2014/06/05 - 2014/06/08
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Dwind_999さん
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旧満州時代には満州国の首都として新京と呼ばれた長春。
街の中心部には満州国当時の遺構がいくつも残り、「偽満州国旧跡」として一つの見どころともなっており、それらは現在も中国の各機関として使用されています。
まるで満州国のテーマパークのようだともいわれる長春の街を歩きました。
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6月5日(木)、宿から歩いて瀋陽北駅に来ました。
2階の待合室に入るために入口でセキュリティチェックを受けるので、時間帯によってはかなり混雑します。 -
セキュリティチェックを受けて中に入り、エスカレーターを上がった2階の待合室から入口を見たところ。
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2階の待合室はかなり広い。
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10時39分発のT243次(特快:硬座で43.5元)のこの列車で長春へ向かいます。
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瀋陽から北へ約300kmに位置する長春へ向かうT243次の列車。
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瀋陽から3時間弱、13時半に長春駅に到着。
長春駅南口の前は工事中でゴタゴタしていました。 -
人でごった返す長春駅そばのバス停から224路のバスに乗り、予約していたホテルへと向かいます。
バス運賃は一律1元(\17)と安い。 -
康平広場で224路のバスを降り、予約していたホテル「長春北安路速8酒店(Super 8 hotel Changchun Beian)」へ歩いて行きました。
小ぢんまりとしたホテルに入り、ニイハオと挨拶してブッキングコムのバウチャー(予約確認書)を差し出すと、受付の男性が怪訝な顔してそれを眺め、受付のパソコンで確認したのちに、予約が入っていないと言います。
大連でも同じことがありこれで2度目。
今まで20回以上はブッキングコムを利用していますが、予約がないと言われたのは中国が初めて。
「何泊?」と中国語を紙に書いて男が聞いてきたので、「スーワン(4晩)」と言うと、「スー?」とびっくりした声をあげます。
予約していたのは少し広めのツインルームでしたが、ダブルベッドの部屋が空いていたので何とか泊まることができ、他の宿を探さずにすんで助かりました。
料金は当初より20元安い1泊138元(\2346)の少し狭い部屋ですが、エアコンもあるので良かった。 -
宿を出て近くを散策。
北安路を西へ歩いてみました。
中国では犬肉祭りをするところもあり、中国東北部でも犬食文化が残っているようです。
宿のすぐ隣は犬食レストランで、ここにも犬肉を食べさせる店がありました。 -
朝夕は特に賑わう、宿から少し歩いた所にある花園街の市場。
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軽自動車に積んだ風変わりな鉄の釜に薪をくべ、ジャガイモを焼いていたオヤジさん。
同じような釜でトウモロコシを焼いている露店もありました。 -
花園街を抜けて大通りの西安大路に出てくると、歩道脇に昔懐かしのポン菓子機を回すおじさんがいました。
薪を燃やして真っ黒にすすけたポン菓子機をくるくる回しています。
街を歩いていると時々ボーンと爆発音のような音を耳にするのでびっくりします。
さすが「ばくだん焼き機」とも言われる圧力釜のポン菓子機。 -
西安大路を東に歩いて、人民広場手前のビルが立ち並ぶ繁華街にやってきました。
重慶路に入ると、スーパー・ウォルマート(世界最大のスーパーマーケットチェーン)があり、長春滞在中に何度か利用しました。 -
若者たちで賑わいを見せる人民広場北側の繁華街付近。
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人民広場から人民大街を北に歩き、左の新発路に入って少し進むと、松林の上に城の天守閣が見えてきました。
大きな袋を積んだリヤカーが前を通っていなかったら、まるで日本にいるのかと勘違いするような光景です。 -
1934年(昭和9年)に竣工した、かつての「関東軍司令部」の建物。
3階建ての横長のビルの上にお城を乗っけたような和洋折衷の建築物。
現在は中国共産党吉林省委員会として使われています。中国共産党吉林省委員会 (関東軍司令部旧址) 現代・近代建築
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宿泊しているホテルの前。
何だかモーテルのような感じ。 -
