1974/08/11 - 1974/08/14
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ノスタルジアさん
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今から41年前の昭和49年7月23日から3月7日までの225日間かけて
ナホトカ航路、シベリア鉄道を往復してヨーロッパ、モロッコを
船、列車、バス、ヒッチハイクで旅しました。
高所恐怖症なので飛行機には現在まで一度も乗った事がありません。
乗り物による移動距離は60,806.8キロ、地球1.52周でした。
観光白書によると昭和49年の日本人の海外旅行者数が200万人、
平成24年度は1849万人、40年ほどで10倍近くなりました。
そんな当時の旅行の資料と写真を少しづつアップして行きます。
今回は、7月23日に横浜出港して12,862.5キロでミュンヘンです。
取りあえずビールで乾杯!
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- ホテル
- 5.0
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 鉄道 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
-
旅行記の周辺地図
-
ユースホステル協会が発行が発行しているヨーロッパ版
これは重宝した。
プラハ発23時24分発の夜行で9時31分にミュンヘンに着いた。
途中、激しい雨に遭ったが、南ドイツの田園風景が美しかった。
駅前に立つと快晴だったせいか、街全体が東欧の都市に比べ、
明るく華々しく見えた。それは快晴だったせいか、商業広告の看板
のせいか、多くの車のせいだったかもしれない。
中でも一番良かったのは、街行く誰もが自分をジロジロと見たりしなかった事
である。 -
掲載されている情報はこれだけなのでたどり着くのは大変だった。
ヨーロッパのユースホステルは日本と違って全て予約無しで泊まれた。
新しい街に着いてすぐやる事は宿の確保である。
幸いミュンヘンには世界一の収容能力585名のユースホステルがある。
チェックインして驚いたのは日本人がいっぱいいたのである。
情報を日本語で得られるのは心強い。
-
ヨーロッパユースホステルの旅
ほとんどの宿泊はユースホステルだったので、
貴重な本だったが何分にも掲載されている数が少なかった。
旅行中、一番目に付いたのはアメリカ人、次にカナダ人、日本人、
オーストラリア人と続く。
特にカナダ人はリュックに真っ赤なメープルリーフの大きな国旗を貼り付けて
旅行するのでやたら目立っていた。
こうすると何と国からお金が出るとか。
それは1965年に制定された新しい国旗を世界に広める為に
旅行する若者達にお金を払って依頼したとか。 -
ヨーロッパユースホステルの旅
ミュンヘンはこのユースホステルに泊まった。
欧米人、特にアメリカ人の女性は愛想が良く、フレンドリーである。
ユースホステルのロビーや、食堂に行くと目が合うなり初対面なのに、
「Ha-i」と微笑みながら声を掛けて来る。
日本ではそんな事は有り得ない事なのでつい勘違いしてしまう、
「俺は日本ではモテないが、欧米人にはモテるタイプなのかも」と。
気になる彼女たちを見ているとすぐに勘違いに気づく。
彼女たちは誰にでも「Ha-i」と微笑みながら声を掛けているのである。
女性だけでは無く、男性も相手が男性だろうが、女性だろうが気軽に
声を掛けて交流しているのである。
これは今後の旅行に大変参考になった。 -
ユースホステル会員証
彼らを見ていて気付いた。今までソ連や東欧で日本人への物珍しさから、
ジロジロ見られていて自分は恥ずかしさの余り萎縮していた。
これからはジロジロ見ている人がいたらこちらから「Ha-i」と言って
近付こう、と決めた。
これは効果てき面であった。関心があるからジロジロ見ているので、
話しかければ喜んでくれて何かと親切にして貰えるのである。
何よりも見知らぬ国、開発途上国に行っても気楽に旅する事が出来た。 -
ユースホステル宿泊記念スタンプ
日本と違ってスタンプの大きさはまちまちで
