2016/09/08 - 2016/09/09
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橘右近さん
今昔物語集本朝世俗部(巻第廿五)の第十三に前九年の役の事が書かれてゐる。内容は陸奥話記の要約と言つた感じである。書き出しはこんな感じ。
「今は昔、後冷泉院の御時に、六郡(※奥六郡のこと)の内に安倍賴良と云ふ者ありけり。其の父をば忠良となむ云ひける。父祖世々を相継ぎて夷の長なりけり。威勢大きにして、これに随はぬものなし。其の伴類廣くして、やうやく衣川の外に出づ。公事を勤めざる。代々の国司これを制すること能はず。」
出自が蝦夷かどうかまでは書かれてゐないが代々奥六郡に住み夷の長として認知されてゐたやうだ。勢力が強く安倍?良の父の頃には衣川を越えて勢力を延ばしてゐたやうで、衣川を超える前から「公事を勤めざる」状態であつたやうだ。「勤めざる」の「ざる」は打消しの助動詞「ず」の連体形なので、「勤めない」。「公事」はこの場合、租税・賦役などを指すと思はれる。租税などを納めなかつたのだろう。租税を納めないのでこれを国司が咎めても聞き入れることはなかつたのだらう。
さらに続けると「しかる間、永承のころ、国司藤原登任と云ふ人、多くの兵を発してこれを攻むといへども、賴良、諸の夷を以て防ぎ合ひ戦ふに、国司の兵討ち返されて死ぬる者多し。公、此の事を聞し召して、速かに?良を討ち奉るべき宣旨を下されぬ。源?義朝臣に仰せてこれを遣す。?義、鎮守府の将軍に任じて、太郎義家、次郎義綱、並びに多の兵を相具して、?良を討たむが爲に陸奥國に下りぬ。」
今昔物語集には登任が慾呆けして安倍氏を攻めたやうには書かれてゐない。寧ろ、公事を勤めない安倍氏に鉄槌を下さうとした正義感溢れる国司だつたのかもしれない。唯、結果は伴わなかつた。さて、かうして源?義が陸奥に下向した。
然し、源賴義が陸奥に下向するや否な「俄に天下大赦ありて、賴良免されぬれば、賴良、大きに喜びて名を?時と改む。亦且つは守の同名なる禁忌の故なり。」と上東門院(藤原彰子:藤原道長の長女)の病気平癒を願ひ大赦が発せられ、賴良は赦された。赦された?良は名を?良から「賴時」へ変へた。これは守と同音であることを禁忌したさうだ。安倍?時は源賴義を相当恐れてゐたのだらう。
さて、時は流れ源?義の陸奥守の任期切れ間近に「守、事を行はぬが爲に、鎮守府に入りて數十日ある間、?時、首を傾けて給仕すること限りなし。」と書かれてゐるので、最後のお勤めとして鎮守府のある胆沢城へ行つて、そこで安倍?時の歓待を受けた。胆沢では何も起こらず平穏に時が過ぎ去つたが、胆沢から多賀城への帰り道に事件が起こつた。今昔物語集を更に讀み進めよう。
「さて守、舘に返る道に、阿久利川の邊に野宿したるに、権守藤原説貞が子共光貞、元貞等が宿を射る。人馬少々射殺されぬ。これ誰が所為と知らず。」。阿久利川事件である。この時の藤原光貞の詞は安倍貞任を嵌める氣満々で、少々嫌らしい。「先年に賴時が男貞任、光貞が妹を妻にせむと云ひき。然るに貞任が家賎しければ用ゐざりつ。貞任深くこれを恥とす。これを推するに、定めて貞任が所為ならむ。此の外に更に他の敵なし。」。いや/\、こんなときにその程度の遺恨を晴らさんとはせんでせう。こんな話だと、賴義が貞任を嵌める気満々だつたと言つてゐるやうなもんだ。そして、恐らく賴義は嵌める氣満々だったのだらう。だから、態々任期切れ前に胆沢に行つたんだと思ふ。さて、この事件を聞いた安倍賴時は「人の世にある事は皆妻子の爲なり。貞任、我が子なり。棄てむ事有り難し。殺さるゝを見て我世にあるべからず。しかず、門を閉ぢて其の言を聞かざるに。いかに況むや、守、任既に満ちたり。上らむ日近し。其の心怒るとも、みづから来たり責めむ事能はじ。我亦防ぎ戦はむに足れり。汝戴くべからず。」と言つたさうだ。藤原光貞の詞に較べ遙かに潔い。
かうして、前九年の役は始まつた。
と言ふ訳で、前九年の役の戦ひの舞台を廻つてみたいと思ふ。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- ホテル
- 3.5
- グルメ
- 3.5
- 交通手段
- レンタカー 新幹線
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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衣川歴史ふれあい館
サンホテル衣川荘に隣接して「衣川歴史ふれあい館」と言ふ博物館がある。入館すると係りの人が叮嚀に前九年、後三年、そして頼朝奥州追討の歴史の概略を教へてくれる。こちらでは衣川の安倍氏伝承地の地図も配布してゐるので、衣川の安倍氏伝承地散策をするならいの一番で訪れることをお勧めします。歴史ふれあい館 美術館・博物館
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史蹟安倍舘址
