2014/04/16 - 2014/04/16
202位(同エリア525件中)
倫清堂さん
自宅から最も近い一之宮、志波彦神社と鹽竈神社はこれまで何度参拝したか数えることも不可能なほど、足しげく通っています。
その塩竈神社は宮城県内で有数の桜の名所でもあり、春になると境内にある様々な種類の桜は次々に開花し、4月下旬まで楽しむことが出来ます。
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いつものように車での参拝なので、202段の石段ではなく裏の車道から一森山を登り駐車場に向かうと、目の前には既に満開に彩られた桜の風景が広がっています。
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イチオシ
車を降りて大鳥居へ。
右手に広がる苑地には、花見の宴会を行っている団体がいくつもあります。 -
坂道を登り終えて振り返れば、松島湾から金華山まで一望できる絶景スポットがあり、桜と海の共演にしばし見とれてしまいました。
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気を取り直して志波彦神社に参拝。
御祭神の志波彦神は記紀神話には登場せず、『延喜式』などに記載が見られる謎の多い神様です。
宮城県北部から岩手県南部にかけ、志波彦神・志波姫神を御祭神とする神社や「志波」の名を持つ神社が多数点在しており、この地域で古くから崇敬されていた神様であると考えるのが自然ですが、あるいは朝廷の支配が強まるにつれて祀られることになった神様なのかも知れません。
シワという名前からは、顔に皺の多いお爺さんのような姿が想像されますが、シワという言葉には隅っこという意味もあり、日本という国の隅を守る神であるとするなら、誰がいつどのような目的で祀ったのかがおおよそ推測出来ます。志波彦神社 寺・神社・教会
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志波彦神社から鹽竈神社へと歩く途中、様々な種類の桜が目を楽しませてくれます。
志波彦神社は『延喜式神名帳』に名神大社として記載される由緒ある神社でしたが、時代が下るにつれて荒廃が進み、延宝3年に再建された際には岩切の牛頭天王社に合祀されることとなりました。 -
社殿の装飾と桜の花の組み合わせは、日本を象徴する風景の一つと言って良いのではないでしょうか。
志波彦神社は明治4年に国幣中社に列せられますが、牛頭天王社の境内が狭かったために社殿の造営が進められず、その格に相応しい場所へ遷座させることになります。
そこで白羽の矢が立ったのがこの鹽竈神社の境内地でした。 -
鹽竈神社の社殿が真南の方角を向いているのに対し、志波彦神社は松島湾の絶景が見えるよう斜めの南東向きに建てられています。
いよいよ鹽竈神社の唐門前に到着です。 -
鹽竈神社の御祭神は鹽土老翁神・武甕槌神・経津主神の3柱。
鹽土老翁神は海塩造りを司る神様で、東北を平定するために高天原から遣わされた武甕槌神と経津主神の道案内をしたと伝えられます。
唐門からまっすぐ正面には左右宮拝殿。
ここからは見えませんが、その奥には武甕槌神と経津主神を祀る本殿が左右に並んで鎮座しています。
東日本大震災の強い揺れによって社殿は被害を受けましたが、この程修復のための工事も完了し、以前の姿を取り戻しています。鹽竈神社 寺・神社・教会
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現在修復中なのは、唐門から入って右手に鎮座する別宮。
こちらに鹽土老翁神が祀られています。
志波彦神と鹽土老翁神が同一神であるという説がありますが、私は更に他のよく知られた神とも同一ではないかと考えています。
しっかり裏付けを取ってから、この自説を発表したいと思います。 -
境内には桜以外にもいくつもの見どころがあります。
その一つ、文治3年に藤原忠衡によって奉納されたいわゆる文治灯篭。
松尾芭蕉は『おくのほそ道』で「神前に古き宝灯あり」と紹介しています。 -
寛政の三奇人の一人、林子平は仙台藩士の家の部屋住みで、経世論家として『三国通覧図説』『海国兵談』を発表した人物。
その林子平が南蛮製の日時計を参考に製作した日時計のレプリカも置かれています。
彼と交遊があった神官藤塚知明に贈り、彼が神社に奉納しました。
実物は神社の博物館に収められています。 -
人の背丈よりも高く堂々とそびえる銅鉄合成の灯篭は、9代藩主伊達周宗公によって文化6年に寄進されたもの。
仙台藩は幕府から蝦夷警備を命じられたため、鹽竈神社で安全祈願を行った後に任地へ赴き、無事にその任務を終えられたことに感謝して寄進されたものです。 -
舞殿にも桜の花びらが散りかかっています。
市内有志たちによって鹽竈神楽の保存・継承の努力が続けられています。 -
イチオシ
随身門からは202段の下りの石段が続いていますが、今回はここは通りません。
この急な石段の表参道は、例祭で神輿が渡ることでも知られています。
その際、神輿の担ぎ手たちは全員が白いマスクのようなものをつけ、神秘的な雰囲気を醸し出します。
随身門の前の桜は、京都に鎮座する平安神宮の親木とのこと。 -
東参道の石鳥居のあたりは、朱塗りの社殿がないために幾分地味な色合いですが、この季節だけは明るく彩られます。
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製塩とは関係ありませんが、かつて仙台藩が幕府の許可を得て行っていた鋳銭の名残が置かれています。
享保13年から明治維新まで石巻で使われていたこの甑炉は、国内現存のものとしては上中下の三段が全て揃っている唯一のものです。 -
実際に煎熬に使われた平釜も置かれていますが、これは能登半島で使われていたものです。
