
2014/05/18 - 2014/05/18
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Tam-Kさん
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兵庫県加西市、旧海軍姫路航空隊鶉野飛行場、ここは第二次大戦中、ミッドウェー海戦の惨敗によって航空戦力に大きな打撃を受けた日本海軍が、パイロット養成を目的として昭和18年に急遽設置したものです。全長1200m×幅60mの滑走路跡を中心に、周辺に地下防空指揮所などの防空壕跡や対空砲陣地跡など、さまざまな施設が現在でも残る、いわゆる戦争遺跡のひとつです。
この日は、「ひめじのれきし委員会」の方々を迎え、鶉野飛行場について長年調査、研究を続られている郷土戦史家、上谷さんによるガイドツアーが行われました。今回、飛び入りながらこのガイドツアーに同行させて頂き、貴重なレクチャーなどを一緒に聞かせて頂きました。
加西・鶉野飛行場展 実行委員会のFacebookページです。
https://www.facebook.com/uzurano?fref=nf
「加西 鶉野飛行場展 記念講演 残された技術 飛行艇」
H26年8月10日にアスティア加西での講演会の模様です。
http://4travel.jp/travelogue/10916199
今回のガイドツアーでは、北条鉄道法華口駅の駅舎にてまず、上谷さんから海軍姫路航空隊に関する歴史や全体概要に関してのご説明をうけ、その後、飛行場周辺に移動し、厚さ1mのコンクリートで覆われた弾薬庫跡や地下防空指揮所が置かれていた防空壕跡や対空砲陣地跡、ならびに滑走路跡などを見学、その際、上谷さんからそれぞれの施設にまつわる貴重なお話を伺えることができました。
この鶉野飛行場では、パイロットの養成として当時多くの若者が全国から集まり、日々鍛錬に勤しんでいたということです。そして、戦況が逼迫する中、遂には神風特攻隊が編成され、その中に白鷺隊という名の隊がありました。これがこの鶉野飛行場で育った若者たちだったということです。パイロット育成とはいうものの、ここは特攻隊員育成の場ともなってしまい、その歴史なかにおいて隊員達と地元の人々とのふれあい、出会い、そして別れなど多くのエピソードが当時存在したようです。
また、当時、川西航空機が姫路の工場で製造した半完成品状態の航空機をここに運び込み、この飛行場脇にあった工場で最終組立を行っていたそうです。飛行場の脇には工場の跡地と思しき場所があり、ここで完成した飛行機は試験飛行を行い、その後、各地へ実戦配備されていったということです。
川西航空機といえば第二次大戦中における傑作機、紫電改を思い浮かべる方が多いのではないでしょうか。正にあの世界に誇る名機、紫電改がこの地で完成し、そして大空へと飛び立っていった、なんとなくロマンを感じてしまいます。また、こんなところで姫路との歴史的接点があるなど、とても興味深い点も見えてきました。
- 旅行の満足度
- 3.5
- 観光
- 3.5
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「鶉野飛行場平和祈念の碑苑」
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北条鉄道法華口駅 (1)
この日は爽やかな晴天に恵まれ、ご家族連れ、自転車を駆って訪れた方々、駅ナカのパン屋さんへパンを買いに来られた方、そして北条鉄道をご利用される方々など、朝から多くの人々がこの駅を訪れられていました。法華口駅 駅
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ガイドツアーは、まずこの法華口駅の駅舎内にて郷土戦史家、上谷さんによる鶉野飛行場にまつわる全体的な歴史背景など、全体概要についてのお話からはじまりました。
第二次大戦勃発からミッドウェーでの空母機動艦隊の壊滅、これによって世界でも一線級の多くのパイロットを失った。このことによる航空戦力への大打撃を補う目的で姫路海軍航空隊が編成され、この鶉野飛行場が建設されるに至った経緯など、説明がありました。また、当時川西航空機で航空機の大増産を行う計画が持ち上がり、当時の川西航空機オーナー、川西財閥が傘下の企業、日本毛織の姫路(現在の姫路市JR京口駅前に工場があったそうです。)にある工場を、航空機製造工場に転用することとなったそうです。そして、ここで世界に誇る名機、紫電や紫電改などの製造が開始され、さらに最終組立が鶉野飛行場脇に建設された川西航空機の工場で行われたそうです。このように製造された航空機は、鶉野飛行場で試験飛行などを経て完成、その後、各地の戦場へ飛び立って行ったそうです。 -
