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華岡青洲の偉業の足跡をたどります。<br /><br />春林軒敷地内にある碑「華岡家発祥の地」と書いてあります。<br /><br />南朝方の和田正之(楠木氏の一族)が後醍醐天皇の崩御後に河内国石川郡中野村華岡(現・大阪府富田林市)に住居を構え、華岡に改姓したことが華岡家の始まりです。<br /><br />数代後の華岡伝之丞は畠山高政に仕えていましたが、畠山氏が凋落したために紀伊国麻生津荘赤沼田に移り慶長年間に名手荘に住居を構え、麻生津荘の家と併用していました。<br /><br />

てくてく 9.7キロ 華岡青洲の里を訪ねて その②

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2015/05/10 - 2015/05/10

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kinomukumama

kinomukumamaさん

華岡青洲の偉業の足跡をたどります。

春林軒敷地内にある碑「華岡家発祥の地」と書いてあります。

南朝方の和田正之(楠木氏の一族)が後醍醐天皇の崩御後に河内国石川郡中野村華岡(現・大阪府富田林市)に住居を構え、華岡に改姓したことが華岡家の始まりです。

数代後の華岡伝之丞は畠山高政に仕えていましたが、畠山氏が凋落したために紀伊国麻生津荘赤沼田に移り慶長年間に名手荘に住居を構え、麻生津荘の家と併用していました。

旅行の満足度
5.0
交通手段
徒歩
  • 再びですが・・昼食後は青洲像の左手に進みます。<br /><br />天保6年(1835年)旧暦10月2日、華岡青洲は全身麻酔薬の発明という偉業の完成と、多くの人々の命を救うことに捧げた生涯を終えました。76歳でした。

    再びですが・・昼食後は青洲像の左手に進みます。

    天保6年(1835年)旧暦10月2日、華岡青洲は全身麻酔薬の発明という偉業の完成と、多くの人々の命を救うことに捧げた生涯を終えました。76歳でした。

  • 春林軒=春林軒塾は華岡青洲が開いた住居・病院・医学校です。<br /><br />大坂の中之島にも春林軒の分塾「合水堂(ごうすいどう)」を作り、青洲の弟(四男)華岡鹿城(ろくじょう)が診察と門人の指導にあたりました。華岡流の医学を学んだ門人の数は、合水堂で学んだ門人の数も合わせると、1861名にのぼり、本間玄調・鎌田玄台など優秀な医師を世に送り出しています。

    春林軒=春林軒塾は華岡青洲が開いた住居・病院・医学校です。

    大坂の中之島にも春林軒の分塾「合水堂(ごうすいどう)」を作り、青洲の弟(四男)華岡鹿城(ろくじょう)が診察と門人の指導にあたりました。華岡流の医学を学んだ門人の数は、合水堂で学んだ門人の数も合わせると、1861名にのぼり、本間玄調・鎌田玄台など優秀な医師を世に送り出しています。

  • 真門です。<br /><br />左手に主屋、右手に長屋。 

    真門です。

    左手に主屋、右手に長屋。 

  • 華岡伝之丞━伝左衛門━尚親━宗英━尚政━直道━青洲<br /><br />伝右衛門と尚親が名手荘西野山村に移り住み、寛永年間に村内の丘陵を開拓して「平山」と名付け、そこに家を移し農業に従事する傍ら、医学や薬品を研究し村民たちを治療していました。<br /><br />宗英までは医師と農業を兼業していましたが、尚政からは医師を専業としました。

    華岡伝之丞━伝左衛門━尚親━宗英━尚政━直道━青洲

    伝右衛門と尚親が名手荘西野山村に移り住み、寛永年間に村内の丘陵を開拓して「平山」と名付け、そこに家を移し農業に従事する傍ら、医学や薬品を研究し村民たちを治療していました。

