2014/12/09 - 2014/12/09
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石川啄木が晩年の数年間を勤めた京橋区の朝日新聞社は、今の住所でいうと銀座6丁目6-7の並木通りにありました。
京橋の滝山町の新聞社 灯ともる頃のいそがしさかな
結核に侵されながらも新聞社に通ったであろう啄木の短歌碑が旧朝日新聞社前に建っています。その碑を一度見てみたいと思い、日本橋から銀座まで歩きました。
日本橋から銀座8丁目まで行き、有楽町に近い旧滝山町をたどり、大手町駅までのぶらぶら歩きコースです。
- 旅行の満足度
- 4.5
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日本橋から出発です。
高札場をイメージした案内板、橋北詰西にあります。昭和11年に日本橋区が建設しました。
今日は一人旅、気楽で自由なぶらり旅です。好きな時に好きなだけ見学できます。さあ出発です。 -
日本橋にたたずんでいると川下りの船がやってきて、なにやら船客が手を振ろうとしているようです。
こちらが手を振ることを待っているんだろうな。手を振ってあげました。今度は向こうも思い切り手を振っています。
こんな経験は何度かあるけど、乗客側は手を振る心境になりやすいが、眺めている人の心境は微妙。どちらかというと眺めている側のサービス精神に依存しているようです。 -
橋南詰西に道路元標がありました。
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これが道路元標の複製です。横浜市まで29km、鹿児島市まで1469kmとあります。
本物は橋の道路上にあります。 -
道路を渡った橋北詰東側にある魚河岸跡の碑です。
中央の観音像はなんだろうと思って足元をみると乙姫広場とありました。
観音様ではなく乙姫様です。魚たちの守護神ということですかね。ところで乙姫様は神様ですか。
大正12年の関東大震災で被災するまで、魚河岸はここ日本橋北詰から江戸橋にかけてありました。 -
この西洋的な竜はなんだろう。日本橋の真ん中にありました。
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日本橋高島屋です。建物から気品が感じられます。
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「TAKASHIMAYA DEPARTMENT STORE」と刻まれたプレートが壁にありました。
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クリスマスシーズン、ウィンドーに飾られたトナカイたち。このトナカイは首が動いてる!
それにしても最近は街のクリスマスが静かになったと思うのは私だけでしょうか。 -
こちらは洋書の老舗丸善です。高島屋の向かいにあります。
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中央通り。室町通りや銀座通りの呼び名のほうが好きです。
写真は現実をオブラートで包みます。 -
東京駅八重洲から伸びる○○通りです。
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振り向くとレリーフが目に入りました。
ムム、平和の塔とある。 -
平和の塔の奥に丸いレリーフがふたつ。右はリーフデ号、左はヤン・ヨーステン像。
リーフデ号はオランダ船で日本へ難破して漂着しました。ウィリアムアダムスが出てくる「将軍」という映画がありました。
ヤン・ヨーステンは家康からこのあたりに屋敷をもらったので、八重洲の地名となったとか。この人、本当に海が好きだったのか最後は東南アジア沖で溺死してしまいました。 -
ヤンヨーステン 1557-1623とあります。享年66歳か。当時としては、結構年をとってまで、貿易で頑張っていたようです。
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京橋千疋屋の前を通ったので、ついパチリ。千疋屋といえば高級贈呈用の果実です。江戸時代から続く老舗です。なんでも日本橋千疋屋総本店からのれん分けした別の会社とか。
千匹屋でなく千疋屋です。最近千疋屋に行くことがあり、店名のいわれに興味がわいてます。一疋10文らしいが、反物の単位でもあるし、千疋屋のいわれはなんだろうとつい気になっています。 -
逆光にたそがれる中央通りですが、意外と車が少なく、自転車を走らせる人をちらほら見かけました。
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ここは京橋1丁目。
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京橋にあるローソンですが、店内に函館市のアンテナショップが入っているという珍しい店です。
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ここは鍛冶橋を通る鍛冶橋通りか。鍛冶橋が架かっていた外堀は埋められて、今はないが、名前だけでも残っているのはいいもんです。
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東京も秋から冬に変わろうとしています。
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京橋北詰に来ました。
