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現在より163年前、浦賀沖にペリー艦隊が姿を現した。<br />1853年嘉永6年6月3日のことである。<br />この時、マシュー・ペリー58歳<br />日本へ開国を迫るという極めて強い覚悟と気持ちを持っていた。<br />四はいの船は、<br />サスケハナ(2450トン)蒸気船ー艦長はブキャナン<br />ミシシッピー(1692トン)蒸気船ー艦長はリー<br />サラトガ(882トン)帆船、艦長はウォルター<br />プリマス(989トン)帆船、艦長はケリーであり、<br />ペリーはサスケハナに乗っていた。<br /><br />(実用蒸気船は、1807年のクラモント号が最初で、それ以来<br />急速に実用化され1819年にはサバンナ号が初の大西洋横断に<br />成功した)<br /><br />当時の蒸気外輪船の速さは、平均時速8ノット、(時速18キロ)<br />開国を日本に迫る理由は、<br /><br />1、当時の捕鯨業との関連ーアメリカ捕鯨業は、1850年前後既に世界一の規模を誇っていた。即ち、1842年には全世界の出漁捕鯨船882隻中652隻を占め、1846年には、出漁した船735隻、<br />1年間に平均1万頭の鯨を捕らえ抹香油2万トン、鯨油4500トン、鯨鬚2万5千ポンドを市場で売っていた。<br />2、太平洋航路開設計画ー中国との貿易で、太平洋航路が開設されれば<br />アメリカから僅かな日月で中国に到達可能となり、他のイギリスなどの列強を先んじて制することが出来るというものだった。<br /><br />つまりは、<br />日本近海が、捕鯨での大変な良漁場であり、もしアメリカ船員たちが<br />悪天候などで遭難避難を求めた場合、どうしても食料燃料補給が<br />必需であったこと。<br />そして、そのためには複数の港において、アメリカ船が入港するのを<br />許可し、水や薪を補填せざるを得ないことを日本側に納得してもらう<br />必要性があったためだった。<br /><br />ペリーが日本へ来たルートは、米東部ノーフォーク港を出て<br />大西洋を横断し、アフリカ南端喜望峰を回り、インド洋に達し、<br />香港・琉球を経て江戸湾に到着。航路137日間であった。<br /><br />日本へ行く準備として、ペリー側は、日本研究に忙しかった。<br /><br />1829年に日本を追放されたシーボルトが収集した日本地図は<br />実に2万ドルという途方もない巨額で購入し、更にシーボルトの<br />大著「ニッポン」(Nippon)も503ドルで買い入れた。<br /><br />対日交渉言語はオランダ語であることを知っていたため<br />オランダ語を流暢に話すポートマンという人物も雇い入れた。<br />日本を開国させるという並々ならぬ決意が読める。<br />(これについて、シーボルトの逸話がある。ペリー艦隊が、日本に行くことを知ったシーボルトは、アメリカ側に働きかけ、自分をペリー艦隊の顧問に雇うよう強硬に主張、しかしペリーも断固これを拒否している。その後シーボルトは、ロシアにも、自分を顧問にするよう働きかけて、この時は上手く成功。その後、30年ぶりに長崎に来て来日したが、当時の面影は全くなく、回りの顰蹙を買うような、私的生活を送っている。)<br /><br /><br />他方、日本側はどういう状況だったか。<br />1825年無二念打払令を17年後には改めて、天保薪水令とした。<br />これは、とても欧米の武力にはかなわず、植民地にされるのでは<br />ないかという恐れが幕府側に浸透していたからである。<br />1853年当時<br />老中首座は阿部正弘、当時38歳である。<br />この阿部正弘政権に全てが託された。<br /><br />日本側の対応であるが、ペリー艦隊がやってくることは<br />オランダ風説書の別段風説書にて1852年には、知っていたことと<br />なる。(それゆえ、浦賀沖にペリー艦隊が姿を現したとき、<br />日本側の上層部は、「やはり来たか」という心持ちだった)<br /><br />即ち、長崎出島のオランダ商館長クルチウスの齎した情報である。<br />それによれば、クルチウスは、蘭領インドネシア政庁が文書で<br />したためた所謂別段風説書を日本側に提出。<br />内容は、1851年のアメリカ合衆国国会議決で、日本へ艦隊を2年後に<br />差し向けることなどが記載されていた。<br />(この1852年のオランダ別段風説書はとりわけ重要なものだった。<br />翻訳者の一人は、その後幕末期英会話第一人者となる森山栄之助)<br /><br />(オランダ風説書は、通常の風説書1641年〜1857年と<br />別段風説書(1840年〜1857年)の種類があった。<br />通常の風説書は、出島商館長カピタンの口頭で言った世界の<br />出来事を、長崎通詞がまずオランダ語で筆記し、それを和訳したものである。<br />他方別段風説書は、インドネシアオランダ政庁が、総督名義で<br />{文書}にて、世界の出来事を日本側へ知らせるものである。<br />この別段書は、オランダ人のオランダ語それも、法律用語等で<br />記載されていたため、長崎通詞の日本語訳は困難を極めたと<br />言われている)<br /><br />浦賀沖に四隻の黒船が現れた時、<br />最初にアメリカ艦隊を目撃したのは、伊豆半島下田の約20キロ沖で<br />夜の漁をしていた漁師3名、与八・久次郎・吉平であり、<br />黒船に最初に接触した<br />日本人は、浦賀奉行所与力中島三郎助と<br />長崎から浦賀に出張していた長崎通詞の堀達之助二人だった。<br /><br />中島は、1854年日米和親条約締結後は、<br />長崎海軍伝習所の1期生となり、勝麟太郎などとともに海軍操練を<br />おこなうこととなる人物である。<br />(中島の晩年については後述することもあるかと思います)<br />また、<br />堀達之助は、その後数奇な人生を歩み、ドイツ人商人リュドルフとの<br />確執から、今では何ら問われるようなことがないある小事件から、<br />鎖国時の幕府で罪に問われ、4年半もの間、伝馬町の牢に入れられる<br />こととなり、ついには日本で初めての本格的な英和辞書、<br />英和対訳袖珍辞書を作るという快挙を遂げる人物である。<br />堀達之助を伝馬町牢獄から、救った男は、<br />開明的な儒家古賀謹一郎(初代蕃書調所頭取)だった。<br />古賀の存在がなかったら、堀の手になる日本最初の英和辞書も<br />日の目を見たかどうか分からぬところである。<br /><br />古賀が、何故蕃書調所初代頭取に選ばれたか、それは彼が<br />儒学者でありながら洋学に深い造詣をもっていたと同時に、<br />卓越した国際感覚を備えていたからだった。<br />1855年アメリカ船ビンセンス号の測量申請問題で、議論が紛糾した際<br />古賀の建言書が出色だったからである。<br />即ち、「測量するというと薄気味悪く思うものがいるかも知れないが、外国船にとっては是非とも必要なことで許可申請は妥当である。<br />外国では、南極北極まで不毛の地まで、測量に努めましてや日本の沿岸は重要航路であり、測量申請するのは当然のこと。<br />日本は、開国の条約を締結し、外国人の上陸さえ許している、海の浅い深いを今更隠しても意味はない、国土の地勢を秘密にするような<br />例は外国になく、それを知られると侵入を許し国家滅亡に結びつくと<br />考えるのは料簡狭すぎる臆病者の申すべき説で、抱腹の限りである。<br />外国では、自国の山の高低・海の深浅・城郭の規模まで測量して、<br />それを印刷し、他国に売ってさえいる。日本でも船大型船の建造を<br />許しているのだから、航海の安全を図るため沿岸の測量をしてくれるのは、むしろ日本にとっても歓迎すべきこと」であると。<br />このような考えが、心ある者たちの胸を射ったからであった。<br /><br /><br />(英和辞書について、より正確に言うとすれば、英和対訳袖珍辞書より先1814年に完成した「英和辞書らしきもの」の暗厄利亜(アンゲリア)語林大成6000語(馬場為八郎・本木庄左衛門外3名の長崎通詞の手になるもの)があったが、これは当時の長崎通詞達の大変な努力は認められても、単語の発音自体、オランダ商館次席ブロムホフの発音によるものであり、発音がオランダ語そのものに近く、英語としては実用性に程遠く、会話としては使い物にならなかった経緯があった。)<br /><br />アメリカ・マシューペリー艦隊浦賀に現われてから、160年余り、<br />その浦賀とペリー一行が上陸した地久里浜を歩いて見た。<br />

