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宇都宮市内の追分で、日光街道と奥州街道は分かれます。

奥州古道歩きNo1.宇都宮市内から白沢宿(1)へ

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2014/03/27 - 2014/03/27

427位(同エリア997件中)

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ムッシュ

ムッシュさん

宇都宮市内の追分で、日光街道と奥州街道は分かれます。

旅行の満足度
4.5
観光
4.5
交通手段
レンタカー 徒歩
  • 宇都宮市中心の裁判所前からウォーキングstartです。

    宇都宮市中心の裁判所前からウォーキングstartです。

  • <br />


  • 先ずは宇都宮二荒山神社(ふたら)に向かってます。

    先ずは宇都宮二荒山神社(ふたら)に向かってます。

  • 二荒山神社<br />丘陵上に宇都宮二荒山(ふたあらやま)神社が鎮座しています、創建は第十代崇神天皇の御代にさかのぼる古社です。<br />宇都宮の地名はこの二荒山神社が下野國一の宮であったり、奥州攻めの源氏勢が当社に戦勝を祈願をした&quot;討つの宮&quot;であったところに由来しています。<br />正式名称は二荒山神社であるが、日光の二荒山神社(ふたらさんじんじゃ)との区別のために鎮座地名を冠して呼ばれる。創建は、社伝では仁徳天皇の代、下毛野国造奈良別王が、祖である豐城入彦命を荒尾崎に祀ったとある。<br /><br />代々武将の崇敬を受け、家康は社領1500石を寄進し社殿を再建しましたが戊辰戦役で焼失し、明治?年(1877年)明治新政府によって再建されました。<br />社務所脇には与謝蕪村句碑「鶏(とり)は羽(は)に はつねをうつの 宮桂 宰鳥(さいちょう)」があります、<br />与謝野蕪村(俳号宰鳥)は寛保3年(1743年)の歳末に宇都宮の俳人佐藤露鳩の許を訪れて滞在し、翌年正月に最初の歳旦帖を編集発行しました。

    二荒山神社
    丘陵上に宇都宮二荒山(ふたあらやま)神社が鎮座しています、創建は第十代崇神天皇の御代にさかのぼる古社です。
    宇都宮の地名はこの二荒山神社が下野國一の宮であったり、奥州攻めの源氏勢が当社に戦勝を祈願をした"討つの宮"であったところに由来しています。
    正式名称は二荒山神社であるが、日光の二荒山神社(ふたらさんじんじゃ)との区別のために鎮座地名を冠して呼ばれる。創建は、社伝では仁徳天皇の代、下毛野国造奈良別王が、祖である豐城入彦命を荒尾崎に祀ったとある。

    代々武将の崇敬を受け、家康は社領1500石を寄進し社殿を再建しましたが戊辰戦役で焼失し、明治?年(1877年)明治新政府によって再建されました。
    社務所脇には与謝蕪村句碑「鶏(とり)は羽(は)に はつねをうつの 宮桂 宰鳥(さいちょう)」があります、
    与謝野蕪村(俳号宰鳥)は寛保3年(1743年)の歳末に宇都宮の俳人佐藤露鳩の許を訪れて滞在し、翌年正月に最初の歳旦帖を編集発行しました。

  • 二荒山神社参道<br />二荒山神社もまた「下野国一之宮」とよばれ、宇都宮という地名はこのイチノミヤが訛ってウツノミヤになったという一説があります。

    二荒山神社参道
    二荒山神社もまた「下野国一之宮」とよばれ、宇都宮という地名はこのイチノミヤが訛ってウツノミヤになったという一説があります。

  • 二荒山神社境内

    二荒山神社境内

  • 二荒山神社境内、参道の石段を上りきると本堂があります。

    二荒山神社境内、参道の石段を上りきると本堂があります。

  • 境内左の階段を下りると「宰鳥(蕪村)句碑」を見ることができる。<br /> 「鶏は羽に はつねをうつの 宮柱」

    境内左の階段を下りると「宰鳥(蕪村)句碑」を見ることができる。
     「鶏は羽に はつねをうつの 宮柱」

  • 「おしどり塚碑」<br />小さな公園にある昔話の旧跡地<br /><br />鎌倉時代に無住法師により書かれた「沙石集(しゃせきしゅう)」に紹介された物語の旧跡地。“おしどり夫婦”の語源にもなった名所としても知られている。塚の遺跡は、宇都宮市一番町の「おしどり塚児童公園」内に残されている。<br />猟師が雄のおしどりを射止め、首を切り落とし胴体を持ち帰った、翌日同じ場所でうずくまっている雌のおしどりを撃つと翼の下に雄の首をしっかり抱きかかえていました、猟師は深く心を打たれ、これまでの殺生を悔い、石塔を建てて供養したといいます。<br />*鎌倉時代に無住法師の「沙石集」によって紹介された旧跡地<br />

