2014/09/26 - 2014/10/07
319位(同エリア1830件中)
アーサーさん
1991年のソ連崩壊から 23年近く経った。正直なところ 今も分かったようでよく分からないのが 「崩壊」の歴史的全体像。さらに 昨今のウクライナを巡るEU・アメリカとの対立 隣国ロシアはどうなっているのだろうと漠然と感じていた。短期間の訪問で分かるわけもないが 行ってみても良いかなぁと思っていた。
モスクワ(3泊)サンクトペテルブルグ(4泊)ヘルシンキ(3泊)と列車で移動し、ついでにヘルシンキからの日帰りでバルト3国の一つエストニアの首都タリンにも訪れた 駆け足の旅行記。
結果、予想通り ロシアの表層に触れただけの消化不良の感は否めないが、確実に自分の体験を得た旅だった。
(表紙写真は ペテルブルグのレーニン広場で 虚空に向かい今も何かを説くレーニン像)
写真掲載枚数が増え、重たくなって来たので 続編は「そして ロシアからフィンランドに」https://ssl.4travel.jp/tcs/t/editalbum/edit/10943322/?pict_id=35868578#pict_35868578 に分けて掲載。
- 旅行の満足度
- 3.5
- 観光
- 4.0
- ホテル
- 1.5
- ショッピング
- 2.5
- 交通
- 3.5
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 30万円 - 50万円
- 交通手段
- 鉄道 徒歩
- 航空会社
- アエロフロート・ロシア航空
- 旅行の手配内容
- 個別手配
PR
-
(1)9月26日ー①
今年の春、中国の奥地(チベット等)を訪れた。その中で 中国共産党政権の崩壊の恐怖を いつかは分からないが 初めて感じた。備える必要を思った。
それで ソ連崩壊時のEUの対応を調べてみる必要を感じた。
(http://4travel.jp/travelogue/10872544)
今年に入り ウクライナ情勢は急変した。その中で ロシアのプーチン政権の対応は 同情すべき立場を理解できるが 昔の東欧諸国への強権的な軍事介入(ハンガリー、チェコへの介入)を思い出せるものがあった。少しロシアの現在の憲法を確認してみたが 普通の現代国家の憲法と変わりなかった。
ロシアはどうなっているのだろうと 強く疑問を抱いた。
写真は 成田空港第一ターミナル 出発掲示板。 -
②
もともと 隣国ロシアには ゆっくり行ってみたい希望はあった。だが 日頃旅行社のパンフレットを見てみると随分旅行料金が高く、私の中で納得性がなかった。
たまたま 6月 モスクワ駐在医務官の経験を持つ友人と会い、雑談をした。その中で 彼の経験によると ロシアの旅行は欧米の旅行の後で ロシアでも行こうかと 歳老いて旅する人がいて 現地の気候風土が厳しく 医療機関が充分でない所もあり 危機的状態に陥る例を聞いた。
私の場合にも 当てはまるかと思い、ロシア行の資料を 7月から集め始めた。
写真は いつも成田空港のコンビニで購入する朝飯代わりの弁当。搭乗口待合ロビーで300円以下で食べれる日本の幸せを今回も感じた。 -
③
旅行社の既存ツアーを調べると、旅行期間が短くて物足りなく、一人料金の加増コストも高くて、不満が残った。ただ フィンランドに抜けるルートは参考になった。
それで 個人旅行を選択して、「地球の歩き方 ロシア」を購入して 読んでみた。
その中で「バウチャー旅行について」の項目があり、「容易に日程を変えることができない。」ことと「ロシア旅行に限っては、専門旅行会社の力を借りたほうがよさそうである。」の記載があった。
本の勧めに従い 情報集収集を兼ね、旅行複数社にコンタクトを取った。
その内の一社「ロシア旅行社」を訪問して 話を聞いた。
38年前 前身の「日ソ旅行社」を利用したことがあり 悪い感情を持っていなかったし、個人旅行の担当の方の応対に納得もいき、相談の結果 費用の点から モスクワ、ヘルシンキ各4泊を3泊に短縮して (サンプクトペテルブルグは4泊のまま)見積もりをお願いした。
写真は搭乗した 12時発エアロフロート「SU261便」搭乗手続きはカウンターも含めて フレンドリーでスムーズ。 -
④
自宅に帰り 見積もり金額とネットで調べたホテルの宿泊費には 腹立たしい程 格差があった。(一泊に付き5000円以上。)
それで 外務省のホームページから「ロシア 安全対策基礎データ」を調べてみたら
「また,滞在中にパスポートの盗難や紛失により査証を失った場合,及び入院等で当初予定していた時期までに出国できない場合には,改めて査証を取得(転記又は延長)しなければ出国できません。査証の転記又は延長手続は,ロシア国内の保証人がすることとなっています。インターネットなどで集客している,いわゆる「査証斡旋会社」で査証を取得した場合は,転記又は延長手続に非協力的な場合が多いので,トラブルのもとになります。ご利用の際はご注意ください。」との注意喚起の記載があった。
私の年齢とロシア語が喋れない実情から やむを得ず 日本の旅行社の手配旅行契約を使い、「LLC Intourist]の保証斡旋会社を使用した。
(後日 ネットで各種ブログを読んでいたら 日本の旅行社を通さない例もあり、挑戦に値することを知った。もう少し若かければ 私もチャレンジできたと思う。)
写真は 雲の上にぽっかり見えた富士山の山頂。富士の見送リを眺め「若者は荒野を目指す。」若くは無いが気分はそんな高揚した気分。 -
⑤
私が価格の不満を述べたことに ロシア旅行社の担当の方が仰っていたが「北方領土問題」が解決しないと無理でしょう。
それからモスクワ現地でで半日頼んだロシア人ガイドの方もビザ取得時の保証人の問題がロシア側でも 一つの日本訪問時の障壁になっていることを述べられていた。
日露の民間交流の妨げとなっている「ビザ」の問題、結局誰かの既得権者の利益擁護の為にしかなっていないように思える。
今回のロシア旅行で 事前にロシアの特殊性を随分強調して吹き込まれた。帰国して 今思うことは 現実は各国旅行と別にそんな大きな差は経験しなかった。日露双方 注意喚起の美名のもとに 行われる「社会主義」的な固定概念の方がより課題だと思った。問題があれば 解決のために努力する その蓄積姿勢が 日露双方関係者に問われていると思った。
写真は エアロフロート機の昼食。普通に美味かった。
日本人アテンダントも乗っていなくて サービスはもう一つだったが、38年前の軍用機のような飛行機から比べれば 随分ましになった。国際競争には良いところもある。(それだけに、既得権益を 特殊性の名のもとに 擁護している日露の旅行枠組みに怒りを感じた。) -
⑥
38年前の私が20歳代の後半 夏季休暇でハバロフスク、タシケント、サマルカンド、ブハラと7泊8日 ソ連の中央アジアを旅行したことがあった。
今も残る幾つかの記憶がある。その主なものを記載すると。
A、ソ連は多民族の国家で、白いロシア人は皆平等だと言うが、実際に目にする肉体労働者は
有色のアジア人種が多い。(貧しそうに見えた。)
B、偶々利用したタクシーの助手席に子供が乗っていたので チューインガムを一枚あげた。父親らしきドライバーは降りる時 ジェスチャーで料金はいらないと表現する。(料金は払った。)
店にキャンディは売っていたが、ガムは無かった。この国では 消費者ニーズに基づく「生産」「流通」は行われていなかった。計画経済で統制するのは容易ではないと知った。
C,ソ連は世界の東西対立の一方の旗頭。ところが 一般庶民にはそのリーダーたる気概が感じられない。プライドは高そうだが 頑迷な保守主義者。利己主義者。旅行社の添乗員さんが気の毒だった。
d、ハバロフスクの公園の森で 強烈なジャズのメロディが聞こえてきた。
ジャズは欧米の退廃文化の象徴と言われていた筈だのに。
強烈なメロディを聞くと、この国の体制は長くは持たないと漠然と思った。
写真は 昼食で出された フローズンヨーグルト。
各席のディスプレイ横に USBの接続端子が付いていた。ここから電源が取れると気づいた。(接続ケーブルを持参するのを忘れていたが。) -
⑦
「ロシア行き」を決めてから 慌てて にわか付け焼刃に ロシア関連の本を読んだ。
A、ロシアNIS貿易会作成の「ロシアのことがマンガで3時間でわかる本」
B、「ロシアは今日も荒れ模様」米原真理著
C、著者井本沙織さんの「ロシア人しか知らない本当のロシア」
D、「ロシア文化の方舟」・・・ソ連崩壊から二十年
E、「ロシア 闇と魂の国家」亀谷郁夫+佐藤優著
F、池田元博著「プーチン」(新潮新書 2004年発行)
G、鎌田慧著「サンクトペテルブルグ 混沌と幻想のの街」 など
それぞれに面白く 私の参考になった。ただ各著者のロシアへの思い入れが強く、一大強国ロシアの特殊性が強調され過ぎているのではないかという疑問が残った。
私の乗る飛行機は佐渡上空を飛び、1時間足らずで沿海州辺りに達した。ある面で ロシアは近いと言うのが 私の率直な感想。根室半島の納沙布岬から歯舞の島々は肉眼で見えるとか。島続きのご近所の感覚もあるのではないかとと思った。
写真は 夕食に出された 普通の機内食。 -
⑧
旅行の事前に手配したのは
A)ロシア旅行社経由が
a、航空券、成田→モスクワ、ヘルシンキ→モスクワ→成田のEチケット
b、列車切符、モスクワ→ペテルブルグ、ペテルブルグ→ヘルシンキ
