2016/05/21 - 2016/05/22
139位(同エリア1166件中)
のまどさん
ずっと興味があったのにこれまで行く機会のなかったポーランド。大好きなピアニストの公演を聴いたのがをきっかけにこの旅を思い立ちました。
気ままで感慨深い一人旅。この国に関心を抱くようになったのは偉大な作曲家ショパンを知ってからです。フランス人を父に持ちその半生を同国で過ごしながらも、終生愛していたのは母国ポーランド。私の長年の夢が叶いました。と言っても、準備期間1週間の即席旅行ですが・・・。
初日は下記のツアーを利用して生家ジェラゾヴァ・ヴォラを訪ねました。
http://abpoland.com/package/chopin-and-masovian-country-tour-from-warsaw/
ガイドのエヴァさんはとても気が利く優しい人で、ウォーヴィッチと郊外の民俗村も併せて周ることができました。
この旅行記では訪問地に合いそうなショパンのピアノ曲を紹介したいと思います。短調が多くなりそうですが。最初はショパンが母の弾いていたピアノ曲を回想したとも言われる子守歌。演奏者はショパンを女性的なイメージから解放したと評価されるポーランド系アメリカ人ルービンスタイン。
https://www.youtube.com/watch?v=v1CXY5NHvms
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- ホテル
- 4.0
- 旅行の手配内容
- ツアー(添乗員同行あり)
-
いつかは行きたいと思いつつ先延ばしにしていたポーランド。準備期間わずか1週間のいつもながら付け焼刃旅行の始まりです。
シャルルロワ空港には3時間前着。この4か月前に発生したブリュッセル空港テロ事件の影響で、ベルギーの空港は時間が掛かると聞いていたが、着いてみるとあっさり出発ロビーに入れて、しかも早すぎてチェックインを受け付けていない。
仕方がないので、ブリュッセルで買ったサンドウィッチを食べながらビールを飲む。お土産の定番ガレチョコも買ったし、準備よしっと。 -
Wizz Air。随分と向上した感じ。ライアンエアーと同様にまた乗ってもいいと思えるようになった。
-
わずか2時間ほどでワルシャワに到着。この旅のテーマ、ショパンの名を冠する空港です。
時刻は11時すぎ。ホテルに電話してお迎えを頼む。本当に来るか半信半疑だったが、すぐにバンが来た。 -
今回は一人旅なので節約してホテルは一泊30ユーロほどのところを選びましたが、初日は四つ星ホテルです。ディスカウントでたった40ユーロを逃す手はない。部屋は快適で文句なし。
翌朝、自宅から持参した塩にぎりを朝食に取り、チャックアウトしてロビーでガイドを待ちます。背にはバックパック、前にはデジ一の入ったリュックサックといった出で立ち。
「本当にこのホテルに泊まったんですか?」
とガイドのエヴァさん。バックパッカーにも四つ星ホテルに泊まる権利があるんですぅ!! -
ツアー開始です。エヴァさんが運転手も兼ねるという個人ツアーで、車の後ろに私の荷物を載せて移動するので便利です。
住宅購入の際には未だに政府が介入するようです。おなじみの集合住宅が沿道に見えます。ワルシャワも住宅が高騰しているようで、都市部ではみんなこのようなアパートを買い求めるとのこと。 -
イチオシ
北の方角に約1時間車を走らせて着いたのがジェラゾヴァ・ヴォラ。事前にワルシャワからここに出る交通機関を探したのですが、どうも勝手が悪いので入場料・昼食込みの1日ツアーに申し込みました。かなりの出費でしたが、間際の申し込みを即受け付けてもらえました。
アルデバランさんがクラシック音楽に目覚めたきっかけがバッハならば、私にとってそれはショパンの他にならない。そしてここはショパンの生家。 -
残念ながら屋敷のファサードは再建されたもので、展示されている家具もショパン一家のものではない。ショパンが生まれたナポレオン後期のものを集めたらしい。
-
ショパンが生を受けたと言われるこの部屋。背筋を正します。
私がショパンを知ったきっかけは10代前半に父が買ってくれた即興曲のCDです。そのジャケットの「ショパンは真綿のような金髪、碧眼の美貌で、パリの貴族のサロンでは常に絹の燕尾服にエナメルの靴を纏い、社交界の花形・・・」という件に多感なのまど少女はたちまち心を奪われてしまいました。 -
ショパンの父親ニコラはフランスのロレーヌ地方からポーランドに移住したという変わり者で、フランス語教師として住み込んだ家で没落貴族の娘と出会い、結婚してショパンをはじめ4人の子どもを授かりました。
