2014/02/22 - 2014/02/23
196位(同エリア620件中)
玄白さん
いつもの社会人卓球サークルの仲間たちとの恒例の温泉一泊旅行。今回の行き先は冬の新潟県、長岡周辺です。温泉は地元の人達が集う日帰り温泉のはしごをして、宿泊はビジネスホテルという、いつものスタイル。
どこの温泉に行くかは現地に向かう車の中で決めるという、いつにもまして大雑把な計画です。
結局、初日は弥彦山の麓にある岩室温泉へ行き、「魚のアメ横」と言われる寺泊の魚市場通りで冬の日本海の海鮮料理を食べ、2日目は、長岡出身の歴史上の人物「山本五十六」と「河井継之助」の記念館を訪れ、しばし歴史に想いをはせた後、長岡のどこかの日帰り温泉に浸かって戻るという粗雑な計画となりました。
ところが、そんなラフな計画すら、先週の大雪の影響による関越自動車道の大渋滞で予定が狂い、魚のアメ横で海鮮料理を食べそこなうというアクシデント発生! それでも楽しい仲間たちとの冬の新潟日帰り温泉一泊旅行でした。
- 旅行の満足度
- 4.0
- 同行者
- 友人
- 交通手段
- 自家用車
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朝6時半に宇都宮を出発し、北関東道、関越自動車道にて長岡に向かいます。
途中、北関東道駒形ICあたりから渋滞発生。いつまで経っても渋滞解消せず、結局赤城高原SAまで、4時間のノロノロ運転!
原因は、先の大雪で赤城高原付近の除雪が追いつかず、片側一車線の規制が原因でした。自分も含めて、同行の5人誰一人として事前の交通情報を確認するという気が利いたヤツはいません。
新潟県に入る前に昼食時となり、赤城高原SAで、日本3大うどんと言われる水沢うどんを食すことと相成りました。
3大うどんというと、「讃岐」、「稲庭」は、大方の異論はないところですが、3番手は群馬の「水沢うどん」、長崎の「五島うどん」、名古屋の「きしめん」、富山の「氷見うどん」のいずれか、諸説ふんぷんです。
3大うどんに列せられるか否か別にして、なかなか腰がある美味なうどんでした。 -
弥彦山の近くの岩室温泉のはずれにある「多宝温泉だいろの湯」に午後2時ごろ、到着。渋滞で疲れた体を癒します。
温泉施設の敷地内に3本の源泉が湧いています。
ちなみに「だいろ」というのは、新潟の方言でカタツムリのことで、中越地方に伝わるカタツムリを主人公にした民話から名付けたようです。
参考:だいろの民話
むかしむかし、子供がいない老夫婦がカタツムリを子供として授かった。そのカタツムリが成長して人間の娘を娶ったあと、人間の若者に変身し、4人で幸せに暮らしたというような内容らしい -
大勢の入浴客が訪れ、駐車場はほぼ満杯です。圧倒的に地元の車が多いので、地元では名湯として評価されているのでしょう。
施設の後ろの山が多宝山。
入浴料はタオルセットで800円、ボディソープ、シャンプー完備です。
ジェットバス付き内風呂と2つのひろびろとした露天風呂があり、それぞれ異なる源泉のお湯が使われています。いずれも泉質は含硫黄ナトリウム塩化物泉で、無色透明だが、ほのかに硫黄のにおいがします。源泉掛け流しです。 -
大勢の入浴客がいるので写真撮影はできません。館内に掲げられた温泉の写真パネルを撮影。
これは内風呂。2号源泉使用。2号源泉は低温なので、湯温が高い1号源泉と熱交換して適温にしているという説明書きが掲げられていました。 -
1号源泉の露天風呂。50畳の広さの方形の湯舟で、屋根付きです。
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3号源泉使用の露天岩風呂。3つの中では一番ぬるく、じっくりと浸かっていられます。打たせ湯の設備がありましたが、残念ながら湯は止められていました。
