1974/12/06 - 1974/12/14
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ノスタルジアさん
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今から41年前の昭和49年7月23日から3月7日までの225日間かけて
ナホトカ航路、シベリア鉄道を往復して
ヨーロッパ、モロッコを船、列車、バス、ヒッチハイクで旅しました。
高所恐怖症なので飛行機には現在まで一度も乗った事がありません。
乗り物による移動距離は60,806.8キロ、地球1.52周でした。
観光白書によると昭和49年の日本人の海外旅行者数が200万人、
平成24年度は1849万人、40年ほどで10倍近くなりました。
そんな当時の旅行の資料と写真を少しづつアップして行きます。
今回はモロッコ、天気が良かったのに写真が少ないのです。
イスラム圏は偶像崇拝禁止の為、
撮りたかった人々から拒否された結果です。
モロッコに行ってからは、訪れたい国は開発途上国になった。
https://www.youtube.com/watch?v=EPSzkpNucV8
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- ホテル
- 5.0
- ショッピング
- 5.0
- 交通
- 5.0
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 鉄道 高速・路線バス 船 レンタカー ヒッチハイク 徒歩
-
旅行記の周辺地図
昭和49年12月6日
グラナダ〜アルヘシラス
12月7日
アルヘシラス〜フェリー〜アフリカスペイン領セウタ〜テトアン〜
12月8日
〜マラケシュ
12月9日
マラケシュ〜カサブランカ
12月10日
カサブランカ〜フェズ
12月11日
フェズ
12月12日
フェズ〜テトアン〜スペイン領セウタ〜フェリー〜アルヘシラス
12月13日
アルヘシラス〜ヒッチハイク〜マラガ〜
12月14日
〜マドリード -
昭和49年12月6日
グラナダ〜アルヘシラス 列車予約カード -
昭和49年12月7日
アルヘシラス〜スペイン領セウタ
8時00分発のフェリー切符 122ペセタ621円
セウタはアフリカにあるスペインの飛び地である。 -
昭和49年12月7日
スペイン領セウタ入国スタンプ -
昭和49年12月7日
スペイン領セウタ出国スタンプ -
昭和49年12月7日
スペイン領セウタ11時00分発テトアン行のバス切符 座席21番
料金20ディルハム 1,364円
スペインのアルヘシラスからフェリーでジブラルタル海峡を渡り、
スペイン領セウタに着き、バスでモロッコのテトアンに午後1時過ぎ着いた。 -
昭和49年12月7日
モロッコ テトアン観光案内所で
20ドル5,700円を83.60ディルハムに両替 1ディルハム68.18円
セウタでテトアンまでのバス代程度しか両替してなかったので、
セウタで両替しようとしたら、銀行、両替所、観光案内所が全て
昼休みで閉まっていた。
4時にやっと案内所が開き、両替を終えて、バス時間を訊くと
フェズやカサブランカ行くバスは全て出発済みで後は無いと言う。
「さて、どうするか。」と思っていたら、
フェリーで一緒だった男性2人、女性3人のアメリカ人グループから
声を掛けられた。
「バスが無いからレンタカーでマラケシュへ行くが、一緒に行かないか、
ガソリン代は割り勘で。」と誘ってくれたので、
渡りにレンタカー、と思って一緒に行く事にした。
レンタカーはフォルクスワーゲンのワゴン車だった。
出発したのは夕食後の8時頃だった。
砂漠の中を猛スピードで突っ走り、寝ていたら、
途中、2度ほど砂溜まりにぶつかって目が覚めた。
給油スタンドは深夜でも開いていた。
午前2時頃、起されて外に出ると眠気が吹っ飛んだ。
見上げると手が届きそうなところに宝石の様に輝く満天の星、
その眩いまでの無数の星の中から時折り、どこまでも続く
砂漠の地平線に向かって光の糸を引いて落ちる流れ星・・・、
何もかもが初めて見る凄い星空だった。
5000年前に星座を作ったメソポタミアの砂漠の遊牧民たちも
同じ星空を見ただろうと思いを馳せた。
アメリカ人達も言葉も交わさず黙って見上げていて、
女性の一人は感動のあまり涙を流していた。 -
昭和49年12月8日
モロッコ マラケシュ ジャマ・エル・フナ広場
マラケシュまでの620キロ、飛ばしに飛ばして8時間余りで
