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紅葉便りが気になる季節が到来しましたので、京都市内では比較的早く紅葉を迎える常照皇寺(じょうしょうこうじ)を訪ねてみました。交通が不便な所にあるため聞き慣れない名のお寺ですが、京阪京都交通「美山ネイチャー号」で美山かやぶきの里とセットになった企画を知り参加してみました。京阪樟葉駅前か高速長岡京(阪急西天王山駅)から乗車できる便利な周遊バスです。巡った順番通り、まず「常照皇寺編」をお届けいたします。<br />北山杉で名高い周山街道(国道162号線)を抜けて鯖街道へ出ると、川端康成著『古都』の舞台になった鄙びた山国に辿り着きます。歴代天皇の帰依を得た皇室所縁の常照皇寺は、太閤検地まで皇室直轄の荘園だったこの長閑な山里に佇みます。正式名を大雄名山万寿(だいおうめいざんまんじゅ)常照皇寺と言い、本尊に釈迦如来立像を祀り、南北朝時代に北朝の初代天皇となった光厳(こうごん)院が1362年に草庵を結んだことに始まる臨済宗天龍寺派の禅宗寺院です。<br />光厳院は、南北朝の動乱期に歴史の波に翻弄され、南朝 後村上天皇行宮にて出家し、その後隠棲して禅宗に帰依しました。帰京後、丹波山国庄を訪れ、同地にあった天台宗梶井門跡系の成就寺を改めて開創したのが始まりです。光厳院は、開創2年後に示寂し、当地に葬られました。その後第2世となった清渓通徹が光厳院の菩提を弔うために開山を光厳院とし、禅刹に改め万寿常照皇禅寺と名付けました。戦国時代には一時衰退の憂き目に遭いましたが、その後復興され、江戸時代には徳川秀忠から寺領として井戸村の50石を与えられています。<br />寺門前を流れる大堰川(桂川)に掛かる山陵橋(さんりょうはし)からの保全地域の眺めは、四季折々の変化が素晴らしく、なだらかな山容と相まって山号の大雄山と呼ぶに相応しい景観を呈しています。近年は、京北の「紅葉の隠れ名所」としても注目されています。<br />常照皇寺のマップです。<br />http://www.pref.kyoto.jp/shizen-kankyo/hozen10.html<br />http://town.zaq.ne.jp/p/s3aahuwe8hgagssgag2z-4265b3a4.jpg

情緒纏綿 美山紀行①常照皇寺<前編>

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2015/11/15 - 2015/11/15

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    montsaintmichel

    montsaintmichelさん

    紅葉便りが気になる季節が到来しましたので、京都市内では比較的早く紅葉を迎える常照皇寺(じょうしょうこうじ)を訪ねてみました。交通が不便な所にあるため聞き慣れない名のお寺ですが、京阪京都交通「美山ネイチャー号」で美山かやぶきの里とセットになった企画を知り参加してみました。京阪樟葉駅前か高速長岡京(阪急西天王山駅)から乗車できる便利な周遊バスです。巡った順番通り、まず「常照皇寺編」をお届けいたします。
    北山杉で名高い周山街道(国道162号線)を抜けて鯖街道へ出ると、川端康成著『古都』の舞台になった鄙びた山国に辿り着きます。歴代天皇の帰依を得た皇室所縁の常照皇寺は、太閤検地まで皇室直轄の荘園だったこの長閑な山里に佇みます。正式名を大雄名山万寿(だいおうめいざんまんじゅ)常照皇寺と言い、本尊に釈迦如来立像を祀り、南北朝時代に北朝の初代天皇となった光厳(こうごん)院が1362年に草庵を結んだことに始まる臨済宗天龍寺派の禅宗寺院です。
    光厳院は、南北朝の動乱期に歴史の波に翻弄され、南朝 後村上天皇行宮にて出家し、その後隠棲して禅宗に帰依しました。帰京後、丹波山国庄を訪れ、同地にあった天台宗梶井門跡系の成就寺を改めて開創したのが始まりです。光厳院は、開創2年後に示寂し、当地に葬られました。その後第2世となった清渓通徹が光厳院の菩提を弔うために開山を光厳院とし、禅刹に改め万寿常照皇禅寺と名付けました。戦国時代には一時衰退の憂き目に遭いましたが、その後復興され、江戸時代には徳川秀忠から寺領として井戸村の50石を与えられています。
    寺門前を流れる大堰川(桂川)に掛かる山陵橋(さんりょうはし)からの保全地域の眺めは、四季折々の変化が素晴らしく、なだらかな山容と相まって山号の大雄山と呼ぶに相応しい景観を呈しています。近年は、京北の「紅葉の隠れ名所」としても注目されています。
    常照皇寺のマップです。
    http://www.pref.kyoto.jp/shizen-kankyo/hozen10.html
    http://town.zaq.ne.jp/p/s3aahuwe8hgagssgag2z-4265b3a4.jpg

    同行者
    カップル・夫婦
    交通手段
    高速・路線バス 私鉄
    旅行の満足度
    5.0
    観光
    5.0

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    • 阪急「西天王山駅」<br />阪急電車を乗り継き、阪急京都線「西天王寺駅」へ到着しました。<br />東改札内から、徒歩で高速バス「高速長岡京」バス停へ向かいます。<br />

      阪急「西天王山駅」
      阪急電車を乗り継き、阪急京都線「西天王寺駅」へ到着しました。
      東改札内から、徒歩で高速バス「高速長岡京」バス停へ向かいます。

    • 高速長岡京バスのりば(下り)<br />高速バスのため、「上り」と「下り」があるのでバス乗り場には注意してください。美山へ行くには「下り」乗り場を利用します。<br />東改札口を出て、少しだけ右側に進んだ所にある接続エレベータで2階へ上ります。改札口の左側にあるのが、「上り」になります。正面にも京阪バスの乗り場がありますが、こちらは路線バスの停留所です。バスのデザインは「美山ネイチャー号」とほぼ同じですので、間違えないようになさってください。<br />因みに、このエレベータは反応が鈍いため、時間に余裕を持たれることをお勧めします。どこのメーカかチェックしませんでしたが、関西人向けのエレベータではありません。

      高速長岡京バスのりば(下り)
      高速バスのため、「上り」と「下り」があるのでバス乗り場には注意してください。美山へ行くには「下り」乗り場を利用します。
      東改札口を出て、少しだけ右側に進んだ所にある接続エレベータで2階へ上ります。改札口の左側にあるのが、「上り」になります。正面にも京阪バスの乗り場がありますが、こちらは路線バスの停留所です。バスのデザインは「美山ネイチャー号」とほぼ同じですので、間違えないようになさってください。
      因みに、このエレベータは反応が鈍いため、時間に余裕を持たれることをお勧めします。どこのメーカかチェックしませんでしたが、関西人向けのエレベータではありません。

    • 高速長岡京バスのりば<br />位置的には、阪急「西天王山駅」の真上になります。<br />バス乗り場からは、ガラス越しに天王山が見られます。<br />丁度、阪急電車がホームに滑り込んできましたが、この線路の先に見えるのが天王山です。<br />何と言ってもこの地を有名にしたのは、明智光秀と羽柴秀吉の天下分け目の山崎の合戦です。今でも勝敗を決する重要な局面を比喩して天王山と呼んだりします。<br />1582(天正10)年に本能寺で織田信長を討った明智光秀とその仇討ちを果たそうとする羽柴秀吉が戦った山崎の戦いでは、この山を制した方が天下を取ることになるとして「天下分け目の天王山」という言葉で表現されました。しかし、実際の合戦は天王山の東側の湿地帯で行われ、勝負を決したのは淀川沿いの戦いだったそうですが…。 <br />また、幕末の禁門の変(蛤御門の変)の時、最後の戦場になった場所でもあります。

      高速長岡京バスのりば
      位置的には、阪急「西天王山駅」の真上になります。
      バス乗り場からは、ガラス越しに天王山が見られます。
      丁度、阪急電車がホームに滑り込んできましたが、この線路の先に見えるのが天王山です。
      何と言ってもこの地を有名にしたのは、明智光秀と羽柴秀吉の天下分け目の山崎の合戦です。今でも勝敗を決する重要な局面を比喩して天王山と呼んだりします。
      1582(天正10)年に本能寺で織田信長を討った明智光秀とその仇討ちを果たそうとする羽柴秀吉が戦った山崎の戦いでは、この山を制した方が天下を取ることになるとして「天下分け目の天王山」という言葉で表現されました。しかし、実際の合戦は天王山の東側の湿地帯で行われ、勝負を決したのは淀川沿いの戦いだったそうですが…。
      また、幕末の禁門の変(蛤御門の変)の時、最後の戦場になった場所でもあります。

