2008/12/27 - 2008/12/27
83位(同エリア214件中)
マローズさん
[平成3年まであった龍馬の大便]
平成3年5月、徳島県美馬市のある武家屋敷で、屋根裏を改修時、その一角にあった小部屋から奇妙な品々が家の者によって発見された。古いランプ、番傘、崩れた手桶のようなもの、そして奥には掛敷き布団が畳まれた状態で仕舞われており、上に枕が置かれていた。どれも一見して、100年以上前のように思える古さだった。
中でも正体が分からなかったのは形が殆どなくなった手桶のようなもので、底には藁が敷き詰められており、その上に白く変色した薄茶色い「何か」が盛られていた。
その手桶のようなものは、屋根裏部屋全体を片付ける際、家の外に出しておいたそうだが、その日はそのことを皆、忘れ、そのままにしていた。
翌日、その手桶の中を見ると、盛られていたモノは、少し溶けたように柔らかくなっていた。鼻を近づけてみると、人糞だったという。
その日以降もそれは放置され続け、人糞は数日の内に粉々に砕けて、跡形もなく消滅したのだった。
この武家屋敷、鎌村家には代々語り継がれていることがあった。それは幕末の数日間、「才谷」と名乗る土佐の郷士が屋根裏の小部屋に滞在していた、ということだった。
その後、当時の当主の妻(現当主の母御)が自宅に纏わる口碑や文献を調べたところ、文久2年2月半ば過ぎ(龍馬脱藩の一ヶ月半ほど前)、坂本龍馬が讃岐琴平の勤王家・美馬君田(くんでん)から、当時の鎌村家の当主・熊太を紹介する紹介状を受け取り、阿波へ入り、鎌村家を訪れたというものだった。それは勤王活動資金の調達のためだった。
記録では龍馬は、文久元年10月、藩に願い出て出国し、讃岐丸亀や長州、関西地方等を巡っている。そして土佐に帰るのは翌年2月29日。つまりこれは四国に戻り、土佐へと帰る途次の出来事。
熊太は藍商の豪商だったが、他方、龍馬と同じ下級武士(山奉行)としての任も負っていたので、その申し入れを快諾した。但し、大金を調達し、家に隠し部屋を拵える間、知人である貞光村の郷鉄砲小頭・岡氏の所に一両日滞在するよう、指示した。
龍馬が岡家で一両日滞在し、再び鎌村家に向かおうと家を出た時、粉雪が舞っていたので、岡氏は龍馬に番傘を貸したのだという。
龍馬は再び鎌村家を訪れると二、三日滞在し、その間、熊太は龍馬に福井で横井小楠から教授された「国是七条」の草案を説いた。これが後に龍馬が著す船中八策の原案になったという。
発見されたランプやオマルの残骸は、この時、龍馬が使用したものだった。
当方は何回か鎌村家に取材に訪れるとともに、この伝承の背景や信憑性を探った。すると琴平には龍馬が滞在した旅籠や、君田との交流の伝承があることが確認できた。君田と龍馬を繋ぐ人物らも浮かび上がった。つまり、この鎌村家の伝承は信憑性がある。
そして当方はこの時龍馬が歩いた四国の街道を調査し、書籍として出版すると共に2010年、東みよし町で写真展を開催した。これは徳島のマスコミにも取り上げられ、鎌村家では自宅に資料館を造ることになった。見学希望者は鎌村家資料館のFAX0883-63-2239まで。
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