開国の町浦賀・久里浜散策記(当時の日本の状況、どのような人たちがペリー艦隊に対応したかを検討する)

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2016/03/20 - 2016/03/20

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わき

わきさん

現在より163年前、浦賀沖にペリー艦隊が姿を現した。
1853年嘉永6年6月3日のことである。
この時、マシュー・ペリー58歳
日本へ開国を迫るという極めて強い覚悟と気持ちを持っていた。
四はいの船は、
サスケハナ(2450トン)蒸気船ー艦長はブキャナン
ミシシッピー(1692トン)蒸気船ー艦長はリー
サラトガ(882トン)帆船、艦長はウォルター
プリマス(989トン)帆船、艦長はケリーであり、
ペリーはサスケハナに乗っていた。

(実用蒸気船は、1807年のクラモント号が最初で、それ以来
急速に実用化され1819年にはサバンナ号が初の大西洋横断に
成功した)

当時の蒸気外輪船の速さは、平均時速8ノット、(時速18キロ)
開国を日本に迫る理由は、

1、当時の捕鯨業との関連ーアメリカ捕鯨業は、1850年前後既に世界一の規模を誇っていた。即ち、1842年には全世界の出漁捕鯨船882隻中652隻を占め、1846年には、出漁した船735隻、
1年間に平均1万頭の鯨を捕らえ抹香油2万トン、鯨油4500トン、鯨鬚2万5千ポンドを市場で売っていた。
2、太平洋航路開設計画ー中国との貿易で、太平洋航路が開設されれば
アメリカから僅かな日月で中国に到達可能となり、他のイギリスなどの列強を先んじて制することが出来るというものだった。

つまりは、
日本近海が、捕鯨での大変な良漁場であり、もしアメリカ船員たちが
悪天候などで遭難避難を求めた場合、どうしても食料燃料補給が
必需であったこと。
そして、そのためには複数の港において、アメリカ船が入港するのを
許可し、水や薪を補填せざるを得ないことを日本側に納得してもらう
必要性があったためだった。

ペリーが日本へ来たルートは、米東部ノーフォーク港を出て
大西洋を横断し、アフリカ南端喜望峰を回り、インド洋に達し、
香港・琉球を経て江戸湾に到着。航路137日間であった。

日本へ行く準備として、ペリー側は、日本研究に忙しかった。

1829年に日本を追放されたシーボルトが収集した日本地図は
実に2万ドルという途方もない巨額で購入し、更にシーボルトの
大著「ニッポン」(Nippon)も503ドルで買い入れた。

対日交渉言語はオランダ語であることを知っていたため
オランダ語を流暢に話すポートマンという人物も雇い入れた。
日本を開国させるという並々ならぬ決意が読める。
(これについて、シーボルトの逸話がある。ペリー艦隊が、日本に行くことを知ったシーボルトは、アメリカ側に働きかけ、自分をペリー艦隊の顧問に雇うよう強硬に主張、しかしペリーも断固これを拒否している。その後シーボルトは、ロシアにも、自分を顧問にするよう働きかけて、この時は上手く成功。その後、30年ぶりに長崎に来て来日したが、当時の面影は全くなく、回りの顰蹙を買うような、私的生活を送っている。)


