバスティアーノ、大アントニウスが描かれた祭壇画は、ベネデット・モンターニャの作品です。昨日訪れたサン・ミケーレ・デッタ・デイ・セルヴィ教会でも彼の作品がありましたね。聖母のややうつむき加減の顔が美しい!

    そしてもう一つの口あんぐり礼拝堂がこちら。

    聖母子と聖セバスティアーノ、大アントニウスが描かれた祭壇画は、ベネデット・モンターニャの作品です。昨日訪れたサン・ミケーレ・デッタ・デイ・セルヴィ教会でも彼の作品がありましたね。聖母のややうつむき加減の顔が美しい!

  • こちらの半円形部分には、聖体、聖人の顔の他、様々な花、アガンサスの葉、貝殻、楽器、松明などがびっしり!<br /><br />この二つの礼拝堂を見れただけでも、入場した価値がありました。

    こちらの半円形部分には、聖体、聖人の顔の他、様々な花、アガンサスの葉、貝殻、楽器、松明などがびっしり!

    この二つの礼拝堂を見れただけでも、入場した価値がありました。

  • こちらは、教会で一番大きなカーメルの聖母の礼拝堂です。コリント式列柱が4本並ぶ祭壇は1730年の制作。祭壇下に、プット達がカーテンのドレープをまくり上げているのが可愛い!

    こちらは、教会で一番大きなカーメルの聖母の礼拝堂です。コリント式列柱が4本並ぶ祭壇は1730年の制作。祭壇下に、プット達がカーテンのドレープをまくり上げているのが可愛い!

  • どういう意味なのかは分かりませんが、この礼拝堂には左右の通路に7人ずつの天使の像が置かれていました。お地蔵さんみたいだと思ったのは私だけかしら?

    どういう意味なのかは分かりませんが、この礼拝堂には左右の通路に7人ずつの天使の像が置かれていました。お地蔵さんみたいだと思ったのは私だけかしら?

  • 折角なので、右側もどうぞ。

    折角なので、右側もどうぞ。

  • そして見上げると、この礼拝堂の天井はほのかに青く、祭壇と同じくカーメルの聖母が天使たちに囲まれて浮かんでいました。

    そして見上げると、この礼拝堂の天井はほのかに青く、祭壇と同じくカーメルの聖母が天使たちに囲まれて浮かんでいました。

  • カーメルの聖母のアップです。<br /><br />カーメルの聖母は修道会カルメル会の守護聖人なので、彼らの教会ではどこでも見ることが出来ます。カルメル会は、イスラエル北部にあるカルメル(カーメル)山に修道院を開いたキリスト教徒の隠遁者達がその起源とされています。<br /><br />聖母と幼子が手にしているのはスカプラリオと呼ばれるもの。元々は修道士が身に着ける外衣のことでしたが、紐の両端に四角い布が付いた簡略版があり、これを首の前後に下げるのだそうです。

    カーメルの聖母のアップです。

    カーメルの聖母は修道会カルメル会の守護聖人なので、彼らの教会ではどこでも見ることが出来ます。カルメル会は、イスラエル北部にあるカルメル(カーメル)山に修道院を開いたキリスト教徒の隠遁者達がその起源とされています。

    聖母と幼子が手にしているのはスカプラリオと呼ばれるもの。元々は修道士が身に着ける外衣のことでしたが、紐の両端に四角い布が付いた簡略版があり、これを首の前後に下げるのだそうです。

  • 主祭壇です。最後の晩餐のレリーフが刻まれていました。いつみてもこのテーマは見飽きることがありません。

    主祭壇です。最後の晩餐のレリーフが刻まれていました。いつみてもこのテーマは見飽きることがありません。

  • 落ち着いたグレーと控えめな金色でまとめられた後陣は好印象。磔像の背後の蔓草模様とその両側のフレスコのアーチが良くマッチしていました。

    落ち着いたグレーと控えめな金色でまとめられた後陣は好印象。磔像の背後の蔓草模様とその両側のフレスコのアーチが良くマッチしていました。

  • お終いはカシャの聖リタを描いた1枚です。彼女が磔の十字架像の前で祈っているときに、キリストの頭から茨のトゲが落ち、彼女の額に突き刺さりました。その傷は化膿して悪臭を放ち、それから15年後に亡くなるまで癒えることがなかったそうです。<br /><br />聖フランチェスコの聖痕と同じく、これも一種の奇跡とされているようです。トゲを受けたのは彼女が60歳の時ですが、絵の中の彼女はどう見ても30代か40代にしか見えませんね。

