2016/11/01 - 2016/11/01
167位(同エリア248件中)
ジバゴさん
柏崎 木村茶道美術館 2016年11月
第一展示室 後期 志野・織部・黄瀬戸展を観る
桃山時代の秀品から現代作家の作品まで全29点が展観されていた。
この中からお茶席で実際に使われた物もあります。
- 旅行の満足度
- 5.0
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1、志野草花文猪口 銘 野路
真白な釉の下から黒々とスミレなどの春草が画かれ、春の野路を思わせるところから野路と云う銘が付いてます。
桃山志野の秀品であると林家晴三先生からお墨付きをいただきました。
(木村茶道美術館 展示パンフレット依り 以下同じ) -
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2、志野四方火入 銘 花の宿 小堀宗明 箱書
天正時代、美濃大萱の産と小山冨士夫が鑑定しています。もとは深向付、火色は無くまさに白き志野です。 -
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3、志野松島文鉢 桃山時代 16世紀
美濃の大きな穴窯で焼かれた桃山志野です。 ゆっくりと溶けた長石釉が初雪を思わせるような白となってます。 又、松の絵ものびのびと自由に描かれ、時代のエネルギーを感じることができます。 箱に「美濃大平窯」と小山冨士夫が書いてます。 -
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4、志野のぞき角皿
形は片口の形をしており、笠をかぶった閑人が中をのぞき込んでいます。
(画像は別途茶席編にupしてます) -
5、古志野猪口 江戸時代 17世紀
これも元は珍味を入れる小さな深向付でしたが、白い肌に現れた火色が人々を魅了してきました。 -
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6、練上志野水指 江戸時代 17世紀
異なった色の二つの土を練り合わせて適度の縞模様を現し、その上に志野釉(長石単味)を掛け焼成したもので、今の岐阜県土岐市五斗蒔あたりの古窯で多く産しました。 -
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7、志野織部茶碗 加藤唐九郎 作 昭和15年作
昭和5年荒川豊蔵によりベールを脱がされた桃山志野再現に心血を注いだ頃の唐九郎42才頃の作品です。 後年の唐九郎志野とはひと味違う桃山志野再現と云う思いで作られた習作です。 -
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8、絵野茶碗 銘岩清水 岡部嶺男作 大正8年(1894)~平成2年(1990) 72才歿
加藤唐九郎の長男ですが、父と意見が合わず加藤の姓を捨てました。志野・青磁にその才を現し、この茶碗は松永耳庵が岩清水の銘を付けています。ちなみに唐九郎が自己最高の出来と評した志野茶碗にも、耳庵は岩清水と銘を付けていますら岡部の代表的な志野茶碗と云えます。 -
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9、絵志野茶碗 荒川豊蔵作 明治27年(1894)~昭和60年(1985). 92才歿
豊蔵は桃山志野を再現した立役者であり、志野・黄瀬戸.瀬戸黒が美濃で焼カれたと云う古窯を発 見し、その地で古式穴窯の再現により志野・瀬戸黒を焼く技術を認められ、人間国宝となりました。 (植木馨元理事長寄贈品) -
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10、絵志野茶碗 加藤卓男作 大正6年(1917)~平成17年(2005)、 89才歿
5代・加藤幸兵衛の長男。幸兵衛窯の絵師として窯を守りつつ、織部のルーツを探求しました。織部のグリー紬やデザインは、古代ペルシャにそのルーツありと見極め、そして古代ペルシャで焼かれたラスター彩にたどりつくのです。ペルシャ三彩・ラスター彩の技法により、人間国宝とな りました。 -
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11、鼠志野茶碗 若尾利貞作 1933年昭和8年10月15日に生まれました。
昭和45年に独立し、特に師にはつかず、独立独歩で作淘を続けています。作風は桃山茶陶に見られる武将風な豪放さが目立っています。この茶碗は昭和50年代の作で現在の作品より幾分小振りではありますが、その分使いやすいように思われます。 -
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12、鼠志野茶碗 安藤日出武作
昭和13年多治見市市ノ倉出身。磁器物を焼く窯家の3代目に生まれたが、加藤唐九郎に出会い桃山陶を志しました。効率の悪い穴窯を作り、じつくりと志野・黄瀬戸を焼いています。 -
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13、鼠志野茶碗 加藤春二作 明治25年(1892)~昭和54年(1979), 88才歿
美濃の胎土はモグサ土と呼ばれ粒子が粗く、ろくろをひいても粒子間に隙間があり熱が伝わりにくく軽い胎土であるが、瀬戸の胎土はそれと比べると粒子が細かいせいで幾分重さがある胎土であり、その分、器の厚みが美濃は志野と比べて薄くなっています。(高橋源治 初代理事長寄贈品) -