他方、日本側はどういう状況だったか。
1825年無二念打払令を17年後には改めて、天保薪水令とした。
これは、とても欧米の武力にはかなわず、植民地にされるのでは
ないかという恐れが幕府側に浸透していたからである。
1853年当時
老中首座は阿部正弘、当時38歳である。
この阿部正弘政権に全てが託された。

日本側の対応であるが、ペリー艦隊がやってくることは
オランダ風説書の別段風説書にて1852年には、知っていたことと
なる。(それゆえ、浦賀沖にペリー艦隊が姿を現したとき、
日本側の上層部は、「やはり来たか」という心持ちだった)

即ち、長崎出島のオランダ商館長クルチウスの齎した情報である。
それによれば、クルチウスは、蘭領インドネシア政庁が文書で
したためた所謂別段風説書を日本側に提出。
内容は、1851年のアメリカ合衆国国会議決で、日本へ艦隊を2年後に
差し向けることなどが記載されていた。
(この1852年のオランダ別段風説書はとりわけ重要なものだった。
翻訳者の一人は、その後幕末期英会話第一人者となる森山栄之助)

(オランダ風説書は、通常の風説書1641年〜1857年と
別段風説書(1840年〜1857年)の種類があった。
通常の風説書は、出島商館長カピタンの口頭で言った世界の
出来事を、長崎通詞がまずオランダ語で筆記し、それを和訳したものである。
他方別段風説書は、インドネシアオランダ政庁が、総督名義で
{文書}にて、世界の出来事を日本側へ知らせるものである。
この別段書は、オランダ人のオランダ語それも、法律用語等で
記載されていたため、長崎通詞の日本語訳は困難を極めたと
言われている)

浦賀沖に四隻の黒船が現れた時、
最初にアメリカ艦隊を目撃したのは、伊豆半島下田の約20キロ沖で
夜の漁をしていた漁師3名、与八・久次郎・吉平であり、
黒船に最初に接触した
日本人は、浦賀奉行所与力中島三郎助と
長崎から浦賀に出張していた長崎通詞の堀達之助二人だった。

中島は、1854年日米和親条約締結後は、
長崎海軍伝習所の1期生となり、勝麟太郎などとともに海軍操練を
おこなうこととなる人物である。
(中島の晩年については後述することもあるかと思います)
また、
堀達之助は、その後数奇な人生を歩み、ドイツ人商人リュドルフとの
確執から、今では何ら問われるようなことがないある小事件から、
鎖国時の幕府で罪に問われ、4年半もの間、伝馬町の牢に入れられる
こととなり、ついには日本で初めての本格的な英和辞書、
英和対訳袖珍辞書を作るという快挙を遂げる人物である。
堀達之助を伝馬町牢獄から、救った男は、
開明的な儒家古賀謹一郎(初代蕃書調所頭取)だった。
古賀の存在がなかったら、堀の手になる日本最初の英和辞書も
日の目を見たかどうか分からぬところである。

古賀が、何故蕃書調所初代頭取に選ばれたか、それは彼が
儒学者でありながら洋学に深い造詣をもっていたと同時に、
卓越した国際感覚を備えていたからだった。
1855年アメリカ船ビンセンス号の測量申請問題で、議論が紛糾した際
古賀の建言書が出色だったからである。
即ち、「測量するというと薄気味悪く思うものがいるかも知れないが、外国船にとっては是非とも必要なことで許可申請は妥当である。
外国では、南極北極まで不毛の地まで、測量に努めましてや日本の沿岸は重要航路であり、測量申請するのは当然のこと。
日本は、開国の条約を締結し、外国人の上陸さえ許している、海の浅い深いを今更隠しても意味はない、国土の地勢を秘密にするような
例は外国になく、それを知られると侵入を許し国家滅亡に結びつくと
考えるのは料簡狭すぎる臆病者の申すべき説で、抱腹の限りである。
外国では、自国の山の高低・海の深浅・城郭の規模まで測量して、
それを印刷し、他国に売ってさえいる。日本でも船大型船の建造を
許しているのだから、航海の安全を図るため沿岸の測量をしてくれるのは、むしろ日本にとっても歓迎すべきこと」であると。
このような考えが、心ある者たちの胸を射ったからであった。


(英和辞書について、より正確に言うとすれば、英和対訳袖珍辞書より先1814年に完成した「英和辞書らしきもの」の暗厄利亜(アンゲリア)語林大成6000語(馬場為八郎・本木庄左衛門外3名の長崎通詞の手になるもの)があったが、これは当時の長崎通詞達の大変な努力は認められても、単語の発音自体、オランダ商館次席ブロムホフの発音によるものであり、発音がオランダ語そのものに近く、英語としては実用性に程遠く、会話としては使い物にならなかった経緯があった。)

アメリカ・マシューペリー艦隊浦賀に現われてから、160年余り、
その浦賀とペリー一行が上陸した地久里浜を歩いて見た。

同行者
カップル・夫婦
交通手段
JRローカル 私鉄 徒歩

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  • 浦賀駅より、一旦浦賀港東側を中途まで歩き、戻って浦賀港を西側に歩き、<br />途中で浦賀の渡し舟に乗船し、浦賀奉行所跡地や燈明堂を散策、<br />その後はペリーの上陸地久里浜へ行くという日程。

    浦賀駅より、一旦浦賀港東側を中途まで歩き、戻って浦賀港を西側に歩き、
    途中で浦賀の渡し舟に乗船し、浦賀奉行所跡地や燈明堂を散策、
    その後はペリーの上陸地久里浜へ行くという日程。

