2016/06/23 - 2016/06/23
30422位(同エリア48516件中)
ムッシュさん
箱根坂を芦ノ湖目指して登る。標高差約800mの天下の剣、あるいは箱根駅伝山登りと同等です。傘を片手に雨の中の登山でした。
- 旅行の満足度
- 4.5
-
本日、箱根湯本からの登山です。雨なので、カッパ着てますが、傘をさしての歩行です。
-
箱根湯本旧街道の正眼寺付近。
早雲寺から300m上がった左にあります。早雲寺の末てら。
【正眼寺】
臨済宗大徳寺派大本山正眼寺、慶応四年(1868)山崎の戦いで一部焼失した。
正眼寺の裏側の手入れされた坂を登って行くと、建久4年(1193)に父の仇と工藤祐経を討ち取った蘇我五郎十郎を供養する「曽我堂」に行き着く。
建久4年といえば800年以上も前。
放光山正願寺(しょうがんじ)、境内には曽我兄弟の供養塔と、曽我五郎の槍突石(鏃突石、やじりつきいし)がある。
【正眼寺の史跡・文化財案内】
正眼寺は、鎌倉時代、箱根山に広まっていた地蔵信仰の中で生まれた寺 です。創建年代は定かではありませんが、この寺の前身である湯元地蔵堂の別当寺として鎌倉前期には存在し、その頃は、勝源寺と呼ばれていました。戦国時代には一時衰退し ましたが、江戸時代になりますと、江戸屈指の材木問屋冬木屋の援助により講堂が再建され、また、小田原城主大久保氏より境内地・地蔵田が安堵され、復興されました。
再興開基には早雲寺十七世菊径宗存を招請し、この時より当時は臨済宗大徳寺派に属す禅寺となり、今日に至っています。
1 曽我堂
曽我仇討で有名な曽我五郎・十郎の菩提供養のため建立された堂宇、堂内には、俗称曽我五郎地蔵菩薩立像(県重文)、同十郎地蔵菩薩立像(町重文)が安置されています。
*地蔵菩薩の一般公開は、毎年春秋の彼岸中に行われます。
2 曽我五郎の槍突石
曽我五郎が病回復の証に、槍で突いたと言い伝えの残る石で、江戸時代までは、箱根旧街道筋の槍突沢にありました。
3 曽我兄弟の供養塔
江戸前期、冬木屋上田家が建立した供養塔。
4 石造大地蔵
小田原城主稲葉氏の菩提寺、長興山紹大寺にあったもの、慶應四年(1868)焼失した当時の地蔵菩薩像の身代わりとして招聘されたものです。
5 勝源寺燈籠
室町時代応永四年(1397)の在銘のあるこの地方最古の石燈籠。
6 芭蕉句碑
土地の俳人が建立した。
「山路来てなにやらゆかし菫(すみれ)草」の追悼句碑。
7 冬木屋上田家の墓
江戸深川の材木問屋で、尾形光琳・乾山とも親交のあった上田家一族の墓。当寺の再興開祖です。
8 金箔色彩襖絵
本堂を飾る襖絵。唐美人図(四面)、四季草花図(四面)。いずれも江戸時代狩野派の絵師の手になるものです。 -
【割り石坂】
曽我五郎が富士の裾野に仇討ちに向かう時、腰の刀の切れ味を試そうと、路傍の巨石を真二つに切り割ったところと伝えられています。
箱根町 -
-
本陣跡。畑宿の茗荷屋本陣跡である。建物は無いが、当時の日本庭園は残されている。
【本陣跡】
ここ畑宿の本陣は、屋号を茗荷屋(みょうがや)と呼ばれた旧名主の本屋敷跡です。家屋は約七十年前大正元年全村火災の折、消失しましたが、庭園は昔を偲ぶそのままで残されました。本庭園はご覧のように小規模ですが街道に日本庭園として他になかったようです。
畑宿は、今から百二、三十年前の江戸時代の中期には本街道の宿場として今より多く栄えた集落です。この本陣をめぐり一般に余り知られていない事柄があります。安政四年十一月二十六日米国初代総領事伊豆下田におけるお吉物語で有名なハリスタウゼントが江戸入りの途中、ここに休息勧賞したことです。ハリスの箱根越えはエピソードが多く大変だったようです。
