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ルンビニからカピラヴァストゥ―へー10月4日(金)<br /> 私たちの車は「佛跡巡拜ツアー・・・pilgrimage tour」として一日の貸切にしたために、運転手兼ガイドは、張り切っていろいろな聖地に案内してくれる事となった。最初に訪れたのはルンビニ公園のすぐ北にある「日本山妙法寺」の世界平和パゴダであった。しかしここはこちらが要望しておいた場所でないし、他にたくさん回る場所があるからという事で、その参拝は辞退して、直ちにルンビニ公園の参拝をお願いした。実はその日本寺の近くに入場券の販売所があり、最近になって、ルンビニの土産物店はここに集められたのである。私たちは運転手とマヤさんの案内で六人分の入場券を求め、再び車に乗り込んで南側にある正面入り口から参拝した。参道はかなり長く、しかも途中から真ん中に水路のような池のある道を進んで受付口前の参道を進んだ。参道には赤く咲くホウオウ木や黄色に咲くセーレーナという花が恰も供華のように咲き乱れている。<br />                    <br /> 私が初めてルンビニをお参りしたのは5年ほど以前だった。その時はこの参道を輪タクに乗せられて進むと、「ナンミョウホーレンゲキョ―」と声を張り上げた二人の少年が追いかけてきて、小遣いを要求したのを覚えている。輪タクを降りてチップを渡し、少し歩くと、そこは土産物の屋台がたくさんあったが、今はホウオウ木の林となっていた。手入れをしている小父さんに、「この花は何の花か?」と質問すると「Delonix regia」という返事が返ってきた。間違いなくホウオウボクである。集札所で入園券を提示する前に、下駄箱に履物を脱いで収め、裸足になって参拝することになっている。先ず初めにお参りするのは白亜の建造物。かなり大きな建物であるが、これがマヤ寺である。以前はマヤ堂という小さなお堂が立っていたが、今はこの巨大な建造物に代わり、ここがブツダ世尊誕生の聖堂というより、「ブツダ誕生聖跡博物館」と呼んだ方が適当かもしれない。初めての訪問時には全体が茶色に塗られていたが、現在は白亜のヴィハーラ=寺院となっていた。<br /> 雰囲気は博物館であっても、裸足で参拝する事、必ず時計回りに進むことなどは、全くヴィハーラやチャイティア=制多堂chaitya(祠堂)をお参りするのと変わらない。違うのは礼拝の対象が「ブツダ誕生標石=マーカー・ストーン」であったり、菩薩誕生彫刻であるが、それらに香華を手向ける香炉や花器がないこと。賽銭箱がないことである。会話等の発声が禁じられたこの場所では、さすがに読経はできない。一回りして南口の潜り戸を出るとそこにはレンガ積みのプールが見える。これが菩薩誕生の直前に摩耶夫人が沐浴をしたプスカリニ池である。嘗ては地中にうずもれていたが、現在では確実に発掘し、補修されている。池のほとりを時計回りに進むと、池の南側・・・つまりマヤ寺と反対側に大きな菩提樹があり、根元の洞に小さな彫像があり、参詣者が頻りと焼香、礼拝している。またその近くにはネパール人比丘がいて、参詣者の世話を焼いていた。菩提樹にはチベット仏教のタルチョー(経文を刻んだ万国旗のような小旗)が四方に張り巡らされている。私もその祠堂に香を手向け一礼した後に、今度は祠堂を参拝する人の邪魔にならない場所に移り、池を隔てたマヤ寺に向かい献香礼拝し、読経をし、「釈尊花まつり御和讃」をお唱えした。この時、スワヤンブナートで求めた小さな真鍮の鈴がリズム取りをしてくれた。私たちが礼拝、読経し、御和讃を唱えていると、いつの間にかべビーカーに乳児を載せた日本人夫婦がやってきて、ことにその若い母親が熱心に私たちのすることを一所懸命に真似ていた。外交官か商社の駐在員夫人でもあったろうか。詳しくは質問しなかった。<br /> 読経が終われば、次はマヤ寺西に立つアショーカ王石柱に行き、ここで記念撮影をした。マヤ寺の参拝を済ませ、集札所を出ると次に私たちはネパール寺へと歩いた。集札所から西に徒歩で五分ほどの所にある。実はここに以前お参りした時に、菩薩誕生石像の精密な模刻=レプリカがあったことを覚えていたからである。ところが以前安置してあったその像は既にどこかへ出張してしまっている。そこでネパール寺の若い比丘にそれを質問すると、彼は「その石像のことは知らない」と答えた。仕方ないので、一応お参りを済ませ、車へ戻る道すがら、ガイドのマヤさんが、遠慮がちに告げた。「実はあの菩薩誕生石像は現在、日本寺にあります。その理由は5年ほど前の王制廃止のころ、政府の役人が日本寺へ密かに売り渡してしまったからです。」というとんでもない事実を聞いてしまった。私はそれが日本寺にある事を情報として知っていたが、「もしかするとネパール寺にも別な模刻像があるのではないかという、ささやかな希望は完全に砕かれてしまった。<br />     <br />ティラウラコット周辺の仏教遺跡の参拝<br /> ルンビニを出た私たちは次に往時のカピラヴァストゥへと向かった。ルンビニから西へ約20キロm、車で30分ほど進むと、タウリハワの町に至ることができる。ここからは正にブツダ世尊の故郷である。ただし、この地を重点的に隈なく巡拜しようという試みは今回が初めてである。先ず訪れたのはタウリハワ町の南郊外にあるクダン遺跡である。昨年2月下旬、ここを訪れたのは「怪我の巧妙」のようなものだった。当初、ルンビニからティラウラコットへ直行する予定だったが、その時のガイドと運転手の勘違いでここに来てしまったのである。ただし、その時は車の中から見学しただけだった。<br />  <br /> 今回はゆっくりと散策したい意思もあったが、ここに残されている遺跡や伝承が、いま一つ明確でないので、再び車上からの見学となった。ところがここを敬遠して次の「ゴウティハワ遺跡」に行くためには、このクダン遺跡の南から西に延びる田舎道を利用しなければならない。そのために私たちは車上からこの遺跡を半周して観察することになった。この遺跡はちょうど日本の鎮守の森のような所であり、池やストゥーパ、祠などが見られた。細い砂利道を進むと道はやがて農業用水の小さな橋を渡った。その橋の手前で住民から停車を求められた。そこで運転手とマヤさんはその住民に小銭を手渡した。マヤさんは「プージャがあるので少し布施をして欲しい」と言われたのだそうだ。つまり村祭りのために協力したわけだ。プージャとはインドの言葉で「供養」を意味する言葉だから、私たちは「ゴーティハワ遺跡」参拝の前にささやかな供養をしたことになる。この用水は「バンガンガ用水」と言うらしい。数軒の民家は実に粗末な作りであるが、集落には小学校もあった。砂利道をさらに進むと、左手に鉄条網の柵がしてある広場があった。ここがどうやら私たちの目的地らしい。<br />   <br />ゴウティハワ遺跡のアショーカ王石柱 <br /> 私たちが用意した案内書には以下のように記されていた。                     <br />●クダン遺跡 :ティラウラコットの南4.5キロに配置シます。これは、構造的な巨大な塚遺跡で、池の近くには仏塔や僧院の遺跡が見られます。そこは仏弟子が着用する袈裟Kasayaをブッダ世尊が叔母で継母の摩訶波闍波提から初めて供養された場所としての袈裟塔であると考えられています。またここは正覚を成じた佛世尊が郷里に戻った後、初めて父王スッドーダナに再会した場所です。 <br />●ゴーティハワ:ここはタウリハワの南西約3キロの周囲に位置します。これは仏教徒国際社会のための重要な宗教的地域で、さらに、歴史的にも考古学的にも重要です。ここはまた、釈尊の前に出現したクラクッチャンダ【拘留孫仏】誕生の地であり、さらにここで涅槃に入られたと信じられています。仏塔や僧院のレンガ構造は現代のゴーティハワ村の外の地区で見ることができます。主となる塚の中心に折れ残ったアショ-カ王石柱が石板の上にあります。北東側の柱に隣接する拘留孫仏涅槃の仏塔を確認することができ、くさび形の古代煉瓦のリングを持つ巨大なものです。村はまだその中心部に古代の井戸を使用しています。この地区は紀元前6世紀に開発されたと考えられています。<br />それにしても途中に簡単な道路標示が二か所あっただけで、ガイドがいなければ通り過ぎてしまいそうな場所だった。私たちは狹い潜り戸を通り、広場へ出た。小さな池があり、その傍らに折れた石柱があった。これがアショーカ王石柱なのだった。私たちはここで焼香礼拝し、読経をした。広場は草が茂り、民家のヤギがそれを頻りに食べている。子供たちもさりげなく遊んでいる。ここはルンビニとともに世界遺産に登録されている遺跡ではないようである。それにしてもここを訪れる人は極めてまれなようだった。