その父がショパンの生年月日として教会に届けた日付は1809年2月26日ですが、母ユスティナが認識する日は3月1日です。「母親が日付を間違える訳ないわよね」というエヴァさんの言葉に一票。 -
螺鈿の豪華な装飾が当時のショパン家にあったとは思えません。
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思春期から何度も崇拝してきたショパンの肖像画。「日本人って、本当にショパンが好きなのね」というコメントをポーランド人はじめ欧州人から聞きますが、何かを純粋に好きになり、旅という形で探求することに何ら恥じる必要はないと思います。
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現に私がジェラゾヴァ・ヴォラを訪れたことに触発されて、それまでこの村に関心すらいだかなかった在外ポーランド人女性が帰郷時に幼い息子を連れてここを訪ねたという事実はある種の貢献だと思っています。
ショパンの筆跡は神経質な人柄が知れるような繊細さがあります。 -
楽譜もベートーヴェンとは違って一音一音容易に読み取れるように描かれています。ショパンの曲には不協和音がありません。洗練された旋律はピアノ教育が行き届いた日本人を虜にするのでしょう。
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ショパン一家の肖像画。ショパンには姉が1人、妹が2人いました。きょうだいとても仲がよかったようです。一番下の妹エミリアは14歳で結核のため他界しました。そしてショパン自身も同じ病に生涯悩まされ、39歳という短い生涯を閉じます。
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エヴァさんがくれたショパン10歳の頃を再現した写真。遺伝子情報を基にポーランド警察がコンピュータで再現したというなかなかの代物。やはりなかなかの美少年ですな。
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ジェラゾヴァ・ヴォラにはショパン生誕時にあった家具が3点ほどあるらしいです。その一点がこのピアノだったかな。正しいとすれば母ユスティナが弾いていたはず。
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ショパンがここで生まれたのは事実ですが、生後7か月でニコラの転職のため一家はワルシャワに移り住みます。この家は長い間放置されてすさみ、かなり経ってからリフォームされたため、残念ながらショパン生誕時から変貌しています。
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正午のコンサートの前に庭園内を歩きます。この記念碑は当時ソ連の研究者の依頼で建てられたもの。「20世紀になってからしかも外国人がショパンの生家を発見して世に知らしめたというのは悲しい」とエヴァさん。確かに。
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CDのジャケットに出会ってから私はショパン関係の本を読み漁るようになり、ショパンが半生亡命を余儀なくされたポーランドの歴史やパリに移住してからの孤独と望郷の念、病との闘いなどのショパンの内面性に興味を持つようになりました。
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「ここに来るのは10代からの夢だったから今日叶えられて嬉しい」と言うと、「そんなに熱い思いに私は応えられるかしら」とエヴァさんは驚愕していました。
色々と蘊蓄を披露してショパンオタクの公認をいただきました。 -
開館日には毎日正午からミニコンサートが行われます。ショパンが生まれた部屋に設置されたピアノの演奏が生音とスピーカーで屋外に設けられた観客席に届けられます。小鳥の鳴き声などの自然の音とともに奏でられるエチュードというのも味がありました。
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ポーランドのアイスクリームメーカー。こういう費用は客が持つものという私の申し出は断られ、「歓迎の印だから」とエヴァさんに奢ってもらいました。国産愛用のようで、外資が進出して国内産業が衰退している実態に嘆いてEU懐疑派のようです。
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ジェラゾヴァ・ヴォラを後にして、ショパンが洗礼を受けた教会に向かいます。教会は両親が結婚したところでもあり、彼らが生後間もないショパンを連れてこの道を馬車で進んだと考えるだけで何とも胸に込み上げるものがあります。
