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アイルランドのダブリン空港に、一機の飛行機が降り立った。<br />時は夕刻。乗客の多くは疲労の色を浮かべている。<br />私と友人は、ターンテーブルからトランクを取り出し、空港の外へ出る。<br />思わず身震いした。灼熱のマレーシアから飛んできたので、なおさら寒さを覚える。薄手の上着しか準備してこなかったことを悔いつつ、街へ向かうバスに乗り込んだ。隣に座った友人が、両手に息を吐きかけて言った。<br />「暖流の影響があるんじゃないのか?」<br /><br />ダブリン滞在中、寒さに触れるたびに、口癖のように聞かされた台詞だ。<br />いや、帰国後も思い出話に花を咲かせるときには必ず耳にする。というのは、出発前に彼から現地の気候を問われたとき、「暖流の影響があるから温かい。軽装でよい」と私が答えたことをなじったものだ。ガイドブックから得た豆知識であったが、まるで参考にならなかったと、到着して早々に思い知らされる羽目になった。<br /><br />バスは暗闇の中を突き進んでいる。降りしきる雨が、街の印象をより陰鬱なものにさせている。<br /><br />アイルランドへ行こうと友人を誘ったのは、一か月ほど前のことだ。<br />「アイルランドの緑には、100種類以上の色が存在する」、「アイルランドにはレプラコーンたち妖精がいる」‥などきらびやかなフレーズに強く惹かれたからだ。友人は二つ返事で承諾した。そして行き方。時間はあるが、お金はない2人にとって、東南アジア経由の南回りルートは理にかなっていた。そして、6泊9日の旅程を組んだ。クアラルンプールで1泊、ダブリンで5泊の計算だ。<br /><br />街灯まばらな停留所で、バスを降りた。初日の宿泊だけはネットで予約した。気に入ればずっと連泊すればいいし、気に入らなければ翌日から宿を変えれば済むと考えたからだ。<br /><br />ホテルラッセルコート。<br />目抜き通りに面した古い建物だった。かつては貴族の館といった出で立ち。増築を繰り返したあとが随所に見られ、紅色の絨毯が間段なく敷かれていた。私たちはチェックインを済ませ、部屋に入った。とにかく寒く、そして眠かった。機内で眠ったといっても、熟睡とは程遠かった。旅装を解く間もなく、ベッドに潜りこんだ。熟睡は必至と考えた。<br />しかし‥。<br />部屋が、布団があまりに寒かった。着布団は薄く、毛布はない。エアコンのスイッチは入っていたが、役割を果たしているかは甚だ疑問だった。夜中に何度も目を覚ました。少しでも体温を奪われないように、体を丸めた。<br />そしてー。<br />連泊はないと心に決めた。<br /><br />明朝。友人が布団をかぶったまま、朝食はいらないと言ったので、ひとりで食堂へ向かう。バイキング形式ではあったが、メイドが次から次へと温かい飲食物を運んでくれた。クロワッサン、塩っ気の強いベーコン、ボイルドされたトマト、そして紅茶がとりわけ美味で、満腹になるまで胃袋に詰めた。部屋に戻ると、友人はまだ布団をかぶっていた。ふいに、中から小さなささやき声が。<br />「とにかく宿を変えよう」。<br /><br />私たちはガイドブックから、いくつかの宿の候補をピックアップした。あとは行動あるのみ。受付に部屋の鍵を返し、チェックアウトを伝えた。寒さと美味しさを提供してくれた、思い出深いホテルをあとにした。<br /><br />当時、私の経験したヨーロッパは、大学の卒業旅行で訪れたロンドン、パリと、再就職前に行ったプラハ、ウィーンであった。ロンドンとパリは、歴史的な大都市というものを威厳をもって教えてくれたし、プラハとウィーンは芸術的な街をその気品ある雰囲気で伝えてくれた。どの街も、インパクトを与えるには十分な力を備えていた。それらに比べると、ダブリンは見劣りすると言わざるをえない。辺境のさびれた田舎町という印象だ。