まづは現地の案内板から引用します。
「高さ三十丈(30m)の丘で、その構造は、東に向かって凹字形となり階段上になっている。東南北の三面は衣川(南股川と北股川の二つがこの舘の下で合流する)で、西は山岳が蜿蜒と続く頗る要害の地である。これは安倍氏累代の居城であって、その地勢から舞鶴舘、落合舘ともいわれている。
-中略-安倍?時の祖父忠?は俘囚の長となり、父忠良は陸奥の大掾となったが、その忠?の代から八十余年間、この舘に住んだと伝えられている。また南股川を隔てて八幡神社があり源頼義が夷賊平定を祈願したと伝えられ、また安倍舘が攻撃された時、頼義軍の陣地が設けられた場所とも言われている。「衣川の古蹟」より」
安倍氏は衣川流域にいくつもの館を設けてゐたやうだ。伝承によると衣川の上流の北股川と南股川が合流する辺りに一つ(史跡安倍館跡)、和我叡登挙神社の近くにひとつ(館址)、館址から少し北に行つたところにあり櫻の名所となつてゐるところがひとつ(北館)、安倍館跡から少し北に行つたところにひとつ(古舘)と四つほどある。
史跡安倍館跡は、衣川関や柵がある場所から少し離れてをり、さらに北股川と南股川に囲まれた小高い丘の上に館があつたとされ、なるほど、守るに易く攻めるに難しと言ふ感じの場所である。館のある丘は堀切などで三つに分かれてゐるさうで、城があつたことは確かなやうだ。現地の案内板を讀むと、こちらは前九年の役を戦つた安倍賴良、貞任親子が普段住んでゐた譯ではなさそうである。賴良の祖父が築き父の代まで住んでゐたが、賴良は衣川の関に近いところに館を建ててそこに普段はゐたやうだ。賴良は勢力域を奥六郡より南へ伸ばさうとしてゐたから館を遷したのか。
現在は、民家の脇を通り山中に入るといちわう歩道がある。荒れ果ててしまつてゐるが歩けなくはない。館があつたと思はれる址には、どう言ふ趣旨で建てたのか不明な黒い櫓があつた。建てた頃は周辺の木々を刈つて眺めをよくしてゐたのかな。今は荒れ果て草が蔽ひ茂り視界を遮つてゐる。
なほ、吾妻鑑の文治五年九月七日の條に頼朝が安倍氏の遺蹟を訪ねて廻つたと書かれてゐる。「二品、安部頼時(本名頼義<原文ママ>なり)の衣河の遺跡を歴覧し給ふ。郭土空しく残り、秋草数十町を鎖す。礎石何に在り、旧苔百余年を埋む。頼時国郡を掠領するの昔、この所を点じ家屋を構ふ。」と書いてある。一瞬、館址かと思つたのだが、「郭土空しく残り、秋草数十町を鎖す。礎石何に在り、旧苔百余年を埋む。」と書いてをり、こゝだとすると峻厳な地形に触れるだらうと思はれるのでどこか違ふところを指してゐるのだらう。安倍館跡 名所・史跡
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磐神社
日本武尊と稲葉姫命をお祀りしてゐるお社。創建の頃は不明だが、延喜式に奥州一百座の内胆沢七座として載つてゐるさうだから相当古いお社であることは確かである。ご神体として大きな磐があり、これは荒脛巾神が宿る磐だとか言はれてゐる。安倍氏の館の伝承地から見て至近距離に鎮座してをり、安倍氏は荒脛巾神を篤く崇敬してゐたと言はれてゐる。また、近くに鎮座してゐる「女石神社」の本殿の裏にも磐があり、この磐と当社の磐が男女で対になつてゐると言はれてゐる。
当社は社殿は設けない習はしであつたさうだが、明治に入り氏子の強い要望による寄付金で拝殿が建築されたとのこと。丹内山神社の胎内石よりは多少小さいかなと思つたりもしたが、両社の巨石とも、神々しさを感じる巨石であつた。 -
女石神社
松山寺の境内に鎮座してをり、昨日投稿した磐神社と對になつてゐるさうだ。橘右が集められた情報が不足してゐるので、間違つてゐるかもしれないが、創建の頃は不明で、祭神は磐神社と同じで日本武尊と稲葉姫命だと思はれる。こちらのお社も本殿の裏手に磐があり、この磐は荒脛巾神が宿る磐とされてゐる。磐神社と共に安倍氏の本拠のあつた館の址の傍に鎮座してゐる。安倍氏が隆盛を誇つた頃は神事も頻繁に行はれ盛んであつたと思はれるが、今は、松山寺の境内にひつそりと鎮座してゐる。 -
和我叡登挙神社
難しい字が並んでをりますが、「わがゑとの」神社と読みます。三峯神社の社殿の脇の参道を上がり、三峯神社の鎮座してゐる山の山頂に鎮座してゐる。山頂には月山神社と言ふ山形県にある月山の山頂に鎮座する月山神社を恐らく勧請したお社が鎮座してをり、そのお社の前に玉垣を囲まれた磐座が鎮座してゐる。こちらの磐座が和我叡登挙神社で、この磐座も荒脛巾神が宿るご神体だとされてゐる。社殿はない。
衣川の伝承によると当社が鎮座してゐる付近に、衣川関、衣川柵、小松館、業近の館、貞任の館など安倍氏の重要な防禦拠点がある。当社は阿倍氏にとつて非常に重要なお社だつたと思はれる。
