1988/09/07 - 1988/09/13
10位(同エリア5322件中)
わきさん
1988年(昭和63年)9月 現在の2015年から27年前に、北京を家族で訪れた。
子供は2歳2ヶ月、自転車を借りて北京幹線道路特に一番の
天安門広場前の幹線道路を走行
日本から嬰児幼児用補助座席を持参して、自転車座席の前に設置し
娘を乗せて毎日走った。
当時の記録をつけていたこともあって、旅行記を作成してみようと考えた。
また本件記載のキッカケは、フォートラベルの皆さんの
優れた旅行記を拝見すると、中には70年代80年代に訪れた諸外国をUP
されていてそれがとても新鮮で楽しいものばかりだったからということもある。
そのような旅行記に触発されてしまったことが一番である。
1988年前後数年間、現在同様、世界は激変していたと思う。
1985年当時のG5では、主要先進国5カ国で為替相場安定化のために
プラザ合意がなされ、その後日本では急激に円高が進行。
1986年 アジアフィリピンでは、20年間独裁を続けたマルコスが国外へ亡命アキノ政権誕生。
同年、当時のソ連(ウクライナ)でチェルノブイリにて深刻な原発事故が発生した。
これに相応するように、1988年国連部会では所謂IPCC(気候変動に関する政府間パネル)が発足。
(私見では、チェルノブイリ事故とIPCCは、一対のものと考えられるが・・・・?また、その後2009年に、IPCCクライメートゲート捏造事件が起こる、所謂ホッケースティックは、大嘘だった。)
そして、1989年ベルリンの壁崩壊に象徴される東欧民主化革命がドミノ倒しで起こった。
それは中国にも波及するかに思えたが、鄧小平政権は、戒厳令施行と軍隊出動で天安門民主化要求デモ隊を軍事的に押さえ込み
自国民の表現の自由に代表される人権を強力に制限。
当方の北京旅行のこの時、まさか9ヶ月後には
6・4天安門事件が起こることなど予想だにしていなかった・・・・・。(その後1989年5月天安門事件の1ヶ月前、
妻と子供は大連・北京などを旅行、天安門は規制封鎖され、入れない
体験をすることとなる)
(以下は、家族で27年前北京を訪問したときの様子ですが、
写真保存の状態など極めて悪く、公開するのを躊躇うほどですが、
当時の北京の中心街がどのようなものであったかが少しでも
分かれば幸いと思い、思い切って記載してみた次第です。)
当時の中国一人当たり所得月額4500円から5000円前後
外国人は、例外なく外国人兌換券を購入せねばならない。
もっとも、人民元も買い物のお釣りでもらい勿論使用は問題なし。
為替レート、1988年当時の当方の記録では、
1元=37円だった。
宿泊したのは、写真の北京国際飯店。開業1987年だったので、
開業から1年経過していなかったと思う。
記録を調べていたら、上記写真が出てきたので掲載。
宿泊室は、記録から1325号室と判明。
1988年の写真では、このホテルが唯一高層だが、
現在はビルが乱立していると思う。
北京駅まで徒歩で、7分前後 北京飯店まで同15分
王府井まで同じく15分 天安門広場まで同25分位だった。
今現在一番の繁華の西單通りや東單通りは、当時は人もそれ程ではなく、まばらだった。
王府井通りの南側から見て左側には、狭い市場何でもありありの
古い町並みが続いていたが、今はもうその面影すらない。
天安門広場の前の幹線道路は、車に混じり未だ馬や、馬車、
中には時々牛車、人力自転車タクシー(輪タク)などが行き交うところだった。
そして何よりも、自転車の洪水だった。
朝、目を覚ますとホテルの窓からは、
どこから湧いてくるのか幹線道路は、
溢れんばかりの自転車自転車自転車だった。
自転車道は、驚くほど広かった。
自転車道のワキに、200メートル毎位に、
路上自転車タイヤのパンク修理屋が
いた。
北京首都国際空港ー1988年当時は、国際空港としてはかなり
小さいものだった記憶がある。
1999年には、日本のODAにより、3倍の広さとなる。
(2015年現在、世界第2位の経済大国に中国は
なっているが、未だ日本の対中国ODAは少し残っている)
- 同行者
- 家族旅行
- 交通手段
- 自転車 タクシー 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
-
代理店は日本旅行開発と言ったが、
現在そんな会社は存在していないようである。
写真は、日程表。全て途中空白なのは、個人旅行で
やむを得ない。朝食だけはついていた記憶が蘇る。
北京首都国際空港に迎えに来ていたのは、
記録によれば、
ポウ(まだれの部首に女みたいな日本文字にはない文字)会来氏。
国際飯店に到着した際、運転手さんに当時のマイルドセブンを
ひと箱あげたら、右左後ろまでキョロキョロさせて、
瞬間的にさっと取って仕舞ったのには、驚いた
監視とかそんなことを気にしていたのかと思ってしまった。
明け初日に、自転車2台借りに近くを徒歩にて回った。
幹線道路の歩道は、舗装されていなかった記憶がある。