ただここに来てしみじみと考えさせられたのは、紀元前5〜6世紀の頃に、この周辺の人たちは仏陀が世に出現し、また涅槃を得るという事を切実に願っていたことがよく理解できるという事だった。拘留孫仏、拘那含牟尼佛そして釈迦牟尼仏の三佛がシャカ族の故郷である事を素直に実感したことであった。<br /> 30分ほど滞在し、ティラウラコットへと移動。ここから用水沿いに直進することは可能だが、砂利道を避けるため、再びクダン遺跡まで戻り、舗装道路を北上した。タウリハワの町を抜け田園地帯となったが、何となく2500年以前、釈尊当時の風景もそれほど変わらなかったのではないかと、勝手な想像をめぐらしながら進んだ。ここは三回目の訪問であるが、昨年春の訪問はあまり時間がなかったので西門の所から眺めるだけで他に移動してしまった。今回は初回の時と同じように十分な時間があるので心置きなく散策した。<br /> ここが往時のカピラヴァストゥであるのはほぼ間違いないようだが、現在の遺跡は釈尊当時のものより少し後世の物であり、佛在世の遺構はさらに深い部分にあるというのが学者の見解である。右の写真はシッダルタ太子が王城を後にして出家した東門と伝えられる場所であるが、数年以前の地震で倒壊したという。<br />   <br />ティラウラコット遺跡のグーグル画像   釈尊の両親のストゥーパとも言われる「双子塔」<br /> 一通りの見学を終えた後、釈尊の両親のストゥーパとも言われるダンミハワ村の「双子塔」を訪れたいと思っているうちに、そこには寄らず、私たちはいつの間にか車に乗って次の訪問地二グリハワに向かっていた。  <br />ティラウラコットから二グリハワに行くには一旦、タウリハワ方面に1キロばかり戻り、バワニ・ビクッチュ交差点から北東方面に折り返し6.3キロほど進んだ田園地区の右手にあった。ここは拘那含牟尼佛・カナカムニ(コーナガマナ)の故郷であり、いわゆる「ニーグリ・サーガル」のアショーカ王石柱所在地として、以前から訪問を願っていたところだが、今回初めて訪問することができた。<br />     <br />  私が特に興味を持ったのは、ここの石柱にはアショーカ王の教勅文が刻まれていて、非常に名高い割には、訪問する人が極めて稀という不思議な場所であり、しかも一時この石柱が別の場所にあったものが、後世ここに移されたという意見があった事もミステリアスな存在にしている。しかし、最近になってこの石柱は建立当初からここにあったが、数十年前、ここに灌漑用の貯水池が作られたために、元の石柱が一部水没したことが確認されている。現在では池の辺に管理用の保護柵が出来て、その中に横たわっており、傍らにはカナカムニ佛の立像が祠堂に祀られている。普段は保護柵に施錠されているが、傍らに管理小屋があり、見学の意思を告げれば開けてくれて、中に入ってお参りする事もできる。アウロラコットはここから、500メートルほど東に行った所だが、丘のような広場であり、車窓から眺めただけでサガラハワに向かった。<br />     <br /> 30分ほどの後、車に乗って次の目的地サガラハワに向かった。先ほどの道をさらに北東に1.5キロほど走ると左手に「サガラハワ遺跡入口」という案内標識があり、そこを左折して1キロほど行くとバーナガンガ用水路の橋を渡り、直進すると道は突き当たるので右に曲がり、間もなくすると左側に小高い堤が見える。その手前を左折して数件の民家を過ぎると右手に鉄条網に囲まれた広場があった。ここがどうやらサガラハワ=古代のシャカ族滅亡の地らしかった。私も初めて、マヤさん親子、運転手も皆初めての訪問であり、運転手は何回も通行人に道を尋ねながら走った。<br />● アウロラコット:タウリハワの北東10キロに位置します。アウロラコットはニグリハワの東にある古代の要塞遺跡であり、大きな長方形の煉瓦作りの要塞となっていました。この要塞はまた拘那含牟尼仏(くなごんむにぶつKanakmuni)誕生の町であると考えられています。<br />●ニグリハワ: ここはカナカムニ・ブッダ(Kanakamuni拘那含牟尼佛)の御在所です。別名、ニーガリ・サーガル(緯度27°35&#39;40、N:東経.83°6&#39;E」)といい、全天候型の道に沿って、ルンビニから三二?北西に位置しています。ここに到達する別のルートはサガラハワSagrahawa(釋迦族の大虐殺地)を経由します。そこからおよそ500m東にあたります。それは、タウリハワ(ネパール西部のカピラバストゥ地区の地方本部)の約八?北東です。それは大きな人造の溜め池を特徴とします。そして、それは二―ガリ・サーガルNigali sagarとして一般に知られています。 池の近くに壊れたアショーカ王石柱の二つの部分があります。それは釈迦牟尼仏以前の過去七佛の中の拘那含牟尼佛Kanakamuniがここで生まれ、正覚を成じ、またこの場所でその父親に会った場所とされているからです。 <br />・アショーカ王柱の碑文 <br />&lt;神々に愛された温容ある王 &gt;(Piyadasi=アショーカ)は、即位灌頂ののち一四年を過ぎた年にブッダ・コーナーカマナのストゥーパを再度増築した。そうして即位灌頂ののち・・・・年にて、みずからここに来て祭りを行った。{また石柱を}建てさせた。                                (中村元選集第六巻 インド史?「ニガ-リサーガル詔勅」による。)<br />●サガラハワ:タウリハワ市街の北約12?にあります。この森林地域は1895五年に発掘された古代の池です。この古代遺跡の廃墟は、「ニグリハワ村のランブー池」Lumbusagarとして、この地で知られる大きな長方形の池で、その西および南岸に位置します。この地で、シャカ族は復讐の王、毘琉璃Virudhakaによって虐殺されました。当時この辺り一面はシャカ族の血で塗りつくされました。約七万人のシャカ族大虐殺が行われました。その後、シャカ族長老の記録には、数百の仏塔が彼らの子孫によって建立されたと伝えられています。ヒューラー博士A.Fuhrerは1897年から1898年にこれらの仏塔を発掘して調査しました。シャカ族は本来毘琉璃王Virudhakaの侵略軍と戦うことができましたが、彼らは、流血のためにそれをしませんでした。非暴力の誓いを破ることよりも、自分たちの生活を犠牲にすることを選んだのでした。この地域一帯での広範囲な調査および発掘が必要とされていますが、保存のためには人手も保護も不足しています。<br /> 釈迦族の悲劇は貴賎の区別から始まったと考えられている。それは人種、貴賎、貧富、男女、一切を区別せずに等しく見ることがブツダの教えであるのに、シャカ族は自らの出自を自慢し、他の部族、ことにコーサラ国王の出自を忌み嫌ったところが根本の原因だったようだ。そして、それに逆行するように仏教の基本的テーマが平等無差別にあったことは、仏陀世尊の実体験から構築されたのかもしれない。私はシャカ族滅亡の地「サガラハワ」を訪れて、改めて平等無差別、そして不戦、不殺生の意味を噛みしめたことだった。その意味からも多くの政治家や知識人にも是非ここを訪れてほしいと願ったことである。<br />あわただしい佛跡巡拜=ダルマ・ヤトラだったが、十分に満足した一日だった。夕闇迫るカピラヴァストゥ郡の道を走り、ルンビニ遺跡公園を経て「ホテル・ニルヴァーナ」のあるシッダルタナガル市=バイラワに戻って充実した夜を過ごした。<br /><br />デーヴダハ〜ラーマグラーマを経てチトワンへー10月5日(土)<br /> ホテル・ニルヴァーナで朝食を済ませ、昨日チャーターしたタクシーでブツダ世尊の母君摩耶夫人の出生地であるデーヴダハへ向かった。出発は午前7時半、ホテルからブトワルのフクァナガル交差点まで23キロ、30分。私たちはヒマラヤの麓に向かって走った。天候はほぼ晴天。ブトワルからは右折して東西ハイウエーに入った。<br /> ここからは両側が沙羅やチークなどの森林地帯を走る。15キロ、20分ほど行くとシタルナガル交差点に着いた。ハイウエーの右手にはアーチ状の巨大な門牌があり、それは日本の神社大鳥居のようなもので、上には仏塔があり、神社の名前額のあるところにはブツダの坐像があり、ここがブツダの生母マヤ夫人、継母マハープラジャパティー出生地であることを物語っている。私が事前に調査していたところでは、このアーチゲートの近くに「デーヴダハ公園」があり、最初はそこへ立ち寄る予定だったが、ドライバーはなぜかシタルナガル交差点を右折するとまっすぐに田舎道を走り始めた。(帰国後しばらくして気が付いたことだが、あるいはこのアーチゲート一帯を「デーヴダハ公園」と呼んでいるのかもしれない。)<br />    <br /> 道路に人がいると道を尋ねながらまた走るという事を繰り返しながら、到着したのがバワニプル公園だった。