午前4時過ぎに着いた。
夜が明けるまで車の中で寝て、彼らと別れた。
ジャマ・エル・フナ広場は、旧市街地にあり、
11世紀後半にマラケッシュが首都であった頃から
街の中心となっていた広場でかつては公開処刑なども行われていた。
へび使いの大道芸人や金属細工品、革製品、お土産用の民芸品、
飲食店などの店が所と軒を並べ、混然とした市場の賑わいを見せていた。
こんな面白い広場は初めてであった。1日中いても飽きなかった。 -
昭和49年12月8日
マラケシュ ジャマ・エル・フナ広場
広場に一歩入るとたちまち四方八方から
「ジャポン!、カラテ!、カンフー!、ブルース・リー!」
と声が掛かり、客引きが群がり腕を取ってそして自分の店に連れ込もうとする。
当時、モロッコでブルース・リー、カンフーブームで日本人を見ると
「アチョー」と声が掛けられた。
ブルース・リーは日本人と思ってるようで、
また、日本人は皆、空手、カンフーをやっていると信じている様だった。
若者2,3人から「ブラックベルトか?」と訊かれ、
見くびられてはいけないと思い、「そうだ。」と
自信を持って答えたら、オゥーと歓声が上がった。
一人がレンガ5,6個持って来て積み上げて、これを「額で割れ。」と
言い出した。
割れる筈がないので困りながら腕を組んでいたら、
3段にして、これ位なら行けるだろう、という感じで迫られた。
額に手を当てながら「今日は熱があって体調が悪くて出来ない。」
とジェスチャーで、言い訳は通じたようだったが、
その目は全く信じていない様だった。 -
昭和49年12月8日
マラケシュ ジャマ・エル・フナ広場で
夏、着ていたデニム地のシャツと革のショルダーバッグ
(上の画像で持っているバッグ)と交換した。
モロッコ人から持ちかけられ、これから冬に向かうので必要なくなるので、
即座にOKした。
しばらくして彼に会ったらもうシャツを着ていた。
写真に撮りたかった。 -
昭和49年12月8日
マラケシュ ジャマ・エル・フナ広場で
モロッコの民族衣装ジェラバ2着を買った。
ウール地でいまだに着ているが破れたりせず実に丈夫である。 -
昭和49年12月8日
モロッコ マラケシュ ジャマ・エル・フナ広場
カメラのストロボの発光で露店の食堂の赤い服を着た
親父さんが写真に気付きすっ飛んで来てすごい見幕で怒鳴られた。
深く謝って何とか収まった。
モロッコに入ってイスラム教の偶像崇拝禁止から人の写真(特に女性)を
撮る時は必ず断って了解を得てから、と知っていながら
撮ってしまった事を反省した。
それまで、それ以降、イスタンブールでも誰からも
写真撮影の了解は得られなかった。
2006年にヨルダン、エジプト、リビアを訪れた時は、若い女性も含めて
拒否された事は一度も無かった。 -
昭和49年12月9日
モロッコ マラケシュ
20ドル5,700円を83.60ディルハムに両替 1ディルハム68.18円 -
昭和49年12月9日
マラケシュ12時30分発カサブランカ行のバス切符 座席19番
料金17.3ディルハム 1,193円 -
昭和49年12月9日
マラケシュ発カサブランカ行きのバスが休憩した町。 -
昭和49年12月10日
カサブランカ
バスは18時過ぎにカサブランカに着いた。
映画「カサブランカ」のイメージは全く無かった。
大都会である。
市内を1日中ぶらぶらしたがどうってことはなかった。
やはりバザールが無いと面白くない。
喫茶店で甘すぎるケーキとコーヒーを飲んでいたら、
モロッコ人が寄って来て「タナカ、フィニッシュ!」と言いながら
手の平で首を切る仕草と金を貰う仕草ををした。
どうも田中角栄首相が辞めたらしい、と分かった。
マドリードのホステルアマデオに戻って、日本人に尋ねたら
12月9日に退陣した事が判った。
モロッコには早くも翌日には伝わっていたのだった。 -
昭和49年12月10日
カサブランカ
カサブランカは、モロッコの商業・金融の中心地で、
アフリカ有数の世界都市でもある。
カサブランカとはスペイン語で「白い家」の意。
第二次世界大戦後の1956年にモロッコがフランスから独立し、
フランスはカサブランカから撤退した。
その後カサブランカはモロッコ最大の都市として繁栄し、
世界各国から観光客が訪れ、モロッコの経済の中心地の地位を占めている。 -
昭和49年12月10日
カサブランカ13時00分発フェズ行のバス切符 座席9番
料金20.85ディルハム 1,422円 -
昭和49年12月11日
