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2014年6月から7月にかけて、イタリア、フランス、スペインを勝手気ままに歩いた一人たびの心地よさが忘れられず、年が明けるや否や新しいプランを作成。今年は昨年最も強く心を惹かれてしまったイタリアに集中することにしました。6月のトスカーナは連日35度を超す猛暑だったので、今年は1か月前倒し。<br /><br />まずは行きたいところをピックアップして、たびの拠点となる都市を選定。宿泊施設を押さえてから、詳細を詰めていくというのが私のスタイルなのですが、例によってこれも見たい、あそこも行きたい・・・とかく欲張りな私のこと、1か月じゃあ全く時間が足りないことがすぐに判明しました。とはいえ、時間とお金は限りあるもの。優先順位を決めて、何とかやりくりをして決めたのが下記のプランです。<br /><br />イタリアには過去3度行ったことがあります。<br />最初のたびは、大学生の頃、スイスのチューリッヒから日帰りで行ったミラノ。最後の晩餐だけ見に行ったような、慌ただしいたびでした。<br />2回目は2001年、シシリアとアルベルベッロ、カプリ島、ローマを2週間かけて回りました。<br />3回目が2014年、ベネチアとトスカーナ州、リグーリア州が中心の2週間。<br /><br />今回は、過去に行ったことのない場所をメインとした旅程となりました。たびを重ねるうちに、自分が最も興味を惹かれるものは、古い建物、神社仏閣教会等、そして彫刻、絵などの美術品 全て人が作り出したものだということがわかってきました。中でも、ここ2、3年、以前はあまり興味が沸かなかった教会に強く惹かれる自分がいます。基本的には無宗教なのですが、現在より人々の心が純粋で、神を敬う気持ちが強かった頃でなければ、創り上げられなかった文化の結晶とでもいうべき施設には畏敬の念を覚えます。というわけで、今回のたびの中心は教会を巡る街歩きとなってしまいました。<br /><br />イタリア語は皆目見当がつかず、付け焼刃で2週間ほど本を見て勉強しましたが、やるとやらないでは大違い。後は度胸と愛嬌?で前進あるのみ。御陰様で、とても自己満足度の高いたびになりました。<br /><br />2015/5/6	水	成田→モスクワ→ローマ<br />2015/5/7	木	ローマ<br />2015/5/8	金	ローマ→ティヴォリ→ローマ<br />2015/5/9	土	ローマ<br />2015/5/10	日	ローマ<br />2015/5/11	月	ローマ<br />2015/5/12	火	ローマ<br />2015/5/13	水	ローマ→ナポリ<br />2015/5/14	木	ナポリ→ソレント→アマルフィ→ラヴェッロ→アマルフィ→サレルノ→ナポリ<br />2015/5/15	金	ナポリ<br />2015/5/16	土	ナポリ→エルコラーノ→ナポリ→カゼルタ→ナポリ<br />2015/5/17	日	ナポリ→バーリ<br />2015/5/18	月	バーリ→マテーラ→バーリ<br />2015/5/19	火	バーリ→レッチェ→バーリ<br />2015/5/20	水	バーリ→オストゥーニ→チェリエ・メッサピカ→マルティーナフランカ→バーリ<br />2015/5/21	木	バーリ→アンコーナ→フォリーニョ<br />2015/5/22	金	フォリーニョ→スペッロ→アッシジ→フォリーニョ<br />2015/5/23	土	フォリーニョ→トレヴィ→スポレート→フォリーニョ<br />2015/5/24	日	フォリーニョ→ペルージャ→フォリーニョ<br />2015/5/25	月	フォリーニョ→コルトーナ→オルヴィエト<br />2015/5/26	火	オルヴィエト→チヴィタ ディ バーニョレージョ→オルヴィエト<br />2015/5/27	水	オルヴィエト→アレッツォ→オルヴィエト<br />2015/5/28	木	オルヴィエト→フィレンツェ→ボローニャ<br />2015/5/29	金	ボローニャ→ラヴェンナ→ボローニャ<br />2015/5/30	土	ボローニャ→モデナ→ボローニャ→フェラーラ→ボローニャ<br />2015/5/31	日	ボローニャ<br />2015/6/1	月	ボローニャ→パドヴァ→ヴィチェンツァ<br />2015/6/2	火	ヴィチェンツァ→パドヴァ→ヴィチェンツァ<br />2015/6/3	水	ヴィチェンツァ→ヴェローナ→ヴィチェンツァ<br />2015/6/4	木	ヴィチェンツァ<br />2015/6/5	金	ヴィチェンツァ→ミラノ<br />2015/6/6	土	ミラノ<br />2015/6/7	日	ミラノ<br />2015/6/8	月	ミラノ→モスクワ→<br />2015/6/9	火	→成田<br /><br />10月10日から19日まで、サンクトペテルブルグとモスクワに行って参りました。最高気温5度の世界にすっかり慣れて。帰国したらなんと! ここは熱帯の国? という気温の日本でした。すっかり更新が遅れてしまいました。旅行記はまだまだ、2015年の6月を彷徨っております。<br /><br />未完成とばかり言われますが、非常に完成度の高いファサードのレリーフを十分に愛でたので、いよいよサン・ペトロニオ聖堂に入場しますよ。<br />

イタリア あっちも! こっちも! と欲張りなたび その80 ボローニャ2

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2015/05/31 - 2015/05/31

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8

117

junemay

junemayさん

2014年6月から7月にかけて、イタリア、フランス、スペインを勝手気ままに歩いた一人たびの心地よさが忘れられず、年が明けるや否や新しいプランを作成。今年は昨年最も強く心を惹かれてしまったイタリアに集中することにしました。6月のトスカーナは連日35度を超す猛暑だったので、今年は1か月前倒し。

まずは行きたいところをピックアップして、たびの拠点となる都市を選定。宿泊施設を押さえてから、詳細を詰めていくというのが私のスタイルなのですが、例によってこれも見たい、あそこも行きたい・・・とかく欲張りな私のこと、1か月じゃあ全く時間が足りないことがすぐに判明しました。とはいえ、時間とお金は限りあるもの。優先順位を決めて、何とかやりくりをして決めたのが下記のプランです。

イタリアには過去3度行ったことがあります。
最初のたびは、大学生の頃、スイスのチューリッヒから日帰りで行ったミラノ。最後の晩餐だけ見に行ったような、慌ただしいたびでした。
2回目は2001年、シシリアとアルベルベッロ、カプリ島、ローマを2週間かけて回りました。
3回目が2014年、ベネチアとトスカーナ州、リグーリア州が中心の2週間。

今回は、過去に行ったことのない場所をメインとした旅程となりました。たびを重ねるうちに、自分が最も興味を惹かれるものは、古い建物、神社仏閣教会等、そして彫刻、絵などの美術品 全て人が作り出したものだということがわかってきました。中でも、ここ2、3年、以前はあまり興味が沸かなかった教会に強く惹かれる自分がいます。基本的には無宗教なのですが、現在より人々の心が純粋で、神を敬う気持ちが強かった頃でなければ、創り上げられなかった文化の結晶とでもいうべき施設には畏敬の念を覚えます。というわけで、今回のたびの中心は教会を巡る街歩きとなってしまいました。

イタリア語は皆目見当がつかず、付け焼刃で2週間ほど本を見て勉強しましたが、やるとやらないでは大違い。後は度胸と愛嬌?で前進あるのみ。御陰様で、とても自己満足度の高いたびになりました。

2015/5/6 水 成田→モスクワ→ローマ
2015/5/7 木 ローマ
2015/5/8 金 ローマ→ティヴォリ→ローマ
2015/5/9 土 ローマ
2015/5/10 日 ローマ
2015/5/11 月 ローマ
2015/5/12 火 ローマ
2015/5/13 水 ローマ→ナポリ
2015/5/14 木 ナポリ→ソレント→アマルフィ→ラヴェッロ→アマルフィ→サレルノ→ナポリ
2015/5/15 金 ナポリ
2015/5/16 土 ナポリ→エルコラーノ→ナポリ→カゼルタ→ナポリ
2015/5/17 日 ナポリ→バーリ
2015/5/18 月 バーリ→マテーラ→バーリ
2015/5/19 火 バーリ→レッチェ→バーリ
2015/5/20 水 バーリ→オストゥーニ→チェリエ・メッサピカ→マルティーナフランカ→バーリ
2015/5/21 木 バーリ→アンコーナ→フォリーニョ
2015/5/22 金 フォリーニョ→スペッロ→アッシジ→フォリーニョ
2015/5/23 土 フォリーニョ→トレヴィ→スポレート→フォリーニョ
2015/5/24 日 フォリーニョ→ペルージャ→フォリーニョ
2015/5/25 月 フォリーニョ→コルトーナ→オルヴィエト
2015/5/26 火 オルヴィエト→チヴィタ ディ バーニョレージョ→オルヴィエト
2015/5/27 水 オルヴィエト→アレッツォ→オルヴィエト
2015/5/28 木 オルヴィエト→フィレンツェ→ボローニャ
2015/5/29 金 ボローニャ→ラヴェンナ→ボローニャ
2015/5/30 土 ボローニャ→モデナ→ボローニャ→フェラーラ→ボローニャ
2015/5/31 日 ボローニャ
2015/6/1 月 ボローニャ→パドヴァ→ヴィチェンツァ
2015/6/2 火 ヴィチェンツァ→パドヴァ→ヴィチェンツァ
2015/6/3 水 ヴィチェンツァ→ヴェローナ→ヴィチェンツァ
2015/6/4 木 ヴィチェンツァ
2015/6/5 金 ヴィチェンツァ→ミラノ
2015/6/6 土 ミラノ
2015/6/7 日 ミラノ
2015/6/8 月 ミラノ→モスクワ→
2015/6/9 火 →成田

10月10日から19日まで、サンクトペテルブルグとモスクワに行って参りました。最高気温5度の世界にすっかり慣れて。帰国したらなんと! ここは熱帯の国? という気温の日本でした。すっかり更新が遅れてしまいました。旅行記はまだまだ、2015年の6月を彷徨っております。

未完成とばかり言われますが、非常に完成度の高いファサードのレリーフを十分に愛でたので、いよいよサン・ペトロニオ聖堂に入場しますよ。

旅行の満足度
4.5
同行者
一人旅
交通手段
徒歩
旅行の手配内容
個別手配

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  • [ファサードのあるなしで、これほど印象が異なる!?] という見本になれそうなサン・ペトロニオ聖堂です。画面下と上で、ガラッと印象が変わります。

    [ファサードのあるなしで、これほど印象が異なる!?] という見本になれそうなサン・ペトロニオ聖堂です。画面下と上で、ガラッと印象が変わります。

  • 聖堂の中へと足を進めました。<br /><br />写真だとわかりませんが、内部はとても広く感じます。それもそのはず、三廊式で、身廊の幅だけで19mあるそうです。ゴシック様式特有のヤシの木のような交差ヴォールトが四方に伸びていて、イタリアでは味わうことの少ない軽やかな雰囲気に満ちています。ヴォールトと中央身廊の装飾は、ジローラモ・ライナルディによって行われました。完成したのは1646年~58年頃だそうです。<br /><br />身廊の両側には、広い側廊の奥に、なんと11ずつの礼拝堂がありました。<br /><br />

    聖堂の中へと足を進めました。

    写真だとわかりませんが、内部はとても広く感じます。それもそのはず、三廊式で、身廊の幅だけで19mあるそうです。ゴシック様式特有のヤシの木のような交差ヴォールトが四方に伸びていて、イタリアでは味わうことの少ない軽やかな雰囲気に満ちています。ヴォールトと中央身廊の装飾は、ジローラモ・ライナルディによって行われました。完成したのは1646年~58年頃だそうです。

    身廊の両側には、広い側廊の奥に、なんと11ずつの礼拝堂がありました。

  • 撮影禁止と聞いていましたが、カメラ持ち込み料2ユーロを払えば、撮影は可能です。<br /><br />とはいえ、左右の側廊に並ぶ有名どころの礼拝堂内は撮影禁止。しかも特別料金を払った上に、ガイド付きのツアーに参加する必要があります。<br /><br />このガイドというのがまた曲者で、殆ど説明はなく、写真を撮らないか見張っている監視人のようでした。

    撮影禁止と聞いていましたが、カメラ持ち込み料2ユーロを払えば、撮影は可能です。

    とはいえ、左右の側廊に並ぶ有名どころの礼拝堂内は撮影禁止。しかも特別料金を払った上に、ガイド付きのツアーに参加する必要があります。

    このガイドというのがまた曲者で、殆ど説明はなく、写真を撮らないか見張っている監視人のようでした。

  • ボロッニーニ、聖アッボンディオ、聖ブリギダ、聖ロレンツォの各礼拝堂に入場すると5ユーロ。最初の2つだけだと3ユーロの料金がかかります。<br /><br />5ユーロ払ってツアー(といっても実際は個別対応でした)に参加しましたが、悲しいかな。今ではボロッニーニ礼拝堂以外は殆ど記憶にありません(泣)・・・<br />

    ボロッニーニ、聖アッボンディオ、聖ブリギダ、聖ロレンツォの各礼拝堂に入場すると5ユーロ。最初の2つだけだと3ユーロの料金がかかります。

    5ユーロ払ってツアー(といっても実際は個別対応でした)に参加しましたが、悲しいかな。今ではボロッニーニ礼拝堂以外は殆ど記憶にありません(泣)・・・

  • まずは、今だに鮮明な記憶のある、一番有名な左側廊4番目にあるボロッニーニ礼拝堂(またの名を東方三博士の礼拝堂)から。<br /><br />ご覧のように外からも眺めることはできますが、一番見たいであろう左壁下の部分は入場しないと見ることが出来ません。<br /><br />見学者のみ、このロープから先に進むことが出来ます。途中に「中は撮影禁止」の立て札!