マヤさんも、ドライバーも初めての訪問らしかった。ここは「デーヴダハ公園」ではないが、当初から予定していた本命であり、不安から解放された。車を公園わきの路上に止めると、そこはバワニプルは道路の突き当たりにあり、道はここで東西へと分岐する。その東側道の北に面して小さな公園がある。ここも日本の鎮守の森を思わせるところだが、何か強烈な匂いがする。インドやネパールでよく遭遇する線香の匂いだった。<br />●デーヴダハ:ローヒニー川の東岸、ルンビニ生誕公園の東45キロにコーリア王国の古都デーヴダハがあります。それはシッダールタ王子の母、マヤ夫人及び彼の継母摩訶波闍波提(まかはじゃはだい:マハーパジャーパテーMahaPrajapati)、そして彼の配偶者ヤショーダラYasodharaの母方の故郷でもあります。シッダールタ王子が幼少期を過ごしたのもこの地です。ブッダ世尊は正覚を成じた七年後にデーヴダハを訪れて、ジャイナ教徒の聖人ニルガンタ・ナータプトラNirgrantha Nathputraを弟子としました。周りにはクマルバルティKumarbarti、カヤルダンダKhayardanda、バイリマイ/カンヤマイBairimai / Kanyamai、バワニプル/デーヴィダマルBhabanipur /Devidamarのような古代兵器(Mathagadi)が見つかる幾つかの地区があります。<br />バワニプルBhabanipurがバリマイbarimai / カンヤマイKanyamaiから南に一?離れた場所にあります。これは古代デーヴダハと推定される場所であり、是非訪問を検討してください。ここにはアショーカ王によって建立された石柱と、別にこの場所には太陽神の石像があります。アショーカ王柱は、デーヴダハにおけるブッダ世尊の生活史に関係のある最初の碑銘として重要なの証拠となっています。<br />  アショーカ王石柱は紀元前249に建立された最も注目すべき記念碑であり、デーヴダハにとってかけがえのない歴史的文書の一つです。アショーカ王が刻んだ碑文はまだそのままであり、佛世尊の母および妻の出生地であることを証明しています。天に愛される(ピヤダシ王)アショーカ王は、即位灌頂の20年目に、自らデーヴダハへの訪問を行い、佛への敬意を払いました。釈迦牟尼仏の母はここで生まれた事を顕彰し、石の手すりが構築され、石柱も建てられました。佛世尊の母は、ここで生まれたため、王は租税を免除し、デーヴダハ村人々はわずか八分の一を納める事となりました。この石柱は現在、すべてを調査される事なく、多くは地中のに埋もれたままですが、その全体像はルンビニの石柱のように大きなものと考えられています。<br /> Devdahaはマヤ夫人とプラジャパティ両方の生まれ故郷であり、両夫人の寺院を崇拝する講中があります。しかしバイリマイBairimaiとカンヤマイKanyamaiの用語はまたカシミールからガンダキ地域でバリマディカデビBarimalikaの崇拝を参照する事ができます。人々はカンヤマイ、バイリマイそしてプラジャパティとマヤデビを崇拝しています。またこの地区ではパドマパティ菩薩=観音菩薩Padmapani Bodhisattwaの大きな石像が発見されています。宗教の経典がByaghrahpur / Byagrapath。などと称します。(Archiological sites of Devdaha)<br /> 境内を進むとクリーム色の祠がある。高さ九尺、間口2間ほどのこじんまりしたもので、ここに摩耶夫人と摩訶波闍波提夫人が神様として祀られ、併せて太陽神も合祀されている。日本風に言えば「摩耶天神社」とでも呼ぶべきものである。ここで焼香・読経し、戻ると左側に古井戸があり、その傍らの柵の中にアショーカ王石柱の一部が見られる。ここまでくれば明らかに摩耶夫人の生家コーリア国に来たという実感を得ることができた。30分ほどの滞在だったが、この公園前の広場ではかさ上げ工事の最中。仲間の一部は商店での買い物に余念がない。<br /> バワニプルを出て、再び「デーヴダハ公園」を目指したが、その公園が見つからない。通行人に訪ねるたびごとに違った場所を教えてくれる。たずね当てると確かにそれらしい遺跡や祠堂広場があり、歴史の重みを感じ取ることができる。それでも目的地に行けなかった。仕方がないので近くにある「パカリの木」という年代物の大木を見て、次の目的地「ラーマグラーマの仏塔」に向かった。東西ハイウエーを利用してシタルナガルからラーマグラーマ仏塔までは二六キロ、四十分弱の乗車となる。デーヴダハ周辺では晴れていた空が急に暗くなり、やがて激しい雷雨となった。それでも私たちは一路ラーマグラーマへと走った。<br /> 私たちが「ラーマグラーマの仏塔」を参拝した時、かなり激しい雨が降っていた。しかしかつてアショーカ王がここを参拝し、仏舎利を改葬するために、塔を発掘しようとしたとき、守護神の龍王が方便してそれを諦めさせたので、ここだけは仏舎利が八塔分起の当初のまま祀られていると伝えられている。それを思えば、浄心が不足している私などが、お参りするには格好の天候だったかもしれない。まさに「甘露の法雨をそそいで煩悩の炎を滅除す」るひと時でもあった。<br />ラーマグラーマRAMGRAM<br /> ここは仏世尊の母親の郷里家と考えられており、ここでは重要な遺産で、最大の仏舎利塔を見ることができます。ここに住むコーリア族は、八分割された仏舎利を取得し、彼らはここに壮大な塔を建てて供養崇拝しました。その後、アショーカ皇帝はその支配する広大な範途に八万四千の仏舎利塔を建立するために、最初に祀られた七つの仏塔を順次掘り起しました。最後にこの塔の仏舎利を掘り出そうとしたとき、皇帝は龍王とラーマグラーマRamagramaの住民の懇願により貴重な仏舎利に触れることをあきらめざるを得ませんでした。ジャラヒーJharahi川の土手に高さ七メートルの仏舎利塔があり、これは世界で唯一祭祀当初の仏舎利を保存する最も重要な仏塔です。紀元5世紀に法顕三蔵が、紀元7世紀には玄奘三蔵が相次いでここを訪れて「ラーマグラーマの仏塔」について言及しました。それら二人の中国人巡礼者の記録として知られています。<br />  藍莫国 仏の生まれた処(ルンビニ)から東へ五由延(一ヨージャナとは行軍の一日の距離とされるから常識的には四〇キ  ロくらいに相当するが、ここでは種々な理由から一ヨージャナを一三kmとし、13X5=65?とする。→実測では四〇?程  度である。) 行くと、藍莫という国がある。この国の国王は仏の一分の舎利を得て、帰国して塔を建てると、藍莫塔と名  付けた。塔のほとりに池がある。池の中に龍がいて、常にこの塔を守護し、昼夜供養している。アショーカ王がブツダ滅  後百年にこの国を統治し、八塔をこわして八万四千の塔を作ろうとして、七つまでこわしてしまい、次にこの塔を壊そう  とした。すると龍が身を現わし、アショーカ王を率いてその宮中に入り、もろもろの供養の具を見せて、「もしそなたの  供養がこれに勝るものであれば、どうぞ塔を壊して持っていって下さい。私は貴方と争おうとはしない」と言った。ア   ショーカ王はその供養の具がこの世のものでないことが分かったので、そこですぐさま帰った。・・・・・・・ここから  東行三由延(三九?)に、太子が車匿と白馬を還らせた処があり、ここにも塔が立ててある。ここからさらに東方へ四由延  (五二?)行くと炭塔に到る。ここにも僧伽藍がある。・・・・また東に行くこと十二由延(一五六?)でクシナガラ城に到  る。(『法顕伝』長澤和俊訳注・東洋文庫)<br />  藍摩国 ここより東して、曠野・荒林の中を行くこと二百餘里(関口註・・・周の里程では一里は四〇五mだが、種々の  理由から玄奘の一里を三二〇mとして計算すると320×200=64000…64?)にして、藍摩国に至る。藍摩国は空しく荒  れはてて歳久しく、・・・・故城の東南に甎の卒堵波有り。高さは減百尺なり。(『大唐西域記』巻第六国訳一切経)<br /> <br /> 激しい雨の中でも係員は、傘をさしかけて私たちに参拝の記帳を求めていた。参拝を終えて門を出ると、正面は南に向かい、三キロほど行けば、もうネパールを過ぎてインド国内に入る。カピラヴァストウの東門をでたシッダルタ太子はここを通ってインドに向かったようだ。なぜならばここを昔の「ウッタラ・パタ=交易北道」が通っていたからである。法顕三蔵も玄奘三蔵もここを経由してクシナガラに向かったのである。しかし私たちはここから南へはいけない。そこに国境線があるためだ。私たちはここの参拝を終えて、今回の佛跡巡拜=ダルマ・ヤトラをすべて円成した。釈迦牟尼仏陀、拘留孫佛陀、拘那含牟尼仏陀という三佛の生誕地へも参拝できた。感激の至りである。<br />