  • 三浦半島突端部分の概略地図

    三浦半島突端部分の概略地図

  • 京急電車浦賀駅に到着した

    京急電車浦賀駅に到着した

  • 蘇鉄の木を通して見た浦賀駅である。

    蘇鉄の木を通して見た浦賀駅である。

  • 大衆帰本塚<br />無縁仏の魂を慰めるために設けられているようだ。

    大衆帰本塚
    無縁仏の魂を慰めるために設けられているようだ。

  • 帰本塚の説明を大写しで

    帰本塚の説明を大写しで

  • 篆書体で石碑に刻まれている。<br />文は、浦賀奉行所与力<br />中島三郎助のもの。<br />中島は、海軍伝習所で学んだ後、<br />幕末期は、幕府軍として<br />榎本武揚などとともに、箱館(函館)戦争に。<br />箱館郊外千代が岱にて壮絶に子供共々戦死することとなる。<br />この時、何と堀達之助も箱館にいた。<br />堀が箱館にいたのは、当時の函館奉行小出秀美からの要請、<br />英語会話通訳をいらいされてのことである。<br /><br />具体的には、1860年代の幕末<br />箱館で、アイヌ人墓地盗骨事件が起こり、<br />その犯人は、当時のイギリス領事館全体だった。<br />、<br />箱館奉行の小出は、イギリス相手に堂々と談判、一歩も引かずに<br />イギリスを論破し、件の事件を解決したことでも有名である。<br />小出秀美(こいでほずみ)は、その後千島樺太の領土に関し、<br />対ロシアとの交渉で、日本側の正使となった男である。<br />即ち、1867年大政奉還される前に、ロシア首都ペテルスブルグに派遣され、<br />その後フランスパリにて、徳川昭武一行(パリ万国博覧会に日本も出品)に一時合流などしている。<br />この徳川昭武欧州使節一行には、後年日本資本主義の父と言われる渋沢篤太夫(栄一)や日本赤十字運動の先駆者高松凌雲もいた。

    篆書体で石碑に刻まれている。
    文は、浦賀奉行所与力
    中島三郎助のもの。
    中島は、海軍伝習所で学んだ後、
    幕末期は、幕府軍として
    榎本武揚などとともに、箱館(函館)戦争に。
    箱館郊外千代が岱にて壮絶に子供共々戦死することとなる。
    この時、何と堀達之助も箱館にいた。
    堀が箱館にいたのは、当時の函館奉行小出秀美からの要請、
    英語会話通訳をいらいされてのことである。

    具体的には、1860年代の幕末
    箱館で、アイヌ人墓地盗骨事件が起こり、
    その犯人は、当時のイギリス領事館全体だった。

    箱館奉行の小出は、イギリス相手に堂々と談判、一歩も引かずに
    イギリスを論破し、件の事件を解決したことでも有名である。
    小出秀美(こいでほずみ)は、その後千島樺太の領土に関し、
    対ロシアとの交渉で、日本側の正使となった男である。
    即ち、1867年大政奉還される前に、ロシア首都ペテルスブルグに派遣され、
    その後フランスパリにて、徳川昭武一行(パリ万国博覧会に日本も出品)に一時合流などしている。
    この徳川昭武欧州使節一行には、後年日本資本主義の父と言われる渋沢篤太夫(栄一)や日本赤十字運動の先駆者高松凌雲もいた。

  • 大きく撮影

    大きく撮影

  • 浦賀ドッグ近くを

    浦賀ドッグ近くを

  • 地元中学生たちが描いた黒船が、通りの壁面にあった。

    地元中学生たちが描いた黒船が、通りの壁面にあった。

  • 浦賀 久里浜等の地図

    浦賀 久里浜等の地図

  • 同上

    同上

  • ペリー艦隊旗艦サスケハナ号(蒸気船)<br />2450トン、当時としてはとてつもなく大きな船である。

    ペリー艦隊旗艦サスケハナ号(蒸気船)
    2450トン、当時としてはとてつもなく大きな船である。

  • こちらは、ミシシッピー号<br />1692トン蒸気船である

    こちらは、ミシシッピー号
    1692トン蒸気船である

  • 右サスケハナ左ミシシッピーである

    右サスケハナ左ミシシッピーである

  • 同上

    同上

  • 浦賀に咲いていた桜を撮影した。<br />西側の港近くに咲いていた。<br />まだ早かった。

    浦賀に咲いていた桜を撮影した。
    西側の港近くに咲いていた。
    まだ早かった。

  • 浦賀の渡し舟に乗ってみた

    浦賀の渡し舟に乗ってみた

  • 渡し舟の説明

    渡し舟の説明

  • 浦賀港<br />渡し舟の中から撮影

    浦賀港
    渡し舟の中から撮影

  • 同上

    同上

  • 同上

    同上

  • 同上

    同上

  • 同上

    同上

  • 対岸に渡って降りると、こんな船が<br />繋留されていた。

    対岸に渡って降りると、こんな船が
    繋留されていた。

  • 同上

    同上

  • 同上

    同上

  • 同上

    同上

  • 同上

    同上

  • これも同じ場所である

    これも同じ場所である

  • 船番所跡があった。

    船番所跡があった。

  • 船番所跡地近くの案内図

    船番所跡地近くの案内図

  • 同上

    同上

  • これも浦賀港。<br />桟橋では、皆さん釣りを楽しんでいた。

    これも浦賀港。
    桟橋では、皆さん釣りを楽しんでいた。

  • 為朝神社にやってきた。

    為朝神社にやってきた。

  • 同上

    同上

  • 為朝神社である

    為朝神社である

  • 狛犬?

    狛犬?

