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 あなたは、佐藤義清という名前を見て、なにか思い当たる節はありますでしょうか?。<br /> あっ、そうか!、と思い当たればあなたは、かなり歴史にお詳しいようです。またこの名から、短歌でも思い浮かべば、あなたは相当の文学通だということができます。<br /> そういっても分からない方もおられるかと思います。では、次の歌を挙げれてみましょう。これでかなりの方はお分かり頂けると思います。<br /> 「願はくは 花のしたにて 春死なん そのきさらぎの 望月(もちづき)の頃」<br /> <br /> もうお分かりですね、そうです。この短歌は、平安末期の歌人、西行の歌です。佐藤義清というのは西行の出家前の俗名なのです。(法名は円位という)。では、なぜ西行についてここで書いているかというと、じつは先日、西行の終焉の地といわれる弘川寺に桜を見に行って来たからなのです。<br /> 歌にもあるように弘川寺は、桜の名所として有名な寺なのです。これは西行がやってきて桜の歌を詠んだからそれにちなんで桜の木を植えたということではなく、西行以前にも桜が植えられていて広く有名になっていて、その噂を西行も聞き寺にやって来たのです。<br /> 縁起によると、665年、役小角により創建され667年に祈雨法が修せられ、天武天皇より山寺号が付与された真言宗醍醐派の寺ということです。<br /> 710年は平城京に遷都されていることから奈良時代以前の創建ということになり、それはもう並ぶもののない古刹中の古刹ということができます。<br /> 春になり、桜を見たい、と思うのは、西行ならずとも皆そう思うのですが、僕もそんな一人で、桜を見に弘川寺に行って来たのです。<br /> 大阪府南河内郡河南町弘川43番地が住所ですが、葛城山の山際に立つ山の寺であるということができます。<br /><br /> 花見見物には絶好の快晴の一日、僕は阪和高速を美原南インターから国道309号線を葛城山に向かって車を走らせました。葛城山に向かってワールド牧場の隣に、山に抱かれるように立っていたのが弘川寺でありました。山を越えるとそこはもう奈良盆地。そんな国境(くにざかい)に立つ西行の花の寺であります。<br /> 寺に近づくにつれ道幅は狭くなってきました。山道を登ろうとして車の対向が徐々に難しくなっていきます。曲がりくねった道を先に進むと三叉路のところでガードマンに手を広げて止められてしまいました。赤いランプの支持棒をもってガードマンがガラス越しに僕に話しかけてきました。<br /> 「すいません、どちらへ行かれますか」<br /> 「この先の弘川寺へ行きたいのですが」<br /> 「ああ、ここからは弘川寺へは行けません。今は桜のシーズンなのでマイカーは進入できないんです。申し訳ありません。ここからは迂回して、途中の小学校の校庭に車を停めていただけませんか。そこから送迎バスが出てますので」<br /> 「へえ、弘川寺はそんなに人気あるんだ。大勢くるんですか」<br /> 「そうりゃあもう大変な人混みです。今は桜のまっさかりですので交通規制をしているんです」<br /> 「わかりました。車を下の小学校に停めてきます」<br /> 僕はユーターンして小学校へ車を走らせた。<br /> それほどまでに弘川寺は桜を見にくる観光客は多いんだと思いもよらない驚きであった。これも西行人気なのかなと思ってしまった。