ネパール:仏陀誕生の地とシャカ国・コーリア国の史跡

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2013/10/04 - 2013/10/05

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erindojunさん

ルンビニからカピラヴァストゥ―へー10月4日(金)
 私たちの車は「佛跡巡拜ツアー・・・pilgrimage tour」として一日の貸切にしたために、運転手兼ガイドは、張り切っていろいろな聖地に案内してくれる事となった。最初に訪れたのはルンビニ公園のすぐ北にある「日本山妙法寺」の世界平和パゴダであった。しかしここはこちらが要望しておいた場所でないし、他にたくさん回る場所があるからという事で、その参拝は辞退して、直ちにルンビニ公園の参拝をお願いした。実はその日本寺の近くに入場券の販売所があり、最近になって、ルンビニの土産物店はここに集められたのである。私たちは運転手とマヤさんの案内で六人分の入場券を求め、再び車に乗り込んで南側にある正面入り口から参拝した。参道はかなり長く、しかも途中から真ん中に水路のような池のある道を進んで受付口前の参道を進んだ。参道には赤く咲くホウオウ木や黄色に咲くセーレーナという花が恰も供華のように咲き乱れている。
                  
 私が初めてルンビニをお参りしたのは5年ほど以前だった。その時はこの参道を輪タクに乗せられて進むと、「ナンミョウホーレンゲキョ―」と声を張り上げた二人の少年が追いかけてきて、小遣いを要求したのを覚えている。輪タクを降りてチップを渡し、少し歩くと、そこは土産物の屋台がたくさんあったが、今はホウオウ木の林となっていた。手入れをしている小父さんに、「この花は何の花か?」と質問すると「Delonix regia」という返事が返ってきた。間違いなくホウオウボクである。集札所で入園券を提示する前に、下駄箱に履物を脱いで収め、裸足になって参拝することになっている。先ず初めにお参りするのは白亜の建造物。かなり大きな建物であるが、これがマヤ寺である。以前はマヤ堂という小さなお堂が立っていたが、今はこの巨大な建造物に代わり、ここがブツダ世尊誕生の聖堂というより、「ブツダ誕生聖跡博物館」と呼んだ方が適当かもしれない。初めての訪問時には全体が茶色に塗られていたが、現在は白亜のヴィハーラ=寺院となっていた。
 雰囲気は博物館であっても、裸足で参拝する事、必ず時計回りに進むことなどは、全くヴィハーラやチャイティア=制多堂chaitya(祠堂)をお参りするのと変わらない。違うのは礼拝の対象が「ブツダ誕生標石=マーカー・ストーン」であったり、菩薩誕生彫刻であるが、それらに香華を手向ける香炉や花器がないこと。賽銭箱がないことである。会話等の発声が禁じられたこの場所では、さすがに読経はできない。一回りして南口の潜り戸を出るとそこにはレンガ積みのプールが見える。これが菩薩誕生の直前に摩耶夫人が沐浴をしたプスカリニ池である。嘗ては地中にうずもれていたが、現在では確実に発掘し、補修されている。池のほとりを時計回りに進むと、池の南側・・・つまりマヤ寺と反対側に大きな菩提樹があり、根元の洞に小さな彫像があり、参詣者が頻りと焼香、礼拝している。またその近くにはネパール人比丘がいて、参詣者の世話を焼いていた。菩提樹にはチベット仏教のタルチョー(経文を刻んだ万国旗のような小旗)が四方に張り巡らされている。私もその祠堂に香を手向け一礼した後に、今度は祠堂を参拝する人の邪魔にならない場所に移り、池を隔てたマヤ寺に向かい献香礼拝し、読経をし、「釈尊花まつり御和讃」をお唱えした。この時、スワヤンブナートで求めた小さな真鍮の鈴がリズム取りをしてくれた。私たちが礼拝、読経し、御和讃を唱えていると、いつの間にかべビーカーに乳児を載せた日本人夫婦がやってきて、ことにその若い母親が熱心に私たちのすることを一所懸命に真似ていた。外交官か商社の駐在員夫人でもあったろうか。詳しくは質問しなかった。
 読経が終われば、次はマヤ寺西に立つアショーカ王石柱に行き、ここで記念撮影をした。マヤ寺の参拝を済ませ、集札所を出ると次に私たちはネパール寺へと歩いた。集札所から西に徒歩で五分ほどの所にある。実はここに以前お参りした時に、菩薩誕生石像の精密な模刻=レプリカがあったことを覚えていたからである。ところが以前安置してあったその像は既にどこかへ出張してしまっている。そこでネパール寺の若い比丘にそれを質問すると、彼は「その石像のことは知らない」と答えた。仕方ないので、一応お参りを済ませ、車へ戻る道すがら、ガイドのマヤさんが、遠慮がちに告げた。「実はあの菩薩誕生石像は現在、日本寺にあります。その理由は5年ほど前の王制廃止のころ、政府の役人が日本寺へ密かに売り渡してしまったからです。」というとんでもない事実を聞いてしまった。私はそれが日本寺にある事を情報として知っていたが、「もしかするとネパール寺にも別な模刻像があるのではないかという、ささやかな希望は完全に砕かれてしまった。
   