そして、必ず行き交う男は、
「チェンジマネー」外国人兌換券と人民元との
交換をして欲しいと言って来た。
外国人兌換券の方が、彼らにとって、うま味のある妙味ある代物だったようだ。
こちらは、そんなことよりレンタサイクル屋を探していたので、
彼らの一人からうまくレンタル屋の場所を教えてもらったりした。 -
ホテル北京国際飯店の1325室から
撮影した風景。
上部一番向こうに北京駅
手前2連バスが走っているところは、北京最大の幹線道路、
右に行くと天安門である。
当時は、ビルなど建設されていない。
古い胡洞だらけであった。
いたるところで、建設ラッシュだったが、
足場組みは、すべて丸太の木材だったという記憶がある。
歩道は、殆ど舗装されていなかったと記憶している。
この写真の2連バスの左手方向に歩いて、自転車レンタル屋を
探し出した。
当方の記録によれば、2台借り出して1日の預かり保証金が400元だった。レンタル料金は、1日1台9時から夕方5時までで、6元、2台で
12元と当時の記録に記載がある。
(最初は、パスポートを預かるとか言っていたが、
命と同じパスポートは絶対に預けられないと、何とかそれは
避ける。次の日同じように自転車借りに行ったら、もう保証金もとらなくなった。) -
北京駅の前
散歩の途中に子供は眠ってしまったらしい。
北京駅に何回も、行った記憶が蘇る。
地方からのお上りさんたちで、溢れかえっていた。
道を色々と聞かれたのには、驚いた。
こちらが北京市の在住の都市住人と勘違いされたりした。
明け初日の夜は、
この向かい側にあった食堂みたいなレストランで、
食事をしたが、メニューは現地語ばかりで、
詳細には分からず、チャーハンや野菜の炒めたものを
注文したような感じだったが、極めて印象的だったのは
二人前のチャーハンを頼んだら、大きな大きな皿で
6人前くらいの量のチャーハンが出てきたことだった。 -
人民大会堂を左に見ながら、
南から北へ自転車でウロウロと。
この時も子供は、もう夢の中。
天安門広場前の大通りは、
当時自転車二人乗りは禁止されていた。
何度か、注意されたが、お構いなしだった。
現地の人たちは、補助座席も付けず、
子どもたちを自転車のトップチューブ部分に載せて殆ど
走っている。3人乗りの時でさえそうである。
あれでは危険だったとこちらもヒヤヒヤしたことを
思い出した。 -
自転車を借りるために、探し歩いている様子。
一歩大通りから、1本入ると、このような感じだった。
とにかく当時の中国は、自転車ばかりである。 -
幹線道路も、自転車道が広くこのような感じだった。
時々、車道をゆったりと農耕の馬車などが行き来していた。 -
これが、北京の当時の幹線道路である。
今では信じられぬ光景、車少ない。 -
2連バスと自転車
ほとんどの通りは、
自転車の方が多かった記憶がある。
現在とは様変わりである。
現在はものすごい渋滞社会。 -
JALの成田から北京までの
予約権(券?)だったと思われる。 -
その表紙。
-
北京に旅行するというので、
当時神田神保町の東方書店で、
北京詳細地図を購入したが、
もうボロボロのために、
写真の対象には程遠いため、
この現地北京で購入した地図を掲載させて頂いた。
北京市街全体が総て分かるようになっていたが、
すべて中国語のため、どの程度理解できたかは
怪しい。 -
北京遊覧図の中その1
9月8日から9月10日どこを
訪問したのかを書込した覚えがあった。
因みに9月11日からは、
長城万里の長城慕田峪、明の十三陵定陵(14代皇帝万暦帝・)
長陵(三代目永楽帝)などを、貸切タクシーにて
回ったと思われるために、地図には記載できない。 -
北京遊覧図 その2
北京国際飯店から、天安門までの距離も
一目瞭然だった。 -
緑地部分は、北京動物園である。
遊覧図その3
こどものために、
自転車にて、北京動物園まで
約1時間はんかけて、ゆっくりと訪問した記憶がある。
利用したのは、環状道路の二環状道路だったと思う。
途中、環状線道路を干し草を満載した牛車などが、
ゆっくり走り、珍しいので自転車を降りて見物したりした。
こんなに広い道路を車は殆どいなかった記憶が蘇る。 -
当時の地下鉄路線図かと。
地下鉄も利用して乗車してみた。 -
上記の写真と比較しよう。
これは、2010年の北京地下鉄図である。
27年間で様変わりである。 -
同上2010年の地下鉄路線図。
因みに、当方は北京を27年間に、
その後八度訪れることとなるとは
この時は全く予想だに出来なかった。 -
北京動物園の概略図
9月9日に訪問した。
パンダ・レッサーパンダ
ユキヒョウなどがいたが
肝心の子供は、アイスばかりを
欲しがった。
窓口でチケット購入する際
無言を通したが、
窓口の人は外国人と分かるのか、
地元民の五倍の料金をきちんと請求した。 -
故宮の概略図
-
明の十三陵
9月11日訪問したと記録に記載がある。
定陵(14代皇帝万暦帝・)
長陵(三代目永楽帝)を訪問 -
これは、当時のバス路線?