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途中でいくつも見た分岐路の十字架。日本で言えば道祖神。これまで世界で一番信仰が厚いカトリック教徒はウワバミが国アイルランドだと思っていましたが、今回の旅でポーランドがその上をいくことが分かりました。
個人的に十字架を囲む色とりどりの旗がチベット仏教を彷彿として、なんかそれらしくないんですけどね。 -
ブロショフの聖ロフ教会に着きました。城砦を改装したという個性的な教会です。
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道路の向かいには神父の家もありました。拙アイルランド旅行記で書いたように当地では宗教批判が起きていますが、ポーランドではそれほど強い批判がないように思えます。
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この日は月一度の大ミサで、信者は消防関係とのことです。無宗教の私にはなんだかすべてがシュール。
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イチオシ
ミサが終わらないのでエヴァさんが写真撮影に適した場所を案内してくれました。なかなかの絵になりました。
戻ってもミサが終わる気配はなく、中を少し覗きましたが、圧倒される雰囲気で入ることすらできませんでした。ショパン洗礼の記念碑もあるのに残念。 -
少し車を走らせてウォーヴィッチという村でお昼です。
国民的スープ、ロソル。麺が入っているのは西欧にないので新鮮です。外気30度以上なので水分を取るのは体に優しいです。 -
ビールも予算に入っているという一言を聞いて満面の笑みで注文します。暑い気候にはビールが一番。
東欧の夏の暑さはなかなかのものです。ちょうどcaptainfutureさんの旅行記で、ルーマニアで熱中症になったと読んだので、私もかなり注意しました。 -
そして国民食ピエロギ。これは最高♪誰にでも受けるはず。とりわけここのは逸品でした。エヴァさんも素直においしいと言っていました。
でも、もとは中国の餃子です。それがロシアを経由してポーランドに入って、さらにイタリアでは今日ラビオリになっています。ルーツはどうあれ、各々おいしさがあると思います。 -
午後はオプションツアーで3つの選択肢がありましたが、定番コースの民族博物館にしました。ウォーヴィッチの北に車を10分ほど走らせた所にあります。自力ではまず来られないでしょう。
昔の学校を再現した家屋。エヴァさんのお母さんの時代はまさしくこんな感じだったとのことです。 -
この博物館は各地の伝統家屋を分解して運搬してきてここに建てたようです。もっと本物っぽいところも他にあるんだけどと、エヴァさんが正直に言います。
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イチオシ
私にとっては満足ですよ。色遣いが華やかです。この後各地を旅してポーランド人はわりと派手な色が好きなのだと思いました。
織り機やかやぶき屋根など英単語のあんちょこを見ながらエヴァさんが説明します。「私、語彙が少なくて」とすまなそうに言っていましたが、その向学心は買います。カンボジア辺りのなあなあガイドに爪の垢を煎じて飲ませたいくらいです(←おっと)。 -
イチオシ
この木造の教会もばらされて再建されたものとしてはなかなか立派なものです。教会だからかなり気合を入れて作業をしたと思います。
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中も普通にミサが挙げられること間違いなし。
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それからマニアに受けそうなクラシックな消防車なども展示されています。
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最後は風車。ヨーロッパは西も東も風車がやたら崇拝されます。
エヴァさんとツーショットの記念撮影。普段は自然保護の調査員をしているそうです。「あなたの申し込みはかなり急でしかも日曜だったので、副業の私くらいしか対応できなくて」とまたもや正直に話してくれました。 -
まだ時間があるので、と昼食を食べたウォーヴィッチを案内してくれることになりました。