    宗英までは医師と農業を兼業していましたが、尚政からは医師を専業としました。

  • 真門左手にある案内所で入場料・600円を払います。<br /><br />華岡青洲がもともと住んでいた家は現在の春林軒と華岡家墓地との中程にあって大きさは20坪ほどの茅葺の小さなもので、その家で診療や研究を行っていたそうです。<br /><br />1804年(文化元年)青洲が麻酔を使った乳ガン手術に成功し、その名声が広く知られると、全国から患者が押し寄せ、青洲の華岡流外科を是非学びたいとたくさんの入門希望者がやってくるようになりました。今のままでは充分な診療や門下生の指導を行えないと考えた青洲は思い切って新しい診療所を建設することを決め、建坪220坪(660平方メートル)というかなり大きな屋敷の新築工事を始めました。

    真門左手にある案内所で入場料・600円を払います。

    華岡青洲がもともと住んでいた家は現在の春林軒と華岡家墓地との中程にあって大きさは20坪ほどの茅葺の小さなもので、その家で診療や研究を行っていたそうです。

    1804年(文化元年)青洲が麻酔を使った乳ガン手術に成功し、その名声が広く知られると、全国から患者が押し寄せ、青洲の華岡流外科を是非学びたいとたくさんの入門希望者がやってくるようになりました。今のままでは充分な診療や門下生の指導を行えないと考えた青洲は思い切って新しい診療所を建設することを決め、建坪220坪(660平方メートル)というかなり大きな屋敷の新築工事を始めました。

  • 主屋です。<br /><br />青洲が活躍した当時の建物です。平成9年(1997年)に、修復。<br /><br />見えているのは東南角部屋の客間。

    主屋です。

    青洲が活躍した当時の建物です。平成9年(1997年)に、修復。

    見えているのは東南角部屋の客間。

  • 青洲はこの木の香しい屋敷を「春林軒」と名付けました。「楽水堂」とも呼んでいたようです。<br /><br />客間で床の間を背に座っているのは華岡青洲。

    青洲はこの木の香しい屋敷を「春林軒」と名付けました。「楽水堂」とも呼んでいたようです。

    客間で床の間を背に座っているのは華岡青洲。

  • ふすま絵も素晴らしいですね。<br /><br />おそらく文化年間(1804年〜1816年)の中頃か末頃の完成であったであろうと言われています。

    ふすま絵も素晴らしいですね。

    おそらく文化年間(1804年〜1816年)の中頃か末頃の完成であったであろうと言われています。

  • 客間の隣は婦人手術室。<br /><br />仕切りで小部屋になるよう配慮されています。

    客間の隣は婦人手術室。

    仕切りで小部屋になるよう配慮されています。

  • 隣接する手術室兼薬調合室。<br /><br />手術での患者の苦しみを和らげ、人の命を救いたいと考え、研究を重ねた結果、曼陀羅華(まんだらげ)の実(チョウセンアサガオ)、草烏頭(そううず、トリカブト)を主成分とした6種類の薬草に麻酔効果があることを発見した華岡青洲。<br /> <br />

    隣接する手術室兼薬調合室。

    手術での患者の苦しみを和らげ、人の命を救いたいと考え、研究を重ねた結果、曼陀羅華(まんだらげ)の実(チョウセンアサガオ)、草烏頭(そううず、トリカブト)を主成分とした6種類の薬草に麻酔効果があることを発見した華岡青洲。

  • 隣接する診察控え室。<br /><br />向こうは茶の間。

    隣接する診察控え室。

    向こうは茶の間。

  • いろりのある茶の間。<br />

    いろりのある茶の間。

  • 茶の間に隣接する炊事場(土間)<br /><br />医学生、入院患者を含めるとかなりの量を料理していたと思います。

    茶の間に隣接する炊事場(土間)

    医学生、入院患者を含めるとかなりの量を料理していたと思います。

  • 主屋北側(ちょうど薬調合室の裏)にある居間。

    主屋北側(ちょうど薬調合室の裏)にある居間。

  • 奥居間(客間の裏に位置する)音声付きの展示<br /><br />横たわるのは青洲の妻加恵(まだ麻酔から覚めていない)<br />うちわを扇ぐのは母於継(おつぎ)、見つめるのは華岡青洲。<br /><br />実母の於継と妻の加恵が実験台になることを申し出て、数回にわたる人体実験の末、於継の死・加恵の失明という大きな犠牲の上に、全身麻酔薬「通仙散」(別名、麻沸散-まふつさん)を完成させる。<br />