c、ホテルバウチャー(各朝食付き) モスクワ3泊、ペテルブルグ4泊
d、日本語ガイド半日分の予約。
e、ビザ (この申請は いつものように自分ですべきであった。無駄な経費発生)
B)ネットを利用して自分で手配
a、ホテル予約。ヘルシンキ4泊分
b、ヘルシンキカード(72時間分)
c、モスクワ、ぺテルブルグ 各観劇券。
d、クレムリン(武器庫)の入場券。
e、エルミタージュ美術館の二日通しの入場券
写真は 成田離陸後 約10時間で見えてきた モスクワ郊外の耕作地。取り入れが終わったのか 何も植わっていなかった。 -
⑨
持っていくもので 少し迷ったのは 着る物だった。
ネットで 各地の気候、気温を 出発の最後まで確認していたが、0度近辺まで下がる恐れもあり、無駄になっても寒いよりはましだろうと、日本の12月を想定して準備をした。観劇用に軽い上着も用意したが、結果的に無くても大丈夫だった。
今回からスマフォを持参したので、パソコンは持参を諦めた。(これは 荷物も少なりなり、正解。)カメラも簡単なデジタル一台とした。リュックは小型の使い勝手の良いものに新調した。
写真は モスクワ郊外の「ダーチャ」(別荘地)?。小さな小屋のような家が空から見える。事前に読んでいた 「ダーチャ」かと推測した。確かに 週末を家庭菜園や森の自然に触れて人間らしく過ごす、それは素晴らしい生活だけれど 農業の「生産性」の観点からは 空から見る限り 多くの物を期待できないなぁと思えた。 -
⑩
飛行機が高度を下げ、街並みが見えてくると、敷地区画の大きな家、ヨットの係留している家と、随分所得格差があるなぁと実感させられる。
そして あまり 高速道路らしきもの、いつものなら 散見される工業地域が 私の着陸コースからは見つけられなかった。
飛行機はシェレメチェヴォ空港に予定より早く着陸したが、乗客が少なかった為か 話に聞いていた着陸時の拍手は起きなかった。 -
⑪
空港の入国は実に簡単だった。飛行機からの降りた乗客の誘導の案内表示も完璧で、入国審査での質問もなかった。荷物引き取りに少し時間があったので その間に 両替えをした。一万円出したら それなりに若いロシア人女性の窓口はニコッともせずに 2500ルーブル返却してきた。1ルーブル4円?と疑問に感じたが、ロシア語だけの標記のスリップを返すだけで 取りつく島もない態度。
(不労所得の恥を知らない ボッタくり。窓口の女性は単なるお先棒担ぎだけれど 立腹する。)
後日、各地でATMを利用して 現金を引き出したが 1ルーブル2,8円位のレート。空港到着後 ルーブルの手持ちが無かったので 必要に迫られ 空港内で両替えしたが、それにしても 最低限度の額にすべきだった。(反省) -
⑫
荷物を受け取り 到着のDターミナルから 人の流れに沿って ただ進んだ。絵文字付の「Train」の表示だけを確認しながら。タクシーの運転手の勧誘らしきものも途中あったが、外も明るいし、体力も残っていそうだったので タクシーを使う考えもあったのを、変更して進んだ。
途中エレベーターで上階に昇るところとか セキュリティの出口が混雑しているとかはあったが、とにかく 人の流れに沿って歩いた。(写真は途中の動く「歩道」)
「アエロエクスプレス」の切符の自販機数台が並んでいるところで 切符を買おうとした。英語表示に変えようとして「英国旗マーク」を押すが 何故か変わらない。人も混雑していたので 一旦離れ 人が少なくなって 別の機械で試す。右下から 現金を入れ 左上から切符が出てくることを ネットのページで予習していたので 今度はスムーズに行く。 -
⑬
写真は入手したペラペラの切符。
自販機の所に 係りの人がいることに後で気づいたので、その人に切符を示し、乗り場の方向を再確認。 -
⑭
写真はアエロエクスプレスのベルラーシ駅行の乗り場への一本道。空港の店の通りの感じ。改札の前に右側に 切符の販売窓口も見えた。(全員 自販機を使い誰も利用していなかっだが。) -
⑮
列車の出発時間が迫っていたので、慌てて改札を通過し、列車への乗り口は後方一か所だけだったようなので 乗車して 車内を前方に歩く。かなり歩いて、空席を見つけて座る。座ると直ぐに出発。検札は来なかったが、途中販売のワゴンは来た。普通に快適な乗り心地。
現地時間5時頃着陸し、6時発の列車でベルラーシ駅に向かうのだから 思ったよりスムーズ。
写真は車内風景。 -
⑯
列車は予定通り 6時半頃 都心部のベルラーシ駅に到着。
途中の車窓からの眺めからは 少し荒んだ 昔の上野駅に東北線で着いた風景を思い出させるようだった。
下車する時は 列車のドアが全て開く。まだ外は明るい。外気もそれほど寒くは無い。
但し モスクワと時差が5時間あるので 東京から考えると 12時の深夜。 -
⑰
ベラルーシ駅のアエロエクスプレス線以外のプラットフォームのエリアの前を通って、駅の構内を出る。
警備の警官の姿をよく見る。駅は警戒地域みたい。 -
⑱
駅の建物を出る時、「Sub Way」右下の表示があり、振り戻ったが、ファーストフード店(サブウエー)の表示。(紛らわしい。)
実際は 駅を背にして 1,2分 右に歩けば 右側に地下鉄の表示「M」が見えてくる。
私は 道路にいた若い女性に英語で尋ねて 確認した。(普通に親切。)
写真は駅の建物出入り口の紛らわしい「Sub Way」の表示。 -
⑲地下鉄の切符売り場の窓口には 数人の列があった。私は事前に「11枚」の回数券のロシア語を「歩き方」からメモして準備していたが 列の後方の中年男性は 私に ロシア語で 多分一枚いくらかを教えてくれる。親切とは思ったが、正直 警戒心の方が強かった。
(列車も地下鉄の回数券も ルーブルに空港で両替えせずに クレジットカードで購入できたかもしれない。ただ 人混みでクレジットカードを使う気分には まだなれなかった。)
写真は話には聞いていた 防空壕に向かうような 一直線の下りエスカレータ。少し怖くて 手すりをしっかり掴んだ。 -
⑳地下鉄の路線図をカラーコピー拡大し、事前に用意していた。そのコピーとプラットフォーム場表示案内で 電車の進行方向をしっかり確かめ、地下鉄に乗車。
ロシアのキリル文字は旅の最後まで 私は読めなかったが コピー等の文章表示と駅案内標示が同じかどうかは判断できた。 -
21)
写真は 窓口で購入の際に示した11回乗車券のメモと実際に購入した切符カード、それから事前用意した路線図のコピー。
切符カード式は日本とよく似ていて 入場機器に翳して使用。 使用した分だけが機器に減算表示されて便利だった。 -
22)最初に乗った環状の5号線とホテルのある3号線には 車内に電車がどこを走っているのかを示す 電光表示があった。私は幾つ目の駅で降りるかを勘定して、確認しながら利用した。
乗り換え時も 車内で電光表示を見て居る時も 若い人は私の確認の質問に 普通以上に親切に答えてくれた。 -
23)ホテルのあるパルチザンスカヤ駅に 7時前に無事着いた。
駅には ネットのブログで読んだ その筆者が一番先に覚えたロシア語の表記「地上出口」が確かに出ていた。覚えておかねばと 私も記念に写す。 -
24)
地下鉄駅の出口から 今晩から泊まる「イズマイロボ ヴェガ ホテル」のサインが見え 少し遠いが安心して歩いた。
(この駅は一部 階段で上り下りをしなければならず、荷物が多いと結構負担。一般にロシアの駅のバリアフリー化は まだ進んで無いように思えた。) -
25)
ホテルは 今から34年前のモスクワオリンピック用に建てられたとかで かなり古くて巨大だが ネットの口コミ情報で予想していたよりましだった。
ホテルのレセプションの対応も 管理職の方?だったためか スマート。「滞在登録フォーム」の発行も「5分お待ちください。」と言われたが、実際は3分以内で発行してくれた。かつ発行料を取られることもなかった。
事前にロシアでは外国人は外出時に A パスポート B 出入カード C 滞在登録の三点の携帯を義務ずけられていると 警告されていたが 一度もチェックされることはなかった。
念のために パスポートに 出入カード(入国時に自動発行してくれた。)と滞在登録証をクリップ止めにして 保持していたが。 -
26)
それから 夕食をとも思い、駅前まで出かけた。 夜も更けて寒さも感じ、面倒になり、駅前の食料品店でサラダを買って帰る。部屋で持参していたインスタントラーメンと共に食べる。サラダは100ルーブルで安くはなかったが 食べると 思いのほか しっかりした材料を使っていて美味かった。
国慶節の休暇に近い為か ホテルにも 駅前にも中国人観光客が驚くほど大勢みられる。
風呂に入って眠る。 -
(2)9月27日
① 時差の所為か 6時過ぎに目が覚めた。
13階の私の部屋から眺める モスクワはまだ眠っている様だった。
紅葉は広がり、広大な国土の為か 歯抜け状況で 何となく乱開発の様子に見えた。 -
②
7時からのバイキング朝食は 種類も多く満足すべき内容だった。
客の半数近くは 中国人観光客の様だった。マナーは相変わらずの人もいて 立って直接 味見なのか食材を口にする人もいた。ホテルの従業員も私を見て 「ニィハオ」と挨拶する。
47年前 始めて中国を訪れた時、「打倒米帝、打倒ソ修」と ソ連に対する憎しみの表現の度合いに驚いたことがある。それを叫んだ中国の人達が こうしてお金持ちになり ロシアを旅している。彼らがどう思っているのか知りたいと思った。
お互いに訪問して それなりに実感を持つことは 単なるスローガンの対象よりは