しかし私にとっては、かえって居心地が良かった。きっと、高尚ではない自分に合っていたのだろう。<br /><br />第一候補のホテルに着いた。片言の英語とジェスチャーを駆使し、何とか部屋の中を見せてもらうことに成功した。横長の細い窓が天井高くにあり、光がほとんど入らない。牢獄のような圧迫感を覚えたので、丁重に断った。<br /><br />次に向かったのも小さなホテル。バックパッカーが数多く出入りしていた。二段ベッドのある共同部屋は断り、大きな窓のある部屋に興味をもった。一枚ガラスの大きな窓は斜め上方へ押し開けるタイプで、窓際のベッドからは寝相が悪ければ、そのまま外へ転落するおそれがあった。しかし、最低限の設備がある点とお手軽な値段であることから、ここアッシュフィールドにお世話になることを決めた。<br /><br />早速、街へ出た。<br />ホテルのすぐ近くにリフィー川が流れ、川べりで人々が憩っていた。オコンネル通りは最も繁華な通り。食べ物屋、みやげ屋などが軒を連ね、大道芸人がハープやアコーディオンを気持ちよさそうに奏でていた。通りを越えると、セントスティーンブンスグリーンという大きな公園があった。私は滞在中、毎朝この公園を訪れた。芝生に寝転んで遠い空を見上げると、いつも爽快な気分になった。<br /><br />戦をする者に腹減りは許されない。おいしい店はたくさんあった。<br />老舗のアイリッシュパブで、友人とギネスビールを乾杯した。クリーミーな泡を乗せた黒ビールと、欧米人の陽気な笑い声が、楽しい世界を演出した。千鳥足で「はしご」したのは、丸いマークのロゴを掲げたお店だった。オレンジ色を基調とした内装で、ハーレーのバイクが飾り置かれ、壁にはレトロなアメリカのカープレートが架けられていた。友人は、「ハードロックカフェもどきだ」と笑った。言われてみれば、確かにそのとおりだった。そこで、オニオンリングを肴に、エールビールを胃袋に流しこんだ。<br /><br />アイリッシュシチューを求めて、店を探した夜もあった。<br />ダブリン城の近くに、少し高級そうなレストランを見つけた。まだ早い時間であったので、来店すると他に客がいなかった。奥から出てきたのは中年の男性。小指を立ててメニューのペンを走らせたり、せわしなく食器を置いたりする仕草は、まるでおどけるチャップリンのようであった。私たちはひそかに、「なんちゃって紳士」とあだ名した。なんちゃって紳士の所作は滑稽であったが、彼が運んでくれたアイリッシュシチューは、まこと絶品だった。日本のシチューに比べて、とろみがより強く、サイコロ形に切られた牛肉は臭みがなくて歯をそえるだけでかみ切れるほど柔らかかった。帰国後、同じ味を求めて、さまざまなアイリッシュ料理店を訪れたが、残念ながらいまだに出会えていない。<br /><br />友人とはじめて顔を合わせたのは小学2年生の時。転校生として彼はやって来た。<br />たまたま家が近かったこともあり、よく一緒に下校したり、遊んだりした。中学をともにした後、彼は工業高校を経て就職。私は別の高校を卒業して大学へ進む。大学生の頃、社会人になった彼は気前よくおごってくれ、頼もしい先輩のように感じていたものだった。また、一緒にスキーへ行ったとき、積雪で困っている人を見かねて雪かきを手伝うという優しい心の持ち主だった。見返りを求めない献身的な姿は輝いて見えた。ちなみにその時の私は、車内で腕組みしながら、ずっとまぶたを閉じていたのだが‥。<br /><br />そんな彼から、ダブリンにいた時に言われた、忘れられない一言がある。日中は、それぞれ単独行動をとっていた私たち。私がジョイスタワーへ向かう直前に言われた言葉だ。<br />「無事に帰ってきてな」<br />友人に対しては気恥ずかしさもあって、なかなか口にできない言葉である。私は、自分の行動する重みをはじめて自覚した。何か事故があった場合に、どう対処すればいいか、その大変さを物語っていた。