    「おしどり塚碑」
    小さな公園にある昔話の旧跡地

    鎌倉時代に無住法師により書かれた「沙石集(しゃせきしゅう)」に紹介された物語の旧跡地。“おしどり夫婦”の語源にもなった名所としても知られている。塚の遺跡は、宇都宮市一番町の「おしどり塚児童公園」内に残されている。
    猟師が雄のおしどりを射止め、首を切り落とし胴体を持ち帰った、翌日同じ場所でうずくまっている雌のおしどりを撃つと翼の下に雄の首をしっかり抱きかかえていました、猟師は深く心を打たれ、これまでの殺生を悔い、石塔を建てて供養したといいます。
    *鎌倉時代に無住法師の「沙石集」によって紹介された旧跡地

  • 【浄土宗芳宮山清巌寺(せいがんじ)】<br />本尊は阿弥陀如来で第五代城主宇都宮頼綱の創建です。<br />堂内に安置されている鉄塔婆は正和元年(1312年)第八代城主宇都宮貞綱が亡き母の供養に建立したものです(国重文)、上部には阿弥陀三尊が浮彫されています。

    【浄土宗芳宮山清巌寺(せいがんじ)】
    本尊は阿弥陀如来で第五代城主宇都宮頼綱の創建です。
    堂内に安置されている鉄塔婆は正和元年(1312年)第八代城主宇都宮貞綱が亡き母の供養に建立したものです(国重文)、上部には阿弥陀三尊が浮彫されています。

  • お堂の中に国指定重要文化財の「鉄塔婆」が収められている。<br />鎌倉時代の正和元年(1312)、時の宇都宮城主が亡き母供養のために建立したのだとか。 3m超の塔婆は鋳鉄製としては我が国最古のものだそうだ。<br />上部には阿弥陀三尊が浮彫されています。<br /><br />*鋳鉄の塔婆は見たことがない。<br /> 「鉄塔婆」は右手の建物の中に納められており、(扉が閉っているけど、自由に開けられる)、鎌倉時代の正和元年(1312)に宇都宮8代城主が母の十三回忌供養のため建立したものといわれる。我国最古であり、かつ唯一の鋳鉄製の大塔婆であることから、当時の宇都宮氏の、政治的、経済的は力ばかりでなく、文化的水準の高さを示している。<br /><br />	<br /> 「幸橋」を渡る手前の「清巌寺通り」を左に入ってすぐの清巌寺に、重文の鉄塔婆が収められている。<br /> 清巌寺境内に入るとすぐ右手に収蔵庫があり、常時扉は閉まっているが、朝早いこの時間でも鍵が掛かっておらず自由に中に入れる。自分で照明のスイッチを入れればガラスで囲われた中に鉄塔婆が見られる。<br /><br />【鉄塔婆】 国指定重要文化財(昭和44年8月9日指定)<br />   高さ  三・三メートル<br />   幅   〇・三メートル<br /> この鉄塔婆は、鎌倉時代の正和元年(1312)の八月に、宇都宮八代城主貞綱が亡き母の十三回忌の供養のために建立したといわれる。<br /> 塔婆の上部には阿弥陀を表す梵字と阿弥陀三尊の浮彫りがあり下部には九〇字の願文がある。<br /> 我が国最古であり、かつ唯一の鋳鉄製の大塔婆であることから当時の宇都宮氏の政治、経済的な力ばかりでなく文化的・宗教的な水準の高さを示している貴重な資料である。(昭和六十三年三月建 宇都宮市教育委員会)

    お堂の中に国指定重要文化財の「鉄塔婆」が収められている。
    鎌倉時代の正和元年(1312)、時の宇都宮城主が亡き母供養のために建立したのだとか。 3m超の塔婆は鋳鉄製としては我が国最古のものだそうだ。
    上部には阿弥陀三尊が浮彫されています。

    *鋳鉄の塔婆は見たことがない。
     「鉄塔婆」は右手の建物の中に納められており、(扉が閉っているけど、自由に開けられる)、鎌倉時代の正和元年(1312)に宇都宮8代城主が母の十三回忌供養のため建立したものといわれる。我国最古であり、かつ唯一の鋳鉄製の大塔婆であることから、当時の宇都宮氏の、政治的、経済的は力ばかりでなく、文化的水準の高さを示している。


     「幸橋」を渡る手前の「清巌寺通り」を左に入ってすぐの清巌寺に、重文の鉄塔婆が収められている。
     清巌寺境内に入るとすぐ右手に収蔵庫があり、常時扉は閉まっているが、朝早いこの時間でも鍵が掛かっておらず自由に中に入れる。自分で照明のスイッチを入れればガラスで囲われた中に鉄塔婆が見られる。

    【鉄塔婆】 国指定重要文化財(昭和44年8月9日指定)
       高さ  三・三メートル
       幅   〇・三メートル
     この鉄塔婆は、鎌倉時代の正和元年(1312)の八月に、宇都宮八代城主貞綱が亡き母の十三回忌の供養のために建立したといわれる。
     塔婆の上部には阿弥陀を表す梵字と阿弥陀三尊の浮彫りがあり下部には九〇字の願文がある。
     我が国最古であり、かつ唯一の鋳鉄製の大塔婆であることから当時の宇都宮氏の政治、経済的な力ばかりでなく文化的・宗教的な水準の高さを示している貴重な資料である。(昭和六十三年三月建 宇都宮市教育委員会)

  • 田川を幸橋で渡ります、旧上河原橋で宇都宮宿の白河(北)口です。<br />上河原橋は万治四年(1661)の架橋です、田川は日光七里に源を発し、流末は鬼怒川に落合います。