よっぽど良いことだろうけれど。 -
③
朝食会場で ロシアの新聞を貰い、見てみると 天気のロシア全土が表現されていた。
A、ロシアのシベリアエリアの大きさの割合が実感できる。ただシベリアは寒冷の厳しい地域。
B,旧ソ連のエリアも含んで 表現されている。人々には直接関係はないだろうけれど ロシアの「喪失感」は奥深いものがあるように思われた。
C、ヨーロッパ寄りの バルト3国、ウクライナ、ベラルーシは温かそうに見える。
D、ウクライナの首都、キエフはモスクワから近い。列車でサンクトペテルブルグ 迄と同じ距離。
同じような地図も 国によって表現が異なるものと 改めて感心する。
ホテルのロビーのATMで ロシアルーブルを引き出し(英語版選択で容易)、9時からのガイドの到着を待つ。 -
④
時間前に ガイドの「ユーリーさん」(30歳ぐらいの男性モスクワ大卒)は来てくれて、簡単な自己紹介と、私の半日の希望を聞いてくれて 即行動。地下鉄で赤の広場近くのアレクサンドロフスキー・サート駅に向かう。10時から「武器庫」の見学を ネットで事前予約していたので それに余裕で間に合う。
写真はクレムリン入場を含めて 武器庫のチケット発売所。
(ネット予約で印刷したバウチャーとパスポートを11番、12番窓口に提出して、入場券に引換。) -
⑤ クレムリンの城壁沿いを赤の広場と反対側に歩くと、角部分にセキュリティがあり、城内に入れる。(ポロヴィツカヤ塔の出入り口)
-
⑥
そこから直ぐに クレムリン内の「武器庫」の見学入口に至る。 -
⑦
「武器庫」と称していても 実際はロシア王朝の博物館。仰々しい割には私の興味を引く物はなかった。
(入場料700ルーブルの価値なし。)館内は写真撮影禁止。
博物館の入口で 入場券を示したが、座っている おばさんに止められて 示されたカウンターに行った。早口の英語で入場料のいくらかを払えと言っている様だった。どうもダイヤモンド庫のへ入場のことを言っているみたいで もう一度武器庫の入場料は払っていると入場券を示し、もう一度博物館の入口へ行った。今度は止められずに入れた。
悪気はないのだろうが 対応に 権威主義的な匂いを感じて、不快。 -
⑧
簡単に25分程見学して 武器庫を退出する時 入口を見たら 結構な入場希望者の列。
まぁ事前予約の甲斐はあったのだろうけれど。 -
⑨
それから 待っていたガイドさんと合流して レーニン廟へ。
途中 城壁回りの公園で花壇を写す。
やはり クレムリン周辺は 東京の皇居前辺りに相当するのか 手が入っている。 -
⑩
それから 「1941-1945年東部戦線の無名戦士の墓」に頭を下げ、
レーニン廟の見学の列に並ぶ。 -
⑪
写真はレーニン廟見学の後に 「赤の広場」からレーニン廟の正面を写したもの。
(見学の列のスタートは 写真のずーと右手からスタートする。) -
⑫
写真は入場の為の 待ち列があった坂。この坂を登って右折し 廟の右側裏手に進む。
待っている人の半分位が 話している言語から ロシア人以外。
列の割には 15分位で余り時間を要せず 見学できた。
ガイドさんとの話で レーニンは歴史上の偉大な人物との認識は合意できた。 -
⑬
廟に入る前に 烈士の墓のプレートが並ぶ。
ガガーリンのプレートもあるそうだ。
それに私も知らなかったが 1933年に亡くなった日本人 片山潜のプレートもあるそうだ。 -
⑭
廟の入口、此処からは写真撮影禁止。
若い衛兵は かなり緊張していて 見学者に静寂の要求を行っていた。
私の前方の人がポケットに手を入れていたら 注意されて 手を出した。
数年前 ハノイで見た ホーチミン廟と同じ感じ。 -
⑮
廟の外に並んだ 胸像付のお墓の中に、日本人に関係の深い スターリンの墓が並んでいた。
ガイドさんの話によると フルシチョフのスターリン批判の後、廟から出されて ここに埋葬されたとか。
そのフルシチョフの墓もプレートもここに無い。
死んでも「序列」の権威が 現在のロシアに残って居るのだなぁと実感。 -
⑯
昔 ソ連のニュース番組で軍事パレードとそれに居並ぶソ連指導者達の映像を見た「赤の広場」。
勝手に想像していたより狭くて驚いた。
大統領旗が見えるので 土曜日だけれどプーチン大統領は在室していたみたい。 -
⑰
もう一度 面倒だが クレムリンの入場切符売り場に戻り、350ルーブルを払い、入場のセキュリティに並び直し、入場したトロイツカヤ塔。 -
⑱
クレムリンの中のトイレが分からなかったので、最初に見かけた パトリアーシュ宮殿横のプレハブ棟のトイレの列に並んだ。列は男女兼用の列で 全然進まない。
我慢できない幼児が列の順番を無視して 先に割り込むので更に進まない。
私の順になり、プレハブ棟に達すると、中ではお婆さんが入口に座り、八室ある個室を制御監督している。個室から人が出てきたので、入ろうとしたら 怒られる。
指示されて入った個室は馬鹿でかく、汚れもある。終わって水を流そうとしたら フラッシュは即反応しない。
現在も 世界の政治の一つの中心である クレムリンのトイレの現状に唖然とした。
トイレの外では 土曜日の為か 12時前の時間で 軍楽隊のパレードが始まっていた。 -
⑲
騎兵の集団が続く。 -
⑳
大統領官邸を背に 一団は続き、聖堂広場に向かう。
私も事情は分からず追いかける。 -
21)
広場では 周辺の観覧席に観光客が座り パレードを待っていたようだった。 -
22)
宮殿の階段に旗手たちが整列し、 -
23)
歩兵集団が隊列の演武をして -
24)
騎兵が馬の乗りまわしの優雅さを見せ、 -
25)
楽団が演奏して 終了した。
バッキンガム宮殿 の衛兵交代と少し似ていた。
たまたま たっぷり観光ショーを見れて満足。 -
26)
時間が無くなり、近くの「アルハンゲリスキー大聖堂」だけ 内部を見学。ロシア皇帝の墓所だったとか。信仰の場というより 観光名所の続きの感じ。
1917年のロシア革命から 1991年ソ連崩壊まで 共産党独裁下で これらの教会がどう使われたのか関心はあったが 早々に立ち去る。 -
27)
朝 出入りした「武器庫」横のポロヴィツカヤ塔の出入り口から クレムリンを出て ガイドさんと合流。
一度ガイドさんと 一緒にいるうちに モスクワのタクシーを経験しておきたかったので お願いして タクシーを拾ってもらう。 -
28)
ようやくタクシーを拾えて、メーター料金で良いと言うことになり、トレチャコフ美術館へ行って貰う。
運転手は真面目そうな運転なので 降りる時 3時半に ここに迎えに来てもらえれるか尋ねて貰った。追加コスト無しで予約できると言ううことなのでお願いすることにした。実際歩き疲れていたので 助かったと思った。 -
29)
写真はトレチャコフ美術館の玄関。
ガイドさんとは ここの切符売り場で別れた。
約束の1時を回っていて 更に延長も可能である旨 申し出もあったが、ゆっくり館内を見物したい事情もあったので 御礼を渡し、ここで別れることにした。
クレムリンで お互いの携帯電話の番号を交換しておいたので、ロシアで何かあれば電話は出来る安心感はあった。 -
30)
クラムスコイの有名な「見知らぬ女」。
美術館の中では それほど関心が無いのか 見ている人は少なかった。
ロシアの憂いを 充分堪能できた。 -
31)
館内にはロシアらしい絵が よく並んでいた。 -
32)
イコン展示も素晴らしいらしいが 異教徒の私には 信仰の対象には思え無かった。
むしろ きめ細やかな人間の表情の方に興味を持った。 -
33)
2時間弱堪能して それから美術館の食堂で昼食をとる。
棚から出来合いの単品を選ぶので簡単で速い。380ルーブル。日本の感覚で 高いと言えば高いが。味はそこそこで満足。 -
34)
隣りのテーブルで 引率の若い女性と小学生位の子供達が 楽しそうに 食後のお喋りをしていた。仲が良さそうに見えたので写す。
恵まれた境遇の子供達かもしれないが ロシアの将来に期待を持った。 -
35)
美術館の外の約束した場所に 約束した時間前にタクシーは来て待っていた。
その車で 近くの救世主キリスト聖堂へ行って貰う。
運転手の方は50歳ぐらいで 片言の英語を話す。
聖堂は ウィキペディアによれば 「1931年に宗教弾圧政策をとるソ連によって爆破された後 ソ連崩壊後の2000年8月19日に再建された」とか。
高さ100メーターを超え 実に巨大。 -
36)
聖堂の中は 多くの熱心な信者が祈りを捧げていた。(信仰の場所)
ロシア正教の復権を実感する。
それから
タクシーは道路で待ってくれていたので 「アルバート通り」へ行ってくれるように 地図で示し、お願いする。 -
37)
運転手の方は 日本の自動車メーカーの件とか 色々と話しかけて来て 周辺の観光案内もしてくれている様子。
それで よく分からないまま 写真に撮った道路沿いの「モニュメント」。
昔 テレビで見た モスクワの「ホワイト・ハウス。」とか。
昨日 通った「ベラルースカヤ」の駅前とか。色々説明する。
この辺りで おかしいと と思ったが、諦めてタクシーによる市内観光と思い直す。 -
38)
多分 彼が言ったのは 「アルバート通りは車で通れないので ニューアルバート通りを行く。」だろうと思う。ロッテホテルが見えて 地図上での位置が分かったので。了解して、 訳の分からない所で降ろされると困ると思い、「ダム百貨店」で降ろしてくれるように頼んだ。