    お終いはカシャの聖リタを描いた1枚です。彼女が磔の十字架像の前で祈っているときに、キリストの頭から茨のトゲが落ち、彼女の額に突き刺さりました。その傷は化膿して悪臭を放ち、それから15年後に亡くなるまで癒えることがなかったそうです。

    聖フランチェスコの聖痕と同じく、これも一種の奇跡とされているようです。トゲを受けたのは彼女が60歳の時ですが、絵の中の彼女はどう見ても30代か40代にしか見えませんね。

  • サンタ・クローチェ・アイ・カルミニ教会の左側壁です。イタリアではついぞ見かけない外観! 模様編みのセーターのよう!<br /><br />中央のニッチェにある聖母子像と両脇の聖パオロ、聖アルベルト像も、聖バルトロメオ教会から運ばれたもの。制作者はジャンバッティスタ・クローネという北欧出身の彫刻家で、これ以外の作品は見つかっていません。これまた珍しい。北欧はプロテスタントのはずですよね。

    サンタ・クローチェ・アイ・カルミニ教会の左側壁です。イタリアではついぞ見かけない外観! 模様編みのセーターのよう!

    中央のニッチェにある聖母子像と両脇の聖パオロ、聖アルベルト像も、聖バルトロメオ教会から運ばれたもの。制作者はジャンバッティスタ・クローネという北欧出身の彫刻家で、これ以外の作品は見つかっていません。これまた珍しい。北欧はプロテスタントのはずですよね。

  • 道路の反対側から写真を撮ったついでに、町の図書館を覗いて行きます。ヴィーニャ国際図書館ですって。

    道路の反対側から写真を撮ったついでに、町の図書館を覗いて行きます。ヴィーニャ国際図書館ですって。

  • 中央通路の先は公園になっていました。

    中央通路の先は公園になっていました。

  • こちらは公園内にあったモニュメント。芸術家マルゲリータ・ミケラッツォ作「ガリレオの月」というタイトルでした。ユニークですねえ。コルテン鋼という鋼で出来ています。<br /><br />子供たちがぶら下がったりしないのかしら?

    こちらは公園内にあったモニュメント。芸術家マルゲリータ・ミケラッツォ作「ガリレオの月」というタイトルでした。ユニークですねえ。コルテン鋼という鋼で出来ています。

    子供たちがぶら下がったりしないのかしら?

  • 今度はサンタ・クローチェ・アイ・カルミニ教会前のアントニオ・フォガッツァーロ大通りを町の中心に向かって歩くこと6分。ドゥオモに匹敵するような大きな後陣が見えてきましたよ。<br /><br />サン・ロレンツォ教会です。またの名をサン・ロレンツォ寺院とも呼ばれています。

    今度はサンタ・クローチェ・アイ・カルミニ教会前のアントニオ・フォガッツァーロ大通りを町の中心に向かって歩くこと6分。ドゥオモに匹敵するような大きな後陣が見えてきましたよ。

    サン・ロレンツォ教会です。またの名をサン・ロレンツォ寺院とも呼ばれています。

  • ファサード前のサン・ロレンツォ広場にやって参りましたが、対面にあった建物にうっとり! パラッツォ・レペタ。1711年に完成した、侯爵シピオーネ・レペタの邸宅で、パッラーディオに多大なる影響を受けた建築家フランチェスコ・ムットー二の初期の作品です。<br /><br />低層部と高層部の雰囲気がまるで異なるのがいいなあ。直線と曲線、明と暗。

    ファサード前のサン・ロレンツォ広場にやって参りましたが、対面にあった建物にうっとり! パラッツォ・レペタ。1711年に完成した、侯爵シピオーネ・レペタの邸宅で、パッラーディオに多大なる影響を受けた建築家フランチェスコ・ムットー二の初期の作品です。

    低層部と高層部の雰囲気がまるで異なるのがいいなあ。直線と曲線、明と暗。

  • そして中央に3つ並んだ大きな窓が思いっきり自己主張しています。アーチの一部が左側だけ欠けているのは何故?<br /><br />現在はイタリア銀行が使用していました。

    そして中央に3つ並んだ大きな窓が思いっきり自己主張しています。アーチの一部が左側だけ欠けているのは何故?