    • 高速長岡京バスのりば<br />「袖振り合うも多生の縁」と言いますが、今回一緒に旅をする方々です。<br />ここ高速長岡京からは20名ほどが乗車しました。<br />天候が良くないため気温が上昇するとの予報もあり、皆さん軽装で参加です。<br />山に纏い付く雲は結構低いのですが、霧のようなものが登っていく様子から天候は回復途上と思われます。但し、美山は森林の生育に適した多雨多湿型の気候ですので、比較的雨や雪が降り易い点に注意が必要です。

      高速長岡京バスのりば
      「袖振り合うも多生の縁」と言いますが、今回一緒に旅をする方々です。
      ここ高速長岡京からは20名ほどが乗車しました。
      天候が良くないため気温が上昇するとの予報もあり、皆さん軽装で参加です。
      山に纏い付く雲は結構低いのですが、霧のようなものが登っていく様子から天候は回復途上と思われます。但し、美山は森林の生育に適した多雨多湿型の気候ですので、比較的雨や雪が降り易い点に注意が必要です。

    • 高速岡京バスのりば<br />9:01発の美山ネイチャー号がやってきました。<br />「美山ネイチャー号(秋季10月初〜11月末)」は、土日・祝日のみの運行ですが、冬季(2月初旬)は毎日運行されます。予約制で1ヶ月前の午前9時から受け付けができます。<br />因みに、高速長岡京発着であれば往復3000円とリーズナブルです。また、高速長岡京バス停へは、阪急「西天王山駅」から徒歩3分程と交通至便です。<br />バス停で運転手さんや係員さんに料金を支払い、チケット代わりのネームプレートを受け取って乗車します。座席は指定で、予約受付の順に前から詰めます。<br />因みに、ツアーではないのでバスガイドさんや添乗員さんはいません。現地では出発時間まで自由散策となります。乗り遅れがないかは、運転手さんがカウントされ、全員揃ってから出発します。<br />意外ですが、中国からの観光客も参加しています。どこで情報をキャッチしたのか興味深いところですが、都市の若者を中心にネット社会が発達しているのでしょう。<br /><br />高速長岡京を発った後は、「南丹PA」でトイレ休憩、その後「ウッディ京北」で20分間のショッピングタイムとなります。美山で美味しいお蕎麦を食すのも粋ですが、時間待ちが気になる方はここでお弁当を調達されるのがいいと思います。<br />「常照皇寺」では1時間の散策になります。「かやぶきの里」で下車すれば、2時間半程の散策が可能になります。その先にある「自然文化村」で少し遊んでから「かやぶきの里」を訪れることもできます。<br />帰路は、「かやぶきの里」を発った後、すぐ近くの「大石酒造 美山路・酒の館」に20分間立ち寄ります。その次は、「道の駅 美山ふれあい広場」で20分間のショッピングタイムを取ります。ここには美山牛乳のショップもあります。道路事情により結構延着するため、到着時間を基準に出発時間が告げられますので注意してください(ショッピングタイムは、ほぼ20分間です。到着時間が遅れたからといって短縮されることはないようです)。<br />もうひとつの魅力は、特典です。美山や立ち寄り先のショップで「美山ネイチャー号」のネームプレートを提示すれば、施設料金の割引やドリンク、記念品のサービスといった特典が受けられます。<br />詳しくは、次のサイトを参照ください。<br />http://www.keihankyotokotsu.jp/info/miyama/

      高速岡京バスのりば
      9:01発の美山ネイチャー号がやってきました。
      「美山ネイチャー号(秋季10月初〜11月末)」は、土日・祝日のみの運行ですが、冬季(2月初旬)は毎日運行されます。予約制で1ヶ月前の午前9時から受け付けができます。
      因みに、高速長岡京発着であれば往復3000円とリーズナブルです。また、高速長岡京バス停へは、阪急「西天王山駅」から徒歩3分程と交通至便です。
      バス停で運転手さんや係員さんに料金を支払い、チケット代わりのネームプレートを受け取って乗車します。座席は指定で、予約受付の順に前から詰めます。
      因みに、ツアーではないのでバスガイドさんや添乗員さんはいません。現地では出発時間まで自由散策となります。乗り遅れがないかは、運転手さんがカウントされ、全員揃ってから出発します。
      意外ですが、中国からの観光客も参加しています。どこで情報をキャッチしたのか興味深いところですが、都市の若者を中心にネット社会が発達しているのでしょう。

      高速長岡京を発った後は、「南丹PA」でトイレ休憩、その後「ウッディ京北」で20分間のショッピングタイムとなります。美山で美味しいお蕎麦を食すのも粋ですが、時間待ちが気になる方はここでお弁当を調達されるのがいいと思います。
      「常照皇寺」では1時間の散策になります。「かやぶきの里」で下車すれば、2時間半程の散策が可能になります。その先にある「自然文化村」で少し遊んでから「かやぶきの里」を訪れることもできます。
      帰路は、「かやぶきの里」を発った後、すぐ近くの「大石酒造 美山路・酒の館」に20分間立ち寄ります。その次は、「道の駅 美山ふれあい広場」で20分間のショッピングタイムを取ります。ここには美山牛乳のショップもあります。道路事情により結構延着するため、到着時間を基準に出発時間が告げられますので注意してください(ショッピングタイムは、ほぼ20分間です。到着時間が遅れたからといって短縮されることはないようです)。
      もうひとつの魅力は、特典です。美山や立ち寄り先のショップで「美山ネイチャー号」のネームプレートを提示すれば、施設料金の割引やドリンク、記念品のサービスといった特典が受けられます。
      詳しくは、次のサイトを参照ください。
      http://www.keihankyotokotsu.jp/info/miyama/

    • 道の駅「ウッディー京北」<br />長岡京から1時間15分程でウッディー京北に到着です。<br />京都と若狭を結ぶ「西の鯖街道」や「周山街道」と呼ばれる国道162号線と国道477号線が交差する京北地域の要衝 京北周山町にあります。1996年に旧京北町により開設され、2010年に「京都市初の道の駅」となりました。京都市京北合同庁舎の右隣にあります。<br />大都市近郊ながら、北山杉をはじめとする優良な木材を生産する森林や鮎釣りのメッカでもある上桂川の清流など、豊かな自然環境に恵まれた地域です。

      道の駅「ウッディー京北」
      長岡京から1時間15分程でウッディー京北に到着です。
      京都と若狭を結ぶ「西の鯖街道」や「周山街道」と呼ばれる国道162号線と国道477号線が交差する京北地域の要衝 京北周山町にあります。1996年に旧京北町により開設され、2010年に「京都市初の道の駅」となりました。京都市京北合同庁舎の右隣にあります。
      大都市近郊ながら、北山杉をはじめとする優良な木材を生産する森林や鮎釣りのメッカでもある上桂川の清流など、豊かな自然環境に恵まれた地域です。

    • 道の駅「ウッディー京北」<br />ウッディー京北のある京北周山町は、総面積の93%が森林という「北部山間地域」なのですが、れっきとした京都市右京区の一画です。京北は、日本海と太平洋の分水嶺をなす丹波高原に位置し、「京都府の屋根」とも称されます。<br />年間平均155日の降雨や降雪があり、降水量が平均1700mmに達するという多雨多湿型の気候は森林の育成に最適で、北山杉をはじめ優良な木材を生産する林業が盛んです。かつてはここから木材が桂川を下り、下流の嵯峨や梅津などで陸揚げされて京の都に運ばれていたそうです。「ウッディー京北」の名前の由来は、もちろんここから来ています。<br />建物は良質な木材をふんだんに使用した純木造ですが、この奇抜な形をした尖がり屋根に特徴があります。この尖がった部分は、自然光を建物の中に取り込むために工夫されたデザインです。その効果は店内に入ると納得できます。

      道の駅「ウッディー京北」
      ウッディー京北のある京北周山町は、総面積の93%が森林という「北部山間地域」なのですが、れっきとした京都市右京区の一画です。京北は、日本海と太平洋の分水嶺をなす丹波高原に位置し、「京都府の屋根」とも称されます。
      年間平均155日の降雨や降雪があり、降水量が平均1700mmに達するという多雨多湿型の気候は森林の育成に最適で、北山杉をはじめ優良な木材を生産する林業が盛んです。かつてはここから木材が桂川を下り、下流の嵯峨や梅津などで陸揚げされて京の都に運ばれていたそうです。「ウッディー京北」の名前の由来は、もちろんここから来ています。
      建物は良質な木材をふんだんに使用した純木造ですが、この奇抜な形をした尖がり屋根に特徴があります。この尖がった部分は、自然光を建物の中に取り込むために工夫されたデザインです。その効果は店内に入ると納得できます。

    • 道の駅「ウッディー京北」 象徴木 櫓杉(やぐらすぎ)<br />店内に入るとまず目に飛 び込んでくるのが中央に聳える巨大な杉のモニュメントです。「屋久杉に負けず劣ずの櫓杉」と地元では喧伝されており、この道の駅のシンボル的な存在です。確かにこの大きさは迫力満点です。<br />この櫓杉は、京北大野町の標高700m付近の尾根に生育していたものだそうですが、1995年の春、強風により根元から倒れたため、大野町より寄贈され、旧北桑田郡林業研究会の協力により搬出してここに展示したそうです。<br />推定樹齢600年、胸高周囲5.1m、高さは7mの所で切り取られています。<br />この近くには「京北一周トレイルコース」があり、森林トレッキングしながら自然探索すれば、こんな巨大な森の精に出会えるのかも???

