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大河ドラマでも一躍、有名となった小谷城に訪れました。<br /><br />小谷城は浅井亮政が小谷山に築城し、久政、長政と3代でおよそ50年間江北を治めました。<br /><br />長政は信長の妹・お市の方を妻に迎え、信長と同盟を結びます。<br /><br />しかし、浅井家と同盟関係にあった朝倉家を信長が攻めたことで、信長と争うこととなります。<br /><br />小谷城は堅固な山城であったため、その落城までおよそ3年の月日を要することになりますが、浅井家は滅亡させられます。<br /><br />長政とお市の方の3姉妹・茶々、初、江はも数奇な運命をたどり興味が尽きることはありません。<br /><br />もちろん100名城でもあります。<br /><br />小谷城は曲輪も多いため少し長い旅行記になってしまいましたが、よろしくお願いします。<br />

100名城 小谷城 

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2014/03/28 - 2014/03/28

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大河ドラマでも一躍、有名となった小谷城に訪れました。

小谷城は浅井亮政が小谷山に築城し、久政、長政と3代でおよそ50年間江北を治めました。

長政は信長の妹・お市の方を妻に迎え、信長と同盟を結びます。

しかし、浅井家と同盟関係にあった朝倉家を信長が攻めたことで、信長と争うこととなります。

小谷城は堅固な山城であったため、その落城までおよそ3年の月日を要することになりますが、浅井家は滅亡させられます。

長政とお市の方の3姉妹・茶々、初、江はも数奇な運命をたどり興味が尽きることはありません。

もちろん100名城でもあります。

小谷城は曲輪も多いため少し長い旅行記になってしまいましたが、よろしくお願いします。

旅行の満足度
4.0
同行者
一人旅
一人あたり費用
1万円未満
交通手段
JRローカル 徒歩
  • JR河毛駅に9:18に到着しました。<br /><br />京都から1時間半ほどで滋賀県長浜市にあります。<br /><br />

    JR河毛駅に9:18に到着しました。

    京都から1時間半ほどで滋賀県長浜市にあります。

  • 河毛駅は無人駅ですがコミュニティハウスがあります。<br /><br />ここでレンタサイクルの貸出や観光案内などをしています。

    河毛駅は無人駅ですがコミュニティハウスがあります。

    ここでレンタサイクルの貸出や観光案内などをしています。

  • コミュニティハウス内で小谷城の資料展示がありました。<br /><br />管理人の方も親切に観光客に小谷城のことなどを説明しておられました。<br />

    コミュニティハウス内で小谷城の資料展示がありました。

    管理人の方も親切に観光客に小谷城のことなどを説明しておられました。

  • 2kmほどですので、徒歩で小谷城戦国歴史資料館へ向かいます。<br /><br />

    2kmほどですので、徒歩で小谷城戦国歴史資料館へ向かいます。

  • 途中で虎御前山の登山口がありました。<br /><br />虎御前山は織田信長が小谷城を攻めた時に砦を築き本拠地にした所です。<br /><br />ここも一度登ってみたいです。

    途中で虎御前山の登山口がありました。

    虎御前山は織田信長が小谷城を攻めた時に砦を築き本拠地にした所です。

    ここも一度登ってみたいです。

  • 城下町だった名残りがあります。

    城下町だった名残りがあります。

  • 尾崎神社です。<br /><br />天照大神を祀っています。<br /><br />お参りして行きました。

    尾崎神社です。

    天照大神を祀っています。

    お参りして行きました。

  • 城下町大谷市場跡です。<br /><br />浅井3代小谷城時代は重要な商業施設の中心だったと考えられています。<br /><br />小谷城落城後、豊臣秀吉により城下町が長浜に移され大谷市場も移されました。<br />

    城下町大谷市場跡です。

    浅井3代小谷城時代は重要な商業施設の中心だったと考えられています。

    小谷城落城後、豊臣秀吉により城下町が長浜に移され大谷市場も移されました。

  • 写真右に見える小谷山にまっすぐのびている道が清水道です。<br /><br />清水道の両脇には武家屋敷があったと考えられています。<br /><br /><br />この辺りに知善院跡です。<br /><br />発掘調査で庭園跡と思われる方形の池が発見されました。<br /><br />1572年7月には織田信長軍により屋敷は破壊され、本格的な籠城戦となりました。<br />

