2014/03/01 - 2014/03/01
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ねんきん老人さん
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佐倉惣五郎という名前をご存じのことと思います。蛇足ながら付言すると、通称を佐倉宗吾といい、今も宗吾様と呼ばれている江戸時代の義民です。
姓は木内なのですが、佐倉藩の惣五郎ということで佐倉惣五郎と呼ばれたのでしょう。宗吾は後に贈られた法号です。
ときは4代将軍家綱の時代です。下総国(今の千葉県)印旛郡公津村(佐倉藩)の領民たちは、藩の苛政に苦しんでいました。折からの飢饉に加え容赦ない年貢の増徴でその日の食べ物にもこと欠く状況が続きましたが、取り立ては厳しくなる一方です。先祖伝来の田畑を手放す者が続出し、一家離散や餓死は日常のこととなりました。
塗炭の苦しみに耐えかねた村人たちは、もはやこれまでと一揆をはかります。
村の名主であった惣五郎は村人たちを押しとどめ、代わって窮状を藩に訴えましたが聞き入れられず、ついに単身での将軍直訴に走ります。
直訴は天下のご法度。死罪は免れません。それを承知で江戸に出た惣五郎は、上野寛永寺での参詣を終えて帰る途中の将軍家綱に走り寄り、訴状を差し出します。幸い訴えは取り上げられ、領民の年貢は減免されました。
とはいえ罪は罪、惣五郎は磔刑と決しました。もとより覚悟の上であり、さればこそ妻子と縁を切って連座を避けようとしてあったのですが、それは空しく、1男3女の子供たちも打ち首という残酷な沙汰が下され、公津ケ原刑場の露と消えたのです。
もちろんこの話には後世の脚色もあるでしょう。いくつかの異説もあります。
しかし、そんなことは私にはどうでもいいことで、私は子供の頃からこの話を信じ続けています。
その惣五郎を祀った東勝寺というお寺が千葉県成田市にあります。「宗吾霊堂」と言った方が通りがいいでしょう。
その境内の一角に、「宗吾御一代記館」という建物があり、惣五郎の事跡を60数体の等身大人形を使って再現しています。県内に住む私は何度も見学していますが、それでもその度に涙が出ます。
先日またお参りに行きましたので、ご紹介のつもりでその折り見聞したことを書いてみます。お読みくださって、一度行ってみようかなと思ってくださったら、こんなに嬉しいことはありません。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 自家用車
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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【 宗吾参道駅 】
3月1日、小雨の土曜日でした。車で行ったのですが、この記事を書くにあたって霊堂から駅までの道を徒歩で往復してみました。まずはその様子から書いてゆきます。
最寄の駅は京成電鉄宗吾参道駅です。ここから霊堂まではちょうど1km。写真を撮りながらゆっくり歩いて15分ほどでした。
霊堂の所在地は成田市ですが、駅は印旛郡酒々井町です。そして祀られている惣五郎は佐倉藩の名主で近くには佐倉市がある・・・。なんだかややこしいですね。
ちなみに駅からあとで述べる甚兵衛公園までの7kmほどの道は義民ロードと名付けられています。惣五郎を義民と慕う人々の気持ちからの命名ですが、あえて難癖をつけるならば、ロードなどというカタカナ語ではなく、「義民街道」とか「義民の道」とか日本語で呼んでもらいたいものだと思いました。宗吾参道駅 駅
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【 参道 】
駅からは緩やかな坂道を登ります。
自然石風のタイル(たぶん擬石だと思いますが、確認してありません)を敷き詰めた歩道。その歩道と車道の境には無粋なガードレールではなく、灯篭を思わせるボラードが並んでいて、風情があります。
そのせいでもないでしょうが、すれ違った40歳前後の男性が親しげな笑顔で挨拶をしてくれました。温かい気持ちにさせてもらったお礼にと思い、私もすれ違った若い女性に挨拶をしました。
白髪ジジイで警戒する必要もなかったのか、その人も笑顔で挨拶をしてくれました。 -