<br /> 桜と、西行。これは日本人にとっては、やはり切っても切り離すことができない、こころの琴線(西行は恋に破れて出家したという説がある。他にも諸説あり)に響くものなのかも知れない。忠臣蔵や坂本龍馬、はたまた源義経などとも相通じるものがそこにあるのかも知れない。<br /> 司馬遼太郎や五木寛之、瀬戸内寂聴や辻邦生などが取り上げるのも頷ける話しである。<br /><br /> 車をふもとの小学校の校庭に停めると、送迎バスに乗って弘川寺に向かった。周辺はベッドタウンになっていて新築の住宅が所狭しと建っている。葛城山麓とはいえ西行が暮らした頃とは比べものにならない繁華な佇まいである。住宅のあいだを抜けると、いきなり弘川寺に到着した。<br /> 「えっ、こんなところに弘川寺が」、と思ってしまうほどである。こうも住宅が建ち並んでいれば西行もきっと終焉の地にしなかったであろう。しかし、西行の生きた時代は葛城山麓は間違いなく人里離れた寂しい土地であったに違いない。<br /> 境内に入ってみてあたりを見廻してみるとそれはよく分かった。どことなく寂しげであり、鄙びた野趣が境内を包んでいたのである。また境内自体もそれほど広くはない。こじんまりとした可愛い寺といった感じである。<br /> 伽藍は、薬師如来を祀る本堂と、弘法大師を祀る御影堂、それと幾つかの堂宇がつつましげに建っているだけである。幾つもの戦火を乗り越え(楠正成の戦いなど)いま残されている伽藍は小さいながら平安の趣を残す美しいものであった。特に本堂の屋根の茅葺は優美な美しさがあり心惹かれる魅力があった。<br /> 本堂の裏へまわると、葛城山へ続く山道がなだらかに続いている。ここを登ると途中に西行堂があった。中には西行の木造が安置されている。いかにも西行が暮らした庵(いおり)のような佇まいである。傍らに川田順揮毫の歌碑が建っていた。もちろん西行の歌を刻んだものであるが、この歌には次のような逸話が伝わっている。<br /> 揮毫した川田順というのは日本芸術院会員の歌人であるが、昭和天皇に和歌の御進講をした折のことである。<br /> 陛下が「あまた歌びとがあるなかで、もっともすぐれた歌人は誰か」と御下問なさった。<br /> 川田順はすかさず次のように答えた。<br /> 「それは、西行にございます。西行の歌には、率直質実を旨としながらも、つよい情感をてらうことなく表現し、さらにその中に寂寥、閑寂の美を余すことなく表現しております。これは他に並ぶものがないと云っていいと思われます。西行は天下一の歌人といっていいでしょう」と応えている。そして石碑に刻まれた次の歌を紹介したのである。<br /> 『年たけて また越ゆべしと おとひきや<br />             いのちなりけり さやの中山』<br /> これは新古今和歌集の歌であり、(意味は、年老いてからふたたび越えることができると思っただろうか。いや思いはしなかった。命があったからなんだなあ、こうして佐夜の中山を越えることができたのは)。<br /> 西行の歌は新古今和歌集に94首入っていてこれは入撰第一位である。西行という歌人はそれほどまでに凄いのである。才がここにも窺われる。<br /> 山道を登って山肌を見ると、あたりは桜の木々が立ち並び桜が咲き乱れている。まさに、『花のしたにて春死なん・・・・』という気になってきた。桜花の繚乱なのである。<br /> 花のトンネルをくぐり抜けると、山道の途中の平らな台地に辿り着いた。