不明である。
知っている方お教えください。 -
宿泊した北京国際飯店
-
北京国際飯店の玄関口にて撮影
-
北京国際飯店の封書
-
北京中山公園だと思う。
ご存知のように、孫文に由来する公園である。
孫文の、一時期の日本名は、高野長雄である。
孫文が尊敬してやまなかった高野長英から名づけた。 -
中山公園同上。
-
これも、中山公園前で撮影したもの。
-
これも中山公園の入口付近
-
中山公園の中に入って撮影
-
向こうには北京駅
-
幼児というよりは、
子供は未だ嬰児だった。 -
大通りを一歩入ると
もうこんな感じで舗装もされていなかった。 -
街中風景だと思うが、
向こうに見える建物は何だったか
当時は覚えがあったが、
にわかに出て来ない、
ごめんなさい、勉強不足で。 -
この時、我が子は2才2ヶ月だった。
後年聞いたら、成人してからは
全然記憶にないとのこと。
この24年後である2012年、現在より
3年前、リスボンのアルファマでカミさんが
財布ごと盗難すられてしまう事件が
起こるが、日本にいた娘のおかげで
カードなど全部とめてもらい
大したことにならなくてホッとしたことがあった。 -
そのリスボン、アルファマ地区の展望台である。
-
同上、このアルファマ展望台の右手に
飲食売店があった。
そこで、ワインを2杯カミさんが購入
外で飲んでいい気分になり景色など
楽しんで、帰り間際に
行き交うロシア人の若い女性が
カミさんの後ろのリュックが開けられているよ
と教えてくれた、そのリュックを確認すると・・・・・、
ない ない 財布がない。
全て現金カードなどやられてしまった。
現金はしょうがないが、問題はカードである。
とにかくコルメシオ広場まで戻って対策を考えた。
カードを止めないとと思い、
日本にいる娘に、メール。
そうすると、日本時間で朝早かったが、
すぐに返信あり、調査してカード全部とめるから、
と心強かった。
明日は、予定にないリスボン日本大使館へ見学がてら、
盗難届出もしようということになった。
ホテルより徒歩で30秒、隣のビルが大使館だった。
その後は、コルメシォ広場のカフェにて、
来年はどこへ行こうかという話になり、
第一候補がキューバハバナだったのである。
(一年後それが現実になろうとはこの時はさすがに思っていない) -
天安門広場の
人民英雄記念碑を背景に。 -
同上、である。
-
人民英雄記念碑を大写しで。
-
さらに大きく。
写真画像が不鮮明でごめんなさい。 -
1988年9月の天安門広場。
人は当時は少なかった。 -
同上
-
同じく天安門広場
-
2歳2ヶ月の子供が撮影したもの。
右奥は、毛沢東紀念館 -
当時の中国国家博物館ではないかと思う?
-
毛沢東紀念堂は、
華国鋒が建てさせたといわれるが、
その華国鋒は、鄧小平との権力争いで
負けていつの間にやら姿を消す。 -
ここも、天安門広場である。
-
子供は、裸足になって
-
同上
-
同上
-
同上
天安門を南東側より見たもの。
この風景で思い出すのは、
6・4天安門事件である。そして、一人のアジアの歌姫のことである。
80年代中国、当時の中国大衆は、二人の「鄧」に支配されていると
一部語られたことがあった。
一人は鄧小平 そしてもう一人は鄧麗君である。
冗談交じりで昼は鄧小平の言うことを聞き 夜は鄧麗君の歌を聞くとまで
言われるようになる。
鄧麗君とは、日本でもお馴染みのテレサテンのことである。
1989年7月即ち天安門事件後1ヶ月後に「悲しい自由」という歌が
発売になる。この歌こそ、彼女のその後の人生を暗示していると
思われた。
天安門事件後、彼女の人生は急激に暗転する。
僅かこの6年後にはこの世の人ではなくなるのだ。
全てはこの事件が遠因ではないかと思われる。
1994年日本で最後に「夜来香」を歌った時、
これがあのテレサか、と疑うほど声量もなく、
相貌もわるく一変していたことを覚えている。
1995年5月8日42歳にて死亡。
台北市北東金宝山に永眠。
土葬にて、死後50年間は生前の姿のまま眠り続ける。
(台湾で、死後50年間生前の姿のまま眠り続ける措置が
取られているのは、蒋介石・蒋経国・そしてテレサの3名だけ)
下は、天安門事件で犠牲になった人たちの
冥福を祈り、テレサが喪服で歌った「悲しい自由」である。
https://www.youtube.com/watch?v=ad5LnXsO_jc
悲しい自由
作曲:三木たかし
作詞:荒木とよひさ
ひとりにさせて 悲しい自由が
愛の暮しを 想いださせるから
ひとりにさせて 疲れた心が
いつか元気を とりもどすまで
あなたを近くで愛するよりも
心の宝物にしていたいから
So-long このまま ちがう人生を
So-long あなたの 背中見送るわ
この歌詞の、「あなた」という文字を「中華人民共和国」に
置き換えて深読みすると、この歌は恋歌などではなく、
実は、中国への決別の歌であると当方なら理解する。
周知のように、鄧麗君(テレサ)の出身地は台湾であるが、
本籍は、父母の故郷中国本土河北省である。 -
上の続き
鄧麗君(テレサ)が、一番光り輝いていた時期は、
とりわけ1985年12月のNHKホールでのコンサートではなかったか。
この時、The power of love.(セリーヌ ディオン)と
A Good Heart(ファーガル・シャーキー) のカバー曲が
とりわけ光っていた。
https://www.youtube.com/watch?v=Ir3747lb0VY&list=PLB63B4CF8DE718F28&index=4
上記は、The power of love.