    まずは、今だに鮮明な記憶のある、一番有名な左側廊4番目にあるボロッニーニ礼拝堂(またの名を東方三博士の礼拝堂)から。

    ご覧のように外からも眺めることはできますが、一番見たいであろう左壁下の部分は入場しないと見ることが出来ません。

    見学者のみ、このロープから先に進むことが出来ます。途中に「中は撮影禁止」の立て札!

  • 内部の見学終了後、三方の壁がジョヴァンニ・ダ・モデナのフレスコで飾られたボロッニーニ礼拝堂にできる限り近づいて撮ってみました。こちらは正面の1枚。<br /><br />ボローニャの名門ボロッニーニ家は手前の大理石の柵からして大変立派です。聖堂工事の責任者だったアントニオ・ディ・ヴィンチェンツォによる1400年頃の制作です。<br /><br />後ろ壁には、聖ペトロニオの生涯を描いたフレスコ、丸と縦に長いステンドグラス、そしてその下に一部見えているのが27もの彫像が並ぶ立派な金ぴかの祭壇です。聖堂でオリジナルの装飾を保持している唯一の礼拝堂だそうですよ。

    内部の見学終了後、三方の壁がジョヴァンニ・ダ・モデナのフレスコで飾られたボロッニーニ礼拝堂にできる限り近づいて撮ってみました。こちらは正面の1枚。

    ボローニャの名門ボロッニーニ家は手前の大理石の柵からして大変立派です。聖堂工事の責任者だったアントニオ・ディ・ヴィンチェンツォによる1400年頃の制作です。

    後ろ壁には、聖ペトロニオの生涯を描いたフレスコ、丸と縦に長いステンドグラス、そしてその下に一部見えているのが27もの彫像が並ぶ立派な金ぴかの祭壇です。聖堂でオリジナルの装飾を保持している唯一の礼拝堂だそうですよ。

  • ジョヴァンニ・ディ・モデナと知られている画家は本名ジョヴァンニ・ディ・ピエトロ・ファロッピと言います。彼に関する情報は乏しく、わかっているのは名前からみてモデナ出身であることと、後期ゴシック時代の1375年頃から1456年頃の人物であること位です。

    ジョヴァンニ・ディ・モデナと知られている画家は本名ジョヴァンニ・ディ・ピエトロ・ファロッピと言います。彼に関する情報は乏しく、わかっているのは名前からみてモデナ出身であることと、後期ゴシック時代の1375年頃から1456年頃の人物であること位です。

  • 撮影禁止と言われると撮りたくなる性分のようで、写せる範囲で可能な限り頑張ってみました。「聖ペトロニオの物語」については、タイトルが判明した部分のみ記載しています。順番は分からないので、順不同です。<br /><br />一番上の三角形部分の絵は「教皇ヨハネス23世の選出」。彼は教会大分裂(シスマ)の時期の対立教皇(在位1410年〜1415年)ですので、丁度聖堂が作られた時代の人です。<br /><br />左2段目は、聖ペトロニオがコンスタンティノポリに上陸した場面、右2段目は 聖ペトロニオが、コンスタンティノポリからローマに向かう場面だそうです。

    撮影禁止と言われると撮りたくなる性分のようで、写せる範囲で可能な限り頑張ってみました。「聖ペトロニオの物語」については、タイトルが判明した部分のみ記載しています。順番は分からないので、順不同です。

    一番上の三角形部分の絵は「教皇ヨハネス23世の選出」。彼は教会大分裂(シスマ)の時期の対立教皇(在位1410年〜1415年)ですので、丁度聖堂が作られた時代の人です。

    左2段目は、聖ペトロニオがコンスタンティノポリに上陸した場面、右2段目は 聖ペトロニオが、コンスタンティノポリからローマに向かう場面だそうです。

  • 右側三段目は、ボローニャの城壁の外にいるサンタ・ジュリアーナ と言うタイトルが付けられていました。サンタ・ジュリアーナと呼ばれている女性は3人いますが、いずれも聖ペトロニオの時代の人ではないので、どのサンタ・ジュリアーナを差すのか正確なことはわかりませんでした。<br /><br />城壁の中に見える優雅な建物は、ジョヴァンニ・ダ・モデナが生きていた時代のボローニャにあったのでしょうか?

    右側三段目は、ボローニャの城壁の外にいるサンタ・ジュリアーナ と言うタイトルが付けられていました。サンタ・ジュリアーナと呼ばれている女性は3人いますが、いずれも聖ペトロニオの時代の人ではないので、どのサンタ・ジュリアーナを差すのか正確なことはわかりませんでした。

    城壁の中に見える優雅な建物は、ジョヴァンニ・ダ・モデナが生きていた時代のボローニャにあったのでしょうか?

  • こちらは、聖ペトロニオによる奇跡の場面だそうです。

    こちらは、聖ペトロニオによる奇跡の場面だそうです。

  • 左側の2枚については解説が見当たりませんでしたので、代わりに聖ペトロニオの略歴を紹介しましょう。<br /><br />聖ペトロニオはローマの貴族の生まれですが、どこで誕生したかについてはわかっていません。若いころに巡礼でエルサレムを訪れているようです。

    左側の2枚については解説が見当たりませんでしたので、代わりに聖ペトロニオの略歴を紹介しましょう。

    聖ペトロニオはローマの貴族の生まれですが、どこで誕生したかについてはわかっていません。若いころに巡礼でエルサレムを訪れているようです。

  • 432年頃、彼はボローニャの司教となり、キリストの墓とされる場所に建つエルサレムの聖墳墓教会を真似たサント・ステファノ教会を建立しています(この教会は後刻訪問します)。<br /><br />1141年に彼の聖遺物が見つかったことが、ボローニャに聖堂を建てるきっかけとなったようです。<br /><br />ジョヴァンニ・ダ・モデナの絵は細部まで正確で表現力が豊か。ジョットを思い浮かべたのは私だけでしょうか?

    432年頃、彼はボローニャの司教となり、キリストの墓とされる場所に建つエルサレムの聖墳墓教会を真似たサント・ステファノ教会を建立しています(この教会は後刻訪問します)。

    1141年に彼の聖遺物が見つかったことが、ボローニャに聖堂を建てるきっかけとなったようです。

    ジョヴァンニ・ダ・モデナの絵は細部まで正確で表現力が豊か。ジョットを思い浮かべたのは私だけでしょうか?

  • 左側の壁面です。精一杯頑張ってみましたが半分しか写っていません。ご容赦を!<br /><br />中央のマンドルレでは、聖母の戴冠式が行われています。右側がキリスト、中央は父なる神ですね。ここは天上の世界。整然と並んだ、上品に着飾った人々が周りを囲んでいます。いつものことながら、とても退屈そうに見えますねえ。<br /><br />そして天国とくれば、お次は何だかおわかりでしょう。

    左側の壁面です。精一杯頑張ってみましたが半分しか写っていません。ご容赦を!

    中央のマンドルレでは、聖母の戴冠式が行われています。右側がキリスト、中央は父なる神ですね。ここは天上の世界。整然と並んだ、上品に着飾った人々が周りを囲んでいます。いつものことながら、とても退屈そうに見えますねえ。

    そして天国とくれば、お次は何だかおわかりでしょう。

  • お待たせしました。不鮮明ではありますが、右上に見える天使聖ミケーレの下には地獄が広がっています。「最後の審判」の世界です。<br /><br />中央にいるグリズリーのような! 迫力ある地獄の悪魔?が人間を貪り食っているのがお分かりでしょうか?<br /><br />これまで何度となく、様々な場所で見た地獄の風景ですが、この絵のインパクトは並大抵のものではありませんでした。地獄ファン?としては必見です。<br /><br />グリズリーの頭のすぐ左上に、貪欲で怒りに満ちたルシファーのような悪魔に抑え込まれた人間の姿があります。<br /><br />実は右側にも同じような場面があり、イスラム教の預言者ムハンマドに悪魔がのしかかっている絵が描かれています。何故ムハンマドだとわかるのかと言うと、そこにだけ彼の名前が書かれてあるからです。<br /><br /><br />

    お待たせしました。不鮮明ではありますが、右上に見える天使聖ミケーレの下には地獄が広がっています。「最後の審判」の世界です。

    中央にいるグリズリーのような! 迫力ある地獄の悪魔?が人間を貪り食っているのがお分かりでしょうか?

    これまで何度となく、様々な場所で見た地獄の風景ですが、この絵のインパクトは並大抵のものではありませんでした。地獄ファン?としては必見です。

    グリズリーの頭のすぐ左上に、貪欲で怒りに満ちたルシファーのような悪魔に抑え込まれた人間の姿があります。

    実は右側にも同じような場面があり、イスラム教の預言者ムハンマドに悪魔がのしかかっている絵が描かれています。何故ムハンマドだとわかるのかと言うと、そこにだけ彼の名前が書かれてあるからです。


  • 2002年、5人の北アフリカ人がこの礼拝堂で貴重なフレスコをヴィデオに撮るために撮影中、テロリストと間違えられ、逮捕される事件が起こったそうです。そして2006年にはアルカイダと思しき組織が礼拝堂を爆破しようとしましたが、イタリア警察に事前に阻止されました。<br /><br />イスラム教徒にとって、ムハンマドが地獄にいる。しかもルシファーのような悪魔に小突かれている。と聞いただけで冒涜だと思うでしょうね。そんなことになるとは露知らず、ジョヴァンニ・ダ・モデナは、ダンテの「神曲」の一場面からこれを描いたようです。<br /><br />今思ったのですが、こういった事件もあって、常に警戒できる入場体制にしたのかもしれません。 <br />

    2002年、5人の北アフリカ人がこの礼拝堂で貴重なフレスコをヴィデオに撮るために撮影中、テロリストと間違えられ、逮捕される事件が起こったそうです。そして2006年にはアルカイダと思しき組織が礼拝堂を爆破しようとしましたが、イタリア警察に事前に阻止されました。

    イスラム教徒にとって、ムハンマドが地獄にいる。しかもルシファーのような悪魔に小突かれている。と聞いただけで冒涜だと思うでしょうね。そんなことになるとは露知らず、ジョヴァンニ・ダ・モデナは、ダンテの「神曲」の一場面からこれを描いたようです。

    今思ったのですが、こういった事件もあって、常に警戒できる入場体制にしたのかもしれません。 

  • 右壁です。<br />色がおかしいのですが、これ以外は皆ボケていたのであしからず。こちらには、東方三博士の物語が綴られています。<br /><br />右上の1枚 「☆が現れる」。中央の高い場所に上った人が指さしている方向(左上隅)にベツレヘムの星が瞬き、救世主が生まれたことを知ります。<br /><br />なお、右壁の一番上の部分は、剥げてしまったのか、フレスコは残っていませんでした。

    右壁です。
    色がおかしいのですが、これ以外は皆ボケていたのであしからず。こちらには、東方三博士の物語が綴られています。

    右上の1枚 「☆が現れる」。中央の高い場所に上った人が指さしている方向(左上隅)にベツレヘムの星が瞬き、救世主が生まれたことを知ります。

    なお、右壁の一番上の部分は、剥げてしまったのか、フレスコは残っていませんでした。

  • 残っているのは全部で8場面のようです。こちらは何とか見ることができましたよ。<br /><br />星を頼りに、東方の国を出発した三博士は、ベツレヘムを目指します(右1段目)。そして、当時ユダヤの地を治めていたヘロデ王の宮殿に立ち寄ります。そしてこう尋ねるのです。<br /><br />「ユダヤ人の王としてお生れになったお方は、どこにおられますか?」<br /><br />左側上から2段目は、「ヘロデ王の宮殿を出発する三博士」です。右側にあるピンク色の宮殿がヘロデ王の宮殿のようです。<br /><br />その右側(右2段目)はヘロデ王の宮殿。王は浮かぬ顔をして、直ちに会議を開きます。ただでさえ自分に敵対する者は全て抹殺してきたヘロデ王がこれを聞いてどういう行動をとったかは、「幼児虐殺」を描いた絵画でご存知でしょう。<br />

    残っているのは全部で8場面のようです。こちらは何とか見ることができましたよ。

    星を頼りに、東方の国を出発した三博士は、ベツレヘムを目指します(右1段目)。そして、当時ユダヤの地を治めていたヘロデ王の宮殿に立ち寄ります。そしてこう尋ねるのです。