逆の立場から私も同じことが言えたはずだが、特に深く考えることはなかった。言葉のろくに通じない異国では、散歩ひとつにも大きな責任を抱えているんだということを、彼の台詞は教えてくれたのだった。<br />そして、―これが一番大切なことなのだが―、彼の言葉には太陽のようにとても温かく、大きな優しさが込められているのだ。みんなその温もりに魅了され、惹きつけられているのだろう。<br /><br />思いがけない一言をかけられて、その日はいつもより凛とした心持ちで部屋を出た。最寄の駅まで少し歩き、電車を待った。電車がやってきた。赤や青でカラフルに彩られた車両は、ロンドンで走っていたような背の低い列車だった。列車に乗り込み、一度乗換えしてSandycoveという小さな駅で降車した。<br /><br />住宅街の真ん中にあった小さな駅は、「有名な観光スポットだから看板くらいあるだろう」という自らの予想を見事に裏切った。改札を通ると何の案内もなく右往左往してしまい、近くを歩く老婆に道を聞くことになってしまう。そして、彼女が指し示した方角を忠実に歩いた。コンクリートで固められた海沿いの道だった。途中、海水パンツ姿で海に浸かる老人を見た。海水浴にしては寒い気候であったので、日本でいう修験者の滝業みたいな類いの行為であろうか。<br /><br />ジョイスタワーに着いた。レンガ積みされた円柱形の小さな建物だった。<br />らせん階段を上ると、最上階は屋外になっていた。そこには、重厚な大砲のレプリカが据えられてあった。海を見渡すと、まるでブルーシートを敷いたかのように穏やかな水面。海の向こうにはリバプールにあたるのであろうか、陸地を望むことができた。タワーを訪れる客はまばらで閑散としている。店員は時折、奇怪な東洋人に向かって、睥睨するような視線を送った。<br /><br />アイルランドに行くにあたり、私はいくつかの書物に目を通していた。イメージとしてどんな国か捉えたかったために。<br />妖精の伝説を蒐集したイェイツの作品や、独立戦争に参加したオフェイロンが記した『アイルランド』、ケルト文化の本にも触れた。それに加えて、アイルランドが生んだ最大の巨匠、ジェイムス=ジョイスも食指を伸ばしたという訳だ。感想はというと、どの作品も難解でまったく頭に入ってこなかった。とりわけジョイスの作品。レトリックを駆使する文章は、何が何だか分からない。頭上にいくつも「?」マークが並んだ。しかし、この難解さがアイルランドの奥深さなんだと自分に暗示をかけ、自己満足に陥っていたところがあった。<br /><br />ジョイスタワーでは、『ダブリナーズ』を記念に購入し、後にした。夕食時、友人に、海に浸かっている老人を目撃した話をした。しかし、作り話だといってまるで信じてもらえなかった。写真を撮っておけばよかったか。しかし、盗撮みたいで気がひけたと思う。果たして、あの湾には暖流の影響があったのだろうか。<br /><br />出国が迫り、私たちは各々、プレゼントするおみやげを物色し始めた。オコンネル通り沿いの店や、スティーブンスグリーンのショッピングセンターで、大抵の物は買い揃えることができた。私は、ラベンダーのキャンドルやクローバーのビンズやキーホルダーなどを購入した。彼は、ガイドブックに載っていた王冠のリングを買っていた。指輪をするとき、王冠のつばを前に向けていれば恋人募集中、相手がいる人は逆向きにつけるのだそうだ。<br /><br />いよいよ出発前日となり、友人が明朝のタクシーを予約してくれた。率先して動いてくれた彼に、感謝の言葉を伝えた。<br />ダブリン最後の夜には、またパブへ足を運んだ。本場のギネスも今日で最後かと考えると、一抹の感傷を覚えたが、次第に大きくなった酩酊感がそんな気持ちを吹き飛ばした。二人は今までの取るに足らない、他愛もない出来事を話し合い、笑い合った。ダブリンに暖流の影響はないということ、最初のホテルの寒さは尋常ではなかったこと、なんちゃって紳士のこと、海に浸かる老人は架空の話だということ等々‥。