https://www.youtube.com/watch?v=OjkjmM_a4Zs
続いて、テレサの魅力溢れるCareless Whisper
https://www.youtube.com/watch?v=ui6Xy8T9YaE
続いて、A Good Heart
上記3曲いずれも、1985年12月15日NHKホールで歌われた。
他に、
天安門事件・テレサ・テン関連キーワードは、
胡耀邦・趙紫陽・開明派・李鵬・守旧派・
仏国パリ・シュテファン・ピエール・一回り以上年下男
等。
天安門広場、写真は、子供と一緒にVサイン。
広いので向こうの端は見えないとよく言われる。 -
在りし日の
テレサ -
当時の道路状況、
今は信じられぬくらいすいていた。 -
同上
-
同上
写真写り極めて良くなし。 -
当時の中国国家博物館ではないかと思う?
-
軍事博物館のチケット
3角だったとチケットに記載がある。
円換算12円である。 -
中国人民軍事博物館の中の一部
-
軍事博物館の正面玄関口
-
軍事博物館抗日戦線のフロア
-
軍事博物館は、西三環路の近く、
北京動物園の南に位置していた。
所謂西單を更に西へ行ったところだった。 -
車より、自転車の方が断然に多い
-
軍事博物館前の広場だと思う
-
同上
-
大通りから、1本入った裏通りを歩いてみた。
右は、レンガ作りだった記憶がある。 -
北京の自転車道の当時の広さは
車道と同じくらいの広さだった。 -
色々と、裏手の道を散策した覚えがある。
至るところこのような感じのところが多かった。 -
夜、客待ちしている輪タクである。
-
中央分離帯から、夜北京駅を撮影したが、
良く撮れていないようだった。
車があまり走っていないので撮影したと思う。 -
これも同上。
全く画像になっていないが、
如何に車が少なかったかの証拠には
なると思う。
向こうは、北京駅。 -
景山公園
-
景山公園から故宮を写したつもりだったが。
-
景山公園の一部だと思う。
-
故宮の中。
今ではありふれてしまった1枚。 -
同上
-
北京駅の前広場
何百人何千人もの人が
大きな荷物を抱えて座り込んでいた覚えがある。
ちょっと、異様だった。 -
景山公園から、故宮を望む。
-
その景山公園から望む故宮を少し大きく。
下には、人々の群れ。 -
景山公園で。
-
明の十三陵
9月11日訪問したと記録に記載がある。
定陵(14代皇帝万暦帝・)
長陵(三代目永楽帝)を訪問
明の十三陵、
定陵、一人3元チケット -
子供用チケット
5角=18円位 -
明の十三陵
9月11日訪問したと記録に記載がある。
定陵(14代皇帝万暦帝・)
長陵(三代目永楽帝)を訪問(三代目永楽帝)
これは、長陵のチケット。
一人5角=日本円で18円位か。 -
明の十三陵の入口あたりにて。
-
同上
-
お決まりの
明の十三陵の両側を飾るらくだなどの動物。
象なども並んでいたよう。 -
明の十三陵入口付近
定陵か長陵かがはっきりしない。
どなたかお教えください。 -
こちらは、長陵
-
万里の長城慕田峪長城(ぼでんよくちょうじょう)
のチケット1元=37円であった。 -
万里の長城慕田峪長城(ぼでんよくちょうじょう)
のロープウェイ。
チケットには、ケーブルカーとなっていた。 -
万里の長城慕田峪長城(ぼでんよくちょうじょう)
の入口付近。
ここまで、かなり階段を登ってきた記憶が蘇る。
因みに、最も人気で賑わう万里の長城八達嶺には、
その後当方は、7回ほど訪れることとなる。
八達嶺の方は、今や人人人で、
銀座通りみたいになっていて風情がなくなった。
この時、慕田峪の方は、人もそんなにいなくて
十分に楽しんだ。 -
ここへ行く手段は、
北京国際飯店のフロントにて、
タクシーをチャーター、
一日で3ヶ月分の賃金が
手に入るというので、
一番はしゃいでいたのは、
他ならぬ子供ではなく運転手だった。
時々、坂の途中でエンジン具合がおかしくなったりした。
座席の足置き場に厚い敷革みたいなものをめくると
少し穴が開いていたのには、辟易した覚えがある。
27年前は、中国はそんな状態だった。 -
万里の長城慕田峪
少しずつ歩いている。 -
同上
-
同じく
-
これも同じくである。
-
同上
-
同上
-
同上
-
同上
-
同上、尾根沿いに築造されていた。
-
同上、遠方を撮る
-
慕田峪の
ロープウェイから撮影 -
同上
-
同上
-
万里の長城慕田峪
-
万里の長城慕田峪
階段1段より、子供は小さかった。 -
長城同上
-
尾根沿いに撮影
-