    「ユダヤ人の王としてお生れになったお方は、どこにおられますか?」

    左側上から2段目は、「ヘロデ王の宮殿を出発する三博士」です。右側にあるピンク色の宮殿がヘロデ王の宮殿のようです。

    その右側(右2段目)はヘロデ王の宮殿。王は浮かぬ顔をして、直ちに会議を開きます。ただでさえ自分に敵対する者は全て抹殺してきたヘロデ王がこれを聞いてどういう行動をとったかは、「幼児虐殺」を描いた絵画でご存知でしょう。

  • 少し欠けてしまいましたが、左下に馬や牛の姿が見えるのが、「東方三博士の礼拝」。そして、お終いの右下の場面では、大層立派な船に乗って、三博士が国に帰っていく場面です。<br /><br />1本マストの帆船の他、平底舟や教会を載せた舟も描かれていて、とても興味深く拝見しました。

    少し欠けてしまいましたが、左下に馬や牛の姿が見えるのが、「東方三博士の礼拝」。そして、お終いの右下の場面では、大層立派な船に乗って、三博士が国に帰っていく場面です。

    1本マストの帆船の他、平底舟や教会を載せた舟も描かれていて、とても興味深く拝見しました。

  • 最後は、ゴシック様式の教会には付き物のステンドグラスをどうぞ。こちらはボロッニーニ礼拝堂にあったステンドグラスです。

    最後は、ゴシック様式の教会には付き物のステンドグラスをどうぞ。こちらはボロッニーニ礼拝堂にあったステンドグラスです。

  • 有料の礼拝堂2つ目は、フレスコのある壁の左側に見える、左側廊1番最初にある聖アッボンディオ礼拝堂です。伝説的な礼拝堂で、まだ建設中の1392年10月に最初のミサが執り行われています。<br /><br />また、先ほど市庁舎のファルネーゼの間のフレスコで見た、教皇クレメンス7世による神聖ローマ皇帝カール5世の戴冠式はここで執り行われたと言われています。

    有料の礼拝堂2つ目は、フレスコのある壁の左側に見える、左側廊1番最初にある聖アッボンディオ礼拝堂です。伝説的な礼拝堂で、まだ建設中の1392年10月に最初のミサが執り行われています。

    また、先ほど市庁舎のファルネーゼの間のフレスコで見た、教皇クレメンス7世による神聖ローマ皇帝カール5世の戴冠式はここで執り行われたと言われています。

  • 1867年に、礼拝堂はアルビーノ・リッカリディによってネオゴシック様式で修復されています。<br /><br />壁に二つ描かれているのは、こちらも1420年頃のジョヴァンニ・ダ・モデナのフレスコで、「罪の贖いの寓意(アレゴリー)」と「シナゴグを超えた教会の勝利」というタイトルが付けられています。<br /><br />とても難しそうな内容・・・ ちらっと見える磔像の十字架のてっぺんには大きな鍵、右側には人面ライオンに乗った王女、左側には剣を持った騎士、十字架の根元には斧が描かれていました。<br /><br />

    1867年に、礼拝堂はアルビーノ・リッカリディによってネオゴシック様式で修復されています。

    壁に二つ描かれているのは、こちらも1420年頃のジョヴァンニ・ダ・モデナのフレスコで、「罪の贖いの寓意(アレゴリー)」と「シナゴグを超えた教会の勝利」というタイトルが付けられています。

    とても難しそうな内容・・・ ちらっと見える磔像の十字架のてっぺんには大きな鍵、右側には人面ライオンに乗った王女、左側には剣を持った騎士、十字架の根元には斧が描かれていました。

  • こちらは右壁にあるもの。非常に暗くて、何度撮り直してもこの有様!<br /><br />善と悪の木に由来している十字架は、聖母と聖人達の間から生えていて、新約聖書と神による新しい人々 と アダム、イヴ、司教、預言者等に代表される旧約聖書を表しているのだそう???

    こちらは右壁にあるもの。非常に暗くて、何度撮り直してもこの有様!

    善と悪の木に由来している十字架は、聖母と聖人達の間から生えていて、新約聖書と神による新しい人々 と アダム、イヴ、司教、預言者等に代表される旧約聖書を表しているのだそう???

  • ステンドグラスは幅がとても広いもので、縦に5列に聖人達が並んでいるもので、使われている青色が大変美しかったです。上段には聖アッボンディオと聖人達、下段には、聖母子を中心に天使達が描かれていました。これは内装工事が行われた後の1867年の作です。<br /><br />残りの有料礼拝堂聖ブリギダ、聖ロレンツォの各礼拝堂については、記憶が飛んでしまっています。写真がないと、思い出すことが全くできないという情けない状態で〜す。

    ステンドグラスは幅がとても広いもので、縦に5列に聖人達が並んでいるもので、使われている青色が大変美しかったです。上段には聖アッボンディオと聖人達、下段には、聖母子を中心に天使達が描かれていました。これは内装工事が行われた後の1867年の作です。

    残りの有料礼拝堂聖ブリギダ、聖ロレンツォの各礼拝堂については、記憶が飛んでしまっています。写真がないと、思い出すことが全くできないという情けない状態で〜す。

  • 気を取り直していきましょう。左側廊2番目にあった聖ペトロニオの礼拝堂です。<br /><br />アルフォンソ・トッレッギアニによって設計されたロココ調の装飾が目を惹きます。ここに聖ペトロニオの「頭」が聖遺物として収められているそうです。<br /><br />華やかなヴォールトはステファノ・オルランディとヴィットリオ・ビガーリの制作です。この一角だけ雰囲気が他と異なっていました。

    気を取り直していきましょう。左側廊2番目にあった聖ペトロニオの礼拝堂です。

    アルフォンソ・トッレッギアニによって設計されたロココ調の装飾が目を惹きます。ここに聖ペトロニオの「頭」が聖遺物として収められているそうです。

    華やかなヴォールトはステファノ・オルランディとヴィットリオ・ビガーリの制作です。この一角だけ雰囲気が他と異なっていました。

  • 左側廊4番目のボロッニーニ礼拝堂とその右隣の聖セバスティアーノ礼拝堂です。至る所に意地悪なロープが張られていて、これ以上進めず・・・

    左側廊4番目のボロッニーニ礼拝堂とその右隣の聖セバスティアーノ礼拝堂です。至る所に意地悪なロープが張られていて、これ以上進めず・・・

  • そしてこれが左側廊5番目の聖セバスティアーノの礼拝堂。この礼拝堂もステンドグラスが見事で、構図も色合いも他のものとは異なっていて楽しめました。

    そしてこれが左側廊5番目の聖セバスティアーノの礼拝堂。この礼拝堂もステンドグラスが見事で、構図も色合いも他のものとは異なっていて楽しめました。

  • ロレンツォ・コスタのマスターピース「玉座の聖母と聖人達」(1492年)と言われる祭壇画のある聖ヤコブ(イタリア語はジャコモ)の礼拝堂です(左側廊7番目)。肝心の祭壇画取り忘れています(汗)。かすかに聖セバスティアーノの裸の足が写っていますよ。<br /><br /><br />背後のステンドグラスの原画も、ロレンツォ・コスタのデザインだそうです。

    ロレンツォ・コスタのマスターピース「玉座の聖母と聖人達」(1492年)と言われる祭壇画のある聖ヤコブ(イタリア語はジャコモ)の礼拝堂です(左側廊7番目)。肝心の祭壇画取り忘れています(汗)。かすかに聖セバスティアーノの裸の足が写っていますよ。


    背後のステンドグラスの原画も、ロレンツォ・コスタのデザインだそうです。

  • こちらが、ロレンツォ・コスタ原作の聖ヤコブ礼拝堂のステンドグラスです。

    こちらが、ロレンツォ・コスタ原作の聖ヤコブ礼拝堂のステンドグラスです。

  • 聖ヤコブ礼拝堂には外側の壁にもフレスコが描かれていました。スタッコの飾り壁のだまし絵みたいですね。

    聖ヤコブ礼拝堂には外側の壁にもフレスコが描かれていました。スタッコの飾り壁のだまし絵みたいですね。

  • 聖ヤコブ礼拝堂の右側壁にあるのは、フェリーチェ・バチョッキとその妻エリザ・ボナパルトの葬送モニュメントです。1847年。<br /><br />フェリーチェは上流階級ながら貧しいコルシカ島の役人の家に生まれ、軍隊で異例の出世を果たし、ナポレオン・ボナパルトの妹エリザと1797年に結婚します。<br />その後も大佐、准将、少将と上り詰め、1805年にはルッカの王子様になっています。勿論それは妻の七光りあってのもので、妻の不義にもよく耐えた男性だそうですよ。<br /><br />ナポレオン失脚後、二人はトリエステ、そしてボローニャに住み、エルザ(1820年)、フェリーチェ(1841年)は共にボローニャで亡くなりました。<br /><br />

    聖ヤコブ礼拝堂の右側壁にあるのは、フェリーチェ・バチョッキとその妻エリザ・ボナパルトの葬送モニュメントです。1847年。

    フェリーチェは上流階級ながら貧しいコルシカ島の役人の家に生まれ、軍隊で異例の出世を果たし、ナポレオン・ボナパルトの妹エリザと1797年に結婚します。
    その後も大佐、准将、少将と上り詰め、1805年にはルッカの王子様になっています。勿論それは妻の七光りあってのもので、妻の不義にもよく耐えた男性だそうですよ。

    ナポレオン失脚後、二人はトリエステ、そしてボローニャに住み、エルザ(1820年)、フェリーチェ(1841年)は共にボローニャで亡くなりました。

  • 主祭壇の前にあるのは、4本のヴェローナ産大理石の柱で支えられた天蓋(チボリウム)です。当時聖堂内の設計チーフだった通称ヴィニョーラと呼ばれているジャコモ(あるいはヤコポ)・バロッツィ・ダ・ヴィニョーラの作です(1547年)。<br /><br />彼はモデナの近くのヴィニョーラの生まれで、ボローニャで建築を学びました。ファルネーゼ家のためにミケランジェロと共に働き、晩年、ミケランジェロが亡くなった後には、サン・ピエトロ寺院の彼の仕事を引き継いでいます。

    主祭壇の前にあるのは、4本のヴェローナ産大理石の柱で支えられた天蓋(チボリウム)です。当時聖堂内の設計チーフだった通称ヴィニョーラと呼ばれているジャコモ(あるいはヤコポ)・バロッツィ・ダ・ヴィニョーラの作です(1547年)。

    彼はモデナの近くのヴィニョーラの生まれで、ボローニャで建築を学びました。ファルネーゼ家のためにミケランジェロと共に働き、晩年、ミケランジェロが亡くなった後には、サン・ピエトロ寺院の彼の仕事を引き継いでいます。

  • ヴィニョーラは16世紀のマニエリスム期の建築家ですが、バロックの香りも漂ってきていますね。天蓋の屋根が四角形、八角形、円形などが使われていて複雑に重なっているのが注目に値します。

    ヴィニョーラは16世紀のマニエリスム期の建築家ですが、バロックの香りも漂ってきていますね。天蓋の屋根が四角形、八角形、円形などが使われていて複雑に重なっているのが注目に値します。

  • ヴィニョーラの天蓋の背後には、聖母子と聖ペトロニオを描いたフレスコがありました。聖ペトロニオの右に聖堂を運んでいる天使達がいて、聖堂の後ろに2つの斜塔があるのを見て、思わずにんまりしてしまいました。<br /><br />最後のボローニャ派と呼ばれているカルロ・チニャーニの作品です(1672年)。よく見ると祭壇画を取り囲む周りもフレスコで、こちらはマルカントニオ・フランチェスキーニとルイジ・クァニーニの共作です。

    ヴィニョーラの天蓋の背後には、聖母子と聖ペトロニオを描いたフレスコがありました。聖ペトロニオの右に聖堂を運んでいる天使達がいて、聖堂の後ろに2つの斜塔があるのを見て、思わずにんまりしてしまいました。

    最後のボローニャ派と呼ばれているカルロ・チニャーニの作品です(1672年)。よく見ると祭壇画を取り囲む周りもフレスコで、こちらはマルカントニオ・フランチェスキーニとルイジ・クァニーニの共作です。

  • 主祭壇の上に吊り下げられているのは、15世紀の作と言われる十字架です。誰が作ったのかわかっていないそうです。

    主祭壇の上に吊り下げられているのは、15世紀の作と言われる十字架です。誰が作ったのかわかっていないそうです。

  • 全部で12か所ある〇枠の中には、プットの顔が描かれていました。十字の先の部分だけ、黒く描かれているのは意味があるのかしら?

    全部で12か所ある〇枠の中には、プットの顔が描かれていました。十字の先の部分だけ、黒く描かれているのは意味があるのかしら?