<br />ひとつ、彼が興味深いエピソードを披露してくれた。ひとりで彼が喫茶店に入り、注文を呼んだときのことだという。店員の女性が日本語を解せないことを逆手に、彼は卑猥な日本語を連呼したという。まったくあきれた話だが、その気持ちは全く分からないでもなかった。私たちが一時的に置かれていた世界とは、それほど隔絶されているように感じられていたのだ。<br /><br />アッシュフィールドで最後の朝を迎えた。旅装を整え、ロビーで待機していたときのことだ。ひとりの中東人が私たちに声をかけてきた。ヘアワックスを貸してほしいと。友人が手渡すと、彼はその場を離れた。そしてどれほど待っただろうか、彼が現れ、笑顔でお礼を言い、去っていった。イスラエル人だという。あらためて友人がヘアワックスを開けると、彼のあまりの消費量に驚いたという。<br /><br />タクシーが到着。たくさんの荷物と思い出を乗せて、車は走り出した。早朝ということもあり、私たちの口数は少なかった。<br /><br />ダブリン空港が見えた。数日前に到着した際は濃い夕闇によってよく分からなかったが、あらためて全貌を目のあたりにすると、妙な実感が伴った。<br /><br />空港カウンターで荷物を預け、チェックイン。手続きを誤った私たちは、機内で遠く別々の席にされてしまった。しかし、シートにはビデオやゲーム機が備えられている。それほど深刻には考えていなかった。友人の「33C」というシートナンバーだけを覚えて、私は自分の席に身を沈めた。3席並びの一番窓側の席だった。残りの2席には、中年の欧米人夫婦が席を埋めた。私はひとりになることで、今までの旅の思い出を振り返ろうと考えていた。出発の時刻が近づき、エンジンが動き始めた。乗務員が飛行前の仕事をひと通り終え、着席し、ベルトを閉めた。<br /><br />突如、気分が悪くなった。吐き気をもよおした。<br />トイレに急行しようと試みたが、隣の男性に静止された。<br />不謹慎な考えが、頭に浮かぶ。<br />「我慢できなくなったら、彼に吐瀉物をかけてやろう。」<br />次第に意識が朦朧としてきた。薄れた意識のなか、このまま死んでしまうのではないかとも考えた。そして、ひとつの言葉が頭の中に浮かんだ。<br />〜サーティスリーシー〜。<br />友人のシートナンバーだ。何かあったら、この一言を叫び、彼に助けてもらおう。あるいは、分かる範囲の事情を、彼から関係者に伝達してもらおう。<br />「サーティスリーシー、サーティスリーシー、サーティスリーシー、サーティスリーシー‥」<br />私の意識は途切れた。<br /><br />‥‥‥‥‥‥‥‥‥<br />どれくらいの時が流れたのだろう。私は目を覚ました。まだ飛行機の中だ。<br />隣では、夫婦が頭を寄せ合って静かに寝息を立てている。機体はすでに、ユーラシア大陸の半ばを越えているようだ。もう気分の悪さは消え、吐き気もない。気付かないうちに、旅の疲れがたまっていたのだろうか。詳しいことはよく分からない。<br /><br />窓の外を見た。果てしない大きな陸地が、裾を広げている。<br />ふと頭に沸き上がってきた疑問。<br />―ダブリンで100種類以上の緑を感じられたか。あるいは、妖精の存在を意識したか―。<br />答えはいずれもノーだった。濃密な時間に支配されて、ダブリンは考える余裕を与えてくれなかった。かつては、あれほど夢見ていたのに‥。妖精レプラコーンは、七色に輝く虹のたもとに、大切な宝物を埋める習性があるという。次に訪れる機会があれば、その宝物を必ず掘り起こそう。<br />今度は決して忘れないように‥。<br /><br />熱帯のマレー半島が手招きしている。<br />到着すれば、しばらく忘れていた汗を、大量に放出するだろう。<br />飛ばしてしまおう、ギネスをたっぷり含んだ水分を。<br />あのダブリンの遠い空に向かって―。<br /><br />完