そこは西行の墓があるところである。円形をした墳墓が西行の墓となっている。墓石ではなく天皇や上皇のような円墳となっているところがその時代の都人(みやこびと)たちにも愛された西行の魅力をものがたっている。(注:崇徳天皇は特に西行を愛でた)。<br /> 西行は平安末期(1190年3月没)からここに眠り続けている。僕は歌聖の墓に頭を垂れて、我が文才が少しでも高まるようお力をお貸し下さいとひたすらお祈りしたのである。隣には「願はくは 花のしたにて・・・・・」という歌碑も建っていた。<br /> 西行のお墓にお参りを済ませた後は山を下り、境内の近くの西行記念館に行ってみた。ここは西行関連の絵画や古文書が多く収められている。<br /> 中に入ると庭は綺麗に整備されていて、枝垂れ桜が西行の命を今に伝えるかのように大きく枝を広げてあぜやかに花を咲かせている。<br /> 西行記念館では僕がもっとも気に入ったのは、古文書の和本と狩野探幽描くところの掛け軸である。<br /> 和本は『新古今和歌集』や西行の歌集『山家集』、また松尾芭蕉の『おくの細道』などがあり大変興味深く見ることができた。絵画は狩野探幽の描くところの『富士見の西行』。これには特にこころ魅かれるものがあった。優美にして繊細、かつ枯淡の境地が描かれているように思えて、これは西行の歌にも通じるような気がした。この見事に描かれた絵の前で僕は足を止め何時間も見入ってしまったのである。<br /> 西行の歌の世界をこれほどまでに表現した絵画はないと思ったからである。しばし閉館までそこに居た。<br /><br /> 時間が来て記念館を出ると、風に吹かれた桜があたり一面を蔽いつくし僕の頭にも花びらが舞い落ちてきた。これで弘川寺に来てよかったと思った。<br /> 送迎バスで小学校の駐車場に向かいながらこんなことを考えた。<br /> 弘川寺は、鎌倉時代の寺でもなく、桃山時代の寺とも違う、やはりどことなく雅(みやび)な風情を湛えた寺なんだという考えが僕を捉えて離さなかった。そうすると辻邦生の『西行花伝』という小説の一節が頭に浮かんだ。<br /> 辻邦生は東大大学院でフランス文学を研究し、立教大学や学習院大学でも教授を務めた作家である。仏文学者が最後に辿り着いたのが西行であった。<br /> フランス・ロマネスクを愛した作家の『西行花伝』の一部を最後に紹介して、この旅行記の終わりとしたい。<br /><br /> −師は慈円との約束を果たしたことを何よりも喜んでいた。比叡山を下ったとき、大して疲れも見えなかったのはそのためだった。しかしその年の終わり、弘川寺に戻ると、病はふたたび師西行の身体に忍び寄った。<br /> 年があらたまっても、師の病は恢復する様子には見えなかった。師は終日うつらうつら眠り、目覚めては窓を開けさせ、桜の木々に眼をやった。<br /> 「秋実、もうまもなく花が開くな」ある朝、師はほほ笑みを浮かべながら言った。「春ごとに桜が咲くと思うだけで、胸が嬉しさで脹らむ。これだけで生は成就しているな。どうか私が死んだら俊成殿に伝えてほしい。桜の花が人々の心を浮き立たせるとき、その歓喜(よろこび)のなかに私がいるとな」<br /> 私は師西行の手を握り、涙をこらえた。そしてかならず俊成殿に師の言葉を伝えると耳元で言った。師は眼をつぶり、ほほ笑んでうなずいた。<br /><br /> 願わくは 花のしたにて 春死なん そのきさらぎの 望月(もちづき)の頃 −<br />