ティラウラコット周辺の仏教遺跡の参拝
 ルンビニを出た私たちは次に往時のカピラヴァストゥへと向かった。ルンビニから西へ約20キロm、車で30分ほど進むと、タウリハワの町に至ることができる。ここからは正にブツダ世尊の故郷である。ただし、この地を重点的に隈なく巡拜しようという試みは今回が初めてである。先ず訪れたのはタウリハワ町の南郊外にあるクダン遺跡である。昨年2月下旬、ここを訪れたのは「怪我の巧妙」のようなものだった。当初、ルンビニからティラウラコットへ直行する予定だったが、その時のガイドと運転手の勘違いでここに来てしまったのである。ただし、その時は車の中から見学しただけだった。
 
 今回はゆっくりと散策したい意思もあったが、ここに残されている遺跡や伝承が、いま一つ明確でないので、再び車上からの見学となった。ところがここを敬遠して次の「ゴウティハワ遺跡」に行くためには、このクダン遺跡の南から西に延びる田舎道を利用しなければならない。そのために私たちは車上からこの遺跡を半周して観察することになった。この遺跡はちょうど日本の鎮守の森のような所であり、池やストゥーパ、祠などが見られた。細い砂利道を進むと道はやがて農業用水の小さな橋を渡った。その橋の手前で住民から停車を求められた。そこで運転手とマヤさんはその住民に小銭を手渡した。マヤさんは「プージャがあるので少し布施をして欲しい」と言われたのだそうだ。つまり村祭りのために協力したわけだ。プージャとはインドの言葉で「供養」を意味する言葉だから、私たちは「ゴーティハワ遺跡」参拝の前にささやかな供養をしたことになる。この用水は「バンガンガ用水」と言うらしい。数軒の民家は実に粗末な作りであるが、集落には小学校もあった。砂利道をさらに進むと、左手に鉄条網の柵がしてある広場があった。ここがどうやら私たちの目的地らしい。
 
ゴウティハワ遺跡のアショーカ王石柱 
私たちが用意した案内書には以下のように記されていた。                     
●クダン遺跡 :ティラウラコットの南4.5キロに配置シます。これは、構造的な巨大な塚遺跡で、池の近くには仏塔や僧院の遺跡が見られます。そこは仏弟子が着用する袈裟Kasayaをブッダ世尊が叔母で継母の摩訶波闍波提から初めて供養された場所としての袈裟塔であると考えられています。またここは正覚を成じた佛世尊が郷里に戻った後、初めて父王スッドーダナに再会した場所です。
●ゴーティハワ:ここはタウリハワの南西約3キロの周囲に位置します。これは仏教徒国際社会のための重要な宗教的地域で、さらに、歴史的にも考古学的にも重要です。ここはまた、釈尊の前に出現したクラクッチャンダ【拘留孫仏】誕生の地であり、さらにここで涅槃に入られたと信じられています。仏塔や僧院のレンガ構造は現代のゴーティハワ村の外の地区で見ることができます。主となる塚の中心に折れ残ったアショ-カ王石柱が石板の上にあります。北東側の柱に隣接する拘留孫仏涅槃の仏塔を確認することができ、くさび形の古代煉瓦のリングを持つ巨大なものです。村はまだその中心部に古代の井戸を使用しています。この地区は紀元前6世紀に開発されたと考えられています。
それにしても途中に簡単な道路標示が二か所あっただけで、ガイドがいなければ通り過ぎてしまいそうな場所だった。私たちは狹い潜り戸を通り、広場へ出た。小さな池があり、その傍らに折れた石柱があった。これがアショーカ王石柱なのだった。私たちはここで焼香礼拝し、読経をした。広場は草が茂り、民家のヤギがそれを頻りに食べている。子供たちもさりげなく遊んでいる。ここはルンビニとともに世界遺産に登録されている遺跡ではないようである。それにしてもここを訪れる人は極めてまれなようだった。ただここに来てしみじみと考えさせられたのは、紀元前5〜6世紀の頃に、この周辺の人たちは仏陀が世に出現し、また涅槃を得るという事を切実に願っていたことがよく理解できるという事だった。拘留孫仏、拘那含牟尼佛そして釈迦牟尼仏の三佛がシャカ族の故郷である事を素直に実感したことであった。
 30分ほど滞在し、ティラウラコットへと移動。ここから用水沿いに直進することは可能だが、砂利道を避けるため、再びクダン遺跡まで戻り、舗装道路を北上した。タウリハワの町を抜け田園地帯となったが、何となく2500年以前、釈尊当時の風景もそれほど変わらなかったのではないかと、勝手な想像をめぐらしながら進んだ。ここは三回目の訪問であるが、昨年春の訪問はあまり時間がなかったので西門の所から眺めるだけで他に移動してしまった。今回は初回の時と同じように十分な時間があるので心置きなく散策した。
 ここが往時のカピラヴァストゥであるのはほぼ間違いないようだが、現在の遺跡は釈尊当時のものより少し後世の物であり、佛在世の遺構はさらに深い部分にあるというのが学者の見解である。右の写真はシッダルタ太子が王城を後にして出家した東門と伝えられる場所であるが、数年以前の地震で倒壊したという。
 
ティラウラコット遺跡のグーグル画像   釈尊の両親のストゥーパとも言われる「双子塔」
 一通りの見学を終えた後、釈尊の両親のストゥーパとも言われるダンミハワ村の「双子塔」を訪れたいと思っているうちに、そこには寄らず、私たちはいつの間にか車に乗って次の訪問地二グリハワに向かっていた。  
ティラウラコットから二グリハワに行くには一旦、タウリハワ方面に1キロばかり戻り、バワニ・ビクッチュ交差点から北東方面に折り返し6.3キロほど進んだ田園地区の右手にあった。ここは拘那含牟尼佛・カナカムニ(コーナガマナ)の故郷であり、いわゆる「ニーグリ・サーガル」のアショーカ王石柱所在地として、以前から訪問を願っていたところだが、今回初めて訪問することができた。
   
私が特に興味を持ったのは、ここの石柱にはアショーカ王の教勅文が刻まれていて、非常に名高い割には、訪問する人が極めて稀という不思議な場所であり、しかも一時この石柱が別の場所にあったものが、後世ここに移されたという意見があった事もミステリアスな存在にしている。しかし、最近になってこの石柱は建立当初からここにあったが、数十年前、ここに灌漑用の貯水池が作られたために、元の石柱が一部水没したことが確認されている。現在では池の辺に管理用の保護柵が出来て、その中に横たわっており、傍らにはカナカムニ佛の立像が祠堂に祀られている。普段は保護柵に施錠されているが、傍らに管理小屋があり、見学の意思を告げれば開けてくれて、中に入ってお参りする事もできる。アウロラコットはここから、500メートルほど東に行った所だが、丘のような広場であり、車窓から眺めただけでサガラハワに向かった。
   