「ロシアの若い女性。」とか勧めてくれたが 断り、ダム百貨店を強く指示。結局渋滞の中を 色々と数度モスクワ川を渡り、ダム百貨店の近くで降りる。約束のメーター標示の価格で1200ルーブル払う。
運転手の方を そんなに悪い人とは思えなかった。ただ ロシアでタクシーを使うリスクはよく分かった。
写真はそのニュー「アルバート通り」で写す。 -
39)
赤の広場 ダム百貨店の所から「ワシリー寺院」を写す。
やっぱり おもちゃのように見える建物。 -
40)
ダム百貨店は 欧米のブランドショップの店。上階にレストラン等が配置されているけれど。
一旦上階に上がっても 下りのエスカレーターは無い。回遊性も悪く、トイレも少ない。
コンセプトの分からない店。 -
41)
上階に 日本の「ソニーショップ」もあった。(その隣がトイレ。)
残念ながらソニー商品の驚き・輝きは感じられなかった。コーナーを隣接して サムソンのショップ。スマフォが頭一つソニーを凌駕していそうだったが 飛び跳ねた感じでもしなかった。現状の電化商品は生活用品化して こんな場所をショールームとして使用するのに違和感を感じた。 -
42)
それから 赤の広場、国立博物館を背にして 「スタニスラフスキー&ネミローヴィチ=ダンチョコ劇場」に向かった。
(残念ながら 国立博物館には時間的に行けず、またの楽しみとした。)
通りは 東京の銀座の感じか 人通りも多く、豊かそうだった。 -
43)
途中小さな公園があり、(後で知ったが、「革命広場」)そこに クレムリンを背にして マルクス像があり 写真に写す。
(建立の由来は 調べたが よく分からず。) -
44)
マルクスが立ち眺めるその先に ボリショイ劇場がある。(写真)
私はその劇場側の道に渡りたいのだが、近くに 横断歩道、地下道の類は見当たらない。6車線位の一方通行の道を 車の途切れを縫って渡る人も散見されたが 私にはその勇気は無い。通りかかった母娘に尋ねたら 約150メーター先の地下道を渡るしかないとのこと。
振り返って「マルクスさん この国には まだ庶民のトイレ、道が整備されていない。分かっているのかい。」とぼやき、歩き始めた。 -
45)
私はこの交差点まで行き、地下道を渡った。 -
46)
それから 「スタニスラフスキー&ネミローヴィチ=ダンチョコ劇場」への道、ボリシャヤ・トミトロフカ通りを歩く。
夕やみに近ずいた道で 若い路上ミュージシャン達がいて 店舗もそれらしい雰囲気の店が続く。 -
47)
劇場の左横の路地を入った所に バウチャーと切符の引換所があり、そこで入場券を手に入れる。(写真のところ)
概略ロシア行を決めてから、ボリショイ劇場の演目と、空き具合をネットで調べた。
モスクワ滞在中の該当する演目は「オルレアンの少女」で空席は充分あるように思われた。ロシアでジャンヌダルクかと躊躇していて 10日位前に 予約をしようと ネットを再度見たら、満席になっていた。それで仕方なくこの劇場の「白鳥の湖」のバレーを予約していた。 -
48)
時間が充分あったので 劇場のカフェで軽食を取る。400ルーブル。高い。
それでも 満席。リッチな層の出現。 -
49)
開演15分前に 場内に着席できる。
私の席は一階席。
写真は振り返って見上げた上階席。 -
50)
7時の開園時には 満席。ギリギリに入ってくる人多し。
(上演中は 勿論写真撮影禁止。) -
51)
三回の幕間に見る観客は やはり それなりにドレッシー。
演目に依るのか 土曜日で子供連れが多い。特に 母と小学生ぐらいの娘の組み合わせが目につく。外で購入してソファーでパックを子供に食べさせているのを見ると、ロシアのバレーの底辺の広がりが痛いほどよく分かる。夢が母から娘に繋がって行くのだろうと思った。 -
52)
私は舞台のバレーの実物を見るのは初めての素人だが シーンの変化の多さと 演じる人の多さに圧倒された。勿論美しい演技、極限の演技。
写真は 最後の舞台挨拶。気楽に撮影できた。 -
53)
帰途 見かけた照明に照らされたクレムリン。
午後10時近いが 人通りも多し。だが さすがに寒い。
地下鉄のホームを間違えたらしいが、親切な普通の女性もいて 途中で 無事3号線に乗り換えられた。 -
54)
10時半頃、ホテルのある「パルチザンスカヤ駅」に戻ってきた。
長い一日だった。
写真は駅のモニュメント。 -
(3)9月28日(日)
①
少しゆっくり起きて 朝食を食べる。
生野菜もそれなりに豊富。 -
②
食後煙草をホテルの建物の外で吸う。中国の旅行者も 私しか東洋人がいないと、煙草の火を借りに私の所に来る。
1階のエレベータホールで 一人の中国人旅行者が八台あるエレベーターに自分の階に行くエレベータがないと 中国語で呟きながら焦っていた。(多分)
こちらは低階層用のエレベータホールで あなたのVIP用の高層階用のエレベータホールは反対側ですよ。と答えよううとしたら エレベーターから出て行った。
同じ東洋人同志 助け合うのが自然なのだろうと思った。
ホテルは 嫌にセキュリティ施設が完備され、一寸煩わしい。(写真)各階のエレベーターを降りたところでも カードでの開錠が必要。 -
③
朝 予定通り、世界遺産のノヴォデヴィチ修道院を 地下鉄で目指す。
今回の旅行で モスクワ 9回、サンクト ペテルブルグ 7回 地下鉄を利用したが、最初の一回を除き、全て座れた。そして その殆んどが 席を譲ってくれた。
若い男女からが中心だが、壮年の男女からも代わってくれた。私がよっぽど疲れた可哀想な老人に目えたのかもしれないが 予想していなかったことだった。
今までの各国の旅行で 席を代わってくれる頻度はぴか一だった。 ロシア人の心根の一端を知った。
写真は その庶民的な地下鉄の車内。 -
④
3号線から乗換駅の「アレクサンドロフスキー・サート駅」で降り、1号線に乗り換える。
駅構内の案内表示に 1号線は 写真のように 路線図と同じ赤で標示されている。キリル文字は読めないが 赤の標示に従って進むと 1号線のプラットフォームに着く。
その着いたプラットホームに また進行方向の駅名が標示され 乗り換え駅名の下に乗り換え号線の色つき番号が表示されている。路線図さえ頭に入っていれば 間違うことはない。(当然、郊外に向かう進行方向の駅には 乗換駅は少ない。)
私は間違えることはなかったが 列車の運行本数が多いので 間違えたら戻ればよいだけど割り切って使った。 -
⑤
目的駅「ソルチーヴナヤ」に着き、地上へ。
現在のロシアの都市部では やはり地下鉄が個人観光客の最も便利な足と思う。(私はバスを利用しなかったが。)これに 早く慣れることで行動範囲が広げられる。 -
⑥
今回の旅行で威力を知ったのは スマフォのアプリ「maps me lite 」だった。若い友人に出発間際に教えて貰い、無料版をインストール、地図を事前に入力した。
実際は昨日、グム百貨店から使い始めていたが、地下鉄の駅を降りると、東西南北が普通分からなくなる。駅付近の表示を見て、歩き始めるのが常だったが、今回はGPSの機能で 自分がどちらに歩いているのか 即座に分かり 修正がきく。
今回 写真のようにスポルチーウナヤ駅前に修道院の方向表示はあったが スマフォで道順、距離、現在地が即わかり 非常に便利だった。(文明の利器) -
⑦
修道院の前に 隣接する「ノヴォデヴィッチ墓地」を先に訪ねる。
写真右壁は修道院の城壁。 -
⑧
墓地の入口。
入場無料の為か 外国の観光団体が バスで多く訪れていた。 -
⑨
エリツィイン大統領の墓。
通路沿いに 物理的な区切りもなく 墓らしからぬモニュメントで眠っていた。
エリツィンらしいと言えばそうだが 落ち着かない様子で 少し気の毒だった。 -
⑩
フルシチョフ第一書記の墓
墓地の奥の方に ちょっと異様な形のモニュメントとしてあった。
私が小学生の頃 国連総会の場所で自分の靴を脱いで 机をバンバン叩いて抗議する かなり粗野な姿が記憶に残っている。(どこか憎めないところもあった。)
今から思うと 「スターリン批判」、「平和共存」と歴史的役割は大きかったが 後のブレジネフ政権によって 赤の広場の墓地に葬られず、ここで眠っていたのかと 感慨深い。首の彫像が笑っている様にも見え、墓石の上の花束も心なしか 多いように思われた。 -
⑪
墓地には 思いがけず 幾多の墓石があった。特に 豪勢な軍人姿が墓石に彫刻されたものが目についた。
墓は個人のメモリーの象徴、墓の規模の格差が随分にあった。多分庶民のお墓は一つも無いのだろうが。
共産主義社会でも 霊魂をどこかで信じていたのだろうか。今も お墓を掃除する人、花を手向ける人が見受けられた。 -
⑫
それから 隣りの修道院を訪ねる。鐘楼の改築中で 院内は落ち着いた雰囲気は無かった。庭も少し荒れていた。 -
⑬
教会の内部では 日曜日の為か 年老いた女性を中心に 家族連れも、熱心にお参りしていた。宗派は異なるが 日本のお寺の様であった。 -
⑭
昨夜見た「白鳥の湖」を チャイコフスキーが構想したと言う 池が修道院の城壁の外にあった。周辺は都市化が進み、その面影は全く感じられなかった。
白鳥の代わりに、鴨が数羽泳いでいた。期待外れ。 -
⑮
それから 地下鉄のスポルチーウナヤ駅に戻る。
途中、前を中年の男性が フラフラとよろめきながら歩いている。車道の方に倒れ込むようにもたつく。前を歩いていた 男性二人が両脇を抱えて助け上げる。
どうも 昼間からの酔っぱらいのみたいだった。(助けた二人は偶々の行きずりの人?)