翌朝の7時過ぎ、宿の前の北安路を西に少し歩いた所にある花園街の市場付近。
ブリキで作ったような車体の箱型の三輪車が停まっていたけど、自分勝手に作ったようなこんな車が公道を走っているなんて、そのいい加減さが面白い。 -
歩道脇の地べたに商品を並べて商売するおばちゃんたち。
売れ具合はどうかな。 -
北安路から江宇路に出て右へ少しいった所にある、軽軌(ライトレール)3号線の芙蓉橋駅。
ちょっと下見に来ました。 -
軽軌(ライトレール)3号線の車両。
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花園街の市場に戻ってきて、屋台で軽く朝食をとりました。
台湾や中国の朝食でよく食べられる油条と、とうふ入りスープ。
油条は中国式の細長い揚げパンで1つ1元(\17)、とうふ入りスープは2元(\34)。
廃油を使うことがある中国だけに、ちょっと気になりながらもたっぷり油を吸った油条を2ついただきました。 -
食事のあと、市場を散策。
地べたに並べられた魚。
鮮度はどうなのかな? -
かなりの賑わいを見せる花園街の市場。
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パンを売る店もありました。
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四川料理でよく使われるという、花椒面(ファージョウメン)という山椒の粉を売る屋台。
山椒の香りが鼻腔を刺激します。 -
北安路から花園街を通って西安路に出てきました。
通りの名を記した標識があるので方向音痴気味の私には助かります。 -
音もなくスーッと走っていくオートバイ。
バッテリーを積んだ電動バイクがほんとに多い。
中国では電動バイクは自転車と同等と見なされていて、運転免許の取得も必要なく、フル充電で20km〜40kmほど走るそうです。 -
宿から少し歩いて「八童医院」のバス停から264路のバスに乗り、「偽満皇宮博物院」に行く。
もちろんバス停に時刻表なんてものはありません。
路線バスで時刻表がある日本はスゴイ。
たぶん世界でも珍しいでしょうね。 -
バスの運賃は一律料金1元(\17)で、前方から乗る時に運賃箱に入れます。
人も少なくて快適でした。 -
バスに乗って20分弱、「偽皇宮」でバスを降り、少し歩いて10時過ぎに「偽満皇宮博物院」に着きました。
窓口で入場料80元(\1360)のチケットを購入。 -
満州国皇帝の愛新覚羅溥儀の生活の拠点であった宮廷府。
中国側からすれば、日本が強引に作った偽の満州国ということで、すべてに偽満州という名称がつけられています。
中国にとってはまさに欺瞞(ぎまん)に満ちた国家ということなんでしょうね。偽満皇宮博物院 博物館・美術館・ギャラリー
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緝熙楼(しゅうきろう)にあるラストエンペラー・溥儀の書斎。
溥儀の御用掛(関東軍司令部付)だった吉岡安直と溥儀の歓談風景が蝋人形で再現されている。 -
阿片を吸引する婉容(えんよう)を再現した蝋人形。
17歳の時に溥儀の皇后として嫁いだ婉容。
冷めた夫婦仲のうちに重度のアヘン中毒に陥り、後年は1人で歩けないくらいになっていたという。
かつて美貌をうたわれた婉容は、日本敗戦後の1946年に吉林省延吉の監獄内でアヘン中毒の禁断症状と栄養失調のため、孤独の内に39才で亡くなったといわれています。 -
溥儀の執務室や会見室があり、式典や来賓接待などを行った勤民楼の建物。
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11時半頃、展示室の隅っこで食事する職員たち。
他のアジアの国でも見られる光景ですが、この大らかな無頓着ぶりが中国らしい。 -
溥儀が事務をとったり勉学をした「西便殿」。
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勤民楼にある「賜宴殿」。
即位式典、祝日・祝典の後、溥儀が偽満州国の高官に宴会を賜る場所。 -
客間で侍女にかしずかれる溥儀。
1908年に溥儀はわずか2歳10ケ月で西太后によって皇帝に即位させられ、清朝の第12代・宣統帝となるも、その4年後には268年続いた清朝が滅亡、最後の皇帝となる。
そして1932年の満州建国とともに関東軍に担がれて満州国の皇帝に即位するが、1945年の日本敗戦によって満州国崩壊。
その後溥儀は日本への亡命も叶わず、赤軍に捕まりソ連への抑留を経て中国共産党による政治犯収容所での10年間の生活を送り、特赦により釈放された後は北京植物園で庭師としての仕事などに就いた。
まさに天国と地獄を味わった愛新覚羅溥儀の波乱の生涯。
1967年、癌を患って61才で亡くなる前、日本に翻弄された溥儀が死に際に所望したのは皮肉にも、晩年の好物だった日本の日清チキンラーメン(1958年:昭和33年発売)だったそうです。 -
同徳殿のホール。
映画「ラストエンペラー」の中で舞踏会のシーンにも使われた。 -