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温泉の後は、寺泊の魚市場通り、通称「魚のアメ横」へ。
何もない田舎の国道402号線沿い、寺泊港に近いところに10軒ほどの魚屋が忽然と姿を現します。
通りの反対側には広大な無料駐車場があり、観光シーズンにはマイカーや観光バスでいっぱいになるそうです。 -
南の端の鮮魚店「寺泊中央水産」
カニ、特に大量の紅ズワイガニや鮭がたくさん並んでいる店です。 -
店先には紅ズワイガニがたくさん並べられています。
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ズワイガニより味は1ランク劣ると言われる紅ズワイガニだが、寺泊では紅ズワイガニの水揚げの方が多いようです。
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通り沿いには、こんな金ぴかの観音像があります。
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うまそうな寒ブリ。目が透き通っていて、鮮度は良さそう。
一本¥6,000也 -
巨大な真だこ。寺泊港で朝、水揚げされたそうです。
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イカ、エビ、ホタテ、ハマグリなどの浜焼きが、寺泊「魚のアメ横」のウリです。昼食はうどんで済ませてしまったので、ヘビーな海鮮料理は食べられませんが・・・
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ハマグリの浜焼きを一本買い求め、かぶりつきます。
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ハタハタやワカサギといった雑魚は「魚のアメ横」と言われるだけあって安い!
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大型の鮮魚類は、そんなに安くはありません。
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新潟と言えば村上市の鮭が有名ですが、寺泊の店先に出回るほどの量は採れないのだそうです。北海道産?それとも輸入品?
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イチオシ
浜焼き一本食しただけで、魚のアメ横を後にして、今宵の宿「ルートイン長岡駅前」に向かいます。
途中、寺泊港を過ぎたあたりで見た冬の日本海。浜に引き上げられた小型漁船のシルエットが良いアクセントになっています。 -
水平線上にうっすら見える島影は佐渡島。
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ホテルにチェックインしたあとは、お決まりのパターンで近くの居酒屋へ繰り出します。撮影するほどではないので、写真はなし。
2時間ほど、飲んだり食べたりしたあと、酔い覚ましを兼ねて夜の街を散策。
長岡といえば夏の花火大会が夙に有名だが、逆にいえばそれ以外にはさしたる観光ポイントはなさそうです。
長岡駅前に、3尺玉花火の打ち上げ筒が展示されています。 -
アオーレ長岡
長岡は長岡藩の城下町で、長岡駅があるあたりが本丸、駅前にあるシティホールプラザ「アオーレ長岡」が建っているところが二の丸なのですが、全く城跡を感じさせるものは残っていません。北越戊辰戦争、太平洋戦争という2度の戦災、新潟地震、中越地震など度重なる災害で町は破壊され、そのたびに復興してきた町なので、古い史跡がないのもやむを得ません。