      道の駅「ウッディー京北」 象徴木 櫓杉(やぐらすぎ)
      店内に入るとまず目に飛 び込んでくるのが中央に聳える巨大な杉のモニュメントです。「屋久杉に負けず劣ずの櫓杉」と地元では喧伝されており、この道の駅のシンボル的な存在です。確かにこの大きさは迫力満点です。
      この櫓杉は、京北大野町の標高700m付近の尾根に生育していたものだそうですが、1995年の春、強風により根元から倒れたため、大野町より寄贈され、旧北桑田郡林業研究会の協力により搬出してここに展示したそうです。
      推定樹齢600年、胸高周囲5.1m、高さは7mの所で切り取られています。
      この近くには「京北一周トレイルコース」があり、森林トレッキングしながら自然探索すれば、こんな巨大な森の精に出会えるのかも???

    • 道の駅「ウッディー京北」<br />木の香りいっぱいの館内には、名物の京唐菜や京ラフラン、京北子宝いも等の新京野菜をはじめ、地元で採れた新鮮な旬の野菜やその京唐菜等を用いたソフトクリーム、納豆餅などの加工食品、木のぬくもりを活かした木工品など京北自慢の品々が販売されています。

      道の駅「ウッディー京北」
      木の香りいっぱいの館内には、名物の京唐菜や京ラフラン、京北子宝いも等の新京野菜をはじめ、地元で採れた新鮮な旬の野菜やその京唐菜等を用いたソフトクリーム、納豆餅などの加工食品、木のぬくもりを活かした木工品など京北自慢の品々が販売されています。

    • 道の駅「ウッディー京北」<br />マスコットキャラクターの「ウッディーくん」を使った木工商品が並んでいます。<br />ここでお弁当用に「鯖寿司(400円)」を購入しました。<br />奥にある喫茶コーナーでは、地域の恵みを活かした食事を味わうこともできます。「鯖そば」が名物で、古来若狭の国から京の都へ海産物を運んだ「西の鯖街道」と呼ばれてきた地の利を生かした一品です。<br />時間が許せば、ご賞味あれ!

      道の駅「ウッディー京北」
      マスコットキャラクターの「ウッディーくん」を使った木工商品が並んでいます。
      ここでお弁当用に「鯖寿司(400円)」を購入しました。
      奥にある喫茶コーナーでは、地域の恵みを活かした食事を味わうこともできます。「鯖そば」が名物で、古来若狭の国から京の都へ海産物を運んだ「西の鯖街道」と呼ばれてきた地の利を生かした一品です。
      時間が許せば、ご賞味あれ!

    • 常照皇寺 参道<br />ウッディ京北から15分程で常照皇寺の駐車場に到着します。<br />常照皇寺は、京都市右京区の北部に位置し、また標高400mもあるために平均気温が低く、京都市内より一足先に紅葉の季節が訪れます。今年は9月末に北海道 大雪山旭岳で日本一早い紅葉を堪能したため、本州ではまさかの散り紅葉から始まるほろ苦デビューになるとは想定外でした。<br />このお寺は、休日を除けば紅葉狩りに来られる人も少なく、ゆっくりと紅葉を愉しむことのできるスポットとして有名です。紅葉の見頃は、11月上旬〜中旬となっていますが、今年は11月3日には色付き始め、7日には見頃とのネット情報がありました。15日にはこのような状態ですので、ここの紅葉の見頃は推して知るべしです。しかし見頃から僅か1週間で散るとは、なんと潔い山紅葉なのでしょう。

      常照皇寺 参道
      ウッディ京北から15分程で常照皇寺の駐車場に到着します。
      常照皇寺は、京都市右京区の北部に位置し、また標高400mもあるために平均気温が低く、京都市内より一足先に紅葉の季節が訪れます。今年は9月末に北海道 大雪山旭岳で日本一早い紅葉を堪能したため、本州ではまさかの散り紅葉から始まるほろ苦デビューになるとは想定外でした。
      このお寺は、休日を除けば紅葉狩りに来られる人も少なく、ゆっくりと紅葉を愉しむことのできるスポットとして有名です。紅葉の見頃は、11月上旬〜中旬となっていますが、今年は11月3日には色付き始め、7日には見頃とのネット情報がありました。15日にはこのような状態ですので、ここの紅葉の見頃は推して知るべしです。しかし見頃から僅か1週間で散るとは、なんと潔い山紅葉なのでしょう。

    • 常照皇寺 山門<br />京北の地、桂川に架かる山陵橋を渡ると、山寺へと導く長い石段が見えてきます。その参道の手前に佇むのは、古色豊かに素朴な姿を今に留める山門です。<br />右側にある参道は、光厳院の墓所がある山国陵へと続きます。<br /><br />

      常照皇寺 山門
      京北の地、桂川に架かる山陵橋を渡ると、山寺へと導く長い石段が見えてきます。その参道の手前に佇むのは、古色豊かに素朴な姿を今に留める山門です。
      右側にある参道は、光厳院の墓所がある山国陵へと続きます。

    • 常照皇寺 参道<br />山門を潜ると遥か先まで続く紅葉のトンネルに吃驚です。途中にある勅額門を経て勅使門まで、楓の木の葉の絨毯が敷かれた長い石段が一直線に伸びる様は圧巻です。特に紅葉の時期には、仰げば天空を覆う鮮やかな黄葉、視線を落とせば散り紅葉に照らされた石段といった、鄙びた山寺の雰囲気を心行くまで堪能できます。<br />参道の長さ、石段の風情、周りの植生、アクセントになる勅額門、そして全体の佇まいは、京都でも屈指の参道と言えます。

      常照皇寺 参道
      山門を潜ると遥か先まで続く紅葉のトンネルに吃驚です。途中にある勅額門を経て勅使門まで、楓の木の葉の絨毯が敷かれた長い石段が一直線に伸びる様は圧巻です。特に紅葉の時期には、仰げば天空を覆う鮮やかな黄葉、視線を落とせば散り紅葉に照らされた石段といった、鄙びた山寺の雰囲気を心行くまで堪能できます。
      参道の長さ、石段の風情、周りの植生、アクセントになる勅額門、そして全体の佇まいは、京都でも屈指の参道と言えます。

    • 常照皇寺 参道<br />背高な木立に囲まれてし〜んと静まり返り、話し声すら憚られるような静寂が心地良い参道です。散紅葉もポジティブに捉えれば、レッドカーペットと言えます。また、雨上がりのため、落ち葉の色彩が鮮明なのもラッキーです。<br />参道を登っていくと左脇に「下乗」の石碑が立てられています。高貴な方もここで駕籠から降り、後は歩いておいでくださいという標識になります。

      常照皇寺 参道
      背高な木立に囲まれてし〜んと静まり返り、話し声すら憚られるような静寂が心地良い参道です。散紅葉もポジティブに捉えれば、レッドカーペットと言えます。また、雨上がりのため、落ち葉の色彩が鮮明なのもラッキーです。
      参道を登っていくと左脇に「下乗」の石碑が立てられています。高貴な方もここで駕籠から降り、後は歩いておいでくださいという標識になります。

    • 常照皇寺 参道<br />重い足を止め、深呼吸しながらふと仰ぎ見れば、晩生の僅かな紅葉の繊細なグラデーションが日本人の琴線を揺さぶります。

      常照皇寺 参道
      重い足を止め、深呼吸しながらふと仰ぎ見れば、晩生の僅かな紅葉の繊細なグラデーションが日本人の琴線を揺さぶります。

    • 常照皇寺 勅額門<br />石段の先には、切妻造、銅板葺が優美な勅額門が参道を見守るかのようにひっそりと佇んでいます。門から左右に伸びる塀には皇家所縁の門跡寺院の証となる五本線「定規筋」が入れられています。

      常照皇寺 勅額門
      石段の先には、切妻造、銅板葺が優美な勅額門が参道を見守るかのようにひっそりと佇んでいます。門から左右に伸びる塀には皇家所縁の門跡寺院の証となる五本線「定規筋」が入れられています。

