2015/07/04 - 2015/07/05
364位(同エリア628件中)
ひま人さん
100名城訪問完遂を目指して城廻をしています。100名城スタンプ帳も38城目からの押印です。今回は一泊二日で、一日目は福井県の丸岡城を訪れました。丸岡城は柴田勝家の甥・勝豊が城を築きました。ここは、国重文の天主閣が現存しています。そして富山県まで足を伸ばし高岡城を訪れました。高岡城は、加賀藩前田家二代の前田利長の隠居城として築かれました。二日目は石川県七尾市の七尾城を訪れました。守護大名として、169年間能登を統治した畠山氏の居城で中世の拠点城郭です。そして、最後に金沢城を訪れました。加賀100万石を築いた前田利家が築城しました。
表紙写真は丸岡城天守閣です。
- 旅行の満足度
- 3.5
- 観光
- 3.5
- ホテル
- 3.5
- グルメ
- 4.0
- ショッピング
- 3.5
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 3万円 - 5万円
- 交通手段
- 観光バス タクシー JRローカル 私鉄 自家用車 徒歩
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国重要文化財・丸岡城天守閣。天正3年(1575年)、織田信長が一向一揆を平定するため大軍を派遣し、豊原寺を攻略し寺坊を焼き払いました。信長はその恩賞として柴田勝家に越前の国を与え、北の庄に築城を命じました。勝家は甥の勝豊を豊原に派遣し豊原城を構えたが、翌天正4年(1576年)豊原から丸岡に移り城を築きました。これが現在の丸岡城です。勝豊以後、藩主が安井、青山、今村、本多、有馬と変遷し明治維新となりました。
野面積みの石垣上に建つ天守は、昭和9年に当時の国宝に指定されたが、同23年の福井地震で倒壊してしまいました。その2年後、重要文化財の指定を受け、古材を用いて復旧工事が昭和30年に完了し、現在に至る。鯱は木製で銅板張りです。 -
天守内部階段。木製で急勾配な階段で転落防止のため、ロープが添えられていました。これは天井を支える梁の関係により、この位置で急な階段になりました。
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天守閣の石瓦。屋根瓦は普通の焼き物の瓦でなく、石で作られています。福井県産の笏谷石(しゃくだにいし)を加工したもので、全国的に見ても珍しい石製の瓦で葺かれています。これは雪による破損を考えての処置だそうです。約6000枚あり、1枚20〜60kgあり、屋根全体で120トンにもなるそうです。
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福井地震以前の笏谷石の鯱が、天守登り口の階段脇に置かれています。
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天守下に設置されている「一筆啓上書簡碑」。徳川家康譜代第一の功臣で鬼作左の有名をとどろかせた、本多左衛門重次が陣中から妻にあて「一筆啓上、火の用心、お仙泣かすな、馬肥せ」と書き送った話は有名です。文中のお仙とは嫡子仙千代で、後の福井藩主松平忠直に仕え、数度の戦いに武勲をたて丸岡城6代目の城主となった本多成重のことです。
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丸岡城駐車場に掲げられている「一筆啓上書簡」看板。
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歴史民俗資料館。丸岡城の歴代の書簡、武具ほかを展示しています。
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高岡城内濠。国指定史跡「高岡城跡」。前田家2代藩主前田利長は、天正13年(1585年)から13年間、二上山上にあった守山城の城主でした。慶長3年(1598年)に利家の跡を継ぎ藩主となり、同10年(1605年)には隠居して富山城の移りました。しかし、同14年(1609年)3月の大火により城が焼失したため、当時関野と呼ばれていた地に新しく高岡城を築城しました。縄張(設計)はキリシタン大名であり、築城の名手として有名な高山右近と伝承されています。入城して5年、利長は亡くなり、元和元年(1615年)の一国一城令により廃城となりました。建物類は現存していません。しかし、城跡は残り高岡古城公園として市民から親しまれています。
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搦手口方面。
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大手口方面。
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高岡城の縄張(設計)をしたといわれる、「高山右近像」。
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桝形濠。高岡古城公園は、中心市街地に約21万?の広大な面積で、また、3つの水郷に囲まれており、その面積は全体の3分の1を占めます。濠は築城時のまま残されています。豊かな水をたたえた水郷公園となっています。
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内濠に見える唯一の石垣。
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本丸跡。広場となっている。
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前田利長公像。
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与謝野寛・晶子歌碑。高岡古城公園を訪れた時の詠んだ歌。
・与謝野 寛
「高岡の街の金工たのしめり
詩のごとくにも のみの音を立つ」
・与謝野 晶子
「舘などさもあらばあれ
海こえて羅津に対す本丸の松」
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七尾城跡(国史跡)は、能登国の守護・畠山氏(1408-1577)が16世紀前半(戦国時代)に築いた城館跡で、全国でも屈指の規模を有します。石動山系に築かれた城域は南北約2.5km、東西約0.8km、面積は約200haに及びます。山上から山麓までの自然地形を巧みに利用し、七尾の地名の由来となった七つの尾根筋を中心に多数の曲輪(屋敷地)を連ね、山麓には城下町が形成され京風の能登畠山文化が華やぎました。