その他にも ロシアでは男性の酔っ払いの姿をよく見た。飲まずにはいられない ロシア社会の男性の一端に触れた気がする。 -
⑯
それから 地下鉄で一駅のモスクワ川の上に駅舎があるヴァラビヨーヴィゴールィ駅で降り、雀が丘を目指す。
川沿いでは 韓国資本のヒュンダイが後援しているらしい市民マラソン?が行われていた。 -
⑰
リフトで丘に登る。(料金が「歩き方」で片道140ルーブルとなっていたが、実際は200ルーブル、時々 「歩き方」記載の料金が値上がりしていることがよくあった。)
リフトに乗っている時間は 短いが ロシアの秋風を堪能できた。 -
⑱
丘は道路工事中で 代わりの回遊道路が整備されていなかった。ただ それなりにモスクワの街は 眺望することができた。
観光バスで 多くの人が見に来ていたのは頷けられる。
私は行かなかったが 写真で見える通り モスクワには超高層ビルの一角もあるらしい。 -
⑲
反対側はモスクワ大学
最初は 何か恐ろ恐ろしい 異様な建物と思ったが、気づいてみると国立モスクワ大。
学問の府を権威、権力の府と表現しているような建物だった。 -
⑳
紅葉の広がりから モスクワは秋が深まっていると実感。 -
21)
再び、時間が無かったので リフトで降り、
川沿いの建物で 「モスクワ川クルーズ」の券を買う。
(これも 「歩き方」に450ルーブルと記載されていたが、500ルーブルに値上げされていた。)
ここで 失敗したのは 当然 「文化人アパ-ト」の先の船着き場で 船を降りられると思って、それを確認せずに おじさんから切符を買ってしまったこと。実際はクルーズにはいくつかのコースがあり、船着きを確認する必要あり。 -
22)
直ぐにやって来た 乗船する予定の小型船。
ところが 雀が丘が始発駅で、乗客が集まるまで待って、30分後に出航。 -
23)
船の旅は のんびりしていて 老人には合っている。
少し寒いが 船内に入ると 何かを注文する必要がありそうなので デッキのチェアーに座り 両岸の移り行く 風景を楽しむ。
馬鹿でかいモニュメント「ピョートル大帝」像が川岸に現れてくる。 -
24)
それから 昨日 訪れた「救世主キリスト聖堂」。これも巨大。 -
25)
同じくクレムリン。
他の都市と同じように モスクワが川を契機として 発展して行ったのがよく分かる。 -
26)
巨大な「文化人アパート」
建物の人工性を 自然との調和の中で 追いかける やさしさが感じられない。
ソ連時代の建物は「威圧」の表現としか思えなかった。
今も 巨大な国土の為か 大きいことは良いことだと思っている風に見えた。 -
27)
クルーズ船がターンして引き返した所。
計画では この先の船着き場で降りて 世界遺産の「コローメンスコエ」へ行くつもりっだたが、かなわず。 -
28)
また 同じ所を船は行く。
川から見た、赤の広場。 -
29)
同じく クレムリンの教会群。 -
30)
約1時間半の船旅、さすがに 寒いし かったるい。
昨日 多分タクシーで通ったであろう橋。 -
31)
やっと モスクワ大と 川上の地下鉄の駅舎がを見えてきた。 -
41)
それから
地下鉄で都心部に向かい、昨日行けなかった「アルバート通り」に行く。
ちょっとわかりにくいが 人の流れに沿うと この繁華街に着いた。
写真のこの先を右側に。 -
42)
現代のモスクワを象徴するおのぼりさんの通り。
結構な人出。 -
43)
スタバや土産物店が並び、路上の店も色々と。
写真のように絵描きさんの店も多い。 -
44)
何故か 軍用サイドカー(機銃のような武器付)の展示も。販売するの? -
45)
ストリートパフォーマンスの芸術家も多いが、ウサギのペットを売っている人も。 -
46)
腹も減ってきたので、ブログでよく出ていた、乳牛の実物大陳列を置いている「My・My」に入る。(最初の店はお客で一杯だったので 2軒目の同店に。) -
47)
写真は セルフ方式の列前後の人を参考に 私が選択した料理。(309ルーブル)
チェーン店で それ程 美味くは無いが 値段が手ごろで 市民からも支持されているのだろうと思った。
帰る時 地下階のトイレに行ったが、地下階の席は充分空いていた。 -
48)
通りの「マック」も覗いてみたが、注文客で列待ちの人が一杯。
対抗のアメリカ制裁で米国資本の店を閉じさせると ニュースで見ていたが どこ吹く風。ロシア中で米国資本の「VISA]や「Master」のカードも問題なく使えた。それだけ市民生活に根付いている感じがした。ロシアのウクライナを巡る対抗経済制裁の案も それ程単純ではないと思った。
帰りの地下鉄に乗る前に 食品スーパーに立ち寄る。都心部のスーパーで判断は難しいが 果物の種類は少なく、一般に値段は日本の感覚からいうと高そう。野菜は少なくとも1.3倍の感じ。(EUからの農産物輸入規制の所為か どうかは分からないが。)
残念だが 店内に店の従業員が多くて 店内の写真撮影できず。
写真は スーパーから地下鉄の駅「スモレンスカヤ」へ向かう道の辺りで、もう一度アルバート通りを写す。。 -
49)
地下鉄を降りた駅の食料品店で夕食代わりの 惣菜を買う。
「キエフカツレツ」が美味いことを ブログの色んなところで読んでいたので それらしいものを購入。(レンジで温めて貰う。)
ホテルの部屋で食べたが やはり出来合いのものの為か お腹は膨れたが 期待の割にはもう一つ。カロリーは高そう。 -
50)
都心のスーパーで買った、チョコレートは食べずに 日本に持って帰ることにする。
ロシアらしい包装。 -
(4)9月29日(月)
①
当初 モスクワの郊外に行く計画もあったが 13時半出発の 「サンクト ペテルブルグ」行の列車に乗り遅れると 面倒なことになると躊躇していたら 時機を逸した。
それで 朝食後ぼんやりホテルの自室でロシアのテレビを 見ていた。
朝のニュースワイドショーの様な番組が流れていた。勿論ロシア語で分からないが、映像から 50%近くがウクライナ問題の番組だった。
爆発現場、病院の映像、個人インタビューと現地レポートを多用して臨場感を高める手法だった。ロシア側から見たウクライナの惨状を訴えている。短時間のオバマ大統領の会見映像もあったが、多分これでは TVを見るロシアの民衆は ウクライナ現政権、欧米のひどさが刷り込まれてしまうだろうと思った。プーチン大統領の支持率の高さも理解できる。
ただ 一方で先々週のモスクワでの反プーチン(ウクライナ対応)の大規模集会開催も事実。マスコミへの不信も 一筋縄ではいかないロシアでの経験があるのであろう。
10時頃 ホテル近くのイズマイロヴォのクレムリンへ歩いて行く。(写真はその入り口) -
②
遊園地?の園内は
お休みなのかもしれないが、閑散とした廃墟のイメージの売店が続く。 -
③
園内の構築物から
確かに、ロシアは木造建築技術の蓄積のある国ということはよく分かった。
写真は五階相当の木造建築。 -
④
木造の巨大な教会。
組手など日本と共通する木造技術。 -
⑤
10時半過ぎ 土産物店が ぼちぼち開いて来て、その中の一軒で マトリョーシカ人形を購入した。(5個の入れ子 350ルーブル) -
⑥
帰り道、園内に新たに搬入されようとしている 中古武器。
中古武器の 換金の行先かと思い写す。(ちょっと日本では見慣れない風景。)
「生産」には貢献しなかった工業生産品の末路。観光遊園地の展示物。
武器投資 ロシアにはそんな 無駄が多発されているのだろうと想像された。
また 売れるものなら ところ構わず何でも売ってしまおうというという危険性も思った。 -
⑦
周辺道路には 巨大な「リムジン」が10台近く駐車されていた。
多分 観光遊園地経営資本と同じ系列の所有者だろうが、
同じく動いていないだけに、何故か 巨大で稼働性の裏付けのないものに 軽薄な投資をするのだろうと 日本人の私は疑問に思った。
-
⑧
ホテルに帰り、荷物を整理して 少し早いが12時前に サンクト ペテルブルグ行の列車に乗るため、地下鉄でコムソモーリスカヤ駅に向かう。 -
⑨
昔からの地下鉄駅(コムソモーリスカヤ)は 豪華な装飾品で飾られていた。
駅の構内に 警官がいたので あえて確認の為に、 レニングラード駅との連結方向を尋ねた。ちょっと嫌な顔をしたが 普通に返事をした。「公安警察」より「市民警察」に変わりつつあるのかなぁと思った。 -
⑩
ただ 豪華な装飾の駅とは別に 老女が階段をキャスター付のスーツケースを苦労して降ろしていた。(一応 階段に鉄のレールの敷設対応はしていたが。)
まだまだ 利用者のニーズに対応する細やかさは不足していると思った。 -
⑪
地下鉄の駅を出て、噴水のある彫刻像の左を 超特急列車「サプサン」に乗車する為に 駅舎に向かう。 -
⑫
ネットのブログで読んでいた記憶の通りと思い、構内に入るが、どうも雰囲気が違う。
銃を持った警官に英語で尋ねたら、「ニィヤット」と冷たく言われる。
引き返し、切符売り場の職員に尋ねたら、手を大きく回し 別の方向を示す。
日々 ロシアも 改造で変わっていることを実感。 -
⑬ 工事中だったが、地下鉄の駅の反対側に大きな通りがあり、そこが駅の入口。
ロシアは雪が降る気候の為か、全ての駅の入口が開放的ではなく 「入口」「出口」に分かれ ドアがある。
写真は駅舎を背に道路側を写す。 -
⑭
建物内は
形ばかりの 「セキュリティチェック」があり、広い駅構内は空港のよう。
切符窓口で Eチケットを乗車券に引き換える必要があるのか と尋ねたが必要はなし。直接改札へ。 -
⑮
写真は 私の乗車した758番サプサン号。
車両の入口で パスポート、Eチケットの確認あり。 -
⑯
車内は ほぼ満席で 席もゆったりして、違和感なし。
(ドイツの輸入車両?) -
⑰
車両は定刻に発車。
鉄道の隔壁には 欧州でもよく見られる 手間のかかった「落書き」が続く。 -
⑱
沿線には新しい大型の集合建築も。
ただ どうしても 画一的で個性が無い建物に見えてしまう。 -
⑲
レニングラード駅を出発して 30分も経たずに 車外の風景から、人家が疎らになって行く。モスクワの都市化の範囲が狭いと言うべきか、それとも日本の常識が世界の非常識と言うべきか? -
⑳
モスクワ近辺の河や湖の周辺は未開発で 自然のまま。手つかずの国土のイメージが大。
これで 辺境の北方領土の 狭い土地を日本と争っているのだから 何かちぐはぐの感じ。
日本も離島を開発する力はそれ程ないが ロシアはそれ以上に無いのが分かる。