    現在はイタリア銀行が使用していました。

  • 広場の先には、噴水、そして19世紀のヴィチェンツァ近郊キアンポ出身の詩人ジャコモ・ツァネッラの彫像が立っていました。なんだか浮かない顔をしていますね。

    広場の先には、噴水、そして19世紀のヴィチェンツァ近郊キアンポ出身の詩人ジャコモ・ツァネッラの彫像が立っていました。なんだか浮かない顔をしていますね。

  • さて、振り返ると、こちらは非常にスケールの大きいサン・ロレンツォ。フランシスコ会の教会です。歴史は古く、文書は残されていませんが、まだ聖フランチェスコが生存中の1216年に創建されたとのことです。<br /><br />ファサードはロマネスクを完全には捨てきっていないゴシック・ロンバルディア様式と称されています。切妻屋根の下には、7つのヴェネト風ゴシック様式のアーチが並んでいます。13世紀ヴィチェンツァはパドヴァに支配されていたので、その影響が大きいのだそう。

    さて、振り返ると、こちらは非常にスケールの大きいサン・ロレンツォ。フランシスコ会の教会です。歴史は古く、文書は残されていませんが、まだ聖フランチェスコが生存中の1216年に創建されたとのことです。

    ファサードはロマネスクを完全には捨てきっていないゴシック・ロンバルディア様式と称されています。切妻屋根の下には、7つのヴェネト風ゴシック様式のアーチが並んでいます。13世紀ヴィチェンツァはパドヴァに支配されていたので、その影響が大きいのだそう。

  • 重厚感ある中央扉はヴェネツィアの建築家アンドリオーロ・デ・サンティにより1340年代に建造されました。ルーネットの聖母子の右側で跪いているのは、スカラ家のカン・グランデ1世の顧問で、ダンテ・アリギエリの友人だったピエトロ・マラーノ・デット・イル・ナーノだそうです。そして聖フランチェスコと聖ロレンツォが聖母子の両側に立っていました。<br /><br />吊り下られたお墓もヴェローナで御馴染。微妙に一直線に並んでいないところがやや目障り。14世紀に亡くなったヴィチェンツァの著名人だそうです。

    重厚感ある中央扉はヴェネツィアの建築家アンドリオーロ・デ・サンティにより1340年代に建造されました。ルーネットの聖母子の右側で跪いているのは、スカラ家のカン・グランデ1世の顧問で、ダンテ・アリギエリの友人だったピエトロ・マラーノ・デット・イル・ナーノだそうです。そして聖フランチェスコと聖ロレンツォが聖母子の両側に立っていました。

    吊り下られたお墓もヴェローナで御馴染。微妙に一直線に並んでいないところがやや目障り。14世紀に亡くなったヴィチェンツァの著名人だそうです。

  • 御馴染と言えば、扉の両脇の柱はモデナやフェッラーラで見たのと同じく、ライオンの背中が支えていました。<br /><br />扉とルーネットの縁にも、聖人達の細かい彫刻が施されていました。あまりに数が多いので、名前は省力しましょう。

    御馴染と言えば、扉の両脇の柱はモデナやフェッラーラで見たのと同じく、ライオンの背中が支えていました。

    扉とルーネットの縁にも、聖人達の細かい彫刻が施されていました。あまりに数が多いので、名前は省力しましょう。

  • 束ね柱の数の多いのにもびっくりですねえ。全部でひい、ふう、みー・・・ライオンのを入れると7本!

    束ね柱の数の多いのにもびっくりですねえ。全部でひい、ふう、みー・・・ライオンのを入れると7本!

  • 内部は思ったほど広さを感じません。縁取りのあるクロスヴォールトが続く完璧なゴシック様式でした。<br /><br />左右に5本ずつの巨大な円柱が身廊と側廊を隔てています。縞々があったりなかったり・・・柱頭の模様が変わっていますね。くるくると丸まったものが一杯付いていました。何の模様でしょうか?

    内部は思ったほど広さを感じません。縁取りのあるクロスヴォールトが続く完璧なゴシック様式でした。

    左右に5本ずつの巨大な円柱が身廊と側廊を隔てています。縞々があったりなかったり・・・柱頭の模様が変わっていますね。くるくると丸まったものが一杯付いていました。何の模様でしょうか?

