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2014年夏、兵庫県加西市、美しい田園風景の中を走るローカル線、北条鉄道の終着駅北条町、この駅前にある複合商業ビル、アスティア加西で「加西・鶉野飛行場展」が開催されました。<br /><br />鶉野飛行場は、旧日本海軍姫路航空隊の施設で、昭和18年10月に航空機搭乗員の養成を目的として設立されました。この飛行場は、加西市の中央部にある鶉野台地にあり、南北1200m、幅60mの滑走路跡を中心に、防空壕や対空機銃陣地跡など様々な関連施設が今も残る、貴重な戦争遺産のひとつです。<br /><br />今回、開催された「加西・鶉野飛行場展」では、鶉野飛行場に関するパネル展や当時を偲ぶ品々の展示に加え、記念講演会なども開催されました。<br /><br />記念講演会<br /><br />第1回記念講演会  8月10日(日)13:30〜 「残された技術 飛行艇」<br />  http://4travel.jp/travelogue/10916199<br /><br />第2回記念講演会  8月17日(日)13:30〜 「姫路海軍航空隊の練習生たち」<br />  本  編<br /><br />両公演共に講師はこの鶉野飛行場の調査・研究の第一人者であり、保存にもご尽力されておられる上谷昭夫(鶉野平和祈念の碑苑保存会)さん、そして、各講演会のテーマに沿ったゲストの方もみえられ、上谷さんとの対談やパワーポイントを使ったプレゼンテーションなどが行われました。<br /><br />今回実施の「加西 鶉野飛行場展」、最終日に行われた講演会「姫路海軍航空隊の練習生たち」では、この鶉野飛行場、姫路海軍航空隊に一時期所属されていた元海軍パイロット、宮崎亘さんを迎え、かってこの鶉野で過ごされた当時の様子や思い出など、上谷さんとの対談でお話くださいました。<br />また、前回の講演会「残された技術 飛行艇」で元新明和工業の碇さんとの対談にも登場された、元海軍パイロット、喜田さんが今回もお越しになられ、講演会の最後に当時、二式大艇での南方への飛行、沖縄戦への一式陸攻での夜間爆撃、宇佐航空隊で迎えられた終戦での出来事など、たくさんの貴重なお話しをお聞かせくださいました。<br />また、今回の講演会には、大分県宇佐市、ここもかって宇佐海軍航空隊があったところですが、この宇佐市で歴史などの調査、研究を行っているグループ「豊の国、宇佐塾」でご活躍されている織田(オリタ)さんもお越しになられいました。鶉野の保存会と宇佐塾、互いに交流を深めていければいいですね。<br /><br />以上、今回の加西市アスティア加西で行われた「加西 鶉野飛行場展」、記念講演会「姫路海軍航空隊の練習生たち」の終了をもって一週間の開催に幕を閉じることとなりました。<br /><br />閉会後、パネルなどの撤収作業を行っていたとところ、この会場、ねひめホールにいた地元の高校生など、若者たちが撤収作業を手伝ってくれるという、嬉しいハプニングもありました。地元小野工業高校などの高校生、中国からの留学生、そしてインドネシアの若者と、正に国際交流ですね。加西の若者たちもなかなかやるじゃん、ですね!!

加西・鶉野飛行場展@アスティア加西(その2) 「姫路海軍航空隊の練習生たち」

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2014/08/10 - 2014/08/17

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Tam-K

Tam-Kさん

2014年夏、兵庫県加西市、美しい田園風景の中を走るローカル線、北条鉄道の終着駅北条町、この駅前にある複合商業ビル、アスティア加西で「加西・鶉野飛行場展」が開催されました。

鶉野飛行場は、旧日本海軍姫路航空隊の施設で、昭和18年10月に航空機搭乗員の養成を目的として設立されました。この飛行場は、加西市の中央部にある鶉野台地にあり、南北1200m、幅60mの滑走路跡を中心に、防空壕や対空機銃陣地跡など様々な関連施設が今も残る、貴重な戦争遺産のひとつです。

今回、開催された「加西・鶉野飛行場展」では、鶉野飛行場に関するパネル展や当時を偲ぶ品々の展示に加え、記念講演会なども開催されました。

記念講演会

第1回記念講演会  8月10日(日)13:30〜 「残された技術 飛行艇」
  http://4travel.jp/travelogue/10916199

第2回記念講演会  8月17日(日)13:30〜 「姫路海軍航空隊の練習生たち」
  本  編

両公演共に講師はこの鶉野飛行場の調査・研究の第一人者であり、保存にもご尽力されておられる上谷昭夫(鶉野平和祈念の碑苑保存会)さん、そして、各講演会のテーマに沿ったゲストの方もみえられ、上谷さんとの対談やパワーポイントを使ったプレゼンテーションなどが行われました。

今回実施の「加西 鶉野飛行場展」、最終日に行われた講演会「姫路海軍航空隊の練習生たち」では、この鶉野飛行場、姫路海軍航空隊に一時期所属されていた元海軍パイロット、宮崎亘さんを迎え、かってこの鶉野で過ごされた当時の様子や思い出など、上谷さんとの対談でお話くださいました。
また、前回の講演会「残された技術 飛行艇」で元新明和工業の碇さんとの対談にも登場された、元海軍パイロット、喜田さんが今回もお越しになられ、講演会の最後に当時、二式大艇での南方への飛行、沖縄戦への一式陸攻での夜間爆撃、宇佐航空隊で迎えられた終戦での出来事など、たくさんの貴重なお話しをお聞かせくださいました。
また、今回の講演会には、大分県宇佐市、ここもかって宇佐海軍航空隊があったところですが、この宇佐市で歴史などの調査、研究を行っているグループ「豊の国、宇佐塾」でご活躍されている織田(オリタ)さんもお越しになられいました。鶉野の保存会と宇佐塾、互いに交流を深めていければいいですね。

以上、今回の加西市アスティア加西で行われた「加西 鶉野飛行場展」、記念講演会「姫路海軍航空隊の練習生たち」の終了をもって一週間の開催に幕を閉じることとなりました。

閉会後、パネルなどの撤収作業を行っていたとところ、この会場、ねひめホールにいた地元の高校生など、若者たちが撤収作業を手伝ってくれるという、嬉しいハプニングもありました。地元小野工業高校などの高校生、中国からの留学生、そしてインドネシアの若者と、正に国際交流ですね。加西の若者たちもなかなかやるじゃん、ですね!!

