2016/02/05 - 2016/02/05
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naoさん
播磨灘にそそぐ揖保川の河口に位置する姫路市網干は、江戸時代初期の目まぐるしく領主が入れ替わる時期を経て、明暦4年(1658年)に、後に網干三ヶ村と呼ばれる、余子浜村、興浜村、新在家村の3村に分村され、余子浜村と興浜村は讃岐丸亀藩領に、新在家村は龍野藩領になり、興浜村には讃岐丸亀藩領の陣屋が、また、新在家村には龍野藩領の藩邸と蔵屋敷がそれぞれ置かれていました。
網干三ヶ村は、揖保川の水運と瀬戸内海航路が交わる要衝として栄えた港町で、天保2年(1821年)には、2,000艘を超える高瀬舟が揖保川流域の大量の物資を捌き、また、瀬戸内海航路の回船により、醤油などの特産品が各地へ運ばれて行きました。
現在、網干区余子浜、網干区興浜、網干区新在家と名付けられているかつての網干三ヶ村は、播磨臨海工業地帯の埋め立てなどもあり、時代の変遷とともに大きく様変わりしていますが、町並みの中には伝統的な町家が数多く残され、往時の姿を今に留めています。
ちなみに、興浜に置かれていた讃岐丸亀藩の網干陣屋跡には当時の門が復元されてはいるものの、新在家に置かれていた龍野藩邸の遺構などは残念ながら見ることはできません。
この日は、網干の情報発信基地として設けられた「あぼしまち交流館」の観光案内所で散策マップをいただいたうえに、車も停めさせてもらって、町の北側にある「誠塾」から町歩きを始めます。
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 自家用車 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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「誠塾」へやって来ました。
「誠塾」は、網干出身の勤王の志士として蛤御門の変にも参加した、河野東馬が慶應4年(1868年)に興した私塾です。 -
明治45年(1912年)に閉鎖されるまで、多くの優秀な人材を世に送り出しました。
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元は萱葺の建物だったように窺えますが、現在は鉄板葺になっています。
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余子浜の町並みにやって来ました。
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かつての網干三ヶ村は、時代の変遷とともに大きく様変わりしていますが・・・
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町並みの中には伝統的な町家が数多く残されています。
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虫籠窓は改修されていますが、伝統様式そのままの出格子が使われています。
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1階の下屋を受ける持ち送りが規則正しく並んでいます。
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本葺屋根のある町家。
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この町並みの中には、2階の外壁の一部に銅板を貼った町家をたくさん見ることができます。
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揖保川の水運を利用した廻船業や、地元産の塩を使用して醤油醸造や素麺業を営んでいた豪商で、『網干町史』にもその富裕さの程が記されている加藤家住宅が見えてきました。
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こちらは裏側にあたる、北側の外観です。
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加藤家住宅の正面にある長屋門です。
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この長屋門は、文久4年(1864年)に建てられたものだそうです。
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加藤家住宅の南向かいにある船渡八幡神社。
境内の西側を揖保川が流れているので、昔は揖保川から堀で水を引き、船溜まりが設けられていたそうです。 -
もちろん、拝殿の前には・・・
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阿形の狛犬と・・・
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吽形の狛犬を従えています。
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加藤家住宅を南東側から見た全景です。
中央に建つ主屋は、長屋門より2年早い文久2年(1862年)の建築だそうです。 -
よく似た町家が2軒隣り合っています。
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違っているのは2階の窓の数だけです。
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商店街の中に、丸い塔のある洋館が見えてきました。
なお、川向こうは新在家になります。 -
この建物は、大正10年(1921年)頃に建てられた旧網干銀行本店だった建物で、その後買収や合併などを経て、昭和11年(1936年)以降は神戸銀行網干支店として使われてきました。
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昭和45年(1970年)以降は、神戸銀行網干支店の移転に伴い売りに出されていたものを近くで服飾店を営んでいた方が購入し、洋装店として地域の人々に親しまれていました。
しかし、この洋装店も昨年末で閉店することとなり、地元住民グループ「あぼし人と景観まちづくりの会」などが、博物館や歴史資料館として建物の保存活用の道を模索されています。 -
銅板葺のドーム屋根に古代ギリシャ建築様式の花崗岩の柱などでしつらえられたこの建物の建築当時は・・・
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見上げる人々の目を圧倒したといわれています。
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旧網干銀行本店の少し東側にある、伝統様式で建てられた町家。
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姫路市の代名詞でもある白鷺城にちなんで、サギソウが市の花になっていますが、そのサギソウが汚水枡の蓋のモチーフになっています。
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こちらのお屋敷は、網干神社の総代を務められていた中圓尾家のお屋敷です。
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こちらの町家は、2階の外壁に銅板ではなく杉皮を貼っておられます。
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この辺りでは、2階に木製の手摺を取り付けた町家が・・・
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ちらほらと点在しています。
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こちらは、白漆喰壁に伝統的な虫籠窓のある町家です。
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新在家の町並みです。
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2階の外壁の一部に銅板を貼った町家。
銅板の貼り方には、各町家でいろんなパターンを工夫されておられます。 -
この町家は、2階の手すりと1階の出格子が見所になっています。