鹽竈神社の境外末社御釜神社には、鹽土老翁神が実際に用いたと伝わる直径1.4メートルの4つの鉄釜が奉安されています。
とは言ってみたものの、御釜神社へはまだ行ったことがありません。
大鉄釜は通常は見ることが出来ませんが、鹽竈神社に許可を得れば見ることが可能なようです。
一説には、御釜神社の大鉄釜は、生石神社の石宝殿・高千穂峰の天逆鉾とあわせて日本三奇に数えられるとか。 -
202段の石段のふもとを走る道をほぼ道なりに西へ向かうと、そこには陸奥総社宮が鎮座しています。
律令時代、新たに任命された国司が任地へ赴任した際には、一之宮から順にその土地の神社を参拝することが定められていました。
しかし高速で移動する手段を持たなかった古代の人たちにとって、陸奥国のように広い土地を持つ国では何か月もかけてこの巡拝を行わなければならず、実務的な職務が手につかないような状況がしばらく続いてしまうことになるのです。
そこで彼らは、巡るべき神社の分霊を一ヶ所に集め、一度の参拝で巡拝と同様の礼を尽くす手段を考えたのでした。
どうせ一ヶ所に集めるなら役所に近い方がよいと考えたのも当然でしょう。
こうして一ヶ所に集められた各地の神社の分霊は総社という宮に祀られ、総社は国府に隣接して建てられることになったのです。
陸奥の国府は多賀城ですが、陸奥総社宮は多賀城に隣接して鎮座しています。陸奥総社宮例大祭 祭り・イベント
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陸奥総社宮には陸奥国の100社を合祀しています。
その顔ぶれの一部を紹介すると、白河郡の都都古和気神社、刈田郡の刈田嶺神社、宮城郡の志波彦神社・鼻節神社、色麻郡の伊達神社、玉造郡の温泉神社、信夫郡の東屋沼神社、牡鹿郡の零羊崎神社、桃生郡の計仙麻大島神社、行方郡の多珂神社、栗原郡の志波姫神社、会津郡の伊佐須美神社、安積郡の宇奈己呂和気神社、柴田郡の大高山神社、宇多郡の子眉嶺神社などなど。
車を使ったとしても100社の参拝を決意するのは並の精神では出来ません。 -
陸奥総社宮から多賀城政庁跡は目と鼻の先。
多賀城跡は史跡公園として整備されていますが、その外れにひっそり忘れられたようにたたずむ小さな神明造のお宮。
ここ多賀城神社は昭和初期に創建が計画され、戦後に旧海軍工廠内の奉安殿を本殿として鎮座しました。 -
多賀城は、御村上天皇を奉じた北畠顕家卿が拠点とした城でもあり、伊達行朝や結城宗広が忠勤を尽くしました。
伊達行朝は政宗公の祖先で、顕家卿が後に拠点にする福島県の霊山も、伊達家の勢力下にありました。
後村上天皇が多賀城へ滞在されたのは、まだ親王宣下も受けていない御幼少の頃のことでした。
鎌倉幕府が滅亡すると、父帝の後醍醐天皇は建武新政を始め、それと同時に、東北で再起を狙う北条残党を討伐し、去就を決めていない有力者たちを帰服させるため、後村上天皇に北畠親房・顕家父子を付けて多賀城へと赴かせたのでした。
多賀城で親王となった後村上天皇は、足利尊氏が反旗を翻すと北畠父子とともに京へ引き返されますが、尊氏が宮方勢に敗れて九州へ落ち延びると、再び多賀城へと赴かれたのでした。 -
時代は下って明治時代。
明治天皇は幕末期の動乱で傷ついた東北の民を労るため、明治9年に東北巡幸へと旅立たれます。
6月29日、鹽竈神社を参拝された後、多賀城へと向かわれます。
このことを記念し、旧仙台藩士高橋是清の揮毫による明治天皇御聖蹟の碑が立てられたのでした。 -
多賀城の創建は724年とされています。
多賀城が創建される前は、仙台市内の郡山遺跡に陸奥国府があったと考えられています(私の自宅は郡山遺跡の上にあります)。
大和朝廷は郡山遺跡にあった国府を拠点にして宮城野を征し、七北田川を渡って多賀城へ国府を遷したのでしょう。
多賀城という名前の由来は長い間謎とされて来ましたが、異民族を平定し国家の安寧を願うシナの「多賀国家人民息」の言葉から命名されたという新説が発表され、知る限りでは今のところ反論は出ていないようです。多賀城政庁跡 名所・史跡
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多賀城が機能しなくなってから何百何もの年月の間に、その跡地には住居を構える人も出ていました。
しかし昭和に入って史跡として整備されることになり、これらの人々は移転させられることになります。
現在は政庁として用いられた建物の礎石だけが残される広場となっていますが、大宰府や平城宮のような建物の復元はなく、観光資源として充分に活用されていない印象です。 -
しかし、多賀城政庁跡で桜を楽しめるとは思っていませんでした。
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人影もまばらで、心地よい風に吹かれながら桜を堪能することが出来ました。
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多賀城政庁の最も南側、外郭南門のあったあたりには、日本三古碑の一つに数えられる多賀城碑、通称壺碑(つぼのいしぶみ)があります。
高さ196センチ、幅92センチの碑面。
上部には「西」の1文字。
その下には140文字で、平城京や各国境からの距離、多賀城の設置や修造について記されています。多賀城跡 名所・史跡
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奈良時代の石碑は全国的にも珍しく、風化を避けるために覆屋に守られています。
松尾芭蕉は『おくのほそ道』で、壺碑に対面した感動を比較的長い文章で綴っています。
復元された建物よりもずっと価値の高い文化財がここにあることを、宮城県民は誇りとすべきですね。
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