旅行の満足度
4.5
交通手段
私鉄
  • 「加西 鶉野飛行場展」、8月10日(日)から開催し、本日、8月17日(日)、最終日となりました。<br /><br />この日は、第2回目の記念講演会「姫路海軍航空隊の練習生たち」が開催されました。

    「加西 鶉野飛行場展」、8月10日(日)から開催し、本日、8月17日(日)、最終日となりました。

    この日は、第2回目の記念講演会「姫路海軍航空隊の練習生たち」が開催されました。

  • 先週の記念講演会の時は、台風直撃というあいにくの悪天候でしたが、この日は少し曇り気味ですが、暑い夏の一日となりました。<br />会場は満席状態となり、通路に椅子を追加するほどの盛況となりました。

    先週の記念講演会の時は、台風直撃というあいにくの悪天候でしたが、この日は少し曇り気味ですが、暑い夏の一日となりました。
    会場は満席状態となり、通路に椅子を追加するほどの盛況となりました。

  • 記念講演会「姫路海軍航空隊の練習生たち」<br /><br />今回の講演会は、まず、上谷さんによる鶉野飛行場設置に至る経緯と、この飛行場の概要についてのお話がありました。これに引き続き、この鶉野飛行場で飛行機の搭乗員、パイロットとしての訓練を受けていた練習生たちについて、パワーポイントを使っての説明がありました。<br />この後、かってこの鶉野で一時期を過ごされた元海軍パイロット、神風特攻隊、徳島白菊隊におられた宮崎亘さんと上谷さんとの対談が行われました。

    記念講演会「姫路海軍航空隊の練習生たち」

    今回の講演会は、まず、上谷さんによる鶉野飛行場設置に至る経緯と、この飛行場の概要についてのお話がありました。これに引き続き、この鶉野飛行場で飛行機の搭乗員、パイロットとしての訓練を受けていた練習生たちについて、パワーポイントを使っての説明がありました。
    この後、かってこの鶉野で一時期を過ごされた元海軍パイロット、神風特攻隊、徳島白菊隊におられた宮崎亘さんと上谷さんとの対談が行われました。

  • 今回の講演会、司会は神戸から駆けつけてくださいました。広報関連のお仕事をされている合楽仁美さんです。<br /><br />合楽さんがご自身のブログでこの展示会について書かれています。<br /><br /> 前編 http://blog.livedoor.jp/gohappy5/archives/52112481.html<br /> 後編 http://blog.livedoor.jp/gohappy5/archives/52114615.html

    今回の講演会、司会は神戸から駆けつけてくださいました。広報関連のお仕事をされている合楽仁美さんです。

    合楽さんがご自身のブログでこの展示会について書かれています。

     前編 http://blog.livedoor.jp/gohappy5/archives/52112481.html
     後編 http://blog.livedoor.jp/gohappy5/archives/52114615.html

  • 講演会 「姫路海軍航空隊の練習生たち」<br /><br />まずは、上谷さんから鶉野飛行場設立経緯についての説明がありました。

    講演会 「姫路海軍航空隊の練習生たち」

    まずは、上谷さんから鶉野飛行場設立経緯についての説明がありました。

  • 昭和18年10月、姫路海軍航空隊が開設され、まず最初にここへやってきた練習生は、何と民間航空機のパイロットを目指していた若者たちでした。<br />これは逓信省(現在の郵政省)航空機養成所から来た生徒たち、海軍飛行科予備練習生でした。<br />この練習生たちは民間航空の旅客機の操縦訓練を目的に入所した若者たちで、年齢も軍人でないので14歳から入隊し、海軍系・陸軍系それぞれの練習が行われていました。姫路航空隊へやってきたのは長崎(諫早)・愛媛(西条)の乗員養成所を卒業した第13期の海軍系の生徒たちでした。そして、昭和18年10月8日、飛行場に20機の練習機(97式艦上攻撃機)が到着したことにより、彼らに対する海軍に併合された訓練が開始されることとなりました。<br />この練習生たちは、若くして初級飛行機の練習を行ったことで他の練習生に比べ、操縦技能は卓越したものがあったということです。最初の13期の生徒が3ヶ月の練習を終え、飛行時間十時間以上に達すると前線の航空隊に赴任して行きました。13期に引き続き14期、15期生が入隊し、それぞれが所定の飛行時間に達して卒業していきました。

    昭和18年10月、姫路海軍航空隊が開設され、まず最初にここへやってきた練習生は、何と民間航空機のパイロットを目指していた若者たちでした。
    これは逓信省(現在の郵政省)航空機養成所から来た生徒たち、海軍飛行科予備練習生でした。
    この練習生たちは民間航空の旅客機の操縦訓練を目的に入所した若者たちで、年齢も軍人でないので14歳から入隊し、海軍系・陸軍系それぞれの練習が行われていました。姫路航空隊へやってきたのは長崎(諫早)・愛媛(西条)の乗員養成所を卒業した第13期の海軍系の生徒たちでした。そして、昭和18年10月8日、飛行場に20機の練習機(97式艦上攻撃機)が到着したことにより、彼らに対する海軍に併合された訓練が開始されることとなりました。
    この練習生たちは、若くして初級飛行機の練習を行ったことで他の練習生に比べ、操縦技能は卓越したものがあったということです。最初の13期の生徒が3ヶ月の練習を終え、飛行時間十時間以上に達すると前線の航空隊に赴任して行きました。13期に引き続き14期、15期生が入隊し、それぞれが所定の飛行時間に達して卒業していきました。

  • 姫路海軍航空隊の練習生<br />昭和18年10月、姫路海軍航空隊が開設され、まず最初にここへやってきた練習生は、何と民間航空機のパイロットを目指していた若者たちでした。<br />これは逓信省(現在の郵政省)航空機養成所から来た生徒たち、海軍飛行科予備練習生でした。<br />この練習生たちは民間航空の旅客機の操縦訓練を目的に入所した若者たちで、年齢も軍人でないので14歳から入隊し、海軍系・陸軍系の練習が行われていました。姫路航空隊へやってきたのは長崎(諫早)・愛媛(西条)の乗員養成所を卒業した第13期の海軍系の生徒たちでした。そして、昭和18年10月8日、飛行場に20機の練習機(97式艦上攻撃機)が到着したことにより、彼らに対する海軍に併合された訓練が開始されることとなりました。<br />この練習生たちは、若くして初級飛行機の練習を行ったことで他の練習生に比べ、操縦技能は卓越したものがあったということです。最初の13期の生徒が3ヶ月の練習を終え、飛行時間十時間以上に達すると前線の航空隊に赴任して行きました。13期に引き続き14期、15期生が入隊し、それぞれが所定の飛行時間に達して卒業していきました。

    姫路海軍航空隊の練習生
    昭和18年10月、姫路海軍航空隊が開設され、まず最初にここへやってきた練習生は、何と民間航空機のパイロットを目指していた若者たちでした。
    これは逓信省(現在の郵政省)航空機養成所から来た生徒たち、海軍飛行科予備練習生でした。
    この練習生たちは民間航空の旅客機の操縦訓練を目的に入所した若者たちで、年齢も軍人でないので14歳から入隊し、海軍系・陸軍系の練習が行われていました。姫路航空隊へやってきたのは長崎(諫早)・愛媛(西条)の乗員養成所を卒業した第13期の海軍系の生徒たちでした。そして、昭和18年10月8日、飛行場に20機の練習機(97式艦上攻撃機)が到着したことにより、彼らに対する海軍に併合された訓練が開始されることとなりました。
    この練習生たちは、若くして初級飛行機の練習を行ったことで他の練習生に比べ、操縦技能は卓越したものがあったということです。最初の13期の生徒が3ヶ月の練習を終え、飛行時間十時間以上に達すると前線の航空隊に赴任して行きました。13期に引き続き14期、15期生が入隊し、それぞれが所定の飛行時間に達して卒業していきました。

