2015/05/02 - 2015/05/03
4位(同エリア22件中)
地中海人さん
2015年5月2日早朝テヘランからイラン南西部アフヴァーズへ飛び、ツアー専用バスで古代のエラム人が活躍したチョガザンビール、スサ遺跡を巡り、エラム人の歴史を偲び、かつシュメル人に思いを馳せる。
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主な日程
2015年4月30日(木)
成田?発 EK319 22.00 (19.00集合チェックイン開始 21.05搭乗開始)
5月1日(金)
ドバイ着04.15
ドバイ発 EK-971 07.45 テヘラン着10.25
テヘラン国立博物館などを巡る。
★ 5月2日(土)
テヘラン発 IR411 06.05 アフワズ着 07.25
チョガザンビール、スサの遺跡を巡る。
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S旅行の添乗員および現地ガイドつき専用バスによるツアー、参加者17名。イランとあって、皆さん旅慣れた方ばかり。
JTBグローバルTカードの出番がなかった。
アメリカと敵対している国ほどドルが通用すると言いますが、ここでもドルのほうが率がよいようです。
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ガイドブック
エラム王国を本題にした日本語の本は無い。この旅行記のデータは下記の本によりますが、妄想はいつもより妄想度が高いです(笑)。
「図説 メソポタミア文明」前川 和也 編著 河出書房新社
「シュメル-人類最古の文明」小林登志子著 中公新書 2005年発行
「ザグロスの高原を行く」正木 弥 著 イーグレープ 発行
[文明の誕生] 小林登志子著 中公新書 2015年6月25日発行
現代文明の起源をホモサピエンス最古の文明・シュメル文明とする。
- 旅行の満足度
- 4.0
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 30万円 - 50万円
- 交通手段
- 観光バス
- 航空会社
- エミレーツ航空 イラン航空
- 旅行の手配内容
- ツアー(添乗員同行あり)
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2015年5月2日(土)早朝
テヘラン国内線専用空港 出発階 -
ぐるぐる巻き機械です。中欧から中近東でよくみかけますね。
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イラン航空、IR411便でアフヴァーズへ。
搭乗開始直前にゲートナンバーが出ました。 -
アフヴァーズ空港
イラン西南部、フーゼスターン州の州都の空港です。
アフヴァーズの街は、古代は海に近く、カールーン川渡河点、近くにエラム時代の遺跡がある。イラク国境に近い低地にあるので、イランイラク戦争開戦直後にはイラク軍に包囲されたと言う。
標高20メートル。アケメネス朝時代の街の跡にササン朝時代に灌漑設備やダムが作られたという。
(私の妄想
アレクサンダー大王が西インドから陸路スサまで帰還するとき、別働隊にインダス川河口から海路を取るよう命じたことがあるが、エラム人が同行していて、ここから上陸か?。 古くからインドからペルシャ湾口までの海路が知られていたのかもしれません。) -
アフヴァーズ空港 到着階
テヘランから飛行機で1時間あまり。 -
イラン産ノンアルコール・ビールです。イランは酒類持ち込み禁止です。ゾロアスター教徒が多い町にも酒屋さんはない。
ツアーは全食事つき、昼食時1ドル(3リアル)と夕食時2ドル、毎回ガイドに支払う仕組みでした。
度の低いビールなら、シュメル人が古代から大いに飲んでいました。前2035年頃の粘土板文書に「3リットルの上等のビール、2リットルのパン・・・・・」という支給文書の記録がある。 -
アフヴァーズ空港からチョガザンビールへ。
ツアーバスは、アフヴァーズからチョガザンビール、スサへと、小説「ザフロス高原を行く」の主人公・クル王が前649年19歳の時たどった道を行くことに。
古代、アフヴァーズからザグロス山脈西側を地中海まで隊商路が2000キロにわたって地中海まで「王の道」があった。
(ここでエラム人の歴史を概観(妄想)
アッカド語、カナーン語、アラム語、ヘブライ語などのセム語族が祖源地であるアラビア半島を北上して広がり、メソポタミアへは前3500年ごろアッカド人、アラム人、バビロニア人が移ってきたと言うが、そのころにはメソポタミア南部にはシュメル人が灌漑農業を始め都市を形成しつつあり、イラン高原・シラーズ北西アンシャンに定住し都を構えていたエラム人が、前3000年頃には南下してスサに王都を移し、シュメル人と争っていたと言う。
前2004年シュメル人初の統一王朝・ウル第3王朝がアッカドによって滅ぼされた後も、スシアナ平原にはエラム語を話す民族が地域ごとに王権を確立し存続していたと言う。
前2000年期中頃の西アジアは、エジプトおよびカッシート、印欧語族のヒッタイト帝国、膠着語を話すフルリ人のミタンニ王国及びエラム王国という五大勢力によって分割されていた。
たびたびメソポタミアの大国、アッカド、ウル、バビロニアなどに侵略されるも持ちこたえたが、前7世紀に至りアンシャンはペルシャ人に、スサはアッシリアに征服され、エラム人は前6世紀ペルシャ人に吸収されたのでしょう。アケメネス朝ペルシャはエラム人から楔形文字を学びエラム語も公用語として、厚遇したようですね。
シュメル人と同系?の膠着語を話すエラム人は、いつごろ、どこからやってきたのか?