    田川を幸橋で渡ります、旧上河原橋で宇都宮宿の白河(北)口です。
    上河原橋は万治四年(1661)の架橋です、田川は日光七里に源を発し、流末は鬼怒川に落合います。

  •  清巌寺を出て「田川に架かる幸橋」を渡ると、交差点向こうに重厚な【旧篠原家住宅】が見えてくる。<br />大きな信号交差点を渡ると右手に旧篠原家住宅があります、篠原家は戦後まで醤油醸造業、肥料業を営み、嘉永四年(1851年)築の石蔵や明治二十八年(1895年)築の店蔵は国指定重要文化財です。<br /><br />旧・篠原家住宅という。黒漆喰や大谷石を用いた外観は風格をがある。国の重文に指定されている。

     清巌寺を出て「田川に架かる幸橋」を渡ると、交差点向こうに重厚な【旧篠原家住宅】が見えてくる。
    大きな信号交差点を渡ると右手に旧篠原家住宅があります、篠原家は戦後まで醤油醸造業、肥料業を営み、嘉永四年(1851年)築の石蔵や明治二十八年(1895年)築の店蔵は国指定重要文化財です。

    旧・篠原家住宅という。黒漆喰や大谷石を用いた外観は風格をがある。国の重文に指定されている。

  • 江戸時代から醤油醸造業を営んでいた篠原家だが、裏の広大な醤油醸造倉など多くの建物を戦災で焼失。石倉と母屋だけが残った。ちなみにこの建物は明治28年(1895)建築。<br />	<br />【旧篠原家住宅】 国指定重要文化財(平成12年5月25日指定) 宇都宮市指定有形文化財(平成7年11月27日指定)<br />  篠原家は奥州街道口の豪商で、江戸時代から第二次大戦までは醤油醸造業・肥料商を営んでいた。明治28年(1895)に建てられたこの店蔵は、店舗と住居部分を一体化した蔵造りになっている。市内の店蔵の中で、改造がほとんどされておらず、かつ、石蔵を伴って残されているものは数少ない。<br />  住宅の一階部分の両側には、厚さ約8cmの大谷石が貼ってあり、この店蔵の特色になっている。帳場の奥に約45cm角のケヤキの大黒柱がある。これは二階の大広間(20畳敷き)の床柱を兼ね、さらに棟木まで延びており、建築的に大変珍しいものである。全体的に装飾性は少ないが、よい材料を贅沢に使っており、美しく豪華に造られている。なお、石蔵三棟のうち最も古いものは、嘉永4年(1851)に建てられたものである。<br />

    江戸時代から醤油醸造業を営んでいた篠原家だが、裏の広大な醤油醸造倉など多くの建物を戦災で焼失。石倉と母屋だけが残った。ちなみにこの建物は明治28年(1895)建築。

    【旧篠原家住宅】 国指定重要文化財(平成12年5月25日指定) 宇都宮市指定有形文化財(平成7年11月27日指定)
      篠原家は奥州街道口の豪商で、江戸時代から第二次大戦までは醤油醸造業・肥料商を営んでいた。明治28年(1895)に建てられたこの店蔵は、店舗と住居部分を一体化した蔵造りになっている。市内の店蔵の中で、改造がほとんどされておらず、かつ、石蔵を伴って残されているものは数少ない。
      住宅の一階部分の両側には、厚さ約8cmの大谷石が貼ってあり、この店蔵の特色になっている。帳場の奥に約45cm角のケヤキの大黒柱がある。これは二階の大広間(20畳敷き)の床柱を兼ね、さらに棟木まで延びており、建築的に大変珍しいものである。全体的に装飾性は少ないが、よい材料を贅沢に使っており、美しく豪華に造られている。なお、石蔵三棟のうち最も古いものは、嘉永4年(1851)に建てられたものである。

  • 篠原家の屋敷窓。蔵と同じ構造<br />外壁を黒漆喰塗りとし,両側面を大谷石貼りにしている。<br /><br />【篠原家】<br />【パンフレットより】<br />宇都宮市を代表する旧家の一つである篠原家は、江戸時代(18世紀の終わり頃)から奥州街道口の現在の場所で、醤油醸造業や肥料商を営んでた。現在の旧篠原家住宅は、明治28年(1895)に建てられたもの。第二次世界大戦の戦災により、主屋と石蔵3棟を残して、醤油醸造蔵や米蔵などの建物は焼失してしまいましたが、明治時代の豪商の姿を今日に伝える貴重な建造物となっています。<br /> 黒漆喰や大谷石を用いた外壁や、商家を特徴付ける店先の格子などとともに、1・2階合わせて100坪という規模の大きさが、堂々たる風格を形作り、JR宇都宮駅前の歴史的シンボルとなっています。

