2016/10/03 - 2016/10/03
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mistralさん
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10月3日、ワルシャワの空は暗い雲が立ち込め、一気に寒気が
訪れた様子。旧市街広場もさすがに朝はまばらな人出。
当日はクラクフ郊外通りに沿って観光をするつもりだったので、
あいにくの寒空でもなんとかなりそう。
アパートメントで、まだ慣れないキッチンの家電品をなんとか
使い簡単な朝食をとり、目の前の広場に出て行った。
アパートメントの立地の素晴らしさが徐々に実感されてきた。
(表紙写真は、アパートメントの建物とははす向かいの一角にある
レストラン ウ・フキエラ入口の様子)
- 旅行の満足度
- 4.5
- 観光
- 4.5
- グルメ
- 4.5
- 同行者
- カップル・夫婦
- 交通手段
- 高速・路線バス 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
PR
-
広場中心に立つ人魚像。
左手に盾、右手に剣を持った勇ましい姿。
ワルシャワの紋章ともなっていて、バスやトラムの
車体に描かれている。 -
イチオシ
旧市街広場も
当日はさすがの雨模様のために
人出が少なく
閑散としている。 -
アパートメントから見て左手側の一角に
ひときわエントランスが綺麗に飾られた建物があるが
そこに
老舗レストラン 「ウ・フキエラ」がある。 -
朝一番に訪問して、夜の食事を予約しておいた。
まだ朝の清掃をしている時間だった。 -
アパートメントのある建物の一角から
王宮広場に向かって進むと、
すぐ
赤茶のレンガ造りのファサードの
教会があるが -
洗礼者ヨハネ大聖堂という
ワルシャワで最も古い教会。
(ということだが、実際は再建されたもの?)
通りに面していて
人の往来も沢山あり
外観の写真を撮り損ねてしまった。 -
ポーランド国王とのゆかりも深く
スタニスワフ1世、スタニスワフ2世が
この教会で戴冠式をおこなっているそうだ。 -
王宮広場中央には
ジグムント3世が石柱の上に立つ。 -
-
王宮広場からまっすぐ伸びる
クラクフ郊外通りに入り、
王宮広場を振り返ってみる。
この通りは途中から
新世界通りと名前を変える。
そこから更に南のワジェンキ宮殿までが
かつての「王の道」 -
クラクフ郊外通りに入り
すぐ左手にある「聖アンナ教会」
12時からパイプオルガンの
コンサートがあるというので
しばらく時間を潰していると
11時半から入場が始まった。
入場料は10ズオッティ。
演奏者近くの席は20ズオッティだった。 -
12時近くになったら
当時の宮廷風の衣装を着て
奏者が入場してきた。 -
-
-
通常は礼拝の参列者は
中央祭壇に向かって席につくので
後方上にあるパイプオルガンを演奏する席は
振り返って見上げなくてはならないので
ちょっと大変だった。
演奏者を間近に見られる席が20ズオッティと
あったので、その席は奏者と共に上方の席に
上がるのかもしれない。 -
コンサート後、
近くのカフェで簡単な昼食。
ジューレックと
ポークカツレツ。 -
王宮広場とワルシャワ大学の
ちょうど真ん中あたり
ゲートをライオン像で守られた宮殿が
大統領官邸。 -
「ユーゼフ・ポニャトフスキ像」が
立つ。 -
ユーゼフ・アントニ・ポニャトフスキ
(1763.5.7-1813.10.19)
ポーランド・リトアニア共和国の貴族であり、
共和国最後の国王、スタニスワフ2世アウグストは
父の兄にあたる。
オーストリア軍の将校だったが、後
叔父の要請によって帰国、ポーランド陸軍少将となるが
オーストリア・ロシア帝国・プロイセン王国による
ポーランド分割を防ぐことが出来なかった。
後ナポレオン1世の下で将軍として活躍し元帥となった軍人。
ライプツィヒからフランス軍の退却を支援する際に
戦死した。
(wikiより) -
池田理代子さん作
「ポーランド秘史 天の涯まで」
主人公は、銅像の ユーゼフ・ポニャトフスキ
全3巻からなる。
当時の周辺諸国との関わりなどが
わかりやすく描かれていて
ホーランドに向かう機中で楽しんだ。 -