王府井などで、
買い物したが、
少し小さい商店などでは、
当時の服務員は、
目の前にある商品を
指さしても、
「メイヨウ」(ない)
「メイヨウ」(ない)
が多かった。
今とは大違いである。 -
同上、商品を買った証拠の伝票だと
思う。 -
北京国際倶楽部(ホテルより更に東側に30分ほど行ったところ)
での、食事はよかった記憶がある。
この他、
北京飯店2階東側に、
当時日本料理屋の五人百姓があって、
そこも利用した。後年、北京飯店に宿泊した時も
利用したりした。
現在は、五人百姓は、東側1階に移っている。 -
北京国際飯店の中の
レストランでの利用だと
思われる。 -
外貨兌換券との交換レシート
-
これは、買い物の伝票
-
同上
-
北京駅前は
毎日一人で
抜け出しては
散策した。
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この旅行記へのコメント (19)
-
- trat baldさん 2016/04/12 21:39:30
- 値千金!
- フイルムカメラは味が有るねぇ、、、、撮り損ないにコストがかかるので丁寧に撮った覚えが有るけど今じゃ数打ちゃあ当たるですもんね。
でもわきちゃんさんは現在と殆ど変わりませんね、幾らかはお年を召した感が有りますが、、、、奥様はきっと今もお綺麗でしょう、娘さんは妙齢の美人になっているでしょう。
コレってNHKのアーカイブもしくは国立図書館レベルと違う?時代の検証って事ですよね。
Ps.僕は現場には遭遇してませんがマニラ空港のアキノ暗殺時にはフィリッピンに通っていました、、、、クーデターのお陰でマカティ銀行に預けたお金は全部パーになりました(ioi)
- わきさん からの返信 2016/04/12 23:59:23
- RE: 値千金!
- 直球あり変化球ありの簡潔ながら七変化満載の
メッセージいただき誠に恐縮至極です。
確かに当時はフィルムカメラを大事に使っていた記憶がありました。
自らはアーカイブとは自覚がなかったのですが、
言われてみると、正にtrat baldさんおっしゃるような
気が致しております。
当時クーデターあったフィリピンでは、大変な思いをなされたご様子。
お察し申し上げます。
トラート旅行記は、色々と勉強させて頂きました。
続けて他の旅行記もまた読ませて頂こうと思います。
タガログ語のキーワードなぜか「ウータン・ナ・ローブ」
という言葉を思い出してしまいました。
コメント誠にありがとうございました。
-
- nichiさん 2016/04/03 20:40:53
- テレサ・テンと天安門
- はじめまして。
50代後半の定年間近の私と、50代半ばの家内のツガイでございます。
27年前のご旅行時の半券やレシート、路線図などの資料をこれだけ保存されていらっしゃるなんて素晴らしいですね。その一つ一つに思い出がこもっていらっしゃることを理解致しました。
このころの北京の状況を夫婦で興味深く拝見いたしました。
天安門とテレサ・テンに関連があるなんて知りませんでした。
テレサ・テンの歌は当時のトレンディ・ドラマの主題歌でぐらいしか知りませんでした。わきちゃんさんの、「悲しい自由」の歌詞の、「あなた」という文字を「中華人民共和国」に置き換えて深読みすると、この歌は恋歌などではなく、実は、中国への決別の歌であると当方なら理解する。
というコメントにじっくり考え込んでしまいました。
勝手ながら「フォロー」させてくださいませ。
今後ともよろしくお願い申し上げます。
- わきさん からの返信 2016/04/03 23:30:42
- RE: テレサ・テンと天安門
- こんばんは。
27年前の北京旅行記
詳しく読んでいただき
誠にありがとうございます。
大変嬉しいメッセージでした。
とりわけ、テレサと6・4天安門事件の
関わりなども深く読んで頂いたご様子で
テレサファンの一人として
篤く御礼を申し上げます。
89年当時、ベルリンの壁崩壊に象徴されるように、
中国にも民主化要求運動が起こったことなど
nichiさんご存知のとおりです。
テレサも、この民主化要求デモなどに、ハチマキ姿で参加し、
登壇し演説や歌などで、デモを支持していました。
天安門事件直後は、日本でのテレビ出演したとき、
涙ながらに持ち歌「香港」を歌っていた姿が
昨日事のように思い出されます。
そこで、このような様々な経緯から
89年7月に「悲しい自由」が発売されたのだと
思っております。
当方のこの旅行記は、昨年2015年UPですので、