下田から籠で上京したハリスは箱根関所で検査を受けることになった。その際、ハリスと関所側は、検査をめぐってトラブルが起き、下田の副奉行が中に入ってほとほと困り抜いたと云う。
ハリスは「私はアメリカ合衆国の外交官である」と検査を強く拒否したことから副奉行がハリスを馬に乗せて籠だけ検査することで関所側と妥協した。ハリスは怒ったり笑ったりで関所を通った。そして畑宿本陣に着いてから彼がはじめて見る日本式庭園の良さに心なごみ機嫌はすこぶる良好になったといいます。
【本陣跡】
ここ畑宿の本陣は、屋号を茗荷屋(みょうがや)と呼ばれた旧名主の本屋敷跡です。家屋は約七十年前大正元年全村火災の折、消失しましたが、庭園は昔を偲ぶそのままで残されました。本庭園はご覧のように小規模ですが街道に日本庭園として他になかったようです。
畑宿は、今から百二、三十年前の江戸時代の中期には本街道の宿場として今より多く栄えた集落です。この本陣をめぐり一般に余り知られていない事柄があります。安政四年十一月二十六日米国初代総領事伊豆下田におけるお吉物語で有名なハリスタウゼントが江戸入りの途中、ここに休息勧賞したことです。ハリスの箱根越えはエピソードが多く大変だったようです。
下田から籠で上京したハリスは箱根関所で検査を受けることになった。その際、ハリスと関所側は、検査をめぐってトラブルが起き、下田の副奉行が中に入ってほとほと困り抜いたと云う。
ハリスは「私はアメリカ合衆国の外交官である」と検査を強く拒否したことから副奉行がハリスを馬に乗せて籠だけ検査することで関所側と妥協した。ハリスは怒ったり笑ったりで関所を通った。そして畑宿本陣に着いてから彼がはじめて見る日本式庭園の良さに心なごみ機嫌はすこぶる良好になったといいます。 -
【畑宿】
郷土の伝統工芸箱根細工が生まれ、育ったところです。畑宿で、木地細工が作られた記録はかなり古く、小田原北條氏時代までさかのぼります。江戸時代畑宿は箱根旧街道の間ノ村として栄え、沢山の茶屋が並び名物のそば、鮎の塩焼、箱根細工が旅人の足をとめました。 -
箱根旧街道の畑宿付近。
旧道に入るとスグに畑宿の一里塚があり、両塚とも復元されています。
江戸日本橋より数えて23里目。一里塚と石畳道はお似合いです。
西海子(さいかち)坂旧道に入ると石畳が始まります。
【箱根旧街道 畑宿一里塚】
江戸時代はじめ、徳川幕府は街道や宿場を整備し、交通基盤を整えました。さらに、距離を明確にするため、街道の一里(約4Km)ごとに一里塚を置きました。
東海道の一里塚は、後に二代将軍となる徳川秀忠の命により、慶長九年(1604年)2月につくり始められ、全てが完成したのは慶長十七年(1612年)であったと考えられています。
畑宿の一里塚は江戸日本橋から23里目に当たるもので、明治時代以降、一部が削られてしまうなど江戸時代往時の姿は失われてしまいましたが、発掘調査と文献調査の結果を基に復元整備を行い、箱根町の中では唯一往時の様子を現代に伝えるものです。
山の斜面にあるこの塚は、周囲を整備した後、直径が約5間(9m)の円形に石積を築き、小石を積み上げ、表層に土を盛って、頂上には標識樹として、畑宿から見て右側の塚にはモミが、左側にはケヤキが植えられていました。
一里塚は、旅人にとっての旅の進み具合が分かる目印であると同時に、塚の上に植えられた木は、夏には木陰をつくり冬には寒風を防いでくれる格好の休息場所にもなりました。
平成二十四年三月 箱根町 -
【畑宿の守源寺】参道
茶屋の前には箱根七福人大黒天の幟がはためいています、石段をを上ると守源寺があり、寛文元年(1661年)の創建です。
