2015/11/11 - 2015/11/11
150位(同エリア413件中)
イロコさん
禁門の変後、第一次幕長戦争へと歴史のうねりの中、長州藩は存亡の危機を迎えました。
藩は、福原越後公(宇部領主)、國司信濃公(万倉領主)、益田右右衛門介公(須佐領主)の三家老に禁門の変の
責任を負わせ、切腹を命じ、幕府にその首を差し出しました。
11月11日と12日は三家老が切腹した日と言うことで、ツアーでゆかりの場所を回りました。
こちらの旅行記には宇部市と美祢市のゆかりの場所を掲載しています。
藩を救うという大義のため、忠義を尽くしながらも「不忠不義」による切腹を命ぜられた無念の最後を遂げた
三家老の死は、若い志士たちの心を動かす契機の一つとなっていきました。
藩の裁量に対して高杉晋作らが挙兵し、藩内の保守派(俗論党)を追放。
そのエネルギーは、倒幕、維新へと進みました。
- 旅行の満足度
- 4.0
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集合場所は宇部新川駅です。
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まず福原越後公(宇部藩主)の菩提寺、宗隣寺に行きました。
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宗隣寺山門
宗隣寺は、777年(宝亀8年)唐より来朝した為光和尚によって松江山
普済寺が創建されたと伝えられています。
その後1670年(寛文10年)長州藩永代家老で宇部領主であった福原広俊(15代)が菩提寺として「宗隣寺」を再興した禅宗(臨済)の名刹です。 -
山門には「松江山」と言う額がかかっています。
「ずいごうざん」と読むとのことでした。 -
山門にある福原家の家紋。
毛利家の一に三ツ星のにもう一つ一が加わっています。
毛利家の人と兄弟だったからだそうです。 -
山門から本堂を見る。
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手洗舎
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山門
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昔は山門近くまで海だったそうです。
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宗隣寺庭園の説明
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山門近く
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参道
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手洗舎の近くには桜の木があります。
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手洗舎
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本堂
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右側が本堂
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本堂
平成10年に本堂(本尊無量寿佛)を再建。
中国観音霊場の第18番(本尊如意輪観音)札所であり、観音信仰の
聖血として参詣を集めています。 -
本堂に入りましょう。
庭が見えます。 -
本堂
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本堂
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福原越後公は元治元年(71864)の7月の禁門の変では、総大将として伏見
街道から今日十目指しましたが、途中大垣藩との交戦により越後公は銃弾を
頬に受け敗退し、帰藩しました。
11月12日、禁門の変の責任を負い、岩国藩の龍護寺(現在の清泰院)で切腹し、
50年の生涯を閉じました。 -
毎年11月の第2日曜日に法要が行われていて、庭園にある墓所にも
思い利が出来るとのことでした。
今年は11月8日に墓所の一般公開があったそうです。
仏様の前には、越後公の位牌がありました。
法要の時には越後公の木造座像が置かれるそうです。
辞世の句は「くるしさは 絶ゆるわが身の夕煙 空に立つ名は 捨てがてにする」です。 -
左側は福原家の代々の位牌
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右側はお寺の住職の位牌
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本堂にあるお籠は越後公自刃後、ご遺体を宗隣寺まで運んだと伝わるそうです。
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本堂から見た庫裡。
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庫裡のそばの庭
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本堂裏側(北側)にある庭園
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築山泉水庭で「龍心庭」と呼ばれ、池は心の字を表しています。
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紅葉
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本堂の裏にあるモミジの木は野良生えだそうです。
赤く色付いています。 -
そのモミジの木の根元
苔むしていますが、平たい岩(左側)があり池の向こうに見える
仏石に向かって座禅をしていたそうです。 -
モミジの木の根もとにはマンリョウだと思いますがあります。
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苔の上に散ったモミジ
今年は色があんまりよくないような・・・。 -
池の向こうにある仏石
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蘇鉄の近くにある仏石
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池の浅瀬は干潟様、池中の8個の立石は、船に見立てた夜泊石と称され
「東の毛越寺(平泉)と西の宗隣寺」のみに存在する鎌倉(南北朝)時代の遺構をのこす貴重な書院庭園です。 -
夜泊石と干潟様
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池の奥に24代当主福原越後公夫妻の墓地があります。
毎年11月の第2日曜日の1日だけ一般公開をされます。
今年は11月8日にお参り出来たそうです。 -
池の水はきれいでそこの石が見えました。
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本堂のすぐそばの道。
苔むした上を歩けるのかしら??? -
池の側には茶室がありました。
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さてまた本堂の側を通り、境内に向かいましょう。
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またも庫裡のそばの紅葉を眺める
