2015/01/11 - 2015/01/11
234位(同エリア747件中)
ころたさん
千葉県佐倉市に国立歴史民俗博物館がある。その周辺には武家屋敷なども残っていて、何やら街全体に歴史の香りが漂っている(ようなことを聞いていた)。よっしゃ! 先週のさきたま古墳公園の続きで、今月は歴史月間と行こう!
- 旅行の満足度
- 3.5
- 観光
- 4.0
- 交通
- 3.0
- 同行者
- 家族旅行
- 交通手段
- 自家用車
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歴史民族博物館は千葉県佐倉市にある。東名横浜町田IC近くの我が家から、東名→首都高→東関道を経て四街道ICで降りた。歴博まではあと10分。
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佐倉市内の中華料理屋でランチを取ってから、佐倉城址公園へ。
歴博の駐車場に車を停めた。無料。 -
歴博は佐倉城址公園と同じ敷地内にある。
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1月第2日曜の今日は穏やかに晴れた冬の日だ。
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これが歴史民族博物館。さすが国立の博物館だ。建物の巨大さに度肝を抜かれた。写っているのは全体の1/4くらいか。
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入り口はちょっと地味。
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公園内に「くらしの植物苑」なる施設があった。
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歴発のエントランスロビー。右手にチケットカウンター。右手では各地の歴史博物館の情報資料が手に入る。
入館料 一般420円、高校生250円を支払う。中学生以下は無料だ。 -
歴博の展示室は時代毎に6つ。その一つ一つの大きいこと!
第1展示室は古代から奈良時代まで。 -
各地の縄文式土器を比較している。
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高床式住居のモデル。歴博には数多くのレプリカやジオラマが展示されている。
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縄文時代の仮面。
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埴輪も地方毎に違いがある。
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縄文時代の住居跡のレプリカには、家族の化石が。
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遮光器土偶も各地でいろいろ。
それにしてもこの遮光器土偶、不思議な形をしている。よく言われる「宇宙人説」に納得するわ。 -
古代の道具類を見る娘ら。ちゃんと理解しているのかな?
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箸墓古墳のレプリカは後ろ側が断面モデルになっていて、墓室内部が見える。
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もう20年も前、箸墓古墳から大量の銅鏡が発見されたのを、憶えているだろうか?当時は大阪に住んでいて、発見直後の箸墓古墳で発見されたままの銅鏡のお披露目があった。2日間だけのそのチャンスに出かけていったっけ。
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あの日は土砂降りになってしまって、お披露目会は途中で中止になってしまった。そのぎりぎりのタイミングで、まさにナマの銅鏡を見ることができた。
その銅鏡のレプリカも展示されている。 -
5世紀の集落のジオラマ。ちゃんと人々もいる。
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おなじみの埴輪。これも地域ごとに特徴がある。
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奈良時代には実存した羅生門。
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門の脇には古代人も見える。
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全国にある神体山と神島、つまり信仰の対象となっている山や島の位置を示す地図。
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その代表である沖ノ島は、福岡県の玄界灘にある。宗像大社の神領で、沖津宮が鎮座する。今でも女人禁制であり、通常、人が上陸することはできない。写真は島の代表的遺構。
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「海の正倉院」と呼ばれる沖ノ島から出土した品々。
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第二展示室に移動。平安時代の貴族の暮らしぶり。
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十二単は冬の装い。1月の展示は写真の通りの十二単だが、暖かい季節になると展示品も平安時代の夏装束になるという。
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平安時代の街の様子。
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その細工の細かいこと!