箱根の七福神は、この大黒天(畑宿、守源寺)をスタートして、、恵比寿神社(元箱根、箱根神社)、布袋尊(元箱根、興福院)、寿老人(箱根町、本還寺)、毘沙門天(箱根町、駒形神社)、弁財天(芦の湯、阿字ヶ池弁天)、福禄寿(小湧園内、山王神社)と回るコースとなっている。
守源寺の左の狭い道が、旧東海道である。箱根旧街道一里塚の大きな道標が目に入る。 -
箱根旧街道の石畳の始まりです。本日雨につき足下、大変滑りやすくなってます。注意深くゆっくりと歩みます。
ここは間の宿、畑宿。日本橋から23番目の一里塚がある。真ん中が街道で、両サイドのこんもりした塚が一里塚。畑宿は箱根伝統工芸・寄木細工の里で知られる。
【箱根旧街道】
江戸幕府は元和4年(1618)、十六夜日記でも知られる旧来の湯本から湯坂山-浅間山-鷹ノ巣山-芦ノ湯を経て、元箱根に至る湯坂路(現ハイキングコース)を廃し、湯本の三枚橋から須雲川に沿い畑宿を通り二子山の南側を経て、元箱根に至る古い山路をひろげ、世に箱根の八里越えと伝えられる街道を作った。この街道は、寛永12年(1635)参勤交代の制度ができて、一層交通が盛んとなり、そのありさまは詩歌、物語等にも多く歌われた。延宝8年(1680)幕府の手によりはじめてこの街道に石が敷かれたが、この石敷の道は現在も所々に存し、国の史跡に指定されている。現在、残っている石畳は、文久3年(1863)2月、孝明天皇の妹、和宮内親王が14代将軍、徳川家茂のもとに降嫁されるにあたり、幕府が時の代官に命じ、文久2年(1862)に改修工事を完成させたものだといわれている。平均、約3.6メートルの道幅の中央に約1.8メートル幅に石が敷きつめられていたという。(文化庁・箱根町) -
江戸幕府は延宝8年(1680年)箱根路を土道から石畳に改修しました。
東海道の箱根越の道は江戸初期には竹を束ねて階段状に敷いただけで、雨の後はぬかるみが膝まで達し、旅人は大いに苦しんだ。そこで幕府は1400両を使い、1680年頃石畳を整備した。その後何度か整備拡張されている。関東大地震や北伊豆地震(1930年)で大半が崩壊し、畑宿から元箱根にかけては石畳の道が何ケ所かあるが、当時の石畳を再現し自然歩道として整備されたもの。石畳が歩きづらいのは大軍の進軍を阻むため、意図してでこぼこに造られたとも。 -
石畳の水捌けを断面図で教えてくれます。
『西海子坂(さいかちさか)』の石碑。
「西海子(サイカチ)」とはマメ科の薬用植物のトゲのある木。
武士からは「再勝=サイカチ」、つまりは縁起が良い木として植えられた。
北条氏滅亡後、徳川家康に従って小田原攻めに参戦した大久保氏が小田原城主に
なったのであるが、その大久保氏が西海から来たという由来を残すために西海の子孫たちという意味で名付けたという話もある。
この街道に初めて石畳が敷かれたのは延宝8年(1680年)で、
今でも旧街道の所々に残され、国の史跡に指定されている。
それ以前のこの道は、雨や雪のあとは大変な悪路になり、旅人は膝まで没する
泥道を歩かねばならないため、竹を敷いていたが毎年、竹を調達するのに
大変な労力と費用がかかっていたと。 -
-
-
箱根東坂 西海子(さいかち)坂
-
旧街道の七曲がりの旧坂を上ると、見晴らし茶屋が待っている。きっと昔も、ここで一息入れて、休憩したのでしょう。晴れて見通しがよければ、麓の小田原方面の見晴らしが良いのだが、生憎、今日は、雨プラス霧。こんな景色です。何も見えず。
箱根旧街道の難所、七曲がりを登りきったところにある。 -
借用
見えていれば、の風景。 -
(借用)
箱根旧街道 見晴らし茶屋からの眺め、中央遠方に小田原市内、相模湾の海です。 -