【 歩行者を守る小さな妖怪? 】
こういう洒落っ気、遊び心はいいですね。
でもこの動物、何でしょう? 実は聞いたのですが、わざと書きません。あまり似ていないし、むしろ空想上の動物としておいた方が面白いので。 -
【 宗吾霊堂 】
宗吾霊堂に着きました。
正式には鳴鐘山東勝寺という真言宗豊山派のお寺です。征夷大将軍坂上田村麻呂が建立したということですから1200年ぐらいの歴史を持つわけで、よく知られた成田山新勝寺よりも古いことになります。
というより、今回知ったのですが、新勝寺というのは「東勝寺より新しい」ということから付けられた寺名なのだそうです。
ちょっと物知りになりました。でも飲みながらいきなりそんなウンチクを傾けたら周りは白けるでしょうから、知ったかぶりはやめておきます。東勝寺(宗吾霊堂) 寺・神社・教会
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【 大山門 】
境内に入るとすぐ、阿吽の金剛力士を擁する大山門がそびえ立っています。
昭和53年に惣五郎刑死後325年を記念して建てられたもので、高さが14.653mあるとか。
居住まいを正して一礼してから入ってゆく人がいました。私もそれに倣います。 -
【 大本堂 】
山門からの直線上に総檜造りの本堂があります。入母屋造り総銅瓦葺きの屋根を写そうと思ってヘンな位置から撮りましたが、木や碑に遮られて壮大さが伝わらない写真になってしまいました。
さて、真言宗のお寺の本堂ですから、御本尊は大日如来だと思うでしょうが、ここでは惣五郎の霊がご本尊です。
もちろん以前は大日如来を祀っていたのでしょうが、惣五郎とその子供たちの遺体を埋葬し、のちに惣五郎が「宗吾」の法号を贈られてから「宗吾霊」がご本尊になったのだと思います。
それでは、以前の主役であった大日如来はどうなったのでしょうか。まさか追い出されたわけではないでしょうが、小心者の私にはそういう下世話な疑問を質す度胸がなく、いまだに分からないままです。 -
【 大本堂の扁額 】
大本堂の正面に御本尊を示す扁額が掲げられています。
揮毫は正二位侯爵徳川家達とあります。徳川家達という人のことは何も知りませんが、長野県の小諸城三の門にある「懐古園」という扁額にやはりこの名前が書かれていたのを覚えています。
なぜ知りもしない人の名前を覚えているかというと、そのとき私が「いえたつ」と読んだら、同行の人に「いえさと」と読むんだよと教えられ、顔から火が出るような思いをしたからです。
写真からは伝わりませんが、かなり大きなもので、額そのものに霊が宿っているような重みがあります。カメラを向けながら、ちょっとひるみました。
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【 宗吾御一代記館 】
大本堂の裏手に、お目当ての宗吾御一代記館があります。
ここには惣五郎が妻子ともども命を投げ出して村人たちを救ったいきさつが等身大の人形を使って再現されています。
各場面の説明はテープでも聴けますが、お願いすれば係りの方が案内かたがた直接説明してくれます。
それでは各場面を見てみましょう。ご自身でお出かけくださった方が臨場感もあって説明も分かりやすいと思いますので、ここでは詳しいことは省きます。
なお、佐倉惣五郎、木内惣五郎、宗吾という呼び方は時と立場によって使い分けるべきなのでしょうが、分かりにくくなりますので、この記事ではすべて「惣五郎」で通します。地元の方は「宗吾様」と呼んでいますので、呼び捨ては不敬と思われるかも知れませんが、決してそのようなつもりはありませんのでお許しください。 -
【 第1景 佐倉城内饗宴の場 】
佐倉藩主堀田正信は若年の上江戸勤めが多いため、実際の藩政は国家老池浦主計(いけうらかずえ)が実権を握り、諸税を増徴しては私腹を肥やし、贅沢三昧の日々を送っていました。
諸税と書きましたが、文字通り諸税で、何にでも片っ端から税を課したということです。
たとえば冥加金、年貢米、寺社税、人頭税、労働税、家屋税、営業税、出産入籍税、祝儀税、絹物税、牛馬税、天秤棒税、鋤鍬税、野菜税、味噌税、醤油税など、全部で29種の税があったそうです。
現在の日本も似たようなもので、たとえば年老いた親を温泉に連れて行く孝行息子は入湯税を払わなければいけませんね。親孝行をすると税金を取られるというのですから、日本という国もエライ国だと思います。