この街はかつてポーランド・リトアニア公国の副都で、枢機卿の投資で発展した文化都市という歴史的価値があるようです。その中心を担ってきた教会は、やはりミサでした。一日5回のうち最後のミサ。どんだけ・・・ -
せっかくだから中に入りましょうと言われてエヴァさんの後ろを身を屈めて付いていきます。行われていたのはミサではなく、その前座の聖歌斉唱。こちらが大聖堂の全容。
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共産主義は宗教を排除するけど、ポーランドに至ってはあまりに根強い信仰心をソ連が奪うことができず寛容したとのこと。ヨハネ・パウロ2世はその時代に排出されたポーランド初の教皇。ショパンと並ぶ英雄。カメラの前でお茶目なポーズを取るなど世界的に名が知れたけど、むちゃくちゃ保守的だった。
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この町で有名なのは聖霊降臨祭。私の訪問時の直後だったみたいです。
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ふと脇道に逸れて。ユダヤ人の住居だったようです。
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「ベルギーに住んでいるポーランド人へのお土産は何がいいですか?」と質問すると迷わず連れていかれたお店。もしかして、エヴァさん、あなたもイケる口ですか?お勧めの果実酒を買いました。自分用だけど。
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ヨーロッパで3つしかない三角広場の一つ。って言っても?って感じですよね。市が開かれるそうです。
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帰り道、政治や歴史の話をしました。日本が第二次世界大戦中にドイツと同じ枢軸国だったと聞いてエヴァさんはショックを受けていました。気まずい感じになったので、日本がポーランド孤児を救ったという話をしておきました。
http://shuchi.php.co.jp/article/1812
日本では「これに恩を感じてポーランド人は親日」などという神話が一部まかり通っていますが、私はこの話を知っているというポーランド人にかつて会ったことがありません。
ベルギー帰国後にポーランド語のサイトを見つけて印刷して知人に配りましたが、よく考えると恩着せがましいですね。 -
ツアー終了です。本日の宿泊先まで送ってもらいました。アパートホテルのレセプションで鍵を受け取るまでエヴァさんが付き添ってくれました。感謝の意を込めてチップに20ズロチほど手渡すと、
「これから先のためにこれはとっておきなさい」と。
どんだけ金ないと思われているんだ~。言いくるめて受け取ってもらいましたが。
エヴァさんと別れて、イカニモなこの階段を上って部屋に向かいます。。 -
中は友達の留守宅を間借りするような感じで
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立派なキッチン付きです。
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さて買い出し。
アルコール24時間販売ってアブない臭いがするぞ。 -
カエルマークのポーランド大手のスーパーで夕食と明日の朝食を買います。
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昼のピエロギの後味を大切にすべく質素に。今思えばこの時は倹約していた。
ビールをスキップする手はありません。 -
ウォーヴィッチで買った果実酒を飲みながら学生時代のポーランド人の友人について考える。その年はショパンコンクールの年で、雑学とともに私の熱意を伝えると「是非、私の家に来て。航空券さえ買って来ればあとは私がのまどの面倒を見るから」と言われた。
だが、当時の私は貧しく結局約束を反故にしてしまった。別の知人から彼女がポーランド帰国後落ち込んているという話を聞いたが、それ以来会うことはなかった。今頃何をしているのだろうか。この街にいるのだろうか。
明日はワルシャワ散策です。
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この旅行記へのコメント (4)
-
- jijidarumaさん 2016/11/13 03:28:57
- ポーランド孤児救済について