アオーレ長岡というのは、市役所、市議会、屋根付きイベントホール、アリーナが一体となった、現在の長岡市のシンボルとなっている複合施設です。
特段、夜景がきれいというわけでもなく、面白い撮影対象も見当たらないので早々に宿に引き上げ、オリンピック観戦です。 -
翌朝は9時半にチェックアウトし、山本五十六記念館に向かいます。記念館は10時オープン、入場料は¥500也。館内は写真撮影不可なので写真は無し。
山本五十六について
周智の如く、太平洋戦争当時の海軍連合艦隊司令官で、真珠湾攻撃の立案、指揮にあたり、昭和18年4月、ニューギニア・ブーゲンビル島上空でアメリカ軍機に撃墜されて戦死。山本五十六が乗っていた一式陸攻機の主翼の一部が、この記念館の展示の目玉になっている。
明治期(青年時代)は少尉候補生として日露戦争日本海海戦に参加し、左手、右足に重傷を負った。その後、海軍に籍をおいたままハーバード大学に留学し、アメリカの圧倒的な国力を目の当たりにした。さらに、ロンドン軍縮会議など外交面での活動を通じて、世界の中の日本を客観的・合理的に見る目が養われていった。政府、軍部(特に陸軍)の井の中の蛙的な政略・戦略、特に対米英強硬論、日独伊三国同盟に反対した。そのため、陸軍や海軍内の戦争推進派から疎まれ、右翼による暗殺の危険があったにも関わらず、戦争回避を説き続けた。三国同盟締結に際して五十六が言った有名なセリフがある。「陸軍との争いを避けたいから同盟を結んだというが、内乱では国は滅びない。戦争では国が滅びる。内乱を避けるために、戦争に賭けるとは、主客転倒もはなはだしい。」
しかし、所詮は軍の現場指揮官で国政の中枢に身を置いていたわけではなく、日本は無謀な戦争の道に突き進んでいくことになってしまった。五十六は、なお、アメリカには絶対勝てないという信念から、開戦しても初動で総力をあげて米軍をたたき、早期に講和に持ち込むという政略をもとに、真珠湾奇襲作戦を立案したのである。 -
記念館から200mほど離れたところに山本五十六記念公園という小さな公園があり、五十六の生家が復元されています。
山本五十六について(続き)
五十六は明治17年に旧長岡藩士、高野貞吉の六男として生まれた。生まれた時の父親の年齢が56歳だったので五十六と命名したという説がある。
海軍大学校在学中に、旧長岡藩家老の家柄の山本家に養子に入り、山本五十六となった。
早くから、これからの近代戦は戦艦を中心とした大鑑巨砲主義は時代遅れとなり、空母を中心とした航空戦力が主力になっていくと予測し、海軍も航空機の充実をはかるべきと説いていた。その後の戦史を見れば、五十六の予言通りとなり、その先見性はすばらしいものと認めざるを得ない。しかし、航空戦力の維持・発展には膨大な補給能力、高度の科学技術開発、パイロットや整備技術者など高等教育を受けた人材の継続的供給が必要であり、石油供給を止められていた当時の日本の国力に照らせば、非現実的な政策という見方もできるのではないか。 -
生家の居間に掲げられている「常在戦場」の扁額。
「常在戦場」とは文字通り、常に戦場にいるつもりで、真剣に事に当たれという意味で、旧長岡藩の藩訓です。山本五十六も河井継之助も、この言葉を座右の銘にしていたようです。
藩主牧野氏は先祖は戦国時代、三河の国牛久保が拠点で、西の織田氏、東の今川氏、北の武田氏に圧迫され、常に緊張感を持たざるをえない状況にあって、このような家風になったということらしい。牧野家の家訓「参州牛久保之壁書」の冒頭の言葉が「常在戦場」なのです。 -
部屋の中に、部屋の大きさには不釣合いなほど巨大な山本五十六の石膏像が置かれていました。生家の外の公園に置かれている五十六の銅像の石膏型なのでしょうか?