弘川寺、花の寺

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2014/04/06 - 2014/04/06

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nakaohideki

nakaohidekiさん

 あなたは、佐藤義清という名前を見て、なにか思い当たる節はありますでしょうか?。
 あっ、そうか!、と思い当たればあなたは、かなり歴史にお詳しいようです。またこの名から、短歌でも思い浮かべば、あなたは相当の文学通だということができます。
 そういっても分からない方もおられるかと思います。では、次の歌を挙げれてみましょう。これでかなりの方はお分かり頂けると思います。
 「願はくは 花のしたにて 春死なん そのきさらぎの 望月(もちづき)の頃」
 
 もうお分かりですね、そうです。この短歌は、平安末期の歌人、西行の歌です。佐藤義清というのは西行の出家前の俗名なのです。(法名は円位という)。では、なぜ西行についてここで書いているかというと、じつは先日、西行の終焉の地といわれる弘川寺に桜を見に行って来たからなのです。
 歌にもあるように弘川寺は、桜の名所として有名な寺なのです。これは西行がやってきて桜の歌を詠んだからそれにちなんで桜の木を植えたということではなく、西行以前にも桜が植えられていて広く有名になっていて、その噂を西行も聞き寺にやって来たのです。
 縁起によると、665年、役小角により創建され667年に祈雨法が修せられ、天武天皇より山寺号が付与された真言宗醍醐派の寺ということです。
 710年は平城京に遷都されていることから奈良時代以前の創建ということになり、それはもう並ぶもののない古刹中の古刹ということができます。
 春になり、桜を見たい、と思うのは、西行ならずとも皆そう思うのですが、僕もそんな一人で、桜を見に弘川寺に行って来たのです。
 大阪府南河内郡河南町弘川43番地が住所ですが、葛城山の山際に立つ山の寺であるということができます。

 花見見物には絶好の快晴の一日、僕は阪和高速を美原南インターから国道309号線を葛城山に向かって車を走らせました。葛城山に向かってワールド牧場の隣に、山に抱かれるように立っていたのが弘川寺でありました。山を越えるとそこはもう奈良盆地。そんな国境(くにざかい)に立つ西行の花の寺であります。
 寺に近づくにつれ道幅は狭くなってきました。山道を登ろうとして車の対向が徐々に難しくなっていきます。曲がりくねった道を先に進むと三叉路のところでガードマンに手を広げて止められてしまいました。赤いランプの支持棒をもってガードマンがガラス越しに僕に話しかけてきました。
 「すいません、どちらへ行かれますか」
 「この先の弘川寺へ行きたいのですが」
 「ああ、ここからは弘川寺へは行けません。今は桜のシーズンなのでマイカーは進入できないんです。申し訳ありません。ここからは迂回して、途中の小学校の校庭に車を停めていただけませんか。そこから送迎バスが出てますので」
 「へえ、弘川寺はそんなに人気あるんだ。大勢くるんですか」
 「そうりゃあもう大変な人混みです。今は桜のまっさかりですので交通規制をしているんです」
 「わかりました。車を下の小学校に停めてきます」
 僕はユーターンして小学校へ車を走らせた。
 それほどまでに弘川寺は桜を見にくる観光客は多いんだと思いもよらない驚きであった。これも西行人気なのかなと思ってしまった。
 桜と、西行。これは日本人にとっては、やはり切っても切り離すことができない、こころの琴線(西行は恋に破れて出家したという説がある。他にも諸説あり)に響くものなのかも知れない。忠臣蔵や坂本龍馬、はたまた源義経などとも相通じるものがそこにあるのかも知れない。
 司馬遼太郎や五木寛之、瀬戸内寂聴や辻邦生などが取り上げるのも頷ける話しである。