同徳殿の南側には、満州と日本のイメージを取り込んで造られた日本人設計の庭園があります。
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溥儀とその家族が空襲を避けるための、地下深くに造られた御用防空壕もあります。
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次に、偽満皇宮博物院の中にある、九・一八事変からの満州における日本軍の侵略の過程を展示している「東北淪陥史陳列館」に来ました。
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時系列に写真を展示。
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九・一八事変については、本家本元の瀋陽の博物館でたっぷりと見学しましたが、またここで中国の愛国教育の一環でもある展示物を見せつけられます。
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「日満議定書調印式」を再現したもの。
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日本軍による生体実験の模様。
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重苦しい気分から解放されたかのように「東北淪陥史陳列館」を出たあと、偽皇宮のバス停から264路のバスに乗って戻りました。
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宿の前を走る北安路には街路樹もあってそぞろ歩きするのは気持ちいいですが、6月初めのこの季節、楊柳の白い綿毛がまるで大きなボタン雪が舞うように風に吹かれて飛んでいて、ちょっとじゃまでした。
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街なかの自転車修理屋さん。
ちょくちょく見かけるけどけっこう需要があるんでしょうね。 -
小雨が降り出した、人民広場前の西安大路。
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ウォルマートの近くにあった献血ルーム。
「屋」とは建物や住まいを表す漢字でもありますが、「献血屋」という名前に、つい商売の方をイメージしてしまい、売血を連想してしまいます。 -
重慶路の繁華街にある「味道85℃」というベーカーリーでパンを2つ買って帰りました。
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翌朝の「長春北安路速8酒店」のフロント。
いくつかあるチェーンホテルで、制服を着た従業員の接客は悪くはなかったです。 -
「北安路」のバス停から230路のバスに乗って「長影」下車。
甘粕正彦が理事長となり、スター女優「李香蘭」を輩出したかつての満映(満州映画協会)跡地、「長春電影制片廠」に来ました。 -
「長春電影制片廠」の建物の前には毛沢東の像が。
満映の長春電影跡は改修工事中なのか閉鎖されていて、残念ながら建物の中には入れませんでした。 -
1923年(大正12年)に満鉄の映画班として発足したのち、1937年(昭和12年)に満鉄から独立して設立された、国策映画会社の満映(満州映画協会撮影所)」。
1939年、この場所に映画スタジオが完成し、そして甘粕正彦が理事長として登場します。
旅行前に「甘粕正彦 乱心の曠野」という本を面白く読みましたが、満州夜皇帝と言われ、満州を題材にした映画やドラマには必ず登場するこの人物、「満州の昼は関東軍が支配し、夜は甘粕が支配する」と言われたように、満州国を陰で支配していたとも伝えられています。
いくつかの謀略に加担するも、満映理事長就任後は、その懐の深さとすぐれた経営手腕によって、李香蘭(山口淑子)などのスター女優を育て、満映を建て直していきます。
この本に、「日本人と満人の待遇を同等にしたことや、女優を酒席に同伴させることを禁止するなど、社員を大切にしたことから満映内での評判は高まっていった。」とあるように、満州の夜の顔として人々から畏怖されていた一方で、潔癖な人柄や迅速な行動力は高い評価を得ていたようです。 -
「長春電影制片廠」の隣に建てられている、現代的な映画館「中国長影電影院」。
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「長春電影制片廠」の近くにある南湖公園に来ました。
満州国時代の1937年(昭和12年)に造られた人造湖をもつ広々とした公園は、市民の行楽地として人気があるようです。
湖からの気持ち良い風を受けて公園内をしばらく散策。 -
南湖公園から新民広場の方へ向かうと、右手に「偽満洲国総合法衛」(最高検察庁)があります。
1936年(昭和11年)に建てられた満州国の最高検察庁だった建物で、現在は中国人民解放軍第461医院として利用。 -
