ブッダガヤ旅行記(ブログ) 一覧に戻る
 インドは4回目、3度目の佛跡巡拝。ただし四大佛跡と言われるルンビニ・ブッダガヤ・サールナート・クシナガラをすべてまとめて回ったのは今回が初めて。その旅を無事に円成出来ました。今回少数ながら団体旅行だったので、がむしゃらに旅程を組んだため、ゆっくりとブッダの故郷に額づく事はできなかったーという反省もあります。<br /> ナーランダ遺跡近くで、私たちのバスはいきなり地元住民から、ボディを叩かれ、罵声を浴びせられました。これは何台か前を先行した観光バスが地元民を撥ねて死亡させた事が原因でした。私たちにその事故の詳細は何も知らされませんでした。しかし今から20年ほど以前には、上位カーストの車が指定カーストの人を轢き殺しても、警察、マスコミ、地元住民までが、見て見ぬふりをして終わらせたという話を聞いた事があります。しかし今回の事故やそれに対応する処置はかなり常識に近くなっていました。ナーランダ遺跡の訪問が出来なかったのは事実ですが、実はインドには一般の日本人観光客がほとんど行かない仏教の古代大学遺跡がいくつかあります。その中で最も有名なのがヴィクラマシーラ大学Vikramaśīla University遺跡です。ビハール州東部バーガールプル県に存在し、ナーランダ大学と共に、後期インド仏教の主要な拠点でした。パーラ王朝の王ダルマパーラ(七八三〜八二〇)によって、八世紀末-九世紀初頭に創設され、アティーシャという高僧はここで学頭を勤めた後チベットに新しい仏教を伝えたことで有名です。一一九三年にナーランダ大学が破壊されたのと同様、その十年後の一二〇三年に、デリー・スルタン諸王最初のスルタン・アイバク配下の将軍の率いるトルコイスラム勢力の侵攻で、大学は破壊され、インド仏教の命脈は絶たれました。またバングラデシュ、ラジシャヒ管区にあるパハルプールの仏教寺院遺跡は世界遺産に指定されています。これも当時の仏教大学遺跡ですが、同じ運命をただっています。ここだけがユネスコの世界遺産に登録されたのは恐らく、世界遺産が少ないバングラデシュに属していたからと考えられます。またこの遺跡近くにジャガッダラ、またナーランダ遺跡近くにはオーダンタプリOdantapuriのそれぞれ大学遺跡があります。こんな事実を聞いただけでも、私はすぐに飛んでゆきたくなりますが、将来の楽しみにしましょう。<br /> 旅行ガイドブックに書かれるインドの宗教は、一部の者の手で情報操作された内容なので、その実態はなかなか理解できません。インドでの挨拶は「ナマステ」ではなく「ジャイ・ビーム」ですよと私が言えば「そんなバカな事はない」と言われるでしょう。12億人口の中、イスラム教徒3億、仏教徒3億、ヒンドゥー教徒5億、その他1億と言えば、「あんたの頭はおかしい」と指摘されるでしょう。<br /> しかしこれがインドの偽らない現実であり、10年もしないうちにインドはさらに大変革されるでしょう。・・・・今回の佛跡巡拝が私に語りかけたインドの素顔は、確実にそれを裏付けつつある事を実感しました。近い将来、5度目のインドを目指す決意を持っています。<br /> 平成24年2月27日から3月5日までの8日間にわたり、再びブッダの故郷を訪ねた。インド旅行の季節として最善の冬期にあたるので、寺の檀信徒、参禅者その他の知人にも声をかけ、9人の同行となった。私は旅行のベテランでもインド旅行の格別な愛好家でもないが、今回、4度目となるので、往復の航空券と初日のデリーでのホテルだけをインターネットで予約し、その他は別にインド国内にある現地ツアーを計画する業者に依頼した。インド旅行では日本の旅行業社への支払いが多くなる傾向があるので、それを抑えるのが理由の一つだった。<br /><br />    名古屋から香港経由でデリーへー2月27日(月)<br />  27日(月)中部国際空港09:55発キャセイ・パシフィックCX533便は定刻に就航。