しかも空いてるところに順々ではなくテキトーに押すのである。 -
ミュンヘンのユースには8月11日から3泊した。
-
昭和49年8月11日
ミュンヘン ホーフブロイハウスで
ミュンヘンと云えば取りあえずビールと云う事で
有名なホーフブロイハウスへユースホステルで一緒の
日本人とアメリカ人数人で行った。 -
昭和49年8月11日
ミュンヘン ホーフブロイハウスで
ホーフブロイとは宮廷醸造所と云う意味で、今を去る350年前、
選挙候ウィルヘルム五世が造ったものである。
現在の建物は1897年に建てられ、1階から3階まで合わせると
約7千人を収容出来る大ビヤホールである。
3階の祝祭ホールは1923年11月にヒトラーがナチス党決起大会を
開いた所である。 -
昭和49年8月11日
ミュンヘン ホーフブロイハウスで
バイエルン風の皮の半ズボン、チョッキ、チロルハット姿の
ブラスバンドが陽気な曲を奏で、数千の客がそれに合わせて肩を組み、
大波のように揺れながら歌ったり、見ず知らず同士が手を繋いで場内を
踊り回ったりするのである。 -
昭和49年8月11日
ミュンヘン ホーフブロイハウス
メニューの表紙 -
昭和49年8月11日
ミュンヘン ホーフブロイハウス
のメニューの裏表紙 -
昭和49年8月11日
ミュンヘン ホーフブロイハウス
8月10日のメニュー -
昭和49年8月11日
ミュンヘン ホーフブロイハウス
8月11日のメニュー -
昭和49年8月11日
ミュンヘン ホーフブロイハウス
メニュー -
昭和49年8月11日
ミュンヘン ホーフブロイハウス
メニュー -
昭和49年8月11日
ミュンヘン ホーフブロイハウス
コースター -
昭和49年8月12日ミュンヘン
20ドルを5700.2円両替 1ドイツマルク112.65円 -
昭和49年8月12日
ミュンヘン 聖母大寺院
93mの鐘楼からミュンヘン市街地 -
昭和49年8月12日
ミュンヘン 聖母大寺院
93mの鐘楼の子供入場券
0.75ドイツマルク90円
受付嬢にキンダーと云ったら笑いながら
子供用入場券にしてくれた。 -
昭和49年8月12日
ミュンヘン 新市役所
新市役所は1908年に建てられたネオ・ゴシック様式の壮麗な建築物。
塔の中ほどにミュンヘン名物の巨大なグロッケン・シュピール(音楽鐘)がある。
鐘は最高音を出す10キロのものから最低音を出す1300キロのものまで
合計43個もあり、3オクターブ半の音域を持つ。
この新市役所を建てる時、たまたま古いグロッケン・シュピールが
見つかったのでここに取り付けたのだという。
毎朝11時にはグロッケン・シュピールに連れて実物の2倍大もある
人形の群れが次々に現れ、演技するので、下の広場は見物人で埋まる。 -
昭和49年8月12日
ミュンヘン 新市役所
人形の群れは1568年に行われた領主ウィルヘルム候とロートリンゲン候女
レナータ姫の婚儀を祝する馬上試合を表す。
まず、上の甲冑をつけた衛士がカンカンと鐘を叩くと、グロッケンが
「バイエルンの酒造り」という民謡を奏し始め、トランペットと旗を持った
触れ役が左右から現われ試合開始を告げる。 -
昭和49年8月12日
ミュンヘン 新市役所前で
上段には候と花嫁の姿が見える。ついで馬上に槍を構えた青の騎士と
赤の騎士が現れる。青はバイエルンの色(市の旗なども皆青がモチーフとなっている)だ。鑓を合わすこと2回目で赤の騎士は突き倒され、バイエルンの勝利だ。
下段にはバイエルンの郷土衣装を着た4人の男が現れ、勝利を祝ってクルクルと
廻りながら踊る。上の鳥が翼をはためかし、トキの声をあげて終わりになる。 -
昭和49年8月12日ミュンヘン
20ドルを5700.2円両替 1ドイツマルク116.33円 -
昭和49年8月12日
ミュンヘン 食料市場で
市場といっても、ただの広場に野菜、果物、肉、魚などの露店が出ている
もので、寺院や教会、宮殿ばかりでなく、こういう人々の生活の匂いが
立ちこめている所を歩き回るのも旅の楽しみの一つである。 -
昭和49年8月12日
ミュンヘン テアティーネ寺院で
1688年に完成したバロック様式の寺院。
優美な曲線を描く塔が特長。 -
昭和49年8月12日
ミュンヘン ウィッテルスバッハの噴水で
1895年に国王が造って市に寄付した彫刻で飾られた噴水。 -
昭和49年8月12日