加西市のHPから鶉野飛行場に関する資料をお借りしました。
http://www.city.kasai.hyogo.jp/02kank/kanko/11uzura/pic/110428.pdf
この飛行場周辺に残る施設などが記されています。以下、この地図に記載されている番号で今回訪れた場所を示してみたいと思います。
(1)北条鉄道法華口駅
(2)防空壕(素掘)航空隊への登り道沿い
(3)防空壕(コンクリート製)衛所前
(11)防空壕(コンクリート製)兵舎横
(12)防空壕(コンクリート製)兵舎横
(13)防空壕(コンクリート製)最大の防空壕
(20)防空壕(コンクリート製)倉庫
(21)防空壕(コンクリート製)正方形の入口
(22)対空砲陣地跡
(17)エプロン
(18)防空壕(コンクリート製)地下防空指揮所
(26)滑走路
(27)鶉野平和祈念の碑苑
(28)対空砲陣地跡 -
法華口駅でお話を聞いた後、実際に現存している戦争遺跡を上谷さんのご案内でひとつずつ巡って行きました。
法華口駅の東側の台地を登る道、この道を登りきった台地の上に姫路海軍航空隊の施設がありました。この道は法華口駅と航空隊を結ぶ道であり、航空隊にとっては重要な補給路、当時は道の脇に林などなく、ここを移動していると西方から飛来する米軍艦載機(主にグラマンなど)による機銃掃射の絶好の的となったそうです。このため、この道沿いには一時退避用の素掘りの防空壕が多く存在しています。 -
道沿いの所々で、こういった具合に素掘の防空壕(2)がぽっかりと口を開けています。
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中を覗いてみると、入口部分は半分埋もれていますが、中は広くまた素掘りの表面もしっかりした感じで、保存状態はとても良いようです。
中は折れ曲がり、コの字型となり、もう一方の出口へと繋がっています。 -
先程の道を登りきった所にあるコンクリート製の防空壕(3)、ここにはかって衛所が有り、姫路海軍航空隊の正門にあたる場所だったそうです。
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先程の衛所、航空隊の正門であった場所のすぐ先は広々とした農地が広がっています。この辺は現在、神戸大学の農業試験場となっています。写真中央にはコンクリート製の防空壕(11)(12)があります。これらは本館庁舎や兵舎の横にあったようで、ひとつは発電機などが設置されていたそうです。
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この場所には写真のような航空隊の建物が並んでいたそうです。
この建物は航空隊の本館庁舎(地下防空指揮所展示写真)だった木造二階建の建物です。かってはいくつもの兵舎がならんでいたようですが、現在はすべて農地となり、基礎なども残っていないようです。
ただ、防空壕に関してのみ、非常に分厚いコンクリートで覆われていたことから、撤去に多額の費用を要したこともあり、偶然にも現存することができたようです。 -
先程の航空隊がある台地への上り坂から少し東側に入る小道があります。ここを徒歩で進んでいくとその先に弾薬庫跡があります。
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林の中にひっそりと佇む弾薬庫跡、
確かに厚さ1mのとても分厚いコンクリートで覆われた頑丈な構造です。
航空爆弾や機銃弾などがここに保管されていたそうです。 -
弾薬庫内部に入ってみました。中は結構広く、ひんやりとした感じがしました。
また、この弾薬庫の向かい側は高い土盛が設けられており、外部からの防御と共に、弾薬庫内での爆発などに備えたものだそうです。
この周辺にはこのような弾薬庫が3つのあったそうです。現在では隣接地大きな倉庫などが建設され、その際、2つは撤去されてしまったそうです。 -
続いて航空隊本館庁舎前から少し北に進んだ林の中へ向かいます。ここには対空高射砲陣地跡(22)がありました。
この位置は、滑走路の南端から数百メータ程度先に進んだ辺りになります。 -
円形のコンクリートの枠の中央にこの写真のような高射砲(地下防空指揮所展示写真)が据え付けられていたようです。
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円形の部分の地下に弾薬庫があり、この開口から地下へ降りる階段があります。