ダブリンの遠い空

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2004/09/12 - 2004/09/16

352位(同エリア622件中)

旅行記グループ KL経由ダブリン6泊9日

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ナーザ

ナーザさん

アイルランドのダブリン空港に、一機の飛行機が降り立った。
時は夕刻。乗客の多くは疲労の色を浮かべている。
私と友人は、ターンテーブルからトランクを取り出し、空港の外へ出る。
思わず身震いした。灼熱のマレーシアから飛んできたので、なおさら寒さを覚える。薄手の上着しか準備してこなかったことを悔いつつ、街へ向かうバスに乗り込んだ。隣に座った友人が、両手に息を吐きかけて言った。
「暖流の影響があるんじゃないのか?」

ダブリン滞在中、寒さに触れるたびに、口癖のように聞かされた台詞だ。
いや、帰国後も思い出話に花を咲かせるときには必ず耳にする。というのは、出発前に彼から現地の気候を問われたとき、「暖流の影響があるから温かい。軽装でよい」と私が答えたことをなじったものだ。ガイドブックから得た豆知識であったが、まるで参考にならなかったと、到着して早々に思い知らされる羽目になった。

バスは暗闇の中を突き進んでいる。降りしきる雨が、街の印象をより陰鬱なものにさせている。

アイルランドへ行こうと友人を誘ったのは、一か月ほど前のことだ。
「アイルランドの緑には、100種類以上の色が存在する」、「アイルランドにはレプラコーンたち妖精がいる」‥などきらびやかなフレーズに強く惹かれたからだ。友人は二つ返事で承諾した。そして行き方。時間はあるが、お金はない2人にとって、東南アジア経由の南回りルートは理にかなっていた。そして、6泊9日の旅程を組んだ。クアラルンプールで1泊、ダブリンで5泊の計算だ。

街灯まばらな停留所で、バスを降りた。初日の宿泊だけはネットで予約した。気に入ればずっと連泊すればいいし、気に入らなければ翌日から宿を変えれば済むと考えたからだ。

ホテルラッセルコート。
目抜き通りに面した古い建物だった。かつては貴族の館といった出で立ち。増築を繰り返したあとが随所に見られ、紅色の絨毯が間段なく敷かれていた。私たちはチェックインを済ませ、部屋に入った。とにかく寒く、そして眠かった。機内で眠ったといっても、熟睡とは程遠かった。旅装を解く間もなく、ベッドに潜りこんだ。熟睡は必至と考えた。
しかし‥。
部屋が、布団があまりに寒かった。着布団は薄く、毛布はない。エアコンのスイッチは入っていたが、役割を果たしているかは甚だ疑問だった。夜中に何度も目を覚ました。少しでも体温を奪われないように、体を丸めた。
そしてー。
連泊はないと心に決めた。

明朝。友人が布団をかぶったまま、朝食はいらないと言ったので、ひとりで食堂へ向かう。バイキング形式ではあったが、メイドが次から次へと温かい飲食物を運んでくれた。クロワッサン、塩っ気の強いベーコン、ボイルドされたトマト、そして紅茶がとりわけ美味で、満腹になるまで胃袋に詰めた。部屋に戻ると、友人はまだ布団をかぶっていた。ふいに、中から小さなささやき声が。
「とにかく宿を変えよう」。

私たちはガイドブックから、いくつかの宿の候補をピックアップした。あとは行動あるのみ。受付に部屋の鍵を返し、チェックアウトを伝えた。寒さと美味しさを提供してくれた、思い出深いホテルをあとにした。