  • 飛行操縦練習で使用された練習機です。<br />初等練習機、中級練習機ともに複葉機です。中級練習機は赤とんぼと呼ばれた93式中等練習機、そして、鶉野飛行場で使用された実用練習機、97式艦上攻撃機です。<br />ただし、ここで使用されていた97式艦上攻撃機は、一番初期型のもので真珠湾攻撃に使われた機体とは異なる、一番古い型の機体だったそうです。

    飛行操縦練習で使用された練習機です。
    初等練習機、中級練習機ともに複葉機です。中級練習機は赤とんぼと呼ばれた93式中等練習機、そして、鶉野飛行場で使用された実用練習機、97式艦上攻撃機です。
    ただし、ここで使用されていた97式艦上攻撃機は、一番初期型のもので真珠湾攻撃に使われた機体とは異なる、一番古い型の機体だったそうです。

  • 海軍飛行予科練習生、<br />いわゆる予科練、歌にも歌われる「七つボタンに桜に碇」それが予科練の第一種軍装、彼らは職業軍人としてのパイロットを目指す練習生たち、そして、彼らもここ鶉野で、実用機の飛行訓練を受けていました。<br /><br />第17期飛行練習生<br />第12期甲種飛行予科練習生、旧制中学校2年生の勉学途上の生徒たちが応募の対象となり、厳しい試験を通過し、練習生として選ばれた若者たちです。<br />第18期乙種飛行予科練習生<br />尋常小学校高等科2年を卒業した学歴を有するものがこの予科練の応募に応じることができました。彼らは海軍航空隊の操縦生として中核的な存在でもありました。鶉野では甲種練習生とともに練習を行い、この中からも特別攻撃隊白鷺隊の搭乗員として、沖縄の空に散っていったものもありました。

    海軍飛行予科練習生、
    いわゆる予科練、歌にも歌われる「七つボタンに桜に碇」それが予科練の第一種軍装、彼らは職業軍人としてのパイロットを目指す練習生たち、そして、彼らもここ鶉野で、実用機の飛行訓練を受けていました。

    第17期飛行練習生
    第12期甲種飛行予科練習生、旧制中学校2年生の勉学途上の生徒たちが応募の対象となり、厳しい試験を通過し、練習生として選ばれた若者たちです。
    第18期乙種飛行予科練習生
    尋常小学校高等科2年を卒業した学歴を有するものがこの予科練の応募に応じることができました。彼らは海軍航空隊の操縦生として中核的な存在でもありました。鶉野では甲種練習生とともに練習を行い、この中からも特別攻撃隊白鷺隊の搭乗員として、沖縄の空に散っていったものもありました。

  • 海軍飛行専修予備生徒<br />昭和18年10月2日、大学、同予科、旧制高校、専修学校在学生の徴兵猶予停止が発令されたことを受け、12月10日に学業を返上して志願した若者たちが、各鎮守府所属海兵団に入隊しました。当時鎮守府としては、横須賀、呉、佐世保、舞鶴に置かれ、ここ加西は呉鎮守府の管轄だったそうです。入隊当初は二等水兵でしたが、約50日の新兵訓練を受け、昭和19年2月1日、三重海軍航空隊及び鹿児島海軍航空隊に入隊し、予備生徒となります。予備生徒の出身校は大学予科、旧制高校、専門学校で、因みに同期入隊した大学在学生は飛行科では第14期予備学生でした。生徒の身分は下士官の上、准士官の下に置かれ、昭和19年12月25日少尉候補生、昭和20年6月1日に少尉に任官するというように、トントン拍子の出世でした。<br />姫路航空隊へは冨高基地から初級訓練を終えた生徒たちが昭和19年11月に着任、彼らは鶉野での最後の練習生となりました。そして、昭和20年2月10日、神風特別攻撃隊の編成に伴い、全員が特攻隊に志願していくこととなるのです。これにより、彼らの軍装も予科練から海軍軍装に変わりました。そして、彼らの慰霊碑が大阪護国神社に祭られています。

    海軍飛行専修予備生徒
    昭和18年10月2日、大学、同予科、旧制高校、専修学校在学生の徴兵猶予停止が発令されたことを受け、12月10日に学業を返上して志願した若者たちが、各鎮守府所属海兵団に入隊しました。当時鎮守府としては、横須賀、呉、佐世保、舞鶴に置かれ、ここ加西は呉鎮守府の管轄だったそうです。入隊当初は二等水兵でしたが、約50日の新兵訓練を受け、昭和19年2月1日、三重海軍航空隊及び鹿児島海軍航空隊に入隊し、予備生徒となります。予備生徒の出身校は大学予科、旧制高校、専門学校で、因みに同期入隊した大学在学生は飛行科では第14期予備学生でした。生徒の身分は下士官の上、准士官の下に置かれ、昭和19年12月25日少尉候補生、昭和20年6月1日に少尉に任官するというように、トントン拍子の出世でした。
    姫路航空隊へは冨高基地から初級訓練を終えた生徒たちが昭和19年11月に着任、彼らは鶉野での最後の練習生となりました。そして、昭和20年2月10日、神風特別攻撃隊の編成に伴い、全員が特攻隊に志願していくこととなるのです。これにより、彼らの軍装も予科練から海軍軍装に変わりました。そして、彼らの慰霊碑が大阪護国神社に祭られています。

  • 神風特別攻撃隊白鷺隊<br />・操縦搭乗員<br />操縦練習生 1名 乙種予科練11期 1名<br />乙種予科練14期 1名 乙種予科練16期 1名<br />乙種予科練18期 3名 丙種予科練17期 1名<br />予備練 5名 甲飛予科練3期 1名<br />甲飛予科練12期 1名 予備学生23期 2名<br />予備学生1期 4名<br />・偵察搭乗員<br />予備学生13期 12名 予備生徒 9名<br />・電信搭乗員<br />甲飛12期  7名 甲飛13期 8名<br />乙飛18期 6名 <br /><br /><br />以上が姫路海軍航空隊、鶉野飛行場での実用飛行訓練課程で、若き日の一時期を過ごした練習生者たちでした。

    神風特別攻撃隊白鷺隊
    ・操縦搭乗員
    操縦練習生 1名 乙種予科練11期 1名
    乙種予科練14期 1名 乙種予科練16期 1名
    乙種予科練18期 3名 丙種予科練17期 1名
    予備練 5名 甲飛予科練3期 1名
    甲飛予科練12期 1名 予備学生23期 2名
    予備学生1期 4名
    ・偵察搭乗員
    予備学生13期 12名 予備生徒 9名
    ・電信搭乗員
    甲飛12期  7名 甲飛13期 8名
    乙飛18期 6名