    • 常照皇寺 勅額門<br />紅葉に気をとられて足元が疎かになってしまいますが、足下にも注目です。ざらついた山石の延べ段が配され、温かく参拝者を境内へ誘います。<br />勅額門を潜って境内へ入った刹那、紅葉の彩がガラリと一変します。散り紅葉と苔の競演がまるで色とりどりの絵具を垂らしたパレットのようです。ここに広がる立体空間が池泉式回遊庭園で、参道の先には猿帰石橋(えんぎしゃっきょう)が架けられています。

      常照皇寺 勅額門
      紅葉に気をとられて足元が疎かになってしまいますが、足下にも注目です。ざらついた山石の延べ段が配され、温かく参拝者を境内へ誘います。
      勅額門を潜って境内へ入った刹那、紅葉の彩がガラリと一変します。散り紅葉と苔の競演がまるで色とりどりの絵具を垂らしたパレットのようです。ここに広がる立体空間が池泉式回遊庭園で、参道の先には猿帰石橋(えんぎしゃっきょう)が架けられています。

    • 常照皇寺 勅額門<br />扁額「仰之弥高(これをあおげば いよいよたかし)」は、光厳院宸筆の勅額副本です。<br />論語(子罕)「仰レ之弥高、鑽レ之弥堅」からの引用とすれば、深く掘り下げて研究することでやっと高い位置に到達し、他の人を超えることができるとの意と解されます。<br />

      常照皇寺 勅額門
      扁額「仰之弥高(これをあおげば いよいよたかし)」は、光厳院宸筆の勅額副本です。
      論語(子罕)「仰レ之弥高、鑽レ之弥堅」からの引用とすれば、深く掘り下げて研究することでやっと高い位置に到達し、他の人を超えることができるとの意と解されます。

    • 常照皇寺 勅額門<br />光厳天皇は、鎌倉幕府を倒そうとした後醍醐天皇の失脚を受けて幕府によって擁立され、実質の初代北朝天皇として1年8ヶ月在位後、南北朝の騒乱の中で上皇として30年余りの激動の生涯を送りました。特に晩年は、京を奪還した南朝軍により、弟 光明上皇、子 崇光天皇と共に捕えられ、南朝の本拠地 大和賀名生(奈良県五條市)に幽囚されました。そして幽囚先で失意のうちに出家し、漸く解放されると一介の僧として諸国を行脚した後、この山奥のお寺を終の棲家にしたと伝えられています。<br />光厳院は、玉座を手にしながらも2度に亘る戦乱に翻弄され、辛酸を舐めた天皇のひとりであり、歴代天皇の中で唯一戦争責任をとって自ら辞められた天皇でもあります。南北朝騒乱の原因は、私利私欲にかられた後醍醐が持明院統と大覚寺統の両統迭立(交互に皇位につくこと)の約定を破ったことに発します。しかし、光厳院は、戦没者やその家族が被った不幸を我が責任として出家し、戦没者への慰霊贖罪を断行したのです。それゆえに晩年に仏道修行で精神的安寧に満たされたことは、この地を訪れた者に安堵の思いをもたらしてくれます。

      常照皇寺 勅額門
      光厳天皇は、鎌倉幕府を倒そうとした後醍醐天皇の失脚を受けて幕府によって擁立され、実質の初代北朝天皇として1年8ヶ月在位後、南北朝の騒乱の中で上皇として30年余りの激動の生涯を送りました。特に晩年は、京を奪還した南朝軍により、弟 光明上皇、子 崇光天皇と共に捕えられ、南朝の本拠地 大和賀名生(奈良県五條市)に幽囚されました。そして幽囚先で失意のうちに出家し、漸く解放されると一介の僧として諸国を行脚した後、この山奥のお寺を終の棲家にしたと伝えられています。
      光厳院は、玉座を手にしながらも2度に亘る戦乱に翻弄され、辛酸を舐めた天皇のひとりであり、歴代天皇の中で唯一戦争責任をとって自ら辞められた天皇でもあります。南北朝騒乱の原因は、私利私欲にかられた後醍醐が持明院統と大覚寺統の両統迭立(交互に皇位につくこと)の約定を破ったことに発します。しかし、光厳院は、戦没者やその家族が被った不幸を我が責任として出家し、戦没者への慰霊贖罪を断行したのです。それゆえに晩年に仏道修行で精神的安寧に満たされたことは、この地を訪れた者に安堵の思いをもたらしてくれます。

    • 常照皇寺 勅額門<br />木鼻には、時代がかった古びを湛えた無垢の白木に獅子が彫られ、小振りながらも歴史と由緒を感じさ、威風堂々としています。<br /><br />後醍醐天皇は失脚後も退位を拒否し、やがて隠岐から脱出して倒幕の兵を挙げ、これ以降、日本史上初の2つの皇統が並立する南北朝時代となりました。後醍醐天皇は、武士を味方に付けて鎌倉幕府を倒そうと企てました。そして幕府の本拠地 六波羅探題を足利尊氏らによって攻め落としました。その際、光厳天皇は鎌倉へ落ち伸びようとしますが、各地で野伏(のぶせり)と呼ばれる武装農民による落ち武者狩りに遭い、一行の人数は次第に減っていきました。鎌倉には辿りつけないと悟った六波羅の武士たちは、光厳天皇の目の前で自刃して果てました。この時の天皇の心中はいかばかりであったでしょうか…。こうして幕府が滅び、返り咲いた後醍醐天皇に光厳天皇は捕えられ、特別に上皇待遇されるも、建武政権下では肩身の狭い生活を余儀なくされました。

      常照皇寺 勅額門
      木鼻には、時代がかった古びを湛えた無垢の白木に獅子が彫られ、小振りながらも歴史と由緒を感じさ、威風堂々としています。

      後醍醐天皇は失脚後も退位を拒否し、やがて隠岐から脱出して倒幕の兵を挙げ、これ以降、日本史上初の2つの皇統が並立する南北朝時代となりました。後醍醐天皇は、武士を味方に付けて鎌倉幕府を倒そうと企てました。そして幕府の本拠地 六波羅探題を足利尊氏らによって攻め落としました。その際、光厳天皇は鎌倉へ落ち伸びようとしますが、各地で野伏(のぶせり)と呼ばれる武装農民による落ち武者狩りに遭い、一行の人数は次第に減っていきました。鎌倉には辿りつけないと悟った六波羅の武士たちは、光厳天皇の目の前で自刃して果てました。この時の天皇の心中はいかばかりであったでしょうか…。こうして幕府が滅び、返り咲いた後醍醐天皇に光厳天皇は捕えられ、特別に上皇待遇されるも、建武政権下では肩身の狭い生活を余儀なくされました。

    • 常照皇寺 勅額門 蟇股<br />やがて後醍醐の建武の新政が失敗すると、尊氏を筆頭に武家が叛旗を翻し、光厳院の弟を光明天皇として即位させると、後醍醐は吉野に逃げて南朝を開きました。暫くすると今度は観応の擾乱なる足利家の内紛をきっかけに尊氏と直義の兄弟が争い、尊氏が南朝に降ってその軍事力で圧勝しました。尊氏が降ったことで南朝は勢力を盛り返し、京を奪還しました。その際、座を射止めた後醍醐の子 後村上天皇は、南朝が長い間吉野に閉じ込められたことを恨み、今度は北朝を吉野に幽門しようと光厳院、光明上皇、崇光天皇を捕えました。光厳院は、幽囚の最中に出家するも、河内金剛寺から還京を果たしたのは幽囚から5年後のことでした。その後、光厳院は、深草金剛寿院に入り、禅の修行と和歌に精励して世俗を絶ちました。戦乱による戦没者の追悼を兼ねた諸国遍歴の後、嵯峨小倉に隠棲しましたが、近臣や宮中の使者の訪問が煩わしく、丹波山国の荘の常照皇寺に隠棲して禅僧となりました。そこで清渓通徹から仏教書『碧巌録』を学びながら儒教の「湛然虚寂」の理を悟り、天地を住家とし衆人を友として穏やかな日々を送りました。<br />1364(貞知3)年に享年52歳で崩御された時には、わずか数人の僧の手で簡素に葬られました。遺言には次のように認められていたそうです。<br />「私の死後、世間並みの葬儀に人手を煩わしてはならぬ。そっと山の麓に埋めよ。その塚の上に松や柏が自然に生え、風や雲が折々行き交うなら、それこそ私のよき友だ。もし山民村童が手すさびに小塔でも建ててくれるなら、それもまたよい。このように言うのは、ただ皆の労力を省くためだ。その意味では、火葬にするもよい。一切の法事は不要である」(岩佐美代子著『光厳院御集全釈』)。<br />蝉がミンミンと鳴き遊び、日差しが強くとても暑い日だったそうです。 <br />南北朝という激動の時代に翻弄された数奇な生涯でしたが、終の棲家では一仏僧として心静かな終焉を迎えることができたのではないでしょうか。合掌。