    篠原家の屋敷窓。蔵と同じ構造
    外壁を黒漆喰塗りとし,両側面を大谷石貼りにしている。

    【篠原家】
    【パンフレットより】
    宇都宮市を代表する旧家の一つである篠原家は、江戸時代(18世紀の終わり頃)から奥州街道口の現在の場所で、醤油醸造業や肥料商を営んでた。現在の旧篠原家住宅は、明治28年(1895)に建てられたもの。第二次世界大戦の戦災により、主屋と石蔵3棟を残して、醤油醸造蔵や米蔵などの建物は焼失してしまいましたが、明治時代の豪商の姿を今日に伝える貴重な建造物となっています。
     黒漆喰や大谷石を用いた外壁や、商家を特徴付ける店先の格子などとともに、1・2階合わせて100坪という規模の大きさが、堂々たる風格を形作り、JR宇都宮駅前の歴史的シンボルとなっています。

  • 当時の篠原家の模型。広さが目を見張る。

    当時の篠原家の模型。広さが目を見張る。

  • 1尺5寸というケヤキの大黒柱

    1尺5寸というケヤキの大黒柱

  • こちらは2階天井付近に走る大梁。見事な構造です。<br />人と比べて、梁の太さに驚きます。

    こちらは2階天井付近に走る大梁。見事な構造です。
    人と比べて、梁の太さに驚きます。

  • 臨済宗妙心寺派神護山興禅寺があります(宇都宮市今泉三丁目)<br />【河北禅林】と呼ばれます。<br /><br />禅に救いを求めた。貞綱の菩提寺(ぼだいじ)、興禅寺(宇都宮市今泉)の住職、石川元信さんは「禅は武士にとって精神的なバックボーン。鎌倉時代は内乱もあり、あすをも知れぬ身。一瞬一瞬を大切に生き、心を落ち着けるために必要な修練だった」と話す。鎌倉では既に大流行していたこともあり、宇都宮で「禅を興す」意味を込めて興禅寺とした。得宗・北条高時(貞時の三男)からは「河北禅林」と書かれた扁額(へんがく)も寄せられた。<br /><br /> 寺を開いた真空(しんくう)妙応(みょうおう)は、雲巌寺(大田原市雲岩寺)の仏国(ぶっこく)国師(高峰(こうほう)顕日(けんにち))の弟子。雲巌寺を出て宇都宮に行き、川のほとりに小さな地蔵堂を建て、読経と座禅の生活を送っていた。城主、貞綱の耳にも入り、この真空のために建立したのが興禅寺だ。石川さんは「豪商も土地を寄進した。禅を修めるには学問も必要。真空禅師はそれなりの人物だったはずだ」。<br /> 興禅寺には昭和61年に造られた貞綱の銅像が立つ。本堂内には像の型も保存されている。

    臨済宗妙心寺派神護山興禅寺があります(宇都宮市今泉三丁目)
    【河北禅林】と呼ばれます。

    禅に救いを求めた。貞綱の菩提寺(ぼだいじ)、興禅寺(宇都宮市今泉)の住職、石川元信さんは「禅は武士にとって精神的なバックボーン。鎌倉時代は内乱もあり、あすをも知れぬ身。一瞬一瞬を大切に生き、心を落ち着けるために必要な修練だった」と話す。鎌倉では既に大流行していたこともあり、宇都宮で「禅を興す」意味を込めて興禅寺とした。得宗・北条高時(貞時の三男)からは「河北禅林」と書かれた扁額(へんがく)も寄せられた。

     寺を開いた真空(しんくう)妙応(みょうおう)は、雲巌寺(大田原市雲岩寺)の仏国(ぶっこく)国師(高峰(こうほう)顕日(けんにち))の弟子。雲巌寺を出て宇都宮に行き、川のほとりに小さな地蔵堂を建て、読経と座禅の生活を送っていた。城主、貞綱の耳にも入り、この真空のために建立したのが興禅寺だ。石川さんは「豪商も土地を寄進した。禅を修めるには学問も必要。真空禅師はそれなりの人物だったはずだ」。
     興禅寺には昭和61年に造られた貞綱の銅像が立つ。本堂内には像の型も保存されている。

  • 【興禅寺】<br />興禅寺は1314(正和3)年、宇都宮8代城主貞綱(さだつな)が開いた寺で、かつては広大な境内に、多くの塔頭(たっちゅう)(寺の境内に建てた小院)が並んでいた。<br />今泉町交差点を左に入ると江戸時代の三大仇討の一つ、「浄瑠璃坂の仇討」の発端の刃傷事件があった興禅寺がある。浄瑠璃坂は新宿区市谷にある坂。

    【興禅寺】
    興禅寺は1314(正和3)年、宇都宮8代城主貞綱(さだつな)が開いた寺で、かつては広大な境内に、多くの塔頭(たっちゅう)(寺の境内に建てた小院)が並んでいた。
    今泉町交差点を左に入ると江戸時代の三大仇討の一つ、「浄瑠璃坂の仇討」の発端の刃傷事件があった興禅寺がある。浄瑠璃坂は新宿区市谷にある坂。

  • 墓地に宇都宮貞綱、公綱の墓があります、<br />第八代城主宇都宮貞綱は弘安四年(1281年)元寇の際に、執権北条時宗の命により十六歳で総大将となり九州に出陣し戦功を挙げました、晩年は出家して興禅寺を創建しました。<br />公綱(きんつな)は貞綱の次男で第九代宇都宮城主でした、南北朝の動乱において楠木正成との戦いは、宇都宮氏を中心とし東国武士の武勇を示すものとして名高いものでした。