シュメル人がユーフラテス川の下流域に居を定め、エラム人が暴れ川のティグリスの東、イラン高原、ザグロス山脈西麓のペルシャ湾岸沿いの高地と低地に居を構えた。
ということは、エラム人はシュメル人に遅れて、ウラルアルタイ?中央アジア?から陸路を南下してきた?それともインダス川河口から沿岸を伝い海からからやって来た?
現在南インドに居住するドラヴィダ族は、前16世紀頃アーリア人に押し出されるまではインダス川上流地帯に定住していたといい、エラム語と同じ系統の膠着語を話すとの説あり、エラム原文字がアフガニスタンに近いところから発見されているので・・・? 悩みは深い(笑)。 -
1979年に世界遺産に登録されたチョガザンビールのジグラット
シュメル人はウル第3王朝時代から都市中心に都市の守護神を祀るためジッグラトを建てています。聖書に言うバベルの塔はメソポタミアに作られたジッグラトなのでしょう。
現在観光客が訪問できるジッグラトはここだけでしょうね。 -
チョガザンビールのジッグラト
このツアーに参加したのは、ここを訪れるためでした。
ガイドは、当初は、7周の通路を7段の高さの壁が囲む神殿で、七つの堀に囲まれていたという。
本には三重の城壁があったとある。 -
前1250年頃、エラム王国ウンタッシュガル王が王都・スサ南東45キロに宗教都市を作り、その中心にあるジッグラト。
地図上スサからチョガザンビールの線を引くと、その延長上にエラムのもうひとつの大きな都市で、スサの前の王都であるアンシャンがある。母体都市と殖民都市、その宗教施設との位置関係は、ギリシャの古代都市に受け継がれたのでしょう。
守護神は、スサの守護神・インシュシナク。同名の王名の記録があるが。
(私の妄想
ここで「スサとアンシャンの王」の叙任叙勲儀礼が行われたのでしょうか。
メソポタミアでは神と人間世界をつなぐ神殿が作られた。
インシュシナク神がシュメルのイシュタル神(イナンナ)を受け継いだのであれば、ここにおいても性的合一儀礼が行われたのでしょう。そしてそれは、ギリシャのアフロディテ信仰に受け継がれたのかもしれません。
「地中海の島 ⑨ パフォス3泊街歩き、カトパフォスのアプロディテ神殿都市(モザイク)、紀元前12世紀のアフロディテ神殿跡、アフロディテ生誕の地を訪ねるhttp://4travel.jp/travelogue/10781938」
) -
南口
1段目と3段目の階段が見える。
ユーフラテス川南部の初期の方式は、方形の基壇と3つの階段を備えていた。
時代的に新しいセム系の人たちが作ったティグリス川北部のは階段が無い。
ここは巨大な北部のものと同系とされている。 -
現在3段で、近くからこのように見える。宗教的儀式にだけ使われ、その際はエラム王国全土、高地エラム、低地エラム各地から人々がジッグラトを目指しやってきたのでしょう。都市門に達するはるか以前から城壁の高さを越えて聳える聖塔を目指してやって来たに違いありません。
シュメル人にとってはいわば東夷であるエラム人は、エラム王国3000年の歴史の内、前2004年にシュメル人が滅びるまでの1000年の間抗争を繰り返したが、やはり同系の民族だった証なのでしょうか。シュメル人のウル第3王朝時代から作られたジッグラトですが、メソポタミヤ以外では珍しいようです。 -
一辺105mの階段状で、四隅が東西南北に向いている。
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スサ東南45キロ地点にある。古代は、徒歩1日行程か。
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供物台?