月山神社について、現地には案内板等なかつたので、奥州市の衣川伝承地を案内してゐる公式サイトから少々引用させ戴くと「850年(嘉祥3年)和我叡登挙神社の地に慈覚大師によって月山権現社が勧請されたのが始まりとされています。1105年(長治2年)藤原清衡が堀河・鳥羽両帝の勅を奉じ、中尊寺奥院として大いに栄えたと伝えられています。また、月山は女人禁制とされています。」と書かれてをり、この山の山頂には和我叡登挙神社の磐座のみ鎮座してゐたが、後になり慈覚大師が月読命をお祀りする為に月山権現社を創建したやうだ。嘉祥三年と言ふことは前九年の役が発生するよりもはるかに前。当社が先で安倍氏が後と言ふことか。
麓の三峯神社は、安倍氏が深く崇敬した当社と荒脛巾神を封じ込める為に奥秩父に鎮座する三峯神社を勧請したともされる。三峰神社の境内にあつたご由緒を引用すると「享保元年三月埼玉県秩父郡大滝村大字三峯字上倉、三峰神社ノ分霊勧請。社伝元、源頼義、義家安部一族征討ノ時前九後三年ノ難戦苦闘ニ際会シ往古日本武尊東夷ヲ征討シ給フ時武州三峰山ニ登リ給ヒ古昔伊弉諾尊伊弉冉尊天ノ浮橋ノ上ニ立セ給ヒ天ノ逆鉾ヲ以テ豊葦原ノ国を平ケ得給ヒシ神威ノ徳功ヲ仰イデ諾冉二尊ヲ奉祀シ夷賊鎮撫の大業ヲ成就シ給フノ故事ニ習ヒ、頼義、義家陣中常ニ諾冉二尊ヲ奉祀シ、夷賊鎮撫ノ祈願ヲ為シ夷賊平定の後祠ヲ立テ、以テ報賽セリト云フ。平後享保元年三月改メテ三峯神社ノ御分霊ヲ勧請セルナリ。」と書かれてゐる。享保元年とは一七一六年である。頼義義家が祠を建ててから随分と経つて後に秩父に鎮座する三峯神社から分霊された。それはさておき、このご由緒を読むと和我叡登挙神社を封じる為に三峯神社を勧請したと言ふことにならう。
安倍氏が篤く信仰してゐた荒脛巾神をお祀りするお社が、安倍氏滅亡後に源家により封されたが、安倍氏の後継奥州藤原氏が封印を解くのではなく鎮魂する為に中尊寺の奥院となし、時が経ちどう言ふ理由かは解らないが何か厄災があつたのだらうか、麓の三峯神社の神徳を得る為に正式に願ひ出て分霊を戴いたと言ふ歴史を持つてゐる。
和我叡登挙神社、月山神社、三峯神社、ともに奥六郡で起きた不幸の爪痕が色濃く残るお社であつた。 -
旗鉾神社(渕端諏訪大明神社)
建南方命をお祀りしてゐるお社で、嘉祥年間(八四六~五一)に慈覚大師が、川底が光明と輝くのに驚きその岸辺に祠を建てて渕端諏訪大明神と称し建南方命をお祀りしたことに始まる。その後、安倍頼良が旗や鉾祀り鎮護とした。これにより旗鉾神社とも呼ばれる。泉三郎忠衡(藤原秀衡三男)が再興し自分の守り本尊である魚藍観音を配祀したと伝へられてゐる。公開されてゐないで訪れることは出来ないが當社の付近に忠衡の舘があつたとされる「泉ヶ城」があるさうだ。
屋根が立派な社殿である。境内は清潔に保たれてゐる。境内に社務所はないので、この付近の方が大切にしてゐるのだらう。かう言ふ小さいながらも近隣の方に大切にされてゐることが解るやうなお社は近年少なくなりつゝあると思ふ。残念なことである。 -
舘址
文献で顕れる安倍氏の居館は、衣川館、衣川柵、小松柵(陸奥話記は”柵”、今昔物語は”館”)、鳥海柵、藤原業親の柵、大麻生野及び瀬原の二柵、和我郡黒沢尻の柵、鶴脛、比与鳥の二柵などがある。こゝについては衣川館なのだらうか。現地案内板を引用したいと思ふ。
「ここは単に舘と称されているが安倍頼時とその子貞任の居館跡と伝えれている。安倍氏は頼時の祖父忠頼の頃から上衣川の安倍舘を本拠としたが、父忠良を経て頼良(後の頼時)の代にこの地に本拠を移したという。南北に通じる主要道も館の東側を通し、それに伴う衣河関は館の東南にあたる「一丸の泥を以って封ぜば誰か敢えて破る者ある有らんや」の地とした。この地に移転した年代は明らかではないが、遅くとも永承元年(一〇四五)には完了していたものと考えられる。康平五年(一〇六二)九月、貞任がこの地を撤退するまで短期間ながら「前九年の役」の中心舞台となった。」
現地の案内板を読む限りでは、陸奥話記等に書かれた安倍頼良の居館のやうに思はれる。因みに、NHKの大河「炎立つ」に出て来る貞任の館はこゝを想定した設定なのかもしれない。NHKだけに時代考証などが確りしてゐるので、ドラマの設定に衣川の伝承地を参考したのは想像に難くない。
現在は、ご覧のとほり辻に案内板と折れて立て掛けてある標柱があるのみで、煌びやかであつただらう衣川館の後を偲ぶことは出来ない。 -
並木屋敷
衣川柵に造られた安倍氏累代の居館とのこと。西に八千坂、月山の天険を控へ、南に衣川の関の固めがある堅牢な柵であつたとのこと。柵外に櫻数千株を並木の如く植ゑ並べたことから里人が並木屋敷と呼んでゐたとされる。この並木館の近くには小松柵や北館、業近の柵、成道館跡など安倍氏関連の防禦の為の館や柵が並んでゐるので、この辺りが安倍氏の重要な防禦ラインだつたのだらう。
なほ、現地の案内板を読むと安倍氏は並木屋敷のあつた場所に柵を設ける必然性があまりなかつたやうで、寧ろ清原氏の柵ではなからうかとなつてゐた。 -
楯代舘址
こちらは、安倍貞任の弟重任の居館址だとの伝承があるさうで、この辺りの地名は「舘城」と言ふ。現在は下の寫眞のやうに田圃の拡がる田園風景であるが地名がその痕跡を留めてゐると言ふのはなんとも感傷的である。陸奥話記には源頼義が貞任、經清、重任の頸を都に送つたと記してをり、重任は、貞任、宗任に次ぐ人物であつたのだらう。