    写真右に見える小谷山にまっすぐのびている道が清水道です。

    清水道の両脇には武家屋敷があったと考えられています。


    この辺りに知善院跡です。

    発掘調査で庭園跡と思われる方形の池が発見されました。

    1572年7月には織田信長軍により屋敷は破壊され、本格的な籠城戦となりました。

  • 小谷城清水谷絵図です。<br /><br />真ん中の道が清水道です。<br /><br />今日は、絵図の現在地からオレンジの線に沿って、出丸、金吾丸と進み、山頂の大獄まで行きます。<br /><br />その後、六坊まで戻り大野木屋敷跡を通って清水道を降りてきます。

    小谷城清水谷絵図です。

    真ん中の道が清水道です。

    今日は、絵図の現在地からオレンジの線に沿って、出丸、金吾丸と進み、山頂の大獄まで行きます。

    その後、六坊まで戻り大野木屋敷跡を通って清水道を降りてきます。

  • 小谷城戦国歴史資料館です。<br /><br />100名城のスタンプはこちらの受付で貸していただけます。<br /><br /><br />資料館は2つの展示場からなっていました。<br /><br />一つは小谷城主・浅井3代に関するもの、もう一つは小谷城に関するものです。<br /><br />ビデオによる説明などもあり、小ぶりながら勉強になる資料館でした。<br />

    小谷城戦国歴史資料館です。

    100名城のスタンプはこちらの受付で貸していただけます。


    資料館は2つの展示場からなっていました。

    一つは小谷城主・浅井3代に関するもの、もう一つは小谷城に関するものです。

    ビデオによる説明などもあり、小ぶりながら勉強になる資料館でした。

  • 大河ドラマ「江 姫たちの戦国」では浅井長政の三姉妹は注目されました。<br />

    大河ドラマ「江 姫たちの戦国」では浅井長政の三姉妹は注目されました。

  • 小谷城戦国歴史資料館の前から小谷山登山口があります。<br /><br />

    小谷城戦国歴史資料館の前から小谷山登山口があります。

  • 杖を置いてくれています。<br /><br />熊出没注意の看板があり少し不安になります。<br /><br />資料館には熊よけの鈴も売っていました。<br />

    杖を置いてくれています。

    熊出没注意の看板があり少し不安になります。

    資料館には熊よけの鈴も売っていました。

  • 追手道は清水谷から山城に向かう重要な道です。<br /><br />

    追手道は清水谷から山城に向かう重要な道です。

  • 追手道の道沿いに磯野屋敷跡があります。<br /><br />磯野丹波守員昌は猛将と知られる浅井家の重臣です。<br /><br />姉川の決戦で浅井家の先陣をつとめ、織田信長の13段の構えの内11段まで突き破りました。<br />

    追手道の道沿いに磯野屋敷跡があります。

    磯野丹波守員昌は猛将と知られる浅井家の重臣です。

    姉川の決戦で浅井家の先陣をつとめ、織田信長の13段の構えの内11段まで突き破りました。

  • いよいよここから出発です。<br />

    いよいよここから出発です。

  • 出丸跡です。<br /><br />小高い丘になっており独立した砦です。<br /><br />主郭尾根の最先端にあり、上下二段の曲輪と土塁からなっています。<br /><br /><br /><br />

    出丸跡です。

    小高い丘になっており独立した砦です。

    主郭尾根の最先端にあり、上下二段の曲輪と土塁からなっています。



  • 丘を登ると出丸跡に出ます。<br />

    丘を登ると出丸跡に出ます。

  • 出丸跡の絵図です。<br /><br />

    出丸跡の絵図です。

  • ここから城下を見下ろすことができます。<br /><br />ここが織田軍を警戒する最前線だったと思われます。

    ここから城下を見下ろすことができます。

    ここが織田軍を警戒する最前線だったと思われます。

  • 番所・本丸方面へ向かいます。<br /><br />

    番所・本丸方面へ向かいます。

  • ここから山道がしばらく続きます。<br />

    ここから山道がしばらく続きます。

  • 山道の途中に真柄峠があります。<br /><br />1525年に六角高頼が浅井亮政を討つため小谷城を攻めた時、来援した朝倉教景に従ってきた武将真柄備中守が守ったためこの名が付けられました。<br /><br />