ちなみに、浴場などで「入浴料350円、入湯税150円」と書かれていたら500円を払えばいいのですが、浴場側がそういう表示をせずに一括して「500円」と書いていたら、500円に対して消費税がかかるのだそうですね。つまり入湯税を払ったことに対してまた税金を払う、つまり二重取りをされるということなのだそうです。「いやはや、おぬしも悪よのう」と言いたくなります。
また、支払いの悪い客がツケで物を買って、3万円以上溜まってから渋々払ったとすると、やっともらえた商店主は領収書に収入印紙を貼らなければいけませんね。いわば被害者が税金を取られるわけです。
そうそう、汗水たらして一日中働いた大工さんが夕飯のときにささやかな楽しみとして発泡酒を飲むとどうなるでしょうか。発泡酒には元々酒税が含まれているのだから消費税は取られないと思ったら大間違いで、酒税を含んだ総額に対して消費税を払わなくてはいけません。それは納税義務者が酒造業者で税負担者が消費者であるというあこぎなカラクリによるもので、これまた二重払いです。
いつの時代も「取る側」は「取りやすい弱者」から問答無用でむしり取るのです。
おっと! ついつい平素の不満が出て話が脱線してしまいました。次の場面に急ぎましょう。 -
【 第2景 農民の苦しい生活 】
藩のオエラガタがそうして遊興に耽っている一方で領民たちの生活は、3年越しの飢饉と過酷な重税のため困窮を極め、当時の記録には潰れた家380軒、夜逃げした者1730人、檀家を失って廃寺となった寺が11ケ寺とあるそうです。
ひと口に夜逃げと言いますが、家も田畑もない逃亡先でどうやって生きていくのでしょう。新しい戸籍がもらえる筈もありませんから、無宿人としてやくざになったり夜鷹になって身を売ったりしたのでしょうか。
私は歴史の陰で“ひと口で語られる”そうした人々のことがどうしても気になります。
たとえば戦(いくさ)で駆り出されて戦場に行った農民とその家族の動揺について、歴史は何も語っていませんが、その家族にとっては誰が天下を取るかなどということよりよほど重大なことだと思います。 -
【 第3景 将門山の説得 】
追い詰められた農民たちはついに一揆を企て、将門山に集まります。一揆となれば全員が死罪や永牢などに科せられるのは必至ですが、どのみち生きてゆくことは難しい状況で、行き詰まった末の行動です。
急を聞いて駆けつけた惣五郎は、いきり立つ群衆をなだめ、代表者を選んで藩に嘆願することを説き、からくもその場を収めました。
人望ある惣五郎なればこそできたことでしょう。 -
【 第4景 堀田家での門訴 】
その後佐倉領389ケ村の代表名主たちは領民の苦しみを代官所や藩の重役に訴え続けましたがことごとく退けられ、さらに総代頭惣五郎の田畑山林まで農民の年貢未納分として没収されるに及びます。
これ以上国許では如何ともしがたいと判断した名主たちは秘かに江戸に出て、堀田家上屋敷での門訴を決行します。しかし、これもまた却下され、万策尽きます。 -
【 第5景 代表名主密議の場 】
名主たちによる年貢減免の訴えが毫も叶わぬと思い知った惣五郎は、上野のとある旅籠に代表名主5人を集め、自分一人で将軍家に直訴するという決意を語ります。
天下のご法度を破っての直訴となれば死罪は必定。5人の名主たちは惣五郎一人を死なせるわけにはゆかぬと同行を申し出、6人連名の直訴状を書き上げます。(この直訴状の写しが館内に展示されています) -
【 第6景 老中への訴え 】
いかに死を覚悟の上とはいえ、将軍に直接訴えるということは幕府の逆鱗に触れて逆効果を生む恐れもあったでしょう。あるいは将軍家綱が11歳という若年であることも懸念の材料であったかも知れません。(家綱の年齢は16歳ともいわれますが、生年から計算すると11歳だったと思われます)
熟考の末、名主6人は一縷の望みを託し、英知の誉れ高い将軍家御用人久世大和守の登城を待ち受けて訴状を差し出します。これは駕籠訴といってかたく禁じられた行為で、厳罰が定められています。
幸い大和守の温情でこの駕籠訴はなかったことにされましたが、訴状そのものは、藩のことは藩に訴えよとつれなく却下されます。
当代随一の器量人とうたわれた大和守にまで突き放されては、もはやとるべき手段は直訴しかありません。 -
【 第7景 甚兵衛小屋 】