聖十字架通りとの交差点手前の広場にある
「コペルニクスの像」。
地動説を唱えたが
彼より一世紀後のガリレオ・ガリレイが地動説を唱え
宗教裁判にかけられたのに対し、コペルニクスは
その説を死の直前まで公表しなかったため、生前
に迫害を受けることはなかったようだ。 -
銅像の立っている
タイル張りの広場には
像を中心にして
惑星の軌道が描かれている。 -
コペルニクス像の斜め前にある
「聖十字架教会」
ショパンと深いつながりのある教会。 -
教会入り口にたつ
キリスト像。 -
入って左手前にある石柱の下には
ショパンの心臓がおさめられている。
1849年10月17日、パリで亡くなった
フレデリック ショパンは
死後自身の心臓をワルシャワへ戻して欲しい
との希望があり
姉のルドヴィカが、
葬儀の前に取り出したコニャック漬けの心臓を
ワルシャワへ持ち帰った。 -
第2次世界大戦中には
ドイツ軍によって破壊され
心臓も持ち出されてしまった。
1945年10月、教会の再建とともに
心臓も返還された。 -
中央祭壇
-
右手祭壇
-
お一人のシスターが
右手の祭壇を綺麗に磨かれていた。 -
朝、クラクフ通りにある停留所で
トラム、バスなどに一日乗り放題の
1日乗車券(15ズオッティ)を購入しておいたので
この間のちょっとした移動にはトラムなど利用
していた。
あちこちに自動販売機が設置されていて
現金もカードも利用できる。
荒れた感じはせず、治安が行き届いていることが
良くわかる。 -
バスの車体の写真、中央に見えるのが
人魚像のマーク。
空港へ向かうタクシーの隣に
丁度止まったバスの車体に
あったのを見つけた。 -
バス車内。
一日券は刻印ご
24時間有効。 -
右端に見えるのが
刻印を押す機械。 -
翌日、文化科学宮殿近くまで行かなくてはならないので
下見をかねて、近くのマルシャウコフスカ通りまで行き、
その後、旧市街近くまでトラムに乗ろうとして
降りそこね、かなり先まで行ってしまった。
多分新市街をかなり進んでいったようだ。 -
雨の中を旧市街目指して引き返した。
旧市街に近づいてきたと思ったら
ワルシャワ蜂起記念碑のそばに出てきた。
広場には群像がいくつか。
1944年8月1日、午後5時、ワルシャワ市内
各所で、身を潜めていた場所から
兵士達が走り出そうというその時の様子を
表しているようだ。 -
マンホールから今、正に
地上に出てきた兵士像。
地下水道がレジスタンス達の移動
ルートとして使われていた史実に
元づいているようだ。 -
悲壮な覚悟をしたかのような
兵士達の像。
蜂起は失敗に終わり
その後ナチスによって市内は徹底的に
壊滅されてしまう。
まるで廃墟のような情景は
「戦場のピアニスト」の最後のあたりに
詳しく描写されている。 -
旧市街を取り囲む
城壁が見えてきた。 -
バルバカン近く
旧市街を囲む城壁 -
その一角に
武装した子供の像が。
ワルシャワ蜂起時には
子供も動員されたようだ。 -
夜、予約しておいた
U Fukiera (ウ フキエラ) へ
雨の中 向かった。 -
と言っても
徒歩数分の距離。 -
一番奥まった
広場に面した窓際の席へ
案内された。 -
メニューの表紙には
16世紀初め、ワイン商Grzegorz Korab がこの地で商いを始め、
後に18世紀初めには Fukiera 家がオウナーとなり
貴重で珍しいワインを取り揃えていることから有名となった、
とあった。 -
店内の様子。
まだお客の数はそれ程多くない。 -
スターターとして頼んだ
アーティチョーク入りサラダ -
ボルシチ
お肉の量が多く、これだけでも
充分なヴォリューム。 -
-
窓際のベンチに置かれていた
クッションなど。 -
びっしりと刺繍が
施されていた。 -
ローストされた
Duck. -
おかしら付き!Trout
-
ワインと共に美味しくいただきました。
お店の由来にもあったが、確かにワインの
品揃いは豊富だったが、2人ではボトル1本は
無理かと思ってグラスワインで我慢した。
(チップは別で350ズオッティだったように思う。) -
ワルシャワ2日目は
このようにして終わった。
翌日はショパンの生家などを巡って
郊外へ出かけることになっていた。
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