    山道の途中に真柄峠があります。

    1525年に六角高頼が浅井亮政を討つため小谷城を攻めた時、来援した朝倉教景に従ってきた武将真柄備中守が守ったためこの名が付けられました。

  • 山道をのぼってくると望笙峠に着きます。<br /><br />標高230mくらいの所で見晴らしのいいところです。<br /><br />ベンチも置いてあり少し休憩もできます。<br />

    山道をのぼってくると望笙峠に着きます。

    標高230mくらいの所で見晴らしのいいところです。

    ベンチも置いてあり少し休憩もできます。

  • 右手奥に見える山が山本山です。<br /><br />豊臣秀吉の寝返り工作に応じ、小谷城の支城・山本山城を守っていた阿閉貞征(あつじさだゆき)が織田軍に寝返ったのをきっかけに、信長が大軍で小谷城を包囲しました。<br />

    右手奥に見える山が山本山です。

    豊臣秀吉の寝返り工作に応じ、小谷城の支城・山本山城を守っていた阿閉貞征(あつじさだゆき)が織田軍に寝返ったのをきっかけに、信長が大軍で小谷城を包囲しました。

  • 望笙峠から山道を更に進むと金吾丸の標があります。<br />

    望笙峠から山道を更に進むと金吾丸の標があります。

  • 金吾丸は丘のような曲輪ですので、このような道を登って行きます。<br /><br />

    金吾丸は丘のような曲輪ですので、このような道を登って行きます。

  • 金吾丸跡です。<br /><br />1525年に六角高頼が小谷城を攻めた時、朝倉金吾教景が援軍に来て、ここに陣を布いたと云われています。<br /><br />四段の曲輪と土塁からなっています。<br />

    金吾丸跡です。

    1525年に六角高頼が小谷城を攻めた時、朝倉金吾教景が援軍に来て、ここに陣を布いたと云われています。

    四段の曲輪と土塁からなっています。

  • 金吾丸からはこのような階段をおりてきます。<br />

    金吾丸からはこのような階段をおりてきます。

  • もし金吾丸に行かないのなら金吾丸の標の所から平たんな道で同じ所に来れるようです。<br /><br />この辺りは見晴らしも良い場所でした。<br /><br />

    もし金吾丸に行かないのなら金吾丸の標の所から平たんな道で同じ所に来れるようです。

    この辺りは見晴らしも良い場所でした。

  • ここまでは林道があり自動車でも来ることができます。<br />

    ここまでは林道があり自動車でも来ることができます。

  • 小谷戦国歴史資料館から現在地までまだほんの少ししか進んでいません。<br /><br />

    小谷戦国歴史資料館から現在地までまだほんの少ししか進んでいません。

  • 熊が多数、目撃されているとのことです。<br /><br />ラジオや鈴などの携帯を呼びかけていますが、何も持っていません。<br /><br />不安感が高まります。<br /><br />次回からは何か対策をしょうと思います。<br />

    熊が多数、目撃されているとのことです。

    ラジオや鈴などの携帯を呼びかけていますが、何も持っていません。

    不安感が高まります。

    次回からは何か対策をしょうと思います。

  • 番所跡です。<br /><br />金吾丸の裏手にあります。<br /><br />遠方からは見えず間道もここに集まる要所に位置します。<br /><br />ここからは本格的な城郭となり、ここで登城者の検問を行っていました。<br />

    番所跡です。

    金吾丸の裏手にあります。

    遠方からは見えず間道もここに集まる要所に位置します。

    ここからは本格的な城郭となり、ここで登城者の検問を行っていました。

  • 番所の絵図です。<br /><br />東側には幅1.3mの土塁が築かれています。<br />

    番所の絵図です。

    東側には幅1.3mの土塁が築かれています。

  • 小谷城には特別天然記念物のカモシカがいるようです。<br /><br />熊じゃなくてこちらは見てみたいですね。

    小谷城には特別天然記念物のカモシカがいるようです。

    熊じゃなくてこちらは見てみたいですね。

  • 御茶屋跡です。<br /><br />番所跡のすぐ上にある曲輪で、主郭の最先端にあります。<br /><br />曲輪は一段ですが、比較的広く、曲輪の真ん中を前後に分ける低い土塁が見られます。<br /><br />御茶屋という名ですが軍事施設です。<br />