  • こちらは、右側廊一番奥にある、歴代の聖遺物箱がずらりと収められたツァンベッカーリ礼拝堂です(12番目の礼拝堂)。聖堂の鐘楼はこの礼拝堂の上に建てられているのだそうですよ。

    こちらは、右側廊一番奥にある、歴代の聖遺物箱がずらりと収められたツァンベッカーリ礼拝堂です(12番目の礼拝堂)。聖堂の鐘楼はこの礼拝堂の上に建てられているのだそうですよ。

  • ブロンズ製の紋章と胸像が並ぶ柵があるのは、14番目のパドヴァの聖アントニオ礼拝堂です。胸像はドメニコ・ミランドーラによる制作です。目隠しをされたような、謎めいた胸像ですねえ。<br /><br />

    ブロンズ製の紋章と胸像が並ぶ柵があるのは、14番目のパドヴァの聖アントニオ礼拝堂です。胸像はドメニコ・ミランドーラによる制作です。目隠しをされたような、謎めいた胸像ですねえ。

  • 中央に飾られた聖アントニオの彫像は無視して、壁一面を覆っているフレスコに注目しました。1662年頃にジャコモ・アルボレイジとフルゲンツィオ・モンディーニによって描かれています。<br /><br />フランシスコ会に入信したアントニオは説教が大変上手で、その人柄と話法で民衆を虜にしたと言われています。スケールの大きいフレスコだけに、解説がなかったのが残念。

    中央に飾られた聖アントニオの彫像は無視して、壁一面を覆っているフレスコに注目しました。1662年頃にジャコモ・アルボレイジとフルゲンツィオ・モンディーニによって描かれています。

    フランシスコ会に入信したアントニオは説教が大変上手で、その人柄と話法で民衆を虜にしたと言われています。スケールの大きいフレスコだけに、解説がなかったのが残念。

  • 下の方に小さく写っているのが祭壇の聖アントニオ像。ヤコポ・サンソヴィーノの作品です。<br /><br />ここにも、これまた青が美しいステンドグラスがありましたよ。上段中央の二人がピエトロとパオロであること以外はどなたなのかはさっぱりです。

    下の方に小さく写っているのが祭壇の聖アントニオ像。ヤコポ・サンソヴィーノの作品です。

    ここにも、これまた青が美しいステンドグラスがありましたよ。上段中央の二人がピエトロとパオロであること以外はどなたなのかはさっぱりです。

  • モノクロームに近い色遣いで8つ壁に描かれているのは、ジローラモ・トレヴィゾによる聖アントニオの奇跡の場面の数々です。油絵具で描かれていてグリザイユ(=灰色)と呼ばれている手法だそうです。ちょうど写真で言うセピアのような印象ですね。

    モノクロームに近い色遣いで8つ壁に描かれているのは、ジローラモ・トレヴィゾによる聖アントニオの奇跡の場面の数々です。油絵具で描かれていてグリザイユ(=灰色)と呼ばれている手法だそうです。ちょうど写真で言うセピアのような印象ですね。

  • 聖アントニオは若くして亡くなったにもかかわず、非常に奇跡の話が多い聖人です。海の魚が一斉に顔を出して、彼の説教に聞き入った話。ロバが餌よりも彼が持っていた聖体を選んだ話などが有名です。ここに描かれているのは小さくて一つ一つは確認できませんでしたが、動物たちの姿は確認できませんでした。人間にまつわる奇跡だけのようです。<br /><br />じっくりと解説つきで見たかったなあ・・・

    聖アントニオは若くして亡くなったにもかかわず、非常に奇跡の話が多い聖人です。海の魚が一斉に顔を出して、彼の説教に聞き入った話。ロバが餌よりも彼が持っていた聖体を選んだ話などが有名です。ここに描かれているのは小さくて一つ一つは確認できませんでしたが、動物たちの姿は確認できませんでした。人間にまつわる奇跡だけのようです。

    じっくりと解説つきで見たかったなあ・・・

  • 左側廊から数えて16番目の礼拝堂は無原罪の礼拝堂です。以前は洗礼者聖ヨハネに捧げる礼拝堂でしたが、20世紀に入って大規模な改修工事が行われています。<br /><br />聖歌隊席と見まがうような立派な木製の椅子が三方の壁を取りまいており、その上の聖人の描かれたニッチェのある壁は、アールヌーヴォー的な装飾が施されていました。

    左側廊から数えて16番目の礼拝堂は無原罪の礼拝堂です。以前は洗礼者聖ヨハネに捧げる礼拝堂でしたが、20世紀に入って大規模な改修工事が行われています。

    聖歌隊席と見まがうような立派な木製の椅子が三方の壁を取りまいており、その上の聖人の描かれたニッチェのある壁は、アールヌーヴォー的な装飾が施されていました。

  • テラコッタのフレームを用いた装飾を担当したのはアンジェロ・ヴィアーロ。これは1929年に工事が終了しましたが、ニッチェ内のフレスコは1908年から延々と50年近くかかって、最終的にアキーレ・カサノヴァが完成させました。<br /><br />聖堂内で一番新しい礼拝堂と言えますが、統一感があり、完璧に仕上がっているという印象を受けました。

    テラコッタのフレームを用いた装飾を担当したのはアンジェロ・ヴィアーロ。これは1929年に工事が終了しましたが、ニッチェ内のフレスコは1908年から延々と50年近くかかって、最終的にアキーレ・カサノヴァが完成させました。

    聖堂内で一番新しい礼拝堂と言えますが、統一感があり、完璧に仕上がっているという印象を受けました。

  • この修復は1898年に学者ボローニャの学者アルフォンソ・ルッビアーニが創立した芸術品の復元を手掛ける法人が行ったもので、ルッビアーニ亡き後はカサノヴァが芸術監督に就任しています。<br /><br />花模様にゴブレットや鳥等がちりばめられたタイル張りの床も見事!

    この修復は1898年に学者ボローニャの学者アルフォンソ・ルッビアーニが創立した芸術品の復元を手掛ける法人が行ったもので、ルッビアーニ亡き後はカサノヴァが芸術監督に就任しています。

    花模様にゴブレットや鳥等がちりばめられたタイル張りの床も見事!

  • 祭壇内の無原罪の御宿りの聖母像は1725年、パドヴァ生まれの彫刻家アゴスティーノ・コルシーニによるものです。20世紀製の幕屋とのコラボもばっちりです。<br /><br />背後のステンドグラスも新感覚のもので、聖母の引き立て役に徹しているように思われます。

    祭壇内の無原罪の御宿りの聖母像は1725年、パドヴァ生まれの彫刻家アゴスティーノ・コルシーニによるものです。20世紀製の幕屋とのコラボもばっちりです。

    背後のステンドグラスも新感覚のもので、聖母の引き立て役に徹しているように思われます。

  • 右側廊17番目の、かつてはカステッリ家の持ち物だった聖ヒエロニムスの礼拝堂です。

    右側廊17番目の、かつてはカステッリ家の持ち物だった聖ヒエロニムスの礼拝堂です。

  • 祭壇画はロレンツォ・コスタ(1460年?1535年)による聖ヒエロニムスが描かれていました。これまた写真は失敗作ですね。ショボン・・・<br /><br />フェッラーラ生まれのコスタは、20代でボローニャに移り住みましたが、フェッラーラ時代、コズメ・トゥーラの弟子だったとされています。

    祭壇画はロレンツォ・コスタ(1460年?1535年)による聖ヒエロニムスが描かれていました。これまた写真は失敗作ですね。ショボン・・・

    フェッラーラ生まれのコスタは、20代でボローニャに移り住みましたが、フェッラーラ時代、コズメ・トゥーラの弟子だったとされています。

  • 右側廊にある19番目の十字架の礼拝堂(あるいはリナルディ家の礼拝堂)です。ここも祭壇はそっちのけで、写したのはステンドグラスだけ。この聖堂で一番のお気に入りになったステンドグラスです。<br /><br />デザインはミケーレ・ディ・マッテオ。制作したのはドイツ出身の福者ヤコブ・グリジンガー(イタリア名ジャコモ・ダ・ウルマ)で、1464年から66年頃の作品です。

    右側廊にある19番目の十字架の礼拝堂(あるいはリナルディ家の礼拝堂)です。ここも祭壇はそっちのけで、写したのはステンドグラスだけ。この聖堂で一番のお気に入りになったステンドグラスです。

    デザインはミケーレ・ディ・マッテオ。制作したのはドイツ出身の福者ヤコブ・グリジンガー(イタリア名ジャコモ・ダ・ウルマ)で、1464年から66年頃の作品です。

  • 最上部にあるバラ窓には「復活のキリスト」。周りの16ある尖がり部分には聖人と思える顔が並んでいますが、素晴らしい配色に見とれてしまいます。

    イチオシ

    最上部にあるバラ窓には「復活のキリスト」。周りの16ある尖がり部分には聖人と思える顔が並んでいますが、素晴らしい配色に見とれてしまいます。

  • その下の2つの花形部分には、不鮮明ですが、「受胎告知」が描かれていました。<br /><br />4列2段に並んだ聖人達は、左上から福音記者ヨハネ、ピエトロ、パオロ、ヤコブ、<br />下の段はボナヴェントゥーラ、教皇グレゴリウス1世、アウグスティヌス、ドメニコだそうです。聖人達の立っているニッチェの幕屋の尖がり屋根が一つ一つ異なっていて、黄金色に輝いています。赤や紫、そして緑色が実に鮮やか! うっとりしてしまいました。

    イチオシ

    その下の2つの花形部分には、不鮮明ですが、「受胎告知」が描かれていました。

    4列2段に並んだ聖人達は、左上から福音記者ヨハネ、ピエトロ、パオロ、ヤコブ、
    下の段はボナヴェントゥーラ、教皇グレゴリウス1世、アウグスティヌス、ドメニコだそうです。聖人達の立っているニッチェの幕屋の尖がり屋根が一つ一つ異なっていて、黄金色に輝いています。赤や紫、そして緑色が実に鮮やか! うっとりしてしまいました。

  • 巨大なレンガの柱や壁に残っていたフレスコを何枚か紹介。<br /><br />左手に聖ジョルジュの旗を持った巡礼者に見えますね。<br />

    巨大なレンガの柱や壁に残っていたフレスコを何枚か紹介。

    左手に聖ジョルジュの旗を持った巡礼者に見えますね。

  • ドメニコ会の法衣なので聖ドメニコかしら?<br /><br />彼の左下にいる包帯でぐるぐる巻きにされた幼児の姿が気になります。

    ドメニコ会の法衣なので聖ドメニコかしら?

    彼の左下にいる包帯でぐるぐる巻きにされた幼児の姿が気になります。

  • 3世紀に殉教した聖クリストフォロス。「キリストを背負う者」という名前が示す通り、肩にキリストの幼子を載せています。<br /><br />頼まれて彼が小さな子供を肩に乗せて川を渡った時、その子供が途中から異常に重くなり、彼自身が溺れかけるほどになり、ようやく岸にたどり着いたそうです。子供は自分がキリストだと名乗り、これからはクリストフォロスと名乗るよう告げて、彼を祝福したのだとか。<br /><br />優しい力持ちの大男らしく、このフレスコもでかい!

    3世紀に殉教した聖クリストフォロス。「キリストを背負う者」という名前が示す通り、肩にキリストの幼子を載せています。

    頼まれて彼が小さな子供を肩に乗せて川を渡った時、その子供が途中から異常に重くなり、彼自身が溺れかけるほどになり、ようやく岸にたどり着いたそうです。子供は自分がキリストだと名乗り、これからはクリストフォロスと名乗るよう告げて、彼を祝福したのだとか。

    優しい力持ちの大男らしく、このフレスコもでかい!