    以上が姫路海軍航空隊、鶉野飛行場での実用飛行訓練課程で、若き日の一時期を過ごした練習生者たちでした。

  • 元姫路海軍航空隊練習生、宮崎亘さんと上谷さんとの対談<br /><br />上谷さんによる姫路海軍航空隊の練習生たちについてのお話に続き、宮崎さんとの対談が始まりました。<br /><br />姫路海軍航空隊にかって所属されていた宮崎亘さん、<br />上谷さんとの対談に先立って、ひとことご挨拶がありました。<br /><br />宮崎さんから、自身は海軍でパイロットであったとはいえ、それは僅か2年程度の出来事、戦歴や経験を脚色したりして話すなどもってのほか、同じような経験をした人の中には口を固く閉じ、一切を語らないという方もおられる。自身の経験など語るのもおこがましい、ただ今回、姫路海軍航空隊にいた時のことだけでいいので話して欲しい、ということでこの講演会への参加を了承した旨、話されました。

    元姫路海軍航空隊練習生、宮崎亘さんと上谷さんとの対談

    上谷さんによる姫路海軍航空隊の練習生たちについてのお話に続き、宮崎さんとの対談が始まりました。

    姫路海軍航空隊にかって所属されていた宮崎亘さん、
    上谷さんとの対談に先立って、ひとことご挨拶がありました。

    宮崎さんから、自身は海軍でパイロットであったとはいえ、それは僅か2年程度の出来事、戦歴や経験を脚色したりして話すなどもってのほか、同じような経験をした人の中には口を固く閉じ、一切を語らないという方もおられる。自身の経験など語るのもおこがましい、ただ今回、姫路海軍航空隊にいた時のことだけでいいので話して欲しい、ということでこの講演会への参加を了承した旨、話されました。

  • 宮崎さんは、海軍でパイロットであったとはいえ、それは僅か2年程度の出来事、戦歴や経験を脚色したりして話すなどもってのほか、同じような経験をした人の中には口を固く閉じ、一切を語らないという方もおられる。宮崎さんも自身の経験など語るのもおこがましいとの思いをお持ちのようですが、今回、姫路海軍航空隊にいた時のことだけでいいので話して欲しい、ということでこの講演会への参加を了承していただいたということでした。<br />宮崎亘さん、大正14年広島県の呉市にて生まれ、その後香川県へと移られました。宮崎さんは3人兄弟の三男、長兄の勇さんは水兵として海軍へ入隊し、その後、航空兵を志願され、戦闘機、零戦のパイロットとなられました。<br />兄、勇さんは、ラバウル、ウェーク、フィリピンを歴戦され、レイテ沖海戦後本土へ、そして松山の二〇三航空隊にて紫電改を駆っての防空戦を戦われました。同じくパイロットとして松山で紫電改を操縦されていた、兵庫県篠山市出身の笠井智和さんと同時期に松山におられたようです。<br />こういった兄の影響もあってか、宮崎さんは、昭和18年4月に予科練に入隊、筑波にて予科練の課程を修了後、大分県の築城を経て、同年九月、姫路海軍航空隊、加西郡鶉野飛行場にて訓練を受けることとなります。そして年末までの三ヶ月をここ加西にて過ごされました。この姫路海軍航空隊では、実際の攻撃機である97式艦上攻撃での実戦的な訓練を体験されたそうです。<br />ここでの訓練が終了した後は、大分県の佐伯にて船団護衛にあたる空母艦載機部隊に就かれた増したが、その後、偵察員の養成を主に行っていた徳島への移転を言い渡されます。ここで練習機白菊での訓練となり、これは特攻を想定しての訓練でした。神風特別攻撃隊、徳島白菊隊です。このように宮崎さんは特攻隊員となったのですが、終戦間際での出撃が延期され、その後、徳島にて終戦を迎えられることとなりました。<br />宮崎さんは、神戸市に現在はご在住、戦後は警察官をなされていたということです。

    宮崎さんは、海軍でパイロットであったとはいえ、それは僅か2年程度の出来事、戦歴や経験を脚色したりして話すなどもってのほか、同じような経験をした人の中には口を固く閉じ、一切を語らないという方もおられる。宮崎さんも自身の経験など語るのもおこがましいとの思いをお持ちのようですが、今回、姫路海軍航空隊にいた時のことだけでいいので話して欲しい、ということでこの講演会への参加を了承していただいたということでした。
    宮崎亘さん、大正14年広島県の呉市にて生まれ、その後香川県へと移られました。宮崎さんは3人兄弟の三男、長兄の勇さんは水兵として海軍へ入隊し、その後、航空兵を志願され、戦闘機、零戦のパイロットとなられました。
    兄、勇さんは、ラバウル、ウェーク、フィリピンを歴戦され、レイテ沖海戦後本土へ、そして松山の二〇三航空隊にて紫電改を駆っての防空戦を戦われました。同じくパイロットとして松山で紫電改を操縦されていた、兵庫県篠山市出身の笠井智和さんと同時期に松山におられたようです。
    こういった兄の影響もあってか、宮崎さんは、昭和18年4月に予科練に入隊、筑波にて予科練の課程を修了後、大分県の築城を経て、同年九月、姫路海軍航空隊、加西郡鶉野飛行場にて訓練を受けることとなります。そして年末までの三ヶ月をここ加西にて過ごされました。この姫路海軍航空隊では、実際の攻撃機である97式艦上攻撃での実戦的な訓練を体験されたそうです。
    ここでの訓練が終了した後は、大分県の佐伯にて船団護衛にあたる空母艦載機部隊に就かれた増したが、その後、偵察員の養成を主に行っていた徳島への移転を言い渡されます。ここで練習機白菊での訓練となり、これは特攻を想定しての訓練でした。神風特別攻撃隊、徳島白菊隊です。このように宮崎さんは特攻隊員となったのですが、終戦間際での出撃が延期され、その後、徳島にて終戦を迎えられることとなりました。
    宮崎さんは、神戸市に現在はご在住、戦後は警察官をなされていたということです。

  • 姫路海軍航空隊での練習生としてこられた宮崎さん、昭和19年7月から12月の3ヶ月をここ、鶉野で過ごされました。<br />宮崎さんが行われた訓練は、97式艦上攻撃機に搭乗し、瀬戸内海上空での雷撃などの訓練だったそうです。<br />鶉野飛行場を離陸し、明石海峡までは僅か10分で到着したそうです。そして、明石海峡にて海上に浮かぶ漁船などを敵艦艇に見立て、低空で進入するといった雷撃訓練を行われていたそうです。この際、海上の漁船の漁師から手を振ってもらうなどというようなこともあったそうです。<br />ただ、雷撃を行う上で一番大事なことは機体を如何に水平に保つか、ここで水平が保てなかったら魚雷はあらぬ方向へと行ってしまう、こういったことから長時間にわたって機体を水平に保つ訓練をひたすら続けておられたということでした。<br />そして、訓練の最終段階として、大分にて実際の魚雷を積んでの訓練が行われ、この際にどれだけきちんと水平飛行が保たれるかという点で、自身の技量が如何に低かったかということを思い知らされたということです。