    御茶屋跡です。

    番所跡のすぐ上にある曲輪で、主郭の最先端にあります。

    曲輪は一段ですが、比較的広く、曲輪の真ん中を前後に分ける低い土塁が見られます。

    御茶屋という名ですが軍事施設です。

  • 馬洗池跡です。<br /><br />御馬屋敷跡の背後にあります。<br /><br />

    馬洗池跡です。

    御馬屋敷跡の背後にあります。

  • 馬洗池は南北9m、東西6.6mの石積みの池です。

    馬洗池は南北9m、東西6.6mの石積みの池です。

  • 御馬屋敷跡です。<br /><br />馬洗池の方から見ています。<br /><br />三方を高い土塁で囲まれています。<br /><br />本丸跡の前面にあり、本丸を守るための曲輪です。<br /><br />

    御馬屋敷跡です。

    馬洗池の方から見ています。

    三方を高い土塁で囲まれています。

    本丸跡の前面にあり、本丸を守るための曲輪です。

  • 絵図を見てもそうですが、実際に小谷城に来ると、要塞のような曲輪だったことが良く分ります。<br /><br />

    絵図を見てもそうですが、実際に小谷城に来ると、要塞のような曲輪だったことが良く分ります。

  • 正面の石は首据石です。<br /><br />1533年、浅井亮政は六角氏の合戦の際、家臣の今井秀信が敵に内通していたことを知り、神照寺で殺害し、ここに首をさらしたと云われています。<br />

    正面の石は首据石です。

    1533年、浅井亮政は六角氏の合戦の際、家臣の今井秀信が敵に内通していたことを知り、神照寺で殺害し、ここに首をさらしたと云われています。

  • 赤尾屋敷跡です。<br /><br />浅井氏の重臣赤尾氏の屋敷跡です。<br /><br />天正元年9月1日、浅井長政が黒金御門から打って出ましたが、信長の兵に攻められ、、鐘ヶ丸に帰ることができず、ここ赤尾屋敷に入り、自刀しました。<br /><br />享年29歳でした。<br />

    赤尾屋敷跡です。

    浅井氏の重臣赤尾氏の屋敷跡です。

    天正元年9月1日、浅井長政が黒金御門から打って出ましたが、信長の兵に攻められ、、鐘ヶ丸に帰ることができず、ここ赤尾屋敷に入り、自刀しました。

    享年29歳でした。

  • 黒金御門跡です。<br />

    黒金御門跡です。

  • 桜馬場跡です。<br /><br />御馬屋敷跡の上方、大広間跡の前にある曲輪で、細長く左右二段からなっています。<br /><br />西側の曲輪は建物の礎石が見つかっています。<br />

    桜馬場跡です。

    御馬屋敷跡の上方、大広間跡の前にある曲輪で、細長く左右二段からなっています。

    西側の曲輪は建物の礎石が見つかっています。

  • 浅井氏及家臣供養塔です。<br /><br />被害のほどは正確には分かりませんが、姉川の戦い、小谷城の戦いなどでかなりの方が死傷されたのではないかと思われます。<br /><br />

    浅井氏及家臣供養塔です。

    被害のほどは正確には分かりませんが、姉川の戦い、小谷城の戦いなどでかなりの方が死傷されたのではないかと思われます。

  • 正面に見える小高い山が、信長が個谷城攻略のため砦を築いた虎御前山です。<br /><br />小谷城とかなり近い距離であったことが分かります。<br />

    正面に見える小高い山が、信長が個谷城攻略のため砦を築いた虎御前山です。

    小谷城とかなり近い距離であったことが分かります。

  • 大広間跡です。<br /><br />別名「千畳敷」と呼ばれる長さ約85m、幅約35mの小谷城で最大の曲輪です。<br /><br />前面に現在は崩れていますが高さ約4mの石垣がつまれていました。<br /><br />ここでは建物跡が検出されているほか、井戸跡も出土しています。<br /><br />写真奥に見える石垣のある丘の上が本丸跡です。<br />

    大広間跡です。

    別名「千畳敷」と呼ばれる長さ約85m、幅約35mの小谷城で最大の曲輪です。

    前面に現在は崩れていますが高さ約4mの石垣がつまれていました。

    ここでは建物跡が検出されているほか、井戸跡も出土しています。

    写真奥に見える石垣のある丘の上が本丸跡です。

  • この上が本丸跡です。<br /><br />小谷城跡古絵図に「天守共 鐘丸共」と記されており、鐘丸がその機能を表していると考えられています。<br /><br />本丸は南北約40m、東西約25mの広さを持ち上下2段からなります。<br /><br />大広間跡側には写真のように石垣が築かれ、西・東側の裾に土塁があります。<br />