機種はエアバス330〇機264人乗り。日本の航空会社はボーイング社製が多いが、キャセイはフランスを拠点とする欧州製のエアバス機を多用するようだ。中型飛行機で、多少空席が見られた。香港国際空港に現地時間13時30分着。デリー行きキングフィッシャーIT32便への乗継時間は約5時間30分。<br />23時50分、デリーのインディラガンジー国際空港に到着。ここでインド・エンボイツアーの職員モリシュ氏MR monishが出迎えてくれた。私はすでに、エンボイツアー社社長デイーパ・ジェインさんと幾たびかEメールで連絡を取り、この空港で必要な経費をモリシュ氏に手渡し、その領収書を受け取ること、当日私たちが宿泊するホテル・エアーポートシティー・ニューデリーまで専用車で送り届け、かつ翌朝のパトナ行国内線搭乗のため、迎えに来る事を確認していた。しかしモリシュ氏には現金の受け渡し、インド国内旅行の細部に亘る計画書、ホテルのバウチャー等の手渡し以外は周知されていなかった。そこで、私たちのホテルへの送迎を依頼し、取りあえずホテルへ移動した。日本では考えられない事だが、彼らは私たちの宿泊するホテルの名前も場所も分らない。私が用意していたホテルの詳しい住所と電話番号を書き込んだ地図を見せたので、かろうじて該当するホテルへ案内してもらうことができた。<br />ホテルは国内線の就航するインディラ・ガイディー国際空港ターミナル1A(旧パーラム空港)近くであったが、実は最近、国内線も大半は新しいターミナル3へ変更されたので、結果的には少し離れた場所に行ってしまった。ともあれ初日のインドでの宿泊は、疲れているせいかよく眠った。<br />デリーから国内線でパトナへ・専用車でナーランダ・ラージギル・ブッダガヤへ<br />ー二月二八日(火)<br /> 前日、インドに着いた私たちはこの日が2日目となるが、実質的にはインドの初日だ。当初、デリー空港7時00分発のゴーエアーG8-341便でパトナへ行く予定にしていたが、その便は数日前になって急にキャンセルされた。私が搭乗券を購入した旅行社に問い合わせると、「貴方たちは当日午後の便または前日もしくは翌日の同じ便に振り替え搭乗する事ができます。」というなんともインドらしい回答が来た。こんな会社は相手にしていられない。急遽エンボイツアー社に依頼して、当日6時35分発エアーインディアAI-409便の搭乗券を確保してもらった。<br />  私たちは午前4時頃起床して、準備を整え旅行社の迎えを待ったがなかなか来ない。一時間ほど遅れて現れたと思うと、今度は「貴方たちの飛行機は10時発に変更となりました。ですからゆっくり出かけていただいて大丈夫です。」―何をか言わんやである。<br />  新しく整備されたターミナル3は従来の国内線とは雲泥の差というか、とにかく日本の中部空港とほとんど格差がないので、逆に以前の空港が懐かしくなった。<br />午前6時半ころ、空港に着いたので、待ち時間は十分すぎる。時間と共に乗客が少しずつ増えてきた。よく見ると明らかに日本人の高校生と思しき団体の姿があった。会話は間違いなく日本語だ。仲間の一人が声を掛けると、「自分たちはカバディ―というスポーツの国際大会がパトナであるので、それに参加するためにきた」との事だった。ともあれ私は過去3回インド旅行したが、初めからこんなトラブル続きはなかったので、少しイラついていた。しかし冷静に考えると、ここはインドなのだ。日本人の価値観を持ち込まなければ、案外これがインドの素顔かもしれない。―そう考え直したら何か余裕が出てきた。パトナ行飛行機は変更時間の10時ちょうどに離陸した。1時間ほど飛行したころ、左手の窓に白い雲と重なって雲とは別の白い浮遊物が見えた。初めはぼんやりしていたが、次第に鮮やかになってくると、これはどうやら雪を帯びたヒマラヤと確信された。 