      常照皇寺 勅額門 蟇股
      やがて後醍醐の建武の新政が失敗すると、尊氏を筆頭に武家が叛旗を翻し、光厳院の弟を光明天皇として即位させると、後醍醐は吉野に逃げて南朝を開きました。暫くすると今度は観応の擾乱なる足利家の内紛をきっかけに尊氏と直義の兄弟が争い、尊氏が南朝に降ってその軍事力で圧勝しました。尊氏が降ったことで南朝は勢力を盛り返し、京を奪還しました。その際、座を射止めた後醍醐の子 後村上天皇は、南朝が長い間吉野に閉じ込められたことを恨み、今度は北朝を吉野に幽門しようと光厳院、光明上皇、崇光天皇を捕えました。光厳院は、幽囚の最中に出家するも、河内金剛寺から還京を果たしたのは幽囚から5年後のことでした。その後、光厳院は、深草金剛寿院に入り、禅の修行と和歌に精励して世俗を絶ちました。戦乱による戦没者の追悼を兼ねた諸国遍歴の後、嵯峨小倉に隠棲しましたが、近臣や宮中の使者の訪問が煩わしく、丹波山国の荘の常照皇寺に隠棲して禅僧となりました。そこで清渓通徹から仏教書『碧巌録』を学びながら儒教の「湛然虚寂」の理を悟り、天地を住家とし衆人を友として穏やかな日々を送りました。
      1364(貞知3)年に享年52歳で崩御された時には、わずか数人の僧の手で簡素に葬られました。遺言には次のように認められていたそうです。
      「私の死後、世間並みの葬儀に人手を煩わしてはならぬ。そっと山の麓に埋めよ。その塚の上に松や柏が自然に生え、風や雲が折々行き交うなら、それこそ私のよき友だ。もし山民村童が手すさびに小塔でも建ててくれるなら、それもまたよい。このように言うのは、ただ皆の労力を省くためだ。その意味では、火葬にするもよい。一切の法事は不要である」(岩佐美代子著『光厳院御集全釈』)。
      蝉がミンミンと鳴き遊び、日差しが強くとても暑い日だったそうです。
      南北朝という激動の時代に翻弄された数奇な生涯でしたが、終の棲家では一仏僧として心静かな終焉を迎えることができたのではないでしょうか。合掌。

    • 常照皇寺 香積門 <br />勅額門と塀繋がりの左手奥にあるのが香積門です。<br />苔生した屋根や枯れた色合いの門塀が雰囲気を醸しています。

      常照皇寺 香積門
      勅額門と塀繋がりの左手奥にあるのが香積門です。
      苔生した屋根や枯れた色合いの門塀が雰囲気を醸しています。

    • 常照皇寺 勅額門<br />屋根の妻先の最上部には、珍しい桧皮細工された菊の御紋が見られます。<br />

      常照皇寺 勅額門
      屋根の妻先の最上部には、珍しい桧皮細工された菊の御紋が見られます。

    • 常照皇寺 池泉回遊式庭園<br />山肌の高低をうまく活かした立体的な庭園は、奥行があり実物以上の広がりを感じさせます。水を湛えるのは碧潭池なる放生池です。<br />その池の中に石を置き、その上に燈篭を載せています。

      常照皇寺 池泉回遊式庭園
      山肌の高低をうまく活かした立体的な庭園は、奥行があり実物以上の広がりを感じさせます。水を湛えるのは碧潭池なる放生池です。
      その池の中に石を置き、その上に燈篭を載せています。

    • 常照皇寺 池泉回遊式庭園<br />府の史跡にも指定されている境内は桜の名所として知られ、白洲次郎夫人の白洲正子著のエッセイ『かくれ里』でも「桜の寺」として紹介されています。「秘境と呼ぶほど人里離れた山奥ではなく、ほんのちょっと街道筋からそれた所に、今でも『かくれ里』の名にふさわしいような、ひっそりとした真空地帯があり、そういう所を歩くのが、私は好きなのである」。そう前置きしてからはじまる紀行文です。<br />開山堂前にある光厳院お手植えと伝わる国の天然記念物の樹齢600年の枝垂桜「九重桜」をはじめ、御所から株分けされた「左近の桜」、方丈前には一重と八重が同時に咲き、その美しさに後水尾天皇が何度も牛車を返し、見惚れたと伝わる「御車返しの桜」などの銘木が植えられています。4月中旬、桜が咲き誇る景色を求め、大勢の参拝者がこのお寺を訪れて賑わいます。境内の広さは約12000平方mあり、裏山への散策路も整備され一周約1kmの道のりがあります。

      常照皇寺 池泉回遊式庭園
      府の史跡にも指定されている境内は桜の名所として知られ、白洲次郎夫人の白洲正子著のエッセイ『かくれ里』でも「桜の寺」として紹介されています。「秘境と呼ぶほど人里離れた山奥ではなく、ほんのちょっと街道筋からそれた所に、今でも『かくれ里』の名にふさわしいような、ひっそりとした真空地帯があり、そういう所を歩くのが、私は好きなのである」。そう前置きしてからはじまる紀行文です。
      開山堂前にある光厳院お手植えと伝わる国の天然記念物の樹齢600年の枝垂桜「九重桜」をはじめ、御所から株分けされた「左近の桜」、方丈前には一重と八重が同時に咲き、その美しさに後水尾天皇が何度も牛車を返し、見惚れたと伝わる「御車返しの桜」などの銘木が植えられています。4月中旬、桜が咲き誇る景色を求め、大勢の参拝者がこのお寺を訪れて賑わいます。境内の広さは約12000平方mあり、裏山への散策路も整備され一周約1kmの道のりがあります。

    • 常照皇寺 勅使門<br />白い天然石に苔がほどよく生し、その上にオオカエデの散り紅葉を湛えています。<br />「やんごとなき人」が登るにしては急勾配すぎる石段です。方丈の茅葺屋根を借景に優美な曲線を描く唐破風屋根と直線美の石段の対比が侘び寂びの趣きをさらに引き立てています。

      常照皇寺 勅使門
      白い天然石に苔がほどよく生し、その上にオオカエデの散り紅葉を湛えています。
      「やんごとなき人」が登るにしては急勾配すぎる石段です。方丈の茅葺屋根を借景に優美な曲線を描く唐破風屋根と直線美の石段の対比が侘び寂びの趣きをさらに引き立てています。

    • 常照皇寺 勅使門<br />表門の懸魚には鶴の彫刻、反対側は亀になっています。<br />表裏でペアになっており、長寿の縁起を担いでいます。

      常照皇寺 勅使門
      表門の懸魚には鶴の彫刻、反対側は亀になっています。
      表裏でペアになっており、長寿の縁起を担いでいます。

    • 常照皇寺 勅使門<br />格式ある唐破風屋根を載せた勅使門の左側に聳える大木がすっかり葉を落としてしまったオオカエデです。<br />

      常照皇寺 勅使門
      格式ある唐破風屋根を載せた勅使門の左側に聳える大木がすっかり葉を落としてしまったオオカエデです。

    • 常照皇寺 勅使門<br />地政学上、順風満帆が許されたお寺ではありませんが、後花園天皇が境内裏山万樹林や小塩田260石等を光厳院の香華料として献納するなど、皇家と檀家が力を合わせて護寺に努めらた珍しいお寺です。しかし、明智光秀が周山城を築くための木材を集めて周辺の社寺を取り壊したことで常照皇寺は衰退。その後も、太閤検地で寺領の没収や戦火によって諸堂伽藍を焼失し荒廃しました。<br />江戸期の後水尾天皇の「ひねりこうし」のこぼれ話にあるように志納などで漸次復元され、その後、幕末〜明治期の王政復古もあり、皇室は由緒寺院への下賜金を繰り返して堂宇庭園を拡大しましたが、第2次世界大戦により多くの寺田や寺の資産を亡失したまま今日に至っています。

      常照皇寺 勅使門
      地政学上、順風満帆が許されたお寺ではありませんが、後花園天皇が境内裏山万樹林や小塩田260石等を光厳院の香華料として献納するなど、皇家と檀家が力を合わせて護寺に努めらた珍しいお寺です。しかし、明智光秀が周山城を築くための木材を集めて周辺の社寺を取り壊したことで常照皇寺は衰退。その後も、太閤検地で寺領の没収や戦火によって諸堂伽藍を焼失し荒廃しました。
      江戸期の後水尾天皇の「ひねりこうし」のこぼれ話にあるように志納などで漸次復元され、その後、幕末〜明治期の王政復古もあり、皇室は由緒寺院への下賜金を繰り返して堂宇庭園を拡大しましたが、第2次世界大戦により多くの寺田や寺の資産を亡失したまま今日に至っています。