天正5年(1577年)の上杉謙信の攻撃によって落城、169年わたる畠山氏の領国支配の幕が閉ざされました。落城後の七尾城は一時、上杉方が入り、その後、天正9年(1581年)に織田信長から能登一国を与えられた前田利家が入城します。天正10年(1582年)から17年頃に、港に近い小丸山での新たな築城により、七尾城は城としての機能を失うこととなりました。
・二代畠山義忠公歌碑
「野も山も みなうづもるる
雪の中に しるしばかりの 杉の村立」 -
七尾城石垣。自然石を加工することなく積み上げる野面(のずら)積みで築かれ、用いられた石材は、山麓にかけての谷筋の沢から主に運ばれたとみられます。
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本丸石垣。
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土塁。
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本丸跡。
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本丸跡石碑。
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遊佐屋敷跡。山上から山麓までの多数の曲輪(屋敷地)は、大型の曲輪を中心にいくつかのグループとしてまとまり、曲輪群が集まってできた大規模城郭といえます。それぞれの曲輪群が半ば独立した分立的な構造といえます。畠山氏をはじめ、温井氏、遊佐氏、長氏、三宅氏などの重臣もそれぞれ屋敷を構え、生活や政治の基盤が山城内にあったことがうかがえます。
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二の丸跡。
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三の丸跡。
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九尺石。石積の一部。
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畠山氏墓所。
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七尾城史資料館。昭和38年、七尾城主の子孫である畠山一清翁によって古屋敷町シカマ藪に建てられ、平成7年に大修理された。中世の城のイメージを取り入れた近代建築です。
館内には、七尾城や城下から出土した天目茶碗、水晶製五輪塔舎利容器、甲仏をはじめ、城主愛刀、長槍、薙刀、螺鈿の鞍、唐草模様の兜などの武器・武具や、城主直筆の書簡も展示され、戦国時代の武家の生活の一端を知ることが出来ます。 -
金沢城。前田利家は加賀百万石前田家の祖です。尾張荒子(現名古屋市中川区荒古町)の土豪前田利昌の四男として生まれ、織田信長に従い、大名としての基を築きました。幼名犬千代、前名又左衛門。武勇の誉れ高く「槍の又左」の異名があります。豊臣秀吉とは犬千代時代からの交わりです。信長時代には、近江長浜、越前府中、能登七尾の城主となりましたが、秀吉と柴田勝家の戦いの後、秀吉と提携し、天正11年(1583年)金沢城に入城しました。
石川門(重文)。金沢城の搦手(裏門)門で、高麗門の一の門、櫓門の二の門、続櫓と二層二階建ての石川櫓で構成された桝形門で、「金沢城三御門」の一つです。 -
石川門櫓。
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河北門。金沢城の実質的な門で、高麗門の一の門、櫓門の二の門、桝形土塀で構成された桝形門です。石川門、橋爪門とともに「金沢城三御門」と呼ばれ、二の門は場内で最大規模を誇ります。平成22年4月復元。
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菱櫓・五十間長屋・橋爪門続櫓。二棟の三層三階の物見櫓「菱櫓」と「橋爪門続櫓」を、二層二階の倉庫「五十間長屋」でつないだ建築物です。平成13年7月復元。
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橋爪門。二の丸への正門として最も格式の高い門で、高麗門の一の門、石垣と二重塀で囲まれた桝形、櫓門の二の門からなります。「金沢城三御門」のひとつで、城内最大の桝形門です。平成27年3月復元。
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東の丸石垣。
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玉泉院丸庭園。二代藩主利長の正室玉泉院(永姫)が屋敷を構え、後に利常(三代)が作庭を始め、廃藩時まで藩主の内庭として存在していました。平成27年に池泉回遊式庭園として江戸後期の姿を再現するとともに、池のほとりには庭園を一望できる玉泉庵を整備しました。
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玉泉院丸庭園。
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玉泉院丸庭園に面した石垣。趣向を凝らした「切り石積み」で、玉泉院丸庭園の重要な景観要素であったと考えられています。
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三十間長屋(重文)。二層二階の多聞櫓で、安政5年(1858年)に再建されました。倉庫として使われた建物で長さは26間半です。土台の石積技法は、「切石積み」ですが、表面の縁取りだけをそろえ、内側を粗く残す「金場取り残し積み」という技法が用いられています。
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二の丸石積。形や大きさをそろえた祖加工石が積まれています。
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石川門石垣。この石垣は、右と左で積み方が違います。右側は「切り石積み」、左側は「祖加工石積み」となっています。同じ場所で違う積み方をした珍しい例で、明和2年(1765年)の改修時のものと考えられています。
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