  • カウンター・ファサードにあったレリーフです。聖母子の左に聖セバスティアーノ、右に大アントニウス。この組み合わせ、昨日も見ましたね。1480年頃の作品で、ロンゴバルドの影響が明らかに見られると解説には書かれていましたが、私にはさっぱり???・・・<br /><br />ロンバルディア地方に行って、568年から774年まで北イタリアに王国を築いたゲルマン系文化も見に行かなくては。フェッラーラの支配者だったエステ家がロンゴバルド族出身だというのは有名な話ですね。

    カウンター・ファサードにあったレリーフです。聖母子の左に聖セバスティアーノ、右に大アントニウス。この組み合わせ、昨日も見ましたね。1480年頃の作品で、ロンゴバルドの影響が明らかに見られると解説には書かれていましたが、私にはさっぱり???・・・

    ロンバルディア地方に行って、568年から774年まで北イタリアに王国を築いたゲルマン系文化も見に行かなくては。フェッラーラの支配者だったエステ家がロンゴバルド族出身だというのは有名な話ですね。

  • 1474年に建築家兼彫刻家のピエトロ・ロンバルト・ダ・カローナによって造られたポヤナ家の祭壇です。この祭壇は最近、ジュゼッペ・ロワ財団によって修復が行われたばかりのようです。美しく仕上がりましたねえ。<br /><br />ルーネット部分に描かれたフレスコでは、十字架の下でなんとも悲痛な表情を見せている聖母と聖ヨハネが印象的でした。

    1474年に建築家兼彫刻家のピエトロ・ロンバルト・ダ・カローナによって造られたポヤナ家の祭壇です。この祭壇は最近、ジュゼッペ・ロワ財団によって修復が行われたばかりのようです。美しく仕上がりましたねえ。

    ルーネット部分に描かれたフレスコでは、十字架の下でなんとも悲痛な表情を見せている聖母と聖ヨハネが印象的でした。

  • 赤い花が沢山置かれていた主祭壇です。ステンドグラスのない後陣の窓から柔らかな光が差し込んでいて、明るかったのが印象的でした。

    赤い花が沢山置かれていた主祭壇です。ステンドグラスのない後陣の窓から柔らかな光が差し込んでいて、明るかったのが印象的でした。

  • 有名どころではないので、解説が見つかりませんでしたが、フランシスコ会の教会らしく、サンタ・キアラが聖フランチェスコの前に跪き、ローブを受け取る場面の絵が翼廊にありました。<br /><br />右側に見えているのは、鐘楼に上るための階段と扉です。こちらは教会の中でも最も古い部分だそうです。

    有名どころではないので、解説が見つかりませんでしたが、フランシスコ会の教会らしく、サンタ・キアラが聖フランチェスコの前に跪き、ローブを受け取る場面の絵が翼廊にありました。

    右側に見えているのは、鐘楼に上るための階段と扉です。こちらは教会の中でも最も古い部分だそうです。

  • めちゃくちゃボケている写真で没にしようと思ったのですが、こちらの聖母の礼拝堂には、注目すべき作品がいくつもあったのでご容赦を。ヴィチェンツァの貴族ポルト家の礼拝堂で、1443年の制作です。<br /><br />祭壇には、聖母の両側には聖ピエトロと聖パオロ。こちらは18世紀のヴェネツィアの彫刻家の作ということしかわかっていません。

    めちゃくちゃボケている写真で没にしようと思ったのですが、こちらの聖母の礼拝堂には、注目すべき作品がいくつもあったのでご容赦を。ヴィチェンツァの貴族ポルト家の礼拝堂で、1443年の制作です。

    祭壇には、聖母の両側には聖ピエトロと聖パオロ。こちらは18世紀のヴェネツィアの彫刻家の作ということしかわかっていません。

  • 礼拝堂左壁には、ポルト家のバルトロメオの葬送モニュメントです。バルトロメオが横たわる上のカーテンのひだに注目! 下から見上げると、ひだの1本1本がきちんと丁寧に作られているのが分かりますね。後世のものに比べれば柔軟性に乏しいかもしれないけれど、その緻密な作業に驚きました。彫刻家ピエルパオロ・マセーニェの1490年から1510年頃の制作です。<br /><br />背後の色彩豊かなフレスコは残念なことに、欠落したり、消えかかったりしていましたが、バルトロメオ・モンターニャによってモニュメントの両脇に聖ピエトロと聖パオロはかろうじて見分けがつきました。

