2016/05/29 - 2016/05/29
71位(同エリア524件中)
ベームさん
5月29日、5日目。
バーゼルからルツェルンに来ました。3泊しリギ山とかウイリアム・テル伝説の地などを巡ります。
ルツェルンはスイス中央部に位置する人口8万人、スイス第7の都市です。
800年頃の記録があり都市の成立は1178年とされています。1332年原初3州のスイス同盟に参加。
フィアヴァルトシュテッター湖/四森林州湖を行きかう遊覧船、ピラトゥス、リギなど中央スイスの山々への基地。毎年開かれる有名なルツェルン音楽祭他文化都市でもあります。
写真はライオン記念碑。
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 30万円 - 50万円
- 交通手段
- 鉄道 高速・路線バス 船
- 航空会社
- スイスインターナショナルエアラインズ
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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地図中ほど、⑤。
バーゼル~ルツェルン。 -
5月29日、5日目。
バーゼル駅前でトヨタヴィッツのタクシー発見。 -
朝のバーゼル駅。
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8:04発のロカルノ行IRでルツェルンへ。
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空いています。
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ルツェルン着9:05。
1時間で着きました。 -
ルツェルン駅前、小雨が降っています。
ホテルは少し離れていて歩くと10分ほど。まだチェックインできないと思うので荷物をロッカーに預け近郊トリプシェンという所にあるリヒヤルト・ヴァーグナー博物館に行きました。 -
駅前からバス7でヴァルテックというバス停で降ります。10分ほどです。訊きもしないのに運転手が博物館はあっちだよと教えてくれました。ここで降りる外国人はリヒヤルト・ヴァーグナー博物館に行くものと決めているようです。
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右船着場、ヴァーグナー博物館。
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リヒヤルト・ヴァーグナー通りをまっすぐ湖の方に進みます。
左だったか右だったか。 -
こんな道をしっとり小雨に降られて歩いて10分ほど。
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見えました。リヒヤルト・ヴァーグナー博物館です。
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リヒヤルト・ヴァーグナー・ムゼウム。
「リヒヤルト・ヴァーグナーはここに1866から1872年の6年間住んだ。1870年12月25日、ジークフリート牧歌がこの家の階段で初演された」。
ヴァーグナーとコジマの愛の巣です。
リヒヤルト・ヴァーグナー:1813~1883年。
コジマ・ヴァーグナー:1837~1930年。 -
1858年チューリヒでヴェーゼンドンク夫人マチルデとの恋に破れた(夫と妻に露見した)ヴァーグナーはその後ヴェニス、ルツェルン、パリ、ドレスデン(1862年ドレスデン追放が解除)、ウイーン、ミュンヘンなど転々とする。
ミュンヘン時代の1865年、名指揮者ハンス・フォン・ビューローの妻だったリストの娘コジマと恋におち、二人の間に女子イゾルデが生まれる。 -
1866年、醜聞でミュンヘンに居られなくなったヴァーグナーはルツェルン郊外のトリプシェンに家を借り移り住み、夫を捨てたコジマも後を追う。1867年2人目の子供エーファ、1869年男子ジークフリートが生まれる。
1870年、ハンス・フォン・ビューローはコジマとの離婚を承諾し、ヴァーグナーとコジマは晴れて正式の夫婦となった。
この間「ニュルンベルクのマイスタージンガー」、「ジークフリート牧歌」(コジマの誕生日を記念して)が作曲された。
「マイスタージンガー」の初演を指揮したほどの仲だったビューロだがコジマとの離婚を機にヴァーグナーと袂を分かった。 -
このトリプシェンの時期がそれまで転々と放浪を続けてきたヴァーグナーとって初めて安穏の生活を得た時だったのではないでしょうか。
不倫の末とはいえコジマを得子供に恵まれ作曲に専念できたヴァーグナーは、1872年、温めてきた楽劇専用の祝祭劇場実現のためバイロイトへ移りました。
以下博物館に展示されている資料です。 -
1865年。ミュンヘンでのヴァーグナーと仲間たち。
中央左、足元に犬を置いて座るヴァーグナー、その右正面を向いて座っているのがハンス・フォン・ビューロー。 -
ハンス・フォン・ビューロー。1830~1894年。
ドイツの名指揮者、ピアニスト。
職業的指揮者の先駆者。それまでは作曲者が自身の曲の指揮をするのが普通でした。
1857年リストの娘コジマと結婚、2子を儲ける。当時音楽界はヴァーグナー派とブラームス派に二分され、ビューローはヴァーグナー派の中心でした。「トリスタンとイゾルデ」、「ニュルンベルクのマイスタージンガー」の初演を指揮したのもビューローでした。
しかし妻コジマとヴァーグナーが不倫関係になり同棲するに至り1869年離婚する。その後ビューローはブラームス派になりブラームスの曲を取り上げるようになる。 -
リストとダグー伯爵夫人との間に生まれた3人の子。右がコジマと思われます。
コジマはリストの不倫の子で、そのコジマが不倫に走る、そういう時代だったのですね。中世から近世、王侯貴族から著名人に関する物語を読むと不倫のオンパレードです。 -
ヴァーグナーとコジマ。1872年5月9日。
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くつろぐヴァーグナー一家。
コジマ、長男ジークフリート、ヴァーグナー。1873年。 -
1874年。
ヴァーグナー61歳、コジマ37歳。 -
バイロイト、ヴァーンフリート館。
中央ピアノを弾くリスト。左楽譜を持って立つのがヴァーグナー、右椅子に座るコジマ。1880年頃。 -
ヴァーグナー劇の役に扮した左からジークフリート、エーファ、イゾルデの3人の子供。
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前列左エーファ・ヴァーグナー、右ジークフリート・ヴァーグナー。
中列中コジマ、右イゾルデ・ヴァーグナー。1890年、リヒヤルト・ヴァーグナーの死後7年。
コジマは夫の死後1906年までバイロイト音楽祭を取り仕切っています。女傑でした。 -
1866年10月3日。
トリプシェンにてヴァーグナーからリストに宛てた手紙。 -
