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松平家の藩主が亡くなられた後、亀を愛でていた藩主を偲んで大亀の石像を造りました。ところが、その大亀は夜になると動きだし、蓮池の水を飲んだり、城下の町で暴れ人を食らうようになったのです。<br /><br />困り果てた寺の住職は、深夜、大亀に説法を施しました。すると大亀は、「私にもこの奇行を止めることはできません。あなたにお任せいたします」と、大粒の涙をポロリポロリと流しながら頼んだといいます。そこで、亡くなった藩主の功績を彫り込んだ石碑を大亀の背中に背負わせて、この地にしっかりと封じ込めたのでした。<br />

松江藩主松平家墓所月照寺参拝

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2016/12/11 - 2016/12/11

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吉備津彦

吉備津彦さん

松平家の藩主が亡くなられた後、亀を愛でていた藩主を偲んで大亀の石像を造りました。ところが、その大亀は夜になると動きだし、蓮池の水を飲んだり、城下の町で暴れ人を食らうようになったのです。

困り果てた寺の住職は、深夜、大亀に説法を施しました。すると大亀は、「私にもこの奇行を止めることはできません。あなたにお任せいたします」と、大粒の涙をポロリポロリと流しながら頼んだといいます。そこで、亡くなった藩主の功績を彫り込んだ石碑を大亀の背中に背負わせて、この地にしっかりと封じ込めたのでした。

旅行の満足度
5.0
観光
5.0
ホテル
5.0
グルメ
5.0
同行者
一人旅
交通手段
自家用車
  • 唐門

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  • 松平松江藩初代松平直政廟所

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  • 神君家康の次男秀康の3男直政の墓

    イチオシ

    神君家康の次男秀康の3男直政の墓

  • 直政公生母月照院墓

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    直政公生母月照院墓

  • 二代綱隆

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  • 3代綱近

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  • 四代吉透

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  • 七代治郷<br /><br />

    七代治郷

  • 寛延4年2月14日(1751年3月11日)[1]、第6代藩主・松平宗衍の次男[2]として生まれる。<br /><br />明和4年(1767年)、父の隠居により家督を継いだ。将軍・徳川家治からの偏諱と祖父・宣維の初名「直郷」の1字とにより治郷(はるさと)と名乗る。この頃、松江藩は財政が破綻しており、周囲では「雲州様(松江藩の藩主)は恐らく滅亡するだろう」と囁かれるほどであった。そのため治郷は、家老の朝日茂保と共に藩政改革に乗り出し、積極的な農業政策の他に治水工事を行い、木綿や朝鮮人参、楮、櫨などの商品価値の高い特産品を栽培することで財政再建を試みた。しかしその反面で厳しい政策が行なわれ、それまでの借金を全て棒引き、藩札の使用禁止、厳しい倹約令、村役人などの特権行使の停止、年貢の徴収を四公六民から七公三民にするなどとした。これらの倹約、引き締め政策を踏まえ、安永7年(1778年)に井上恵助による防砂林事業が完成、天明5年(1785年)の清原太兵衛による佐陀川の治水事業も完了し、これらの政策で藩の財政改革は成功した。これにより空、になっていた藩の金蔵に多くの金が蓄えられたと言われる。<br /><br />ただし、財政が再建されて潤った後、茶人としての才能に優れていた治郷は、1500両もする天下の名器「油屋肩衝」をはじめ、300両から2000両もする茶器を多く購入するなど散財した。このため、藩の財政は再び一気に悪化した(改革自体は茂保主導による箇所が大きく、治郷自身は政治に口出ししなかったことが原因とされる)。<br />

    寛延4年2月14日(1751年3月11日)[1]、第6代藩主・松平宗衍の次男[2]として生まれる。

    明和4年(1767年)、父の隠居により家督を継いだ。将軍・徳川家治からの偏諱と祖父・宣維の初名「直郷」の1字とにより治郷(はるさと)と名乗る。この頃、松江藩は財政が破綻しており、周囲では「雲州様(松江藩の藩主)は恐らく滅亡するだろう」と囁かれるほどであった。そのため治郷は、家老の朝日茂保と共に藩政改革に乗り出し、積極的な農業政策の他に治水工事を行い、木綿や朝鮮人参、楮、櫨などの商品価値の高い特産品を栽培することで財政再建を試みた。しかしその反面で厳しい政策が行なわれ、それまでの借金を全て棒引き、藩札の使用禁止、厳しい倹約令、村役人などの特権行使の停止、年貢の徴収を四公六民から七公三民にするなどとした。これらの倹約、引き締め政策を踏まえ、安永7年(1778年)に井上恵助による防砂林事業が完成、天明5年(1785年)の清原太兵衛による佐陀川の治水事業も完了し、これらの政策で藩の財政改革は成功した。これにより空、になっていた藩の金蔵に多くの金が蓄えられたと言われる。

    ただし、財政が再建されて潤った後、茶人としての才能に優れていた治郷は、1500両もする天下の名器「油屋肩衝」をはじめ、300両から2000両もする茶器を多く購入するなど散財した。このため、藩の財政は再び一気に悪化した(改革自体は茂保主導による箇所が大きく、治郷自身は政治に口出ししなかったことが原因とされる)。

  • 八代斉恒

    八代斉恒

  • 九代斉貴

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