  • こちらは、礼拝堂の中にあったフレスコですが、どこの礼拝堂だった失念。新しい作品に見えますが、全体の雰囲気が気にいりました。<br /><br />壁の下には、旧約聖書をテーマにしたレリーフ・パネルが並んでいます。

    こちらは、礼拝堂の中にあったフレスコですが、どこの礼拝堂だった失念。新しい作品に見えますが、全体の雰囲気が気にいりました。

    壁の下には、旧約聖書をテーマにしたレリーフ・パネルが並んでいます。

  • 右側廊最後22番目の礼拝堂は「平和の聖母」に捧げられていました。祭壇画の一部がくり抜かれ、中にはイストリア産の石で作られた聖母子像が見えるようになっています。こちらは古いもので1394年、ジョヴァンニ・フェラベッキによるもの。祭壇画は1525年のジャコモ・フランシア作です。青みがかった背景が印象に残りました。<br /><br />22の礼拝堂の多くが個性的で、目移りすることしきり。事前の調査をせずに、目を惹いたもののみ写したので、見どころと言われている礼拝堂をかなり端折ってしまっていることが後に判明しました。まあ、いつものことですがね・・・

    右側廊最後22番目の礼拝堂は「平和の聖母」に捧げられていました。祭壇画の一部がくり抜かれ、中にはイストリア産の石で作られた聖母子像が見えるようになっています。こちらは古いもので1394年、ジョヴァンニ・フェラベッキによるもの。祭壇画は1525年のジャコモ・フランシア作です。青みがかった背景が印象に残りました。

    22の礼拝堂の多くが個性的で、目移りすることしきり。事前の調査をせずに、目を惹いたもののみ写したので、見どころと言われている礼拝堂をかなり端折ってしまっていることが後に判明しました。まあ、いつものことですがね・・・

  • こちらの線は、聖堂の名物の一つ、左側廊の床に敷かれた子午線です。聖堂天井のどこかに穴が開いていて、そこから光が入るようになっているそうですが、目に入りませんでした。<br /><br />1655年、大学の天文学の教授ジョヴァンニ・ドメニコ・カッシーニによって敷かれたのだそうです。子午線は時間を表すものではなく、その年の日にちを表すもので、太陽暦による1年の正確な長さを計測することが可能です。カッシーニが1695年に発表した著書の中には、ここで長年計測した結果が図で表されていたそうですよ。<br /><br />床の大理石に刻まれているのは、うお座とさそり座のシンボルですね。

    こちらの線は、聖堂の名物の一つ、左側廊の床に敷かれた子午線です。聖堂天井のどこかに穴が開いていて、そこから光が入るようになっているそうですが、目に入りませんでした。

    1655年、大学の天文学の教授ジョヴァンニ・ドメニコ・カッシーニによって敷かれたのだそうです。子午線は時間を表すものではなく、その年の日にちを表すもので、太陽暦による1年の正確な長さを計測することが可能です。カッシーニが1695年に発表した著書の中には、ここで長年計測した結果が図で表されていたそうですよ。

    床の大理石に刻まれているのは、うお座とさそり座のシンボルですね。

  • こちらは、みずがめ座といて座。

    こちらは、みずがめ座といて座。

  • こちらはかに座。これだけ四角い大理石2枚使用しています。なぜだろう?? 夏至と関係があるのでしょうか?

    こちらはかに座。これだけ四角い大理石2枚使用しています。なぜだろう?? 夏至と関係があるのでしょうか?

  • 最後はカウンターファサードです。光が斜め右側から差し込んでいますが、これが子午線の光ではないですよね。<br /><br />広い堂内、見逃したものも多々あったようですが、ボロッニーニ礼拝堂が見られただけで満足です。ボローニャ人気質を垣間見ることが出来た、素晴らしい聖堂でした。願わくは、ボロッニーニ礼拝堂がこれからも無事でありますように!

    最後はカウンターファサードです。光が斜め右側から差し込んでいますが、これが子午線の光ではないですよね。

    広い堂内、見逃したものも多々あったようですが、ボロッニーニ礼拝堂が見られただけで満足です。ボローニャ人気質を垣間見ることが出来た、素晴らしい聖堂でした。願わくは、ボロッニーニ礼拝堂がこれからも無事でありますように!

  • 街歩きに戻りましょう。<br /><br />聖ペトロニオ聖堂を出て向かって右側に見えるこちらの建物のアーチに向かって進みます。

    街歩きに戻りましょう。

    聖ペトロニオ聖堂を出て向かって右側に見えるこちらの建物のアーチに向かって進みます。

  • アーチをくぐるとそこはクラヴァトゥーレ通り。<br /><br />わぁ〜 なんちゃってこの人込みです。日曜日のお昼ですからね。<br /><br />

    アーチをくぐるとそこはクラヴァトゥーレ通り。

    わぁ〜 なんちゃってこの人込みです。日曜日のお昼ですからね。

  • で入っていくのをやめて、今度は聖堂脇のポルティコを北に進みます。

    で入っていくのをやめて、今度は聖堂脇のポルティコを北に進みます。

  • するとすぐにレ・エンツォ広場に到着。<br /><br />市を統治する長官の住まいだったポデスタ(ポデスタとは町や市の行政長官と言う意味)館とエンツォ王宮殿の裏側に出ましたよ。先ほど表側から見た雰囲気とは全く異なりますね。<br /><br />このアンバランスな窓の配置がぞくぞくするほど素敵に見えます。

    するとすぐにレ・エンツォ広場に到着。

    市を統治する長官の住まいだったポデスタ(ポデスタとは町や市の行政長官と言う意味)館とエンツォ王宮殿の裏側に出ましたよ。先ほど表側から見た雰囲気とは全く異なりますね。

    このアンバランスな窓の配置がぞくぞくするほど素敵に見えます。

  • ポデスタ館の正面はどうやら、聖ペトロニオ聖堂の真正面だったらしいのですが、そう言えば1枚も写真撮りませんでした。<br /><br />1200年頃に建てられた古い建物ですが、聖ペトロニオ聖堂に面した側は、1553年頃にルネサンス様式のファサードに作り替えられています。<br /><br />個人的には、この無秩序で荒削りなゴシックの方が好みです。

    ポデスタ館の正面はどうやら、聖ペトロニオ聖堂の真正面だったらしいのですが、そう言えば1枚も写真撮りませんでした。

    1200年頃に建てられた古い建物ですが、聖ペトロニオ聖堂に面した側は、1553年頃にルネサンス様式のファサードに作り替えられています。

    個人的には、この無秩序で荒削りなゴシックの方が好みです。

  • 再び、ウーゴ・バッシ通りから名前の変わったリッツォリ通りを進みます。この辺りは町の中心だけに、ポルティコも立派です。

    再び、ウーゴ・バッシ通りから名前の変わったリッツォリ通りを進みます。この辺りは町の中心だけに、ポルティコも立派です。

  • 道路工事はまだ暫くかかりそうですね。道路を横断できる箇所が少ないので、午前中は苦労しました。

    道路工事はまだ暫くかかりそうですね。道路を横断できる箇所が少ないので、午前中は苦労しました。

  • ポルティコからひょいと首を出すと、おお! 斜塔が目の前に迫っていました。ポルティコは見通しが効かないのが弱点かもしれません。<br /><br />向かって左側がガリセンダの塔で48m。右に傾いているように見えます。<br />右側がアシネッリの塔で97m。こちらは、どの方向に傾いているのか、ここからでは確認出来ませんでした。<br /><br />今はこの2つの塔がボローニャを代表する塔となっていますが、昔はこんなもんじゃありませんでした。サン・ジミニャーノの町なんて比べ物になりません。

    ポルティコからひょいと首を出すと、おお! 斜塔が目の前に迫っていました。ポルティコは見通しが効かないのが弱点かもしれません。

    向かって左側がガリセンダの塔で48m。右に傾いているように見えます。
    右側がアシネッリの塔で97m。こちらは、どの方向に傾いているのか、ここからでは確認出来ませんでした。

    今はこの2つの塔がボローニャを代表する塔となっていますが、昔はこんなもんじゃありませんでした。サン・ジミニャーノの町なんて比べ物になりません。

  • ウィキペディアToni Pecorano氏のサイトからお借りしたこちらの絵は、11世紀のボローニャの想像図です。ニューヨークの摩天楼ではありません。<br /><br />12世紀から13世紀ごろの中世のボローニャでは最高で100を超える塔が乱立していたそうです。塔を建てた理由はいまだによくわかっていないそうですが、裕福な家の権力の証だったと考えられているそうです。<br /><br />モデナの項でも書きましたが、相手より1mでも高い塔を持つことで、優越感を感じていたようです。現在残っている塔は24だけだそうです。

    ウィキペディアToni Pecorano氏のサイトからお借りしたこちらの絵は、11世紀のボローニャの想像図です。ニューヨークの摩天楼ではありません。

    12世紀から13世紀ごろの中世のボローニャでは最高で100を超える塔が乱立していたそうです。塔を建てた理由はいまだによくわかっていないそうですが、裕福な家の権力の証だったと考えられているそうです。

    モデナの項でも書きましたが、相手より1mでも高い塔を持つことで、優越感を感じていたようです。現在残っている塔は24だけだそうです。

  • 建物壁のニッチェに、聖ペトロニオ発見!

    建物壁のニッチェに、聖ペトロニオ発見!

  • 時刻は2時頃。少しお腹がすいたので、1本横道に逸れて遅いランチを取ることにしました。<br /><br />ボローニャと言えば、パスタはボロネーゼです。折角なので、本場のボロネーゼを賞味するとしましょう。<br /><br />そしてパスタの種類はタリアテッレと書いてあった、こちらのお店を選びました。後で調べたらタリアテッレはイタリア中南部で言うフィットチーネと同じものなんですって。なんだ。知らなんだ・・・

    時刻は2時頃。少しお腹がすいたので、1本横道に逸れて遅いランチを取ることにしました。

    ボローニャと言えば、パスタはボロネーゼです。折角なので、本場のボロネーゼを賞味するとしましょう。

    そしてパスタの種類はタリアテッレと書いてあった、こちらのお店を選びました。後で調べたらタリアテッレはイタリア中南部で言うフィットチーネと同じものなんですって。なんだ。知らなんだ・・・

  • こちらが、ボローニャのタリアテッレ・ボロネーゼです。味の方は、ううん、まあまあでしょうか。ギザギザのある一風変わった麺でしたよ。

    こちらが、ボローニャのタリアテッレ・ボロネーゼです。味の方は、ううん、まあまあでしょうか。ギザギザのある一風変わった麺でしたよ。

  • 乏しい単語の中からわかるもので、「焼き野菜」を頼んだら、ズッキーニを薄く縦に切ったものがドカンと大皿に現れて、びっくりしてしまいました。野菜不足解消を狙ったのですが、そうは問屋が卸さなかった。<br /><br />でも、塩コショウとオリーブオイルで美味しく頂きましたよ。

    乏しい単語の中からわかるもので、「焼き野菜」を頼んだら、ズッキーニを薄く縦に切ったものがドカンと大皿に現れて、びっくりしてしまいました。野菜不足解消を狙ったのですが、そうは問屋が卸さなかった。

    でも、塩コショウとオリーブオイルで美味しく頂きましたよ。

  • 食後、裏道を彷徨っていたら、古いゲットーのある地区に出ました。斜塔のある広場の周りには、くねくねした細い路地が何本もあり、16世紀頃のゲットーを髣髴させる建物が残っています。<br /><br />ところどころにボローニャ市が作った地図と案内板があるのですが、イタリア語オンリーだし、私の持っている地図と上下が逆だったりして、見づらいことこの上なし。ここはそんなゲットーの一つサン・シモーネ通りです。

    食後、裏道を彷徨っていたら、古いゲットーのある地区に出ました。斜塔のある広場の周りには、くねくねした細い路地が何本もあり、16世紀頃のゲットーを髣髴させる建物が残っています。

    ところどころにボローニャ市が作った地図と案内板があるのですが、イタリア語オンリーだし、私の持っている地図と上下が逆だったりして、見づらいことこの上なし。ここはそんなゲットーの一つサン・シモーネ通りです。

  • ユダヤ人街とは何の関係もないと思いますが、こちらのお屋敷の庇の下には、とても美しいモザイクが見られました。

    ユダヤ人街とは何の関係もないと思いますが、こちらのお屋敷の庇の下には、とても美しいモザイクが見られました。

  • その詳細です。FAC・TEは事実、SACRAは儀式を表すラテン語です。

    その詳細です。FAC・TEは事実、SACRAは儀式を表すラテン語です。

  • こちらは、古いゲットーのある道を表す地図です。でも現在地がわからない私にとってはあまり役に立ちませんでした。

    こちらは、古いゲットーのある道を表す地図です。でも現在地がわからない私にとってはあまり役に立ちませんでした。

  • 更にユダヤ人街をうろつきます。地図を持たない私が引き寄せられていったのは、先ほどまでいたゲットーよりも更にくねくねとして、日の当たらない細い道です。

    更にユダヤ人街をうろつきます。地図を持たない私が引き寄せられていったのは、先ほどまでいたゲットーよりも更にくねくねとして、日の当たらない細い道です。

  • 道のどんづまりにあったのは、かつて教会だったという聖ジョッベ教会です。1494年に建てられたというルネサンス様式のファサードがそのまま残っています。<br /><br />ここは中世の時代病院(なんでも、梅毒専門の病院だったらしいですよ。イタリアでは梅毒のことをフランス病と呼んでいたそうです。ナポレオンの軍隊が持ち込んだに違いないと思われていたからなんですって。おお 脱線!)として使われていましたが、別の病院に設備が移った1808年以降、建物はほったらかしにされてきました。<br /><br />1903年に思わぬ建物の使い道が出来、建物は再度装飾され直されたそうです。使い道ってなんだと思われますか? 

    道のどんづまりにあったのは、かつて教会だったという聖ジョッベ教会です。1494年に建てられたというルネサンス様式のファサードがそのまま残っています。

    ここは中世の時代病院(なんでも、梅毒専門の病院だったらしいですよ。イタリアでは梅毒のことをフランス病と呼んでいたそうです。ナポレオンの軍隊が持ち込んだに違いないと思われていたからなんですって。おお 脱線!)として使われていましたが、別の病院に設備が移った1808年以降、建物はほったらかしにされてきました。

    1903年に思わぬ建物の使い道が出来、建物は再度装飾され直されたそうです。使い道ってなんだと思われますか? 