陸奥話記から少々。「同六年二月十六日、貞任、経清、重任の首三級を獻ず。京都は壮観となす。車は轂を撃ち、人 は肩を摩りぬ。これ先づ、首を獻じたる使者は、貞任が従者の降人なり。櫛無き由を称して、使者が曰く、「汝ら、私用の櫛有やあらん。それを以てこれを梳るべし」と。擔夫、すなはち櫛を出し、これを梳る。涙を垂 して、鳴咽して曰く、「吾が主、存生の時、これを仰くこと高天の如し。豈に圖らんや、吾が垢の櫛を以て、恭くも、その髪を梳ること、悲哀に忽びず」と。衆人は、皆涙を落しぬ。擔夫と雖も、忠義は人をして感しむに足ればなり。 」
貞任の従者の悲しい胸中が偲ばれる。 -
琵琶館址
並木館址のすぐ近くにあり、この辺りの地形が琵琶のやうな形だつたことから、「琵琶館」と言はれてゐたやうだ。現在は琵琶の形を確認できるやうな地形になつてゐないので、この辺りは治水でもして地形が変化したのか開墾して地形が変つたのかもしれない。下の写真の通り標柱に「琵琶館(成道)址」書かれてゐたが、奥州市の衣川伝承地案内のサイトの写真はこゝとは違ひ安倍館址付近が写つてゐる。さういへば、安倍館址の付近に小さな板碑のやうな供養塔が幾つも並ぶ場所があつた。もしかしたらそこが琵琶館なのだらうか。衣川地区には、かやうな供養塔が道端などに多く並んでゐる。安倍氏と安倍氏に随つた領民を弔ふ為に建立されたのだらうか。ちなみに成道とは、吾妻鑑によると安倍貞任の後見人だつたと書かれてゐる人物。
また、現地に案内がある琵琶館址の対岸に秀衡の三男泉三郎忠衡の居城である「泉が城」があつたさうだ。現在は、田圃になつて目印となる物がなく、観光用に開かれてもゐないのでどのあたりかよく解らないと言ふか、現在は見ることが出来ない。 -
小松舘址
こちらは、小松柵だと思つて現地に行つたのだが、行つてみたら小松”柵”ではなくて、小松”館”であつた。 まづ、小松柵から。陸奥話記には「則ち松山道に次ぎて、南磐井郡中山の大風澤に赴く。翌日、同郡の萩の馬場に到る。小松の柵を去ること五町有余なり。件の柵は、これ宗任の叔父、僧良昭の柵なり。」と言ふことで小松柵には安倍頼良の弟で僧籍にあつた良照が詰めてゐた。また、陸奥話記には「件の柵の東南は、深流の碧潭を帯び、西北は壁立の青巖を負ふ。歩騎共に泥む。」とされてをり、柵の東南は崖、反対側は人馬ともに立ち往生する泥沼が拡がる護るに易く、攻めるに難い防禦能力の高い柵であつたことが伺へる。「柵の下を斬壊して、城内に乱入し、刀を合はせて攻撃す。」と陸奥話記が記してゐるので、官軍は、柵の下を掘り穴を空けて、そこから侵入したのだらう。小松柵に居た安倍軍は突如侵入してきた官軍に驚き「城中攪乱し、賊衆は潰敗す。宗任八百余騎を将て、城外に攻戦す。前陣、頗る疲れて、これを敗ること能はず。」と陸奥話記は記してゐる。安倍宗任は柵を捨てて官軍に襲ひかゝつてきたやうで、その勢強く官軍はこれを討ち破ることはできなかつた。然し、官軍はすぐさま態勢を立て直し、つひには宗任軍を破り、小松柵に火を放ち陥落させた。 さて、当地に話を戻すと、当地の現地案内板を引用すると「康平五年(一〇六二)八月、磐井の小松柵において源頼義と清原武則の連合軍を迎え撃った安倍貞任の叔父照良の居館であったと伝えられる。東側は衣川が南流して断崖になっており、西側及び南側は小成沢(東北自動車道の建設のため側道として埋められた)の崖に囲まれ、北舘から続く台地の突端部で、東西六〇M南北一六〇Mある。門跡は北部にあったが自動車道の工事で破壊された。安倍氏の滅亡後は荒廃していたが、貞治五年(一三六六)葛西氏の家臣、破石氏がここに館を建てて住み、天正十八年(一五九〇)葛西氏と共に滅亡するまでこの地を支配していたという。」と書いてあり、こちらは柵ではなくて館跡だつた。 -
北舘遺蹟
舘址の北側に位置する舘の址。東北自動車道を建設するにあたり、当地を発掘調査したところ、平安時代の住居跡とされて来た遺蹟は近世の建物、竈、井戸などの址だつた事が解つたさうだ。但し、こゝは縄文時代中期の遺物、遺構や石器、土器が出土したさうで、古来より衣川の恵みを受けて人々が生活を営んで来たやうである。
現在は、いつの頃に植ゑられたのだらうかな、見事な枝ぶりの櫻の木がある。名を「北舘櫻」と言ふ。 -
長者ヶ原廃寺址
曾ては「金売吉次」の館の址と言はれてゐたさうだが、発掘調査の結果、お寺の址だと言ふことと、凡そ安倍氏が隆盛を極めた頃の建物の址だと言ふことが解つたさうで、現在では「長者ヶ原廃寺址」と呼ばれてゐる。並木館址や小松館等の北側に位置してをり、近くには渡船場址や市場の址があることから、この廃寺址がある辺りは安倍氏の経済の中心地だつたのかもしれない。昭和三三年の二回発掘調査され、西門土塁跡、南門跡、本堂跡、西方塔跡が確認されたさうだ。本堂址などが確認されたことから、吉次の屋敷址ではなくてお寺の址だと言ふことが解つた。仏教への帰依と言へば奥州藤原氏からと言ふ風な印象を持ちがちであるが、実際は安倍氏の頃から衣川は仏教が盛んであつたやうだ。