    姫路海軍航空隊での練習生としてこられた宮崎さん、昭和19年7月から12月の3ヶ月をここ、鶉野で過ごされました。
    宮崎さんが行われた訓練は、97式艦上攻撃機に搭乗し、瀬戸内海上空での雷撃などの訓練だったそうです。
    鶉野飛行場を離陸し、明石海峡までは僅か10分で到着したそうです。そして、明石海峡にて海上に浮かぶ漁船などを敵艦艇に見立て、低空で進入するといった雷撃訓練を行われていたそうです。この際、海上の漁船の漁師から手を振ってもらうなどというようなこともあったそうです。
    ただ、雷撃を行う上で一番大事なことは機体を如何に水平に保つか、ここで水平が保てなかったら魚雷はあらぬ方向へと行ってしまう、こういったことから長時間にわたって機体を水平に保つ訓練をひたすら続けておられたということでした。
    そして、訓練の最終段階として、大分にて実際の魚雷を積んでの訓練が行われ、この際にどれだけきちんと水平飛行が保たれるかという点で、自身の技量が如何に低かったかということを思い知らされたということです。

  • 宮崎さんは、自身が予科練を志望されたということについて、当時の風潮として一億総戦争、学校に配属将校がおり、日常的に教訓などが行われており、少年たちはやがて皆、軍隊に入るということがごくごく自然、当たり前だった。そして、宮崎さん自身としては、当時父が満州で事業をやっておられた経緯から、高校卒業後に満州へ渡り、父親の事業を手伝うことになっていたそうなのですが、それが嫌で父に黙って予科練を受け、合格されたということだったそうです。<br />上谷さんから、非常なる難関をくぐる抜け、予科練に合格されたのですね、との問いかけに対して宮崎さんから、予科練試験はある程度知識必要であり、扱い的に海兵と同様の学力求められました。しかし、搭乗員養成を急がなければならない状況などから、のちのち敷居下がっていったように思う、というようなお話がありました。ご謙遜です。

    宮崎さんは、自身が予科練を志望されたということについて、当時の風潮として一億総戦争、学校に配属将校がおり、日常的に教訓などが行われており、少年たちはやがて皆、軍隊に入るということがごくごく自然、当たり前だった。そして、宮崎さん自身としては、当時父が満州で事業をやっておられた経緯から、高校卒業後に満州へ渡り、父親の事業を手伝うことになっていたそうなのですが、それが嫌で父に黙って予科練を受け、合格されたということだったそうです。
    上谷さんから、非常なる難関をくぐる抜け、予科練に合格されたのですね、との問いかけに対して宮崎さんから、予科練試験はある程度知識必要であり、扱い的に海兵と同様の学力求められました。しかし、搭乗員養成を急がなければならない状況などから、のちのち敷居下がっていったように思う、というようなお話がありました。ご謙遜です。

  • 宮崎さんが鶉野におられた3ヶ月の間のことですが、休日、つまり日曜日にはお休みがもらえ、休みの日には練習生それぞれに下宿があてがわれていたそうです。休日になると練習生たちは、加西郡の中心地である北条、現在の北条鉄道の終着駅、北条町駅周辺の街の中の家が下宿としてあてがわれ、ここで食事を振舞ってもらったり、家族や知人と面会したり、また時には近くの芝居小屋に出かけたり、加古川や姫路、神戸といった街へ出かけるなど、それぞれ思い思いの過ごされ方をされていたそうです。この中でも特に下宿でのひと時は、遠く故郷を離れて暮らす若者たちにとって、家庭の温もりを感じる安らぎのひと時であったのではないでしょうか。<br />宮崎さんも北条の本町筋のある民家をあてがわれ、色々お世話になり、この下宿の方とは戦後も長く交流が続いたということです。

    宮崎さんが鶉野におられた3ヶ月の間のことですが、休日、つまり日曜日にはお休みがもらえ、休みの日には練習生それぞれに下宿があてがわれていたそうです。休日になると練習生たちは、加西郡の中心地である北条、現在の北条鉄道の終着駅、北条町駅周辺の街の中の家が下宿としてあてがわれ、ここで食事を振舞ってもらったり、家族や知人と面会したり、また時には近くの芝居小屋に出かけたり、加古川や姫路、神戸といった街へ出かけるなど、それぞれ思い思いの過ごされ方をされていたそうです。この中でも特に下宿でのひと時は、遠く故郷を離れて暮らす若者たちにとって、家庭の温もりを感じる安らぎのひと時であったのではないでしょうか。
    宮崎さんも北条の本町筋のある民家をあてがわれ、色々お世話になり、この下宿の方とは戦後も長く交流が続いたということです。

  • ここで上谷さんから、分隊長だった佐藤大尉とのエピソードについての問われました。<br />佐藤清大尉は、宮崎さんより1ヶ月遅くして鶉野に来られたそうで、ある日、下宿でおかあさん(当時下宿のおかみさんを練習生たちはおかあさんと読んでいたそうです)から「宮崎さん、今度新しい兵隊さんがくるでぇ」と言われ、その時は深く考えず「はぁ、そうでっかぁ」という程度に流していたそうです。そして翌日、隊に行ってみると、そこにえらく立派な方が腰掛けられていた。これが宮崎さんと佐藤大尉との出会いだったそうです。<br />宮崎さんにとって佐藤大尉の印象は、軍隊にいてこんなに優しい人にはお目にかかったことがない、下宿も同じでいろんな話を聞かせてもたったり、本当に大事に扱っていただいた、決して偉ぶることもなく静かで非常に深みのある方だったそうです。

    ここで上谷さんから、分隊長だった佐藤大尉とのエピソードについての問われました。
    佐藤清大尉は、宮崎さんより1ヶ月遅くして鶉野に来られたそうで、ある日、下宿でおかあさん(当時下宿のおかみさんを練習生たちはおかあさんと読んでいたそうです)から「宮崎さん、今度新しい兵隊さんがくるでぇ」と言われ、その時は深く考えず「はぁ、そうでっかぁ」という程度に流していたそうです。そして翌日、隊に行ってみると、そこにえらく立派な方が腰掛けられていた。これが宮崎さんと佐藤大尉との出会いだったそうです。
    宮崎さんにとって佐藤大尉の印象は、軍隊にいてこんなに優しい人にはお目にかかったことがない、下宿も同じでいろんな話を聞かせてもたったり、本当に大事に扱っていただいた、決して偉ぶることもなく静かで非常に深みのある方だったそうです。

  • また、ある時、急に分隊長から夕方に装備を整えて格納庫前に来い、と言われたことがあったそうです。こんな時間に呼び出されて一体何事かと思ったら、「善防山の上に電気を付けたから見に行く、付き合え」とのこと、新たに設置した滑走路周辺の赤色灯などの作動がきっちりできているかの確認に向かうということで、夜暗くなってから飛行を行うということだったようです。宮崎さんは佐藤大尉の機に同乗させてもらい、電灯の確認という名目の元、夜間の飛行を楽しまれたというこでした。<br />その後、宮崎さんは鶉野での訓練課程を終了し、大分県の佐伯飛行場の第931航空隊、南洋の郵送船を護衛する空母艦載機の隊に就かれました。ただ、佐伯に行ったものの、空母は帰ってきたがもう出れる状況でもなく、何もせずに日々が過ぎ、やがて徳島へ移転となり、徳島白菊隊として神風特攻隊に加わることとなられました。<br />特攻隊員として鹿児島県の串良へ宮崎さんが行かれた時のこと、そこは全国から特攻隊が集まる場所であり、ここから沖縄へ特攻に出撃していったのですが、ここでかっての仲間と再開し、その時「宮崎、あの隊長、先に行ったでぇ」という話を聞き、はじめて佐藤隊長が特攻に行ったことを知らされたそうです。<br />この時、宮崎さんは、何故あの人が、特攻は我々のような若いものに任せておけばいい、あのように優れた、素晴らしい人間までもが行かなければならない、深い憤りを感じたそうです。