フェズ 10ドル2,850円を41.80ディルハムに両替 1ディルハム68.18円 -
昭和49年12月11日
モロッコ フェズ ブー・ジュルード門
モロッコ最古の都として1200年の歴史をもつフェズの名物は
「世界一複雑な迷路」と呼ばれる世界遺産のメディナ(旧市街)である。
メディナは城壁に囲まれた2.2km×1.2kmほどの地域で、
ブー・ジュルード門から入ると、そこは全くの別世界で狭い路地が
網の目のように張り巡らされ溢れんばかりの人間と馬やロバが
けたたましく行き交っていて、辺りには革製品、ジェラバなど民族衣装、貴金属、香辛料、生活用品、食べ物を売る店など種々雑多な店が立ち並び
活気に溢れていた。
ここもマラケシュと同じく1日中いても飽きることはなかったが、
何種類もの香辛料の鼻をつく臭いは強烈でマドリードに戻っても
衣服から加齢臭ではなくカレー臭はなかなか抜けなかった。 -
昭和49年12月11日
フェズ メディナ(旧市街)の城壁 砲弾の跡が多数残っている。
城壁の中にメディナがある。 -
昭和49年12月11日
フェズ メディナ(旧市街)の城壁
城壁の中にメディナがある。 -
昭和49年12月11日
フェズ メディナ(旧市街)の城壁
城壁の中にメディナがある。 -
昭和49年12月11日
フェズ 王宮前広場で -
昭和49年12月12日
フェズ6時15分発テトアン行のバス切符 座席3番
料金20.75ディルハム 1,415円
モロッコが面白かったので、フェズからアルジェリア、チュニジアを
経てイタリアのシチリア島に入るのを検討したが、
一番大事な交通について、行って見ないと分からない状況、
だったので断念したのである。
今となっては行っておけば良かった、行ける時に行くべきだった、
と後悔している。 -
昭和49年12月12日
牛の頭を飾って新鮮さをアピールする屋台
フェズからテトアンへバスで向かう途中、昼食の為
立ち寄った屋台で、牛肉のケバブを食べた。
その時、牛の頭が吊り下げられているのに気が付いた。
飾りかと思って見ると、目が開いている本物で
血がしたたり落ちていて、ハエが群がっていた。
店の看板代わりと思ったら、今、屠殺したばかりで新鮮さをPRする為らしい。 -
昭和49年12月12日
フェズからテトアン行のバスの中から
このルートは青空に太陽がまぶしく、どこまでも砂漠が続クと思ったら、
赤茶けた大地に岩石がごろごろとあったり、時折りロバに乗った人遊牧民に
出合ったりして、いかにも北アフリカらしい風景だった。 -
昭和49年12月12日
フェズからテトアン行のバスの中から -
昭和49年12月12日
フェズ〜テトアン バスの運転手の食事休憩で -
昭和49年12月12日
フェズからテトアン行のバスの中から
フェズを6時15分に出たバスが、午後3時過ぎにテトアンに着いた。
347キロの距離を何と9時間余りもかかったのだった。
運転手が途中2度も食事休憩するし、はるか遠く砂漠の中から手を振って
走って来る乗客を停留所でもないのに、停めて待って乗せたり、降ろしたり、
今日中にフェリーに乗れるか心配だった。 -
昭和49年12月12日
テトアン15時30分発スペイン領セウタ行のバス切符 座席1番
料金28.00ディルハム 1,909円 -
昭和49年12月12日
スペイン領セウタ入国スタンプ -
昭和49年12月12日
スペイン領セウタ出国スタンプ -
昭和49年12月12日
スペイン領セウタ〜アルヘシラス20時30分発のフェリー切符
122ペセタ621円 -
昭和49年12月13日
アンダルシア地方の地中海沿いは太陽の海岸と云われている。
アルヘシラスからマラガまでの241.1キロ、汽車が無いので、
ヒッチハイクする事にした。
これが大変だった。9時半頃から始めたが全然止まらず、ようやく12時近くに
なって車が停まり、それからは順調に行った。
マラガまでの海岸沿いの国道340号線は太陽の海岸と呼ばれるだけあって
風光明媚でヒッチハイクを楽しんだ。 -
昭和49年12月13日
スペイン マラガ駅荷物預り証 10ペセタ51円 -
昭和49年12月13日
マラガ22時00分発マドリード行き列車予約カード
G.1号車 1等 SR席
この夜行列車は暖房が切れて散々な目に遭った。
午前4時半頃から寒さに震えて死にそうだった。
昨日までの暑さが嘘のようであった。
アマデオに帰って1週間ぶりに温かいシャワーを浴びたら
やっと落ち着いた。
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