美しい山並みに見とれていると機体はいつの間にか大きな河の上空を飛んでいた。パトナ上空から見えるガンガである。この光景もしばらく続いた後、機体はパトナのジャイ・プラカシ・ナラヤン空港に着陸した。正午少し前。<br /> 私は2度目のパトナ訪問だった。初回は6年前の5月、友人と二人だけの旅だった。その時はクシナガラ〜ケーサリア〜ヴェーシャリー〜パトナとタクシー、アンバサダーの旅だったが。今回はここを起点として『ブッダ最後の旅』を逆行する形、テンポ・トラベラーの旅だ。『ブッダ最後の旅』には、<br />次いで尊師はガンジス河におもむいた。・・・・・或る人々は舟を求めている。・・・・いずれもかなたの岸辺に行こうと欲しているのである。そこで、あたかも力士が屈した腕を伸ばした腕を屈するように、まさにそのように僅かの時間のうちに、こちらの岸において没して、修行僧の群れとともに向こう岸に立った。<br /> ガンジス河というのは英語的表現で、地元の人たちは、外国人に対してこの名前を使うが、自分たちは必ず「ガンガ」と呼んでいる。漢訳では「恒河」だ。釈尊当時のパトナはガンガ流域のパータリという寒村にすぎなかったが、仏滅百年後にインドを統一したマウリア王朝のアショーカ王により、「パータリプトラ」と改められ、首都となったのである。<br />  話はかわるが、インド国鉄はいつも満員状態なのに、慢性的な経常赤字に陥っている。これは乗客の半数くらいが「薩摩の守タダノリ」を決めているからだ。何しろどこの駅にも出札口はあるが改札口がない。誰でも自由に駅のホームに出入りでき、列車にも勝手に乗車できる。私たち外国人が乗るA-1,A-2,A-3という冷房付の指定席車は車掌がやってきて乗車券の確認をするが、その他の車両は満員の無法状態だから、押しの強い者が、勝手に座席やら空いた床を占領する。例え車掌が来て検札しても、そのまま無賃乗車を続ける。またサドゥーと言う修行者は無賃乗車が公認されているらしい。<br />  話を元に戻す。ブッダ釈尊がガンガを渡った場所は「ゴータマの渡し」と呼ばれたと記録に残っているが、実際、それがどこであるかは不明だ。先ほどの経文では、ブッダがガンガを渡った事が記されているが、具体的にどのように渡ったかも不明だ。何となく神通力を使って河を飛び越えたようにも窺える。ある研究者は「多分これは無賃乗船ではないでしょうか。乗せないと云っても、本人が勝手に乗り込んでしまえば、それ以上無理矢理に引きずりおろす事はなく、まして相手が修行者だと黙認してしまうようです。」と言う。むかしのことで検証の仕様はないが、あるいはそれが実際だったかもしれない。<br />  飛行機の到着後。バッケージを受け取り、出口に行くと、エンボイ・ツアーから委嘱された日本語ガイドのヴィナイ・ジャイスワルVinay Jaiswal氏が待っていた。彼はバーラナシーの専門学校で日本語を学んだ28歳の青年。ヒンドゥー教徒で、仏教の素養はあまり多くは望めなかったが、日常会話は十分であった。空港には、これから私たちを陸路2000キロの旅に導くテンポ・トラベラーという12人乗りマイクロバスが待っていた。別に運転手と護衛兼乗務員の2人がいた。<br />  今回は事故のため、ナーランダ大学遺跡の訪問が叶わなかったが、私たちはナーランダからラージギルへ直行した。この日はデリー発の飛行機が3時間半遅れて出発し、ナーランダの事故もあり、散々な目にあったが、これ以上のトラブルは無しにしてほしいと願いつつラージギルへ着いた。すでに時刻は4時半を過ぎている。要領よく回らなければならない。最初に立ち寄る予定の竹林精舎公園を省き、霊鷲山に向かった。途中往時の王舎城跡を右手に眺め、左手にビンビサーラ王の牢獄跡も見られたが、目的は唯一つ霊鷲山。到着は五時少し前。ガイド氏は「もう遅いので途中までにしましょう。」