  • 答えは「通路」です。なんと豪華な通路ではありませんか! 元教会の身廊を通って、人々が往来のために利用していました。<br /><br />ペルージャでは元要塞が「通路」として使われていましたが、古いものを決して壊さずに大切に再利用するイタリアならではのものだと感心しました。

    答えは「通路」です。なんと豪華な通路ではありませんか! 元教会の身廊を通って、人々が往来のために利用していました。

    ペルージャでは元要塞が「通路」として使われていましたが、古いものを決して壊さずに大切に再利用するイタリアならではのものだと感心しました。

  • 右下のアーチから入って、上の写真の奥へと抜けられるようになっています。現在この建物と隣接する旧アックアデミ宮殿は合わせて、ガッレリア・アックアデミと呼ばれています。<br /><br />とてもおしゃれな抜け道です。<br />

    右下のアーチから入って、上の写真の奥へと抜けられるようになっています。現在この建物と隣接する旧アックアデミ宮殿は合わせて、ガッレリア・アックアデミと呼ばれています。

    とてもおしゃれな抜け道です。

  • ようやく、2つの斜塔のあるラヴェニャーナ門広場に出ました。ガリセンダの塔が傾いているのはよ~く分かりますが、高いアシネッリの塔はここからだとまっすぐに立っているように見えます。<br /><br />11から12世紀に最盛期を迎えたボローニャの塔は、その多くが13世紀に途中でちょん切られたり取り壊されたりしました。後の時代には塔は、牢獄、店舗、住宅として使われることも多くなりました。<br /><br />20世紀に入ると、14世紀に作られた城壁に沿って、新しい都市計画の邪魔になるという理由で、多くの塔が取り壊されたそうです。まあ、古くて危険だと言う理由もあったのでしょうが、塔が乱立する姿をこの目で見てみたかった気がします。

    ようやく、2つの斜塔のあるラヴェニャーナ門広場に出ました。ガリセンダの塔が傾いているのはよ~く分かりますが、高いアシネッリの塔はここからだとまっすぐに立っているように見えます。

    11から12世紀に最盛期を迎えたボローニャの塔は、その多くが13世紀に途中でちょん切られたり取り壊されたりしました。後の時代には塔は、牢獄、店舗、住宅として使われることも多くなりました。

    20世紀に入ると、14世紀に作られた城壁に沿って、新しい都市計画の邪魔になるという理由で、多くの塔が取り壊されたそうです。まあ、古くて危険だと言う理由もあったのでしょうが、塔が乱立する姿をこの目で見てみたかった気がします。

  • 斜塔の背後に見えるのは、聖バルトロメオと聖ガエターノ教会。聖バルトロメオ教会は5世紀ころから存在していましたが、現在のルネサンス様式の教会が建てられたのは1516年のことです。<br /><br />時計台のある鐘楼は、1694年に完成しています。

    斜塔の背後に見えるのは、聖バルトロメオと聖ガエターノ教会。聖バルトロメオ教会は5世紀ころから存在していましたが、現在のルネサンス様式の教会が建てられたのは1516年のことです。

    時計台のある鐘楼は、1694年に完成しています。

  • 二つの斜塔が立つ広場は、古くからの街道がいくつも交差する場所にあり、中世ボローニャの中心地でした。<br /><br />アシネッリの塔は垂直軸から1.3度傾いているそうで、ピサの斜塔の高さを超え、イタリアで一番高い斜塔だとボローニャ子が自慢していました。1109年から19年の間に建てられ、所有者の名前からアシネッリと呼ばれています。<br /><br />14世紀には市の所有物となり、牢獄、要塞として使われてきました。同じ頃、地上30m地点に、お隣のガリセンダの塔との間に木造の空中歩道が作られたそうですが、火災により1398年に焼失しています。想像しただけでも、渡りたくない代物ですね。塔の高さが100mを超えていた時代があったようですが、ベンティヴォーリオの時代に今の高さまで削られました。

    二つの斜塔が立つ広場は、古くからの街道がいくつも交差する場所にあり、中世ボローニャの中心地でした。

    アシネッリの塔は垂直軸から1.3度傾いているそうで、ピサの斜塔の高さを超え、イタリアで一番高い斜塔だとボローニャ子が自慢していました。1109年から19年の間に建てられ、所有者の名前からアシネッリと呼ばれています。

    14世紀には市の所有物となり、牢獄、要塞として使われてきました。同じ頃、地上30m地点に、お隣のガリセンダの塔との間に木造の空中歩道が作られたそうですが、火災により1398年に焼失しています。想像しただけでも、渡りたくない代物ですね。塔の高さが100mを超えていた時代があったようですが、ベンティヴォーリオの時代に今の高さまで削られました。

  • ガリセンダの塔が作られたのは、アシネッリの塔とさほど変わらない時期のようです。最初は今より20m高かったそうですが、軟弱な地盤と基盤整備不足のために傾きがどんどんひどくなり、危険と判断されて、1351年から60年の間に先端が切り縮められました。<br /><br />15世紀には生地屋になったり、1階部分に他の建物とつないで教会が建てられたりしましたが、19世紀末までにすべて壊されてしまっています。20世紀に入り、最後の所有者が、メンテナンスを行うことを条件に市に寄贈したと聞きました。<br /><br />基盤部分の白い石組は19世紀後半に行われた補強工事の結果だそうです。

    ガリセンダの塔が作られたのは、アシネッリの塔とさほど変わらない時期のようです。最初は今より20m高かったそうですが、軟弱な地盤と基盤整備不足のために傾きがどんどんひどくなり、危険と判断されて、1351年から60年の間に先端が切り縮められました。

    15世紀には生地屋になったり、1階部分に他の建物とつないで教会が建てられたりしましたが、19世紀末までにすべて壊されてしまっています。20世紀に入り、最後の所有者が、メンテナンスを行うことを条件に市に寄贈したと聞きました。

    基盤部分の白い石組は19世紀後半に行われた補強工事の結果だそうです。

  • ここは、6本の道の交差点になっていて、本当に交通量の激しい場所です。ほらっ! 「二つの塔」行きのバスもやってきましたよ。

    ここは、6本の道の交差点になっていて、本当に交通量の激しい場所です。ほらっ! 「二つの塔」行きのバスもやってきましたよ。

  • 写しだしたらきりがないのですが、もう1枚だけアップ!<br /><br />アシネッリの塔の前にあるのは勿論! 町の守護聖人聖ペトロニオ像です。

    写しだしたらきりがないのですが、もう1枚だけアップ!

    アシネッリの塔の前にあるのは勿論! 町の守護聖人聖ペトロニオ像です。

  • 先ほど見た聖バルトロメオと聖ガエターノ教会にやってきました。ファサードとしてはとても変わった造りです。<br /><br />この扉のある部分だけが突き出していて・・・

    先ほど見た聖バルトロメオと聖ガエターノ教会にやってきました。ファサードとしてはとても変わった造りです。

    この扉のある部分だけが突き出していて・・・

  • 奥にポルティコが続いています。1516年に元あった教会を取り壊し、アンドレア・ダ・フォルミギーネの設計で建て直されたものです。建設当初は、建物に沿ってポルティコがぐるりと一周する設計だったようですが、ここまで完成した段階でパトロンが亡くなり、工事は途中でストップしています。<br /><br />遠くで見た時より、近くに来たら、柱などの痛みが目につきました。

    奥にポルティコが続いています。1516年に元あった教会を取り壊し、アンドレア・ダ・フォルミギーネの設計で建て直されたものです。建設当初は、建物に沿ってポルティコがぐるりと一周する設計だったようですが、ここまで完成した段階でパトロンが亡くなり、工事は途中でストップしています。

    遠くで見た時より、近くに来たら、柱などの痛みが目につきました。

  • 薄暗いポルティコのルーネット部分にはフレスコが描かれていましたが、暗くてよく内容がわかりませんでした。<br /><br />後で調べたら、ここには聖ガエターノの生涯の物語が描かれているのだそうです。

    薄暗いポルティコのルーネット部分にはフレスコが描かれていましたが、暗くてよく内容がわかりませんでした。

    後で調べたら、ここには聖ガエターノの生涯の物語が描かれているのだそうです。

  • この教会最初は聖バルトロメオ教会でしたが、1599年に建物がテアティノ(テアティン)修道会の所有となり、テアティノ会創立者のガエターノが列聖された1671年以降は、二人の聖人に捧げられています。<br /><br />ポルティコの奥には、外のものよりずっと鮮明なフリーズのある扉がありましたが、こちらも固く門を閉ざしていました。日曜日の午後はお休みかしら? あらら残念〜!

    この教会最初は聖バルトロメオ教会でしたが、1599年に建物がテアティノ(テアティン)修道会の所有となり、テアティノ会創立者のガエターノが列聖された1671年以降は、二人の聖人に捧げられています。

    ポルティコの奥には、外のものよりずっと鮮明なフリーズのある扉がありましたが、こちらも固く門を閉ざしていました。日曜日の午後はお休みかしら? あらら残念〜!

  • 斜塔のある広場から今度は狭いザンポーニ通りを辿ります。

    斜塔のある広場から今度は狭いザンポーニ通りを辿ります。

  • 上の写真のポルティコの左側広場に建っていたのが、こちらの外壁がフレスコで覆われたサン・ドナート教会。だいぶ色あせてしまっていますが、だまし絵の画法を使って、柱や装飾がフレスコで描かれています。<br /><br />1990年以来、この教会では貧しい人々への日曜日のミサが行われて、ミサの後食事がふるまわれるそうです。前にずらりと並んでいるのは、隣のカフェの椅子です。

    上の写真のポルティコの左側広場に建っていたのが、こちらの外壁がフレスコで覆われたサン・ドナート教会。だいぶ色あせてしまっていますが、だまし絵の画法を使って、柱や装飾がフレスコで描かれています。

    1990年以来、この教会では貧しい人々への日曜日のミサが行われて、ミサの後食事がふるまわれるそうです。前にずらりと並んでいるのは、隣のカフェの椅子です。

  • 教会近くのポルティコ内では、アカペラの合唱団が、美しい讃美歌を聞かせてくれました。

    教会近くのポルティコ内では、アカペラの合唱団が、美しい讃美歌を聞かせてくれました。

  • 次にやってきたのは、地球の〇き方に「町で最も美術品で飾られた教会」と書かれていたアウグスティン会が所有するサン・ジャコモ・マッジョーレ教会。1267年〜1315年の間に建てられた後期ロマネスク様式のファサードには、イストリア産の石がヴェネツィア風の窓枠に効果的に配置されています。中央扉の両側にあるアーチの中は、14世紀初期に追加されたお墓だそうです。<br /><br />先ほどの聖ペトロニオ聖堂にあった22の礼拝堂で驚いてはいけません。この教会の中にはなんと35の礼拝堂があるとのこと。但し、これは後で知ったこと。何の予備知識を持たぬまま、のこのことやって参りました。<br /><br />時間が早すぎたのかなあ。ここも扉は閉まっていました。<br /><br />

    次にやってきたのは、地球の〇き方に「町で最も美術品で飾られた教会」と書かれていたアウグスティン会が所有するサン・ジャコモ・マッジョーレ教会。1267年〜1315年の間に建てられた後期ロマネスク様式のファサードには、イストリア産の石がヴェネツィア風の窓枠に効果的に配置されています。中央扉の両側にあるアーチの中は、14世紀初期に追加されたお墓だそうです。

    先ほどの聖ペトロニオ聖堂にあった22の礼拝堂で驚いてはいけません。この教会の中にはなんと35の礼拝堂があるとのこと。但し、これは後で知ったこと。何の予備知識を持たぬまま、のこのことやって参りました。

    時間が早すぎたのかなあ。ここも扉は閉まっていました。

  • シンプルな中央扉前にはライオンの番が、背中で柱を支えていました。長い間の風雨に浸食されて、折角のハンサムな顔は殆ど目鼻立ちがわからない状態になっています。

    シンプルな中央扉前にはライオンの番が、背中で柱を支えていました。長い間の風雨に浸食されて、折角のハンサムな顔は殆ど目鼻立ちがわからない状態になっています。

  • 道に面したファサードの左側は、ポルティコになっていて、36本のコリント式列柱が並んでいました。こちらは1477年〜81年にかけて作られたもので、エンタプラチュアには美しいフリーズが刻まれています。<br /><br />しかし、アーチの中は落書きだらけ・・・目を覆うばかりです。暫く進むと、ありましたよ。教会へと入る別の扉が! ラッキーなことに扉は開いていました!<br /><br />

    道に面したファサードの左側は、ポルティコになっていて、36本のコリント式列柱が並んでいました。こちらは1477年〜81年にかけて作られたもので、エンタプラチュアには美しいフリーズが刻まれています。

    しかし、アーチの中は落書きだらけ・・・目を覆うばかりです。暫く進むと、ありましたよ。教会へと入る別の扉が! ラッキーなことに扉は開いていました!