    この上が本丸跡です。

    小谷城跡古絵図に「天守共 鐘丸共」と記されており、鐘丸がその機能を表していると考えられています。

    本丸は南北約40m、東西約25mの広さを持ち上下2段からなります。

    大広間跡側には写真のように石垣が築かれ、西・東側の裾に土塁があります。

  • 本丸跡にのぼり大広間跡を見下ろします。<br />

    本丸跡にのぼり大広間跡を見下ろします。

  • 本丸跡・大広間跡の絵図です。<br /><br />ここには複数の建物が建ちならんでいたようです。<br />

    本丸跡・大広間跡の絵図です。

    ここには複数の建物が建ちならんでいたようです。

  • 御局屋敷跡です。<br /><br />本丸の西下にある曲輪です。<br /><br />御馬屋敷跡から続く帯曲輪で本丸を守るためのものです。<br /><br />谷から帯曲輪まで何本かの堅掘が設けられています。<br />

    御局屋敷跡です。

    本丸の西下にある曲輪です。

    御馬屋敷跡から続く帯曲輪で本丸を守るためのものです。

    谷から帯曲輪まで何本かの堅掘が設けられています。

  • 大堀切跡です。<br /><br />本丸跡の北にある大規模な掘跡で尾根を大きく削ってあります。<br /><br />番所跡から本丸までと、その上を区切るためのものです。<br />

    大堀切跡です。

    本丸跡の北にある大規模な掘跡で尾根を大きく削ってあります。

    番所跡から本丸までと、その上を区切るためのものです。

  • 中丸跡です。<br /><br />大掘切跡の北にある曲輪で三段からなります。<br /><br />それぞれの曲輪に横矢を設けてあります。<br />

    中丸跡です。

    大掘切跡の北にある曲輪で三段からなります。

    それぞれの曲輪に横矢を設けてあります。

  • 中丸の絵図です。<br /><br />絵図の大堀切跡を通って中丸に進んでいます。<br /><br />ここから本丸を離れ大獄城跡の方へ向かいます。<br /><br />

    中丸の絵図です。

    絵図の大堀切跡を通って中丸に進んでいます。

    ここから本丸を離れ大獄城跡の方へ向かいます。

  • 3段からなる中丸の最上段に位置する刀洗池です。<br /><br />この池の縁を通って上段の京極丸跡に向かいます。<br />

    3段からなる中丸の最上段に位置する刀洗池です。

    この池の縁を通って上段の京極丸跡に向かいます。

  • 京極丸跡です。<br /><br />京極氏の屋敷があったと云われています。<br /><br />大広間跡に次ぐ広大な曲輪で、南北4段の構造を持っています。<br /><br /><br />1573年8月27日、羽柴秀吉により攻め落とされ、久政のこもる小丸と長政の守る本丸との間が分断されました。<br />

    京極丸跡です。

    京極氏の屋敷があったと云われています。

    大広間跡に次ぐ広大な曲輪で、南北4段の構造を持っています。


    1573年8月27日、羽柴秀吉により攻め落とされ、久政のこもる小丸と長政の守る本丸との間が分断されました。

  • 小丸跡です。<br /><br />2代藩主・浅井久政が隠居した所で、左右2段の曲輪からなります。<br /><br />1573年8月27日に久政が鶴松太夫の介錯で自刀したところです。<br />

    小丸跡です。

    2代藩主・浅井久政が隠居した所で、左右2段の曲輪からなります。

    1573年8月27日に久政が鶴松太夫の介錯で自刀したところです。

  • 小丸・京極丸の絵図です。<br /><br />右下の枡形虎口から秀吉が攻め上がりました。

    小丸・京極丸の絵図です。

    右下の枡形虎口から秀吉が攻め上がりました。

  • 小谷城に残る最も大きな石垣で、山王丸跡のものです。<br /><br />比較的大きな石が用いられおよそ5mの高さがあります。<br />

    小谷城に残る最も大きな石垣で、山王丸跡のものです。

    比較的大きな石が用いられおよそ5mの高さがあります。

  • 山王丸跡です。<br /><br />小谷城の詰めの丸で、4段からなりたっています。<br /><br />上の大石垣はこの山王丸のものです。<br /><br /><br />山王権現が祀られていました。<br />