  • 同上

    同上

  • 為朝神社お堂

    為朝神社お堂

  • 虎踊りの説明書き<br />為朝神社

    虎踊りの説明書き
    為朝神社

  • 全体を

    全体を

  • 浦賀川間という場所

    浦賀川間という場所

  • 地縁法人<br />川間町会館<br />自治会や、町内会を<br />地方自治法に定める要件を満たしているので<br />法人化されたらしい。

    地縁法人
    川間町会館
    自治会や、町内会を
    地方自治法に定める要件を満たしているので
    法人化されたらしい。

  • 同上

    同上

  • 浦賀奉行所跡にやってきた。<br />この、標識があるだけになっていた。<br />周りは、3棟の団地だった。

    浦賀奉行所跡にやってきた。
    この、標識があるだけになっていた。
    周りは、3棟の団地だった。

  • 同上説明書き

    同上説明書き

  • これも同じである

    これも同じである

  • 同上

    同上

  • 全体を

    全体を

  • 海岸が近いのか、やはりソテツの木は幅が大きい

    海岸が近いのか、やはりソテツの木は幅が大きい

  • ソテツを大きく

    ソテツを大きく

  • 道路沿いに蘇鉄が

    道路沿いに蘇鉄が

  • 浦賀港などの近辺地図

    浦賀港などの近辺地図

  • 燈明堂は、日本で初めて油を使用した灯台である。<br />江戸湾を通行する船の安全を守る役割を果たしていた。<br />燈明堂は、篝火ではなく堂内で油を燃やすことで明かりを得ていた。<br />1872年には、日本初の洋式灯台観音崎灯台が建設され<br />その役目を終えて廃止された。<br />浦賀燈明堂は、ペリー艦隊の来航時は<br />艦隊の航行の目安ともされた。

    燈明堂は、日本で初めて油を使用した灯台である。
    江戸湾を通行する船の安全を守る役割を果たしていた。
    燈明堂は、篝火ではなく堂内で油を燃やすことで明かりを得ていた。
    1872年には、日本初の洋式灯台観音崎灯台が建設され
    その役目を終えて廃止された。
    浦賀燈明堂は、ペリー艦隊の来航時は
    艦隊の航行の目安ともされた。

  • 燈明堂の説明などが。

    燈明堂の説明などが。

  • 同上である

    同上である

  • 燈明堂付近は、浦賀奉行所の罪人の首切り場でもあった。<br />そのため、このような大きな石碑が建てられている。

    燈明堂付近は、浦賀奉行所の罪人の首切り場でもあった。
    そのため、このような大きな石碑が建てられている。

  • 南無妙法蓮華経と記載

    南無妙法蓮華経と記載

  • 海上安全の文字も

    海上安全の文字も

  • 燈明堂の帰帆のことが。

    燈明堂の帰帆のことが。

  • 燈明堂付近の海岸

    燈明堂付近の海岸

  • 同上

    同上

  • 浦賀沖、ずっと向こうにはもう太平洋が広がる。<br />思いを馳せたのは、18世紀から19世紀の日本の千石船運送船で、<br />シケに遭遇し、難破して漂流を余儀なくされ数奇な人生をへた日本人たちのことである。<br />特にここでは、一人だけ取り上げたい。<br />漂流してアメリカ船に助けられ、14代大統領ピアース、15代大統領ブキャナン、16代大統領リンカーンに個人的に会見したジョセフ・ヒコこと<br />浜田彦蔵は、正にその代表であろう。<br />彼は、サンフランシスコ税関長サンダースという誠に素晴らしき慈父の如き<br />人間に会い、教育までアメリカ教育を受け、帰化するが、<br />日本に帰国後、日本初の新聞を発行し、幕末期には長州藩特別代理人として、長崎の英国武器商人トーマスグラバーから武器を購入して、明治維新を裏側から支える一人ともなった男だった。<br />このような日本人もいたかと思うと当時からの日本人の民度の<br />高さを誇っていいように思えた。<br />(参考文献、アメリカ彦蔵自伝{東洋文庫版}に詳しい)<br />

    浦賀沖、ずっと向こうにはもう太平洋が広がる。
    思いを馳せたのは、18世紀から19世紀の日本の千石船運送船で、
    シケに遭遇し、難破して漂流を余儀なくされ数奇な人生をへた日本人たちのことである。
    特にここでは、一人だけ取り上げたい。
    漂流してアメリカ船に助けられ、14代大統領ピアース、15代大統領ブキャナン、16代大統領リンカーンに個人的に会見したジョセフ・ヒコこと
    浜田彦蔵は、正にその代表であろう。
    彼は、サンフランシスコ税関長サンダースという誠に素晴らしき慈父の如き
    人間に会い、教育までアメリカ教育を受け、帰化するが、
    日本に帰国後、日本初の新聞を発行し、幕末期には長州藩特別代理人として、長崎の英国武器商人トーマスグラバーから武器を購入して、明治維新を裏側から支える一人ともなった男だった。
    このような日本人もいたかと思うと当時からの日本人の民度の
    高さを誇っていいように思えた。
    (参考文献、アメリカ彦蔵自伝{東洋文庫版}に詳しい)