    礼拝堂左壁には、ポルト家のバルトロメオの葬送モニュメントです。バルトロメオが横たわる上のカーテンのひだに注目! 下から見上げると、ひだの1本1本がきちんと丁寧に作られているのが分かりますね。後世のものに比べれば柔軟性に乏しいかもしれないけれど、その緻密な作業に驚きました。彫刻家ピエルパオロ・マセーニェの1490年から1510年頃の制作です。

    背後の色彩豊かなフレスコは残念なことに、欠落したり、消えかかったりしていましたが、バルトロメオ・モンターニャによってモニュメントの両脇に聖ピエトロと聖パオロはかろうじて見分けがつきました。

  • そして右壁にあったフレスコ。こちらもバルトロメオ・モンターニャによる「聖パオロの斬首」です。<br /><br />壁から剥され、キャンバスに移されたものですが、状態はこちらもあまり良くありません。はっきり言って何が描いてあるのが分かりません。

    そして右壁にあったフレスコ。こちらもバルトロメオ・モンターニャによる「聖パオロの斬首」です。

    壁から剥され、キャンバスに移されたものですが、状態はこちらもあまり良くありません。はっきり言って何が描いてあるのが分かりません。

  • そのためか、本来の絵の様子を書き写したスケッチが残されていました。手前にパオロの首が!!!・・・

    そのためか、本来の絵の様子を書き写したスケッチが残されていました。手前にパオロの首が!!!・・・

  • 翼廊から回廊に出て参りました。こちらは朝の光を受けて更に明るい。ウンブリアを出てからというもの、雨は一滴も降りません。<br /><br />修道院の最初の回廊は14世紀の初めには出来上がっていましたが、こちらは15世紀末に再建されたもの。エレガントなルネサンス様式です。

    翼廊から回廊に出て参りました。こちらは朝の光を受けて更に明るい。ウンブリアを出てからというもの、雨は一滴も降りません。

    修道院の最初の回廊は14世紀の初めには出来上がっていましたが、こちらは15世紀末に再建されたもの。エレガントなルネサンス様式です。

  • 中央にある古い井戸は14世紀後半の作で、ゴシック調。四方の面にその紋章があることからみて、ロスキ家がパトロンだったことが分かります。

    中央にある古い井戸は14世紀後半の作で、ゴシック調。四方の面にその紋章があることからみて、ロスキ家がパトロンだったことが分かります。

  • 回廊の東側には、ご覧のような、時代がバラバラな彫像、他に墓石、墓碑銘が並んでいました。壁の絵は最近のものでしょうね。説明がないよお・・・

    回廊の東側には、ご覧のような、時代がバラバラな彫像、他に墓石、墓碑銘が並んでいました。壁の絵は最近のものでしょうね。説明がないよお・・・

  • 鐘楼はロマネスク様式。先ほど訪れた聖母の礼拝堂と左翼廊のコーナーに位置しています。ここからだと何層あるかが分かりませんが、各層にブラインドアーチが6つずつ見えていますね。<br /><br />教会本体のブランドアーチと良くマッチしていて、アーチを支える白い柱がアクセントになっていました。丸窓も船の窓みたいでキュートですね。これもロンバルディア・スタイルかしら?

    鐘楼はロマネスク様式。先ほど訪れた聖母の礼拝堂と左翼廊のコーナーに位置しています。ここからだと何層あるかが分かりませんが、各層にブラインドアーチが6つずつ見えていますね。

    教会本体のブランドアーチと良くマッチしていて、アーチを支える白い柱がアクセントになっていました。丸窓も船の窓みたいでキュートですね。これもロンバルディア・スタイルかしら?

  • さあ教会に戻りましたよ。左側廊を見ていきます。<br /><br />こちらはパドヴァの聖アントニオに捧げる祭壇です。祭壇上のルーネット部分に当たる金ぴかの貝殻があまり好みでなかったので、祭壇画だけ写してみました。<br /><br />タイトルは「聖アントニオの礼拝に、幼子キリストを差し出す聖母」ヴェネツィア出身のジュリオ・カルピオーニの17世紀半ばの作品です。皆想像力たくましいなあ( ^ω^)・・・

    さあ教会に戻りましたよ。左側廊を見ていきます。

    こちらはパドヴァの聖アントニオに捧げる祭壇です。祭壇上のルーネット部分に当たる金ぴかの貝殻があまり好みでなかったので、祭壇画だけ写してみました。

    タイトルは「聖アントニオの礼拝に、幼子キリストを差し出す聖母」ヴェネツィア出身のジュリオ・カルピオーニの17世紀半ばの作品です。皆想像力たくましいなあ( ^ω^)・・・

  • ニッチェにあるのはフレスコの断片で、「死せるキリストへの嘆き」。ピンク(に見える)衣をまとった聖母の悲しみが直に伝わってくるような迫力があります。恐らく15世紀初期の作だろうと考えられていますが、発見されたのは1914年のことでした。当然のことながら作者はわかっていません。<br /><br />残念なことに、フレスコの十字架から降ろされたキリストの部分は欠落しているため、ニッチェの前には20世紀製作のテラコッタ像が置かれていました。これってあり・・・?