-
ほぼ峠に近い場所に【甘酒茶屋】がある。
やっと到着。ここには、元気回復の為の力餅と甘酒が有名。外は雨なので、客は皆さん中に集まってる様子。
甘酒茶屋は、現在の店主が十三代目。江戸時代より変わらない製法。地場産のうるち米と米麹のみで仕込んだ無添加の甘酒が名物。 そして毎朝きねでついたお餅を炭火で焼き上げた力餅。味も三種類あり毎日すりたてのごまの限定品「黒ごまきなこ餅」はおすすめ。 店の佇まい萱ぶき屋根の建物で店内には「いろり」も有り、江戸時代の風情も楽しめる。
急坂を、大汗かいて上って来た旅人が一息つける場所です。 -
甘酒茶屋の店内。(ぼけぼけ)
江戸時代は、ここに4軒の茶屋があり、大層繁盛していたとの事。その内の1軒が今でも継続して営業している。
【甘酒茶屋について】
この甘酒茶屋の付近は江戸時代、赤穂浪士の一人、神崎与五郎が吉良邸討入りに向う途中、ここで馬子にいいがかりをつけられ、大事の前であったため、馬子に詫証文を書いたと忠臣蔵「甘酒茶屋」のくだりとして講談、戯曲で有名なところです。しかし、この話は残っている証文から、神崎与五郎でなく同じ浪士の一人、大高源吾で、その場所は三島宿だったといわれています。又、当時の諸大名は小田原城下入りをする際、この付近でひと休みし、小田原に下りました。江戸時代にはこの付近に茶屋があり、急坂な箱根路への休憩地点として賑わっていました。(神奈川県) -
芦ノ湖への道並みを教えてくれる。
【東海道「箱根地域」における「甘酒茶屋」について】
江戸時代、徳川幕府は人々や物資の往来が盛んになるように街道の整備を行いました。東海道はその中でも主要な街道で、この箱根地域(湯本~箱根関所間、通称「東坂」)は道が大変険しく、当時の旅人が普通一日十里(一里は4キロメートル)を旅するところ、箱根地域では八里しか歩けなかったようです。
道中には「甘酒」をふるまう茶屋が設けられるようになり、文政年間(1818~29)には「甘酒小屋」と記録があり、箱根地域には9箇所も植えられて設けられていたようです。この地には4軒あり、付近の追込坂上、樫木坂上、猿滑坂下にもありました。
しかし、明治十三年(1880)国道1号の開通などから街道を歩く人々が減少して、現在ではこの地に1軒が残るのみとなっています。
明治十四年(1881)当時は、ここにまだ3軒あったようです。材料を畑宿から運搬し、製造していたようです。
*当時「甘酒」が旅人の疲労回復に役立っていたと言われています。
神奈川県 箱根町教育委員会 -
忠臣蔵甘酒茶屋のくだりで、赤穂浪士・神崎与五郎が馬喰の丑五郎に言いがかりをつけられ、大事を控えじっとこらえ詫び証文を書いた茶屋です
雨、霧に霞む甘酒茶屋 。さあ再び、芦ノ湖に向けて出発でス。まだ少し上って、そして下ります。 -
-
【お玉坂】
元禄15年(1702年)、伊豆大瀬村の農家の娘たまが、関所破りをし、ここで獄門に掛けられたところとの事。
この先、見事な石畳の続く白水坂、そして天ヶ石坂を登り切ると、街道は下りの権現坂に入り、次はいよいよ芦ノ湖箱根宿である。
『於玉坂 登リニ町半餘』と刻まれている -
芦ノ湖に近い。杉並木にも近い。芦ノ湖への下り坂も石畳みになっています。
箱根路に最初に石畳が敷かれたのは1680年、14代徳川家茂が将軍として220年ぶりに上洛したさいに、全面補修された。
【箱根旧街道】 国史跡(昭和35年9月22日指定)
件 名 箱根旧街道
指 定 者 国
指 定 名 称 史 跡
指定年月日 昭和三十五年九月二十二日
所 在 地 箱根町湯本茶屋~箱根