テレサ死亡から丁度20年目となりますので、
この際、自分の過去の北京訪問もあったので、
さりげなくテレサのことも内容に含ませて
記載すべきだと考えた次第です。
そして、なによりも文字通り
テレサは、日本・台湾のみならず、本土中国
香港・シンガポール・タイ・フィリピン等で
熱狂的なファンを獲得し得た
「真のアジアの歌姫」であったと思って
間違いないと考えます。
こちらこそ今後ともよろしくお願い致します。
繰り返しになりますが、
嬉しいメッセージ誠にありがとうございました。
わき
> はじめまして。
> 50代後半の定年間近の私と、50代半ばの家内のツガイでございます。
> 27年前のご旅行時の半券やレシート、路線図などの資料をこれだけ保存されていらっしゃるなんて素晴らしいですね。その一つ一つに思い出がこもっていらっしゃることを理解致しました。
> このころの北京の状況を夫婦で興味深く拝見いたしました。
>
> 天安門とテレサ・テンに関連があるなんて知りませんでした。
> テレサ・テンの歌は当時のトレンディ・ドラマの主題歌でぐらいしか知りませんでした。わきちゃんさんの、「悲しい自由」の歌詞の、「あなた」という文字を「中華人民共和国」に置き換えて深読みすると、この歌は恋歌などではなく、実は、中国への決別の歌であると当方なら理解する。
> というコメントにじっくり考え込んでしまいました。
>
> 勝手ながら「フォロー」させてくださいませ。
> 今後ともよろしくお願い申し上げます。
-
- ももであさん 2016/03/27 07:10:05
- 時の激流
- わきちゃんさん おはようございます
「夢は殺され 夢は見ることさえできなくなってしまった」
天安門事件のために、ご両親の祖国で歌えなくなった。
この事件は、様々な人生に衝撃を与えましたね。
時の流れに身をまかせるはずが、時の波に翻弄される悲哀
そもそも当時日台は見かけ上国交断絶していたから、
歌姫は来日すらままならなかったのですよね。
今では国内旅行気分で行き来できるようになりました。
今年の正月は台湾へ行ったので、金宝山へも行きました。
今でも小の人気の高さが伺えました。
ももであ
- わきさん からの返信 2016/03/27 10:21:19
- RE: 時の激流
- おはようございます。
誠に格調高い嬉しいメッセージをいただき
ありがとうございます。
> 時の流れに身をまかせるはずが、時の波に翻弄される悲哀
正に、ももであさんのコメント、正鵠を射抜いているようで、
テレサの人生を見る思いです。
テレサファンの一人として篤く御礼を申します。
もうすでに、ご存知で見ておられるかも知れませんが、
下記は、1984年当時テレサが、福建語で歌った楽曲
怎麼開始です。
一度覗いて頂ければ幸いです。
https://www.youtube.com/watch?v=1RfgHSaZtbs
また、テレサ亡き後この楽曲も作られました。
あわせてご覧頂ければと思います。
https://www.youtube.com/watch?v=n839G9DuPeg
わき
-
- ボビーさん 2016/03/13 13:05:20
- 麗君の映像に衝撃です。
- わきちゃんさん こんにちは!
この度は、高畠冬咲きぼたん祭りに投票して頂きましてありがとうございました。
ちょっと今日は、時間もありましたので、わきちゃんさんの中国でのお写真拝見し、ああこんな旅行記珍しいなって思いました。(ある意味、カルチャーショックです)
私は、香港映画に夢中になって、中国の物は、ほとんど、香港の輸入業者の会社から買っておりました。(CD,VCD,雑誌、グッズ等々)張信哲という歌手が好きでしたので。
ですので、あの頃の中国事情があまり良くわからないのですが、情報がないのは確かですよね。パソコンもなく、はがきで注文してました。
麗君、悲しい歌姫でしたね。とても勉強になりました。
若い頃は良くカラオケで歌ったものです。でも英語の歌はあまり聴いたことありませんでした。貴重な映像ありがとうございました。
麗君が、祖国に戻りたくて、いろんな活動したのは有名ですよね。
話すときりがないほどありますが、アジア好きの割に、行ったこともなく、東北に埋もれている普通のおばさんなのです。
普通の、中国や、台湾の旅行記と違い、とても興味深く拝見いたしました。
去年は、山形で2年に一度の国際ドキュメンタリー映画祭があり、香港の「革命にて」
という、映画も旅行者のかたの影響で見ました。
香港でさえも、自由がなくなって来ているのでしょうか?