  • 浦賀港を燈明堂から撮影

    浦賀港を燈明堂から撮影

  • 燈明堂の仕組みなど説明書き

    燈明堂の仕組みなど説明書き

  • 燈明堂復元したもの

    燈明堂復元したもの

  • 同上

    同上

  • 違う角度から

    違う角度から

  • 上部部分を

    上部部分を

  • 浦賀燈明堂海岸水準点の標識<br />測量の標識だと思われる

    浦賀燈明堂海岸水準点の標識
    測量の標識だと思われる

  • 同上を拡大して<br />国土交通省の文字だけは<br />微かに読めた。<br />ということは、この水準点は<br />最近のものか

    同上を拡大して
    国土交通省の文字だけは
    微かに読めた。
    ということは、この水準点は
    最近のものか

  • 燈明堂全体を遠方から

    燈明堂全体を遠方から

  • 燈明堂付近海岸道

    燈明堂付近海岸道

  • 遠方は、浦賀沖である。<br />163年前には、黒船が錨を下ろしていたに違いない。

    遠方は、浦賀沖である。
    163年前には、黒船が錨を下ろしていたに違いない。

  • 同上

    同上

  • 燈明堂別の説明書

    燈明堂別の説明書

  • ヨットハーバーが近くにあった。

    ヨットハーバーが近くにあった。

  • 久里浜海岸へ到着した。<br />1853年旧暦では6月にペリー一行が<br />上陸した地である。

    久里浜海岸へ到着した。
    1853年旧暦では6月にペリー一行が
    上陸した地である。

  • 久里浜海岸を別角度から

    久里浜海岸を別角度から

  • すぐ前は、ペリー公園だった。

    すぐ前は、ペリー公園だった。

  • 公園に足を踏み入れる

    公園に足を踏み入れる

  • 記念碑が見えて来た

    記念碑が見えて来た

  • 公園入口横に建てられていたもの

    公園入口横に建てられていたもの

  • 記念碑の横にはこのような錨のオブジェ

    記念碑の横にはこのような錨のオブジェ

  • 北米合衆国水師提督伯理上陸記念碑である。<br />水師は、海軍<br />伯理は、ペリーの当て字である。<br />文字は、伊藤博文の筆による。

    北米合衆国水師提督伯理上陸記念碑である。
    水師は、海軍
    伯理は、ペリーの当て字である。
    文字は、伊藤博文の筆による。

  • 大きく撮す

    大きく撮す

  • 同上

    同上

  • 下部部分

    下部部分

  • 全体を

    全体を

  • 下部の金属製板には、地球図

    下部の金属製板には、地球図

  • 横から

    横から

  • 大写しで

    大写しで

  • ペリー記念館正面玄関を

    ペリー記念館正面玄関を

  • 入口部分を

    入口部分を

  • マシュー・ペリーその人である。<br />この時から、5年後には63歳の生涯を閉じる。<br />心臓発作が原因と言われている。<br /><br />ペリーは、翌年もまた日本へ来た。<br />1854年嘉永7年1月11日である。この時は<br />7隻の艦隊で伊豆沖に姿を現した。<br />上陸したのは、当時80戸位の寒村であった横浜村だった。<br />即ち1854年嘉永7年3月3日日米和親条約(神奈川条約)締結のためである。<br />第2回目には、下田・箱館へ短期間滞在した。<br />艦隊が下田に停泊中、<br />この時、二人の日本人が密航を企てたということで、<br />後々幕府に引き渡されている。<br />長州の吉田寅次郎(後の松陰)と金子重之助だった。<br />吉田寅次郎25歳金子は24歳だった。<br />彼らはポーハタン号に3泊して、ペリーにアメリカ行きを<br />拒絶されたことは、皆さんご存知のとおりである。<br /><br />(この時吉田松蔭は、一旦伝馬町牢から長州野山獄に移され、<br />安政6年には、再び間部詮勝暗殺計画の疑義から、伝馬町牢{揚屋}送りと<br />なった。所謂安政の大獄で、斬首されることとなるが、丁度この頃<br />堀達之助も伝馬町牢{揚屋}東口揚屋の牢名主だった。<br />その縁で、吉田との交流もあった。<br />松蔭が死を覚悟して、松下村塾門人の<br />飯田正伯・尾寺新之丞宛に書簡をしたためたとき、<br />堀達之助の名も記載されている。<br />次のようにである。{東口揚屋名主堀達之助、この人にも、世話に<br />相成り候う。堀に・・・・1両小生生前の恩恵を忘れざる志を表して、お贈りべく候う}。<br /><br /><br />以下はペリーの抱いた日本人観である。<br />「実際的・機械的技術において日本人は、非常な巧緻を示している。・・<br />日本がひとたび文明世界の過去現在の技能を有したなら、強力な<br />ライバルになるであろう。」<br />「日本では、読み書きが普及していて見聞を得ることに彼らは熱心である。<br />彼らは自国のことを知るばかりか、他国の地理・歴史についてもかなりの<br />知識を持っており、我々は多くの質問を受けた。・・・長崎のオランダ人から得た彼らの知識は、鉄道や電信、銅版印刷・蒸気船などに及んでおり、<br />また、アメリカ革命G ワシントンやフランスのナポレオンについても<br />的確に語ることができた。」<br /><br />実際、当時の日本の識字率はおそらく世界屈指だったと思われる。<br />江戸は、ロンドン・北京と並ぶ100万を超える大都市だった。<br />

    マシュー・ペリーその人である。
    この時から、5年後には63歳の生涯を閉じる。
    心臓発作が原因と言われている。

    ペリーは、翌年もまた日本へ来た。
    1854年嘉永7年1月11日である。この時は
    7隻の艦隊で伊豆沖に姿を現した。
    上陸したのは、当時80戸位の寒村であった横浜村だった。
    即ち1854年嘉永7年3月3日日米和親条約(神奈川条約)締結のためである。
    第2回目には、下田・箱館へ短期間滞在した。
    艦隊が下田に停泊中、
    この時、二人の日本人が密航を企てたということで、
    後々幕府に引き渡されている。
    長州の吉田寅次郎(後の松陰)と金子重之助だった。
    吉田寅次郎25歳金子は24歳だった。
    彼らはポーハタン号に3泊して、ペリーにアメリカ行きを
    拒絶されたことは、皆さんご存知のとおりである。

    (この時吉田松蔭は、一旦伝馬町牢から長州野山獄に移され、
    安政6年には、再び間部詮勝暗殺計画の疑義から、伝馬町牢{揚屋}送りと
    なった。所謂安政の大獄で、斬首されることとなるが、丁度この頃
    堀達之助も伝馬町牢{揚屋}東口揚屋の牢名主だった。
    その縁で、吉田との交流もあった。
    松蔭が死を覚悟して、松下村塾門人の
    飯田正伯・尾寺新之丞宛に書簡をしたためたとき、
    堀達之助の名も記載されている。
    次のようにである。{東口揚屋名主堀達之助、この人にも、世話に
    相成り候う。堀に・・・・1両小生生前の恩恵を忘れざる志を表して、お贈りべく候う}。