日本も国境線の問題と捉えるよりは 北方諸島の共同開発と視点を変えた方が 納得性があり、実利があるように思えた。
(勿論、簡単ではないが 古い面子の国境のイメージから 新しい生活の場としての共同の場的な考え方の導入の方が 将来志向に成り得る。例えば 日本からは 単なる漁業資源だけでなく 観光開発の場とも考えられる。
自然のまま残し、後世に判断を任すという選択は無論あるが。) -
21)
偶に 現われてくる 人家も 農家と言うには 周辺に耕作地が少なく、貧しそう。
この沿線がそうかと思って 眺めてみたが やっぱり 普通現われてくる「工業」に関係するような地域の風景には一度も出くわさなかった。軽工業的なものもなかった。ほぼ原野の連続。
特異な経験。 -
22)
隣りの テーブルでは パソコンを見たり、スマフォを見たり、電話で話したりと 結構忙しそうなビジネスマン達? 窓際の一人は 日本でよく見られるように 途中から完全に眠ってしまったが。 -
23)
私は 食堂車に見学がてら行ったが、売店しか連結していなくて サンドイッチを買って食べる。180ルーブルの価格だった。(写真)飲み物を買うのは止める。
車内にも販売のワゴン車が回ってきていて、利用する人多し。
乗客は 都市部の地下鉄と較べ 豊かそうな人が多いように思われた。
車内のトイレも綺麗。 -
24)
途中 数駅に停車したが、日本の小型市町村レベルの街並み。人影もまばら。
途中駅には 使用されていない 古ぼけた客車の滞留をよく見かけた。
こうして 西欧型の超特急車が地方にも走り、目に見える形で現代化が進んで行っているのかなぁと思った。(取り残された意識もあるだろうが。) -
25)
サンクト ペテルブルグに近ずくにつれ、広い農地が見えてくる。 -
26)
到着予定の20分前近くなると、稼働していない様子の工場や火力発電所が見えてくる。(写真は広い発電所の敷地。) -
27)
4時間半の乗車時間の後 18時予定通り到着。外はまだ明るい。
駅構内には タクシーの客引きもいたが 多くの人の流れに沿って地下鉄に向かう。
写真 駅舎の構内の左側に地下鉄の入口あり。 -
28)
駅の案内表示もキリル文字以外にアルファベット表示もあり、少し楽。
ただこの時点では 地下鉄を現すMが デザイン化されていた為に Vに見えて 何の頭文字だろうと不思議だった。 -
29)
窓口で地下鉄の回数券カードを購入した。女性の係りの人に何かを尋ねられ、英語でよく分からないままに 対応した。
渡された結果 MasterCardのクレジット付の販促用カードで 単なる回数券カードよりは安かった。(勿論私はクレジットには加入しないが。)ロシアで初めて 予定以上のサービスを受け ちょっと感激。
写真は モスクワと同じ 深い地下鉄乗車のエスカレータ。 -
30)
ホテルのある 1号線のプローシャチ・レーーナ駅に着き、
駅からの道を少し間違い、軍の施設の外に沿って歩く。
(実際は 軍の施設の中を通れる。)
それで 中古の軍用品が展示されていたので 写真を撮る。
軍需産業がロシアの一大産業で 主要輸出商品であることを 後で知る。 -
31)
道路を渡るところが分からず、行きあった人に尋ね、橋の下を潜らねばならないと知る。カートを持ち、登り、降りが面倒で 余計に歩かされて腹が立つ。
車優先の社会めと。
行き交う車は新しいものが多く、欧州の車、日本の車も散見される。ロシアの車は殆んど見かけない。
写真は自動車専用道路のような所を渡り、一息吐いたところ。後方はネヴァ川。 -
32)
20分近く歩いて やっと到着した「サンクト ペテルブルグ ホテル」古くて馬鹿でかい建物。
(建物の上部にはサムスンの大きな電飾がある。)
ホテルのレセプションは 狭くて モスクワのホテルよりは手馴れていなかったが、
無事にチェックインできた。
事前にネットでボロボロに日本人ユーザーから書かれていたので 私は覚悟を十二分にしていた。
まぁ ユースホステルに泊まる気分。 -
33)
私の部屋は五階のはずれ。(廊下が長い。)
実際 歩く床のカーペットは汚れ、波打ち、壁はむき出し。
想像以上の荒れようで ブログで「絶対泊まってはダメ。」と書かれていたことを思い出し、暗澹たる気分。
(お金が無いから仕方が無い。と重い足で 慰め歩く。) -
34)
ぺラペラのドアを開けて入れば
部屋の中はそうでもない感じ。
夕やみの照明の所為で 綺麗に写っている為もあるが 日本のユースよりはまし。
一安心した。 -
35)
シャワーの排水が室外の床に流れ出すとか問題もあったが、一人寝るのには充分。
給水も 勿論飲めないが 色付きの臭いのするものではなかった。 -
36)
窓の外を眺めれば 夕暮れのサンクト ペテルブルグ の街がネヴァ川の向こうに広がる。
これで一泊(朝食付き)14400円の高さには納得は行かないが ロシアの現実かと思う。
手前の岸壁に巡洋艦「オーロラ号」が博物館として係留されているはずだったが、姿が見えなかった。帰国して調べると 9月に補修の為 ドッグ入りしているとか。
一つの絵になっただろうに 残念。 -
37)
夕食に ホテル近くの夜の街を歩いたが、適当なところが無く 日本から持参していた もう一つのカップラーメンを食べて眠る。
写真は結構 夜のライトアップが派手なサンクト ペテルブルグ の夜景 -
(5) 9月30日(火)
①
朝食のバイキングは 予想していたよりも 種類が豊富で満足した。但し、7時半からしかオープンしない。
客は殆んどロシア人らしき人。 -
②
部屋から見る ホテル前の自動車専用道路みたいな所には 朝の通勤の車で一杯。
遠くに イサク聖堂のドームが際立って見える。 -
③
ホテルから 写真のところのゲートを通れば ほぼ一直線で地下鉄の入口に達する。約10分。
一般の市民が通行していたので 私も真似る。ゲート兵士の咎めはなし。
敷地の中では新兵らしき人達が訓練を受けていた。 -
④
写真は敷地の出口のゲート。駅からは このゲートを目指して 約3分歩く。
私の場合 夜間(10時過ぎ)も通行できた。 -
⑤
駅前の広場で レーニン像の写真を撮っていたら ロシアの旅人らしき人にシャッターの依頼を受け、私も彼にお願いして 写した写真。
私はウインドブレーカーにウエストポーチだけで 両手を空け かなり身軽な格好で今回の観光をしていた。パスポートなどの貴重品はチョッキのポケットの中に収納。 -
⑥
地下鉄の乗客の様相も モスクワより少しあか抜けて見える。
街に外国人観光客が多いせいか フレンドリーに感じる。
(英語が受け入れられている為か?)
ただ 夜間は ここも疲れた顔の人多し。 -
⑦
地下鉄駅構内の案内標示も分かりやすい。
例えば 写真の標示の場合
5号線はこのプラットフォーム左右から、2号線は向こうの階段を上がって、地上出口は この階段を下がって、と直感的に分かり易い。 -
⑧
アドミラルチェーイスカヤ駅で降りて
まず最初にエルミタージュ美術館へ。
写真は宮殿広場から。
(広場の「観光案内所」に立ち寄ったが、英語で対応してくれ,普通の感じ。) -
⑨
入口の 仮設小屋の所で 赤地表示の立て看板があり ネット予約券と入場券を引き換える。 -
⑩
それから 館内の切符売り場の列をパスして、トイレに先に行き 入場。
館内は朝一番に近いが 結構混雑している。(当日、日本語版のフロアガイドは無く、英語版を入手。)
写真は「大使の階段」 -
⑪
宮殿部分は見物客も多く ザート見る。
西欧の宮殿は遠目には豪華だが 細部の細やかさが私には不満な時がよくある。
ここも そうだった。 -
⑫
空中庭園を見て、 -
⑬
イタリア美術(レオナルド・ダ・ヴィンチ)を見て -
⑭
ラファエロの回廊を通り -
⑮
オランダ美術(レンブランド)を見て -
⑯
ロシアの??? -
⑰
イタリア美術?
この辺りから 少し自分の居る位置が分からなくなる。 -
⑱
三階のフランス美術に行くことで 自分の位置を取り戻す。
ルノワール -
⑲
どこかで見かけた絵で安心。
ルノワール、セザンヌ、モネ、ゴーギャン等 一杯展示されていた。 -
⑳
ゴッホ、マティス、ピカソと続く。
特にピカソは思いがけず若い時代の作品が30点ばかりあり、堪能する。
座りながら見たが さすがに疲れた。 -
21)
それから 同じ3階の 極東と中央アジアのエリアに入る。 -
22)
日本の甲冑、浮世絵版画もあったが もう一つ。 -
23)
敦煌の壁画もあり 収集範囲の広さは理解できた。 -
24)
途中で外の景色が見え、トイレにも行きたくなったので 本日の鑑賞は これまでと諦め、外に出る。
(約3時間の見学時間。) -
25)
美術館の外の販売車で売っていた、ロシアの惣菜パンを買い、 -
26)
直ぐ裏の ペテルゴーフ行の高速艇の乗り場に行く。 -
27)
2時の乗船時間に30分ほどあったが、先ほど購入したパンを食べながら、待つ。 -
28)
乗船した高速艇。料金 行き700ルーブル 帰り500ルーブルで「歩き方」より 片道200ルーブル値上げしていた。
何故か 船の前方室に入ろうとしたら、係りの人間に禁止され 後方に移る。 -
29)
船はネヴァ川の河口からフィンランド湾に進む。
写真は河口の奇妙なデザインのロストラ灯台。19世紀初めに建造されたとか。
船には ジャルパックのツアー中の日本人が数人乗ってきていた。 -
30)
約30分の乗船で ペテルゴーフの桟橋に着く。
数隻の高速艇が係留されていた。
吹く風が寒い。 -
31)
船を降りた桟橋の出口で 切符売り場のブースがあり、ちょっと躊躇していたら、婦人から「日本の方ですか?」と声を掛けられた。その方に切符の買い方を日本語で教えて貰った。ジャルパックの現地添乗員の方のようであった。(親切)
公園部分のチケットを買い、宮殿方向に歩く。 -
32)
途中で右折れし、イブの噴水の前を通り、トイレの表示があったので 丘の方に向かう。途方もなく広いことが分かる。
5時の最終船乗船を考えていたので 全部見ることは諦める。
西欧の庭園は同じような連続の広がりに見える。
反対の極致 東洋の盆栽、箱庭とは大分異なる。 -
33)
紅葉の盛りを歩く。
西洋の公園は 馬車に乗って、或いは 宮殿の中から見るのが相応しいが、
紅葉の時は 歩くのも良いものだった。 -
34)
池の噴水。(名称「イタリアの噴水」だとか。) -
35)
そして「ピュートル大帝の宮殿」へ。 -