山本五十六について(続き)
山本五十六は現代でも受け継がれている名言がいくつかある。代表的な名言として
(1)やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かじ。
話し合い、耳を傾け、承認し、任せてやらねば、人は育たず。
やっている、姿を感謝で見守って、信頼せねば、人は実らず。
(2)苦しいこともあるだろう。 云い度いこともあるだろう。 不満なこともあるだろう。 腹の立つこともあるだろう。 泣き度いこともあるだろう。
これらをじつとこらえてゆくのが男の修行である。
ただし、(1)は山本五十六のオリジナルではなく、上杉鷹山の言葉「してみせて 言って聞かせて させてみる」の影響を受けているらしい -
記念公園の中に山本五十六の銅像が建てられています。
山本五十六について(続き)
五十六は戦死した部下の名前をすべて手帳に書き記し、遺族には自筆の手紙を出し、場合によっては墓参もしていた。情が厚く、公私の区別をきっちりつける潔白な人物だったようだが、人の好き嫌いが激しく、公務の中でもその傾向があったという評価もある。また、無類のギャンブル好きは有名で、記念館には愛用のトランプが展示されていた。
真珠湾攻撃では大成功を収めたが、その後のミッドウェー海戦では惨敗しており、実戦指揮能力には疑問符が付くという評価もある。
戦争回避を主張しつつも、華々しい真珠湾攻撃成功と米軍機による攻撃での悲劇的な戦死、語り継がれる名言、情に厚い人物像から、話題性があり、必要以上に美化されすぎているというのが、玄白の山本五十六評価。
もうひとつの五十六の名言、「人は神ではない。誤りをするというところに、人間味がある。」が五十六の人物評として最適の言葉かもしれない。 -
次に向かったのは、河井継之助記念館。山本五十六記念館から歩いて5分ほどのところにあります。
河井継之助というのは、幕末の長岡藩牧野家の家臣で、北越戊辰戦争で官軍と戦い、八十里峠を越えて会津に向かう途中で戦闘の怪我による破傷風でなくなったという人物。
幕末の歴史人物というと、坂本竜馬、西郷隆盛、桂小五郎、高杉晋作、勝海舟、近藤勇、土方歳三など、著名な人物が多数いるなかで、河井継之助の知名度は圧倒的に低いのは否めません。 -
入館料は¥200、ボランティアの解説付きです。ここも撮影不可が原則らしいのですが、カメラを首からぶら下げていたら、解説のボランティアの方が写真撮っていいですよと言ってくれたので、撮影させてもらいました。
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河井継之助の等身大の銅像。
河井継之助について
石高120石の長岡藩牧野家の家臣。青年期は、江戸に出て佐久間象山の塾に出入りして砲術を学んだりしたが、教養のベースは儒学だった。 -
河井継之助について(続き)
江戸から、さらに西国備中松山藩まで出かけて、農民出身の山田方谷という人物から「経世済民の学」、現代風に言えば政治学、経済学、社会思想などを広範に含む実学を学んでいる。
そのとき、河井継之助がたどった足跡が地図で示されています。
余談だが、福沢諭吉がeconomyの和訳として経世済民から経済という言葉を発案しました。 -
藩主牧野忠恭の謁見の図。謁見の間の市松模様が、シティプラザ「アオーレ長岡」の建築デザインのモチーフになっています。
河井継之助について(続き)
37歳になった継之助は、慶応元年、郡奉行に就任し藩政改革を断行。改革の目玉は、家禄の平準化による門閥の公平化、従来の槍・刀による古色蒼然とした軍装備を西洋式の銃剣による装備へと変える兵制の改革、遊郭の禁止による風紀粛正の3点。継之助自身、遊郭通いをよくしていたらしいが、それを禁止したため、「かわいかわい(河井)と今朝まで思い 今は愛想もつきのすけ(継之助)」と揶揄されたそうだ -
河井継之助について(続き)
慶応3年、15代将軍徳川慶喜が大政奉還、翌年、鳥羽伏見の戦いで徳川軍敗退したことを受けて、継之助は江戸長岡藩邸を処分し、その金でアームストロング砲、ガトリンク砲2門、ソノフィールド銃など最新式銃2000丁を買い入れ、長岡藩の軍備を増強した。
写真は、ガトリンク砲の複製。この砲は当時3台しか日本にはなく、そのうち2台を継之助が手に入れた。現在の貨幣価値にして一台3億円だったそうです。一分間に200発の銃弾を発射できる当時の最新式の機関銃でした。 -
