2014/10/19 - 2014/10/21
603位(同エリア1346件中)
五黄の寅さん
この年の新年会で、フェニックスカントリークラブでゴルフをやろうと言う話で盛り上がったのですが、話がまとまったのは夏。
急遽ゴルフ場の予約と、近辺の観光地を調べての行程作成とばたばたしながら決行する事に。
私以外は宮崎は初めてなので、宮崎を代表する高千穂峡に行きたかったのですが、日程の関係で少々穴場めぐり的な二泊三日の旅となりました。
一日目 旅行記その1、2 都井岬を訪ねて
二日目 旅行記その3 フェニックスCC
三日目 旅行記その4 高鍋界隈の歴史散策
- 旅行の満足度
- 4.5
- 観光
- 4.5
- 同行者
- 友人
- 交通手段
- レンタカー ANAグループ
-
三日目の最終日は高鍋の歴史を訪ねて散策しました。
最初に訪問したのは、高鍋大師。
一面の茶畑の中に古墳が見えてます。ここは後で訪れる持田古墳群です。
ここを通り過ぎて高鍋大師に行きます。 -
千手観音の様な十一面観音像のお出迎えを受けて大師に到着。
後方に立っているのはアマテラスオオミカミの像です。 -
御堂の中に入って見ましょう。
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御堂と像の作者は、岩岡保吉氏という方です。
岩岡氏が自ら造られた高さが6mを越える像が9体、全部で750体の像が御堂の周囲に立ち並んでいます。 -
岩岡氏の略歴をパンフレットから窺うと、氏は市井の偉人です。
以下パンフレットから引用
明治22年(1889年)生まれ、昭和初期の持田古墳の盗掘に心を痛め、ここに眠る人を供養したいとの思いが募り、昭和3年四十歳の時、仕事を引退。
大分県から石工を呼んで彫刻を依頼する傍ら、氏自身も彫刻を習い、石像づくりに専念する。 -
こうして昭和6年、東光寺山腹全体に四国霊場八十八ヶ所にちなむ八十八体の仏が安置された。
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一方、岩岡翁は御堂造りにも着手。丸木の自然木で頑丈に組んだ建物に、自作の弘法大師像を本尊としてまつった。
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高野山真言宗で得度し、僧名を弘覚といった翁はその後も腕を振るい続け、驚くべきことに八十四歳で7mもある巨像「かぜのかみ」と「かみなり」の2体を完成させている。
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最後の作品は、86歳の時の「みとこモん」。あの水戸黄門で助さん、格さんを従え、石像群や御堂、それに古墳群を見守るかのように西の方を向いて立っている。
その胸に刻まれた「人を たすけ まわる」という文字。
岩岡翁はひょっとして、水戸黄門に自らを重ねていたのだろうか、その表情は確かに人の心を救うような優しい顔をしている。 -
高鍋大師を後にして、持田古墳群に向かいます。
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農家の庭先が古墳になっていますね。
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畑の中に小さな古墳が点在しています。
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持田古墳群
築造は4世紀から5世紀に掛けての古墳時代の姿をとどめる85基の古墳群です。
高鍋一帯で150基余りを数えるそうです。 -
こちらも古墳なのでしょうか?
そうだとしたら、悲しい事ですね。 -
古墳群を見て、その次に向かったのは、高鍋城址の脇に在る高鍋町歴史総合資館。
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城址は舞鶴公園と言う名の公園になっています。
石垣の横にある駐車場に車を入れます。 -
向こうに見えているのは、萬歳亭。
藩主が晩年を過ごした住まいを復元したものです。 -
付近の様子はこの様になっています。
それでは、歴史総合資料館に向かいましょう。 -
入館料 210円
開館時間AM9:00~PM17:00
宮崎県児湯群高鍋町大字南高鍋旧城内6937の2
0983-23-1322 -
一階が歴史、古代、中世、近世、近代の流れを資料でたどります。
偉人の資料も展示されています。
二階が民俗、伝統的な生活文化を伝える資料を展示
米沢藩の立て直しで有名な上杉鷹山(治憲)は高鍋藩の7代藩主の弟だったのを初めて知りました。 -
こちらは萬歳亭に在る水琴窟。
綺麗な音色が聞こえます。 -
水琴窟の構造はこんな風になっています。
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元は高鍋城内に在った、八幡宮・白山宮・天神宮・財部大明神・竜宮の五社が明治4年に合祀。旧城名をとり舞鶴神社としたもの。
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高鍋城は9世紀に土持氏が築城し、16世紀から明治維新まで秋月氏が居城としました。
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寒山拾得石仏が公園の一角にあります。
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パンフレットより引用
中国民間信仰の道教神と考えられ、町民から願い事が良くかなうといわれて供花が絶えない。 -
石像のいわれが記載されています。
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資料館とその周囲を散策した後、黒水家住宅に向かいます。
黒水家は高鍋藩の兵法家としての家柄で、家老職を務めた家でこの住宅は家老屋敷と呼ばれているそうです。 -
住宅の周囲の石組みの水路には鯉が泳いでます。
確か知覧の武家屋敷の周りでも、同じような光景を見た記憶があります。 -
それでは屋敷の中に入って見ましょう。
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入って直ぐ左の受付の有るこの建物は籾蔵(もみぐら)です。
この建物は、藩政時代に藩の籾蔵として城内に在ったものを明治初期に譲り受けてここに移築したものです。
西南戦争時のいわれが説明板に記載されてます。 -
右手の主屋(おもや)に入ってみましょう。
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主屋は文化文政年間(1804~1830)の建築と推定され、上級武家屋敷の遺構としては貴重。
以上、パンフレットより抜粋。 -
10畳の控えの間から右手に8畳の次の間が続き、その右奥に上の間が在ります。左手は納戸。
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上の間は、本格的な床、書院を付けた風格のある部屋になっています。
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上の間に掛かっている掛け軸の写しとその大意が説明されています。
掛け軸の文字はなかなか読みづらく、意味も分からない事が殆どなので嬉しい配慮ですね。 -
その掛け軸です。
書道は分からないので、書かれている字の良し悪しは分かりません。 -
主屋の前の庭を眺めながら納戸の方に行って見ましょう。
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納戸には紋付き袴や馬具など、代々伝わる品々が展示されていました。
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主屋の台所の所から撮影。
台所は主屋の一部になっていますが元は別棟になっていて、主屋とつながっていたらしいですね。 -
黒水家住宅を見終えて、昼の食事に向かう事にしました。
昼食はこちら。
うろ覚えですが、三種類のおかずをご飯にかけて食べる料理だったと思います。 -
こんな感じでおかずを載せてご飯を頂いてます。 -
神話の国宮崎の雰囲気を感じられて満足の旅が出来ました。
羽田に到着後、車でお台場辺りの観覧車を横目に見ながら帰路につきました。
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