2015/03/22 - 2015/03/22
261位(同エリア821件中)
元カニ族さん
横浜市青葉区田奈町に広さ100ha(30万坪)、外周道路4キロ、内周道路2.4キロの多摩丘陵の雑木林をそのまま生かした自然の遊び場「こどもの国」があります。雑木林をぬうように散策路があり、遊具広場、芝生広場、ミニSL、湖、牧場、ミニアスレチック、サイクリングコースなどがあります。
この遊び場「こどもの国」は1959(昭和34)年4月、時の皇太子(現平成天皇)のご成婚を記念して、全国から寄せられたお祝い金を基金に、1965(昭和40)年5月5日の子供の日に開園しました。
こどもの国のある場所には、戦争中は「東京陸軍兵器補給廠田奈部隊・同填薬所」(通称:弾薬庫)がありました。部隊内には火工場(黒色火薬を袋詰め)、溶填場(白い粉火薬を溶かして弾頭に詰める)、穿孔場(信管を取り付ける穴を開ける)、完成場(弾頭と薬莢をあわせる)、33の半洞窟式弾薬貯蔵庫、空気に触れると爆発する火薬を保管する貯水池、陸軍兵器学校の分校などがありました。
「こどもの国」が現在の地に決まった経緯について地元の新聞販売店の情報誌「ひろたりあん通信」によると、
当時、「こどもの国」の候補地には、埼玉県朝霞市の米軍キャンプと、藤沢市辻堂の旧日本軍の演習地があり、朝霞が有力だった。しかし決定申し渡しの1日前に横浜市の助役がかけ込んできて「田奈の弾薬庫跡」を推薦した。田奈弾薬跡は、戦後アメリカ軍に占領されていたが、この地が軍事施設なのに空襲を受けなかったのは、アメリカは占領後この施設を利用する目的があったからのようであった。
日本政府の返還要求に対し、アメリカは当初「ノー!考慮の余地なし」と突っぱねたが、「皇太子殿下の結婚記念として計画している」と聞き、「そういうことなら、話は別だ」ということで、急遽返還が決まった。
とのことです。しかし建設工事は困難を極めたようで、あちこちに弾薬が捨てられていて、その処理だけで9か月もかかったようです。
2015年3月22日、こどもの国主催で「歴史をたずねて 旧陸軍弾薬庫跡地の見学」が行われましたので、参加してきました。写真は見学した弾薬庫の内部です。
- 同行者
- その他
- 交通手段
- 私鉄 徒歩
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青葉区の広報紙に載せられた「こどもの国 歴史をたずねて 旧陸軍弾薬庫跡地の見学」の案内です。
現在の天皇・皇后のご成婚を記念して旧陸軍弾薬庫跡地にできた自然を生かした遊び場です。 by 元カニ族さんこどもの国 公園・植物園
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こどもの国の園内の案合図です。
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集合場所の正面入り口を入ったところの広場です。
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当日はまず、正面入り口広場で、担当職員のガイドから説明を受けました。
ガイドが手にしているのは、まず見学する「防空壕」の写真です。 -
防空壕の平面図です。
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そして、防空壕を見学しました。(中には入りません)
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次にガイドから「中央広場」付近の当時の写真をみながら説明がありました。
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正面入口を入ると、右側に「憲兵隊詰所」、「女子学生休憩所」があり、その右(現在の多目的広場)に「本部」、左に工場、が配置されていました。また鉄道の引き込み線が中央広場まで入っており、これが現在の「こどもの国線」になっています。
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上写真に相当する、現在のこどの国の中央広場です。
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広場から、多目的広場に向かいました。
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写真は多目的広場を背にして、ガイドの手にあるのが当時の「田奈部隊本部」の写真です。
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上写真の拡大です。
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多目的広場から、第1トンネルに向かいました。
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第1トンネルです。
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第1トンネルを抜けると、牧場口駐車場からの入口がありました。ここでガイドが当時のこのあたりの写真を見せてくれました。
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盛り土の斜面に後で見る「半洞窟式弾薬貯蔵庫」の入口があちこちに見えます。
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見学する「半洞窟式弾薬貯蔵庫」に向かいました。道路は広々としてのどかです。
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見学する「半洞窟式弾薬貯蔵庫」の入口に着きました。
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ガイドから入る前に「半洞窟式弾薬貯蔵庫」の平面図と側面図を見せてもらいました。
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上から見ると図のように「コの字型」になっていて、出入口は2カ所あります。
横から見ると図のようになっていて、丘の斜面を横から掘って平らにし、コンクリートで固めた後に、土をかぶせています。
このような弾薬庫は園内に33カ所あります。 -
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弾薬庫の中に入りました。下は入った所で古い内装材が残っていました。
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弾薬庫の本体部分で、屋根型になっていました。幅7.6m、長さ26.9m、高さは一番高い所で5.4mです
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本体の天井で、屋根型になっています。
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ポニー広場です。ポニーに乗ることが出来ます。
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別の「半洞窟式弾薬貯蔵庫」の入口です。すべて前はトラックが横付けできるような高さになっており、階段は横にあります。
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内部がコの字型になっているため、出入口は写真のように2カ所がセットになっています。
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弾薬庫は園内にはあちこちにありますが、写真のように綺麗に化粧されて、回りの景色に溶け込んでいます。これが「弾薬庫」であったことは、予備知識のない人にはわからないでしょう。
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全然目立ちません。
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写真は第2トンネルです。
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弾薬庫の入口に何かを見つけので、見学グループから離れて、一人で見に行きました。
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弾薬庫入口に、写真のようなレリーフがありました。
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横の説明板に次のように書かれていました。
「無名のスカウト戦士
横江嘉純氏作
この影像は、南洋のどこかの島であった激戦のあとの、なななましい実話の記念像である。
一人のアメリカ兵が重傷を負って倒れていた。銃声もたえて静なとき人の足音が近づいてくる、目をさますと一人の日本兵が剣付きの銃を持ってつったっていた。アッとおもいつめた彼は気が遠くなってしまった。
暫くたって彼は気をとり返した。傍らの砂の上に白い紙切れがあるのを何気なくポケットに入れた。まもなく担架で彼は野戦救護所にはこばれた。手術台にのせられたとき、彼はポケットの紙切れを思い出しドクターに渡した。それにはこう誌してあった。
「ぼくは君を刺そうとしたとき、きみはぼくに三指の礼をした。ぼくもボーイスカウトなのだ。スカウトは兄弟だ。君もぼくも兄弟だ。戦闘力を失ったものは殺せぬ。 傷は手当しておいたよ。グッドラック」
戦後、この兵は父とつれだってアメリカのボーイスカウト本部を訪ね、右の話を伝えた。スカウト精神を讃えてこの運動のためと献金していった。1952年、アメリカの本部から日本のボーイスカウト運動を視察に来たフインネル氏が戦争中の美談としてこの実話を伝えてくれた。
一人のアメリカ兵は本名を明かさず
一人の日本兵は戦死したであろう。
無名のスカウト戦士の間のできごとです。
この無名のスカウト戦士 こそ日本の武士道精 スカウト精神の結晶です。」
田奈弾薬庫の返還交渉で、日本側の代表も米軍司令官もボーイスカウト出身で、劇的などんでん返しが起き、「返還イエス」に変わたともいわれています。 -
急ぎ、見学グループに戻りました。
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園内を見て、元の場所に戻って来ました。園内はもうすぐ桜の季節で、多くの家族連れで賑わっていました。
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写真は学徒動員された神奈川高等女学校の卒業生が作った「平和を祈る碑」です。
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