新民広場から文化広場の方へ新民大街(かつての官庁街の順天大街)を歩いていきます。
1932年(昭和7年)の満州建国後、首都となった長春は西洋式の都市造りをめざし、長春市街の中心を南北に走る人民大街(旧・大同大街)は道路幅を54mに拡張し、この新民大街(順天大街)は皇帝が住む宮殿や官庁などの行政機関の集まる場所として建設されました。
幅10mを超える道路はすべて舗装され、道路中央や両脇には街路樹が植えられ、公園も随所に造って緑豊かな街造りを進めていきました。
それに、下水道を整備して新市街では水洗トイレ(内地の日本では戦後に普及し始める)を導入したり、最新の技術をもって都市建設を進めていったそうです。 -
当時、行政機関が多く集まっていた新民大街(かつての官庁街の順天大街)を歩いていくと、いくつかの満洲国時代の建物を見ることができます。
これは、「偽満洲国司法部旧址」。
現在は「吉林大学白求恩医学部」として使用。旧満州国司法部 史跡・遺跡
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新民大街をさらに北に歩いていくと文化広場の右手前にある、満洲国の最高行政機関だった「偽満洲国国務院旧址」。
現在は「吉林大学基礎医学院」として使用。
この日は6月7日(土)。
中国では大学の卒業シーズンは5月末から6月初めだそうで、ちょうどこの大学の前では角帽をかぶった女学生たちが記念写真を撮っていました。偽満洲国国務院跡 建造物
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1936年(昭和11年)に竣工した、日本の国会議事堂のデザインをベースにして建てられた国務院。
堂々とした旧国務院の入り口の柱。 -
「吉林大学基礎医学院」として使われている、旧国務院1階の階段付近。
重厚な造りの見事な大理石の手すり。 -
1階入り口付近。
当時、この建物と長春駅や関東軍司令部は地下道でつながっていたそうです。 -
新民大街を挟んで旧国務院の向かい側、文化広場の左手前には満洲国軍の最高司令部だった「偽満洲国軍事部旧址」があります。
1935年(昭和10年)に竣工した、満州国の軍務や治安を担当する重要な首脳機関で、現在は吉林大学白求恩医学部付属第一医院として使用されています。旧満州国軍事部跡 史跡・遺跡
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側面から見た「偽満洲国軍事部旧址」、堂々たる建物です。
和洋折衷や和漢折衷の建物が多く、その独特な姿は現代から見ると奇異に感じられますが、日本人がデザインし作り上げた当時の先端を行く近代都市・新京。
建国時に3千万の人口を擁していた関東軍が支配する満州国、その国造りへの意気込みが見て取れます。 -
解放路を挟んで向かい側に広大な文化広場あり、その奥に未完成に終わった満州国皇帝の宮殿があり、現在は長春地質学院となっています。
この時は工事中で前面からは入れなかったので、文化広場には足を踏み入れませんでした。 -
新民大街を南に下り、新民広場の方へ戻っていきました。
この建物は、1935年(昭和10年)に建てられた「偽満州国経済部旧址」で、現在は吉林大学第三医院として使われています。 -
「偽満州国交通部旧址」。
現在は吉林大学公共衛生学院として使用。
かつての官庁街だった新民大街(旧・順天大街)では、その建物の多くが学校や医院として使われています。 -
吉林大学公共衛生学院の1階入り口付近。
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新民広場から工農大路を通って紅旗街に来ました。
紅旗街を適当に歩いていきます。 -
「長影」辺りから54路の路面電車に乗って、寛平橋駅近くで降りました。
新旧の車両が走っていますが、乗降口の停車場付近の道はごらんのあり様。 -
54路の路面電車を降りて、すぐ近くの寛平橋駅からライトレール(軽軌)3号線に乗って長春站へ移動。
こりゃまたかなりの荒れ模様を見せる軽軌の駅前。 -
ライトレール(軽軌)3号線の寛平橋駅に入ります。
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軽軌3号線・寛平橋駅の窓口で行き先を書いた紙と5元札を出すと、チケットと共に折りたたんだ1元札のおつりが返ってきました。
1元札の中には1元コインが2枚入っていたので、長春駅までの運賃は2元(\34)。 -
ライトレール(軽軌)3号線の寛平橋駅から乗車します。
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ライトレール(軽軌)3号線の車両内。
各駅の通過状況がLED表示されているのでわかりやすい。 -
軽軌3号線の長春駅で降りました。
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長春駅前にある満洲国時代の「春誼賓館」(新京ヤマトホテル)。
1909年(明治42年)の開業で、1929年(昭和4年)に建てなおされた、かつての新京ヤマトホテル。 -