- のまどさん、
こんばんは。少々遅いコメントとなりました。ご容赦ください。
学校で習ったショパンをドイツに駐在した当初ショピンと呼んだ、音楽については門外漢の私ですが、歴史好きもあって、旅行記の中で「ポーランド孤児救済について」書かれたこと、更に元ポーランド大使の文章をリファーされていたので。そちらも読んでみました。
これに関して、手元にある「聖女の道標 萩原 タケ・・・夢酔 藤山 」の本から一部抜粋して、書き込みました。長くなりますが、是非ご参考にしてください。
・・・・・・・・・・
大正七年(一九一八)九月、ウラジオストック在住のポーランド人たちによって設立された、ひとつの組織がある。ポーランド救済委員会。
この会は、極東に逃れている十数万人のポーランド人のうち、せめて孤児たちだけでも人道的支援を世界に願う、自主運営組織である。
すべてはロシア革命の結果だった。
かつてポーランドは、帝政ロシアの支配下にあった。そして、第一次大戦とロシア革命の末に、独立を果たしたのである。しかしこの当時、シベリアにはロシア統治下時代に独立運動を続けていた幾多のポーランド人政治犯とその家族、政治的混乱を逃れて東へ避難した難民など、十数万人に及ぶポーランド人が生活していたのである。
極東における彼らの生活は、飢餓と疫病の蔓延のため、悲惨な境遇にあった。そのなかでも、親を失った子供たちの生活に至っては、言語を絶する有様である。
大正九年(一九二〇)、ロシアのあとに樹立したソビエト連邦共和国とポーランドとの間で戦争が始まり、戦火が広がっていた。
極東の身寄りのない幼い子供たちを、このような戦時下にある祖国に帰したところで、満足な保護を受けられる筈などない。そこでポーランド救済委員会は、アメリカ在住のポーランド系移民社会に保護を求めるとともに欧米諸国へ輸送の援助を強く要請したのである。
しかし、欧米諸国はこれを黙殺した。
大正九年年六月、ポーランド救済委員会会長・ビエルキエヴィッチ女史は日本を訪れ、必死の想いで、外務省にその援助を懇請したのである。そして日本政府もまた、人道的観点を重視し、これに応じる姿勢を示した。
日本赤十字社では萩原タケにより、極東戦地での現状報告が為されていた。そのための検討も為されている。外務省通達の一七日後、日赤はポーランド孤児の救済を決定した。
この迅速な対応は、まさに奇蹟であった。
日赤の救済活動が決すると、シベリアに駐留する帝国陸軍もまた、これを支援するため国内受容れの活動を開始した。七月下旬、陸軍の迅速な措置により、決定僅か二週間後、五六名のポーランド孤児第一陣がウラジオストックを発った。船は敦賀へ入港し、彼らは東京渋谷の孤児養育を事業とする慈善団体の宿舎に収容された。
以後、翌年七月まで全五回にわたり、総員三七五名のポーランド孤児が日本に運ばれてきた。
萩原タケはこれら救済活動の陣頭指揮を執り、日赤も全力を挙げてこれに取り組んだ。
日本についた直後のポーランド孤児たちは、誰も顔面蒼白で痩せ衰え、目だけが怯えたようにギラギラしていた。言葉も人種も異なる極東の島国への、例えようもない不安で、彼らは胸が張り裂けそうになっていたことだろう。
また、ロシア革命のあおりで極東へ逃げ込んできたのは、孤児たちだけではない。セミヨーノフ、チェコスロバキアの兵たちも、皆が国を追われて、ここまで逃げていた。
これらの人々を、日赤はウラジオストックの病院に収容していた。
さて、日本へかくまったポーランド孤児たちに対し、萩原タケは細心の気配りでこれに臨むよう、看護婦たちに指示した。
外国人に慣れていない島国ということもあるが、青い瞳の白い子供たちを、好奇で笑う日本人は決して少なくない。タケはまず、そんな輩の目に届かぬよう、孤児たちの環境に細心の注意を払った。
猜疑と恐怖に縛られていた子供たちは、容易に日本人へ心を開こうとはしない。
無理もない話である。
小さいその目で、父や母や兄弟や縁者が殺されていく様を見つめてきた子供の心は、頑なで強情なものだ。
しかし、日赤看護婦たちは、献身的に辛抱強く、孤児たちを励まし続けた。言葉の壁を考慮して日赤上層部は、子供一〇人に一人の割合でポーランドの成人も招いた。そうすることで看護婦たちの献身が、ようやく言葉となって、子供たちの心に届くようになったのである。
腸チフスに感染していた子供を必死に看病した末に、自ら感染し、殉職した看護婦もいた。しかし、こうした献身的な救援活動のおかげで、ポーランド孤児たちも、次第に笑顔を取り戻していったのである。
タケは子供たち一人一人に心を配った。
(彼らは異国にあって、頼れる者は私たちしかいないのだ。心細い想いだけは、決してさせてはならない……!)