江戸幕府は元和四年(1618年)十六夜日記でも知られる旧来の湯本から湯坂山-浅間山-鷹ノ巣山-芦ノ湯を経て、元箱根に至る湯坂道(現ハイキングコース)を廃し、湯本の三枚橋から須雲川に沿い畑宿を通り、二子山の南側を経て、元箱根に至る古い山路をひろげ、世に箱根の八里越えと伝えられる街道を作った。この街道は、寛永十二年(1635年)参勤交代の制度ができて、一層交通が盛んとなり、そのありさまは詩歌、物語等にも多く歌われた。延宝八年(1680年)幕府の手によりはじめてこの街道に石が敷かれたが、この石敷の道は現在も所々に存し、国の史跡に指定されている。現在残っている石畳は、文久三年(1863年)二月、孝明天皇の妹、和宮内親王が十四代将軍徳川家持のもとに降嫁されるにあたり幕府が時の代官に命じ文久二年(1862年)に改修工事を完成させたものだといわれている。平均、約三・六メートルの道幅の中央に約一・八メートル幅に石が敷きつめられていたという。この地点から元箱根に至る約一キロに石畳が現存している。
昭和四六年三月 文化庁 箱根町教育委員会 -
本日、雨中行軍でした。もうすぐ芦ノ湖に到着です。
-
【馬子唄碑】
「箱根八里は馬でも越すが こすに越されぬ大井川」 の「馬子唄碑」があり、その先は権現坂を通って一気に芦ノ湖までの下りだ。 -
芦ノ湖付近まで下って来た。
大きな鳥居、【箱根神社の一の鳥居】である。
箱根神社は天平宝字元年(757年)、万巻(まんがん)上人がここに丈六薬師如来を祀ったのが始まりである。後に頼朝の保護を受け、伊豆山、三島と並ぶ関東第一級の神社となった
一の鳥居のある湖畔が賽(さい)の河原。東海道名所図会では西の河原と紹介されている。 -
【箱根の杉並木】
箱根の杉並木は、湖畔に沿って約300mほど残されている。徳川幕府が、旅人に木陰を与えようととして、道の両側に植えたものである。東海道では松並木が多いが、杉並木は此処だけである。霧の深い日が多く、松が育ちにくいために杉並木にしたようだ。 樹齢400年の杉が400本ほどそびえ立つ。
【箱根旧街道杉並木】
江戸と京都を結ぶ「東海道五十三次」は、江戸時代の元和四年(1619)頃に、それまでの湯坂道を廃し、湯本、畑宿、箱根を廻る街道に改められました。この杉並木は、徳川幕府が、旅人に木陰を与えようと道の両側に植えたもので、東海道では唯一のものです。
第二次大戦中、伐採されそうになったこともありましたが、現在では、国指定史跡として保護され、芦ノ湖周辺の四地区に、約四ニ〇本の杉が残されています。
残された杉には、人々の愛護の心が込められています。
杉並木を大切にしてください。
文化庁・神奈川県教育委員会・箱根町教育委員会 -
箱根の杉並木
和4年(1618)川越藩主松平正綱により植えられたもの。平均樹齢は390年近くにもなる。普通なら松並木になるところ、高地で松が育たなかったため、杉になったといわれる。 -
箱根町の一里塚
杉並木に入って直ぐのところに、一里塚跡碑がある。江戸より24番目(96km)の一里塚である。 -
浮世絵著作権フリー作品「東海道五十三次」からの画像を使用しています
【歌川広重の「東海道五拾三次之内 【箱根】 湖水圖」
東海道五拾三次之浮世絵では、これが一番好きです。多色で、明るく、構図も大胆で素晴らしいと思います。
*右下に一列に並ぶ大名行列が、急な坂道の細さをものがたる。
左の湖にそう山々は、箱根山を御神体とし「箱根権現」と、親しまれた箱根神社がある。箱根東坂は、畑宿を過ぎると険しい坂道が次々と続いた。最高点を過ぎると、道は下りになり、権現坂は芦ノ湖の最高の景色が見える坂であった。
この絵は、大名行列がこの権現坂を下っていくところであるが、箱根山の険しさをことさら誇張して描かれている。