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田楽を始めとする演芸の原型の数々は室町時代に始まった。
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そして時代は江戸時代に。鎖国中にも長崎出島を通して交易ルートはあった。
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日本からの輸出品。生糸や金・銀、昆布などの海産物。
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こちらは江戸の寺子屋を再現して、ボランティアの方が子供たちに当時の手習いを教えている。
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伊能忠敬が日本地図を作った時に用いたコンパスと六分儀(の原型?)。
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同じ時代に作成された世界地図。ちゃんと日本語訳されている。
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こちらも。200年近く前の地図のレベルに驚かされる。
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日本の地図も。
伊能忠敬の日本地図は幕府から厳しく統制されていたはずなので、これは外国人の測量によるものか。 -
当時の世界の民族と、民族衣装。
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江戸時代の日本橋界隈の巨大なジオラマ。
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各地にあった街道の道しるべ。
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第四展示室は別棟。歴博はなんせ大きい。
ここまでで既に2時間半。 -
第四展示室は日本の風俗について。祭りや言い伝え。娘らは一番気に入っていたようだ。
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各地の祭りや祈祷が紹介されている。
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妖怪やおばけも登場する。
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多くは豊作や大漁の祈願であったり、魔除けであったりする。
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京都には玄関の魔除けに飾り物をする風習がまだ残るという。
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各地の雛人形などの人形も展示。
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あぁ〜、もう疲れてきた。何より娘らの集中力がまるでない。
歴博、でかすぎ。とても1日じゃ回れません。 -
第4展示室から第5・第6展示室に移る廊下に並んだ、道標の数々。
えぇ〜と、この辺から見学に力が入らなくなる。とりあえず第5展示室はパス! -
第6展示室は現代。
第2次大戦時の出征兵士を送る幟や、召集令状。 -
一方、米軍は兵士に対してこのような教育をしていたとのこと。「兵士は外交官たれ」と。
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日本の市民に対しても丁重な扱いをしている、と米国内向けのメディアには報告していた。
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一方で市民を根こそぎにした原爆投下。まさに何もなくなった広島の写真に、今更ながら悪寒が走る。
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戦争なのだから、国内向けのプロパガンダと、相手国への残虐な仕打ちが同居することは、どこででも行われてきた事だが・・・
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これは終戦後の広島市民への調査票。これははっきり言って実験材料に対するデータだ。病状を心配するカルテではない。
戦争とはそう言うものだ。 -
ここでもう力が尽きた。歴博を出よう。
佐倉城址に向かった。 -
あたりにはもう夕闇が迫ってきている。ちょっと忙しい散歩になるな。
振り返って見える歴博は、やっぱり巨大だ。 -
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残念ながら佐倉城の建物は何も残っていない。その跡だけが当時を忍ばせる。
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佐倉市は江戸から明治初期の蘭学の中心であった。佐倉藩主 堀田正睦に招かれた佐藤泰然が、佐倉に蘭学塾である順天堂を開いたことによる。
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堀田正睦は幕末に老中として日本開国に寄与した人物。蘭学を奨励したことでも分かるように、開国派である正睦は波乱の生涯を送ったとされる。
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その正睦と交渉したアメリカ総領事タウンゼント・ハリス。こっちは歴史の教科書でもおなじみだが、堀田正睦の名を知る人は少ない。
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正睦は日米修好通商条約の締結に奔走したが、時の朝廷・幕府ともこれに賛同する者は少なかったようだ。アメリカ側の圧力に屈する形で条約が締結した4日後、正睦は老中を罷免されたという。
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その後、井伊直弼により佐倉城に蟄居処分となった正睦は、1864年に城内で死去したという。享年55歳であった。
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そんな正睦の佐倉城には、石垣も水堀もない。城の周囲は空堀で囲まれているだけだ。
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公園の一画にあるこの建物、
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なにやら和風だが何かと言うと、なんとトイレ。
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内部もトイレと言うより「雪隠」と呼びたい。
あっ、便器は普通に今風です・ -
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佐倉を何度か訪れたという正岡子規の句碑
「常盤木や冬されまさる城の跡」
ちなみに子規は私の高校の大先輩になる。(蛇足・・) -
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この辺に一の門があった。
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城は石垣ではなく土塁で守られていた。
本当の戦になったら、どの程度効果があったかは疑問。 -
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本丸があったのは、小高い丘の上。
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本丸跡から城趾全体を振り返る。小藩にふさわしい控えめな城だったのだろう。
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本丸から佐倉市内を眺望する。
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ぐるっと全周が見渡せる。
佐倉は穏やかな街だ。 -
1月の夕暮れは早い。
ぼちぼち東京に帰ろうかな。
なんせ歴博に時間を食いすぎて、武家屋敷も町並みも見られなかった。今度はもっと早く来るぞ!
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