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終戦が近づいた昭和20年当時、この航空隊がある周辺へは主に米軍のグラマン戦闘機などの艦載機が飛来し、爆撃や機銃掃射による攻撃が度々行われていたようです。敵機は西側の山の峰々を超えて飛来していたようで、機銃座はその方向に向かって据えられていたそうです。
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上の機銃座の近くに2つのコンクリート製の防空壕(20)がありました。
そうちのひとつ、この大きな防空豪は倉庫のように中にものが置かれてました。 -
さらに奥側にあったもうひとつの防空壕(21)、
この裏側の台地には通信所の施設があったそうです。 -
神戸大学の広い農地の真ん中にある大きなコンクリート製の防空壕(13)、これはここで最大の防空壕です。
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同じく農地の真ん中を通る未舗装の道、ここは映画「火垂の墓」のロケ地になった場所だそうです。
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地下防空指揮所があった防空壕(18)です。
ここは内部が整備され、鶉野飛行場に関する様々な資料が展示されていました。 -
防空指揮所の前には旧エプロン跡(17)があります。現在は牧場の一部となっていますが、ここにはとても広いコンクリートのエプロン跡が残っていました。現在の牛舎がある辺りに3棟の大きな航空機の格納庫が列んでいたそうです。
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イチオシ
地下防空指揮所(18)は円形の上部が地上に出ていますが、当時は土が盛られ、外からは見えないようになっていたそうです。
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地下防空指揮所(18)の防空壕への入口です。
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ここから階段を降りて地下へ入っていきます。
下るとクランク状に通路が折れ曲がり、爆風が直接内部へいたらないように工夫された構造だそうです。 -
防空壕(18)の内部です。天井に飛行機の模型が飾ってありました。また、壁には当時の建物や施設、そしてここで使用されていた航空機などの写真やこの鶉野飛行場に関する周辺施設の図解や説明用のパネルと共に、神風特攻隊として飛び立った白鷺隊の隊員たちがしたためた遺書など、多くの資料が展示されていました。
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ここ鶉野では、パイロットや整備兵の養成と同時に、川西航空機による航空機の製造にも関与していました。滑走路の南端、西側に川西航空機の機体最終組立工場があり、姫路の工場で製造された紫電改などの航空機が半製品状態でここに搬入され、最終的な姿へと組み立てられていったそうです。ここで製造された機体は、各地へ飛び立ち、実戦配備されました。また何機かは飛行場の北部の林の中などに設けられた航空機を収納する防空壕、いわゆる掩体壕の中に保管され、筑波航空隊のパイロットによる本土決戦時における出撃に備えられていたということです。
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特攻隊員のひとりがしたためた遺書、、、 言葉がありません、、、
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鶉野飛行場の滑走路(26)です
表面のコンクリートは相当荒れていますが、その全長、幅などは当時のままの規模で残っています。以前ここで陸上自衛隊八尾基地のヘリコプターなどを展示した小さながらも航空ショーが催されたこともあったそうです。 -
イチオシ
(27)鶉野平和祈念の碑苑
滑走路のちょうど中間部分にあります。
当時、ここから神風特攻隊として飛び立っていった白鷺隊は、97式艦上攻撃機が使われていたそうです。この機は三座、3人乗りで、操縦士、航法手、通信士の3人が乗り組み、出撃していったそうです。また、出撃にあたっては、1機に対し、2名の整備士も鹿児島県鹿屋まで同行し、出撃直前まで機体の整備に万全を期していたそうです。 -
石碑の裏側には、特攻隊として飛び立った隊員たちの名が刻まれていました。