直訴の決意を固めた惣五郎は、妻子に塁が及ぶのを避けたいとの思いから、妻子との縁を切るため一旦村に帰ることにします。
我が家に帰るには吉高の地から舟で印旛沼を渡らなくてはなりません。そこには惣五郎に恩義を感じる甚兵衛という渡し守がいました。
しかし、久世大和守への駕籠訴を知らされ激怒した佐倉藩の役人たちが惣五郎を捕らえようと待ち構えており、夜は渡沼できぬよう舟を鎖で繋いであります。印旛沼 自然・景勝地
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【 第8景 義侠のなた 】
惣五郎から直訴の決意を告げられた甚兵衛は、鎖を鉈で断ち切り、舟を出します。
禁制を破る以上、自分が無事でいられないのは承知の上です。そのあと甚兵衛は自ら印旛沼に身を投げて果てたそうですから、その義侠心には只々頭が下がります。
今、この渡し場を人々は甚兵衛渡しと呼び、この場面は歌舞伎の見せ場として熱い人気を呼んでいるそうです。残念ながら私には歌舞伎の知識がありませんが、その場面は観てみたいものだと思います。 -
【 第9景 妻子決別 】
自宅に戻った惣五郎は子供たちに訳を話し、別れを告げます。
妻子が刑に処せられるのを避けるため惣五郎が秘かに用意した妻への離縁状と子への勘当状を見つけた妻きんは、離縁、勘当とはつれないこと、一緒に死なせてくださいと懇願し、離縁状を焼き捨てました。
ただその妻も、子供たちへの勘当状は焼かなかったということですから、「子供たちも一緒に」と言いながらも心の中では「せめて子供たちだけは助けたい」と思う母の迷いが察せられ、胸が詰まります。 -
【 第10景 雪の子別れ 】
別れを惜しむ子供たちを振り切り、断腸の思いで家をあとにする惣五郎の姿です。 -
【 第11景 宗吾の赤心 】
6人で行う手筈であった直訴ですが、将軍周辺の警護の厳しさから、大勢での行動は却って不首尾を招く恐れがあり、結局惣五郎一人での決行となります。
当日、上野寛永寺門前、三枚橋(三ノ橋)の下に身を潜めて待つ惣五郎。そこへ墓参を終えた将軍家綱が通りかかります。すかさず直訴状を差し出し民百姓の窮状を訴える惣五郎と、それに驚く家綱の姿です。
若年の家綱に代わって訴状を受け取った後見人保科正之のはからいで惣五郎の訴えは聞き入れられ、佐倉藩389ケ村の民は救われました。
将軍が通る場所に潜んでいられたというのは、当然寛永寺側の手引きがあってのことです。甚兵衛の件といい、こと成就の陰には身を挺しての協力者がいるということも忘れてはならないと思います。 -
【 第12景 悲しみの刑場 】
訴えが取り上げられたとはいえ、法度は法度。惣五郎は磔刑、子供4人は打ち首と決まり、公津ケ原刑場でその刑が執行されました。直訴から7か月余り後のことです。
このとき惣五郎42歳、長男彦七11歳、長女とく9歳、次女ホウ6歳、3女トチ3歳。
当時10歳未満の女子に死罪は適用しないのが慣例だったのですが、今回の件で面目を失った領主堀田正信は惣五郎を憎むあまり、3人の女子の名を男名に変えて処刑したということです。しかも惣五郎とその妻の目の前で子供たちの首を次々と撥ね、そのあとで惣五郎を槍で突いたということですから、残虐もここに極まる話です。
そのとき惣五郎は幼い子供たちに「このような仕儀で可哀そうな目に合わせてしまうが、すぐに父母もあとを追う。その後は極楽浄土に咲くという蓮の台(うてな)のその上で、仲良く暮らそうぞ」と声を掛けたということです。
恐怖におののく幼い我が子たちを励ます精一杯の言葉として、これ以上のものはないのではないでしょうか。
ちなみに佐倉藩に対する減税実施の命令はその20日後だったそうですが、7か月も経っており、既に減税措置は大筋において決まっていたのでしょうから、惣五郎父子の処刑をちょっとだけ延ばし、せめてことの成就を見届けさせてやれなかったものでしょうか。無慈悲の極みではありませんか。 -
【 第13景 供養の踊り 】
その後佐倉の人々は処刑の忌日に墓前に集まり、供養の御霊踊りを奉納して惣五郎の徳をたたえ、追慕する習わしを今日に続けているそうです。
これで人形による事跡の再現は終わります。
350年も前の話とはいえ、暖衣飽食に無為の毎日を送っている我が身とのあまりの違いに忸怩たる思いがします。 -
【 宗吾霊宝殿 】