    また、ある時、急に分隊長から夕方に装備を整えて格納庫前に来い、と言われたことがあったそうです。こんな時間に呼び出されて一体何事かと思ったら、「善防山の上に電気を付けたから見に行く、付き合え」とのこと、新たに設置した滑走路周辺の赤色灯などの作動がきっちりできているかの確認に向かうということで、夜暗くなってから飛行を行うということだったようです。宮崎さんは佐藤大尉の機に同乗させてもらい、電灯の確認という名目の元、夜間の飛行を楽しまれたというこでした。
    その後、宮崎さんは鶉野での訓練課程を終了し、大分県の佐伯飛行場の第931航空隊、南洋の郵送船を護衛する空母艦載機の隊に就かれました。ただ、佐伯に行ったものの、空母は帰ってきたがもう出れる状況でもなく、何もせずに日々が過ぎ、やがて徳島へ移転となり、徳島白菊隊として神風特攻隊に加わることとなられました。
    特攻隊員として鹿児島県の串良へ宮崎さんが行かれた時のこと、そこは全国から特攻隊が集まる場所であり、ここから沖縄へ特攻に出撃していったのですが、ここでかっての仲間と再開し、その時「宮崎、あの隊長、先に行ったでぇ」という話を聞き、はじめて佐藤隊長が特攻に行ったことを知らされたそうです。
    この時、宮崎さんは、何故あの人が、特攻は我々のような若いものに任せておけばいい、あのように優れた、素晴らしい人間までもが行かなければならない、深い憤りを感じたそうです。

  • ここで佐藤大尉と当時交流があった加西市の岡さんがこの会場に来ておられるということで、上谷さんから紹介がありました。<br /><br />佐藤大尉は休日に岡さんの実家に数回立ち寄られたことがあったそうです。<br />当時、岡さんは女学校の1年生、13歳でその方が分隊長であることも知らず、ただただ寡黙で静か、とてもお優しい深みのある憧れの方、このような方が我が家に来られることがとても誇らしかったそうです。佐藤大尉が亡くなられた後に、大尉の最後のことについて教えて欲しいという、奥さんから手紙もあったそうです。<br />佐藤大尉の転任の時には、当時白いご飯などほとんど食べることができなかったそうなのですが、有りったけての米、5合を炊き、有り合わせのおかずでもてなされたそうです。この時佐藤大尉はゆっくりと噛みしめながら全部食べられ、たいそうよろこばれたそうです。<br />ただ、この時は特攻に行くことも知らず送り出したということで、今となっては非常に残念なことをした、ということでした。、<br /><br />宮崎さんから、佐藤大尉について、どなたもみな素晴らしい方だといいます、ただただ時代というか、これは仕方がないと思わなければならない、亡くなられた人々、誰しもがそう思い、佐藤さんだけなくみんな家族があるわけで、戦争というものは本当に酷だと思う旨、話されました。

    ここで佐藤大尉と当時交流があった加西市の岡さんがこの会場に来ておられるということで、上谷さんから紹介がありました。

    佐藤大尉は休日に岡さんの実家に数回立ち寄られたことがあったそうです。
    当時、岡さんは女学校の1年生、13歳でその方が分隊長であることも知らず、ただただ寡黙で静か、とてもお優しい深みのある憧れの方、このような方が我が家に来られることがとても誇らしかったそうです。佐藤大尉が亡くなられた後に、大尉の最後のことについて教えて欲しいという、奥さんから手紙もあったそうです。
    佐藤大尉の転任の時には、当時白いご飯などほとんど食べることができなかったそうなのですが、有りったけての米、5合を炊き、有り合わせのおかずでもてなされたそうです。この時佐藤大尉はゆっくりと噛みしめながら全部食べられ、たいそうよろこばれたそうです。
    ただ、この時は特攻に行くことも知らず送り出したということで、今となっては非常に残念なことをした、ということでした。、

    宮崎さんから、佐藤大尉について、どなたもみな素晴らしい方だといいます、ただただ時代というか、これは仕方がないと思わなければならない、亡くなられた人々、誰しもがそう思い、佐藤さんだけなくみんな家族があるわけで、戦争というものは本当に酷だと思う旨、話されました。

  • 岡さんから最後に、「今日は佐藤さんを知る方が来られる、なにか共通の思いが通じ合うのかと思い楽しみにしていました。お話を伺え本当に良かったと思います。」との言葉がありました。<br /><br />姫路海軍航空隊、当時この北条の街において、この隊に来れた練習生や教官の方と地元の人々との触れ合いがとても良い感じで進んでいたようです。練習生だった方々で戦後も、かってお世話になった下宿を度々訪れたり、文通されていた方もあったということです。また、教官の一人に地元の女性との間で、戦争が終わったら一緒になろう、加西郡というこの地で一緒に所帯をもうとうや、と言って別れたというようなエピソードもあたそうです。<br />この姫路海軍航空隊鶉野飛行場、それぞれいい思いを持って戦地、そして特攻に行かれた多くの方々があったようです。

    岡さんから最後に、「今日は佐藤さんを知る方が来られる、なにか共通の思いが通じ合うのかと思い楽しみにしていました。お話を伺え本当に良かったと思います。」との言葉がありました。

    姫路海軍航空隊、当時この北条の街において、この隊に来れた練習生や教官の方と地元の人々との触れ合いがとても良い感じで進んでいたようです。練習生だった方々で戦後も、かってお世話になった下宿を度々訪れたり、文通されていた方もあったということです。また、教官の一人に地元の女性との間で、戦争が終わったら一緒になろう、加西郡というこの地で一緒に所帯をもうとうや、と言って別れたというようなエピソードもあたそうです。
    この姫路海軍航空隊鶉野飛行場、それぞれいい思いを持って戦地、そして特攻に行かれた多くの方々があったようです。

  • 最後に宮崎さんからのお言葉がありました。<br />「鶉野飛行場平和祈念の碑苑保存会」三宅会長、そして多くの地域の方々がこの飛行場を守ってこられた。このことには本当に頭が下がる思い、末永くこの活動を続けて頂きたい。鶉野は、とてもいいところ、私の好きな地です。こういった活動は、できれば長く続いていくことを希望しており、そのためにも住民の力が必要であり、より多くの方々のご協力をお願いしたい、ということでした。

    最後に宮崎さんからのお言葉がありました。
    「鶉野飛行場平和祈念の碑苑保存会」三宅会長、そして多くの地域の方々がこの飛行場を守ってこられた。このことには本当に頭が下がる思い、末永くこの活動を続けて頂きたい。鶉野は、とてもいいところ、私の好きな地です。こういった活動は、できれば長く続いていくことを希望しており、そのためにも住民の力が必要であり、より多くの方々のご協力をお願いしたい、ということでした。