    • 常照皇寺 勅使門<br />奥の方にあって目立ちませんが、倒れそうな塀を懸命に支える栗のつっかえ棒の姿がけなげです。<br />

      常照皇寺 勅使門
      奥の方にあって目立ちませんが、倒れそうな塀を懸命に支える栗のつっかえ棒の姿がけなげです。

    • 常照皇寺 鐘楼<br />古びた鐘楼も、景観に見事に溶け込み、違和感を感じさせません。

      常照皇寺 鐘楼
      古びた鐘楼も、景観に見事に溶け込み、違和感を感じさせません。

    • 常照皇寺 庫裏<br />鐘楼の奥に庫裏、書院、そして方丈が建ち並びます。<br />庫裏の佇まいは、臨済宗天竜寺派ゆえ白壁と黒い柱の造りを基調としています。<br />街中で見る大きな禅寺とは趣を異にし、質素な柔らかさが感じられるのは「むくり屋根」の曲線のなせる業かもしれません。<br />庫裡の上には扁額「香積界」が掲げられでいます。香積(こうしゃく)とは、香気が充満している世界を表し、そこに住まう如来の名でもあり、転じて禅門では食事を調理する所である「庫裡」を意味するそうです。

      常照皇寺 庫裏
      鐘楼の奥に庫裏、書院、そして方丈が建ち並びます。
      庫裏の佇まいは、臨済宗天竜寺派ゆえ白壁と黒い柱の造りを基調としています。
      街中で見る大きな禅寺とは趣を異にし、質素な柔らかさが感じられるのは「むくり屋根」の曲線のなせる業かもしれません。
      庫裡の上には扁額「香積界」が掲げられでいます。香積(こうしゃく)とは、香気が充満している世界を表し、そこに住まう如来の名でもあり、転じて禅門では食事を調理する所である「庫裡」を意味するそうです。

    • 常照皇寺 庫裏<br />玄関脇にあるのは、十六八重の菊花紋章が入れられた鬼瓦です。<br />庫裏の頂には、真新しい鬼瓦が燦然と輝いています。

      常照皇寺 庫裏
      玄関脇にあるのは、十六八重の菊花紋章が入れられた鬼瓦です。
      庫裏の頂には、真新しい鬼瓦が燦然と輝いています。

    • 常照皇寺 庫裏玄関<br />玄関を入った所で入山受付を済ませ、志納します。<br />入口には虎の絵が描かれた屏風が立てられています。一休さんのとんち話「屏風の虎」を思い浮かばせる屏風です。<br />左側の写真は、かつて桂川を利用して木材を京の都まで運んでいた様子を写したものです。手前に並べられたオブジェはその様子をデフォルメしたものと思われます。<br />丹波国 山国庄は、平安京遷都の時、御杣(みそま)として木材を供給する皇室領だったようです。大内裏の木材はこの地から調達し、木材の他、粽・餅・若菜・鮎・茶・釣瓶・桶などの特産品を朝廷に献上していたようです。応仁文明の乱の際には、皇室の物品が戦火を避けて山国庄に運び込まれるなど皇室との所縁が深かったようです。<br />維新政府は徳川残存勢力を一掃すべく治安維持のために鎮撫隊(官軍)を各地へ派遣しましたが、山国村の名主層は恭順するに留まらず、「山国隊」を独自に組織して鎮撫隊への従軍を志願したそうです。この行動は、永年の由緒と格式を認めてもらい、伝統的な秩序を復古させることが目的だったようです。尚、馬路村(現 亀岡市)の「弓箭隊」も有名な志願兵でした。<br />余談ですが、丹波山国村、同馬路村、そして大和十津川村の3村は「日本制外3ヵ所」と言われるほどの特異な村だったようです。伝統的に勤皇の志が篤く、幕府の規制を受けない歴史を持っていたということが共通点に挙げられます。

      常照皇寺 庫裏玄関
      玄関を入った所で入山受付を済ませ、志納します。
      入口には虎の絵が描かれた屏風が立てられています。一休さんのとんち話「屏風の虎」を思い浮かばせる屏風です。
      左側の写真は、かつて桂川を利用して木材を京の都まで運んでいた様子を写したものです。手前に並べられたオブジェはその様子をデフォルメしたものと思われます。
      丹波国 山国庄は、平安京遷都の時、御杣(みそま)として木材を供給する皇室領だったようです。大内裏の木材はこの地から調達し、木材の他、粽・餅・若菜・鮎・茶・釣瓶・桶などの特産品を朝廷に献上していたようです。応仁文明の乱の際には、皇室の物品が戦火を避けて山国庄に運び込まれるなど皇室との所縁が深かったようです。
      維新政府は徳川残存勢力を一掃すべく治安維持のために鎮撫隊(官軍)を各地へ派遣しましたが、山国村の名主層は恭順するに留まらず、「山国隊」を独自に組織して鎮撫隊への従軍を志願したそうです。この行動は、永年の由緒と格式を認めてもらい、伝統的な秩序を復古させることが目的だったようです。尚、馬路村(現 亀岡市)の「弓箭隊」も有名な志願兵でした。
      余談ですが、丹波山国村、同馬路村、そして大和十津川村の3村は「日本制外3ヵ所」と言われるほどの特異な村だったようです。伝統的に勤皇の志が篤く、幕府の規制を受けない歴史を持っていたということが共通点に挙げられます。

    • 常照皇寺 庫裏<br />廊下にある柱には、古めかしい時計がかけられています。<br />振り子らしきものが窺えるため、時計だと気付かされます。<br />一見、鳥の巣箱のようにも見えますが…。

      常照皇寺 庫裏
      廊下にある柱には、古めかしい時計がかけられています。
      振り子らしきものが窺えるため、時計だと気付かされます。
      一見、鳥の巣箱のようにも見えますが…。

    • 常照皇寺 書院<br />書院の一部屋には、菊紋の入れられた箱の上に珍しい銀造の小仏が祀られています。<br />背面の掛け軸には、禅寺としての片鱗を見せる奇抜な絵が描かれています。

      常照皇寺 書院
      書院の一部屋には、菊紋の入れられた箱の上に珍しい銀造の小仏が祀られています。
      背面の掛け軸には、禅寺としての片鱗を見せる奇抜な絵が描かれています。

    • 常照皇寺 書院<br />書院から眺める景色です。<br />黄葉紅葉と南天の葉の緑、実の赤のコントラストが鮮やかです。

      常照皇寺 書院
      書院から眺める景色です。
      黄葉紅葉と南天の葉の緑、実の赤のコントラストが鮮やかです。

    • 常照皇寺 方丈<br />方丈は、南北西面が庭に接し、開放感溢れる居住まいをみせています。<br />静謐な方丈から眺める庭の景色がこれまた絶品です。露光を−1設定にして撮るとこんな感じになります。<br /><br />方丈を挟むように南北に寺庭が造られ、表裏で異なる情景を愉しめる趣向になっています。<br />左側に見える庭は迫る山肌をうまく活かした野趣溢れた造形美を見せ、立体的な奥行を感じさせます。裏山斜面には多数の石組を積み重ね、禅定池とそこに設えられた1mほどの滝から広がる水の流れが清涼感を添えるなど、自然の美しさを再現した庭園です。<br />この裏山には、「旧光厳法皇 巡遊路」と呼ばれる、創建当時に実際に光厳院が歩いたと伝えられる1km程の自然散策路が整備され、1周約30分のコースになっています。

      常照皇寺 方丈
      方丈は、南北西面が庭に接し、開放感溢れる居住まいをみせています。
      静謐な方丈から眺める庭の景色がこれまた絶品です。露光を−1設定にして撮るとこんな感じになります。

      方丈を挟むように南北に寺庭が造られ、表裏で異なる情景を愉しめる趣向になっています。
      左側に見える庭は迫る山肌をうまく活かした野趣溢れた造形美を見せ、立体的な奥行を感じさせます。裏山斜面には多数の石組を積み重ね、禅定池とそこに設えられた1mほどの滝から広がる水の流れが清涼感を添えるなど、自然の美しさを再現した庭園です。
      この裏山には、「旧光厳法皇 巡遊路」と呼ばれる、創建当時に実際に光厳院が歩いたと伝えられる1km程の自然散策路が整備され、1周約30分のコースになっています。

    • 常照皇寺 方丈<br />部屋の輪郭をシルエットにするには露光を−2程度に設定します。<br />露光の設定をした場合は、自動的に露光ゼロには戻りませんので、リセットを忘れないようにしてください。

      常照皇寺 方丈
      部屋の輪郭をシルエットにするには露光を−2程度に設定します。
      露光の設定をした場合は、自動的に露光ゼロには戻りませんので、リセットを忘れないようにしてください。