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坪庭
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鐘楼
レプリカとのこと。 -
鐘楼
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鐘楼の近くに福原越後公の二人目の娘さんと結婚して婿養子に入り、
イギリスに法律の勉強で留学をされた福原芳山(ふくばらよしやま)公の記念碑が出来ていました。
宇部の人は「ふくばらほうざん」と呼んでいます。
宇部の炭鉱を買い戻したりして宇部の発展に寄与されました。
ちょっと見えにくいですが・・・。 -
次は三家老の一人、國司信濃公の墓所に向かいました。
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あまり大きな銀杏ではありませんでしたがとてもきれいでした。
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天竜寺の説明
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國司信濃公は6月5日の池田屋事件の報を受け、福原益田両永代家老とともに京へ出陣。
嵯峨・天竜寺より攻めるが、会津・薩摩軍を中心とする幕府軍に敗れ、帰藩し
藩主の命を待った。
万倉に帰還してわずか2日間の滞在後、徳山の澄泉寺(明治4年に廃寺)に
幽閉され11月12日に切腹した。
自刃した三家老の中でも、最年少の23歳。
菩提寺は天竜寺。
本尊は千手観音。 -
お寺と言っても近くにある岩崎寺(がんきじ)が管理をされているそうです。
外観もあんまりお寺のようには見えなかったです。 -
奥に見えるのが天竜寺。
天竜寺の前に土手のような道があり、そこから墓所に行けました。
池もあります。 -
墓所に上がる石段
山の中にあるので苔むしています。 -
ちょっと横の道を進むと國司信濃公夫妻の墓が見えて来ました。
さらに階段を上りましょう。 -
説明
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手前に國司家の歴代の人の墓がありました。
奥に信濃公の墓があります。 -
信濃公の墓所
信濃公の辞世の句は
「よしやよし 世を去るとてもわが心 皇国のために 猶つくさばや」 -
向かって左側が信濃公の墓
右側が8歳年上の弥佐子夫人の墓。
遺書の通り二人の墓が並んでいます。 -
信濃公の墓所側から歴代の墓所を見る
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横の道から墓所を見る
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横の道には杉家の墓がありました。
杉家・・・。
写真撮影に夢中で説明聞いていなかったです・・・・。 -
お地蔵さん
台座に数字が書いてあります。 -
また入り口まで戻りました。
田舎だし普段とても訪れるような場所ではないな・・と思いました。
ツアーで大勢の人と一緒に歩いたけど、とても一人、二人では
来ないだろうな・・・と思いました。
天竜寺のすぐ隣には広矛神社があります。
信濃公はこちらの神社で必勝祈願を行い京都に進発したとされているそうです。 -
しつこく銀杏を見ています。
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次は美祢市の金麗社に向かいました。
幕府の第一次長州征伐の跡、長州の藩論は二つに割れて対立をしていました。
高杉晋作らの率いる諸隊と長州藩萩政府軍との戦いの火ぶたが1865年
(慶応元年)絵堂で切られました。
金麗社は諸隊の本陣が置かれ作戦会議をしたところです。 -
神社の横の入り口
大きな銀杏の木があります。 -
黄葉した銀杏の葉っぱがハラハラと舞い落ちていました。
黄色いじゅうたんです。 -
木のアップ
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落葉
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入り口の銀杏
きれいな黄色なのですが、きれいに写りません。 -
もっと濃い黄色なのに白っぽく写ります。
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残念・・・濃い黄色に写りませんでした。
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あちらにも紅葉したモミジの木があります。
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アップ
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大田・絵堂戦の説明
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諸隊の説明
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大田・絵堂の戦い
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地図アップ
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諸隊の戦没者顕彰碑
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境内
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碑
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碑
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神社
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斜めから見た神社
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境内
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句碑
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境内には社殿が二つ立っていました。
こちらの社殿の前には諸隊の名前の入った旗が立っています。 -
石碑
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参道から諸隊の旗が立っている社殿を眺める。
灯篭は第二次長州征伐の時、小倉城から戦利品として騎兵隊が得た灯篭1対です。 -
灯篭アップ
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長州では慶応の元号を使わず「元治4年」と彫ってあるそうです。
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黄色い銀杏の近くの方の参道
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こちらの灯篭、鯱が二つあります。
珍しいので写してみました。 -
銀杏の木に近い方の社殿
宇部市と美祢市編はこちらで終了です。
その後萩に移動しました。
萩編は別の旅行記に掲載します。
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