    ニッチェにあるのはフレスコの断片で、「死せるキリストへの嘆き」。ピンク(に見える)衣をまとった聖母の悲しみが直に伝わってくるような迫力があります。恐らく15世紀初期の作だろうと考えられていますが、発見されたのは1914年のことでした。当然のことながら作者はわかっていません。

    残念なことに、フレスコの十字架から降ろされたキリストの部分は欠落しているため、ニッチェの前には20世紀製作のテラコッタ像が置かれていました。これってあり・・・?

  • 祭壇の横にあった、この不思議な絵のタイトルは、「聖ジュゼッペ・ダ・コペルティーノの法悦」。ジャンベッティーノ・チニャローリによる18世紀半ばの作品。<br /><br />聖ジュゼッペの奇跡は、彼がヴィジョンを受けて、鳥のように飛んだことだそうですよ。それも一度でなく、少なくとも三度! この絵のように、大勢の人が見ている前で飛んだのでしょうかね。

    祭壇の横にあった、この不思議な絵のタイトルは、「聖ジュゼッペ・ダ・コペルティーノの法悦」。ジャンベッティーノ・チニャローリによる18世紀半ばの作品。

    聖ジュゼッペの奇跡は、彼がヴィジョンを受けて、鳥のように飛んだことだそうですよ。それも一度でなく、少なくとも三度! この絵のように、大勢の人が見ている前で飛んだのでしょうかね。

  • サン・ロレンツォ教会を出てファサード左側、貴族の墓の後ろ側にあったフレスコです。傍には丁寧な解説板まで備えてありました。<br /><br />それによると、このフレスコは1300年から1320年頃に描かれたもので、ヴィチェンツァに残る最古のものだそうです。ビザンティン時代の影響が色濃く、ジョットによる描写技術の進歩を知らない画家が描いたものだと書かれていました。現在の教会が建つ前にあった礼拝堂あるいは祈祷所に描かれていたものの可能性が高いようです。ご覧のように下半分は欠落していますが、最近修復が行われたようで、残っている部分の状態は良好です。<br /><br /><br />

    サン・ロレンツォ教会を出てファサード左側、貴族の墓の後ろ側にあったフレスコです。傍には丁寧な解説板まで備えてありました。

    それによると、このフレスコは1300年から1320年頃に描かれたもので、ヴィチェンツァに残る最古のものだそうです。ビザンティン時代の影響が色濃く、ジョットによる描写技術の進歩を知らない画家が描いたものだと書かれていました。現在の教会が建つ前にあった礼拝堂あるいは祈祷所に描かれていたものの可能性が高いようです。ご覧のように下半分は欠落していますが、最近修復が行われたようで、残っている部分の状態は良好です。


  • 両脇の聖母と聖ヨハネはやや稚拙な感がありますが、この目を閉じたキリストの顔には大変惹かれるものを感じました。

    両脇の聖母と聖ヨハネはやや稚拙な感がありますが、この目を閉じたキリストの顔には大変惹かれるものを感じました。

  • 時刻は10時半。ミラノへの列車は12時発なので、まだ時間はありますが、駅まで10分ほどの道を重たいスーツケースを引きずって歩かねばなりません。そろそろ帰らないと。<br /><br />でも、あと一つだけ、見たいものが残っていました。ヴィチェンツァに残るパッラーディオ設計の建造物は全部で全部で23。そのすべてが世界遺産に登録されています。そのうち今まで見たのが18。全部制覇するつもりはないのですが、一番宿に近いロッジア・ヴァルマラーナだけが、初日から探しているのに見つからないのです。

    時刻は10時半。ミラノへの列車は12時発なので、まだ時間はありますが、駅まで10分ほどの道を重たいスーツケースを引きずって歩かねばなりません。そろそろ帰らないと。