    • 常照皇寺 方丈<br />方丈から南側にある勅旨門側の庭園を眺めた構図です。<br />障子窓を介して見ると、まるでそれぞれが一幅の絵のようです。<br />静なる禅寺の中で唯一躍動感のある襖絵(杉戸絵)の向こう側に、自然が魅せるもうひとつの静なる襖絵を対比させた奥の深い表現です。まるで一間一間計算尽くのように石組みや樹木が配され、襖絵のように切り取られた庭の景観が迫ってくるようです。

      常照皇寺 方丈
      方丈から南側にある勅旨門側の庭園を眺めた構図です。
      障子窓を介して見ると、まるでそれぞれが一幅の絵のようです。
      静なる禅寺の中で唯一躍動感のある襖絵(杉戸絵)の向こう側に、自然が魅せるもうひとつの静なる襖絵を対比させた奥の深い表現です。まるで一間一間計算尽くのように石組みや樹木が配され、襖絵のように切り取られた庭の景観が迫ってくるようです。

    • 常照皇寺 方丈<br />方丈の背後にある裏山斜面には、多数の石組を積み重ねた庭が造られています。石組と背の低い木の組み合わせが奥行を感じさせます。光厳院は周辺の自然を庭園の一部に見立て、寺の裏山を猿帰嶂(猿抱子歸青嶂)、滝を白玉泉、放生池を碧澤池、山全体を万樹林と名付け、周囲の十勝を選んだと伝えられ、今でも往時の景観の片鱗を愉しむことができます。堂宇の奥庭の「紅葉」には別格の趣があり、山の麓にある境内一帯の雰囲気は往時を偲ばせるものがあるように思います。こうした山と一体になったスケールの大きな庭園を見ていると、時間が経つのも感じなくなるかのようです。

      常照皇寺 方丈
      方丈の背後にある裏山斜面には、多数の石組を積み重ねた庭が造られています。石組と背の低い木の組み合わせが奥行を感じさせます。光厳院は周辺の自然を庭園の一部に見立て、寺の裏山を猿帰嶂(猿抱子歸青嶂)、滝を白玉泉、放生池を碧澤池、山全体を万樹林と名付け、周囲の十勝を選んだと伝えられ、今でも往時の景観の片鱗を愉しむことができます。堂宇の奥庭の「紅葉」には別格の趣があり、山の麓にある境内一帯の雰囲気は往時を偲ばせるものがあるように思います。こうした山と一体になったスケールの大きな庭園を見ていると、時間が経つのも感じなくなるかのようです。

    • 常照皇寺 方丈<br />方丈の回廊から眺める庭園は石組を配した飾り気のない素朴なものですが、侘び寂びの中にどこか落ち着きのある心穏やかさが感じられ、無念無想の境地に至る禅寺には珍しい庭だと言えます。巡り来る季節の中で人々の心を掴んで離さなかったことでしょう。<br />対極になる後醍醐天皇の菩提を弔うために夢窓疎石が足利尊氏に進言し、光厳院の院宣を受けて開創された天龍寺の禅宗庭園と見比べれば、簡素美の極致と言え、光厳院の人柄が偲ばれます。<br />天龍寺に見られるように「政敵は手厚く祀らねばならない」が往時の常識でした。日本の怨霊は、すべからく政治的敗者だったからです。崇道天皇(早良親王)や菅原道真、崇徳上皇など、恨みを呑んで生き、そして死んで行った不遇の政治家が怨霊として祟ります。後醍醐天皇はまさにその条件に合致し、尊氏は祟りを恐れた訳です。本来、その後醍醐天皇に翻弄された光厳院の方が怨念が強いはずなのですが、恨みは全て呑み込み、この世に未練を残さなかったのでしょう。<br />南朝方の後醍醐天皇を弔う天龍寺と、北朝の初代 光厳天皇所縁の常照皇寺が同じ臨済宗天龍寺派だとういのも歴史の因果を感じさせます。

      常照皇寺 方丈
      方丈の回廊から眺める庭園は石組を配した飾り気のない素朴なものですが、侘び寂びの中にどこか落ち着きのある心穏やかさが感じられ、無念無想の境地に至る禅寺には珍しい庭だと言えます。巡り来る季節の中で人々の心を掴んで離さなかったことでしょう。
      対極になる後醍醐天皇の菩提を弔うために夢窓疎石が足利尊氏に進言し、光厳院の院宣を受けて開創された天龍寺の禅宗庭園と見比べれば、簡素美の極致と言え、光厳院の人柄が偲ばれます。
      天龍寺に見られるように「政敵は手厚く祀らねばならない」が往時の常識でした。日本の怨霊は、すべからく政治的敗者だったからです。崇道天皇(早良親王)や菅原道真、崇徳上皇など、恨みを呑んで生き、そして死んで行った不遇の政治家が怨霊として祟ります。後醍醐天皇はまさにその条件に合致し、尊氏は祟りを恐れた訳です。本来、その後醍醐天皇に翻弄された光厳院の方が怨念が強いはずなのですが、恨みは全て呑み込み、この世に未練を残さなかったのでしょう。
      南朝方の後醍醐天皇を弔う天龍寺と、北朝の初代 光厳天皇所縁の常照皇寺が同じ臨済宗天龍寺派だとういのも歴史の因果を感じさせます。

    • 常照皇寺 方丈<br />勅使門のある表庭は幾何学的で整った印象を持たせ、平面に広がりを見せています。<br />苔生した中に佇むのは、手前が元祖「御車返しの桜」、その奥がそのクローン桜です。

      常照皇寺 方丈
      勅使門のある表庭は幾何学的で整った印象を持たせ、平面に広がりを見せています。
      苔生した中に佇むのは、手前が元祖「御車返しの桜」、その奥がそのクローン桜です。

    • 常照皇寺 方丈<br />第2次世界大戦中は空襲の恐れがない場所と考えられ、東京帝室博物館(現東京国立博物館)の一部の宝物館蔵品が常照皇寺に疎開したそうです。また、正倉院の宝物も疎開が計画されましたが、途中で終戦を迎えたようです。<br />文化財や美術品を疎開させるのは、国家的観点では御物(=天皇の宝)を守るためですが、実際に人を動かしたのは、国民の宝、先人が守り続けたものを後世へ遺そうとする意志だったのではないでしょうか?こうした文化財の分散疎開があったことは、一般的にはあまり知られていないようです。<br />その理由は、未だに米人ラングドン・ウォーナー氏が空爆すべきではない土地として京都や奈良などの古都を米政府に進言したという「ウォーナー伝説」が根強く信じられているからです。しかし、実際は京都市も小規模ながら何度も空襲を受けています。大阪や神戸などを狙ったB29が、悪天候や日本軍の妨害で本来の目標を爆撃できず、爆弾を適当に落とし、たまたま落ちた場所が京都市だったようです。米軍も、爆弾を海に捨てるより、日本のどこかに落として被害を与えたかったのです。つまり、京都で空襲の被害が軽かったのは、「京都に空襲の順番が回ってくる前に日本が降伏したから」というのが真相のようです。「ウォーナー伝説」どころか、米国の日本文化研究者が、「日本が降伏した後、賠償金代わりに取り上げるべき価値ある美術品リスト」を米国政府の指示で作成していたというオチまであるそうです。GHQを快く受け入れるには「美談」が必要だったのかもしれませんが、何時の時代も敵を甘く見てはなりませんね!

      常照皇寺 方丈
      第2次世界大戦中は空襲の恐れがない場所と考えられ、東京帝室博物館(現東京国立博物館)の一部の宝物館蔵品が常照皇寺に疎開したそうです。また、正倉院の宝物も疎開が計画されましたが、途中で終戦を迎えたようです。
      文化財や美術品を疎開させるのは、国家的観点では御物(=天皇の宝)を守るためですが、実際に人を動かしたのは、国民の宝、先人が守り続けたものを後世へ遺そうとする意志だったのではないでしょうか?こうした文化財の分散疎開があったことは、一般的にはあまり知られていないようです。
      その理由は、未だに米人ラングドン・ウォーナー氏が空爆すべきではない土地として京都や奈良などの古都を米政府に進言したという「ウォーナー伝説」が根強く信じられているからです。しかし、実際は京都市も小規模ながら何度も空襲を受けています。大阪や神戸などを狙ったB29が、悪天候や日本軍の妨害で本来の目標を爆撃できず、爆弾を適当に落とし、たまたま落ちた場所が京都市だったようです。米軍も、爆弾を海に捨てるより、日本のどこかに落として被害を与えたかったのです。つまり、京都で空襲の被害が軽かったのは、「京都に空襲の順番が回ってくる前に日本が降伏したから」というのが真相のようです。「ウォーナー伝説」どころか、米国の日本文化研究者が、「日本が降伏した後、賠償金代わりに取り上げるべき価値ある美術品リスト」を米国政府の指示で作成していたというオチまであるそうです。GHQを快く受け入れるには「美談」が必要だったのかもしれませんが、何時の時代も敵を甘く見てはなりませんね!