若手歌舞伎役者の○○さんたちです。(素人ですみません) -
京橋北詰にまたまた江戸情緒がのこるものが。
ここは中村座跡とあり、江戸歌舞伎発祥の地とのこと。寛永元年とあるから今から400年近くも昔のことだ。 -
江戸歌舞伎発祥の地の碑です。このうらの広場は喫煙所になっていて、煙草を吸わない者にとってかなりしんどい史跡見学でした。
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今の歌舞伎とずいぶん違う感じ。こんな感じで踊るのがメインだったのでしょうか。歌舞伎は発展的進化を遂げてきたようです。伝統と革新の絶妙な調和を感じます。
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ドンとでかいタテ看が道にありました。つられてつい行ってみようという気になりましたが、場所はどこかわかりにくい。上の方に小さく徒歩10秒とありました。行ってみました。
100メートルほどありました。善意に考えるとこの看板は、必要に迫られ、次第に移動して京橋の大通りまで来てしまったのかもしれません。 -
ここ大舷というすし店で腹ごしらえをしました。
ちらし鮨1.5人前を注文。
あとから入ってきた客がまぐろ中落ち丼を注文すると、もう終わっちゃったの返事。まぐろ中落ち丼は人気のようです。 -
写真の許可を大将に得てからパチリ(ちょっとピンぼけです)
海老が大きいのにびっくり。「大きいですね」と思わず口に。トロが入っていて、貝もいい味に煮てありました。
「ごちそう様、美味しかったです」
「へーい毎度ありー」 はじめてですけど、また来ます。 -
高速道路の下は京橋川が流れていました。
その時、ふと思いました。東京の都市計画は川を埋め立てることで道路をつくってきたのではと。外堀はほとんど埋められました。日本橋川や竪川にも高速道路がかかっています。
最近こそ再開発というのがありますが、大略、道路をあまりいじらなかったおかげで、切絵図を見て往時の道をしのぶことができます。うれしいです。 -
ここから先が銀座です。銀座一丁目から始まります。
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かつての京橋の柱が三本残っていました。そのうちの一本です。「きやうはし」の文字。
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京橋の二つ目の柱です。「京橋」の字いり。奥に警察博物館がありました。
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近代的なデザインの京橋の柱です。
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京橋の親柱3本の説明板です。
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警視庁の警察博物館があったので、ちょっと寄ってみました。もちろん無料です。
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よく見かける警視庁のマスコットキャラ。ピーポくんです。
人々のピープルと警察のポリスを合わせた名前です。
けっこうな年齢で昭和62年の誕生ですので、今年27歳ですね。 -
1階は往年の白バイやヘリコプターが展示してあり、2階は警察制度や警視庁の創設者の川路利良を中心とする関係史料でした。
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京橋の親柱と銀座通りです。
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銀座1丁目のGINZA TANAKAに飾ってあったクリスマスツリーですが、これはプラチナでできているとのこと。
31kgのプラチナが使われ、31億円だそう。 -
銀座の中心部ワコーです。
戦前は銀座はここで終わり。ここから先は尾張町です。大正生まれの親戚は尾張町と言っていて、銀座とは言いませんでした。いつのまにか銀座が大きくなってしまいました。
勢いの良い地名は拡大していくようです。昔は広い地名でもだんだん小さくなることもあります。神田は神田駅の周辺だけが神田になってしまいましたが、昔は神田駅から御茶ノ水、水道橋まで神田○○町でした。
日本橋は頑張っていて、地名の上に日本橋を付けるようにしているとか。人形町は日本橋人形町、浜町も日本橋浜町と呼ばれています。 -
5丁目の鳩居堂です。かつて地価が一番高い所だったので、ついパチリです。
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銀座松坂屋の跡地です。すっかり解体されてしまいました。
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ライオンも健在です。
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銀座8丁目まで来ました。銀座の柳2世の文字が気になります。
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本日の目的地の一つ、銀座の柳の碑に着きました。
明治5年銀座の大火があり、その後煉瓦造りの建物に変わります。明治初年に銀座通りに並木を植えようとして、いろいろやってみて水辺に強い柳が定着しました。銀座は水位が高かったようです。
