2014/09/17 - 2014/09/18
541位(同エリア1340件中)
ひま人さん
日本城郭協会が選定した100名城を改めて訪ね歩いています。今回は、山陰の4名城の鳥取城、米子城(この城は100名城に選定されていません。)、月山富田(がっさんとだ)城、松江城を訪れました。鳥取城は羽柴(後の豊臣)秀吉により、一切の補給路を断つ「兵糧攻め」に遭い落城しました。米子城は明治2年(1869年)、士族に払下げられ、すべての建物が取り壊されました。月山富田城は尼子氏の居城でしたが、毛利氏に滅ぼされ、後に堀尾氏が城主となりますが、堀尾忠晴が松江城に移り廃城となりました。以上の3城は、平山城で城跡でしかありません。松江城は堀尾忠晴氏が、月山富田城は中世山城で近世城下町形成に不利であったので、松江城を築城し月山富田城より移ってきました。
山陰の城の歴史を再認識する100名城旅でした。
表紙写真は「松江城天守閣」です。
- 旅行の満足度
- 3.5
- 観光
- 3.5
- ホテル
- 3.5
- グルメ
- 3.5
- ショッピング
- 3.5
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 1万円 - 3万円
- 交通手段
- 観光バス JRローカル 私鉄 徒歩
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久松山(標高263m)山頂にある鳥取城本丸跡。国指定史跡。全国統一を目指す織田信長は、中国地方の勢力を持つ毛利輝元と対立し、天正8・9年(1580・81年)の二度にわたり、羽柴秀吉を総大将とし、鳥取城を攻めました。鳥取城は、久松山の自然地形を利用した山城でしたが、秀吉は70ケ所以上の陣城を配置しました。2度目の侵攻の際、天然の要害である久松山に立て籠もった吉川経家(きつかわつねいえ)に対し、圧倒的に兵力に勝る秀吉軍は、徹底的な包囲網を敷き、陸上・海上を封鎖して一切の補給路を断つ「兵糧攻め」作戦を行いました。
籠城戦に耐えた鳥取城ですが、やがて兵糧も尽き果て、人肉を食べるほど悲惨な状況におちいったと言われています。ついに経家は、部下の命と引き換えに自刃し、鳥取城は落城しました。
尚、本丸跡へは最近の豪雨による倒木等で通行止めになっていました。 -
鳥取城二の丸跡石垣。
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二の丸跡への中仕切り門。
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二の丸跡石垣。
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二の丸跡石垣。
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太鼓平石垣。
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掘割。
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鳥取城主・吉川経家公像。
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仁風閣(にんぷうかく)、国重文。鳥取城跡の敷地に、明治40年5月建築。完成と同時に時の皇太子殿下(後の大正天皇)の山陰地方行啓の宿舎として使用されました。
フレンチ・ルネッサンス様式を基調とした白亜の木造瓦葺二階建て、バロック風な軒飾りがほどこしてあり、正面右側には螺旋階段のために角尖型の塔を突出させて、この建築の特徴を出しています。
仁風閣の名は、この時随行した海軍大将・東郷平八郎の命名で、今もその直筆が二階ホールに掲げられています。 -
「全国山城サミット鳥取大会」を鳥取砂丘の砂で鳥取城のモニュメントで宣伝していた。
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米子城跡、国指定史跡。米子城桝形。敵の侵入を遅らせたり、迷わせる造り。
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桝形。
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旧小原家長屋門。米子城主荒尾氏の家臣であった小原家の屋敷の一部で、城下の西町から二の丸跡の一角に移築されたもの。
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米子城天守台石垣。米子城は西伯耆の領主となった吉川広家が天正19年(1591年)に築城を開始したものと言われます。しかし、慶長5年(1600年)の関ケ原合戦に敗れた吉川氏は完成した城を見ることなく岩国へ国替えとなり、替わって伯耆国18万石の領主として封ぜられた中村一忠により、慶長7年(1602年)に完成されました。
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米子城石垣。
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天守閣礎石。米子城は湊山(みなとやま・標高90m)に築かれ、別名「久米城」とも呼ばれ、山陰地方で他に先駆けて築かれた本格的な近世初期の城郭です。山頂に五重の天守閣と四重の副天守閣の大小二つの天守を持つ壮麗な城で、周囲には二重の堀が巡らされていました。当時の建造物は全て失われてしまいましたが、石垣や礎石などは城郭の形態を留めています。
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本丸跡。
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天守台跡より日本海を望む。
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月山の麓にある安来市立歴史資料館。安来市の古代から中世、近世にかけての歴史を展示しています。
