2016/01/28 - 2016/01/28
32位(同エリア135件中)
かっちんさん
水原の観光案内所で『懐かしい写真で振り返る「阿賀野川・光と影の近代ものがたり」〜イザベラ・バードから近代産業まで〜』のパンフレットを見つけました。
阿賀野川流域の地域再生を目指す「阿賀野川え〜とこだプロジェクト」が、阿賀野川流域にまつわる写真の数々を、「イザベラ・バード」「舟運」「鉄道」「河川工事」「近代産業」など阿賀野川を紐解く複数の視点から整理して展示しています。
写真パネル展は2015年11月3日〜2016年3月31日まで、新潟県内の阿賀野川流域各施設を巡回しています。
巡回予定は下記URLにて確認ができます。
http://www.aganogawa.info/archives/26545
今日はこの写真展を訪ね、阿賀野川の果たしてきた役割や歴史を学びます。
なお、写真には引用元の詳細が載っています。
- 旅行の満足度
- 4.5
- 観光
- 4.5
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 交通手段
- 高速・路線バス 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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-
京ヶ瀬支所前
水原(すいばら)より新潟観光バスの新潟行きに乗り、ここで降ります。
以前は京ヶ瀬(きょうがせ)村でしたが、2004年に水原町、安田町、笹神村と合併し、阿賀野市になりました。
では、写真展を開催している阿賀野市立図書館へ向かいます。 -
京中
京ヶ瀬中学校の校章です。 -
京のマーク
村民体育館の建物に取り付けられています。
これは京ヶ瀬村の村章でした。 -
広い雪原
このあたりは越後平野の農作地帯です。 -
ふるさと公園に到着
ここに図書館があります。 -
阿賀野市立図書館
新しい図書館です。 -
写真パネル展示会場
写真パネル展は、新潟県内を巡回しており、この図書館では2016年1月20日〜1月31日に展示しています。
観覧は無料です。 -
懐かしい写真で振り返る「阿賀野川・光と影の近代ものがたり」
〜イザベラ・バードから近代産業まで〜
阿賀野川を、イザベラ・バードが歩いた行路、舟運、橋、鉄道、洪水、河川工事、近代産業、漁業、川業のテーマに分け、写真を使って解説しています。
では、順番に見ていきます。 -
1.イザベラ・バードが絶賛した阿賀流域行路
イギリスの女性旅行家・紀行作家が、明治11年に来日して東北地方や北海道、関西などを旅行し、旅行記にしました。 -
2.阿賀野川の舟運
明治〜大正に津川船道に帆掛け舟が往来していました。
津川船道は、津川から阿賀野川−小阿賀野川−信濃川を通って新潟へ至る大河の物流ルートでした。 -
あんこ舟
明治後期の20名ほどが乗船できる貨客船です。 -
筏の集積場
東蒲原の広大な山林から切り出された木材は、阿賀野川を経由して津川の川湊に一旦集積された後、筏が組まれて新潟まで運搬していました。
やがて阿賀野川にダムが建設され始め、昭和30年代末に筏の姿が消えました。 -
巨大川舟「コーレンボウ」
明治以降、全国でも信濃川と阿賀野川にだけ出現・普及した船長約23mもの帆掛け舟です。
船名の由来は不明とのこと。 -
蒸気船
明治から昭和初期まで、新潟と葛塚(旧豊栄)を往来していました。
今はディズニーランドでこんな蒸気船を見かけますね。 -
鉄製コーレンボウ
昭和30年代前半に登場した砂利の運搬に適し、木造より一回り大きい鉄製コーレンボウです。
高度経済成長期を迎え、さらに新潟大火により、コンクリートの骨材である川砂利の需要増大に活躍しました。 -
最後の帆船
昭和に入ると、それまで帆掛け舟だった木造船に船外機(モーター)を導入する舟が現れ始め、戦後になると帆掛け舟が姿を消していきました。 -
3.阿賀野川の橋梁
明治8年に300m以上に及ぶ長大な木橋として、阿賀野川に架けられた横雲橋です。 -
トラス構造の麒麟橋
明治31年に架けられたトラス構造の麒麟橋です。 -
4.阿賀野川と鉄道
明治末期から大正初期にかけて、新潟と喜多方を結ぶ岩越線(現、磐越西線)が開通し、舟運から鉄道へと変わっていきます。 -
新津油田と岩越線
石油の油田があった大正時代の写真です。 -