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14、織部鳥帽子鉢
やや中性炎で焼かれたせいか縁の発色が薄い。底部は赤く発色してしまいました。箱書は小山冨士夫氏が「桃山時代 美濃元屋敷」と書き付けています。 -
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15、織部四方皿 5客 北大路魯山人作
明治16年(1883)~昭和34年(1959)、77 才歿
この皿は5枚組で実際に食器として使われていたものと思われます。 -
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16、織部写蓋茶碗 弘入作 安政4年 (1857)~昭和7年(1932) 76才歿
弘入が活躍した明治の初期は茶碗の需要が極端に落ち込み、色々な道具を焼いたようです。 -
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17、黒織部茶碗 桃山時代末期 17世紀初期
16世紀末美濃に瀬戸黒茶碗が出現し、その後ゆがみの強い織部黒茶碗が出現し、さらに一部に絵を施した黒織部茶碗が出現する。黒織部は連房式の登り窯で焼かれたものと考えられているが、近年では一部穴窯でも焼成されたと考えられています。 -
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18、鳴海織部茶碗 銘満悦
尾張国鳴海(名古屋市緑区鳴海町)で焼いたものーで、薄手で緑色は軽やかで華やかな茶碗です。制作年代は不明。(新潟市石州流 鈴木五節子様寄贈品) -
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19、赫紬織部茶碗 山田和作 昭和29年(1954)生まれ。
常滑の人間国宝だった山田常山の甥 加藤唐九郎に影響を受けた赫紬は、作者のオリジナルカラーで、作者に云わせれば織部とは「何でも有りJ との裏使ってよごれない焼物作り を行っているとの事 でした。 -
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20、織部耳付振出
いかにも織部スタイルで形は歪ませながら、バランスを取り、片取っ手にして、振出の意味を主張しています。 -
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21、黄瀬戸大皿(瀬戸灰紬大皿)
時代は室町から桃山の頃の作で、黄瀬戸と云うジャンルがはっきりしない頃の作です。 -
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22、黄瀬戸砧形花入 加藤孝造作 昭和10年(1935)生まれ
黄瀬戸は元来、瀬戸地方で中国の青磁を写そうと焼成されたのが起こりと云われており、青磁紬を酸化炎で焼成した結果、青くならず黄がかった色(酸化第二鉄化)になったものを黄瀬戸と呼ぶようになり、作り始めました。この花入は匣鉢に入れず、直接炎に洗われる焼成方法により火前の面は灰が
かかり、マツト状の発色となっています。 -
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23、黄瀬戸茶碗 室町時代 15世紀
中国宋時代の天目茶碗の姿を思い浮かべさせる造形に灰釉を掛け酸化炎で焼き上げた結果、美しい黄色が発色しました。 これが還元炎であれば青磁茶碗となりました。 -
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24、黄瀬戸茶碗 加藤紗 作 昭和2年(1927)~平成13年(2O01)、 75才歿
生家は代々丈助を名乗った瀬戸の陶家。昭和36年日展に初入選。以後日展を中心に活躍しました。 -
25、黄瀬戸茶碗 曽我伯庵 作
大正11 年土岐市泉町定林寺生まれ。 茶陶(特に黄瀬戸が多い)の制作を中心に行っています。 -
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26、黄瀬戸六角ぐい呑
元は形物の小向付であったものが、その黄瀬戸紬の美しさから蓋を付け、薄茶器に転用されました
又、ぐい呑としても一級品であり飲み助垂誕の一品です。 -
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27、黄瀬戸盃 16~17 世紀
黄瀬戸釉は土灰類と珪長石の粉末を主原料とし、黄士などの含鉄分土石を加え 1230℃くらいの酸化炎で焼き上げると、紬薬中のごくわずかな鉄分が酸化第二鉄の赤錆色の薄い色、すなわち黄色く発色します。 -
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28、黄瀬戸一文字香合 明治時代
一文字香合は円筒を輪切りした形で薬籠蓋をもち、横から見た姿が「一」の字を思わせることからの名とされています。唐物の堆朱や青貝の香合から写した形とも云われています。 -
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29、黄瀬戸水瓶
小形の水柱。 黄瀬戸紬を掛ける前に銅紬で景色を作り 幾分温度を下げて焼く事により、やさしい軸調となっています。口と蓋受け部分の金継は当館唯一の中越沖地震の傷跡です。 -
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