現地に置いてあるパンフレットには、吾妻鏡の文治五年九月七日の條に書かれてある頼朝の衣川遺蹟散策の地はこの長者ヶ原廢寺址だつたと書いてあつた。「郭土空しく残り、秋草数十町を鎖す。礎石何に在り、旧苔百余年を埋む。」。現在でもこの文のやうな景色が広がつてゐる。 -
渡船場址
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向舘址
奥州市の衣川伝承地案内を記した公式サイトから引用させて頂きますと、「安倍一族の居館の1つとされ、頼時に背いた富忠が居住したといわれています。また袈裟御前の母 衣川殿の居所であったとの説もあります。 ※袈裟御前・・・北面武士(上皇に仕え、院の北面下臈(げろう)に詰め、身辺の警衛あるいは御幸に供奉した武士のこと)である渡辺亘の妻」とある。袈裟御前は、平家物語に出てくるとも言はれるが、橘右の持つてゐる平家物語には載つてゐないので詳しくはないのですが、上西門院(統子内親王)に仕へた北面武士の遠藤盛遠に殺害されてしまつたさうだ。遠藤盛遠は、渡辺渡の妻である袈裟御前に横恋慕して誤つて殺害したさうだが、この事を非常に悔み十九歳で出家した。出家後の名は「文覚」。文覚と言へば、さうです、源頼朝の挙兵に大きな影響を齎した人物です。こゝでも、源家と安倍氏の因縁めいたものを感じずにはゐられない。
また、富忠とは安倍頼良の従弟で源頼義の甘言に乗つて安倍本家に弓ひき、安倍頼良を殺害した人物。この向舘は、なんとも安倍氏にとつて不吉な繋がりがある場所のやうだ。 -
八日市場址
向舘と書かれた標柱のすぐそばに「八日市場址」と書かれた標柱がある。この辺りは館址や何かしらの建物があつたと思はれる北舘、長者ヶ原廢寺址などの建物が並ぶ場所であり、その場所に市場があつたのだらう。 -
陣場
陸奥話記などのどの部分が該当するのか良く解らないが、こゝに安倍軍が布陣し源家を散々に打ち負かしたとされる伝承地である。
現地の案内板には「延暦八年(七八九)紀古佐美の征夷にあたり衣川に三ヵ所の営が設けられたがその内の東端の営跡と伝えられる。ここを基地として北上川を越えて北上した征夷軍は惨敗したと続日本紀に記されている。前九年の役における衣川での戦いは天喜五年(一〇五七)と康平五年(一〇六二)の二回行われたが、そのうち天喜五年の戦いでは源氏軍の主力は北上川東岸から川を越えて攻めてきた。その攻撃をここに布陣した安倍軍が迎え撃ち、大きな打撃を与えたと伝えれる。更に伊達氏支配の時代には明暦二年(一六五六)に組織された下衣川足軽組の砲術練習場となり鉄炮場と称された」と書かれてゐる。
現在は、地名を陣場と言ひ、このちに「サンホテル衣川荘」と言ふ国民宿舎が建つてゐる。少し高台で、こゝから昨日の「瀬原古戦場」址までは坂を駆け下りてすぐである。高台の裏側に潜み、機が熟した時に一気に坂を駆け下り、源氏勢に大きな損害を与へたと言ふのは納得できる地形であつた。国民宿舎 サンホテル衣川荘 宿・ホテル
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瀬原古戰場址
この辺りで前九年の役の中で戦闘があつたさうだが、橘右が入手し得た文献には載つてゐないので、現地の案内板から引用したいと思ひます。
「永承六年(一〇五一)に安倍氏の討伐が命じられてから康平五年(一〇六二)厨川柵で安倍氏が滅亡するまでの十二年間の戦いを「前九年の役」というが、その戦いにあたっての安倍軍の本陣は北は鵜ノ木の稜線、南は毛越寺の稜線の間の衣川の全域であった。天喜五年(一〇五七)九月、安倍軍はこの本陣に源氏軍を誘い込む作戦をとる。その作戦にのせられ源氏軍の主力は北上川の東岸長島から渡河して衣川に攻め込む。その時陣場山に密かに待機した安倍軍が、源氏軍を充分に引き寄せてから攻撃を加えて大損害を与えると共に、その退路を遮断したと伝えられる古戦場である。」
現在は田圃拡がる田園風景の一角に案内板があるだけで、古戦場の雰囲気は感じられない。 -
衣河關址
直地ともたのまざらなむ身に近き 衣の關もありといふなり(讀人しらず:後撰1160雜哥貮)
衣河関は陸奥話記等の登場し、安倍氏の所領を護る強固な柵と言ふ感じの場所である。陸奥話記の初出は阿久利川事件の後に、安倍頼良が源頼義に頼良の子貞任の首を差し出せと難問を突き付けた時に、一族に向かひ叛旗を翻すと宣言した時に出てくる。
「人倫世に在るは、皆妻子のためなり。貞任愚かといへども、父子の愛、棄忘する こと能はず。一旦、誅に伏さば、吾何をか忍ばんや。関を閉ざし、来攻を甘んじて聴かざるにしかず。況や吾が衆もまた、これを拒み戦ふに足りず。未だ以て憂 ひと為さず。たとへ戦さ、利あらずとも、吾が儕死また可ならずや」と。その左右の皆曰く、「公の言、是なり。請ふ、一丸泥を以て衣川の関を封ぜば、誰か敢 へて破る者有らんや」と。 」と言ふ事で安倍氏は衣河の関に絶対的な自信があつたことが伺へる。