いつしか子供たちは、目の前で走り回る看護婦が、故国の看護婦たちから
「スモール・ハギワラ」と慕われていることを知った。
みにくいアヒルの子というアンデルセン童話がある。日本語でそれを読んであげると、子供たちは言語を理解していない筈なのに、熱心にそれへと耳を傾けるのだ。その童話を読みながら、五日市(東京都西多摩郡)の山奥で育った自分が世界の人々と親しんでいられる不思議を、しみじみとタケは感じていた。
みにくいアヒルは、まるでタケそのものだった。
山奥で育った平民出の娘が、何の自覚もないまま無鉄砲に羽ばたいて、今に至る……そんなちぐはぐな心境さえ、このときタケは覚えていた。
子供たちの無垢な瞳は、タケに遠い昔のことを、つい思い出させてしまった。
五日市は、もはや遠い故郷である。
第一次世界大戦、とりわけシベリア出兵については、日本の酷評が広く流布されている。
これは日本がシベリアに勢力を伸ばすのではないかと、アメリカが疑念を抱き、かつ、強く警戒したためである。
日本陸軍はウラジオストックより先に進軍しないという規約を無視し、このとき北樺太・沿海州・満州を鉄道沿いに占領していた。各国よりも数倍多い兵士を派遣し、各国が撤退した後もシベリア駐留を続けた。そのため日本はロシアばかりでなく、イギリスやアメリカ、フランスなどの連合国からも、領土的野心を疑われる結果となった。
史上初の国際平和機構である〈国際連盟〉の設立などによる国際協調の流れのなか、日本政府は連合国からもシベリア政策を批判された。
それを払拭する宣伝として利用されたこの救援活動は、しかし、予想以上に諸外国で賞賛されたのである。
ポーランド孤児の救済活動中、赤十字中央委員会から、日赤に一通の内示が届いた。
新たに設けた〈フローレンス・ナイチンゲール記章〉の受賞者内示である。
これは、ナイチンゲール生誕一〇〇年を記念して設けられたもので、世界各国の功績顕著な看護婦に贈与されるものである。その第一回授与者のなかに日本人三名が選ばれたのだ。
日本赤十字病院婦長・山本ヤヲ。
奉天日赤病院監督・湯浅うめ。
そして、日本赤十字病院看護婦監督・萩原タケである。
(中略)
萩原タケは昭和一一年五月二七日、享年六三歳で死去した。
これまで萩原タケが育てたのは二七〇〇余に及ぶ優秀な看護婦たちである。
日本赤十字社では名監督の死を悼み、看護婦としては異例の病院葬を執り行い、萩原タケの霊を野辺に送ることが決定した。
日赤病院での看護婦病院葬は、これが初めてのことである。
萩原タケの遺骨は、故郷・五日市の広徳寺に埋葬された。
墓石の建立は昭和一二年五月、そこには〈慈萩院一誠妙恵大姉〉とだけ刻まれている。
萩原タケの葬儀のときは、果たしてどれほど偉い人が、遠路五日市まで参じたものか。
それほどの厳粛さと、緊張感に、山の懐に抱かれた広徳寺は包まれていた。
当時小学生だった石川清子は、タケの母・ちよ の実家筋の人間で、この日のことを忘れもしないという。病床のタケを一度だけ見舞い、この日を迎えたのだ。
これまで見たこともないほど、大勢の看護婦が参列したと、彼女は語ってくれた。
・・・・・・・・・・
(あきる野市デジタルアーカイブ;あきる野市ゆかりの人々より抜粋)
萩原タケ(ハギワラタケ) (明治6年・1873〜昭和11年・1936;享年63歳)
明治26年4月満20歳の春、日本赤十字社の看護婦生徒募集に応じ、第7回生として入学。
同36年30歳でタケは日赤看護婦副取締(副監督)となり、全看護婦を統括するとともに生徒の教育養成に当たる。昭和11年5月27 日、享年63歳で死去。
日本赤十字社は盛大な病院葬をもって永年の功績に報いた。
タケは、明治43年(1910年)の日本赤十字病院看護婦監督就任から、昭和11年(1936) 日赤病院にて死去するまで、あしかけ28年間を監督として2700人あまりの看護婦の養成・指導にあたった。
あきる野市役所五日市出張所玄関前には「萩原タケ女史 人道のために国家のために」と題した胸像が建てられている。
XXX
元ポーランド大使が、文中に曰く「私がこの話を知ったのは、ポーランド大使としてワルシャワに住むようになってからのことです。」と、外務省のポーランド大使でもこの程度だという事にガッカリしますが、第二次大戦後の世情からみればこんなものなのでしょう。
何しろ"理想の看護婦”と称えられた萩原タケ女史のことすら、戦後の地元町長も知らなかったという話で、赤十字関係者と懇談した際に恥をかいたそうですから。
実は萩原タケ女史については、その葬儀の印象を当時小学生だった前述したように石川清子が語っていますが、彼女は私の母の一番下の妹にあたり、母の祖母(母はこの祖母の養女になった)がタケ女史の母ちよ の妹という関係で、母の母(祖母の長女なので)はタケ女史の従姉妹、母は養女となった為、戸籍上の従姉妹と言う関係になります。