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ニーチェ(1844~1900年)のデスマスク。
ニーチェはヴァーグナーに心酔し1869年頃からトリプシェンのヴァーグナーを度々訪れています。しかし1876年の第1回バイロイト音楽祭でのルートヴィヒ2世はじめ王侯貴族に囲まれ得意満面のヴァーグナーを見て、その俗物性にニーチェは失望し、決別します。 -
1871年11月18日、バーゼルでのニーチェからヴァーグナーへの手紙。
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「トリスタンとイゾルデ」のスコア、写本。
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1867年トリプシェンで完成した「ニュルンベルクのマイスタージンガー」スコア、写本。
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エラールのピアノ。1858年フランスの代表的ピアノメーカーから贈られたもの。
ベートーヴェンもリストもショパンもエラールを愛用したと言います。しかしヴァーグナーはあまりピアノが上手くなかったらしいです。
ヴァーグナーはこのピアノをヴェネチア、ルツェルン、パリ、ウイーン、ミュンヘン、トリプシェン、バイロイトと持ち回りました。随分愛用したものです。 -
リストからヴァーグナーとコジマへの結婚祝い。守護天使の絵。
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扇子を愛用していたのでしょうか。
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ルートヴィヒ2世からトリプシェンのヴァーグナーに贈られたボヘミアガラスの杯。
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マチルデ・ヴェーゼンドンクの大理石の胸像。
1860年、32歳ころ。
チューリヒでヴァーグナーが恋の炎を燃やした女性です。 -
リュッケマイヤー家というチューリヒの名家の出でした。
この二人の交情が露見し、ヴァーグナーはチューリヒを去ることになるのです。 -
ヴァーグナーの右手の鋳型。19世紀中頃。
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館内。
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館内。
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館内からの風景。
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同。
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外に出ました。
博物館前の広場。 -
広場の隅にある石碑。
「アルトゥーロ・トスカニーニ。ルツェルン市名誉市民。ルツェルン国際音楽祭共同創始者。
1938年8月25日、この公園でモーツアルト、ベートーヴェン、ロッシーニ、ヴァーグナーの作品を指揮した」。
今のルツェルン音楽祭はトスカニーニなどにより企画され、その第1回演奏会がここトリプシェンのヴァーグナー邸の前庭で開かれたのを記念した碑。 -
博物館の裏手、フィアヴァルトシュテッター湖の方に回りました。
ヴァーグナーとコジマが毎日眺めていた風景です。山並みはグラルナー・アルプス。 -
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トリプシェンの船着場。
ルツェルンから船でも来られます。 -
ヴァーグナー博物館。
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当時の写真。
今と全く変わりません。 -
これでリヒヤルト・ヴァーグナー博物館を後にします。
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ここまでリヒヤルト・ヴァーグナーの目線での事ばかりでしたが彼の最初の妻で死ぬまでヴァーグナー夫人であったミンナ・プラナーの事にも触れないと不公平でしょう。
ミンナはヴァーグナーより4歳年上で女優でしたが、ヴァーグナーがマグデブルクで指揮者をしていた時ミンナを見初め熱烈に求愛し結婚します。1836年。
ミンナは女優を止め家庭に入りますが、女性に絶対服従を求めるヴァーグナーと気位が高く夫と対等を求めるミンナ、ヴァーグナーの借金癖、ドレスデン追放などで二人の仲は最初からしっくり行きませんでした。
夫とヴェーゼンドンク夫人マチルデとの恋、夫とビューロー夫人コジマとの不倫などでミンナは傷つき別居生活となりますがヴァーグナー夫人の立場は手放しませんでした。
1866年、57歳でミンナはヴァーグナー夫人として病で亡くなります。
妻が亡くなったのでヴァーグナーはビューローとコジマの離婚を待って1870年コジマと結婚します。その後ヴァーグナーの浮気癖は影をひそめ、二人はヴァーグナーの死まで相思相愛だったようです。 -
バスでルツェルン駅に戻りロッカーから荷物をだし、おりから雨が降ってきたのでタクシーでホテルに行きました。
ホテル レープシュトック・ルツェルン。3泊朝食付きで360フラン、約41、000円です。初めてバスタブ付でした。従業員は受付も食堂も皆美人で愛想がよく良いホテルです。
ホテルに宿泊するとヴィジターズカードが貰えます。ルツェルンの市内交通に使えます。スイスの大抵の主要な都市ではこの制度があります。 -
まだ12時ころ、雨ですが街歩きに出かけました。
ルツェルンが面する湖はフィアヴァルトシュテッター湖という長ったらしい名前です。直訳で四森林州湖。多分周りを森林豊かな州で囲まれているからそう名付けられたのでしょう。 -
遠くに見える高い木立は先ほど行ったリヒヤルト・ヴァーグナー博物館の裏の湖岸に立っていたものかもしれません。。
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湖を航行する外輪船。
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シュヴァイツァーホーフ河岸のホテル・シュヴァイツァーホーフ。
1845年創業の高級ホテル。ヴァーグナーほか多くの著名人が止宿しています。 -
まず大雑把に町の様子を知るためシティ・トレインに乗りました。よく観光地で見かけるミニ観光バスですがこういったものに乗るのは初めて。
湖岸のシュヴァイツァーホーフホテルの前から出ます。毎正時発、所要40分、12フラン。 -
満員になりました。
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帰ってきました。どうせ後で歩いて回るので道中の写真はありません。