因みに、同年代の人々は安倍頼良が私心を催し我が國に叛旗を翻したと言ふ風には感じてゐなかつたやうにも感じられる。と言ふのは、陸奥話記や今昔物語に明言されてはゐないが、源頼義が私心を起して安倍頼良を追ひ詰めたやうにもとれる書きぶりだと思ふからだ。又、今昔物語に安倍宗任が乱後に筑紫に流された時に語つた話として、陸奥の奥に住む蝦夷が安倍頼良を唆して源頼義と事を構へさせたが、頼良は、本朝に叛旗を翻したものは過去にゐるがいづれも滅ぼされてゐるのでひどく後悔し、陸奥の奥へ一族を引き連れ船で旅をしたが、人が住めるやうな処が見つからず漂流、食料が心もとなくなつたので、再び奥六郡へ戻つて来たと言ふ事が書かれてゐる。
「件の関は隘路にして嶮岨なり。崤函の固めは一人嶮を拒めば万夫も進む能わず。」と陸奥話記に記された衣河関は現在、月山神社の鎮座する山と衣川と東北自動車道に囲まれた処に案内板が建つのみであり、遺構等を確認することは出来なくなつてゐる。而も、高速道路を通る車の排気音であまり気分の出ないなんとも言へない感じになつてしまつてゐる。これでは往年はどうだつたんだらうかと想像することも車の音がうるさくてうまく出来ない。衣川関 名所・史跡
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八幡神社
応神天皇をお祀りするお社で、創建は、延暦二〇年(八〇一年)、坂上田村麿が勅命により八幡大神を祀つたことが始まりとされる。當社の裏山は八幡神社が鎮座してゐることから「八幡山」と呼ばれてゐる。この辺りの地名は「旧殿」と言ふ。これは、當社が村内で最も古く造られた社殿と言ふことに由来するさうだ。
八幡山は、史跡安倍舘址の南に位置し、南股川を挟んで対岸の開けた場所である。境内から安倍舘のある山が見える。さう言ふ地理なので、源氏が陣を置き、旧殿の平地で激戦をくりひろげたと伝へられてゐる。 -
舊古殿古戰場址
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古舘(安倍新城)址
衣川に残された伝承によると安倍貞任が築いた城だとされる。伝承によると居住したかどうか定かではないやうで、源家の備への為に築かれたのかもしれない。衣川柵が破れこゝで官兵を防ぐが成らず、遂に一首坂を上つて北に逃れ去つたとされる。 -
古戸古戰場址
史跡安倍舘址、古舘の北側に位置し、この北側に貞任が厨川に逃れる時に通つた一首坂があり、安倍舘址と一首坂の中間点くらゐの場所である。現地の案内板によると、「この古戸地区は延暦八年(七八九)紀古佐美の征夷にあたり、衣川に三ヵ所の營が設けられたが、その中央の營址であったと伝えられ、また前九年の役においては天喜五年(一〇五七)と康平五年(一〇六二)の二度にわたる古戦場であったという。天喜五年の方は、安倍軍が故意に衣川本陣内に源氏軍を誘い込んだ際の最も奥深い処の戦であり、康平五年の方は、安倍軍が本拠としていた川西・川東地区を放棄し、此処の安倍新城(古舘)に立ち寄った後、一首坂を経て北に逃れる際の戦である。前者では南に逃れる源氏軍を安倍軍は深追いせず、反対に後者では北に逃れる安倍軍を源氏軍が深追いしなかったと伝えられる。」とのことで、阿弖流為の時代に紀古佐美が陣を置いたり、前九年で二回戦闘があつたなにかと騒がしい場所のやうだ。 -
一首坂
年を経し糸の乱れの苦しさに(貞任) 衣の縦(= 舘)は綻びにけり(義家)
この有名な歌の舞台となつたのがこちら。名を一首坂と言ふ。古今著聞集に載つてゐる説話で、安倍貞任が崖と川のある館と言ふので現在で言ふ処の安倍館址だと思はれるが、そこから厨川へ落ち延びようとした時に偶然と言ふか貞任的には不運にも源義家と遭遇、義家が下の句を投げかけると即座に貞任が上の句を返したことから、義家が粋に感じて貞任を追ふのを止めたと言ふお話です。 現在、この説話はほんたうな話か疑問を持たれてゐるやうですが、古来からまあ信じられて来て、その舞台も比定されてをります。まあ、実話かどうかはこの際抜きにして、義家、貞任、両名とも男気があつて清々しい話だと思ふ。
余談ですが、NHK大河「炎立つ」のこの場面は、全く不満。落ち延びる貞任に義家が出くはすのは良い。義家が貞任を呼び止めるのも良い。そこで、にらみ合ひが発生し物々しくなるのも良い。そこまではまあ良い。が、その後、なぜ、この歌の応酬をやらなかつたのか?義家が「衣の館はほころびにけり」と言ふと、貞任が「なんぢやと(怒)」と怒鳴るのは戴けない。やはり、今昔著聞集のやうにあらねば様にならない。折角の男と男の器量較べの名場面である。これぢや貞任の器量がいまいちに見える。これを生かしたはうがドラマとしてもよかつたんぢやないかと残念な気がした。一首坂 名所・史跡
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白鳥館遺蹟