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全て日干し煉瓦で造られた。古代は隙間をこの地方に産する瀝青で埋められ、匂ったことでしょう。
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エラム楔形文字
壁には楔形文字のあるレンガが嵌め込まれている。
エラム人も、シュメル人が古拙文字を作ると借用し、原エラム文字(絵文字)を独自に作ったりしたが、前2500年ごろから、アレクサンダーがアケメネスを滅ぼした前331年まで楔形文字の記録を残している。
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三層のエリアのうち最も内側の層に、主神に捧げるためのジッグラト、貯蔵庫を併せ持った寺院があり、
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次の層は、主神に次ぐ神々のために11の寺院。
最も外側の層は、王宮や葬祭を行うための場所、王室の5つの墓がある。
本には、神官のみが居住したとあるが、ガイドは一般庶民も居住していたという。
街は、アッシリア王アッシュールバニパルによって紀元前640年破壊され、放棄された。 -
近くに小さな博物館がありました。
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女性土偶
胸を両手で支えるのはオリエント独特とされ、長期に見られると言う。
今もシリア人女性は、夜に外でそのポーズで願いごとをするとか。 -
武器とあります。
青銅製でしょうね。
青銅器時代には、銅はイラン高原中央部から、錫はアフガニスタン西部からペルシャ湾を経由してスサに運ばれ、スサからアジア一帯に運ばれたのでしょう。前3000年期アッシリア商人が中継してアナトリアに居留地を作り運んでいた記録がある。 -
シュメール語はシュメル人消滅後も1000年にわたり西欧のラテン語と同様な用い方がなされ、シュメル人が前4000年期末に発明した楔形文字は、その後キリスト紀元後に至るまで西アジアで各民族の言葉を記録するため使用された。
エラム人は、アッカド語から楔形文字を借用したと言う。 -
楔形文字が彫られた日干し煉瓦。
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スーサ遺跡
(スーサの歴史を瞑想
フージスタン平原の真っ只中に標高30メートルの丘が4つあり、周囲4キロの街があった。
アクロポリスから前4000年期の神殿が発掘されており、前3000年期にはエラム王国の王都となった。
紀元前647年、アッシリアのアッシュールバニパルによって破壊され、前539年、アケメネス朝ペルシャの王ダレイオス1世に占領されてエラム王国は滅んだが、冬の王宮が置かれて、エラム人はすぐれた官僚として登用されるものもおり、遠く西アナトリアのサルディスまで「王の道」の起点として再び栄えた。
スサからサルディスまでの間は2400キロ、111の宿場、90日かかった。アケメネス朝時代に確立された早馬(1日行程に馬1頭、人員一人)では1週間前後で走破できたと推定されている。
エラム人の最盛期はチョガザンビールにジッグラトを作った頃から、バビロンを陥落させハンムラビ法典碑をスサに持ち帰った頃までか。
「西アナトリアの遺跡を巡る①世界で初めて貨幣を鋳造した、前7-6世紀リュディア王国の首都サルディスをパムッカレから路線バスで日帰り訪問。http://4travel.jp/travelogue/10953870」 ) -
スーサ遺跡
前331年のガウガメラの戦いでアレクサンダー大王に敗れてアケメネス朝が滅んだ後、紀元前324年、大王は帝国内の安定を図ろうと家来と征服部族とのスーサの合同結婚式を行ったとの記録がある。
前323年アレクサンダー大王没後、スーサはセレウコス朝の支配下に入ったが、イラン東北部からイラン系アーリア人のパルティアが勃興し、前247年頃にパルティア時代に至ってもスーサは都市としての繁栄を続けた。
その後116年頃のローマ皇帝トラヤヌスの侵攻によりスーサも占領され、サーサーン朝ペルシャ時代(309年 - 379年)に再建された。
638年にはムスリムの侵攻を受け、モスクなどの遺構は残ったが、実に4千数百年にわたり存続した都市であったが、1218年モンゴルによる侵略を受け、完全に破壊され放棄された。
その後、住民のほとんどは北部のデズフールなどに移動し、現在は小さな集落のみとなっている。
5世紀から13世紀の間はかなりの東方教会のキリスト教徒がいたと言われている。 -
スーサ遺跡
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スーサ遺跡
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スーサ遺跡
エラム語の記録は、アレクサンダー大王がここに滞在した時をもって途絶えた。
今シュメル人もエラム人もその姿は無いが、エラム人がシュメル人から受け継いだ文明はペルシャ人へと引き継がれたのでしょう。
この中近東で活躍した記録が残る諸民族のうちどんな言語を話していたかいまだにわからないカッシート人などがいるが、長いホモサピエンスの歴史から見ると、記録に残らなかった民族なども含むと数限りないのでしょう。
膠着語を話したシュメル人が楔形文字を発明し、話されなくなった後も1000年に渡りセム語族や印欧語諸民族によって学ばれ、かつ粘土板に刻みこまれ今に残る。
なんとか、ウルやバビロンに行きたいものですね。
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