念願の白新線(はくしんせん)
昭和31年に完成した白新線(新潟〜新発田)の阿賀野川橋梁です。 -
羽越本線
大正元年に完成した羽越本線の阿賀野川橋梁は、当時日本最長の1,229mでした。
鉄道の開通には、阿賀野川に架ける橋梁と密接な関係があったのですね。 -
5.たび重なる洪水や氾濫に悩まされてきた阿賀野川
昭和33年に阿賀野川で戦後最大の洪水が発生し、木造の横雲橋が流失しました。 -
阿賀野川最大の洪水「木津切れ」
大正2年に阿賀野川上流域の豪雨の影響で堤防が破堤し、小阿賀野川の木津切れから亀田郷全域が水没する阿賀野川最大の水害となりました。 -
阿賀野川大改修工事へ
木津切れによる亀田郷の甚大な被害が契機となって、阿賀野川の大改修工事の機運が盛り上がりました。 -
6.阿賀野川の河川工事
国が阿賀野川の大規模な改修工事に乗り出し、大正4年から19年の歳月・1,200万円近くの予算を要して昭和8年度に竣工しました。
エクスカベータは、長いアームの先端についている回転式の巨大なホイールが地面を掘削し、アームに取り付けられた複数のバケットが大量の土砂を機械後方へ運び出し、築堤の際の土堀に大活躍しました。 -
陸蒸気
エクスカベータで掘り起こした土砂は、この蒸気運搬車のトロッコに積まれて、築堤工事の現場まで運搬されました。 -
小阿賀閘門(こうもん)
阿賀野川から小阿賀野川へ分岐する満願寺付近の湾曲した河道に新たな河道が開削され、満願寺に閘門と水門が設置されました。 -
7.明治期の近代産業
古河市兵衛が手がけた草倉銅山です。
精錬所で生産された荒銅は阿賀野川の河港から帆掛け舟に積み込まれ出荷しました。 -
8.大正期の近代産業
大正期の日本国内は電力需要が増大し、水力発電ラッシュが到来していました。
阿賀野川では最初に完成させた昭和3年の鹿瀬ダムは、当時日本一の規模でした。
しかしダム完成後、全国的な不景気で売電が困難となり、東信電気の森重役はすぐ近くに大工場を建設し、余剰電力の解消に成功しました。 -
9.昭和期の近代産業
鹿瀬ダムの大量の余剰電力を消費するために、昭和4年に昭和電工鹿瀬工場が建設されました。
当初の主力製品は「石灰窒素」と呼ばれる化学肥料で、石灰岩を原料に電気化学を応用して生産し、戦後の全盛期は企業城下町鹿瀬として繁栄しました。 -
昭和電工の繁栄ぶり
-
鹿瀬駅の朝
昭和20年代後半〜30年代の通勤風景です。
工場最盛期に従業員が2,000名を越え、鹿瀬駅の時刻表は従業員の出退勤に合わせて作られていました。 -
有機化学への転換
昭和20年代後半になると石灰窒素が急速に利益を生まなくなり、日本社会ではビニルやプラスチックなどの新素材の原料となる「アセトアルデヒド」が求められるようになりました。
昭和電工は赤字脱出のため、昭和30年代に入るとアセトアルデヒドを生産する有機化学部門に注力するようになりました。 -
有機水銀が阿賀野川へ
アセトアルデヒドを製造する過程で副生された有機水銀が、工場排水とともに阿賀野川に流れ出ていたため、その後新潟水俣病が阿賀野川流域で確認されました。 -
有機水銀による被害
手足のしびれ、重症になると死亡する事態になりました。 -
10.阿賀野川の恵みと漁業
昭和10〜20年代の横越では、鮭漁が評判でした。
また、明治半ばには鮭漁獲量がピークに達し、その後徐々に減り、草倉銅山の鉱毒の影響が示唆されています。 -
ヤツメウナギ漁
現在も阿賀野川下流でヤツメウナギ漁が続けられています。 -
11.阿賀野川の恵みと川業
昭和30年頃、阿賀野川と早出川の合流地点で、良質な粒度の砂利が川底から豊富に採取できました。
当時は機械化以前で、人の背に砂利を積んで土手を上っていました。 -
機械化された川砂利採取
昭和30年以降機械化が進みました。
その後、河床低下が問題視され始め、昭和50年代以降は陸砂利採取に移行しました。 -
渡船業
昭和40年代の阿賀野川は現在ほど橋が架かっていなかったため、対岸に渡るための渡船場が何箇所もありました。
雪降る中の渡船は大変です。 -
イチオシ
おわりに
阿賀野川には舟運・漁業・川業・近代産業などの恵みもあれば、洪水・公害など負の面を乗り越えてきた経緯があり、光と影の歴史を学ぶことができました。
写真パネルを使った展示は、より理解を深めることができました。
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