  • 上谷さんと宮崎さんとの対談に続き、ユニークな予科練生、特乙1種というところに当時所属されていた、地元、加西市にお住まいの喜田さんのお話もありました。<br /><br />乙種(特)一種予科飛行練習生、これは僅か半年の訓練でパイロットとなり、戦場へと赴かれたという隊で、非常に厳しい訓練が繰り返されたそうです。加西から同期が3人おり、喜田さんはその中で唯一の生き残られました。

    上谷さんと宮崎さんとの対談に続き、ユニークな予科練生、特乙1種というところに当時所属されていた、地元、加西市にお住まいの喜田さんのお話もありました。

    乙種(特)一種予科飛行練習生、これは僅か半年の訓練でパイロットとなり、戦場へと赴かれたという隊で、非常に厳しい訓練が繰り返されたそうです。加西から同期が3人おり、喜田さんはその中で唯一の生き残られました。

  • 特乙第一期生岩国航空隊、非常に短い期間で予科練生を卒業し、飛練34期甲種10期と同期で、非常に若くしてパイロットになったため、普通下士官でつけられる飛行科のマークが一等兵で腕について、ということで当時はたいへん珍しがられたそうです。<br />喜田さんは当初、飛行艇に乗っておられ、南方方面への輸送任務に就かれていたそうです。当初は制空権があったので南方へどんどん飛んで行くことができたようですが、台湾航空戦が終わり、沖縄戦となって、飛行艇から1式陸攻への乗務となり、その後は3日に1度のペースで敵機動部隊索敵任務に就かれたそうです。<br />その際、多くの特攻隊機を目にされ、多くは敵空母に出会うことなく引き返し、途中魚雷を積んだまま敵機に襲われ、撃ち落とされた、こういったケースが非常に多かったそうです。加西から同じ部隊に北条の井上さんがおり、同じ日に出撃することがあったそうです。出撃前に別れの盃を交わし、夜飛んで朝に帰る、そして、彼は戻らず、主のない朝食だけが食堂に用意されていた。こういった光景を毎日のように喜田さんは目にされて、次は自分かとの思いが常にあったそうです。<br />そして同じ加西からの同期、河内の鈴木さん、6月にB29と交戦して墜落されたそうです。これには、落下地点の人が遺体を埋葬くださり、毎年法事を営まれ、20年後遺族が知るところとなり、お迎えに行かれたということです。<br />また、三口の宮永さん、九州の大分で飛行機故障で墜落、亡くなられたそうです。<br />そして、喜田さんも沖縄で爆撃を終えた後、鹿屋に帰還中に同地で空襲警報が発せられ、島根の美保基地へ向かえとの命令が出たそうです。しかし、既に燃料がなく大村飛行場へ向かうこととし、この途中で高度2000m付近を飛行、そして1000m付近の雲を避けて海上に出たところ、急にエンジンがバラバラっという異常音を発し、まもなく海上に不時着水、運良く近くにいた漁船に助けられ、一命をとりとめられたということがあったそうです。その後も3、4日おきに出撃し、その度に5機飛んだら必ず2〜3機やられる、非常に厳しい日々を過ごされていたようです。<br /><br />そんな中、遂に8/15、終戦の日、第5航空艦隊司令長官宇垣中将、指令特攻が決行されました。<br /><br />喜田さんは当時大分におられ、宇垣中将以下11機の彗星が沖縄へ最後の特攻に飛び立ったのを見送ったそうです。その直後、終戦後たった5日で復員せよとの命令が出され、8/20に復員、無事最後まで生き抜かれました。

    特乙第一期生岩国航空隊、非常に短い期間で予科練生を卒業し、飛練34期甲種10期と同期で、非常に若くしてパイロットになったため、普通下士官でつけられる飛行科のマークが一等兵で腕について、ということで当時はたいへん珍しがられたそうです。
    喜田さんは当初、飛行艇に乗っておられ、南方方面への輸送任務に就かれていたそうです。当初は制空権があったので南方へどんどん飛んで行くことができたようですが、台湾航空戦が終わり、沖縄戦となって、飛行艇から1式陸攻への乗務となり、その後は3日に1度のペースで敵機動部隊索敵任務に就かれたそうです。
    その際、多くの特攻隊機を目にされ、多くは敵空母に出会うことなく引き返し、途中魚雷を積んだまま敵機に襲われ、撃ち落とされた、こういったケースが非常に多かったそうです。加西から同じ部隊に北条の井上さんがおり、同じ日に出撃することがあったそうです。出撃前に別れの盃を交わし、夜飛んで朝に帰る、そして、彼は戻らず、主のない朝食だけが食堂に用意されていた。こういった光景を毎日のように喜田さんは目にされて、次は自分かとの思いが常にあったそうです。
    そして同じ加西からの同期、河内の鈴木さん、6月にB29と交戦して墜落されたそうです。これには、落下地点の人が遺体を埋葬くださり、毎年法事を営まれ、20年後遺族が知るところとなり、お迎えに行かれたということです。
    また、三口の宮永さん、九州の大分で飛行機故障で墜落、亡くなられたそうです。
    そして、喜田さんも沖縄で爆撃を終えた後、鹿屋に帰還中に同地で空襲警報が発せられ、島根の美保基地へ向かえとの命令が出たそうです。しかし、既に燃料がなく大村飛行場へ向かうこととし、この途中で高度2000m付近を飛行、そして1000m付近の雲を避けて海上に出たところ、急にエンジンがバラバラっという異常音を発し、まもなく海上に不時着水、運良く近くにいた漁船に助けられ、一命をとりとめられたということがあったそうです。その後も3、4日おきに出撃し、その度に5機飛んだら必ず2〜3機やられる、非常に厳しい日々を過ごされていたようです。

    そんな中、遂に8/15、終戦の日、第5航空艦隊司令長官宇垣中将、指令特攻が決行されました。

    喜田さんは当時大分におられ、宇垣中将以下11機の彗星が沖縄へ最後の特攻に飛び立ったのを見送ったそうです。その直後、終戦後たった5日で復員せよとの命令が出され、8/20に復員、無事最後まで生き抜かれました。

  • 元海軍パイロット同士で談笑される、喜田さんと宮崎さん<br />

    元海軍パイロット同士で談笑される、喜田さんと宮崎さん

  • 佐藤大尉の思い出について語って頂いた岡さん、<br />そして、岡さんのお隣は、姫路海軍航空隊とも関わりが深い宇佐海軍航空隊のある九州大分県宇佐市、こちらで地域史などの調査研究を行われている「豊の国、宇佐塾」に所属されている織田さんです。今回、このような飛行場展を開催するということで、わざわざ駆けつけてくださいました。<br />織田さんは先日、ニッポン放送系の夜のニュース番組、「ZERO」で取り上げられた「豊の国、宇佐塾」の米軍機ガンカメラの映像分析で出演されておられました。今後もこの鶉野飛行場と宇佐、更には筑波などのこういった保存や調査を行っておられる方々との連携が深まり、より大な活動に展開できれば面白でしょうね。