    以下はペリーの抱いた日本人観である。
    「実際的・機械的技術において日本人は、非常な巧緻を示している。・・
    日本がひとたび文明世界の過去現在の技能を有したなら、強力な
    ライバルになるであろう。」
    「日本では、読み書きが普及していて見聞を得ることに彼らは熱心である。
    彼らは自国のことを知るばかりか、他国の地理・歴史についてもかなりの
    知識を持っており、我々は多くの質問を受けた。・・・長崎のオランダ人から得た彼らの知識は、鉄道や電信、銅版印刷・蒸気船などに及んでおり、
    また、アメリカ革命G ワシントンやフランスのナポレオンについても
    的確に語ることができた。」

    実際、当時の日本の識字率はおそらく世界屈指だったと思われる。
    江戸は、ロンドン・北京と並ぶ100万を超える大都市だった。

  • 黒船の衝撃

    黒船の衝撃

  • 同上

    同上

  • 米貿易と日本との比較図か?

    米貿易と日本との比較図か?

  • アメリカ合衆国のペリーに宛てた<br />委任状?かな

    アメリカ合衆国のペリーに宛てた
    委任状?かな

  • 久里浜上陸の説明

    久里浜上陸の説明

  • 当時の絵図など<br />久里浜海岸か、浦賀海岸か?

    当時の絵図など
    久里浜海岸か、浦賀海岸か?

  • 来航から6日後、陰暦では6月9日<br />ペリー一行の久里浜上陸の様子である。

    来航から6日後、陰暦では6月9日
    ペリー一行の久里浜上陸の様子である。

  • 艦隊移動図の一部

    艦隊移動図の一部

  • ペリーの生い立ちが記載されている

    ペリーの生い立ちが記載されている

  • 同上、ペリー家系図

    同上、ペリー家系図

  • ペリーの漢字表記は、伯理である。

    ペリーの漢字表記は、伯理である。

  • ポートマンや、<br />s・wウイリアムズの名が見える。<br /><br />s・wウイリアムズは、<br />その後著書「ペリー日本遠征随行記」の中で、<br />日米和親条約時の日本側主席通訳官森山栄之助について、<br />次のように記載した。<br />「森山は、他の通訳がいらなくなるほど英語が達者で、おかげで<br />我々の交渉は大助かりだ。森山は、ラナルド・マクドナルドは、元気だろうか、他に彼のことをご存知ないかと質問したりした。・・・・・・・<br />ついには士官室での夕食に腰を落ち着かせてしまい、彼の教養の深さと<br />育ちの良さが我々に好感を与えた」(洞富雄訳)<br /><br />上記で、ラナルドマクドナルドとは、利尻島に漂着したアメリカ人<br />(先住民チヌーク族母と白人父を持つハーフ)で、<br />1年弱の間、長崎座敷牢にて、森山に英語会話を教えた人物である。

    ポートマンや、
    s・wウイリアムズの名が見える。

    s・wウイリアムズは、
    その後著書「ペリー日本遠征随行記」の中で、
    日米和親条約時の日本側主席通訳官森山栄之助について、
    次のように記載した。
    「森山は、他の通訳がいらなくなるほど英語が達者で、おかげで
    我々の交渉は大助かりだ。森山は、ラナルド・マクドナルドは、元気だろうか、他に彼のことをご存知ないかと質問したりした。・・・・・・・
    ついには士官室での夕食に腰を落ち着かせてしまい、彼の教養の深さと
    育ちの良さが我々に好感を与えた」(洞富雄訳)

    上記で、ラナルドマクドナルドとは、利尻島に漂着したアメリカ人
    (先住民チヌーク族母と白人父を持つハーフ)で、
    1年弱の間、長崎座敷牢にて、森山に英語会話を教えた人物である。

  • ペリー浦賀に来航時の<br />絵図等

    ペリー浦賀に来航時の
    絵図等

  • 同上<br /><br />当時の狂歌・川柳がかなりの数。その一部は<br /><br />太平の眠りをさます上喜撰(蒸気船)たった四はいで夜も眠れず<br />*上喜撰は、当時のお茶の銘柄、蒸気船で大騒ぎを、カフェイン効いたお茶で<br />眠れないにかけている<br /><br />アメリカが来ても日本はつつがなし<br />*つつがない(平安無事)と筒(大砲)がないことを掛けている。<br /><br />馬具武具屋 渡人さまとそっといい<br />*黒船景気で馬具武具屋だけは大繁盛となった。<br /><br />等等。

    同上

    当時の狂歌・川柳がかなりの数。その一部は

    太平の眠りをさます上喜撰(蒸気船)たった四はいで夜も眠れず
    *上喜撰は、当時のお茶の銘柄、蒸気船で大騒ぎを、カフェイン効いたお茶で
    眠れないにかけている