 30分ほどの後、車に乗って次の目的地サガラハワに向かった。先ほどの道をさらに北東に1.5キロほど走ると左手に「サガラハワ遺跡入口」という案内標識があり、そこを左折して1キロほど行くとバーナガンガ用水路の橋を渡り、直進すると道は突き当たるので右に曲がり、間もなくすると左側に小高い堤が見える。その手前を左折して数件の民家を過ぎると右手に鉄条網に囲まれた広場があった。ここがどうやらサガラハワ=古代のシャカ族滅亡の地らしかった。私も初めて、マヤさん親子、運転手も皆初めての訪問であり、運転手は何回も通行人に道を尋ねながら走った。
● アウロラコット:タウリハワの北東10キロに位置します。アウロラコットはニグリハワの東にある古代の要塞遺跡であり、大きな長方形の煉瓦作りの要塞となっていました。この要塞はまた拘那含牟尼仏(くなごんむにぶつKanakmuni)誕生の町であると考えられています。
●ニグリハワ: ここはカナカムニ・ブッダ(Kanakamuni拘那含牟尼佛)の御在所です。別名、ニーガリ・サーガル(緯度27°35'40、N:東経.83°6'E」)といい、全天候型の道に沿って、ルンビニから三二?北西に位置しています。ここに到達する別のルートはサガラハワSagrahawa(釋迦族の大虐殺地)を経由します。そこからおよそ500m東にあたります。それは、タウリハワ(ネパール西部のカピラバストゥ地区の地方本部)の約八?北東です。それは大きな人造の溜め池を特徴とします。そして、それは二―ガリ・サーガルNigali sagarとして一般に知られています。 池の近くに壊れたアショーカ王石柱の二つの部分があります。それは釈迦牟尼仏以前の過去七佛の中の拘那含牟尼佛Kanakamuniがここで生まれ、正覚を成じ、またこの場所でその父親に会った場所とされているからです。
・アショーカ王柱の碑文
<神々に愛された温容ある王 >(Piyadasi=アショーカ)は、即位灌頂ののち一四年を過ぎた年にブッダ・コーナーカマナのストゥーパを再度増築した。そうして即位灌頂ののち・・・・年にて、みずからここに来て祭りを行った。{また石柱を}建てさせた。 (中村元選集第六巻 インド史?「ニガ-リサーガル詔勅」による。)
●サガラハワ:タウリハワ市街の北約12?にあります。この森林地域は1895五年に発掘された古代の池です。この古代遺跡の廃墟は、「ニグリハワ村のランブー池」Lumbusagarとして、この地で知られる大きな長方形の池で、その西および南岸に位置します。この地で、シャカ族は復讐の王、毘琉璃Virudhakaによって虐殺されました。当時この辺り一面はシャカ族の血で塗りつくされました。約七万人のシャカ族大虐殺が行われました。その後、シャカ族長老の記録には、数百の仏塔が彼らの子孫によって建立されたと伝えられています。ヒューラー博士A.Fuhrerは1897年から1898年にこれらの仏塔を発掘して調査しました。シャカ族は本来毘琉璃王Virudhakaの侵略軍と戦うことができましたが、彼らは、流血のためにそれをしませんでした。非暴力の誓いを破ることよりも、自分たちの生活を犠牲にすることを選んだのでした。この地域一帯での広範囲な調査および発掘が必要とされていますが、保存のためには人手も保護も不足しています。
 釈迦族の悲劇は貴賎の区別から始まったと考えられている。それは人種、貴賎、貧富、男女、一切を区別せずに等しく見ることがブツダの教えであるのに、シャカ族は自らの出自を自慢し、他の部族、ことにコーサラ国王の出自を忌み嫌ったところが根本の原因だったようだ。そして、それに逆行するように仏教の基本的テーマが平等無差別にあったことは、仏陀世尊の実体験から構築されたのかもしれない。私はシャカ族滅亡の地「サガラハワ」を訪れて、改めて平等無差別、そして不戦、不殺生の意味を噛みしめたことだった。その意味からも多くの政治家や知識人にも是非ここを訪れてほしいと願ったことである。
あわただしい佛跡巡拜=ダルマ・ヤトラだったが、十分に満足した一日だった。夕闇迫るカピラヴァストゥ郡の道を走り、ルンビニ遺跡公園を経て「ホテル・ニルヴァーナ」のあるシッダルタナガル市=バイラワに戻って充実した夜を過ごした。

デーヴダハ〜ラーマグラーマを経てチトワンへー10月5日(土)
 ホテル・ニルヴァーナで朝食を済ませ、昨日チャーターしたタクシーでブツダ世尊の母君摩耶夫人の出生地であるデーヴダハへ向かった。出発は午前7時半、ホテルからブトワルのフクァナガル交差点まで23キロ、30分。私たちはヒマラヤの麓に向かって走った。天候はほぼ晴天。ブトワルからは右折して東西ハイウエーに入った。
 ここからは両側が沙羅やチークなどの森林地帯を走る。15キロ、20分ほど行くとシタルナガル交差点に着いた。ハイウエーの右手にはアーチ状の巨大な門牌があり、それは日本の神社大鳥居のようなもので、上には仏塔があり、神社の名前額のあるところにはブツダの坐像があり、ここがブツダの生母マヤ夫人、継母マハープラジャパティー出生地であることを物語っている。私が事前に調査していたところでは、このアーチゲートの近くに「デーヴダハ公園」があり、最初はそこへ立ち寄る予定だったが、ドライバーはなぜかシタルナガル交差点を右折するとまっすぐに田舎道を走り始めた。(帰国後しばらくして気が付いたことだが、あるいはこのアーチゲート一帯を「デーヴダハ公園」と呼んでいるのかもしれない。)
  