ノスタルジーを感じさせてくれる、街角のポン菓子屋のおじさん。
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長春駅前の通りから281路のバスに乗って重慶路に来ました。
小雨のぱらつく18時半過ぎの西安大路と重慶路の交差点付近。
この辺りは大型店舗などのビルが立ち並び、若者が集う繁華街。 -
6月8日(日)、長春4日目の朝7時過ぎ。
花園街の市場に来ました。
夜明け前の薄暗い時分から市が立っているのか、もうすでにかなりの賑わいを見せていました。 -
近隣の農家の人が来ているのでしょうか、荷馬車の露店もあります。
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朝方に雨が降って所々に水たまりができている、雨上がりの花園街市場。
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庶民の生活感に満ちた乱雑な市場の通りですが、長春滞在中は宿への行き帰りに何度となくこの路地を抜けていきました。
そして今朝も露店で、油条とトウフ入りスープをいただきました。 -
街でよく見かける、路上の自転車修理屋さん。
そして、バッテリーを積んだ電動バイク。 -
名古屋城をモチーフにしたといわれる和洋折衷の建物で、1934年(昭和9年)に竣工したかつての関東軍司令部。
何度もこの前を通りました。
今日は、新発路にあるこの建物の向かい側からバスに乗ります。 -
関東軍司令部址の向かいにあるバス停「省委」から224路のバスに乗って長春駅まで向かいます。
さかんにクラクションを鳴らしながら、ワイルドな運転をする運転手。 -
いろいろな呼び込みがたむろする、雑然とした長春駅前。
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長春駅入口で列車を待つ人々。
大きな荷物を携えた人たちがたむろする、中国の鉄道駅ではどこでも見られる光景。
どこの国でも鉄道駅は、希望と不安と哀歓に満ちた、いくつものドラマが交錯する人生の交差点のようなところなのかもしれません。
心細い小心な旅人は好奇心をのぞかせつつ、鉄道駅の雑踏の中にもちょっとした旅愁を味わったりもします。 -
長春駅から南へ真っすぐ延びるメインストリートの「人民大街」を走る66路の2階建てバス、長春駅前のバス停から乗りました。
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特に用はないですがちょっと2階建てバスに乗ってみたかったので。
2階の座席に座っていると、何かの商いだろうか、男が前で話し始めさかんにアピールしていました。
途中ウトウトしながら終点の「市政府」まで40分ちょっとのバス移動。
料金はもちろん1元(\17)。 -
バスの通りすがりに見た、空軍航空大学の航空館入り口。
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長春駅から約40分で「市政府」に到着。
特に何もないけど、ちょっと近くを散歩してまたバスに乗って戻りました。 -
「市政府」から306路のバスに乗って「恵民路」で降り、牡丹園に来ました。
満州国建国後、新京の都市計画の一環として市内各所に公園を造り緑豊かな街づくりが進められましたが、大同広場(人民広場)の南に都市公園の一つとして「牡丹公園」が1933年(昭和8年)に建設され、日本の敗戦後はその半分が吉林大学の敷地として使われ、あとの半分を公園として一般開放したとのこと。 -
人民広場からも近く、市民の憩いの場として人気のある牡丹園。
牡丹や芍薬の見ごろとなる5月下旬には多くの市民で賑わうそうです。 -
牡丹園内にある「神武殿旧址」。
1940年(昭和15年)に建てられた日本式の武道館で、神道の祭祀施設を備えた総合武道場。
現在は吉林大学の講堂として使用。 -
牡丹園から歩いて人民広場に来ました。
人民広場を中心に6本の道路が放射状に延びていますが、広場周りには満州国時代の遺構がいくつかあります。
これはかつての「首都警察庁」で、現在は長春市公安局として使用。 -
西安大路の横断歩道の向こうに、かつての「満州中央銀行」の建物があります。
現在は「中国人民銀行」。旧満州国中央銀行跡 史跡・遺跡
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旧関東軍司令部の建物がある通り「新発路」には、両脇にいくつもの丸い電球がついた街灯が連なっていて、レトロチックな夜の風情を見せています。
日本人にとっての理想の国として、「日本が国家をデザインした壮大な実験場」と言われる、満州帝国の首都・新京。
これだけ多くの満州時代の遺構が現在も中国の各機関として利用されていることに歴史の不思議さを思いながら、かつての日本人が心血そそいで作り上げた夢幻の国、その活力と無謀さと儚さに触れた長春の街歩きでした。
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