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滑走路北側にももうひとつ高射砲陣地跡があります。
ひっそりと周りの田園風景に溶け込むように佇んでいました。 -
滑走を南端から西に200m程度入り込んだところに広場ありました。
地下防空指揮所の提示にあった地図から、この場所に川西航空機の組立工場があったとものと思われます。
現在は空き地のようで、少し前までここは大きな鶏舎が並んでいたそうです。 -
飛行場から西に少し離れた集落にある川西航空機の社宅や寮として建てられたと思われる長屋群、現在は一般の方が暮らされています。
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ひと通り航空隊の施設の見学を終え、再び北条鉄道法華口駅に戻ってきました。
旧海軍姫路航空隊、ここには優秀なパイロット育成を目的に、全国から多くの若者たちが集まり、日夜厳しい訓練に取り組んでいました。彼ら若者たちは当然ながら故郷から遠く離れたこの地で、家族と分かれての生活を送っていました。このため、休日などに地元の民家がボランティアで一晩彼らを受け入れ、ささやかながら家族の暖かさを感じてもらう、里親のような取り組みが行われてそうです。また、地元の人々と触れ合う機会もそれなりにあり、なかには地元の女性との間でロマンスが生まれるようなこともあったそうです。そういった点で、休日などに人と出会う場として、この航空隊の表玄関である法華口駅がふれあいの場であったそうです。同時に、法華口駅は特攻隊員として飛び立っていく隊員たちとの最後の別れの場でもあったそうです。
現在の法華口駅は駅の中のパン屋さんでティータイムを楽しんだり、ローカル鉄道のゆるい雰囲気を味わったりなど、休日等には多くの人々が訪れるようになっています。いつの時代も駅は人々にとってふれあいの場であるといことに代わりはありません。ただ戦時中のような悲しい別れの場になるようなことは、決してあってはならないことではないでしょうか。 -
法華口駅ではこの日もボランティア駅長さんによるお見送り、いつもご苦労様です。
ボランティア駅長さんのFacebookページです。
https://www.facebook.com/hokkeguchi?fref=nf -
お昼にボランティア駅長さんの気まぐれサンド(350円)を買って帰りました。
玉ねぎとともに甘辛く炒められた牛肉とシャキシャキ感ある野菜、これをもっちり米粉パンで挟んだサンド、とても美味しかったです。
大人気で作ったそばからすぐに売りてしまうようです。駅長さんも大忙しですね。 -
イチオシ
慰霊碑脇に立つ旭日旗、この旗のみが唯一当時と同じ光景を再現しているかのように、青空を背に風にたなびいていました。
今回は、「ひめじのれきし委員会」の方々と共に郷土戦史家の上谷さんのお話をお聞きすることができました。上谷さんにはいろんな場所を案内頂き、また非常に丁寧なお話もお聞きでき、非常に貴重なひと時を得ることができました。上谷さんには本当に感謝致します。また、今回飛び入りで参加させて頂いたにも関わらず、親切に同行を受け入れて頂けた「ひめじのれきし委員会」の方々、そして加西・鶉野飛行場展 実行委員会の方々にも合わせてお礼申し上げます。ほんとうにありがとうございました。
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この旅行記へのコメント (1)
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- たらよろさん 2014/07/20 10:35:40
- いろいろ考えさせられるものがありました
- こんにちは、Tam-Kさま。
先日、永遠の0を読み、もちろん作者さんの主観も多々入っているでしょうから、
フィクションの部分もあるのでしょうが、
今まであまり知らなかった空中戦の様子がすごく理解できました。
特攻隊のことも、色々な意味で考えさせられました。
私は今、航空機を製造するお仕事に従事しており、
その中で川西航空機さんともお取引しておりますが、
恥ずかしながら、当時に川西航空機さんが、そんなに素晴らしい航空機を組み立てておられたことも知りませんでした。
戦時中からある歴史ある会社さんということは知っていたのですが……
日本の航空機事業は、長かったトンネルを抜けて今やっと始まったばかり。
止まってしまった50年を取り返すため頑張らないとねー
たらよろ
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