いよいよ相州・相模国から豆州・伊豆国へ国境越えだ。 -
箱根関所跡パンフレットより
芦ノ湖に面する【旧箱根関所跡】
フォト上部が江戸口、下部右側に進む京口の配置。
【箱根関阯】 国指定史跡
箱根関所が、江戸幕府によって、山と湖に挟まれた交通の要衝であるこの地に設置されたのは、元和5年(1619)のことと伝えられています。箱根関所は、江戸幕府が江戸防衛のために、全国に設置した53ヶ所の関所のうち、東海道の新居(静岡県)、中山道の碓氷(群馬県)、木曽福島(長野県)と並んで規模も大きく、特に重要な関所と考えられていたようです。
この関所の配置は、箱根山中の東海道の中で、屏風山と芦ノ湖に挟まれた要害の地形を利用して、山の中腹から湖の中まで柵で厳重に区画し、江戸口・京口両御門を構え、大番所と足軽番所が向き合うものとなっています。
一般的に関所では、「入り鉄砲に出女」を取り調べたと言われていますが、この箱根関所では、江戸方面からの「出女」に対する厳しい取調べを行っていました。
江戸時代を通じて機能を果たしてきた関所ですが、設置から250年後の明治2年(1869)、新政府により関所制度が廃止され、その役割を終えました。
箱根関所の跡地は、大正11年(1922)、「箱根関所」として国の史跡に指定されました。昭和40年(1965)には番所の建物が建設され、その後、昭和58年(1983)、江川文庫(静岡県伊豆の国市)から、慶応元年(1865)に完成した箱根関所の大規模修理についての克明な資料『相州箱根御関所御修復出来形帳』が発見され、資料の解析や跡地の発掘調査を経て、平成19年(2007)春、国土交通省、文化庁、神奈川県の補助を受けた復元整備を終え、箱根の関所は往時の姿によみがえりました。
平成19年(2007) 箱根町教育委員会 -
【旧箱根関所跡】
関所の裏に芦ノ湖があります。
この建屋が番所、向かい側には足軽番所が対座している。
【大番所】
江戸口御門から入ってすぐ右側の建物が大番所・上番休息所。
関所の一番主要な建物です。二棟が継がれている建物で、街道側が大番所、湖側が上番休息所と呼ばれています。共に栩葺(とちぶき)と言われるうすく割いた杉板を重ねた屋根を持ち、また外観は、渋墨で塗られた黒い建物です。 -
【旧箱根関所跡 番所の様子】
-
【旧箱根関所跡 関所の様子】
左が足軽番所
【足軽番所】
江戸口御門から入ってすぐ左側の建物が足軽番所。
大番所・上番休息所の次に大きな建物で、大番所・上番休息所の向かい側、江戸口御門の脇にあります。昼間は足軽が控えていたり、夜は足軽が寝ていた場所です。建物内には足軽のための部屋や休息所、不審な武士などを留め置く「揚屋(あがりや)」、関所破りをした罪人などを一時的に拘置する獄屋(牢屋)などがあります。屋根は大番所と同様に杉板を薄く割って重ねた「栩葺」で、外壁は壁板を「渋墨(しぶすみ)」で黒く塗られています。特に、「獄屋」は格子で囲まれており、とても頑丈に造られています。
この旅行記のタグ
利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。
コメントを投稿する前に
十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?
サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。
旅の計画・記録
マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?
0
36