 道路に人がいると道を尋ねながらまた走るという事を繰り返しながら、到着したのがバワニプル公園だった。マヤさんも、ドライバーも初めての訪問らしかった。ここは「デーヴダハ公園」ではないが、当初から予定していた本命であり、不安から解放された。車を公園わきの路上に止めると、そこはバワニプルは道路の突き当たりにあり、道はここで東西へと分岐する。その東側道の北に面して小さな公園がある。ここも日本の鎮守の森を思わせるところだが、何か強烈な匂いがする。インドやネパールでよく遭遇する線香の匂いだった。
●デーヴダハ:ローヒニー川の東岸、ルンビニ生誕公園の東45キロにコーリア王国の古都デーヴダハがあります。それはシッダールタ王子の母、マヤ夫人及び彼の継母摩訶波闍波提(まかはじゃはだい:マハーパジャーパテーMahaPrajapati)、そして彼の配偶者ヤショーダラYasodharaの母方の故郷でもあります。シッダールタ王子が幼少期を過ごしたのもこの地です。ブッダ世尊は正覚を成じた七年後にデーヴダハを訪れて、ジャイナ教徒の聖人ニルガンタ・ナータプトラNirgrantha Nathputraを弟子としました。周りにはクマルバルティKumarbarti、カヤルダンダKhayardanda、バイリマイ/カンヤマイBairimai / Kanyamai、バワニプル/デーヴィダマルBhabanipur /Devidamarのような古代兵器(Mathagadi)が見つかる幾つかの地区があります。
バワニプルBhabanipurがバリマイbarimai / カンヤマイKanyamaiから南に一?離れた場所にあります。これは古代デーヴダハと推定される場所であり、是非訪問を検討してください。ここにはアショーカ王によって建立された石柱と、別にこの場所には太陽神の石像があります。アショーカ王柱は、デーヴダハにおけるブッダ世尊の生活史に関係のある最初の碑銘として重要なの証拠となっています。
アショーカ王石柱は紀元前249に建立された最も注目すべき記念碑であり、デーヴダハにとってかけがえのない歴史的文書の一つです。アショーカ王が刻んだ碑文はまだそのままであり、佛世尊の母および妻の出生地であることを証明しています。天に愛される(ピヤダシ王)アショーカ王は、即位灌頂の20年目に、自らデーヴダハへの訪問を行い、佛への敬意を払いました。釈迦牟尼仏の母はここで生まれた事を顕彰し、石の手すりが構築され、石柱も建てられました。佛世尊の母は、ここで生まれたため、王は租税を免除し、デーヴダハ村人々はわずか八分の一を納める事となりました。この石柱は現在、すべてを調査される事なく、多くは地中のに埋もれたままですが、その全体像はルンビニの石柱のように大きなものと考えられています。
 Devdahaはマヤ夫人とプラジャパティ両方の生まれ故郷であり、両夫人の寺院を崇拝する講中があります。しかしバイリマイBairimaiとカンヤマイKanyamaiの用語はまたカシミールからガンダキ地域でバリマディカデビBarimalikaの崇拝を参照する事ができます。人々はカンヤマイ、バイリマイそしてプラジャパティとマヤデビを崇拝しています。またこの地区ではパドマパティ菩薩=観音菩薩Padmapani Bodhisattwaの大きな石像が発見されています。宗教の経典がByaghrahpur / Byagrapath。などと称します。(Archiological sites of Devdaha)
境内を進むとクリーム色の祠がある。高さ九尺、間口2間ほどのこじんまりしたもので、ここに摩耶夫人と摩訶波闍波提夫人が神様として祀られ、併せて太陽神も合祀されている。日本風に言えば「摩耶天神社」とでも呼ぶべきものである。ここで焼香・読経し、戻ると左側に古井戸があり、その傍らの柵の中にアショーカ王石柱の一部が見られる。ここまでくれば明らかに摩耶夫人の生家コーリア国に来たという実感を得ることができた。30分ほどの滞在だったが、この公園前の広場ではかさ上げ工事の最中。仲間の一部は商店での買い物に余念がない。
 バワニプルを出て、再び「デーヴダハ公園」を目指したが、その公園が見つからない。通行人に訪ねるたびごとに違った場所を教えてくれる。たずね当てると確かにそれらしい遺跡や祠堂広場があり、歴史の重みを感じ取ることができる。それでも目的地に行けなかった。仕方がないので近くにある「パカリの木」という年代物の大木を見て、次の目的地「ラーマグラーマの仏塔」に向かった。東西ハイウエーを利用してシタルナガルからラーマグラーマ仏塔までは二六キロ、四十分弱の乗車となる。デーヴダハ周辺では晴れていた空が急に暗くなり、やがて激しい雷雨となった。それでも私たちは一路ラーマグラーマへと走った。
 私たちが「ラーマグラーマの仏塔」を参拝した時、かなり激しい雨が降っていた。しかしかつてアショーカ王がここを参拝し、仏舎利を改葬するために、塔を発掘しようとしたとき、守護神の龍王が方便してそれを諦めさせたので、ここだけは仏舎利が八塔分起の当初のまま祀られていると伝えられている。それを思えば、浄心が不足している私などが、お参りするには格好の天候だったかもしれない。まさに「甘露の法雨をそそいで煩悩の炎を滅除す」るひと時でもあった。
ラーマグラーマRAMGRAM
 ここは仏世尊の母親の郷里家と考えられており、ここでは重要な遺産で、最大の仏舎利塔を見ることができます。ここに住むコーリア族は、八分割された仏舎利を取得し、彼らはここに壮大な塔を建てて供養崇拝しました。その後、アショーカ皇帝はその支配する広大な範途に八万四千の仏舎利塔を建立するために、最初に祀られた七つの仏塔を順次掘り起しました。最後にこの塔の仏舎利を掘り出そうとしたとき、皇帝は龍王とラーマグラーマRamagramaの住民の懇願により貴重な仏舎利に触れることをあきらめざるを得ませんでした。ジャラヒーJharahi川の土手に高さ七メートルの仏舎利塔があり、これは世界で唯一祭祀当初の仏舎利を保存する最も重要な仏塔です。紀元5世紀に法顕三蔵が、紀元7世紀には玄奘三蔵が相次いでここを訪れて「ラーマグラーマの仏塔」について言及しました。それら二人の中国人巡礼者の記録として知られています。
  藍莫国 仏の生まれた処(ルンビニ)から東へ五由延(一ヨージャナとは行軍の一日の距離とされるから常識的には四〇キ  ロくらいに相当するが、ここでは種々な理由から一ヨージャナを一三kmとし、13X5=65?とする。→実測では四〇?程  度である。) 行くと、藍莫という国がある。この国の国王は仏の一分の舎利を得て、帰国して塔を建てると、藍莫塔と名  付けた。塔のほとりに池がある。池の中に龍がいて、常にこの塔を守護し、昼夜供養している。アショーカ王がブツダ滅  後百年にこの国を統治し、八塔をこわして八万四千の塔を作ろうとして、七つまでこわしてしまい、次にこの塔を壊そう  とした。すると龍が身を現わし、アショーカ王を率いてその宮中に入り、もろもろの供養の具を見せて、「もしそなたの  供養がこれに勝るものであれば、どうぞ塔を壊して持っていって下さい。私は貴方と争おうとはしない」と言った。ア   ショーカ王はその供養の具がこの世のものでないことが分かったので、そこですぐさま帰った。・・・・・・・ここから  東行三由延(三九?)に、太子が車匿と白馬を還らせた処があり、ここにも塔が立ててある。ここからさらに東方へ四由延  (五二?)行くと炭塔に到る。ここにも僧伽藍がある。・・・・また東に行くこと十二由延(一五六?)でクシナガラ城に到  る。(『法顕伝』長澤和俊訳注・東洋文庫)
  藍摩国 ここより東して、曠野・荒林の中を行くこと二百餘里(関口註・・・周の里程では一里は四〇五mだが、種々の  理由から玄奘の一里を三二〇mとして計算すると320×200=64000…64?)にして、藍摩国に至る。藍摩国は空しく荒  れはてて歳久しく、・・・・故城の東南に甎の卒堵波有り。高さは減百尺なり。(『大唐西域記』巻第六国訳一切経)
 
 激しい雨の中でも係員は、傘をさしかけて私たちに参拝の記帳を求めていた。参拝を終えて門を出ると、正面は南に向かい、三キロほど行けば、もうネパールを過ぎてインド国内に入る。カピラヴァストウの東門をでたシッダルタ太子はここを通ってインドに向かったようだ。なぜならばここを昔の「ウッタラ・パタ=交易北道」が通っていたからである。法顕三蔵も玄奘三蔵もここを経由してクシナガラに向かったのである。しかし私たちはここから南へはいけない。そこに国境線があるためだ。私たちはここの参拝を終えて、今回の佛跡巡拜=ダルマ・ヤトラをすべて円成した。釈迦牟尼仏陀、拘留孫佛陀、拘那含牟尼仏陀という三佛の生誕地へも参拝できた。感激の至りである。

旅行の満足度
5.0
同行者
友人
一人あたり費用
15万円 - 20万円
交通手段
高速・路線バス タクシー 徒歩 飛行機
航空会社
中国南方航空
旅行の手配内容
個別手配

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  • ルンビニの菩提樹下からマヤ寺に向かって詠讃歌の奉詠