    アメリカが来ても日本はつつがなし
    *つつがない(平安無事)と筒(大砲)がないことを掛けている。

    馬具武具屋 渡人さまとそっといい
    *黒船景気で馬具武具屋だけは大繁盛となった。

    等等。

  • 同上

    同上

  • 同上

    同上

  • 同上

    同上

  • 同上

    同上

  • 同上

    同上

  • 同上。<br />全て記念館に飾られていたもの

    同上。
    全て記念館に飾られていたもの

  • ペリー提督の胸像が、記念館の玄関右手にあった。

    ペリー提督の胸像が、記念館の玄関右手にあった。

  • 浦賀奉行の戸田氏栄の胸像が記念館玄関左手にあった。

    浦賀奉行の戸田氏栄の胸像が記念館玄関左手にあった。

  • 日本は、<br />1853年ペリーが浦賀に来航後、1854・1858日米和親条約・日米<br />修好通商条約で開国に至り、幕藩体制鎖国を根底から根こそぎ覆す政策転換を経て、この15年後には明治革命を成し遂げ中央集権国家へ変貌した。<br />謂わば、1853年の黒船は、日本を否応なく世界的規模のグローバルゼーションの中に組み入れた先駆けだったと思わずにはいられない。<br /><br />日米和親条約後、日本では付随的ではあるが、極めて重要な措置が<br />阿部正弘政権時に取られた。<br />その一つは、「日の丸」に関することである。<br /><br />ペリー艦隊帰国後、幕府は、大型船建造の際は、「白地に日の丸の幟」<br />を使うことという指示を出した。<br />外国船と遭遇しての国籍の区別が必要だと判断したからである。<br /><br />それまで、日の丸は、日本固有のものではなかったのだ。<br />古くから日の丸を、東アジア海域の諸国は使用していた。<br />例えば、蒙古襲来絵詞では、元(蒙古軍)の兵船は、紛れもなく<br />日の丸であった。また、清俗紀聞(近藤重蔵編纂)によれば、清の<br />旗印も同様であった。<br />日の丸を正式に日本が内外に示すのは、阿部正弘政権からのことである。<br /><br />21世紀のこんにち、<br />瞬時にニュースは、世界中を駆け巡り高度なインターネット社会となっている。<br />思えば、地球規模でのグローバル化の遠因は、15世紀の<br />ポルトガル・ヘンリー王子や、<br />コロンブス、バスコ・ダ・ガマの時代から始まっていたのではなかったか。<br /><br />現在パックスロマーナならぬパックスアメリカーナの世界は、今後<br />どうなるのか、<br />様々な地球規模での問題が多すぎて<br />日々予断を許さぬ状況ではないだろうか。<br /><br />黒船から163年、日本にとって黒船来航の意義と重要性は、歴史の連続性を見る限り、未だその光を失っていないどころか、開国に導いたという意味でも<br />極めて重要なシュンであったと当方には感じられた。<br />

    日本は、
    1853年ペリーが浦賀に来航後、1854・1858日米和親条約・日米
    修好通商条約で開国に至り、幕藩体制鎖国を根底から根こそぎ覆す政策転換を経て、この15年後には明治革命を成し遂げ中央集権国家へ変貌した。
    謂わば、1853年の黒船は、日本を否応なく世界的規模のグローバルゼーションの中に組み入れた先駆けだったと思わずにはいられない。

    日米和親条約後、日本では付随的ではあるが、極めて重要な措置が
    阿部正弘政権時に取られた。
    その一つは、「日の丸」に関することである。

    ペリー艦隊帰国後、幕府は、大型船建造の際は、「白地に日の丸の幟」
    を使うことという指示を出した。
    外国船と遭遇しての国籍の区別が必要だと判断したからである。

    それまで、日の丸は、日本固有のものではなかったのだ。
    古くから日の丸を、東アジア海域の諸国は使用していた。
    例えば、蒙古襲来絵詞では、元(蒙古軍)の兵船は、紛れもなく
    日の丸であった。また、清俗紀聞(近藤重蔵編纂)によれば、清の
    旗印も同様であった。
    日の丸を正式に日本が内外に示すのは、阿部正弘政権からのことである。

    21世紀のこんにち、
    瞬時にニュースは、世界中を駆け巡り高度なインターネット社会となっている。
    思えば、地球規模でのグローバル化の遠因は、15世紀の
    ポルトガル・ヘンリー王子や、
    コロンブス、バスコ・ダ・ガマの時代から始まっていたのではなかったか。

    現在パックスロマーナならぬパックスアメリカーナの世界は、今後
    どうなるのか、
    様々な地球規模での問題が多すぎて
    日々予断を許さぬ状況ではないだろうか。

    黒船から163年、日本にとって黒船来航の意義と重要性は、歴史の連続性を見る限り、未だその光を失っていないどころか、開国に導いたという意味でも
    極めて重要なシュンであったと当方には感じられた。

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この旅行記へのコメント (2)

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  • 旅猫さん 2017/03/30 06:37:14
    歴史
    わきさん、こんにちは。

    浦賀は一度訪れてみたいと思っている場所です。
    歴史の舞台にもなったところなので。

    やはり、いろいろな史跡なども残っていて、楽しめそうな町ですね。
    三浦半島は、中世の頃も面白いろいので、そんな歴史を訪ねてみたいものです。

    旅猫

    わき

    わきさん からの返信 2017/03/30 11:01:52
    RE: 歴史
    おはようございます。

    浦賀は、幕末期にマシュウ・ペリー艦隊が
    来たことにより、その後日本は開国したこともあって、
    一度はじっくり見学しておきたいと思い
    カミさんとともに、訪問しました。

    長崎県出身の堀達之助が、通詞としてどのように艦隊と
    接触し、その後彼がどのような人生を歩んだか等
    興味もあって、訪問したしだいです。

    数奇な人生を辿ることになった堀ですが、
    日本で本格的な英和辞書を編纂されたことも
    当方の興味を引くところでした。

    他に、もうひとり日米通商条約時の主席通訳官森山栄之助にも
    興味を惹かれました。

    森山は、当時の英会話第一人者、
    長崎に囚人として送られてきた
    ラナウド・マクドナルドという米国人から
    1年あまり英会話の特訓を受けたそうですが、
    当時の幕末期
    色々な人間が関わって
    こんにちの日本を作り上げたのだという
    感慨が、浦賀に当方を向かわせたと思います。

    横須賀の海軍カレー
    (濫觴は、明治揺籃期に脚気で苦しむ海軍兵を、助け、脚気を撲滅し、洋食に変えた男、高木兼寛氏)
    のほうも、見たかったのですが、
    横須賀は、またの機会にしようと考えました。

    久里浜図書館では、当時の研究書など
    充実しておりました。


    旅猫さん、
    近隣にお立ち寄りの節は、是非三浦半島ごと巡って下さい。
    メッセージありがとうございました。

    わき



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