当時、私の経験したヨーロッパは、大学の卒業旅行で訪れたロンドン、パリと、再就職前に行ったプラハ、ウィーンであった。ロンドンとパリは、歴史的な大都市というものを威厳をもって教えてくれたし、プラハとウィーンは芸術的な街をその気品ある雰囲気で伝えてくれた。どの街も、インパクトを与えるには十分な力を備えていた。それらに比べると、ダブリンは見劣りすると言わざるをえない。辺境のさびれた田舎町という印象だ。しかし私にとっては、かえって居心地が良かった。きっと、高尚ではない自分に合っていたのだろう。

第一候補のホテルに着いた。片言の英語とジェスチャーを駆使し、何とか部屋の中を見せてもらうことに成功した。横長の細い窓が天井高くにあり、光がほとんど入らない。牢獄のような圧迫感を覚えたので、丁重に断った。

次に向かったのも小さなホテル。バックパッカーが数多く出入りしていた。二段ベッドのある共同部屋は断り、大きな窓のある部屋に興味をもった。一枚ガラスの大きな窓は斜め上方へ押し開けるタイプで、窓際のベッドからは寝相が悪ければ、そのまま外へ転落するおそれがあった。しかし、最低限の設備がある点とお手軽な値段であることから、ここアッシュフィールドにお世話になることを決めた。

早速、街へ出た。
ホテルのすぐ近くにリフィー川が流れ、川べりで人々が憩っていた。オコンネル通りは最も繁華な通り。食べ物屋、みやげ屋などが軒を連ね、大道芸人がハープやアコーディオンを気持ちよさそうに奏でていた。通りを越えると、セントスティーンブンスグリーンという大きな公園があった。私は滞在中、毎朝この公園を訪れた。芝生に寝転んで遠い空を見上げると、いつも爽快な気分になった。

戦をする者に腹減りは許されない。おいしい店はたくさんあった。
老舗のアイリッシュパブで、友人とギネスビールを乾杯した。クリーミーな泡を乗せた黒ビールと、欧米人の陽気な笑い声が、楽しい世界を演出した。千鳥足で「はしご」したのは、丸いマークのロゴを掲げたお店だった。オレンジ色を基調とした内装で、ハーレーのバイクが飾り置かれ、壁にはレトロなアメリカのカープレートが架けられていた。友人は、「ハードロックカフェもどきだ」と笑った。言われてみれば、確かにそのとおりだった。そこで、オニオンリングを肴に、エールビールを胃袋に流しこんだ。

アイリッシュシチューを求めて、店を探した夜もあった。
ダブリン城の近くに、少し高級そうなレストランを見つけた。まだ早い時間であったので、来店すると他に客がいなかった。奥から出てきたのは中年の男性。小指を立ててメニューのペンを走らせたり、せわしなく食器を置いたりする仕草は、まるでおどけるチャップリンのようであった。私たちはひそかに、「なんちゃって紳士」とあだ名した。なんちゃって紳士の所作は滑稽であったが、彼が運んでくれたアイリッシュシチューは、まこと絶品だった。日本のシチューに比べて、とろみがより強く、サイコロ形に切られた牛肉は臭みがなくて歯をそえるだけでかみ切れるほど柔らかかった。帰国後、同じ味を求めて、さまざまなアイリッシュ料理店を訪れたが、残念ながらいまだに出会えていない。

友人とはじめて顔を合わせたのは小学2年生の時。転校生として彼はやって来た。
たまたま家が近かったこともあり、よく一緒に下校したり、遊んだりした。中学をともにした後、彼は工業高校を経て就職。私は別の高校を卒業して大学へ進む。大学生の頃、社会人になった彼は気前よくおごってくれ、頼もしい先輩のように感じていたものだった。また、一緒にスキーへ行ったとき、積雪で困っている人を見かねて雪かきを手伝うという優しい心の持ち主だった。見返りを求めない献身的な姿は輝いて見えた。ちなみにその時の私は、車内で腕組みしながら、ずっとまぶたを閉じていたのだが‥。