    ルンビニの菩提樹下からマヤ寺に向かって詠讃歌の奉詠

  • ゴーティハワの折れたアショーカ王石柱<br /> タウリハワの南西約3キロの周囲に位置し、釈迦牟尼ブッダ尊の前に出現したクラクッチャンダ【拘留孫仏】誕生の地であり、さらにここで涅槃に入られたと信じられている。

    ゴーティハワの折れたアショーカ王石柱
     タウリハワの南西約3キロの周囲に位置し、釈迦牟尼ブッダ尊の前に出現したクラクッチャンダ【拘留孫仏】誕生の地であり、さらにここで涅槃に入られたと信じられている。

  • ティラウラコット<br /> シッダルタ太子が王城を後にして出家したカピラヴァうトゥ城東門と伝えられる場所であるが、数年以前の地震で倒壊したという。

    ティラウラコット
     シッダルタ太子が王城を後にして出家したカピラヴァうトゥ城東門と伝えられる場所であるが、数年以前の地震で倒壊したという。

  • 二グリハワ<br /> ティラウラコットから二グリハワに行くには一旦、タウリハワ方面に1キロばかり戻り、バワニ・ビクッチュ交差点から北東方面に折り返し、6.3キロほど進んだ田園地区の右手にあった。ここは拘那含牟尼佛・カナカムニ(コーナガマナ)の故郷であり、いわゆる「ニーグリ・サーガル」のアショーカ王石柱所在地として、以前から訪問を願っていたところだが、今回初めて訪問することができた。

    二グリハワ
     ティラウラコットから二グリハワに行くには一旦、タウリハワ方面に1キロばかり戻り、バワニ・ビクッチュ交差点から北東方面に折り返し、6.3キロほど進んだ田園地区の右手にあった。ここは拘那含牟尼佛・カナカムニ(コーナガマナ)の故郷であり、いわゆる「ニーグリ・サーガル」のアショーカ王石柱所在地として、以前から訪問を願っていたところだが、今回初めて訪問することができた。

  • サガラハワ<br /> タウリハワ市街の北約12?にある。1895年に発掘された古代の池で、「ニグリハワ村のランブー池」Lumbusagarとして、この地で知られる大きな長方形の池である。この地で、シャカ族は復讐の王、毘琉璃Virudhakaによって虐殺された。当時この辺り一面はシャカ族の血で塗りつくされと伝えられる。約7万人のシャカ族大虐殺が行われたとも言われ、その後、数百の仏塔が彼らの子孫によって建立されたとされている。

    サガラハワ
     タウリハワ市街の北約12?にある。1895年に発掘された古代の池で、「ニグリハワ村のランブー池」Lumbusagarとして、この地で知られる大きな長方形の池である。この地で、シャカ族は復讐の王、毘琉璃Virudhakaによって虐殺された。当時この辺り一面はシャカ族の血で塗りつくされと伝えられる。約7万人のシャカ族大虐殺が行われたとも言われ、その後、数百の仏塔が彼らの子孫によって建立されたとされている。

  • デーヴダハ・バワニプルのマヤ天神社<br /> ローヒニー川の東岸、ルンビニ生誕公園の東54キロにコーリア王国の古都デーヴダハがある。それはシッダールタ王子の母、マヤ夫人及び彼の継母摩訶波闍波提(まかはじゃはだい:マハーパジャーパテーMahaPrajapati)、そして彼の配偶者ヤショーダラYasodharaの母方の故郷でもある。シッダールタ王子が幼少期を過ごしたのもこの地で、ブッダ世尊は正覚を成じた7年後にデーヴダハを訪れて、ジャイナ教徒の聖人ニルガンタ・ナータプトラNirgrantha Nathputraを弟子としました。

    デーヴダハ・バワニプルのマヤ天神社
     ローヒニー川の東岸、ルンビニ生誕公園の東54キロにコーリア王国の古都デーヴダハがある。それはシッダールタ王子の母、マヤ夫人及び彼の継母摩訶波闍波提(まかはじゃはだい:マハーパジャーパテーMahaPrajapati)、そして彼の配偶者ヤショーダラYasodharaの母方の故郷でもある。シッダールタ王子が幼少期を過ごしたのもこの地で、ブッダ世尊は正覚を成じた7年後にデーヴダハを訪れて、ジャイナ教徒の聖人ニルガンタ・ナータプトラNirgrantha Nathputraを弟子としました。

  • バワニプル:<br /> これは古代デーヴダハと推定される場所であり、アショーカ王によって建立された石柱と、別にこの場所には太陽神の石像がある。<br /> アショーカ王石柱は紀元前249に建立された最も注目すべき記念碑であり、デーヴダハにとってかけがえのない歴史的文書の一つである。アショーカ王が刻んだ碑文はまだそのままであり、佛世尊の母および妻の出生地であることを証明している。<br />  天に愛される(ピヤダシ王)アショーカ王は、即位灌頂のぬ20年目に、 自らデーヴダハへの訪問を行い、佛への敬意を払いました。釈迦牟尼仏の母はここで生まれた事を顕彰し、石の手すりが構築され、石柱も建てられました。佛世尊の母は、ここで生まれたため、王は租税を免除し、デーヴダハ村人々はわずか八分の一を納める事となりました。<br /> この石柱は現在、多くは地中のに埋もれたままだが、その全体像はルンビニの石柱のように大きなものと考えられている。<br /> マヤ夫人とプラジャパティ両方の生まれ故郷であり、両夫人の寺院を崇拝する講中がある。

    バワニプル:
    これは古代デーヴダハと推定される場所であり、アショーカ王によって建立された石柱と、別にこの場所には太陽神の石像がある。
     アショーカ王石柱は紀元前249に建立された最も注目すべき記念碑であり、デーヴダハにとってかけがえのない歴史的文書の一つである。アショーカ王が刻んだ碑文はまだそのままであり、佛世尊の母および妻の出生地であることを証明している。
      天に愛される(ピヤダシ王)アショーカ王は、即位灌頂のぬ20年目に、 自らデーヴダハへの訪問を行い、佛への敬意を払いました。釈迦牟尼仏の母はここで生まれた事を顕彰し、石の手すりが構築され、石柱も建てられました。佛世尊の母は、ここで生まれたため、王は租税を免除し、デーヴダハ村人々はわずか八分の一を納める事となりました。
    この石柱は現在、多くは地中のに埋もれたままだが、その全体像はルンビニの石柱のように大きなものと考えられている。
     マヤ夫人とプラジャパティ両方の生まれ故郷であり、両夫人の寺院を崇拝する講中がある。

  • バワニプルは道路の突き当たりにあり、道はここで東西へと分岐する。その東側道の北に面して小さな公園がある。ここも日本の鎮守の森を思わせるところだが、何か強烈な匂いがする。インドやネパールでよく遭遇する線香の匂いだった。

    バワニプルは道路の突き当たりにあり、道はここで東西へと分岐する。その東側道の北に面して小さな公園がある。ここも日本の鎮守の森を思わせるところだが、何か強烈な匂いがする。インドやネパールでよく遭遇する線香の匂いだった。

  •  「ラーマグラーマの仏塔」の入口

     「ラーマグラーマの仏塔」の入口

  • 「ラーマグラーマの仏塔」<br /> かつてアショーカ王がここを参拝し、仏舎利を改葬するために、塔を発掘しようとしたとき、守護神の龍王が方便してそれを諦めさせたので、ここだけは仏舎利が八塔分起の当初のまま祀られていると伝えられている。

    「ラーマグラーマの仏塔」
     かつてアショーカ王がここを参拝し、仏舎利を改葬するために、塔を発掘しようとしたとき、守護神の龍王が方便してそれを諦めさせたので、ここだけは仏舎利が八塔分起の当初のまま祀られていると伝えられている。

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