河井継之助について(続き)
長岡藩は官軍に恭順すべしという意見と長岡藩家老となっていた河井の意見が割れていた。河井の考えは、徳川とも官軍とも組せず、独立中立を目指すという、当時どの藩も考えたこともない斬新な発想で戊辰戦争に巻き込まれるのを防ごうとした。
河井は小千谷峠に迫っていた官軍本陣に乗り込み、長岡藩の中立を官軍に認めさせようと談判に及んだ。世に言う小千谷談判である。官軍の交渉相手は、岩村精一郎という若い土佐藩士で河井の意図を理解できず30分で交渉決裂。長岡藩は2日後に会津を中心とした奥州列藩同盟に加わり、北越戦争へ突入。
小千谷談判の会場となった慈眼寺の部屋の写真がパネル展示されています。 -
河井継之助について(続き)
河井が準備した最新式兵器の威力もあり、当初は官軍と互角の戦いをしていたが、物量・兵力に勝る官軍には勝てるわけもなく、敗走。会津へ逃れる途中、塩沢村(現在の只見町)で戦闘で負った傷の悪化で亡くなる。従卒に自分の火葬の準備をさせ、燃え上がる炎を見ながら落命したという。
河井継之助の人物評価は真っ二つに分かれている。稀代の名家老・名戦略家、官軍の侵攻をさんざん悩ませた武将、長岡の英雄という高い評価がある一方で、長岡藩の藩論を主戦に傾けて長岡を泥沼の北越戦争に導いた、意味のない戦争を引き起こして長岡を焦土にした悪雄とする見方もある。この記念館が作られたのがわずか8年前であることも、長岡市民がこぞって河井を英雄視していないことを反映しているように思える。
河井継之助の名が知られるようになったのは、司馬遼太郎のベストセラー歴史小説「峠」によるところが大きい。記念館でも、この小説のことを説明するパネルと小説「峠」の原稿が展示されている。
小説では、継之助は近代的合理主義を持ち、時代を見据える先見性と実行力を有しながらも、「藩」や「武士」という束縛から逃れられず、最後には武士であり、長岡藩の家臣として、官軍に対抗する道を選んだ悲劇の英雄として描かれている。しかし、玄白の意見としては、いささか継之助を美化しすぎているように思う。
余談だが、坂本竜馬が薩長同盟を実現したり、船中八策で新しい国家構想を描いたりした幕末の稀代の英雄として多くの竜馬ファンがいるが、これも司馬遼太郎の長編小説「竜馬がゆく」の影響が大きい。しかし、実際には薩長同盟の影の立役者は薩摩藩家老の小松帯刀であり、竜馬は薩摩藩に利用されていたにすぎない。玄白も司馬遼太郎の小説は好きでよく読んだが、小説と歴史的事実は違うことは肝に銘じておかなければならないと思っている。 -
戦争は回避すべきと思いつつ、不本意ながら戦かわざるを得ない状況に追い込まれ戦死するという、よく似た立場の長岡出身の2人の人物の記念館を訪れ、しばし歴史に想いをはせたあとは昼食です。
新潟県にきたからには、やっぱり旅行の締めは、へぎそばでしょう。へぎそばの老舗「小嶋屋本店」に入ります。 -
へぎそばは、もともとは魚沼地方のそばで、つなぎに布海苔という海草を使ったそばで、ほんのり緑色をしています。コシが強く冷麺のような歯ざわりのそばです。へぎ(片木)という木製の四角い器で供されるので、へぎそばと言われています。
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へぎそばランチの後は、長岡市の北のはずれにある桂温泉という日帰り温泉です。
入浴料は¥500 湯上りにくつろげる広間を使うには別途500円が必要、食堂はなく、食べ物持込自由、湯舟は温めの大きな内風呂と熱めの小さな内風呂と二つあります。露天風呂もあるが、冬は閉鎖されています。
小さな温泉施設で、地元の人達の風呂付き公民館といった風情です。ただ、温泉は非加熱、非加水の源泉掛け流しで、単純アルカリ泉ということなのだが、黄色味がかった硫黄のにおいがほのかに香るとても良い温泉でした。 -
イチオシ
日曜日なので、また関越道が渋滞している恐れがあり、若干遠回りにはなるが磐越道・東北道経由で帰ります。
真冬なので、いたるところ白銀の雪景色かと思いきや、日本海沿岸や長岡市内は、あまり雪は多くはありませんでした。帰る途中、燕市付近で、ようやく新潟らしい見渡すかぎり白一色の広大な越後平野の風景に出会えたので、車窓から1枚撮影して、今回の日帰り温泉一泊旅行を終えました。
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