ミュンヘン イギリス庭園でユースホステルで一緒だった
日本人達と -
昭和49年8月13日ミュンヘン
10ドルを2850.1円両替 1ドイツマルク120.00円 -
昭和49年8月13日
ミュンヘン コープでの買い物レシート
1.59ドイツマルク491円の買い物をして20ドイツマルクを払い
おつり18.41ドイツマルク2,209円を受け取る。 -
昭和49年8月13日
ミュンヘン ニュンフェンブルグ
ニュンフェンブルグ(ニンフの城と云う意味)はウィッテルスバッハ家の
夏の宮殿で1664年から1727年にかけて徐々に造られた。
外部はバロック様式だが、内装は繊細優美なロココ様式になっている。
庭園はベルサイユの庭園を設計したル・ノートルの弟子カルポネが
フランスから招かれて設計したもので、花壇、彫像、泉地などを幾何学デザイン
によって配した典型的なフランス式になっている。
まるでベルサイユの庭園のコピーのようだった。 -
昭和49年8月13日
ミュンヘン ニュンフェンブルクで
ここで日本から団体観光客のオバさん達5,6人から話しかけられ、話しをしていたら、これから自分たちの観光バスに一緒に乗って観光したらどうか、と誘われた。
気ままな一人旅なので一度は断ったが、「美しい名所旧跡ばかり見ていると飽きて退屈だし、あなたの面白い話しを訊きたいわ、どうせ席は空いているし、添乗員に掛けあうから」と添乗員を呼んで来て「この人乗せてあげて」
何事かと思って来た日本人男性の添乗員氏、私の顔を見ながら不機嫌な顔になって
いかにも胡散臭そうに頭から足元まで品定めでもするかのように見ながら
「最近、君みたいに何も考えず、何とかなるさ、と日本を飛び出して来て、
迷惑をかけている輩が多いので同じ日本人として迷惑している。」言い出した。
当時、流行っていたヒッピーだと決めつけているのである。
そこまで言われる筋合いは無いし、迷惑を掛けると思ったので、
「乗るつもりはありませんので」と云ったらオバさんたちが、
添乗員氏に「いいじゃないの、どうせ席が空いている事だし、添乗員さんお願い!乗せてあげて」
お客さんから言われた添乗員氏、仕方なく「乗っても良いよ。」
こちらもオバさん達の顔を立てて乗る事にしてバスの一番奥の後部席に乗った。
オバさん達は添乗員氏の観光案内にをほとんど無視して「ちゃんとご飯食べているの?、お金大丈夫?親に葉書とか手紙とか出している?」とか「シベリア鉄道ってどんな感じ?一人旅は寂しくないの?」質問はエンドレス状態。 -
昭和49年8月13日
ミュンヘン ニュンフェンブルクで
その間、添乗員氏の観光案内をオバさん達は聞き流していたので、
彼の表情は不機嫌そのもの。
私は一段高い奥の最後部席に一人だけで対面してマイクを握って説明している添乗員氏の表情はよく判るが、オバさん達は私の方に振り返って話すので添乗員氏の表情は判らないのである。
住む世界が違うのか、こちらの大して面白くもない返事にオバさん達がどっと沸いたりする度に添乗員氏の不機嫌さが増すのでこちらは気が気でならない。
フーテンの寅さんの世界みたいになってしまった。
このままでは大変な事になりそうだ、と思っていたらようやく次の観光地に
着いた。そこでの観光が終わり、またバスに乗る時に添乗員氏にお礼を述べて
乗るのを止めた。オバさん達、「もっと面白い話し聴きたかったのに残念、
寂しいなー」とか云いながら、持っていたたくさんの果物、お菓子を私のバッグに無理矢理入れたのだった。
バスが見えなくなるまで手を振ってくれた。
今でも添乗員氏には悪い事をして申し訳なかったと思っている。
優柔不断な実にほろ苦い体験だったのである。
以後、この様な事が有っても絶対に観光バスに乗らない事に決めたが、そんな機会は訪れなかった。パリとかローマとか歩いていると日本からの団体観光客のバスによく出合ったが、一瞬、こちらを見て、見てはいけない汚いものを見た、とばかり顔をそむける、そんな事が多かった。
今から思えばミュンヘンのオバさん達は優しく親切だった。 -
昭和49年8月10日〜11日
プラハからミュンヘンまでの移動距離571.2キロ、
横浜港からミュンヘンまでの移動距離12,420.8キロ
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