そんな彼から、ダブリンにいた時に言われた、忘れられない一言がある。日中は、それぞれ単独行動をとっていた私たち。私がジョイスタワーへ向かう直前に言われた言葉だ。
「無事に帰ってきてな」
友人に対しては気恥ずかしさもあって、なかなか口にできない言葉である。私は、自分の行動する重みをはじめて自覚した。何か事故があった場合に、どう対処すればいいか、その大変さを物語っていた。逆の立場から私も同じことが言えたはずだが、特に深く考えることはなかった。言葉のろくに通じない異国では、散歩ひとつにも大きな責任を抱えているんだということを、彼の台詞は教えてくれたのだった。
そして、―これが一番大切なことなのだが―、彼の言葉には太陽のようにとても温かく、大きな優しさが込められているのだ。みんなその温もりに魅了され、惹きつけられているのだろう。

思いがけない一言をかけられて、その日はいつもより凛とした心持ちで部屋を出た。最寄の駅まで少し歩き、電車を待った。電車がやってきた。赤や青でカラフルに彩られた車両は、ロンドンで走っていたような背の低い列車だった。列車に乗り込み、一度乗換えしてSandycoveという小さな駅で降車した。

住宅街の真ん中にあった小さな駅は、「有名な観光スポットだから看板くらいあるだろう」という自らの予想を見事に裏切った。改札を通ると何の案内もなく右往左往してしまい、近くを歩く老婆に道を聞くことになってしまう。そして、彼女が指し示した方角を忠実に歩いた。コンクリートで固められた海沿いの道だった。途中、海水パンツ姿で海に浸かる老人を見た。海水浴にしては寒い気候であったので、日本でいう修験者の滝業みたいな類いの行為であろうか。

ジョイスタワーに着いた。レンガ積みされた円柱形の小さな建物だった。
らせん階段を上ると、最上階は屋外になっていた。そこには、重厚な大砲のレプリカが据えられてあった。海を見渡すと、まるでブルーシートを敷いたかのように穏やかな水面。海の向こうにはリバプールにあたるのであろうか、陸地を望むことができた。タワーを訪れる客はまばらで閑散としている。店員は時折、奇怪な東洋人に向かって、睥睨するような視線を送った。

アイルランドに行くにあたり、私はいくつかの書物に目を通していた。イメージとしてどんな国か捉えたかったために。
妖精の伝説を蒐集したイェイツの作品や、独立戦争に参加したオフェイロンが記した『アイルランド』、ケルト文化の本にも触れた。それに加えて、アイルランドが生んだ最大の巨匠、ジェイムス=ジョイスも食指を伸ばしたという訳だ。感想はというと、どの作品も難解でまったく頭に入ってこなかった。とりわけジョイスの作品。レトリックを駆使する文章は、何が何だか分からない。頭上にいくつも「?」マークが並んだ。しかし、この難解さがアイルランドの奥深さなんだと自分に暗示をかけ、自己満足に陥っていたところがあった。

ジョイスタワーでは、『ダブリナーズ』を記念に購入し、後にした。夕食時、友人に、海に浸かっている老人を目撃した話をした。しかし、作り話だといってまるで信じてもらえなかった。写真を撮っておけばよかったか。しかし、盗撮みたいで気がひけたと思う。果たして、あの湾には暖流の影響があったのだろうか。

出国が迫り、私たちは各々、プレゼントするおみやげを物色し始めた。オコンネル通り沿いの店や、スティーブンスグリーンのショッピングセンターで、大抵の物は買い揃えることができた。私は、ラベンダーのキャンドルやクローバーのビンズやキーホルダーなどを購入した。彼は、ガイドブックに載っていた王冠のリングを買っていた。指輪をするとき、王冠のつばを前に向けていれば恋人募集中、相手がいる人は逆向きにつけるのだそうだ。