感想やら自分の事など長々と書きましたが、お許しください。
拙い旅行記に訪問・投票ありがとうございました。
これからも宜しくお願い致します。
ボビー
- わきさん からの返信 2016/03/13 19:39:59
- RE: 麗君の映像に衝撃です。
- 嬉しいコメント頂き、
誠にありがとうございます。
テレサの動画を拝見頂き、
テレサファンの一人として
御礼申し上げます。
1989年以降、特に6・4天安門事件以降は
彼女の人生がフランスパリに行くことにより
暗転しました。
シュテファン ピエールという者との関わり
は、皆さんご存知の通りです。
> 去年は、山形で2年に一度の国際ドキュメンタリー映画祭があり、香港の「革命にて」
> という、映画も旅行者のかたの影響で見ました。
当方の親戚筋にも、
件の山形映画祭は毎回のように出かけて行く者がおりますので、
ボビーさんは、映画に詳しいということがよくわかります。
> 若い頃は良くカラオケで歌ったものです。でも英語の歌はあまり聴いたことありませんでした。貴重な映像ありがとうございました。
テレサの1985年12月のコンサートの
ところを見て頂き、最大限に嬉しい気持ちになりました。
この頃が一番テレサが光っていた時期ではないかと思っております。
まほろば冬咲きぼたん祭りだけではなく、
他のボビーさんの旅行記も
アクセスさせていただきますので、
今後ともよろしくお願い致します。
わき
- ボビーさん からの返信 2016/03/14 11:41:33
- RE: RE: 麗君の映像に衝撃です。
- わきちゃんさん こんにちは!
丁寧な返信ありがとうございました。
テレサ・テンの文字間違い申し訳ありませんでした。
言う通り映画大好きです。
アジアの映画は、興味のある人のは見ています。
ただ山形まで、なかなか来なくなりました。
あの頃のスターといわれていた人達も、いまだにスターみたいで、新人が出ない!
もう歳なんですよね!ジャッキー・チェンも、ジェット・リーも、アンディ・ラウも。
台湾のを期待しているんですがそれも来ない。
今凄いブレイクしてる朝ドラの五代様とか言われているディーン・フジオカも台湾の、ブラック&ホワイトに主役で出ているはずでしたが、映画も来ないし、DVDも見かけません。(がっくり)
まあそんなこんなで、山形では欲求不満気味な、中国事情です。
テレサ・テンは今でも、命日近くなると、特集ありますよね。
なぜあんな人生だったのかっていつも思います。
日本は幸せな国なのだと思うことも。
わきちゃんさんの一面も知れてよかったです。
初めて入る掲示板って結構勇気がいるもので・・・
ではでは、また旅行記にもお邪魔しますね!
返信ありがとうございました。
ボビー
-
- konomiさん 2016/01/21 20:46:15
- 人民服じゃない!?
- 北京って27年前だと、まだ人民服を着た人だらけ・・・と思っていましたが、違うんですね。
でも、まだ中国の人にとっては海外旅行なんて難しかった時代ではないでしょうか?
1991年にパリのユースホステルで出会った中国人の女の子のグループは、人民服を着ていたんです。
あの時代海外に行ける・・・となると、結構優遇されていた階級の人たちだったのかなぁ・・・と思っていましたけど。
パリの大学の寮で、8月の夏休みだけ解放されるホステルだったのですけど、受付して、はい、5階に上がってくださいね〜〜〜といわれてエレベーターに乗り、そのエレベーターのドアが開いたときの光景は信じられませんでした。
なんと、シャワー帰りの女の子がすっぽんぽんで、しかもバスタオルを手に歩いていたんです(笑)
・・・絶句でした(笑)
「その手に持っているバスタオル・・・巻けよ〜〜〜。」・・・と、あきれ返った次第です。思えば私も若かった・・・(笑)
後でわかったのですけど、スウェーデンの女の子でした。
なるほどね・・あんまり裸を気にしないヒトたちですものね。
ああ・・きっとこの階は女の子だけの宿泊なのだな・・・と思ったのですが、外出してかえって来て、またエレベーターのドアが開くと・・・今度は男性のスッポンポンが歩いていました・・・・。後ろ姿だったのが、せめてもの幸いでした(笑)
中国人のグループの女の子たちもその光景を目撃したみたいで、「なんて不埒なのっ!」と怒っておりました。
そうですよね・・・・。
中国の方は特に儒教の影響で、人前で裸になるのは絶対のタブーですもの・・・。
博多の祇園山笠では、締め込み姿でお尻丸出しで男衆が走るんですけど、これも「不埒!」と言われてしまいました(笑)
- わきさん からの返信 2016/01/21 23:02:00
- RE: 人民服じゃない!?