    山王丸跡です。

    小谷城の詰めの丸で、4段からなりたっています。

    上の大石垣はこの山王丸のものです。


    山王権現が祀られていました。

  • 山王丸の絵図です。<br /><br />番所跡からここまで多数の曲輪が比較的、集まっていました。<br />

    山王丸の絵図です。

    番所跡からここまで多数の曲輪が比較的、集まっていました。

  • 六坊跡へ向かいます。<br /><br />しばらく山道を歩きます。<br />

    六坊跡へ向かいます。

    しばらく山道を歩きます。

  • この辺りは結構険しい道でした。<br />

    この辺りは結構険しい道でした。

  • 青空で景色は綺麗でした。<br />

    青空で景色は綺麗でした。

  • 六坊跡です。<br /><br />2代藩主・浅井久政は軍務・政務を司っていた6つの寺院が江北各所に散らばっていて不便だったため、ここに集めたと云われています。<br /><br />

    六坊跡です。

    2代藩主・浅井久政は軍務・政務を司っていた6つの寺院が江北各所に散らばっていて不便だったため、ここに集めたと云われています。

  • 六坊跡の絵図です。<br />

    六坊跡の絵図です。

  • ここから山頂の大獄城跡を目指します。<br /><br />写真のような急な登り道が続きます。

    ここから山頂の大獄城跡を目指します。

    写真のような急な登り道が続きます。

  • 山頂近くの岩尾という所です。<br /><br />絵のように景色が綺麗な所でした。<br />

    山頂近くの岩尾という所です。

    絵のように景色が綺麗な所でした。

  • 岩尾からもう少し登って小谷山山頂です。<br /><br />標高は494.5mで決して高い山ではないのですが、最後に登りが続き少しきつかったです。<br />

    岩尾からもう少し登って小谷山山頂です。

    標高は494.5mで決して高い山ではないのですが、最後に登りが続き少しきつかったです。

  • 大獄の絵図です。<br /><br />かなり強固な曲輪構成だったことが偲ばれます。<br /><br />大獄城は初代・浅井亮政が1523年頃に築城したと考えられています。<br />

    大獄の絵図です。

    かなり強固な曲輪構成だったことが偲ばれます。

    大獄城は初代・浅井亮政が1523年頃に築城したと考えられています。

  • 山頂が大獄城跡です。<br /><br />小谷城の初期はここが主郭であったようです。<br /><br />後に本丸跡に主郭は移されます。<br /><br /><br />1573年8月12日、大獄城は朝倉氏の援軍が守備していましたが、浅井氏の家臣・浅見対馬守が織田方に寝返ったため、落城しました。<br />

    山頂が大獄城跡です。

    小谷城の初期はここが主郭であったようです。

    後に本丸跡に主郭は移されます。


    1573年8月12日、大獄城は朝倉氏の援軍が守備していましたが、浅井氏の家臣・浅見対馬守が織田方に寝返ったため、落城しました。

  • ベンチで少し休憩した後、六坊跡の方へ戻ります。<br /><br />大獄城跡から福寿丸跡、山崎丸跡と下山するルートもあるのですが、今回は清水道の方から下山するルートを選択しました。<br />

    ベンチで少し休憩した後、六坊跡の方へ戻ります。

    大獄城跡から福寿丸跡、山崎丸跡と下山するルートもあるのですが、今回は清水道の方から下山するルートを選択しました。

  • 緑も綺麗で気持ちのいい日でした。

    緑も綺麗で気持ちのいい日でした。

  • 土佐屋敷跡です。<br /><br />浅井氏の重臣・大野木土佐守の屋敷跡です。<br />

    土佐屋敷跡です。

    浅井氏の重臣・大野木土佐守の屋敷跡です。

  • 三田村屋敷跡です。<br /><br />浅井氏の重臣・三田村佐渡守の屋敷跡です。<br />

    三田村屋敷跡です。

    浅井氏の重臣・三田村佐渡守の屋敷跡です。

  • 八畳岩です。<br /><br />谷川の中にある広さ8畳ほどの巨大な岩です。<br /><br />上面が平らで広いです。<br />

    八畳岩です。

    谷川の中にある広さ8畳ほどの巨大な岩です。

    上面が平らで広いです。

  • 蛙岩です。<br /><br />これも高さ5mほどの大きな岩です。<br /><br />蛙の形をしているらしいのですが、確かに蛙に見えますw<br />

    蛙岩です。

    これも高さ5mほどの大きな岩です。

    蛙の形をしているらしいのですが、確かに蛙に見えますw

  • 丸岩です。<br /><br />確かに丸いですw<br /><br />苔むした岩がいい感じです。<br /><br />これら八畳岩、蛙岩、丸岩は下山中に見られます。<br />