大正になり道路拡張のため柳並木の撤去。そして大正12年の関東大震災です。銀座から柳が消えました。
昭和4年「東京行進曲」♪昔恋しい銀座の柳♪のメロディーに柳復活ムードが盛り上がります。
昭和7年「銀座の柳」♪植えてうれしい銀座の柳♪作曲、銀座に柳が植えられました。
しかし太平洋戦争で東京は焼け野原に、銀座の柳も消えました。戦後すぐに柳を植樹し復活。
高度経済成長時、昭和40年代の銀座通りの大改修でまた柳が消えました。
昭和59年に苗床に銀座の柳が残っていて、二世柳が復活しました。
現在、銀座のあちこちの道に(大通りはないですが)柳が見られるようになりました。
銀座の柳は、植樹と撤去の繰り返しで変遷めまぐるしいですね。 -
植えてうれしい♪の「銀座の柳」の楽譜が彫られていました。
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銀座の柳への思いがかなしいです。
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啄木の歌に
あさ風が電車の中に吹き入れし 柳のひと葉 手にとりてみる
というのがありました。
啄木が生きた時代から考えると、この柳は明治に植えられた初代柳です。 -
次の目的地、啄木の新聞社を探しました。
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朝日新聞社は銀座6丁目6-7にありました。並木通りを目指して?柳並木をうろうろです。
昔恋しい銀座の柳 あだな年増を誰が知ろ♪
歌詞にジャズ、リキュール、恋の丸ビル、ラッシュアワー、粋な浅草、地下鉄、バス、小田急、かわる新宿・・という言葉が並ぶこの「東京行進曲」は昭和4年のものとは思えない新しさを感じさせます。 -
ついに見つけました。並木通りです。この先に啄木の朝日新聞社はあるはず。
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うす暗闇の光の中にぼうと建っているような----多分何かの碑のようです。
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これぞ紛れもない啄木の顔のレリーフと滝山町の短歌です。
京橋の滝山町の新聞社 灯ともる頃のいそがしさかな
石川啄木、明治42年3月朝日新聞入社、校正係配属、23歳
同年6月16日函館より母と妻を引き取り、本郷弓町の床屋「喜之床」の二階に住む。
明治45年4月13日死去。26歳。若いですね。
結核でした。当時の日本人は結核でバタバタと倒れていきました。啄木もそうしたひとりでした。
墓は函館の立待岬にあります。一度行ってみたいです。 -
このビルはアサヒ・ビルディングという建物で、現在改修中でした。
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碑の裏側は、啄木に因んでつくられたキツツキです。
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やや横からの啄木の肖像です。
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啄木の碑は、並木通りの三笠会館のある通りです。
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西銀座まで来ました。
年末宝くじ7億円ジャンボを買おうと長蛇の列です。これだけ売れればここからあたりは出るのも当然。 -
西銀座に来たのは、ここに柳の碑があったような記憶があったからです。
碑文には「銀座の柳は明治15年に植えられ銀座の象徴とされたが、三度の変遷を経て昭和43年銀座通りの改修とともに姿を消しました」とありました。
三度とは、明治15年、昭和初年、戦後の3度の植樹を言っているのでしょう。その間、大正の道路拡張、太平洋戦争の空襲、昭和43年の道路改修による柳の消滅がありました。
そのたびに柳の木は不死鳥のように蘇りました。 -
手前の碑は、銀恋の碑です。
碑文は、石原裕次郎の「銀座の恋の物語」の歌詞です。 -
数寄屋橋公園に来ました。
「数寄屋橋此処にありき 菊田一夫」の文字が。数寄屋橋は「君の名は」という菊田一夫脚本の戦後ラジオドラマで有名になったとか。 -
岡本太郎の太陽の塔がありました。
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帰路、有楽町のガード下を抜けて、大手町まで歩きました。
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丸の内の三菱1号館です。復元されたレンガ造り建築です。
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この一角だけ、ロンドンにいったような景色です。
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三菱1号館の庭には、ムーアの彫像があります。
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庭にクリスマスツリーがデコされていました。
ジングルベルが流れていない静かな師走です。 -
大手町駅付近のクリスマスツリーです。
メリークリスマス!
しずかな一人散歩でした。
最後まで、ありがとうございました。
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