- あはははは。
なんとも愉快で楽しいコメント、
ありがとうございます。
北京駅の当時、駅に座り込んでいる人たちの中に
人民服チラホラと見かけましたが、
殆どは普通の服だったこと思い出しています。
>
> 1991年にパリのユースホステルで出会った中国人の女の子のグループは、人民服を着ていたんです。
> あの時代海外に行ける・・・となると、結構優遇されていた階級の人たちだったのかなぁ・・・と思っていましたけど。
相当に自国の中国で高待遇だったに違いないと思われますね。
>
> パリの大学の寮で、8月の夏休みだけ解放されるホステルだったのですけど、受付して、はい、5階に上がってくださいね〜〜〜といわれてエレベーターに乗り、そのエレベーターのドアが開いたときの光景は信じられませんでした。
>
> なんと、シャワー帰りの女の子がすっぽんぽんで、しかもバスタオルを手に歩いていたんです(笑)
> ・・・絶句でした(笑)
当方などは、その景色じっくり見物したかったなあ。
>
> ああ・・きっとこの階は女の子だけの宿泊なのだな・・・と思ったのですが、外出してかえって来て、またエレベーターのドアが開くと・・・今度は男性のスッポンポンが歩いていました・・・・。後ろ姿だったのが、せめてもの幸いでした(笑)
そういう姿は、ご遠慮させていただきます。
>
> 中国人のグループの女の子たちもその光景を目撃したみたいで、「なんて不埒なのっ!」と怒っておりました。
> そうですよね・・・・。
> 中国の方は特に儒教の影響で、人前で裸になるのは絶対のタブーですもの・・・。
> 博多の祇園山笠では、締め込み姿でお尻丸出しで男衆が走るんですけど、これも「不埒!」と言われてしまいました(笑)
実に面白いコメントでした。
重ね重ねありがとうございます。
konomiさん
今後とも宜しくお願い致します。
わき
-
- わんぱく大将さん 2015/12/28 07:13:08
- 一年と
- わきちゃんさん
一年と我が子の成長は早いと思いますね。 いや、自分の年がいくのが?
大将
- わきさん からの返信 2015/12/28 18:31:06
- RE: 一年と
- 大将さん
しばらくです。
簡にして要を入れたコメント
誠にそのとおりだと思います。
2年前に、当時の我が限りなく幼児に近い嬰児も
配偶者持ちとなりました。
今頃は、配偶者共々、大将さんの
大きなオーラで、くしゃみをしているのでは
ないかと思います。
コメントありがとうございました。
わき
- わんぱく大将さん からの返信 2015/12/31 04:41:43
- RE: RE: 一年と
- > 大将さん
>
> しばらくです。
>
> 簡にして要を入れたコメント
> 誠にそのとおりだと思います。
> 2年前に、当時の我が限りなく幼児に近い嬰児も
> 配偶者持ちとなりました。
>
> 今頃は、配偶者共々、大将さんの
> 大きなオーラで、くしゃみをしているのでは
> ないかと思います。
> コメントありがとうございました。
>
> わき
>
わきちゃんさん
ええお年を。 もう、年はいりませんが。。。 大将
>
>
- わきさん からの返信 2015/12/31 12:22:06
- RE: RE: RE: 一年と
- あははは。
当方も、もう年はいりません
良いお年をお迎えください。
大将さんの素晴らしい旅行記
来年も期待して待っています。
わき
>
> ええお年を。 もう、年はいりませんが。。。
-
- tanupamさん 2015/12/20 12:57:24
- 27年の年月は・・・
- わきちゃんさん
こんにちは
とても素晴らしい北京の風景を拝見させていただきました。
このように、個人の視点から撮影した画像は、なかなか貴重
だと思います。
私が初めて中国へ行ったのが2004年、そのさらに十数年前の
北京はこんな風景だったのか、と。いかにすさまじい発展だ
ったのか、と思います。
我が家もそうですけど、子どもは小さい頃のことなんて全く
覚えていないようですね。
素敵な旅行記ありがとうございました。
次作も期待しています!
tanupam
- わきさん からの返信 2015/12/20 22:45:22
- RE: 27年の年月は・・・
- tanupamさん、
実に嬉しいコメントを頂きまして、
公開して良かったと思いました。
このような感じで、
見ていただいていると思うと、
作成した者としては、格別の想いです。
家族の写真もぼかし等入れようかどうか
迷いましたが、今までも殆どそのような
ことせずに来ましたので、
ありのままを掲載させて頂きました。
ありがとうございました。
わき
-
- motogenさん 2015/12/19 15:31:09
- すばらしいです
- すごい、貴重な画像ですね。
こんなの大好きです。
まだこの時代、海外で暮らす日本人は少なかったのではないでしょうか。
特に中国では。
この時期、私は何をしていたのか・・・
そう、ラジコン飛行機に夢中でした。
画像提供、ありがとうございました。
- わきさん からの返信 2015/12/20 09:53:45
- RE: すばらしいです
- お褒めに預かりありがとうございます。
非常に嬉しいコメントでした。
カンボジア旅行記、
面白く拝見させて頂いています。
今後ともよろしくお願いいたします。
わき
>
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