惣五郎の偉さに感服するというよりも、誰の役にも立たずに馬齢を重ねている自分を恥じる気分に沈みながら御一代記館を出ると、右手に宗吾霊宝殿がありました。
惣五郎の遺品や関係文書などが展示されており、なかでも惣五郎実在の裏付けとなる名寄帳、過去帳は見逃せません。
惣五郎着用の袴や父子の位牌など、緊張しながら見て回りましたが、一つのガラスケースの中を見て驚きました。シドニーオリンピックのマラソンで金メダルを取った高橋尚子選手のサイン色紙があったのです。
高橋選手がここのお守りを持っていたとかいうことらしいのですが、厳粛な気持ちで見学していたのがいっぺんに俗っぽい世界に引き戻されたような気分で、がっかりしました。 -
【 歌舞伎上演の記念樹 】
惣五郎の話は歌舞伎でたびたび上演されているそうですが、その折り役者さんが宗吾霊堂を訪れて植樹をすることもあるようです。
中村勘三郎さん、中村勘九郎さん、松本幸四郎さんらの記念樹がありました。
勘三郎さんというのは第17代、勘九郎さんというのはのちの第18代勘三郎さんですね。襲名して先代と同じ名前になるというのは折角築いたアイデンティティを捨てるようで勿体ないし、第一分かりにくいと思うのですが、そういうことを書くと、だから教養のない奴はダメなんだ、と言われるでしょうから、これでやめておきます。 -
【 惣五郎父子の墓 】
父子処刑のあと、その遺骸は東勝寺住職澄祐和尚によって刑場跡に埋葬されました。その場所に今、惣五郎父子のお墓が建っています。
のちに東勝寺そのものがこの場所に移されたそうです。 -
【 身代わり地蔵尊 】
お地蔵様は現世で人々の厄災や苦しみを引き受けてくれるということですね。
このお地蔵様は惣五郎父子が人々の身代わりになってくれるという意味で建てられたものだそうです。水子供養の小さなお地蔵様が沢山奉納されていました。
私は青森の恐山でくるくる回るかざぐるまを見たとき、物悲しい中にもなにがなし穏やかな気持ちになりました。その後各地のお寺でかざぐるまが目にとまるようになり、意味を尋ねたところ、幼くして亡くなった子たちの霊を慰めるためだということでした。自分の無知を恥じましたが、子供さんを亡くした親御さんたちの気持ちが少し分かるようにもなりました。
親御さんの気持ちも、かざぐるまを回している風に乗って子供さんの所に届くといいですね。 -
【 ざっこ 】
参拝を終えて門を出ると、お土産屋さんが数件並んでいます。
さらに駐車場わきに「又兵衛」さんという川魚の佃煮屋さんがあります。
妻への土産・・・というより私のビールのつまみにざっこの佃煮を買いました。ざっことは雑魚のことで、2、3cmの魚の総称です。クチボソやタナゴが多いようですが、甘辛く煮てあって、なかなかオツな味です。
その晩のビールが1本増えたのは言うまでもありません。 -
【 甚兵衛渡し 】
霊堂から5kmほどの所にある水神の森は、甚兵衛の助けで吉高の渡しから舟に乗った惣五郎が着いた所です。今は見事な松林の下で、甚兵衛公園となっています。
今では吉高も干拓によって渡し場の姿は消えてしまいましたが、この水神の森はずっと甚兵衛渡しと呼ばれ、人々が甚兵衛の義侠を偲ぶよすがとなっています。
園内には、その甚兵衛の遺徳を顕彰する「甚兵衛翁の碑」があります。
これで今日のお参りは終わりですが、最後にもう1枚、追加させてください。 -
【 吉高の大桜 】
甚兵衛が舟の鎖を切った吉高の渡しの近くに「吉高の大桜」と呼ばれるヤマザクラがあります。宗吾霊堂から車で7、8分でしょうか。
樹齢300年を超える古木で、地元の天然記念物に指定されています。樹高10.6m、幹の周囲6.85m、枝張り最大25.8mということで、遠くからでも堂々たる風格が感じられますが、そばまで行くとその枝振りと花の見事さに圧倒されます。
なぜか花の見ごろが2、3日しかなく、それも風や雨に遭えばすぐに散ってしまうため、写真のような見事な状態を見るのはなかなか難しいところです。
写真は2009年の4月10日に撮ったもので、その年ではたぶんこの日が一番良い日だったのだろうと思います。
満開はソメイヨシノより1週間ほど遅いようです。インターネットで予想も見られますが、私が行ったときには、満開を狙って毎日来ているという人が何人かいました。そういうアナログ的なやり方には夢があっていいと思います。私自身も何回か行っていますが、この年のように当たったのは1回だけで、それだけに感激もひとしおでした。