退職後、叔父の葬儀で初めて聞くぐらい、私もタケ女史については知らず、『献身』萩原タケの生涯 森禮子 平成7年 白水社等も読み、今になっていろいろと知ったほどです。(母が39歳、私が4歳の時に亡くなった所為もある)
長くなりました。
「ベルギー帰国後にポーランド語のサイトを見つけて印刷して知人に配りましたが、よく考えると恩着せがましいですね。」・・・そんなことはありませんよ。
『海難1890』(トルコのエルトゥールル号遭難事件と和歌山県串本町)や、日本の外交官・杉原 千畝といった良き例もあります。
良い事・関係は忘れられがちです。
jijidaruma
- のまどさん からの返信 2016/11/15 04:47:23
- RE: ポーランド孤児救済について
- jijidarumaさん
ご丁寧にコメントいただき、ありがとうございます。
ポーランド孤児の話は本当に美談だと思います。日本人であれば知っておくべきだと思います。
> 「ベルギー帰国後にポーランド語のサイトを見つけて印刷して知人に配りましたが、よく考えると恩着せがましいですね。」・・・そんなことはありませんよ。
紙を渡したポーランド人の知人というのは日本という国の存在もよく分かっていないので、この話を紹介したところでどれだけ理解してくれたのか分かりません。
ある程度の学歴のある人について日本に対して比較的良いイメージを持っているのは確かですが、日本のネットで騒がれているほどポーランドは「親日」であるとは言えないと思います。
> 『海難1890』(トルコのエルトゥールル号遭難事件と和歌山県串本町)や、日本の外交官・杉原 千畝といった良き例もあります。
一方、トルコではエルトゥールについて学校で習い、かなりの割合の人が日本に好感を持っていることは確かです。先人たちの献身を多くの人に知ってもらいたいですが、一方で私は無宗教ですが、見返りを求めずに人に施すというカトリックの精神も見習いたいと思います。ちなみに杉原千畝もカトリックだったようです。
インドから今朝帰ってきたばかりなので、手短なお返事ご容赦下さい。
疲れが取れたら旅行記を読ませていきただきます。
-
- アルデバランさん 2016/10/16 09:19:21
- おお!ショパン
- のまど様 こんにちは
音楽へ導いてくれたショパンの足跡を訪ねられたんですね
冒頭にルービンシュタインを持ってくるなんてさすが!
ルービンシュタイン、大好きです。
旋律が美しいだけでなく、顔に似合わず音が力強くてしかも豊穣
それよりも、ショパン…
ドイツでもそうでしたけど、ゆかりの場所は単に関連資料の展示だけでなく
演奏を聴かせてくれたり、様々な試みがなされており感心しました
しかも、とてもいいガイドさんに当たったようで良かったですね。
せっかく行くのですから、現地で色んな事を聞けるのも醍醐味だと思います。
さらにはショパンを通じて歴史的な背景にも言及されたレポート
本当にいい旅をされたのが伝わってきます
ワルシャワ編も楽しみです
アルデバラン
- のまどさん からの返信 2016/10/16 22:31:04
- RE: おお!ショパン
- アルデバラン様 こんにちは
クラシック通のアルデバランさんから素敵なコメントを頂けて嬉しいです。
> ルービンシュタイン、大好きです。
> 旋律が美しいだけでなく、顔に似合わず音が力強くてしかも豊穣
そうだったんですか。確かにルービンシュタインはスピードに流されずにしっかり弾くので一音一音に濃厚さがありますね。この旅行記では毎回違うピアニストの演奏で私の好きな曲を色々とご紹介できたらと思います。
> ドイツでもそうでしたけど、ゆかりの場所は単に関連資料の展示だけでなく
> 演奏を聴かせてくれたり、様々な試みがなされており感心しました
バッハ旅行記に感銘を受けて、今回マネさせてもらいました。ワルシャワにあるショパンゆかりの地はほとんどが戦争で破壊されてしまったので残念ですが、ショパンの集客力は大きいようで宣伝にすごい力を入れていました。あらゆる場所でピアノ曲を耳にします。
> せっかく行くのですから、現地で色んな事を聞けるのも醍醐味だと思います。
テーマがあって、かつ現地で人と話す機会があると旅の深みが増します。なるべく要領よく字数を抑えて旅行記を書いていきたいと思います。
ミャンマーはすっかりリピーターになりましたね。カレン州パアンは独特の色があって楽しく拝読しました。アジアが恋しくなったので、私も来月行くことになりました。
それではまた。
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