    墓地に宇都宮貞綱、公綱の墓があります、
    第八代城主宇都宮貞綱は弘安四年(1281年)元寇の際に、執権北条時宗の命により十六歳で総大将となり九州に出陣し戦功を挙げました、晩年は出家して興禅寺を創建しました。
    公綱(きんつな)は貞綱の次男で第九代宇都宮城主でした、南北朝の動乱において楠木正成との戦いは、宇都宮氏を中心とし東国武士の武勇を示すものとして名高いものでした。

  • 【八坂神社】が鎮座しています、<br />康平六年(1063年)宇都宮城の鬼門除けとして創建された神明社です。<br />伝統の豊作祈願の神楽は宇都宮市無形文化財指定です

    【八坂神社】が鎮座しています、
    康平六年(1063年)宇都宮城の鬼門除けとして創建された神明社です。
    伝統の豊作祈願の神楽は宇都宮市無形文化財指定です

  • 【岩淵家長屋門】<br />竹林町交差点を越すと左手に堂々とした長屋門があります、明治27年(1894年)築の岩淵家屋敷門です。<br />長屋門は近世諸大名の武家屋敷門として江戸時代に多く建てられた。その後、大名だけでなく有力武士や武家住宅の表門として利用され、家臣や使用人の居所などに利用された。また、苗字帯刀を許された裕福な庄屋などの家にも長屋門が建てられた。

    【岩淵家長屋門】
    竹林町交差点を越すと左手に堂々とした長屋門があります、明治27年(1894年)築の岩淵家屋敷門です。
    長屋門は近世諸大名の武家屋敷門として江戸時代に多く建てられた。その後、大名だけでなく有力武士や武家住宅の表門として利用され、家臣や使用人の居所などに利用された。また、苗字帯刀を許された裕福な庄屋などの家にも長屋門が建てられた。

  • 長屋門(岩淵家)

    長屋門(岩淵家)

  • こんな立派な蔵屋敷がありました。

    こんな立派な蔵屋敷がありました。

  • 白沢街道

    白沢街道

  • 【勝善神の石碑】<br />大きな勝善神(そうぜんしん)が祀られています、神道系の馬頭観音です、<br />栃木、茨城で盛んに信仰された。民俗学者の柳田国男は、厩猿、馬頭観音、馬櫪神、猿引きなどサルを護る動物神仏霊魂などすべてを「そうぜんしん」としている。<br /><br />この辺り、江戸より30里。

    【勝善神の石碑】
    大きな勝善神(そうぜんしん)が祀られています、神道系の馬頭観音です、
    栃木、茨城で盛んに信仰された。民俗学者の柳田国男は、厩猿、馬頭観音、馬櫪神、猿引きなどサルを護る動物神仏霊魂などすべてを「そうぜんしん」としている。

    この辺り、江戸より30里。

  • 【白沢地蔵】<br />奥州総奉行伊沢家景が建久7年(1196年)に任地へ向かう途中、同行した乳飲み児を亡くしたので稚児坂に葬り、ここに地蔵堂を建てて供養したと説明されている。<br /><br />今から約九百年前の出来事です。<br />鎌倉時代(建久年)源頼朝の命を受け、伊沢家景が奥羽総奉行として鎌倉より東北に向う途中、白沢稚児ヶ坂(高崎製紙工場西側)で子供が病気になり亡くなりました。その子をこの地に葬り地蔵堂と石塔を建てました。<br />それから九百年もの間、この地蔵堂は白沢南自治会(昔は上岡本村)の人々によって守られてきました。

    【白沢地蔵】
    奥州総奉行伊沢家景が建久7年(1196年)に任地へ向かう途中、同行した乳飲み児を亡くしたので稚児坂に葬り、ここに地蔵堂を建てて供養したと説明されている。

    今から約九百年前の出来事です。
    鎌倉時代(建久年)源頼朝の命を受け、伊沢家景が奥羽総奉行として鎌倉より東北に向う途中、白沢稚児ヶ坂(高崎製紙工場西側)で子供が病気になり亡くなりました。その子をこの地に葬り地蔵堂と石塔を建てました。
    それから九百年もの間、この地蔵堂は白沢南自治会(昔は上岡本村)の人々によって守られてきました。