36)
サムソン像を中心とした 宮殿前の噴水群。
さすがに9月末で 噴水は寒々しい。10月の半ばには噴水は止められるとか。 -
37)
宮殿側から 噴水群を通して フィンランド湾を見下ろす。(一本道)
ロシアの支配層の世界への思いは強かったのだろうと想像できる。 -
38)
見学の時間も充分なく 午前中にロシアの宮殿は見ていたので、
宮殿内部の見学入場は諦める。 -
39)
左手から 丘の上で 垣間見れば こちらからの入退場も出来て、陸路サンクトぺテルブルグへ帰るルートもあったみたい。 -
40)
登って来た時の左右反対側を降りる。 -
41)
アダムの噴水側に行き、 -
42)
エカテリーナ棟側を散策し -
43)
水鳥が餌をねだる横を通って 桟橋に出る。 -
44)
船に乗り込む前に 振り返ってみた「ペテルゴーフ」
少し 軽い雨が降り出していた。 -
45)
湾岸部にも 余り産業らしい産業が見当たらなかった。
昔栄えたであろう 造船業の名残はあったが、現在のドッグには補修の船のみが見える。
船の中での 観光絵葉書を販売する人の 説明・売り込みの声も小さく 実際 誰も買わない。 -
46)
行くとき出航したエミタージュ美術館が見えて来て、そこで下船した。
帰りの乗客は数人だった。ジャルパックの人達の姿も見かけなかった。 -
47)
帰りは 目抜き通りの「ネフスキー大通り」を歩くことにする。
途中 夕食に立ち寄った、シトーレ店 -
48)
ロシアのパイのチェーン店らしいが 帰宅時と言うこともあり、多くの客。
セルフ方式だが 手際良い応対で感じが良い。 -
49)
肉入りのパイを 二つ頼んだ。 美味しくて、ボリュームもある。
285ルーブル。お客の多いのも納得。 -
50)
通りには 幾つかの運河が交差し、北方のベニスと言われるのを理解。運河巡りの観光船も多そう。 -
51)
血の上の救世主教会も運河の向こうに見える。 -
52)
アーケード街にも立ち寄ったが 男性の旅行者には買うべきものは見あたらない。 -
53)
日本で言えば銀座みたいな所かと理解。
夕刻で 多くの人が歩いていた。 -
54)
「歩き方」に記載されていたので また モスクワのガイドさんからも モスクワの店の評判を聞いていたので、ロシアでうどんも一興だ、との思いで訪ねて行った「丸亀製麺」の店。
残念ながら閉店のようす。店の前でロシアの若い人も写真を撮っていたので 尋ねたら「クローズ」と返事をされてしまった。その時はロシア語の張り紙に気づかず。勝手に定休日の休みかと理解した。 -
55)
仕方が無いので、通りの端のフローシャチ・ヴォススターニャ駅まで プラプラ歩くことにする。
それで 大よそのサンクトペテルブルグの街の規模が理解できた。
途中ケンタッキーフライドチキンの店にも立ち寄ったが 満席で諦める。 -
56)
写真の地下鉄の駅から 1号線でプローシャチ・レーーナ駅に戻る。 -
57)
駅の近くで ロシア式コンビニの様な食料品店があり、肉惣菜入りのパン(51ルーブル)を又選んで、 買って帰る、パック紅茶を入れて 部屋で食べる。
今日も良く歩いた。 -
(6)10月1日(水)
①
朝食をしっかり食べ、出かける。 -
②
まず ホテルから歩いて 18世紀に建造され、数奇な運命の「ペトロハヴロヴスク要塞」へ
徒歩約20分。 -
③
要塞は 島のように 陸地から孤立されている。 -
④
敷地は無料の公園のため
朝の散歩やジョキングする市民の姿を見かける。
入口の「イオアンオフ門」 -
⑤
更に内部の門
「ペトロフ門」 -
⑥
皇帝一族が埋葬されている「ペトロハヴロヴスク聖堂」 -
⑦
要塞から対岸のエルミタージュ美術館方向を写す。 -
⑧ネヴァ門から 要塞方向を写す。
ここは 現在水上バスの乗り場にもなっているみたい。 -
⑨
この後 トイレに行きたくなって最初の有料トイレで 何故か断られた時から 通り掛かった若いロシアの男性が 私を助けてくれて 一緒にトイレを探して 交渉してくれる。
歩きながら話したら、シベリアからの旅行者だそうだ。断れ続けて 最終的に敷地外のトイレを案内して貰っていたら、納まってきたので 私はそのまま お礼を言って 地下鉄の駅に向かうことにする。
ホテルの宿泊者もそうだが。サンクトブルグには自国ロシアの観光客も多そう。
写真は2号線の「ゴーリコスカヤ」駅 現代的な建物。 -
⑩
地下鉄で対岸に渡り、「コスチーヌイ・ヴォール」駅で降り、駅前のブースの人に尋ねて、明日のエカテリーナ宮殿ツアーの予約券を購入する。
ロシア語のツアーが安いことは分かっていたが 何かあった時のことを考え、英語ツアーを選択。(2000ルーブル)「プーシキン行きツアー」で販売されていた。英語ツアーの販売のおじさんは 英語は片言だけれど親切。
それから 近くの「ロシア民俗学博物館」へ。建物は改修中で 入口が分からなかったが、隣接の「ロシア美術館」の並びに入口があった。
写真は入館したところのギリシャ風の大きなホール。 -
⑪
大きな建物で 学童が引率されて沢山見学に来ていた。 -
⑫
展示は具体的で 新しいものも有り、見易く、分かり易かった。 -
⑬
地域の生活文化が ブースごとにマネキン人形を使い表現されている。 -
⑭
極寒のエリアから 砂漠のエリアまで -
⑮
多様な風習も兼ね備え、 -
⑯
労苦も表現され -
⑰
多民族の国であることが、一杯表現されている。 -
⑱
地図で見ると、一つのロシアだが 色分けされているように 多様な文化の国であることが分かる。 -
⑲
夫々のエリアの優れた工芸品も展示され、力の入った博物館だった。
見学した子供達はどう思ったであろうか? -
⑳
それから 隣りの「ロシア美術館」へ。 -
21)
「エルミタージュ美術館」ほど 期待していなかっただけに、私はロシアらしさを多く感じた。 -
22)
歴史的題材の絵や風景の絵に ロシア的なものを感じたが それ以上に
肖像画に目を奪われた。 -
23)
無知で いわれも作者も 私は知らないが -
24)
記憶に残る絵だった。
残念ながら 枚数が多くて 全てをここには掲載できない。 -
25)
ここでも 学童が 絵の説明を受けていた。
子供達も熱心に聞いていた。 -
26)
美術館は宮殿の跡とか、それなりの宮殿の様子も残っていた。 -
27)
階段の所に 胸像があり、そこに(1895年〜1898年)と書かれていた。1904年日露開戦の10年前に この宮殿が建てられたとしたら 日露の国力差は如何ばかりだったかと想像して驚いた。ロシアのシベリアの先の僻地での戦いであったからこそ 日本は勝てたのかと思った。 -
28)
それから 運河沿いの 「血の上の救世主教会」に行く。 -
29)
残念ながら 今日はお休みか 入口が閉まっていた。 -
30)
それで 「夏の庭園」に行こうとして、マルスの原を通った。
写真は マルスの原の中央で「慰霊・鎮魂の永遠の火」が燃えていたので写す。 -
31)
ところが 原の端から「夏の庭園」の渡る 横断歩道が見当たらない。どうも道を戻らなければいけないようだ。
写真は 道路の向こうに「夏の庭園が見えている」
諦めて 「エルミタージュ美術館」に向かう。 -
32)
昨夜、ホテルで美術館のまだ見ていないところを確認しておいた。
本日、再チャレンジ。
(本日、日本語のフロアガイドパンフレットあり。)
その意味で、入場券を二日間券にしておいて 正解と思う。 -
33)
一階の「古代エジプト」を見て、 -
34)
昨日 途中までしか見ていなかった「古代ローマ」を見て -
35)
二階に上がり
昨日 じっくり見ていなかった 「スペイン美術」を再訪して -
36)
窓から 本日の朝 訪れたネヴァ川の対岸の「ペトロパヴフスク要塞」を
眺め、
(実際 この美術館は建物配置が途中に運河を挟み、4棟に分かれていることを本日気づいた。宮殿広場から見える建物だけと誤解していたが 途轍もなく大きい。) -
37)
それから フランス、イギリスの絵画を見て -
38)
ロシアの美術、宮廷備品?を見て -
39)
当時の機械類の展示もあり、それなりに芸術品。 -
40)
皇帝の図書室も見学して -
50)
皇帝一族の衣装・礼装等の特別展示も見て引き上げる。
(特別展示は写真撮影禁止) -
51)
両日で5時間位の見学時間を要したが、エルミタージュ美術館全部は見て回れなかった。
正直、数部屋に渡って テーブル一杯に 古今東西の料理を並べられ 好きなものをどうぞと言われても 知識もなく、手当たり次第に食べ 食傷した気分。
勝手に食べたのだから 文句を言う筋合いはないが。
写真は 退出後 煙草を吸い、休憩した 美術館の中庭。 -
52)
それから
昼夕食 兼用に 昨日食べた 「シトーレ」で また分厚い肉パイを食べる。
店には 今日も良く お客が入っていた。
食後 本日の最終イベント ミハイロフスキー劇場でオペラを見る為、地下鉄に乗る。 -
53)
地下鉄駅「サドーヴァヤ駅」で降りると、歓楽街風の様子で 路上の飲み屋も散見される。
ここから 劇場まで約25分と かなり遠くへ歩く必要があり。(ブログで この劇場の行き帰りの話題が散見され、ホテルでタクシーを行き帰り予約するのが最適と推奨されていた。)MAPS.MEの助けも借り、覚悟して歩き始める。 -
54)
途中 ストリートヴューで確認しておいたニコライ聖堂もあり、安心して ついでに敷地内の公園も見学して -
55)
サンクトぺテルブルク音楽院も、グリンカの像も確認して -
56)
安心してマリンスキー劇場の建物を撮影する。 -
57)
切符売り場で いつものように ネットの予約券を引換のために提出したら、女の係りの人は息を呑んだように驚き、「これはこの劇場のではない。」という。
そして 私の質問に 「近くは無いので 今から行っても間に合わない。」と言う。
愕然としたが、気を取り直して 空いている席はあるかを尋ね、一番安い席をお願いした。(640ルーブル)
写真は古い伝統のあるらしい劇場のロビー。 -
58)
席は 最上階の 日本で言えば 立見席だけれど、実際はそれほどひどくはなく 舞台は一応見ることができた。
思い起こせば モスクワの劇場の予約に気を取れ、ペテルブルグの劇場予約は簡単に 演目「エフゲニー・オネーギン (オペラ)」を確認して 予約券をプリントアウトして 予定スケジュールに「ミハイロフスキー劇場」と記入して安心していた。途中 色んなブログを見てるうちに、一方的にマリインスキー劇場と思い込み、何故か取り違えてしまった。 -