宗吾霊堂にも桜が沢山ありますので、運が良ければ両方楽しめるかも知れません。
以上、長々と書き連ねましたが、これでも惣五郎の事跡は書き尽くせません。冒頭に述べたとおり史実を巡っては諸説あり、虚実の境も明確ではありません。
しかし私にとってそれはさほど重要なことではなく、名主総代として命を捨ててまで村人たちの窮状を救おうとした惣五郎の責任感、巻き添えにする子供たちへの思い、さらに死後蓮の台の上で一緒に暮らせるやも知れぬと子供たちに言い聞かせる親の心などを、ただただ忖度するだけです。
最後までお読みくださってありがとうございました。
もし一度行ってみようかなと思ってくださり、境内で白髪のチビ老人を見かけたら、それは多分私です。吉高の大桜 花見
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この旅行記へのコメント (4)
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- ふわっくまさん 2021/11/02 07:43:45
- 東勝寺・・
- ねんきんさん、おはようございます。
昨日書き込みをさせていただいたのですが消えてしまい、再訪問いたしました。
成田市で有名な新勝寺より古い、佐倉惣五郎氏を祀った東勝寺があるのですね。
村の名主で領民の年貢減免のため尽力されたことによって、自身が磔刑,4人の子供達まで打ち首になったそうで・・
何とも残酷なお話ですが我が身を犠牲にして、子どもまで断腸の思いで道連れにしてしまったことは深く脳裏に残りました。
京成電鉄・宗吾参道駅から、歩いて行けるのですね。
いつの日か機会がありましたら、訪れてみたいと思いました。
・・最後の1枚=吉高の大桜、満開の上に菜の花が色を添えて見事でしたね。
ふわっくま
- ねんきん老人さん からの返信 2021/11/02 09:53:35
- 長々と駄文を連ね、お時間をとらせてしまいました。
- ふわっくまさん、おはようございます。 古い旅行記にお目通しを頂き、その上書き込みまで、ありがとうございました。
書いたときは、惣五郎のことを知って頂きたいという気持ちだけでついついあれもこれもと書き込んでしまいましたが、今にして思うと、くどくどと長い話になり、読んでくださった方にとっては疲れるだけで終わってしまったと後悔しております。
それでもふわっくまさんが、機会があったら訪れてみたいと仰ってくださったことで、救われた気持ちになったことも事実です。
桜の時期は短いので、なかなかベストの日に当たるということは難しいと思いますが、それを外したとしても、逆に人が少ないのでゆっくりお参りができるという利点もあります。
惣五郎に対する自分の思い入れを押し付けるようで申し訳ありませんが、ふわっくまさんが書き込みと投票をしてくださったことに甘えて、余計なことを書いてしまいました。 お許しください。
ねんきん老人
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- とんちゃん健康一番さん 2014/03/27 09:53:15
- お邪魔します。
- ねんきん老人さんさんへ。
千葉方面にあまり行く事がないのですが、
ねんきん老人さんさんの旅行記の内容が
とても丁寧に記載されていらっしゃるので、
足を運びたくなりました。
また、ゆっくりお邪魔させて頂きます。
とんちゃん健康一番より
- ねんきん老人さん からの返信 2014/03/27 10:43:33
- 恥じ入るばかりです。
- とんちゃん健康一番さんへ
主観ばかり書き連ねた独善的な記事にわざわざ書き込みをしていただき、恐縮しています。ありがとうございました。
「とんちゃん健康一番」という意表をついたニックネームが気になってブログを覗いてびっくり。桁外れの旅行体験をおもちで、しかも並外れた行動力で余人をはるかにしのぐ見聞をされていることに羨望と敬意を抱いています。
また旅行記の文章がユーモラスで、私は行ってもいないのに「そうそう!」と共感しています。
これからもエネルギッシュな旅行を沢山なさって、私たちにその体験を分けてくださるよう期待しています。
ねんきん老人
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