陸奥話記に「關を破りて膽澤郡白鳥村に致る。大麻生野及び瀬原の二柵を攻めてこれを抜き、生虜の一人を得て、 申して云く「度々の合戦の場に、賊師の死者は數十人なり。所謂散位平孝忠、金師道、安倍時任、同貞行、金依方等なり。皆これ貞任、宗任の一族なり。驍勇驃駻の精兵なり」云々と」とある。引用部の関は衣河関である。清原氏の参戦を受けた安倍氏は各地で敗戦を重ね、衣川流域に築いた柵だけでなく、こゝ白鳥館まで侵入を許したと思はれる。
白鳥館は中尊寺や柳之御所の北側。安倍氏が築いた衣川の夫々の柵の西側に位置する。北上川の蛇行部分に築かれた攻めづらさうな地形である。なほ、後三年の役の発端となつた吉彦秀武の砂金ばら撒き事件後に、清原家衡、清衡は白鳥村を焼いた。この館は清原氏の時はなかつたのかな、館があれば館を焼いたと記されさうな感じなんだが。或いは館周辺の田畑を焼いたのだらうか。白鳥舘遺跡 名所・史跡
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鳥海柵址
陸奥話記によると、こゝには安倍宗任と藤原経清が詰めてゐたやうだ。衣川関が破られ、業近の守る柵、良照の守る小松柵、白鳥柵まで落ち、瀬原でも敗戦を重ねた安倍勢は本拠である安倍館などを抛棄して厨川へと北上した。その為、宗任と経清は貞任らと合流すべくこゝ鳥海柵を捨てたと言ふ事が陸奥話記に書かれてゐた。鳥海柵に入つた源頼義は「頃年、鳥海の柵の名を聞き、その體を見ること能はず。今日、卿(清原武則)の忠節によりて、初めてこれに入ること得たり。卿、予の顔色を見て如何」と意気揚々として訊ねた。長年の辛苦がにじみ出るやうな言葉だ。それに対して清原武則は「足下多く、宣しく王室の為に節を 立つべし。風に櫛り、雨に沐ひ、甲胄に蟻虱を生い、軍旅に苦しみて後、すでに十餘年。天地その忠を助け、軍士その志に感ず。こ れを以て賊衆の潰走は積水を決するが如し。愚臣は、鞭を擁して相従ひ、何の殊功有らんや。但し将軍の形容を見るに、白髪、半ば黒に返る。厨川の柵 を破り、貞任の首を得れば、鬢髪は悉く黒く、形容肥満せん」と言ふことを言つてゐる。如才が無い人物である。
こゝに詰めてゐた安倍宗任に関して少々。
わが国の梅の花とは見つれども 大宮人はいかがいふらむ
これは、降人なつた宗任に対して、宮中の人が夷は風流など知る由もないだらうと馬鹿にしようと思ひ、宗任に梅の花を差し出し名を問うたところ、上記の歌を詠んだとされる。平家物語などの載る有名な説話。先の一首坂の貞任と言ひ、梅花の宗任と言ひ、夷、俘囚などと同時代の人に言はれてゐたやうだが、大宮人と同等の教養を持ち合はせてゐた。
余談ですが、安倍晋三氏は安倍宗任を曩祖だと公言したことがあるさうだ。えつ、宗任は本朝に弓引く謀叛人だつたのですが。 -
九輪塔址
衣川みなれし人の別れには 袂までこそ浪は立ちけれ(源重之:新古今865離別哥)
言ひ伝へによると、藤原清衡が祖父の安倍頼良の菩提を弔ふために建立した墓とのこと。昔は九輪の塔があつたが、現在はその址が残るのみとなつてゐる。この址には小さな供養塔が数多く建つてゐる。九輪塔が無くなつてしまつた後、地元の人が安倍氏の遺徳を偲んで供養塔を建てたのだらうか。この辺りに居た方々からしたら、自分たちの住んでゐるところに源氏が土足で踏み込んだやうなものだから、官軍とか賊軍とか関係なしに、自然と安倍氏を贔屓にしたくなる気も解るやうな気がする。そんな事をふと思ふ史跡であつた。 -
厨川柵址(天昌寺)
「件の柵、西北は大澤を、二面は河を阻てる。河岸は、三丈有餘の壁が立ちて途なし。その内に柵を築きて、自ら固む。柵の上に樓櫓を構へ、こゝに鋭卒を居く。河と柵の間に、また隍を堀り、隍の底に倒に刀を地上に立て、截刀を蒔く。遠き者は、弩を発し、これを射て、近き者は、石を投てこれを打つ。敵が柵の下に到れば、沸湯を建てて、これを沃ぎ、利刀を振いて、これを殺す。」
出羽の清原氏の参戦により源家に衣河関を割られた安倍氏の最後の砦となつた場所。上記の陸奥話記を讀むとその堅牢さがよく解る。厨川の柵が落ちたあとしばらく経つて後、工藤行光が頼朝よりこの地を与へられ安倍氏の舘があつたところに居城を構へたさうだ。この工藤氏は後年南部氏に属し、栗谷川と称した。
厨川の柵があつた頃、天照寺と言ふ柵内の祈願所があつたさうで、安倍氏が滅んだ後は、十二年にも及ぶ長い戦ひで亡くなつた人達の御霊を弔つてゐたとのこと。その後、頼朝奥州征伐にてその功を認められた工藤氏が厨川が拝領し、当地にやつて来てから天照寺を代々護つたと言はれてゐる。多少、荒廃した時期もあつたさうだが、いつの頃からか寺号を天昌寺となり今日まで続いてゐる。文政六年(一八二三年)に出火して当寺の由来を知る資料が殆ど焼失してしまつたさうで、詳しい縁起は不明とのこと。
さて厨川柵であるが、落城後、放置されたのだらうか、それとも難攻不落な造りであることから徹底的に破壊したのだらうか、伺ひ知ることは出来ないが、工藤氏が入城するまでの間に荒れ果ててしまつたのだらう。現在では、住宅が立ち並び遺構などを確認できなくなつてゐるが、この辺りの一部を発掘調査した時に柵があつたと思はれるが出て来たさうだ。ちなみにその遺構は埋め戻されたやうだ。その為、天昌寺の地形の高低差から厨川の柵を想像することでしか往年を偲ぶことは出来なくなつてゐる。厨川の柵跡 名所・史跡