    佐藤大尉の思い出について語って頂いた岡さん、
    そして、岡さんのお隣は、姫路海軍航空隊とも関わりが深い宇佐海軍航空隊のある九州大分県宇佐市、こちらで地域史などの調査研究を行われている「豊の国、宇佐塾」に所属されている織田さんです。今回、このような飛行場展を開催するということで、わざわざ駆けつけてくださいました。
    織田さんは先日、ニッポン放送系の夜のニュース番組、「ZERO」で取り上げられた「豊の国、宇佐塾」の米軍機ガンカメラの映像分析で出演されておられました。今後もこの鶉野飛行場と宇佐、更には筑波などのこういった保存や調査を行っておられる方々との連携が深まり、より大な活動に展開できれば面白でしょうね。

  • 講演会終了後の講師、上谷さん、宮崎さん、そして喜田さん、<br />貴重なお話、ありがとうございました。

    講演会終了後の講師、上谷さん、宮崎さん、そして喜田さん、
    貴重なお話、ありがとうございました。

  • アスティア加西3Fギャラリー展会場<br />こちらには喜田さんの当時着用された飛行服も展示されてます。

    アスティア加西3Fギャラリー展会場
    こちらには喜田さんの当時着用された飛行服も展示されてます。

  • 連日行われた飛行場展では、受付などに若い人々など多くの方々の協力がありました。

    連日行われた飛行場展では、受付などに若い人々など多くの方々の協力がありました。

  • パネル展にも多くの方々にお越し頂きました、

    パネル展にも多くの方々にお越し頂きました、

  • この日、鶉野飛行場の地元の方から、飛行場周辺の土の中から出土された銃剣をお持ちいただきました。

    この日、鶉野飛行場の地元の方から、飛行場周辺の土の中から出土された銃剣をお持ちいただきました。

  • 当時の航空隊の番兵が持っていたのでしょうか、銃剣とそれを収める鞘です。<br />

    当時の航空隊の番兵が持っていたのでしょうか、銃剣とそれを収める鞘です。

  • 豊の国、宇佐塾の織田さんと談笑される喜田さん、加西と宇佐との今後の交流も楽しみです。

    豊の国、宇佐塾の織田さんと談笑される喜田さん、加西と宇佐との今後の交流も楽しみです。

  • 今回の講演会講師の上谷さん、宮崎さん、司会の合楽さん、そして実行委員会のスタッフとの記念撮影です。

    今回の講演会講師の上谷さん、宮崎さん、司会の合楽さん、そして実行委員会のスタッフとの記念撮影です。

  • 保存会、三宅会長と小西さん、そしてスタッフ、和気あいあいのいい雰囲気の中、今回の展示会が開催されました。

    保存会、三宅会長と小西さん、そしてスタッフ、和気あいあいのいい雰囲気の中、今回の展示会が開催されました。

  • 第一回の講演会「残された技術 飛行艇」から今回の講演会「姫路海軍航空隊の練習生たち」まで、一週間に亘って行われたアスティア加西3Fねひめホールなどでのパネル展示も終了、8月31日までのギャラリー展を残すのみとなりました。<br />今回の「加西 鶉野飛行場展」では、パネル展に訪れられた多くの方々から、様々なお話を伺うことができました。当時を振り返って懐かしい思い出を語る方、戦後に生まれ、遊び場として飛行場へよく行ったといわれる方、そして戦時中都市部で焼夷弾による空襲を体験された方、この方からは焼夷弾が落ちてきたら防空壕など何の役にも立たない、中の人は蒸し焼きになるだけ、など生々しいお話も伺うことができました。また、二度にわたる講演会では航空機の技術、飛行機の製造側と乗る側との見方、練習生の当時における様子や地域との交流、そして、鶉野で完成した紫電改、また、その紫電改にまつわる国鉄北条線、網引駅付近での悲劇、人々の記憶と共に、地域の歴史の中で起きた現実、これまで知ることができなかった多くの事柄を学ぶことが出来た気がします。<br />このような催しを通じて地元のみならず、遠方からも多くの方々がこの会場にお見えになり、その中で様々な交流が生まれる。これからの未来に対して何を残し、どう教訓として生かしていくか、今後もより多くの方々の知恵が結集されりことが望まれます。そういった意味で、この「加西 鶉野飛行場展」、地域活性化への一助となるべく、今後も継続し、発展できればいいですね。

    第一回の講演会「残された技術 飛行艇」から今回の講演会「姫路海軍航空隊の練習生たち」まで、一週間に亘って行われたアスティア加西3Fねひめホールなどでのパネル展示も終了、8月31日までのギャラリー展を残すのみとなりました。
    今回の「加西 鶉野飛行場展」では、パネル展に訪れられた多くの方々から、様々なお話を伺うことができました。当時を振り返って懐かしい思い出を語る方、戦後に生まれ、遊び場として飛行場へよく行ったといわれる方、そして戦時中都市部で焼夷弾による空襲を体験された方、この方からは焼夷弾が落ちてきたら防空壕など何の役にも立たない、中の人は蒸し焼きになるだけ、など生々しいお話も伺うことができました。また、二度にわたる講演会では航空機の技術、飛行機の製造側と乗る側との見方、練習生の当時における様子や地域との交流、そして、鶉野で完成した紫電改、また、その紫電改にまつわる国鉄北条線、網引駅付近での悲劇、人々の記憶と共に、地域の歴史の中で起きた現実、これまで知ることができなかった多くの事柄を学ぶことが出来た気がします。
    このような催しを通じて地元のみならず、遠方からも多くの方々がこの会場にお見えになり、その中で様々な交流が生まれる。これからの未来に対して何を残し、どう教訓として生かしていくか、今後もより多くの方々の知恵が結集されりことが望まれます。そういった意味で、この「加西 鶉野飛行場展」、地域活性化への一助となるべく、今後も継続し、発展できればいいですね。

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この旅行記へのコメント (2)

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  • konomiさん 2014/10/06 20:37:51
    驚きました!
    飛行時間十時間以上に達すると前線の航空隊に赴任して行きました。

    ・・・・たった10時間で前線赴任とは・・・驚きです。
    みな、民間機のパイロットになることを夢見ていた人たちだったんですね。

    97式は中島製作所のものだったんですね。

    近年、また三菱が民間飛行機の製造を再開したことは、本当にうれしいことです。
    戦後70年にして、やっと・・・と、とてもうれしく思いました。
    順調に受注しているそうで、何よりです。


    Tam-K

    Tam-Kさん からの返信 2014/10/13 19:13:01
    RE: 驚きました!
    お返事遅れ申し訳ありませんでした。

    戦時中とは言え、即席パイロットとでも言うのでしょうか、驚きですよね、
    ただ、そのような状況で実戦に出たとしてもどの程度役に立つのか、当時はすべてが空回りしていたような気がします。

    こういった過ちを繰り返さないためにも、戦争に対して脚色されていない事実を見る目をやしないたいものです。

    Tam-K

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