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見越しの松が存在感をアピールしています。
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ここにも2階外壁の銅板の貼り方に工夫を凝らしておられる町家があります。
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消火栓の蓋にも鷺があしらわれています。
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あちこちと町並みを歩いていると・・・
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知らず知らずの内に、中圓尾家のお屋敷まで戻ってきていました。
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中圓尾家の西側の町並みです。
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こちらは小さな町家ですが、豊かな風情は十分に感じ取ることができます。
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こちらは、龍野藩が藩領の村々を治めるため、領内を5つの組に分けていた内のひとつで、現在の網干周辺と太子町の南部を管轄する網干組(南組)15ケ村の大庄屋を務めていた片岡家のお屋敷です。
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現在は、子育てほっとステーション「網干片岡庄屋塾 寺子屋教室」と名づけられた、子供の育成の場として活用されています。
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ちなみに、この建物は元禄15年(1702年)に建てられたもので、姫路市でもっとも古い町家だそうです。
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新在家と、広い道路を挟んだ西側は興浜になります。
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かつて、龍野藩領の新在家と讃岐丸亀藩領の興浜とを分ける境界には掘割が掘られ、境橋という小さな石橋が架けられていました。
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当時は、朝夕2回だけ通行が許された境橋が、両藩をつなぐ唯一の往来手段だったといわれています。
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その境橋も時代の変遷とともにその機能が失われ、現在は欄干のみがその名残を留めています。
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欄干の脇に残る道標。
左ひめぢ、右むろつ(御津町室津のこと)と書かれています。 -
境橋の欄干が保存されている町家。
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興浜の町並みです。
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町角にたたずむ、昔ながらの郵便ポスト。
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真っ赤な郵便ポストの先には・・・
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風情ある町並みが・・・。
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左手の町家の銅板貼りのパターンは、亀甲模様になっています。
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町並みに面して、焼杉を貼った板塀に設けられた潜り戸。
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真っ黒に焼けただれた焼杉の、炭化された表面が水をはじくのに効果的なんです。
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興浜の西側の町並みと・・・
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振り返った東側の町並みです。
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こちらは、網干銀行頭取や網干町長を歴任した山本家のお屋敷で、明治初年に建てられたものだそうです。
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伝統的な日本建築と洋風建築が融合した木造三階建てのこの建物の中でも、特に黒漆喰壁の望楼は圧巻で・・・
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この町並みのシンボルとなっています。
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趣のある魚屋さんの前に建っているのは、金刀比羅神社の鳥居です。
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風情ある町並みの先に、揖保川の堤防が見えています。
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こちらは讃岐丸亀藩の網干陣屋跡に復元された当時の門で、歴史資料館として整備されています。
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門の扉に付けられている讃岐丸亀藩の家紋「四つ目結」です。
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網干陣屋跡に置かれている道標。
かつてはこの辺りに立てられていたんでしょうね。 -
網干陣屋跡の向かいにあるのは、戦前まで材木問屋を営んでいた旧水井家住宅です。
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大正11年(1922年)に建てられた豪壮な建物は、平成22年に姫路市に寄贈されたそうです。
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現在、「姫路市まちなかあるき 網干」のイベントの際に一般公開されているようです。
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旧水井家住宅越に見た、興浜の東側の町並みです。
左手に見えるのは網干陣屋跡に復元された門で、少し奥に山本家住宅の望楼の屋根が見えています。 -
旧水井家住宅西隣の町家。
2階の外壁全てに銅板が貼られています。 -
立派な板塀を巡らせた町家です。
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千本格子の窓の外側に、名栗加工の駒寄せを巡らせた町家。
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その町家の外壁の銅板の貼り方は、他には見られないデザインになっています。
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こちらの町家の外壁の銅板がオーソドックスな貼り方です。
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大きな看板が立てられているので、この町家が眼科医院かと思ったら・・・
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ご覧のように普通の民家で、西隣りが眼科医院でした。
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揖保川にそそぐ運河は漁船の溜りになっています。
さて、そろそろ「あぼしまち交流館」です。 -
「あぼしまち交流館」に隣接する町家です。
では、この辺りで車をピックアップして帰路につきます。
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