2016/05/16 - 2016/05/16
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tono202さん
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お堂巡りをしていて「何のために建てられたのだろう?」という疑問が沸いてきた。
少し調べてみると、次のような文章を見つけた。
荒岡一夫「お堂の発生について 」 徳島県郷土研究発表会紀要第18号
要約して紹介します。
もともとは集落の景色の良いところを選んで祖先を祀るお参りをしていた。そこに小堂が建てられる。そして、日ごろお参りしていた石仏等を安置する。それが先祖への祈願のお堂の「出現」ではないか。
江戸時代なると幕府の仏教保護政策の流れの中で、民衆は地域で講を組織しお堂の寄進建立を進めた。経済的に安定してきた元禄以後、各集落で建立が進んだのが棟札から分かるという。
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大きな集落では氏堂を2ケ所に建てたり、7、8戸の小部落でも建てられている。このことから、信仰の中心としお堂を各集落が競うように建てたのが分かる。神社にくらべると建設負担は小さいかもしれない。しかし、貧しい庶民にとってお堂建設のための地域負担はけっして小さくはない。にもかかわらず、当時のこの地域の人たちは厚い信仰から、お堂の修築、屋根の葺替等の管理を行い神社建築とならぶ信仰施設となっている。
お堂建設の根底となった力は祖霊の信仰心で、祭りも盛大に実施され、旧盆の供養が今に続いているところも多い
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地域のよっては、盆に「火とぼし」の行事をなし念仏供養をしているという。
盆踊りもかつては、お堂の庭で「まわり踊」が行われ先祖の霊の供養もした。
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また、農業の豊作の祈祷所となったり、夏の害虫退散の祈願をした資料もある。
お堂と村人の生活が深く結びついていたかの証であろう。 -
お堂にはかつては堂守り、庵もり、庵坊と呼ばれる人が住んで管理を行っていたにつとめていたところあった。しかし、今は人が住んでいるところはない。
阿波の山村を旅行する人で旅宿のない時、この氏堂で泊って旅をしたという。
現在でいえば無料宿泊所だろうか。村人もこれを認めていたという。
私は最初、お堂での光景としてこんなシーンを想像していました。
祭礼や共同作業の打合せは当然事ながら、仕事が終わったら夜な夜な男達が集めって「今日の仕事は辛かった・・・あとは焼酎をあおるだけ」的なソラの居酒屋的な役割も果たしていたのではないか。ここで酒飲んだらおいしいやろなあ・・・
なんて阿呆なことを考えていたのですが・・・。
あくまで「聖地」としての役割が第一義的なことが分かりました。 -
この広谷堂は印象に残るお堂でした。神社とセットで集落の中心部に位置し、雰囲気がありました。
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大きな白樫の木がお堂を守るかのように、枝を広げていました。
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