  • ザンボーニ通りを挟んだ反対側のポルティコの奥には、世界最古の大学(1080年創立!)と言われるボローニャ大学の法学部がありました。

    ザンボーニ通りを挟んだ反対側のポルティコの奥には、世界最古の大学(1080年創立!)と言われるボローニャ大学の法学部がありました。

  • もっと大きな教会を想像したのですが、中は意外にこじんまりしていて、ルネサンスとバロックの折衷様式のように見えました。少々装飾過多のような気はしますが、白い壁からは明るい印象を受けます。15世紀末に大規模改修を行った結果、様々な様式が混在する結果となりました。

    もっと大きな教会を想像したのですが、中は意外にこじんまりしていて、ルネサンスとバロックの折衷様式のように見えました。少々装飾過多のような気はしますが、白い壁からは明るい印象を受けます。15世紀末に大規模改修を行った結果、様々な様式が混在する結果となりました。

  • 早速一番有名なべンティボーリオ家の礼拝堂を見つけましたよ。一つ前の旅行記で触れたように、ボローニャでは、べンティボーリオ家が実質支配する時代(1445年から1506年)にルネサンス文化が最盛期を迎えました。<br /><br />ベンティボーリオ家のアンニバーレ1世が1445年に最初の礼拝堂を造り、1486年にはジョヴァンニ2世が拡張しています。内部はボローニャのルネサンス期を代表する芸術で溢れていました。

    早速一番有名なべンティボーリオ家の礼拝堂を見つけましたよ。一つ前の旅行記で触れたように、ボローニャでは、べンティボーリオ家が実質支配する時代(1445年から1506年)にルネサンス文化が最盛期を迎えました。

    ベンティボーリオ家のアンニバーレ1世が1445年に最初の礼拝堂を造り、1486年にはジョヴァンニ2世が拡張しています。内部はボローニャのルネサンス期を代表する芸術で溢れていました。

  • 何故か1枚しか写真を撮っていません。礼拝堂の設計はブルネレスキに影響を受けたと思われるパニョ・ディ・ラポ・ポルティジャーニ・ダ・フィエゾーレ(長い!)。マジョルカ焼きのタイルが敷き詰められた床はデッラ・ロッビアの工房によるものです。<br /><br />祭壇画は「聖人達(聖ヨハネ、聖セバスティアーノ、聖アゴスティーノ、聖フロリアーノ)といる玉座の聖母子」で、フランチェスコ・ライボリーニの1494年の作品。<br /><br />ルーネットの「黙示録のヴィジョン」は、ロレンツォ・コスタの作品です。<br /><br />左右の壁にも傑作があったはずなのですが、なぜか写真が見当たりません。あれ〜?

    何故か1枚しか写真を撮っていません。礼拝堂の設計はブルネレスキに影響を受けたと思われるパニョ・ディ・ラポ・ポルティジャーニ・ダ・フィエゾーレ(長い!)。マジョルカ焼きのタイルが敷き詰められた床はデッラ・ロッビアの工房によるものです。

    祭壇画は「聖人達(聖ヨハネ、聖セバスティアーノ、聖アゴスティーノ、聖フロリアーノ)といる玉座の聖母子」で、フランチェスコ・ライボリーニの1494年の作品。

    ルーネットの「黙示録のヴィジョン」は、ロレンツォ・コスタの作品です。

    左右の壁にも傑作があったはずなのですが、なぜか写真が見当たりません。あれ〜?

  • ヴェンティボーリオ家のお隣の聖バルトロメオに捧げられているマンツォーリ礼拝堂です。左壁にある聖ジュリアナが聖ペトロニオから聖体を授かる場面のレリーフが見事でした。彫刻家ジュゼッペ・マッツァの1681年の作品です。画家の繊細さ兼ね備えた、柔らかくて滑らかなレリーフでした。素敵〜!<br /><br />反対側には、聖ニコリーノが首をはねられる場面のレリーフがあったのですが、なぜかこれも写真を撮り損ねています。<br /><br />この教会に関しては大失敗の連続です。

    ヴェンティボーリオ家のお隣の聖バルトロメオに捧げられているマンツォーリ礼拝堂です。左壁にある聖ジュリアナが聖ペトロニオから聖体を授かる場面のレリーフが見事でした。彫刻家ジュゼッペ・マッツァの1681年の作品です。画家の繊細さ兼ね備えた、柔らかくて滑らかなレリーフでした。素敵〜!

    反対側には、聖ニコリーノが首をはねられる場面のレリーフがあったのですが、なぜかこれも写真を撮り損ねています。

    この教会に関しては大失敗の連続です。

  • カッシャの聖リタに捧げられたペポーリ家礼拝堂です。ブルーノ・ボアリ設計の豪華な大理石製の祭壇が目立っていました。<br /><br />祭壇画には、カッシャのリタの前に現れたキリストと聖フランチェスコが描かれていました。1734年、シエナの画家ガルガーノ・ペルピニャーニの作品です。<br /><br />聖リタ(1381年から1457年)は15世紀の女性ですが、ドメスティック・ヴァイオレンスに苦しめられながらも、愛と強い信仰心で自らを貫いた人。望みなき者の保護者と呼ばれていて、イタリアではとても人気があります。<br /><br />なんと、この5枚だけ写真を撮って、出て来ちゃったようです。やはり事前準備は必要ですね。隣接するサンタ・チェチリアのオラトリオを覗いた風もありません。一体何をあせっていたのかなあ・・・

    カッシャの聖リタに捧げられたペポーリ家礼拝堂です。ブルーノ・ボアリ設計の豪華な大理石製の祭壇が目立っていました。

    祭壇画には、カッシャのリタの前に現れたキリストと聖フランチェスコが描かれていました。1734年、シエナの画家ガルガーノ・ペルピニャーニの作品です。

    聖リタ(1381年から1457年)は15世紀の女性ですが、ドメスティック・ヴァイオレンスに苦しめられながらも、愛と強い信仰心で自らを貫いた人。望みなき者の保護者と呼ばれていて、イタリアではとても人気があります。

    なんと、この5枚だけ写真を撮って、出て来ちゃったようです。やはり事前準備は必要ですね。隣接するサンタ・チェチリアのオラトリオを覗いた風もありません。一体何をあせっていたのかなあ・・・

  • 相変わらず好きな陶器の写真を撮っていますよ。

    相変わらず好きな陶器の写真を撮っていますよ。

  • 薄暗いポルティコの中を行くと、そこだけ光が灯ったショーウインドーに引き寄せられてしまいます。

    薄暗いポルティコの中を行くと、そこだけ光が灯ったショーウインドーに引き寄せられてしまいます。

  • どうやら、先ほど見逃した聖バルトロメオと聖ガエターノ教会が気になっていたみたいです。ザンポーニ通りを斜塔のある広場まで戻って参りました。

    どうやら、先ほど見逃した聖バルトロメオと聖ガエターノ教会が気になっていたみたいです。ザンポーニ通りを斜塔のある広場まで戻って参りました。

  • 先ほどお昼休みで閉まっていた聖バルトロメオと聖ガエターノ教会の内部です。イオニア式の列柱で仕切られた三廊式でした。大きなクーポラは、テアティノ会の所有になってから追加されたもので、1694年に完成しました。<br /><br />テアティノ会の教会はローマやフィレンツェにもありますが、いずれもバロック様式。この教会もバロック全盛期に改修を行っていますので、オリジナルの部分を見つけるのは難しそう・・・

    先ほどお昼休みで閉まっていた聖バルトロメオと聖ガエターノ教会の内部です。イオニア式の列柱で仕切られた三廊式でした。大きなクーポラは、テアティノ会の所有になってから追加されたもので、1694年に完成しました。

    テアティノ会の教会はローマやフィレンツェにもありますが、いずれもバロック様式。この教会もバロック全盛期に改修を行っていますので、オリジナルの部分を見つけるのは難しそう・・・

  • この二人のおちびちゃんたちの仕草と表情が可愛らしかった!

    この二人のおちびちゃんたちの仕草と表情が可愛らしかった!

  • ヴォールト天井のフレスコは、聖ガエターノがヴィジョンを受ける場面を描いたもので、アンジェロ・ミケーレ・コロンナとジャコモ・アルボレージの1667年の作品。

    ヴォールト天井のフレスコは、聖ガエターノがヴィジョンを受ける場面を描いたもので、アンジェロ・ミケーレ・コロンナとジャコモ・アルボレージの1667年の作品。

  • これは大きな受胎告知の絵の一部で、少女のような天使ガブリエルが右側にいるマリアの元へ参じるため、地上に降り立った場面。あまりの天使の美しさに思わず撮った1枚です。<br /><br />しかし絵全体を撮らずして一部分のみ撮ることなど、普段は殆どないのですが、今日はどうしたことでしょう。「受胎告知」なのに、これでは片手落ちですね。フランチェスコ・アルバーニの1632年の作品です。

    イチオシ

    これは大きな受胎告知の絵の一部で、少女のような天使ガブリエルが右側にいるマリアの元へ参じるため、地上に降り立った場面。あまりの天使の美しさに思わず撮った1枚です。

    しかし絵全体を撮らずして一部分のみ撮ることなど、普段は殆どないのですが、今日はどうしたことでしょう。「受胎告知」なのに、これでは片手落ちですね。フランチェスコ・アルバーニの1632年の作品です。

  • クーポラの内側のフレスコは、ジュゼッペとアントニオ・ロッリによるものです。1691年。聖母戴冠の場面のようです。天使達が支える大きな赤い布に目を奪われます。

    クーポラの内側のフレスコは、ジュゼッペとアントニオ・ロッリによるものです。1691年。聖母戴冠の場面のようです。天使達が支える大きな赤い布に目を奪われます。

  • クーポラのペンデンティヴに描かれたフレスコは比較的新しそう。

    クーポラのペンデンティヴに描かれたフレスコは比較的新しそう。

  • アーチの縁の金メッキ装飾も大変豪華です。至る所この金で縁どりされていました。

    アーチの縁の金メッキ装飾も大変豪華です。至る所この金で縁どりされていました。

  • 主祭壇です。十字架を持ったキリストの背後には、大きなフレスコ画3つ。聖バルトロメオの殉教(中央 この方は皮剥ぎの刑で殉教されました)と彼の起こした2つの奇跡の物語が描かれていました。<br /><br />マルカントニオ・フランチェスキーニとルイジ・クァイーニの1685年の作です。この二人、聖ペトロニオ聖堂主祭壇のフレスコを描いた面々ですね。<br /><br />

    主祭壇です。十字架を持ったキリストの背後には、大きなフレスコ画3つ。聖バルトロメオの殉教(中央 この方は皮剥ぎの刑で殉教されました)と彼の起こした2つの奇跡の物語が描かれていました。

    マルカントニオ・フランチェスキーニとルイジ・クァイーニの1685年の作です。この二人、聖ペトロニオ聖堂主祭壇のフレスコを描いた面々ですね。

  • 死せるキリストを見守る哀しみの人々。 両端に聖母と聖ヨハネ。左から二番目の男性が、キリストの遺体を引き取ったアリマタヤのヨセフでしょうか?

    死せるキリストを見守る哀しみの人々。 両端に聖母と聖ヨハネ。左から二番目の男性が、キリストの遺体を引き取ったアリマタヤのヨセフでしょうか?

  • この教会でも、事前準備不足がたたって(インフォメーションに寄らなかったのが敗因かも・・・)、必須とされている礼拝堂を見ずに終わってしまいました。グイド・レーニも探せずじまい。トホホ・・・<br /><br />しかしながら、だいぶくたびれたルネサンス様式のファサードとポルティコとは全く異なった雰囲気のバロック時代をちょっぴり味わうことが出来ました。

    この教会でも、事前準備不足がたたって(インフォメーションに寄らなかったのが敗因かも・・・)、必須とされている礼拝堂を見ずに終わってしまいました。グイド・レーニも探せずじまい。トホホ・・・

    しかしながら、だいぶくたびれたルネサンス様式のファサードとポルティコとは全く異なった雰囲気のバロック時代をちょっぴり味わうことが出来ました。

  • 教会から出ると、目の前に二つの斜塔が聳えていました。迫力ありますね。

    教会から出ると、目の前に二つの斜塔が聳えていました。迫力ありますね。

  • ここがアシネッリの塔に上りたい人用の入り口です。私はここから見上げるだけで十分! ここの入り口にも空想動物、鳥、花、果物、紋章などのフリーズが見られました。<br /><br />長くなりましたので、この続きはイタリア あっちも! こっちも! と欲張りなたび その81 ボローニャ3で!

    ここがアシネッリの塔に上りたい人用の入り口です。私はここから見上げるだけで十分! ここの入り口にも空想動物、鳥、花、果物、紋章などのフリーズが見られました。

    長くなりましたので、この続きはイタリア あっちも! こっちも! と欲張りなたび その81 ボローニャ3で!