  • 江戸時代の公衆厠らしい。<br /><br />丸太標識「とちぎのふるさと田園風景百選認定地 宇都宮市白沢町」があります。

    江戸時代の公衆厠らしい。

    丸太標識「とちぎのふるさと田園風景百選認定地 宇都宮市白沢町」があります。

  • 江戸時代の公衆便所跡があります、地中の構造は往時のものです、糞尿は田畑の肥料となりました。

    江戸時代の公衆便所跡があります、地中の構造は往時のものです、糞尿は田畑の肥料となりました。

  • やげん坂を下り左折すると白沢宿に入る。<br />【白沢宿】<br />江戸時代に整備された五街道の一つである奥州街道(道中)の第一宿としておかれたのが白沢宿でした。<br /> 宇都宮で日光街道と分かれ、白沢宿から白河宿迄二十三里(約九十キロ)が十宿で構成されました。<br /> 十六世紀以前は純農村でしたが宿のルーツは関ヶ原の戦いの序曲になった徳川家康の上杉攻めにさかのぼります。<br /> すなわち徳川軍が鬼怒川を渡るとき、その案内役をかって出たのが、白沢村庄屋の宇加地家と、上岡本村庄屋の福田家でした。<br /> その功績が認められ戦いののち両村共同で白沢宿という名で往還宿を構成することが許され、慶長十四年(1609)には、町割も完成し両家は御用を勤め問屋になっています。<br /> 天保十四年(1843)には本陣一、脇本陣一、旅籠屋十三軒を数えていました。白沢宿は江戸から明治になっても、大いに栄えました。<br /> 明治十八年奥州街道が現在の国道四号線に移り、おかげで現在の宿のおもかげを今にとどめています。<br /> 白沢宿がしのばれる由緒ある家並みを保存してゆくため、むらづくり事業を契機に、用水堀に鯉を放流し環境美化に務め、後世にその歴史を伝えて行きたいと思います。<br />           昭和六十二年三月吉日 白沢宿保存会

    やげん坂を下り左折すると白沢宿に入る。
    【白沢宿】
    江戸時代に整備された五街道の一つである奥州街道(道中)の第一宿としておかれたのが白沢宿でした。
     宇都宮で日光街道と分かれ、白沢宿から白河宿迄二十三里(約九十キロ)が十宿で構成されました。
     十六世紀以前は純農村でしたが宿のルーツは関ヶ原の戦いの序曲になった徳川家康の上杉攻めにさかのぼります。
     すなわち徳川軍が鬼怒川を渡るとき、その案内役をかって出たのが、白沢村庄屋の宇加地家と、上岡本村庄屋の福田家でした。
     その功績が認められ戦いののち両村共同で白沢宿という名で往還宿を構成することが許され、慶長十四年(1609)には、町割も完成し両家は御用を勤め問屋になっています。
     天保十四年(1843)には本陣一、脇本陣一、旅籠屋十三軒を数えていました。白沢宿は江戸から明治になっても、大いに栄えました。
     明治十八年奥州街道が現在の国道四号線に移り、おかげで現在の宿のおもかげを今にとどめています。
     白沢宿がしのばれる由緒ある家並みを保存してゆくため、むらづくり事業を契機に、用水堀に鯉を放流し環境美化に務め、後世にその歴史を伝えて行きたいと思います。
               昭和六十二年三月吉日 白沢宿保存会

  • 宿場であった時に建物はほとんどなくなっているが、道の両側には用水がながれ、水車が回り、各家には、宿場であった頃の屋号が表示されている。またガードレールなどもなく、すっきりとした町並みつくりがされている。<br /><br />宿内には、水路も水車もあり、良い風情を醸し出す。<br />各家には「屋号札」をつけ、掘割に水車を回し、柵もガードレールも作らず街道筋の景観に配慮しているのがいいね。

    宿場であった時に建物はほとんどなくなっているが、道の両側には用水がながれ、水車が回り、各家には、宿場であった頃の屋号が表示されている。またガードレールなどもなく、すっきりとした町並みつくりがされている。

    宿内には、水路も水車もあり、良い風情を醸し出す。
    各家には「屋号札」をつけ、掘割に水車を回し、柵もガードレールも作らず街道筋の景観に配慮しているのがいいね。

  • 宿内には用水が走り、落着いた宿並を残しています、宿内の各家屋には旧屋号が掲げられています。<br /><br />1843年の頃、白澤宿は家数71軒、本陣1、脇本陣1、旅籠13、人口369人であった。江戸時代に整備された五街道の一つである奥州街道(道中)の第一宿としておかれたのが白沢宿でした。<br />宇都宮で日光街道と分かれ、白沢宿から白河宿迄二十三里(約九十キロ)が十宿で構成されました。<br />十六世紀以前は純農村でしたが宿のルーツは関ヶ原の戦いの序曲になった徳川家康の上杉攻めにさかのぼります。<br />すなわち徳川軍が鬼怒川を渡るとき、その案内役をかって出たのが、白沢村庄屋の宇加地家と、上岡本村庄屋の福田家でした。<br />その功績が認められ戦いののち両村共同で白沢宿という名で往還宿を構成することが許され、慶長十四年(1609)には、町割も完成し両家は御用を勤め問屋になっています。<br /><br />【白沢宿】<br />天保十四年(1843)には本陣一、脇本陣一、旅籠屋十三軒を数えていました。白沢宿は江戸から明治になっても、大いに栄えました。<br />明治十八年奥州街道が現在の国道四号線に移り、おかげで現在の宿のおもかげを今にとどめています。<br />白沢宿がしのばれる由緒ある家並みを保存してゆくため、むらづくり事業を契機に、用水堀に鯉を放流し環境美化に務め、後世にその歴史を伝えて行きたいと思います。  (昭和六十二年三月吉日 白沢宿保存会)