いよいよ出発前日となり、友人が明朝のタクシーを予約してくれた。率先して動いてくれた彼に、感謝の言葉を伝えた。
ダブリン最後の夜には、またパブへ足を運んだ。本場のギネスも今日で最後かと考えると、一抹の感傷を覚えたが、次第に大きくなった酩酊感がそんな気持ちを吹き飛ばした。二人は今までの取るに足らない、他愛もない出来事を話し合い、笑い合った。ダブリンに暖流の影響はないということ、最初のホテルの寒さは尋常ではなかったこと、なんちゃって紳士のこと、海に浸かる老人は架空の話だということ等々‥。
ひとつ、彼が興味深いエピソードを披露してくれた。ひとりで彼が喫茶店に入り、注文を呼んだときのことだという。店員の女性が日本語を解せないことを逆手に、彼は卑猥な日本語を連呼したという。まったくあきれた話だが、その気持ちは全く分からないでもなかった。私たちが一時的に置かれていた世界とは、それほど隔絶されているように感じられていたのだ。

アッシュフィールドで最後の朝を迎えた。旅装を整え、ロビーで待機していたときのことだ。ひとりの中東人が私たちに声をかけてきた。ヘアワックスを貸してほしいと。友人が手渡すと、彼はその場を離れた。そしてどれほど待っただろうか、彼が現れ、笑顔でお礼を言い、去っていった。イスラエル人だという。あらためて友人がヘアワックスを開けると、彼のあまりの消費量に驚いたという。

タクシーが到着。たくさんの荷物と思い出を乗せて、車は走り出した。早朝ということもあり、私たちの口数は少なかった。

ダブリン空港が見えた。数日前に到着した際は濃い夕闇によってよく分からなかったが、あらためて全貌を目のあたりにすると、妙な実感が伴った。

空港カウンターで荷物を預け、チェックイン。手続きを誤った私たちは、機内で遠く別々の席にされてしまった。しかし、シートにはビデオやゲーム機が備えられている。それほど深刻には考えていなかった。友人の「33C」というシートナンバーだけを覚えて、私は自分の席に身を沈めた。3席並びの一番窓側の席だった。残りの2席には、中年の欧米人夫婦が席を埋めた。私はひとりになることで、今までの旅の思い出を振り返ろうと考えていた。出発の時刻が近づき、エンジンが動き始めた。乗務員が飛行前の仕事をひと通り終え、着席し、ベルトを閉めた。

突如、気分が悪くなった。吐き気をもよおした。
トイレに急行しようと試みたが、隣の男性に静止された。
不謹慎な考えが、頭に浮かぶ。
「我慢できなくなったら、彼に吐瀉物をかけてやろう。」
次第に意識が朦朧としてきた。薄れた意識のなか、このまま死んでしまうのではないかとも考えた。そして、ひとつの言葉が頭の中に浮かんだ。
〜サーティスリーシー〜。
友人のシートナンバーだ。何かあったら、この一言を叫び、彼に助けてもらおう。あるいは、分かる範囲の事情を、彼から関係者に伝達してもらおう。
「サーティスリーシー、サーティスリーシー、サーティスリーシー、サーティスリーシー‥」
私の意識は途切れた。

‥‥‥‥‥‥‥‥‥
どれくらいの時が流れたのだろう。私は目を覚ました。まだ飛行機の中だ。
隣では、夫婦が頭を寄せ合って静かに寝息を立てている。機体はすでに、ユーラシア大陸の半ばを越えているようだ。もう気分の悪さは消え、吐き気もない。気付かないうちに、旅の疲れがたまっていたのだろうか。詳しいことはよく分からない。

窓の外を見た。果てしない大きな陸地が、裾を広げている。
ふと頭に沸き上がってきた疑問。
―ダブリンで100種類以上の緑を感じられたか。あるいは、妖精の存在を意識したか―。
答えはいずれもノーだった。濃密な時間に支配されて、ダブリンは考える余裕を与えてくれなかった。かつては、あれほど夢見ていたのに‥。妖精レプラコーンは、七色に輝く虹のたもとに、大切な宝物を埋める習性があるという。次に訪れる機会があれば、その宝物を必ず掘り起こそう。
今度は決して忘れないように‥。

熱帯のマレー半島が手招きしている。
到着すれば、しばらく忘れていた汗を、大量に放出するだろう。
飛ばしてしまおう、ギネスをたっぷり含んだ水分を。
あのダブリンの遠い空に向かって―。

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