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  • ドロミティさん 2018/03/10 12:00:03
    はじめまして(^^♪
    junemayさん、はじめまして。

    綺麗なお写真に丁寧で解りやすいコメントの旅行記をため息交じりで拝見しました。
    とても素晴らしくて(ごめんなさい、ありきたりの言葉しか見つからなくて)、
    少々興奮しています。

    閉まっていて見学のできなかったサン・ペトロニオ聖堂ですが、junemayさんのお陰で解説付きでじっくり鑑賞できました。
    どうもありがとうございました。

    サン・ドナート教会を気にしてらした仲良しのトラベラーさんがいるので、さっそく
    こちらの旅行記を紹介しちゃいます^^

    また続きも拝見しにあしあとを残しますけど、お気遣いなさらなでくださいね。
    よろしくお願いいたします。
                        ドロミティ

    junemay

    junemayさん からの返信 2018/03/11 15:28:17
    RE: はじめまして(^^♪
    ドロミティさん こんにちは! 初めまして。

    過分にお褒めの言葉を戴き、感謝しております。ボローニャも2年半前のこととなり、段々忘れかけています。すぐに書けば良いのでしょうが、過去の旅から順番にと思う間に、どんどん記憶は失われていきます。サン・ペトロニオ聖堂も、そんなわけで、肝心の部分が思い出せないという箇所が多々ありました。自分としては不本意な記録であるにもかかわらず、お読みいただき、本当にありがとうございました。

    イタリアは何度行っても良いですね。きりがありませんが、自分の足で歩ける限り、行って見て触れて感じ続けたいと思っています。またのご訪問をお待ちしております。

    junemay

    > junemayさん、はじめまして。
    >
    > 綺麗なお写真に丁寧で解りやすいコメントの旅行記をため息交じりで拝見しました。
    > とても素晴らしくて(ごめんなさい、ありきたりの言葉しか見つからなくて)、
    > 少々興奮しています。
    >
    > 閉まっていて見学のできなかったサン・ペトロニオ聖堂ですが、junemayさんのお陰で解説付きでじっくり鑑賞できました。
    > どうもありがとうございました。
    >
    > サン・ドナート教会を気にしてらした仲良しのトラベラーさんがいるので、さっそく
    > こちらの旅行記を紹介しちゃいます^^
    >
    > また続きも拝見しにあしあとを残しますけど、お気遣いなさらなでくださいね。
    > よろしくお願いいたします。
    >                     ドロミティ
    >
    >

    cheriko330

    cheriko330さん からの返信 2018/03/13 01:02:28
    RE: RE: はじめまして(^^♪

    junemayさん、ドロミティさん、こんばんは ☆彡★

    junemayさん、ご無沙汰しておりました。

    ドロミティさんが書いて下さったトラベラーとは私のことです。
    こちらで見付けて下さってドロミティさん、ありがとうございました。
    時間があったら、ドロミティさんも本物を見たかったと思います♪
    ボローニャの旅行記を作成の時に、たまたま写していた黄色い
    教会の名前を知りたくって色々調べていたのですが、よく分かり
    ませんでした。KLMのボローニャのところで、この教会の写真を
    見付けたのですよ。さすがプロの方が写していたので、とっても綺麗に
    写っていました♪(現在も載っていますが写真が変わり以前の方が綺麗です)


    https://www.klm.com/destinations/jp/ja/europe/italy/bologna

    メールで問い合わせて名前が分かりましたが、ググってもそれ以上の
    詳しいことが分からずにそのままになっていました。
    今回ドロミティさんにもお声かけしていたので見つけて下さり
    すぐに知らせてくれました☆
    嬉しくってすぐに伺った次第です。

    考えてみれば、junemayさんの旅行記なら載っている確率高しで
    早くにおじゃまするべきでした。
    サン・ドナート教会は困っている方たちに、日曜日に施しを
    しているのですね。

    ツアーで、宿泊だけのために寄ったボローニャだったので観光はついて
    なたったのですが、着いた日と翌朝の出発前に少しだけ街歩きができました。
    また行けたら、ゆっくり回ってみたいです。
    junemayさん、ありがとうございました。またおじゃまさせて下さいね♪

    cheriko330

    junemay

    junemayさん からの返信 2018/03/13 21:19:41
    RE: RE: RE: はじめまして(^^♪

    Cheriko330さん こんばんは!

    こちらこそご無沙汰です。訪問いただきましてありがとうございました。


    Chiesa di San donatoについては、ファサードのフレスコがとても印象的だったので、色々と調べてコメントを加えたものと思われます。今となってはどこから仕入れた情報かわからなくなってしまいました。ごめんなさい。

    ボローニャの町自体は、宿泊地(交通の要衝)として選んだだけで、事前にはあまり期待していなかった場所だったので、素晴らしいものがつぎからつぎへと出現したことに驚きました。流石イタリア、奥が深いなとため息をつき通しだったことを覚えております。

    イタリアにはその後昨年の11月に再訪し、ヴェネツィア、リミニ、サン・マリノ、ラヴェンナ、アキレイア、トリエステ、ウーディネなどを回りました。旅行記のアップは一体いつのことになるやら・・・

    その前に2016年のスペイン、ポルトガルを書きたいなと思っております。また是非お寄りくださいね。お待ちしております。

    junemay



    >
    > junemayさん、ドロミティさん、こんばんは ☆彡★
    >
    > junemayさん、ご無沙汰しておりました。
    >
    > ドロミティさんが書いて下さったトラベラーとは私のことです。
    > こちらで見付けて下さってドロミティさん、ありがとうございました。
    > 時間があったら、ドロミティさんも本物を見たかったと思います♪
    > ボローニャの旅行記を作成の時に、たまたま写していた黄色い
    > 教会の名前を知りたくって色々調べていたのですが、よく分かり
    > ませんでした。KLMのボローニャのところで、この教会の写真を
    > 見付けたのですよ。さすがプロの方が写していたので、とっても綺麗に
    > 写っていました♪(現在も載っていますが写真が変わり以前の方が綺麗です)
    > ↓
    >
    > https://www.klm.com/destinations/jp/ja/europe/italy/bologna
    >
    > メールで問い合わせて名前が分かりましたが、ググってもそれ以上の
    > 詳しいことが分からずにそのままになっていました。
    > 今回ドロミティさんにもお声かけしていたので見つけて下さり
    > すぐに知らせてくれました☆
    > 嬉しくってすぐに伺った次第です。
    >
    > 考えてみれば、junemayさんの旅行記なら載っている確率高しで
    > 早くにおじゃまするべきでした。
    > サン・ドナート教会は困っている方たちに、日曜日に施しを
    > しているのですね。
    >
    > ツアーで、宿泊だけのために寄ったボローニャだったので観光はついて
    > なたったのですが、着いた日と翌朝の出発前に少しだけ街歩きができました。
    > また行けたら、ゆっくり回ってみたいです。
    > junemayさん、ありがとうございました。またおじゃまさせて下さいね♪
    >
    > cheriko330
  • マリアンヌさん 2016/10/21 13:05:14
    ボローニャ
    junemayさん、こんにちわ。

    会社の昼休みです。
    jyunemayさんの旅行記を読んで・・・という日常が戻ってきたかんじです。

    ボローニャ、みどころ満載ですね。
    私はツアーで通っただけ(ドゥーモとボローニャ大学だけ)なので
    とても興味深く拝見しています。

    サン・ペトロニオ聖堂、大きかったことくらいしか記憶になくて、見直してみたらボッローニ礼拝堂の写真は撮ってるようのなのでガイドの説明をうけたのでしょうね、忘れてしまってます。
    junemayさんの解説が新鮮です。

    他にも教会はたくさんありそうですね。
    サン・ジャコモ・マッジョーレ教会は、内部が白くて一風変わった美しさを感じました。
    ボローニャ、再訪してみたいです。
    では、また。

    マリアンヌ

    junemay

    junemayさん からの返信 2016/10/21 16:21:23
    RE: ボローニャ
    マリアンヌさん こんにちは

    一昨日、極寒のロシアから帰国して、あまりの暑さに体調がいまいちのjunemayです。いつも素敵なコメントありがとうございます。

    ボローニャに戻るのに、暫し時間がかかりました。ロシアは、建築的にも後進国だったようで、玉ねぎ頭の教会も、そのほとんどはイタリア人建築家によるもの。それもバロック時代の建造が多かったです。正教の教会は内部が撮影禁止なので、すぐに忘れてしまいそうですが、優れたイコンがたくさん見られて幸せでした。

    サンクトペテルブルグでは朝一番から閉館時刻の21:00までエルミタージュにいて、さすがにぐったりしました。でも絵画は素晴らしかったです。お料理も口に合って、無駄に広い国をてくてくとよく歩きました。

    マリアンヌさんの巡った田舎町はどこもそのうち訪れて見たい場所ばかりです。いわゆる通しか知らない場所ですね。何気ないものでも輝いて見えます。マリアンヌさんの雰囲気にもぴったりですね。勿体ないので、少しずつ読ませていただきますね。

    junemay


    > junemayさん、こんにちわ。
    >
    > 会社の昼休みです。
    > jyunemayさんの旅行記を読んで・・・という日常が戻ってきたかんじです。
    >
    > ボローニャ、みどころ満載ですね。
    > 私はツアーで通っただけ(ドゥーモとボローニャ大学だけ)なので
    > とても興味深く拝見しています。
    >
    > サン・ペトロニオ聖堂、大きかったことくらいしか記憶になくて、見直してみたらボッローニ礼拝堂の写真は撮ってるようのなのでガイドの説明をうけたのでしょうね、忘れてしまってます。
    > junemayさんの解説が新鮮です。
    >
    > 他にも教会はたくさんありそうですね。
    > サン・ジャコモ・マッジョーレ教会は、内部が白くて一風変わった美しさを感じました。
    > ボローニャ、再訪してみたいです。
    > では、また。
    >
    > マリアンヌ

    マリアンヌ

    マリアンヌさん からの返信 2016/10/23 22:56:07
    RE: RE: ボローニャ
    junemayさん お帰りなさ〜い☆

    ロシアに行かれてたなんてわかりませんでした。イタリアの続き、書いていらっしゃったのに、スゴイ!
    それも生半可な内容じゃないっていうのに、さすがです。

    ロシア正教の世界って神秘のベールというイメージです。共産主義時代はかなりの迫害にあったのですよね。リラの僧院などブルガリア、ルーマニアの正教会はチラッと見たことがありますが、また違うのでしょうね。

    サンクトペテルブルグ…ピョートル大帝によるロシア近代化、エカテリーナ、バレエ等憧れの地です。
    junemayさんなら絵画に詳しいので、エルミタージュに1日いても見飽きないでしょうねぇ(笑)あっ失礼!

    そして私の軽い旅行記にもったいない言葉、ありがとうございます。
    他の趣味もマニアなところがあって人と視点がズレてるところがあるので。

    イタリアの続き、楽しみにしています♪
    お疲れなきよう綴って下さいね。

    マリアンヌ

    junemay

    junemayさん からの返信 2016/10/25 10:00:01
    RE: RE: RE: ボローニャ
    マリアンヌさん おはようございます。

    いつもありがとうございます。
    個人的には、ここ行った、あそこ行ったという旅行記より、その人のキャラが想像できるような、その人らしい旅のスタイルを楽しませていただいているので、マリアンヌさんを思い浮かべながら、いつも拝見しています。日程的には、お仕事がおありなのでいつも忙しい旅になるのでしょうが、少しもそれを感じることなく、心の余裕さえ感じられるところが凄いと思っています。旅っていつでもできそうですが、30代には30代の、40代には40代の、その時にしかできない旅もあるのでしょうね。

    美術館。本当は解説を聞きながら1枚の絵を長いことかけて鑑賞するのが夢ですが、エルミタージュの場合、1枚の絵に1分かけると、全部見るのに10年かかるそうです。というわけで、理想と現実はかけ離れたものになってしまいました。絵、初心者ですよ。直感で、好きな絵とそうでない絵を区別しているだけで、後で解説を聞いてじっくり見ると、随分印象が違ってくることがしばしばです。

    街歩きもそうですね。訪れた人の視点によって、印象は異なります。マリアンヌさんの感性が捉えた町や村の旅、これからも楽しみにしています。

    junemay

    > junemayさん お帰りなさ〜い☆
    >
    > ロシアに行かれてたなんてわかりませんでした。イタリアの続き、書いていらっしゃったのに、スゴイ!
    > それも生半可な内容じゃないっていうのに、さすがです。
    >
    > ロシア正教の世界って神秘のベールというイメージです。共産主義時代はかなりの迫害にあったのですよね。リラの僧院などブルガリア、ルーマニアの正教会はチラッと見たことがありますが、また違うのでしょうね。
    >
    > サンクトペテルブルグ…ピョートル大帝によるロシア近代化、エカテリーナ、バレエ等憧れの地です。
    > junemayさんなら絵画に詳しいので、エルミタージュに1日いても見飽きないでしょうねぇ(笑)あっ失礼!
    >
    > そして私の軽い旅行記にもったいない言葉、ありがとうございます。
    > 他の趣味もマニアなところがあって人と視点がズレてるところがあるので。
    >
    > イタリアの続き、楽しみにしています♪
    > お疲れなきよう綴って下さいね。
    >
    > マリアンヌ

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