    でも、あと一つだけ、見たいものが残っていました。ヴィチェンツァに残るパッラーディオ設計の建造物は全部で全部で23。そのすべてが世界遺産に登録されています。そのうち今まで見たのが18。全部制覇するつもりはないのですが、一番宿に近いロッジア・ヴァルマラーナだけが、初日から探しているのに見つからないのです。

  • 地図でいくと、確かこの辺のはずなんですけれど・・・<br /><br />

    地図でいくと、確かこの辺のはずなんですけれど・・・

  • とその時、傍らに公園への入り口を発見。そうかぁ・・・ロッジアは水辺に建っていたから、公園内にあるのかもしれないと思い、アーチをくぐって建物の裏側を覗いてみると・・・

    とその時、傍らに公園への入り口を発見。そうかぁ・・・ロッジアは水辺に建っていたから、公園内にあるのかもしれないと思い、アーチをくぐって建物の裏側を覗いてみると・・・

  • 黄色い建物と重なるように、ロッジア・ヴァルマラーナが姿を現しました。といっても、今私が立っているところと、この庭の間には低い塀が回してあります。他所のうちの庭に無断で入るわけにはまいりません。

    黄色い建物と重なるように、ロッジア・ヴァルマラーナが姿を現しました。といっても、今私が立っているところと、この庭の間には低い塀が回してあります。他所のうちの庭に無断で入るわけにはまいりません。

  • 遠回りして、公園の中を流れるセリオーラ運河を越してから振り返ると、ありましたよ。ロッジア・ヴァルマラーナが! やはり地図は間違ってはいませんでした。<br /><br />今いる場所はサルヴィ公園。元々はレオナルド・ヴァルマラーナの所有だった土地です。彼の意思により、この場所は1592年には一般市民に公開されたそうです。現在は市の所有で市民公園となっています。

    遠回りして、公園の中を流れるセリオーラ運河を越してから振り返ると、ありましたよ。ロッジア・ヴァルマラーナが! やはり地図は間違ってはいませんでした。

    今いる場所はサルヴィ公園。元々はレオナルド・ヴァルマラーナの所有だった土地です。彼の意思により、この場所は1592年には一般市民に公開されたそうです。現在は市の所有で市民公園となっています。

  • ロッジア・ヴァルマラーナ。ヴィチェンツァのパッラーディオ巡りのフィナーレを飾るにふさわしい、素晴らしい建物です。6本の力強いドーリア式の柱(エンタシス効果あり!)と三角のペディメントは、典型的なローマン(ギリシャ)建築ですが、水面に近い場所にあるアーチは独特ですね。<br /><br />このロッジアは公園の開放と同じ1592年に完成したという話ですから、パッラーディオはすでに亡くなっています。彼が設計したという文書も図面も残されていないのに、ユネスコは文句なく、パッラディオに帰すると評価したようです。

    イチオシ

    ロッジア・ヴァルマラーナ。ヴィチェンツァのパッラーディオ巡りのフィナーレを飾るにふさわしい、素晴らしい建物です。6本の力強いドーリア式の柱(エンタシス効果あり!)と三角のペディメントは、典型的なローマン(ギリシャ)建築ですが、水面に近い場所にあるアーチは独特ですね。

    このロッジアは公園の開放と同じ1592年に完成したという話ですから、パッラーディオはすでに亡くなっています。彼が設計したという文書も図面も残されていないのに、ユネスコは文句なく、パッラディオに帰すると評価したようです。

  • 望遠でズームすると、柱や建物はだいぶくたびれていて、パッラーディオお得意の石に似せたレンガの柱であることがばれてしまっています。近いうちに修復しないと、崩れそうにも見えます。

    望遠でズームすると、柱や建物はだいぶくたびれていて、パッラーディオお得意の石に似せたレンガの柱であることがばれてしまっています。近いうちに修復しないと、崩れそうにも見えます。

  • こちらは、先ほどウロウロした黄色い邸宅の、運河に突き出した庭部分。四隅にニンフ像が立っていました。

    こちらは、先ほどウロウロした黄色い邸宅の、運河に突き出した庭部分。四隅にニンフ像が立っていました。

  • 水が汚いのが気になりますね。<br /><br />このサルヴィ公園には、ヴェネツィアのカ・レッツォニコやサンタ・マリア・デッラ・サルーテ聖堂を設計したバルダッサーレ・ロンゲーラ作のロッジアもあったそうですが、目に留まりませんでした。