 車をふもとの小学校の校庭に停めると、送迎バスに乗って弘川寺に向かった。周辺はベッドタウンになっていて新築の住宅が所狭しと建っている。葛城山麓とはいえ西行が暮らした頃とは比べものにならない繁華な佇まいである。住宅のあいだを抜けると、いきなり弘川寺に到着した。
 「えっ、こんなところに弘川寺が」、と思ってしまうほどである。こうも住宅が建ち並んでいれば西行もきっと終焉の地にしなかったであろう。しかし、西行の生きた時代は葛城山麓は間違いなく人里離れた寂しい土地であったに違いない。
 境内に入ってみてあたりを見廻してみるとそれはよく分かった。どことなく寂しげであり、鄙びた野趣が境内を包んでいたのである。また境内自体もそれほど広くはない。こじんまりとした可愛い寺といった感じである。
 伽藍は、薬師如来を祀る本堂と、弘法大師を祀る御影堂、それと幾つかの堂宇がつつましげに建っているだけである。幾つもの戦火を乗り越え(楠正成の戦いなど)いま残されている伽藍は小さいながら平安の趣を残す美しいものであった。特に本堂の屋根の茅葺は優美な美しさがあり心惹かれる魅力があった。
 本堂の裏へまわると、葛城山へ続く山道がなだらかに続いている。ここを登ると途中に西行堂があった。中には西行の木造が安置されている。いかにも西行が暮らした庵(いおり)のような佇まいである。傍らに川田順揮毫の歌碑が建っていた。もちろん西行の歌を刻んだものであるが、この歌には次のような逸話が伝わっている。
 揮毫した川田順というのは日本芸術院会員の歌人であるが、昭和天皇に和歌の御進講をした折のことである。
 陛下が「あまた歌びとがあるなかで、もっともすぐれた歌人は誰か」と御下問なさった。
 川田順はすかさず次のように答えた。
 「それは、西行にございます。西行の歌には、率直質実を旨としながらも、つよい情感をてらうことなく表現し、さらにその中に寂寥、閑寂の美を余すことなく表現しております。これは他に並ぶものがないと云っていいと思われます。西行は天下一の歌人といっていいでしょう」と応えている。そして石碑に刻まれた次の歌を紹介したのである。
 『年たけて また越ゆべしと おとひきや
             いのちなりけり さやの中山』
 これは新古今和歌集の歌であり、(意味は、年老いてからふたたび越えることができると思っただろうか。いや思いはしなかった。命があったからなんだなあ、こうして佐夜の中山を越えることができたのは)。
 西行の歌は新古今和歌集に94首入っていてこれは入撰第一位である。西行という歌人はそれほどまでに凄いのである。才がここにも窺われる。
 山道を登って山肌を見ると、あたりは桜の木々が立ち並び桜が咲き乱れている。まさに、『花のしたにて春死なん・・・・』という気になってきた。桜花の繚乱なのである。
 花のトンネルをくぐり抜けると、山道の途中の平らな台地に辿り着いた。そこは西行の墓があるところである。円形をした墳墓が西行の墓となっている。墓石ではなく天皇や上皇のような円墳となっているところがその時代の都人(みやこびと)たちにも愛された西行の魅力をものがたっている。(注:崇徳天皇は特に西行を愛でた)。
 西行は平安末期(1190年3月没)からここに眠り続けている。僕は歌聖の墓に頭を垂れて、我が文才が少しでも高まるようお力をお貸し下さいとひたすらお祈りしたのである。隣には「願はくは 花のしたにて・・・・・」という歌碑も建っていた。
 西行のお墓にお参りを済ませた後は山を下り、境内の近くの西行記念館に行ってみた。ここは西行関連の絵画や古文書が多く収められている。
 中に入ると庭は綺麗に整備されていて、枝垂れ桜が西行の命を今に伝えるかのように大きく枝を広げてあぜやかに花を咲かせている。
 西行記念館では僕がもっとも気に入ったのは、古文書の和本と狩野探幽描くところの掛け軸である。
 和本は『新古今和歌集』や西行の歌集『山家集』、また松尾芭蕉の『おくの細道』などがあり大変興味深く見ることができた。絵画は狩野探幽の描くところの『富士見の西行』。これには特にこころ魅かれるものがあった。優美にして繊細、かつ枯淡の境地が描かれているように思えて、これは西行の歌にも通じるような気がした。この見事に描かれた絵の前で僕は足を止め何時間も見入ってしまったのである。
 西行の歌の世界をこれほどまでに表現した絵画はないと思ったからである。しばし閉館までそこに居た。

 時間が来て記念館を出ると、風に吹かれた桜があたり一面を蔽いつくし僕の頭にも花びらが舞い落ちてきた。これで弘川寺に来てよかったと思った。
 送迎バスで小学校の駐車場に向かいながらこんなことを考えた。
 弘川寺は、鎌倉時代の寺でもなく、桃山時代の寺とも違う、やはりどことなく雅(みやび)な風情を湛えた寺なんだという考えが僕を捉えて離さなかった。そうすると辻邦生の『西行花伝』という小説の一節が頭に浮かんだ。
 辻邦生は東大大学院でフランス文学を研究し、立教大学や学習院大学でも教授を務めた作家である。仏文学者が最後に辿り着いたのが西行であった。
 フランス・ロマネスクを愛した作家の『西行花伝』の一部を最後に紹介して、この旅行記の終わりとしたい。