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厨川八幡宮
厨川柵は、堅牢な砦であり、寄せ手は徒に損害を出すばかりで攻めあぐねてゐたやうだ。戦況の打開を狙ひ、将軍源頼義は動いた。陸奥話記はかう記す。
「十七日、未の時、将軍は士卒に命じて曰く、「各、村落に入りて、屋舎を壊して運び、この城の湟に填めよ。また人毎に萓草を苅りて、これを河岸に積めべし」と」。源頼義は、厨川柵の近隣の村落に押し入り、住居など屋舎を毀して、その木材などで厨川柵の堀を埋める作戦にでた。陸奥話記から更に引用すると「将軍は馬を下りて、皇城を遙拝し誓いて言く、「昔、漢徳、未だ衰へず、飛泉はたちまち校尉の節に應じ、今天の威これ新たなり。太風老臣の忠を助くべ し。伏して乞ふ。八幡三所は、風を出し、火を吹きて、彼の柵を焼きたまへ」と。」と記されてゐる。頼義は京を遥拝して厨川柵を埋めた木材等に火をつけるので、風が吹いて貞任を焼き尽くす劫火となるやうに、石清水八幡宮のご祭神に祈りを捧げた。源頼義が、祈りを捧げた後に火を堀に投じた時、「鳩有りて軍陣の上 を翔る。将軍は再拝す。暴風たちまち起りて、煙炎が飛ぶ如し。」と陸奥話記は、八幡宮の神使の鳩が現れたと記してゐる。
八幡宮の神使が現れると言ふ奇瑞を得た官軍は、勢ひをまし厨川柵に襲ひかゝる。官軍の放つた火はやがて厨川柵の中に燃え移り、柵中が大混乱に陥る。中には、「甲を被て、 刀を振ひ圍みを突きて出ずる。必死にして生の心なし。官軍傷死する者多し。」と敵陣に切り込み大暴れするものも多く官軍に多くの損害で出たので、清原武則は「圍みを開きて賊衆を出ずべし」と指示する。これにより、囲みの開いた方へと雪崩を打つ賊軍は、敵陣で死すよりは囲みを抜けて生きる方に走り、その外で待つ官軍に横から討たれた。
現在、安倍舘遺蹟には、「厨川八幡宮」と言ふお社が鎮座してゐる。 -
安倍舘遺蹟(厨川)
安倍氏の終焉の地。
安倍舘となつてをりますが、実際は工藤氏の居城址のやうだ。工藤氏は頼朝の奥州征伐の後、当地を拝領し安倍舘址に居城を構へたとされる。現在、この辺りには堀の址がくつきりと残つてゐるが、これは安倍貞任が築いたものではなく、工藤氏の厨川城址と確認されてゐる。
工藤氏の厨川城址に安倍稲荷神社と貞任宗任神社と言ふ二つのお社が鎮座してゐる。創建など詳しく解らないが、地元の方の安倍氏に対する思ひが感じられるお社だと思つた。今回は時間の兼ね合ひで訪れることは叶はなかつたが、遠野では安倍貞任に関する伝承が沢山あるさうだ。いや、遠野だけでない、京都の京北町など北上盆地だけでなく色々な処で貞任の伝承地がある。安倍貞任は、本朝に弓を引いた謀叛人である。本朝に弓引く極悪人であるのだ。そして、平将門、藤原純友、平忠常を始め本朝に叛旗を翻したものは等しく滅ぶ運命にあり、安倍貞任もその定めに随つて滅ぼされた譯であるが、地元だけでなく京都や山口に墓所ある。地元の伝承はそれだけ地元の方々に慕はれてゐた証だと思ふが、京北町の貞任伝説は貞任が都人から恐れられたとも取れるが、なぜ、さやうな伝承が発生したのか気になる。貞任は厨川柵が落ちた後、源家勢に散々切りつけられ、動かなくなつた処を捕らへられ、楯に乗せられ源頼義の前に引き出され、頼義を一瞥して息を引き取つたと陸奥話記が記す。その後、首を落とされ眉間に五寸釘を打たれた首が京に運ばれる。随つて、京北町に骸をバラ/\にして埋められたと言ふのは史実に反してゐると思ふ。が、陸奥ではない丹波國桑田郡にさやうな伝承が殘るのは何故だらうか興味が尽きない。都人は抑々前九年役は源頼義の私慾で始まつた戰役でそれに巻き込まれ惡に仕立て上げられたのが安倍氏だと言ふ風に感じ取つてたが故に、貞任が不憫であり祟られると言ふ恐怖心を持つたのだらうか。
確かに夷や俘囚などは本朝の理論であり、逆に夷だ俘囚だと呼ばれ貶まれ、土足で生活の場を踏みこまれた方々からすれば、本朝は憎むべきでその本朝の侵掠に身を挺して抗つた安倍氏を慕ふのは良く分る。そりやそうだと思ふ。たゞ、貞任傳説を見るとそれだけではないやうな気がする。伝承を聞くにつけ、貞任は本当に領民を慈しんだ領主だつたやうに感ぜられる。良い奴だつたのかな。
安倍貞任。間違ひなく本朝に弓引く謀叛人であることから、極悪人だと言つて良いだらう。が、同じ謀叛人の括りで言ふと明智光秀などとはどこか違ひ清涼感があるのやうに感ぜられる。なぜだらうか。それは単純な判官贔屓ではないと思ふ。安倍館遺跡 名所・史跡
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国民宿舎 サンホテル衣川荘
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