    水が汚いのが気になりますね。

    このサルヴィ公園には、ヴェネツィアのカ・レッツォニコやサンタ・マリア・デッラ・サルーテ聖堂を設計したバルダッサーレ・ロンゲーラ作のロッジアもあったそうですが、目に留まりませんでした。

  • で、宿に戻ったら、ヴァレンティーナがなんとこの彼女の車で駅まで送ってくれるという話になり大助かり。<br /><br />このちっちゃな二人乗りの車に乗ってみたかったんだぁ。

    で、宿に戻ったら、ヴァレンティーナがなんとこの彼女の車で駅まで送ってくれるという話になり大助かり。

    このちっちゃな二人乗りの車に乗ってみたかったんだぁ。

  • 大きなスーツケースが入るか心配でしたが問題なし。お蔭で駅でコーヒータイムを取ることが出来ました。ヴァレンティーナに感謝です。思いがけずゆっくり回れることが出来たヴィチェンツァ。沢山のパッラーディオと出会うことが出来ました。<br /><br />長くなりましたので、ここで一旦休憩。ようやく最終目的地ミラノです。あと2日半お付き合いくださいね。この続きはイタリア あっちも! こっちも! と欲張りなたび その92 ミラノ1で!

    大きなスーツケースが入るか心配でしたが問題なし。お蔭で駅でコーヒータイムを取ることが出来ました。ヴァレンティーナに感謝です。思いがけずゆっくり回れることが出来たヴィチェンツァ。沢山のパッラーディオと出会うことが出来ました。

    長くなりましたので、ここで一旦休憩。ようやく最終目的地ミラノです。あと2日半お付き合いくださいね。この続きはイタリア あっちも! こっちも! と欲張りなたび その92 ミラノ1で!

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  • マリアンヌさん 2017/01/13 13:08:35
    美しきロッジア
    junemayさん、Buon giorno☆

    いやぁヴィチェンツアァもよく歩き回りましたね。
    お陰で隅々までお散歩させていただいた気分です。

    たしかにこれだけ教会やパッラーディオがあると考古学博物館はいいかなという気分にもなりますよね。私が訪れる村では反対に考古学博物館しかないところも多いけど(笑)
    でもニンフ像は素敵でした。

    Cafe freddoは、アイスコーヒーとは似て非なるものです。
    普通あれにアマレットなど入ってお酒です。

    聖バルトロメオ教会から移設された礼拝堂の円形部分の顔の数々の装飾、初めて見ました。面白いですね。
    以前クロアチアの町で教会の外壁に市民の顔が並んでたのを思い出しました。

    最後に見れた水辺の美しきロッジア、いいですねぇ。
    建築のことはよくわかりませんが、バランスが絶妙で水辺っていうのがまたいいですね。

    ミラノも期待してますよぉ。
    マリアンヌ

    junemay

    junemayさん からの返信 2017/01/14 18:04:22
    RE: 美しきロッジア
    マリアンヌさん こんばんは!

    よくぞ飽きもせず最後までヴィチェンツァをご覧くださいました。グラッパに行かなかったために、本当に思い残すところなく、隅々まで歩けた唯一の町でした。コメント嬉しいです。ありがとうございます。

    > Cafe freddoは、アイスコーヒーとは似て非なるものです。
    > 普通あれにアマレットなど入ってお酒です。

    そうなんだぁ!
    暑かったので所望したのですが、ギリシャでよく飲んだフラッペのようなものを期待していたのですが、全くもって外れでした。
    >
    > 聖バルトロメオ教会から移設された礼拝堂の円形部分の顔の数々の装飾、初めて見ました。面白いですね。
    > 以前クロアチアの町で教会の外壁に市民の顔が並んでたのを思い出しました。

    あれは面白かったです。宝物見っけ! という気分になりました。だから教会巡りはやめられない!


    > 最後に見れた水辺の美しきロッジア、いいですねぇ。
    > 建築のことはよくわかりませんが、バランスが絶妙で水辺っていうのがまたいいですね。

    ロッジアは手入れが悪く、状態ひどかったですが、水辺にぴったんこでヴィチェンツァ最後の思い出になりました。

    ところでマリアンヌさん、もしご近所でしたら、三鷹北口にシエナで修業したとてもおいしいイタリアンがあるので、一度お試しあれ。私はリピーターになりました。自家製のイカ墨を練りこんだパスタ、魚介類のソースとの相性が絶妙です。
    Osteria Furbo です。

    時間はかかりますが、ミラノ頑張ります。

    junemay

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