    • 常照皇寺 方丈<br />40畳程の方丈の中央に読経座が設えられ、右隅に天皇が座る玉座がある他は何もなく、とてもすっきりした開放的なスペースです。本尊も鴨居に祀られているほどです。<br />いながらにして表裏の庭園を見渡すための仕掛けなのかもしれません。

      常照皇寺 方丈
      40畳程の方丈の中央に読経座が設えられ、右隅に天皇が座る玉座がある他は何もなく、とてもすっきりした開放的なスペースです。本尊も鴨居に祀られているほどです。
      いながらにして表裏の庭園を見渡すための仕掛けなのかもしれません。

    • 常照皇寺 方丈<br />方丈の本尊 釈迦如来立像は、香炉上の鴨居に設えられた仏壇に祀られ、高見から参拝者を見守ります。脇侍は伴わず、お一人様です。

      常照皇寺 方丈
      方丈の本尊 釈迦如来立像は、香炉上の鴨居に設えられた仏壇に祀られ、高見から参拝者を見守ります。脇侍は伴わず、お一人様です。

    • 常照皇寺 方丈<br />禅宗には偶像崇拝を難ずるからと言って仏像を全く安置しない訳ではないそうです。<br />臨済宗では釈迦の悟りそのものを坐禅により体得することが根本教義(原点復帰)であり、仏殿などに祀る場合には釈迦如来像になることが多いそうです。

      常照皇寺 方丈
      禅宗には偶像崇拝を難ずるからと言って仏像を全く安置しない訳ではないそうです。
      臨済宗では釈迦の悟りそのものを坐禅により体得することが根本教義(原点復帰)であり、仏殿などに祀る場合には釈迦如来像になることが多いそうです。

    • 常照皇寺 方丈<br />杉戸絵は、雲流にも白蛇や白龍にも見える不思議なタッチで魅せ、伸び伸びとした躍動感が漲っています。画師の名は、植田曠躬(うえだひろみ)と記されています。アクリル絵具の特性を生かしたダイナミックさと宇宙空間的な表現が特徴の現代美術作家です。着物用の牡丹刷毛を駆使したグラデーションが魅力的な作品を遺された方です。どのような縁でこのお寺の杉戸絵を描かれたのか判りませんが、氏の心を動かす何かがこのお寺にあったのでしょう。<br />杉戸絵は、光厳院の心象風景を描きだしたものかもしれません。

      常照皇寺 方丈
      杉戸絵は、雲流にも白蛇や白龍にも見える不思議なタッチで魅せ、伸び伸びとした躍動感が漲っています。画師の名は、植田曠躬(うえだひろみ)と記されています。アクリル絵具の特性を生かしたダイナミックさと宇宙空間的な表現が特徴の現代美術作家です。着物用の牡丹刷毛を駆使したグラデーションが魅力的な作品を遺された方です。どのような縁でこのお寺の杉戸絵を描かれたのか判りませんが、氏の心を動かす何かがこのお寺にあったのでしょう。
      杉戸絵は、光厳院の心象風景を描きだしたものかもしれません。

    • 常照皇寺 怡雲庵(いうんあん)<br />方丈から禅宗仏殿形式の開山堂 怡雲庵へは池泉庭園を眺めながら禅定池に架けられた渡り回廊を進みます。鉤型に設えた回廊をさらに進むと法堂と本堂が合体した怡雲庵に行き着きます。<br />

      常照皇寺 怡雲庵(いうんあん)
      方丈から禅宗仏殿形式の開山堂 怡雲庵へは池泉庭園を眺めながら禅定池に架けられた渡り回廊を進みます。鉤型に設えた回廊をさらに進むと法堂と本堂が合体した怡雲庵に行き着きます。

    • 常照皇寺 怡雲庵<br />方丈の廊下からは、紅葉に覆われた怡雲庵を見渡せます。

      常照皇寺 怡雲庵
      方丈の廊下からは、紅葉に覆われた怡雲庵を見渡せます。

    • 常照皇寺 方丈<br />禅僧 夢窓疎石は、室町幕府の最も重要な相談役であり、力を持った政治僧でした。特に尊氏は、夢窓疎石に盲目的に信頼を寄せていたそうです。夢窓と足利家との縁は、足利家の内紛である観応の擾乱で調停を行い、その後北朝方の公家や武士が帰依するようになったことに始まります。<br />嵐山の地に広く領地を陣取る天龍寺建立の顛末も、後醍醐天皇の怨霊を恐れた尊氏が菩提を弔うために夢窓疎石に相談した結果、巨大な寺を建立して自分を住職に押し込めたのも全て夢窓疎石のなせる業だそうです。<br />室町時代に禅宗が力を持ったのは、武士の死生感と禅の教えが合致したこともあるでしょうが、夢窓疎石の力もまた大きかったのではないかと思われます。<br />因みに、晩年光厳院は、禅僧 夢窓疎石に帰依し「無範光智」と名乗りました。

      常照皇寺 方丈
      禅僧 夢窓疎石は、室町幕府の最も重要な相談役であり、力を持った政治僧でした。特に尊氏は、夢窓疎石に盲目的に信頼を寄せていたそうです。夢窓と足利家との縁は、足利家の内紛である観応の擾乱で調停を行い、その後北朝方の公家や武士が帰依するようになったことに始まります。
      嵐山の地に広く領地を陣取る天龍寺建立の顛末も、後醍醐天皇の怨霊を恐れた尊氏が菩提を弔うために夢窓疎石に相談した結果、巨大な寺を建立して自分を住職に押し込めたのも全て夢窓疎石のなせる業だそうです。
      室町時代に禅宗が力を持ったのは、武士の死生感と禅の教えが合致したこともあるでしょうが、夢窓疎石の力もまた大きかったのではないかと思われます。
      因みに、晩年光厳院は、禅僧 夢窓疎石に帰依し「無範光智」と名乗りました。

    • 常照皇寺 禅定池<br />渡り廊下が架かる禅定池には逆さ紅葉が映えます。<br /><br />拝観案内によると、この池にはモリアオガエルが生息しているようです。光厳院は、この池でカエルの卵がかえり、沢山のカエルたちが大合唱するのだろうと思っていましたが、暫くして池を見てみると僅か10数匹しかカエルはいませんでした。池の周囲を見るとゲンゴロウや蛇などが腹いっぱいの様子で群れており、光厳院は涙を流し、波乱万丈の自分の人生に思いを馳せながら、改めて自然の摂理に気付かれたそうです。

      常照皇寺 禅定池
      渡り廊下が架かる禅定池には逆さ紅葉が映えます。

      拝観案内によると、この池にはモリアオガエルが生息しているようです。光厳院は、この池でカエルの卵がかえり、沢山のカエルたちが大合唱するのだろうと思っていましたが、暫くして池を見てみると僅か10数匹しかカエルはいませんでした。池の周囲を見るとゲンゴロウや蛇などが腹いっぱいの様子で群れており、光厳院は涙を流し、波乱万丈の自分の人生に思いを馳せながら、改めて自然の摂理に気付かれたそうです。

    • 常照皇寺 禅定池<br />とても大きな形の整った楓の葉です。<br />光厳院は、政治家としてよりも歌人として名を馳せ、『風雅和歌集』の撰者のひとりでもあります。『風雅和歌集』は、『玉葉集』の歌風を受け継いだ唯一の勅撰集です。「自然描写はより繊細に、風趣はより閑寂に、心理表現はより内省的になる傾向を見せ、ことに寂寥美と沈潜した心境を追究した…」と解説書では評価が高いようです。<br />光厳院の秋の歌を一首添えてみます。<br />「世の色のあはれはふかくなりゆくよ 秋はいくかもいまだあらなくに」(御集)。<br /><br />長くなりましたので、この続きは美山紀行②常照皇寺<後編>にてお届けいたします。

      常照皇寺 禅定池
      とても大きな形の整った楓の葉です。
      光厳院は、政治家としてよりも歌人として名を馳せ、『風雅和歌集』の撰者のひとりでもあります。『風雅和歌集』は、『玉葉集』の歌風を受け継いだ唯一の勅撰集です。「自然描写はより繊細に、風趣はより閑寂に、心理表現はより内省的になる傾向を見せ、ことに寂寥美と沈潜した心境を追究した…」と解説書では評価が高いようです。
      光厳院の秋の歌を一首添えてみます。
      「世の色のあはれはふかくなりゆくよ 秋はいくかもいまだあらなくに」(御集)。

      長くなりましたので、この続きは美山紀行②常照皇寺<後編>にてお届けいたします。

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