    イチオシ

    宿内には用水が走り、落着いた宿並を残しています、宿内の各家屋には旧屋号が掲げられています。

    1843年の頃、白澤宿は家数71軒、本陣1、脇本陣1、旅籠13、人口369人であった。江戸時代に整備された五街道の一つである奥州街道(道中)の第一宿としておかれたのが白沢宿でした。
    宇都宮で日光街道と分かれ、白沢宿から白河宿迄二十三里(約九十キロ)が十宿で構成されました。
    十六世紀以前は純農村でしたが宿のルーツは関ヶ原の戦いの序曲になった徳川家康の上杉攻めにさかのぼります。
    すなわち徳川軍が鬼怒川を渡るとき、その案内役をかって出たのが、白沢村庄屋の宇加地家と、上岡本村庄屋の福田家でした。
    その功績が認められ戦いののち両村共同で白沢宿という名で往還宿を構成することが許され、慶長十四年(1609)には、町割も完成し両家は御用を勤め問屋になっています。

    【白沢宿】
    天保十四年(1843)には本陣一、脇本陣一、旅籠屋十三軒を数えていました。白沢宿は江戸から明治になっても、大いに栄えました。
    明治十八年奥州街道が現在の国道四号線に移り、おかげで現在の宿のおもかげを今にとどめています。
    白沢宿がしのばれる由緒ある家並みを保存してゆくため、むらづくり事業を契機に、用水堀に鯉を放流し環境美化に務め、後世にその歴史を伝えて行きたいと思います。  (昭和六十二年三月吉日 白沢宿保存会)

  • 白髭神社参道に建つ鳥居。ここから参道を進むと、100段以上もある石段を登る。その小高い場所に神社はある。<br />住吉屋跡の並びが白髭神社の参道口です、社殿は参道階段を上った高台に鎮座しています、寛治年間(1087~94)の創建で、白沢の鎮守です、境内には白澤宿七福神の大黒天が祀られています。

    白髭神社参道に建つ鳥居。ここから参道を進むと、100段以上もある石段を登る。その小高い場所に神社はある。
    住吉屋跡の並びが白髭神社の参道口です、社殿は参道階段を上った高台に鎮座しています、寛治年間(1087~94)の創建で、白沢の鎮守です、境内には白澤宿七福神の大黒天が祀られています。

  • 神社に上がり、町を見下ろす。なかなかの風景。急な石段もご覧あれ。<br />100段の石段を登り切って観れる風景。

    神社に上がり、町を見下ろす。なかなかの風景。急な石段もご覧あれ。
    100段の石段を登り切って観れる風景。

  • 神社境内には、七福神もあり。

    神社境内には、七福神もあり。

  • 【白沢宿宇賀地本陣跡に建つ家】<br />慶長5年(1600)徳川家康は会津の上杉景勝を討つため北上、小山に陣を敷いた。このとき、白沢へは結城宰相秀康が陣をしき、その先陣の井伊・酒井・榊原の諸将が白沢の宇賀地因幡(本陣)と福田源六郎(脇本陣)との道案内で鬼怒川を渡り氏家へと兵を進めた。その直後、石田光成の挙兵を聞き、関ヶ原に向かう。関ヶ原の戦いの後、宇賀地・福田の両家は功により問屋を命じられ白沢の宿が発足。

    【白沢宿宇賀地本陣跡に建つ家】
    慶長5年(1600)徳川家康は会津の上杉景勝を討つため北上、小山に陣を敷いた。このとき、白沢へは結城宰相秀康が陣をしき、その先陣の井伊・酒井・榊原の諸将が白沢の宇賀地因幡(本陣)と福田源六郎(脇本陣)との道案内で鬼怒川を渡り氏家へと兵を進めた。その直後、石田光成の挙兵を聞き、関ヶ原に向かう。関ヶ原の戦いの後、宇賀地・福田の両家は功により問屋を命じられ白沢の宿が発足。

  • 本陣であったことを示す表札。<br />白沢村庄屋であった宇加地家が営んでいた。この本陣跡には、秋田藩、大田原藩、盛岡藩の宿札が残る。<br /><br />

    本陣であったことを示す表札。
    白沢村庄屋であった宇加地家が営んでいた。この本陣跡には、秋田藩、大田原藩、盛岡藩の宿札が残る。

  • 【ここは江戸より三十里】<br /> 江  戸  江  参拾里  四町   弐拾間    (118.4Km)<br /> 宇都宮宿江    弐里弐拾八町         (10.9Km)<br /> 白 澤 宿 与利<br /> 氏 家 宿 江    壱里  半            (5.9Km)<br /> 喜連川宿江    参里  拾八町         (13.7Km)<br /> 佐久山宿江    六里  拾弐町参拾六間    (19.0Km)<br /> 大田原宿江    八里   壱町  拾七間   (25.8Km)<br /> 鍋 掛 宿 江  拾壱里弐拾四町  拾四間   (38.7Km)<br /> 越 堀 宿 江  拾壱里弐拾壱町   弐間   (39.6Km)<br /> 芦 野 宿 江  拾参里参拾弐町四拾四間半 (49.6Km)<br /> 白 坂 宿 江  拾七里   壱町  拾九間半 (62.1Km)<br /> 白 河 宿 江  拾八里参拾四町  拾九間半 (69.6Km)<br />              (奥州街道中宿村大概帳による)<br /><br />奥州道中白河宿より、宇都宮宿迄弐拾壱里余りを、膝栗毛によって踏破した記年にこの高札を掲げる。<br />  平成参年(1991)拾壱月四日 奥州街道白澤宿の会 奥州街道膝栗毛の会