 −師は慈円との約束を果たしたことを何よりも喜んでいた。比叡山を下ったとき、大して疲れも見えなかったのはそのためだった。しかしその年の終わり、弘川寺に戻ると、病はふたたび師西行の身体に忍び寄った。
 年があらたまっても、師の病は恢復する様子には見えなかった。師は終日うつらうつら眠り、目覚めては窓を開けさせ、桜の木々に眼をやった。
 「秋実、もうまもなく花が開くな」ある朝、師はほほ笑みを浮かべながら言った。「春ごとに桜が咲くと思うだけで、胸が嬉しさで脹らむ。これだけで生は成就しているな。どうか私が死んだら俊成殿に伝えてほしい。桜の花が人々の心を浮き立たせるとき、その歓喜(よろこび)のなかに私がいるとな」
 私は師西行の手を握り、涙をこらえた。そしてかならず俊成殿に師の言葉を伝えると耳元で言った。師は眼をつぶり、ほほ笑んでうなずいた。

 願わくは 花のしたにて 春死なん そのきさらぎの 望月(もちづき)の頃 −

旅行の満足度
4.0
観光
4.0
同行者
カップル・夫婦
一人あたり費用
1万円未満
交通手段
自家用車

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  • 弘川寺境内。正面が薬師如来を祀る本堂。

    弘川寺境内。正面が薬師如来を祀る本堂。

  • 弘法大師を祀る御影堂

    弘法大師を祀る御影堂

  • 本堂入り口。弘川寺の看板が見える

    本堂入り口。弘川寺の看板が見える

  • 葛城山に登る山道から本堂の屋根を望む。

    葛城山に登る山道から本堂の屋根を望む。

  • 山道の途中にある西行堂

    山道の途中にある西行堂

  • 西行堂の隣にある川田順揮毫の歌碑。<br />「年たけて また越ゆべしと おといきや<br />             いのちなりけり さやの中山」<br />

    西行堂の隣にある川田順揮毫の歌碑。
    「年たけて また越ゆべしと おといきや
                 いのちなりけり さやの中山」

  • 山際に咲く桜花

    山際に咲く桜花

  • 桜花繚乱の葛城山麓

    桜花繚乱の葛城山麓

  • 西行の円墳。1190年よりここに眠る。

    西行の円墳。1190年よりここに眠る。

  • 西行墳の表札

    西行墳の表札

  • 西行墳の隣に歌碑がある。<br /> 「願わくは 花のしたにて 春死なん<br />             そのきさらぎの 望月の頃」

    西行墳の隣に歌碑がある。
     「願わくは 花のしたにて 春死なん
                 そのきさらぎの 望月の頃」

  • 本堂を境内より望む。

    本堂を境内より望む。

  • 西行記念館入口

    西行記念館入口

  • 西行記念館の中庭。よく整備されていて綺麗である。

    西行記念館の中庭。よく整備されていて綺麗である。

  • 西行記念館に咲く枝垂れ桜。

    西行記念館に咲く枝垂れ桜。

  • 狩野探幽描くところの『富士見の西行』。記念館は撮影禁止のためネットで取得した写真を挙げておく。記念館には掛け軸があったが、これは屏風絵である。

    狩野探幽描くところの『富士見の西行』。記念館は撮影禁止のためネットで取得した写真を挙げておく。記念館には掛け軸があったが、これは屏風絵である。

  • フランス文学者で作家でもあった辻邦生。

    フランス文学者で作家でもあった辻邦生。

  • 諸国を彷徨った西行法師の像。

    諸国を彷徨った西行法師の像。

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