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四森林州湖からロイス川が流れ出る所にあるゼー橋辺りから歩き始めました。
ルツェルン駅方面。 -
橋の北詰方面。
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ホーフ教会方面。
今回のホテルはホーフ教会の手前にあります。 -
スイスの町によくある噴水です。
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ゼー橋の袂にある聖ペーター教会。
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聖ペーター教会。
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ピエタ。
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市庁舎。
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市庁舎の近くに中華料理店を見つけたので昼食。焼きそばみたいなものとビールで25フラン。とにかく食べ物が高い。
店員はインド人風、美味しいか美味しいかと何回も様子を見に来る。面倒くさいから美味しいというと頷いている。 -
ゼー橋からカペル橋。
中央奥の塔は市庁舎。 -
ゼー橋の袂。
実はここで異様な光景に出くわしました。
ここら一帯カペル橋にかけて、いやその後市内中心部一帯にかけてある国の観光客の大軍が群がっているのです。何十人もの団体が何組も後から後から続いてきます。 -
ルツェルンの町がその国の人に占拠されたかと思うほどでした。
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ゾロゾロ後から後から。
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しかも若い。20からせいぜい40歳台。どんな生活を国ではしているのでしょう。たまに見る日本人の団体はほとんどシニア、シルバー世代でおとなしく歩いています。今の国の勢いの違いを見る思いです。でも日本でも何十年か前、ノーキョーさんが海外で活躍したこともありました。
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橋の上も鈴なりです、ひとまず避けましょう。
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カペル橋。
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ロイス川の南岸を歩きます。
市庁舎橋からのカペレ橋。 -
市庁舎橋。
いま世界中ではびこっているくだらない流行、錠前の束が無い。さすがルツェルンの市民はレベルが高い。 -
市庁舎橋。
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対岸からの市庁舎。
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市立劇場。
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5、6月の出し物。
ランスへの道、ノルマなど。 -
イエズス教会。
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残念ながら改装中で閉まっていました。
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ロイス橋からシュプロイアー橋。
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その先にある聖フランチスカーナー教会。
1269年創設。 -
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聖フランチスカーナー教会。
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聖フランチスカーナー教会。
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身廊の天井画。
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祭壇。
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天井の装飾が綺麗です。
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聖フランチスカーナー教会の前の広場。
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木組みの家もありました。
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ローゼンガルト博物館。
フランス印象派の作品を収蔵しているらしいが疲れてきたのでパス、一旦ホテルに戻りました。 -
ホテルで小憩しまた出かけました。
ホテルのすぐ後ろにあるホーフ教会です。2本の尖塔は町のどこからも見え、ルツェルンのランドマークです。 -
8世紀の創設で17世紀再建。
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ファサードの像は悪魔を退治する大天使ミカエル。
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彫刻の施された重厚な正面扉。
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堂内。
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身廊。
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身廊の天井。
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主祭壇。
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マリア祭壇。1500年頃。
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死の床のマリア。
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ピエタ。
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4950本のパイプを持つオルガン。