    奥居間(客間の裏に位置する)音声付きの展示

    横たわるのは青洲の妻加恵(まだ麻酔から覚めていない)
    うちわを扇ぐのは母於継(おつぎ)、見つめるのは華岡青洲。

    実母の於継と妻の加恵が実験台になることを申し出て、数回にわたる人体実験の末、於継の死・加恵の失明という大きな犠牲の上に、全身麻酔薬「通仙散」(別名、麻沸散-まふつさん)を完成させる。

  • 長屋には内塾(門下生の部屋)薬調合所、薬貯蔵所が入っています。<br /><br />調査資料に基づいて復元されたものです。<br /><br />当時、紀州藩主であった徳川治宝は、青洲の実力を高く評価し、享和2年(1802年)青洲に接見し、帯刀を許しました。紀州藩は青洲を侍医として迎えようとしましたが、「公職に就くと一般患者の診療ができなくなる」という理由で一旦は辞退しています。

    長屋には内塾(門下生の部屋)薬調合所、薬貯蔵所が入っています。

    調査資料に基づいて復元されたものです。

    当時、紀州藩主であった徳川治宝は、青洲の実力を高く評価し、享和2年(1802年)青洲に接見し、帯刀を許しました。紀州藩は青洲を侍医として迎えようとしましたが、「公職に就くと一般患者の診療ができなくなる」という理由で一旦は辞退しています。

  • 便所(右端)と3病室。<br /><br />

    便所(右端)と3病室。

  • 物置2階看護婦宿舎から病室が見える。<br /><br />紀州藩から再度の要請があり、文化10年(1813年)に「小普請医師格( こぶしんいしかく)」として任用されました。公職に就いても一般患者の診療を続けたいという青洲の願いは認められ、小普請医師格になってからも平山で住み続けることを許されました。

    物置2階看護婦宿舎から病室が見える。

    紀州藩から再度の要請があり、文化10年(1813年)に「小普請医師格( こぶしんいしかく)」として任用されました。公職に就いても一般患者の診療を続けたいという青洲の願いは認められ、小普請医師格になってからも平山で住み続けることを許されました。

  • 再びフラワーヒルミュージアム(食事をした建物)に戻り、展示室で華岡青洲の遺品などを見ました。<br /><br />

    再びフラワーヒルミュージアム(食事をした建物)に戻り、展示室で華岡青洲の遺品などを見ました。

  • エントランス以外は撮影禁止です。<br /><br />当時の手術で摘出した結石や愛用の手術用メガネなどを展示してありました。<br /><br />

    エントランス以外は撮影禁止です。

    当時の手術で摘出した結石や愛用の手術用メガネなどを展示してありました。

  • 青洲の里から山道を下りJR名手駅方面へ。<br /><br />小田井用水に時々遭遇しました。<br />江戸時代の恩恵に未だ浴しています。

    青洲の里から山道を下りJR名手駅方面へ。

    小田井用水に時々遭遇しました。
    江戸時代の恩恵に未だ浴しています。

  • 名手八幡神社にも寄りました。<br /><br />この神社は皇族方が熊野詣等御行幸啓の折、神功皇后がその昔当応神山に御駐輦なされた古事に依り、御旅所として定められた神社です。

    名手八幡神社にも寄りました。

    この神社は皇族方が熊野詣等御行幸啓の折、神功皇后がその昔当応神山に御駐輦なされた古事に依り、御旅所として定められた神社です。

  • 和歌山といえばミカン・・いたるところにミカン畑があり白いミカンの花が咲いていました。

    和歌山といえばミカン・・いたるところにミカン畑があり白いミカンの花が咲いていました。

  • 駅近く光明寺に立ち寄りました。<br />

    駅近く光明寺に立ち寄りました。

  • 1583年に植栽されたという松が境内を覆い尽くすように拡がっていました。

    1583年に植栽されたという松が境内を覆い尽くすように拡がっていました。

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