    【ここは江戸より三十里】
     江  戸  江  参拾里  四町   弐拾間   (118.4Km)
     宇都宮宿江    弐里弐拾八町         (10.9Km)
     白 澤 宿 与利
     氏 家 宿 江    壱里  半            (5.9Km)
     喜連川宿江    参里  拾八町         (13.7Km)
     佐久山宿江    六里  拾弐町参拾六間  (19.0Km)
     大田原宿江    八里   壱町  拾七間   (25.8Km)
     鍋 掛 宿 江  拾壱里弐拾四町  拾四間   (38.7Km)
     越 堀 宿 江  拾壱里弐拾壱町   弐間   (39.6Km)
     芦 野 宿 江  拾参里参拾弐町四拾四間半 (49.6Km)
     白 坂 宿 江  拾七里   壱町  拾九間半 (62.1Km)
     白 河 宿 江  拾八里参拾四町  拾九間半 (69.6Km)
                  (奥州街道中宿村大概帳による)

    奥州道中白河宿より、宇都宮宿迄弐拾壱里余りを、膝栗毛によって踏破した記年にこの高札を掲げる。
      平成参年(1991)拾壱月四日 奥州街道白澤宿の会 奥州街道膝栗毛の会

  • 澤姫”という酒で有名な造り酒屋。<br />井上清吉商店、創業明治元年(1868年)下野地酒澤姫の蔵元です。<br />栃木県産の原料米を100%使用して造った大吟醸酒澤姫が毎年ロンドンで開催されている世界最大規模の酒類コンテスト、インターナショナル・ワイン・チャレンジ2010「SAKE」部門で金賞を受賞しました。

    澤姫”という酒で有名な造り酒屋。
    井上清吉商店、創業明治元年(1868年)下野地酒澤姫の蔵元です。
    栃木県産の原料米を100%使用して造った大吟醸酒澤姫が毎年ロンドンで開催されている世界最大規模の酒類コンテスト、インターナショナル・ワイン・チャレンジ2010「SAKE」部門で金賞を受賞しました。

  • 白沢宿の北の入口には川あり。<br />九郷半川の橋が、白沢宿の出口であった。

    白沢宿の北の入口には川あり。
    九郷半川の橋が、白沢宿の出口であった。

  • 【白沢宿一里塚跡】これ以外のものは有りません。<br />開田之碑、そして奥に白澤の一里塚址碑があります、かつては鬼怒川の河原にありましたが、度々の洪水で壊れてしまったといます、江戸日本橋より数えて30里目です。<br />	<br />【白澤の一里塚】<br />一里塚は、旅人が目的地へ到着するまでの目標と馬や駕籠の賃銭の支払いの目安に、江戸幕府によって慶長九年(1604)に設置されました。江戸・日本橋を起点にして、奥州街道はじめ五街道の両側に一里(約四Km)毎に設けられた。塚は一般に九メートル四方で、この上に榎木が植えられ、一里塚であることの目印と旅人の日よけの役目も果たしました。<br />古文書には、白澤の一里塚は日本橋から三十番目で、かつては鬼怒川の河原にあったため、度々の洪水で壊されてしまったと記されています。<br />奥州街道白澤宿の会では、江戸時代に多くの人たちが利用した一里塚の歴史を後世に伝えるため、会員と地元の白沢河原、白沢甲部、白沢南の各自治会の皆さんの協力を得て、ここに「白澤一里塚趾」の碑を建立しました。<br />            平成二十一年五月二十三日 奥州街道白澤宿の会

    【白沢宿一里塚跡】これ以外のものは有りません。
    開田之碑、そして奥に白澤の一里塚址碑があります、かつては鬼怒川の河原にありましたが、度々の洪水で壊れてしまったといます、江戸日本橋より数えて30里目です。

    【白澤の一里塚】
    一里塚は、旅人が目的地へ到着するまでの目標と馬や駕籠の賃銭の支払いの目安に、江戸幕府によって慶長九年(1604)に設置されました。江戸・日本橋を起点にして、奥州街道はじめ五街道の両側に一里(約四Km)毎に設けられた。塚は一般に九メートル四方で、この上に榎木が植えられ、一里塚であることの目印と旅人の日よけの役目も果たしました。
    古文書には、白澤の一里塚は日本橋から三十番目で、かつては鬼怒川の河原にあったため、度々の洪水で壊されてしまったと記されています。
    奥州街道白澤宿の会では、江戸時代に多くの人たちが利用した一里塚の歴史を後世に伝えるため、会員と地元の白沢河原、白沢甲部、白沢南の各自治会の皆さんの協力を得て、ここに「白澤一里塚趾」の碑を建立しました。
                平成二十一年五月二十三日 奥州街道白澤宿の会

  • 白澤七福神巡りの地

    白澤七福神巡りの地

  • 開田の碑<br /><br />その広場に、白澤の一里塚趾碑、開田之碑、最後の白澤宿七福神の福禄寿像が建っている

    開田の碑

    その広場に、白澤の一里塚趾碑、開田之碑、最後の白澤宿七福神の福禄寿像が建っている

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