    丸岩です。

    確かに丸いですw

    苔むした岩がいい感じです。

    これら八畳岩、蛙岩、丸岩は下山中に見られます。

  • 堅掘(たてぼり)です。<br /><br />空掘で敵が攻めるのを防ぐためのものです。<br />

    堅掘(たてぼり)です。

    空掘で敵が攻めるのを防ぐためのものです。

  • 御屋敷跡です。<br /><br />かなり山裾までおりてきました。<br /><br />清水谷の最奥部です。<br /><br />

    御屋敷跡です。

    かなり山裾までおりてきました。

    清水谷の最奥部です。

  • 御屋敷跡です。<br /><br />浅井長政やお市の方とその子供たちの茶々、初、江が暮らしたと考えられる所です。<br /><br />やはり他の屋敷跡とは違い、感慨深いものがあります。<br />

    御屋敷跡です。

    浅井長政やお市の方とその子供たちの茶々、初、江が暮らしたと考えられる所です。

    やはり他の屋敷跡とは違い、感慨深いものがあります。

  • 御屋敷跡です。<br />

    御屋敷跡です。

  • 徳昌寺跡です。<br /><br />浅井氏の菩提寺です。<br /><br />小谷城落城後に長浜市に移され、浅井氏三代の墓があります。<br /><br />

    徳昌寺跡です。

    浅井氏の菩提寺です。

    小谷城落城後に長浜市に移され、浅井氏三代の墓があります。

  • 下山してきました。<br /><br />この道は小谷戦国歴史資料館へ続いています。<br />

    下山してきました。

    この道は小谷戦国歴史資料館へ続いています。

  • 歩いてきた道を振り返ると小谷山が見えます。<br />

    歩いてきた道を振り返ると小谷山が見えます。

  • 木村屋敷跡、遠藤屋敷跡と歩いてきてスタート地点に戻ってきました。<br />

    木村屋敷跡、遠藤屋敷跡と歩いてきてスタート地点に戻ってきました。

  • 徒歩で小谷寺へ向かいます。<br />

    徒歩で小谷寺へ向かいます。

  • 小谷寺は浅井三代の祈願寺でした。<br /><br />小谷城落城の際、焼失しましたが、秀吉・家康の援助で再興しました。<br /><br />立派なお寺でした。<br />

    小谷寺は浅井三代の祈願寺でした。

    小谷城落城の際、焼失しましたが、秀吉・家康の援助で再興しました。

    立派なお寺でした。

  • 小谷神社です。<br /><br />小谷神社は先ほど行きました本丸尾根の最長部・山王丸に祀られていました。<br /><br />1573年の落城後、何度か移され、昭和49年にここに祀られました。<br />

    小谷神社です。

    小谷神社は先ほど行きました本丸尾根の最長部・山王丸に祀られていました。

    1573年の落城後、何度か移され、昭和49年にここに祀られました。

  • 戦国ガイドステーションです。<br /><br />

    戦国ガイドステーションです。

  • 戦国ガイドステーションの中には大河ドラマの撮影風景などが展示されています。<br /><br />パンフレットなどもありました。<br /><br />無料で見学できますが、当日は誰もいませんでした。<br />

    戦国ガイドステーションの中には大河ドラマの撮影風景などが展示されています。

    パンフレットなどもありました。

    無料で見学できますが、当日は誰もいませんでした。

  • 大河ドラマを記念してつくられたようです。<br /><br />兜には浅井家の家紋である「三つ盛亀甲」があしらわれています。<br />

    大河ドラマを記念してつくられたようです。

    兜には浅井家の家紋である「三つ盛亀甲」があしらわれています。

  • 戦国ガイドステーション前のこちらからも登城することができます。<br /><br />この後、河毛駅まで徒歩で戻り16:21の電車で帰りました。<br /><br /><br />小谷城は曲輪が多く、長い旅行記になってしまいました。<br /><br />読んで頂いて本当にありがとうございました。<br />

    戦国ガイドステーション前のこちらからも登城することができます。

    この後、河毛駅まで徒歩で戻り16:21の電車で帰りました。


    小谷城は曲輪が多く、長い旅行記になってしまいました。

    読んで頂いて本当にありがとうございました。

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