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外壁の彫刻、ゲッセマネの園の祈り。
祈るキリスト、眠りこける3人の弟子、キリストを捕縛しにくる兵士たち。 -
回廊。
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回廊には墓碑が並んでいます。
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踏んで歩いて良いのかどうか。
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教会前の階段から。
右手前が泊っているホテル。 -
ホーフ教会から北に歩きます。
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10分ほど歩くと氷河公園とライオン記念碑があります。
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有名なライオン記念碑です。
瀕死のライオン像とも言われます。砂岩の岸壁に彫られた横8m、縦3mの巨大な彫刻です。1821年。 -
1792年8月10日、フランス革命のさなか、ルイ16世が外国の反革命国家に通じ革命を潰そうとしているとしてパリ民衆、連盟兵がチュイルリー宮の国王一家を襲撃した。この時国王一家を守り最後まで戦ったのが786名のスイス傭兵だった。彼らは全員戦死または処刑された。
このスイス傭兵の英雄的行為を称えて造られたのがライオン記念碑。
国王一家はタンプル塔(牢獄)に移され王制は廃止される。 -
スイス傭兵はその精鋭ぶりから15から18世紀にかけヨーロッパ各国、特にフランスで多く使われた。資源の無いスイスにとっては傭兵のもたらす富と情報が国家発展の重要な基となった。しかし外国の戦いでスイス傭兵同士が闘う悲劇も起こった。
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ライオンが右手で百合の紋章の付いた盾を押さえています。
百合はフランスを表し、ライオン/スイス傭兵はフランスを守るということだそうです。 -
ライオン記念碑に隣接してグレッチャーガルテン、氷河公園があります。
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1872年、当時牧草地だったこの場所に氷河の痕跡が発見されました。
約2万年前のもので当時この辺りは厚さ1000mの氷で覆われていたそうです。
国立天然記念物に指定されています。 -
ポットホール/氷河臼。
深さ4m、径4m。氷河の底面で砂利と水が混ざった氷の溶解水の渦巻き状の急流が掘りこんだ穴。 -
ポットホール。
最大のもので深さ9.5m、径8m。 -
迷子石/漂移性ブロック。
氷河と共に流され、氷が解けたあとそのまま残った石。 -
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ライオン記念碑から少し戻った所にブールバキ・パノラマ館と云うのがあります。丸いお皿を伏せたような屋根を持つ建物です。
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1871年2月、普仏戦争に敗れたブールバキ将軍率いる8万7千人のフランス軍が厳寒のジュラ山脈を越えてスイスのヌーシャテル地方に辿りつきそこでスイス軍に武装解除される様子を描いた巨大なパノラマが展示されています。
描いたのはジュネーヴ出身の画家エドアール・カストルで、フェルディナント・ホドラーも協力し1881年に完成しました。
当初ジュネーヴで展示されましたが1889年ルツェルンに移されました。今の建物は2000年1月にオープンしました。 -
将軍シャルル・ドニ・ブールバキ。
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幅10m、長さ110mの巨大なパノラマです。
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延々と退却してくるフランス兵、難民、少数のプロシア軍捕虜。
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退却してきた兵士たちはスイス軍、村民たちに温かく迎えられたそうです。
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フランス軍の武器が雪の上に積み上げられています。
武装解除されたフランス軍兵士たちはスイス各地の収容所に送られた後故国に戻りました。 -
傷ついた兵士たちと救助する村民、赤十字救助隊。
赤十字おける最初の博愛的活動と言われます。 -
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このパノラマには戦争反対の強い主張が盛り込まれています。
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このパノラマが360度フロアを取り巻いています。壮観です。
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館内。
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ブールバキ・パノラマ館を出てぶらぶらと駅の方へ。
途中聖マティアス教会に寄りました。 -
1870年8月、ヴァーグナーとコジマはここで結婚式を挙げています。
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扉を開けると美しい声が聞こえてきました。
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リートの独唱会でした。
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外に出たらポスターが貼ってあります。
入場料20フランもするバッハやモーツアルトの歌曲の演奏会だったのです。知らぬが仏、先にこのポスターを見ていたら入りませんでした。 -
帰りは駅からバスで。
今の駅舎は1991年再建されたもので、駅前に立つアーチ状の門は当初の駅の一部だそうです。 -
食事時になるといつも憂鬱になります。何か食べないわけにはいかない。スイスはチーズ料理が名物らしいがチーズは嫌い、あれもこれも口に合わないとわがままを言う。食べたいものが有るレストランを探して回るのは疲れます。
結局夕食はホテルのレストランで魚のスープ。ワインと共で約3500円。パンをつまみながらなので量的にはこれで十分ですが。
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