59)
かなり気落ちして、オペラを見る。
オペラは心理劇のようで 歌は上手いが
筋書きはさっぱりわからない。
最期に 女性の主人公は息絶えるが。
字幕もロシア語。 -
60)
日本に帰って調べると、プッチーニの1896年初演 イタリア歌劇「ラ・ボエーム 」だった。パリ、カルチエ・ラタンのボヘミアン仲間の物語。
見物客もドレスアップをした若い人が多かった。
ロシアの若い女性はとても綺麗だけれど 女性の年老い方はあまり上手でないと改めて思う。 -
61)
夜 10時近くに終演になり、車やバスで帰る人が殆んどだったが、地下鉄駅「サドーヴァヤ駅」まで歩いて帰り、11時前にホテルの部屋に無事帰った。
それなりに 駅の周辺は怪しい雰囲気も匂ったが 世界の都会のどこの街にでもある範囲内と言う気がした。(女性にはお勧めしないが。)
途中地下鉄乗り換え駅「プーシキンスカヤ」で 駅の装飾もモスクワよりは洗練されているかなぁと思い写す。銘板みたいな所に1955年の表示があり、ソ連が元気だったころの作品かと想像した。 -
(7)10月2日(木)
①
朝焼けのサンクトペテルブルグ。(ホテルの自室から。) -
②
今日もしっかり朝御飯を食べ、
(朝食会場に入る際、カウンターのストールに腰かけた女性から 声を掛けられ、部屋番号のチェエックを受ける。2,3歩だけれど 客が歩み寄らねばならない普段とは違う行為に 不快を感じる。
昨夜 留守宅状況を尋ねた私のメールに 娘から「メール料金が掛かる。」と再質問を拒絶してきたことに 腹を立てていたが それを含めて どうでも良いようなことに 年老いて 即立腹する自分を反省する。) -
③
ホテルの部屋から見える 「イサク聖堂」を 今朝はまず目指す。 -
④
地下鉄を乗り継いで 着いたイサク聖堂。
近くで見ても 大きい。 -
⑤
正面の自動販売機で 塔に登る入場券と合わせて切符を買い、(合計400ルーブル)聖堂に入る。
18世紀半ばに建築されたもののようだが 信仰の場所と言うよりは、観光施設の感強し。巨大なホール空間を一巡して終わり。
入口に 若い案内英語ガイドもいた。 -
⑥
それから 一旦外に出て 別入口から塔に登り、回廊からサンクトペテルブルクの街を見下ろす。(階段に段数が記入されていて 目安が付きやすい。)
ネヴァ川、昨日の要塞島、エルミタージュ美術館等を見渡すことは出来た。
ただ
景観は ごちゃごちゃしていて 街の都市計画はすっきりしていなかった。 -
⑦
血の上救世教会も見える。
サンクトベテルブルクは 結構大きな都市。
下りは別の階段から降りて、聖堂の裏側に出る。 -
⑧
それから ぷらぷら街を見学して 目抜き通りの「ネフスキー大通り」に戻り、
カザン聖堂に行く。
両手を広げ 迎え入れて呉れる様な 建物デザイン。 -
⑨
ここは 入場料もなく、入ってみれば 人々の祈りの場所。 -
⑩
祭壇?に 何かを個別にお願いする信者の列。
私も しばし 老女達と同じベンチに座り、敬虔な雰囲気の中で 時を過ごした。 -
⑪
聖堂の外は 通りに面した小さな公園。
ロシアでは 教会の外で 喜捨を願う老人の姿をよく見かけた。ここでも老女が施しをお願いしていたが 応える人も結構いた。 -
⑫
運河の向こうに「血の上の救世教会」が見えた。もう観光の教会には行く気がしなくなり、少し早いが 本日のバスツアーの集合場所に向かう。 -
⑬
そして
大通り沿いの この建物の横の駐車場スペースが ツアーのバスの待機所だった。
昨日の予約券を販売してくれた 親切なおじさんにも会えて 一安心。 -
⑭
それで 時間まで 通りの角の喫茶店で過ごす。
モスクワもそうだったが、ペテルブルクにもトイレが無い。
公衆トイレが少ないし、駅には無いし、教会にも見当たらなかった。
行ける時に 行っとかなければの意識が常にあった。
結局分かり易い 喫茶店に入ってしまう。
私にとってコーヒー100ルーブルは高いトイレ代?? -
⑮
14時定刻に15分位遅れて エカテリーナ宮殿行きのツアーバスは出発した。
参加者は インド系の夫婦、オランダの男性老人二人連れ、英国か米国か分からない 旅の途中で知り合ったらしい男性3人と女性1人のグループと私の9人。
写真は市街で バスの中から見た兵士・市民の彫像群。
ここは 第2次大戦の激戦地「レニングラード」(100万人以上の死者を出したとか。)であることを思い出した。
中心部「宮殿広場」の近くに「レニングラード防衛とバリケード博物館」があることは知っていたが、立ち寄らなかった。ちょっと後悔の胸が痛んだ。(広島に行って、「平和公園」に立ち寄らなかったようなものかと。) -
⑯
市街の広いエリアでは 道路沿いに 西欧の自動車メーカーのショウルームが立ち並ぶ、日本メーカーのも。高速道路の立体交差も写真のように見えてくる。だが 大規模な工業生産地的なものは目につかなかった。
車内では ガイドさんが英語で案内をしてくれる。私には殆んど理解できなかった。途中で オランダの老人が プーチン大統領の冗談らしき茶々を数度入れる。ガイドが慎重に受け答えをする。さすがに後ろに座った女性が固い声で嗜めて止まったが。 -
⑰
30分少し走って、宮殿のゲートを通る。敷地の中は 広い公園。
公園の路上にバスを留め、歩いて「エカテリーナ宮殿」に向かう。
写真はそのゲート史跡。 -
⑱
ツアーだから ガイドさんに付いて行くだけの気楽さ。
但し 西欧人たちは身長が高いので 歩くスピードは速い。
そして エカテリーナ宮殿の建物が見えてくる。 -
⑲
入って
最初の金ぴかの大広間。 -
⑳
次々と 華麗な部屋が続き、ガイドさんが説明を繰り返す。 -
21)
宴会の場所とか -
22)
花を飾った場所とか -
23)
色調の変わった女性的な場所とか -
24)
もう一度 大広間を通り 反対側に出る。
結婚のカップルなのか、商業用撮影なのかは分からないが 大広間で撮影をしているグループを見かける。床の防護の為 我々は靴カバーを付けていたが、カバーをしていない。かなり傍若無人。
夕刻で見物客も写真の通りまばら。 -
25)女王の衣装は随分大きそう。
金箔部分には 感心しなかったが、全ての部屋の木目の床は寄木模様が立派。 -
26)
ドイツ軍に持ち去られ 2003年に再現されたとか言う 有名な「琥珀の間」
二人の女性監視員の先の間。壁が一部茶色に見えるところが「琥珀の間」。(撮影禁止)
別段 全面の琥珀に圧倒されても 私は特に感動はしなかったが。 -
27)
私的な食堂。
食器よりも 幾つかの木製家具は立派だった。
それから、皇帝たちの執務室、肖像画等を見て
退出した。1時間少しの見学時間。 -
28)
外に出ると
宮殿は 補正改造工事がまだ 大規模に続いていた。
私の感想は 宮殿には生活の匂いがせず、動きのないデェズニーランドの豪華版を見た感じだった。 -
29)
それから
一行の他の人達は 思い思いに 構内の庭園や他の建物を巡って行った。
誘われたが 歩くスピードが付いて行けないことを恐れ、1人近辺の散策を選んだ。
此処も紅葉の盛り。 -
30)
ベンチで煙草をふかし、他の人を待った。
サンクトペテルブルクはレニングラード包囲戦の人類遺産を大事にしていないなぁと思った。ただ「鎮魂」だけの観点からの記念の所があっても良いのではないかと
単純な日本人の私は 秋の雲を見ながら思った。広島・長崎・沖縄等の慰霊の地のように。
(歴史解釈とか、余りにも酷いことを経験した為とか 難しい壁もあるだろうが、人類が後世に伝えなければいけない史実のはず。現在のロシア人にも重たい経験・桎梏として 今も引きずっているように思われた。) -
31)
6時ごろ 皆が揃い、バスは出発する。街はラッシュが始まっていて 来た時とは違いバスの動きは遅い。
建築中のビルを見ていたら、クレーンで壁を吊り上げ 柱の無いところで躯体を組み立てていく。日本との違いに少し驚く。
帰りのバスでは 私にも「ヒロヒトのファミリー」と茶化していたオランダ人らしからぬ老人も眠ってしまったのか静か。 -
32)
7時過ぎ、バスは出発地のネフスキー大通り沿いの小さな駐車場に戻り、皆と別れた。
それから 先日休みだった「丸亀製麺」に行こうと思い、行ってみたが 店の電気は消えていた。がっくり。 -
33)
仕方がないので 面倒くさくなり 近くのロシア料理レストランに入り、最後の夜を堪能しようと思った。 -
34)
レストランは結構客で一杯。 予約無しの一人客は 余り歓迎されていない感じで 2階の 通路と手すりの間の落ち着かない席に案内される。
写真付のメニューでロシア料理を注文するが ウエイトレスから 辛いとかの理由で推奨されない。(親切)それで面倒になり 日本のラーメンの様なものを注文する。 -
35)
写真は20分位して やっと出てきたラーメン(400ルーブル)。まぁまぁ美味い。
親切なウエイトレスも忙しそうなので 追加の注文はやめて 勘定をして出る。 -
36)
さすが 目抜き通りで 夜も賑やか。 -
37)
地下鉄の駅近くの
大きなショッピングモールに入ったが、閉店時間。 -
38)
モール地下のスーパーに入り、閉店時の見切り商品を狙うが そんな物は無し。
写真はスーパーの入口。 -
39)
夜食用パイとお土産用のチョコレート等を買う。
店は洗練された高級スーパーで お客もそれなりに入っている。
それから 地下鉄に乗り ホテルに帰った、 -
40)
ホテルの前の喫煙所で煙草を吸っていたら、アルコールが入っているらしい中年男性が近寄ってきて、あまり上手くない英語で何か言う。夜間で周囲は暗く 人もいないので 面倒なことになると困るなぁと思っていたら どうも「シナ人か?」と尋ねられているみたい。「いや 日本人だ。」と答えたら、「Japan、Good」と言って、笑顔になり、何かを言って 去って行った。日本人は嫌われていないみたい。
それから 部屋に帰り、スーパーで購入してきた商品を写真で撮る。
パイを食べて 満足して ロシア最後の夜を眠った。
「そして ロシアからフィンランドに」https://ssl.4travel.jp/tcs/t/editalbum/edit/10943322/?pict_id=35868578#pict_35868578に続く。
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