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月山鳥瞰図。
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月山富田城。月山(標高197m)山頂に築かれた山城です。歴代の出雲国守護職の居城で戦国時代(1396〜1566年)には、尼子氏の本拠地となり以後尼子氏とともに山陰の要塞の地となりました。尼子氏は中国地方の覇権を巡って周辺諸国と争い尼子経久の時期に出雲に基盤を造り上げ、嫡孫尼子晴久の代には山陰・山陽八ヵ国守護の大大名となりました。天然の地形を利用した難攻不落の要塞城と言われ「天空の城」とも呼ばれていました。その後、城を巡っても度々攻防戦が行われたが、最終的には尼子氏は毛利氏により滅ぼされ、城も毛利領となりました。慶長5年(1600年)以降、堀尾氏が城主となるが、慶長16年(1611年)、堀尾忠晴が松江城に移り廃城となりました。
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奥書院平。
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奥書院平。
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花の壇。当時の侍所跡。
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月山富田城石垣。
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御殿平、山中御殿跡。山中御殿と言われた建物があった所で、上下二段に分かれている。富田城の最も重要な心臓部だった。
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御殿平と月山。
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堀尾吉晴墓。関ケ原の戦功により24万石を領し、慶長5年(1600年)富田城主になったが、慶長16年(1611年)城を松江に移した。同年6月17日、69歳で亡くなり、遺言によってこの地に帰葬されました。
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尼子神社。尼子氏を祀っています。
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山中鹿介幸盛銅像。尼子再興のため尽力した悲運の武将。主君尼子義久が永禄9年(1566年)毛利に敗れた後、尼子勝久を擁して富田城を奪回、尼子再興を期して孤軍奮闘の活躍をしたが、天正6年(1578年)7月17日、夢ならず備中甲部川阿井の渡し(岡山県高梁市)において毛利の家臣によって討たれ、34年の生涯を終えました。
主家再興をここらざし、苦難に満ちた鹿介の生き方が、後の世に、三日月に祈り「願わくば我に七難八苦をあたえたまえ」との名句を生んでいます。 -
山中鹿介幸盛供養塔。
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松江城天守閣。別名千鳥城、国重文。全国に現存する12天守の一つで、天守の平面規模で2番目、高さで3番目、古さでは5番目です。平山城で、天守がある本丸の周辺に二の丸上の段、二の丸下の段、後郛がめぐり、南には堀を挟んで三の丸がある。城全体の構えは東側を正面とするが、天守自体は南向きとなっています。天守は附櫓を設けた複合式望楼型で、一、二十目は大入母屋屋根で全面下見板張り、望楼部と附櫓も一部白漆喰であるが窓廻りの木部は全て黒塗りで、黒を基調とした天守です。
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天守閣附櫓(つけやぐら)。天守入口の防備を固くするために取り付けた櫓で、入口に鉄延板張りの大戸があり、入ると桝形の小広場が二段あって、侵入しにくいようになっています。
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松江城天守閣。
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石垣。
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太鼓櫓。
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本丸一の門。
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太鼓櫓。太鼓櫓、中櫓、南櫓は平成13年に約125年ぶりに復元されたものです。
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太鼓櫓に収められていた太鼓。かつては、太鼓を打って時刻を知らせていました。現在は使用されていません。
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御具足蔵と呼ばれた中櫓。
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松江神社。歴代藩主並びに徳川家康を祀っています。
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堀尾吉晴公像。慶長5年(1600年)の関ケ原合戦の後、出雲・隠岐両国を拝領した子の忠氏と共に、浜松から月山富田城に入ったが、松江の将来性に着目して城地を移した。豊臣秀吉、徳川家康と二人の天下人に仕え、豊臣政権下では三中老の一人として功績を残しています。城普請の名人であり、孫の忠晴を助け松江城と城下町を建設し、現在の松江市の礎を築きました。
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