と提案するが、委細構わず霊鷲山の石段を登り始める。ここのシーズンオフには盗賊が出没するという情報を得ていたが、まだ下山客の人並みがしげかった。二百メートルほどしてガイド氏が「この辺で引き返しませんか」と声をかけた時の事、背の高い警察官が、「私が一緒に行きます。心配ありません。」ときれいな英語で話しかけた。これぞ「地獄で仏」ではなくて「霊鷲山で警官仏」にちがいない。そう思ってますます元気を出して一気に上り詰めた。三十分くらいだったろうか。<br />  山上で記念写真を写し、わずかな時間であったが十分に満たされたひと時を味わうことができた。<br />帰路は既に午後六時近くになり、幾らか夕闇が迫ってきた。同行の警察官が笑顔で語りかける。「貴方は以前お逢いしましたね。私はよく覚えていますよ」というのだ。確かに見覚えのある顔だ。6年前、シーズンォフに来て、最初から最後まで付き添ってくれた警察官だった。かれは外国人観光客専任のガードマン役になっていたのだろうか。同時にしつこく物売りをする少年が、片言の日本語で「先生、ここに段がある。気を付けて」といちいち懐中電灯を照らす。最後に警察官とは別に彼にもチップを出した。霊鷲山を出たバスは暗くなったラージギルからガヤへ向かう長い下り坂を急いで降りて行った。<br />    ブッダガヤからバーラナシーへー2月29日(水)<br />  今回のホテルは「ローヤルデジデンシー」。比較的落ち着いた雰囲気を持っている。 インドへきて初めてゆっくりと睡眠をとっての目覚めだった。午前8時出発で最初に大菩提寺の参詣。まだ2月の末だというのに、すでに公園内の「無憂樹」は蕾を大きく膨らませていた。ガイド氏は無憂樹のインド名がアショーカという事が理解できない。園内にある「ナガバキダチソウカ」をアショーカと呼んでいた。私は以前2度、佛跡巡拜をしているが、仏陀正覺の地である古代ウルヴェーラから初転法輪の地サールナートへ直行するのは初めて。「ウルヴェーラ」とは「広い岸辺」の意味で、ネーランジャ川両側にあった森林地帯の総称だが、現在ではガヤ市郊外にある「ブッダのガヤ」という意味を込めて「ブッダガヤ」と呼ぶ。サールナートへは直線で210キロ、道をたどれば、300キロにはなるだろう。<br />    高速国道2号線の旅<br />  私たちは大菩提寺〜セーナ村のスジャータの塔、乳糜林などへお参りして、一路バーラナシーへ向かった。仏陀初転法輪の旅は直線で西に向かうことなく、ガヤを経由していったと伝えられているので、私たちも、比較的そのコースに沿った道のりだった。ガヤから東に進みハンスプルで一旦南下してオーランガバードに出たようだ。ここで高速国道二号線に乗り、一路西に進んでソン河という大河に掛かる橋梁を渡り、ジャハナバード近くのサービスエリヤで休憩し、昼食をとった。道はさすがに有料の高速道路だけあって、快適に走行した。しかし沿道の風景は二千五百年以前、ブッダが初転法輪のためにガンガの彼方、カーシー国の仙人堕處、鹿野苑へ向かった道の風景なのであった。当時としては10日から2週間を費やして歩いたものと思われる。道はいつしかビハール州を通り越しウッタルプラデシュ州へ入っていた。ムガールサライの出口で一般道に出ると道は直ぐにガタガタ道になった。一応は舗装されているが、重い荷物を積んだ大型トラックの交通量が、道路補修工事をはるかに凌駕している。時折補修された部分もあるが、直ぐにガタガタ道となり、車は窪みを避け蛇行しながら揺られて走る。<br />「ムガールサライ」Mughalsaraiとは漠然と「ムガールの沙羅」を連想するので、なんとなく素晴らしい街という感じを受けるが、ここはデリー方面、コルカタ方面からの長距離列車がバーラナシー方面への乗換駅として重要な拠点となっている。ここの鉄道操車場は、かつてアジア最大の長さを誇っていた。またインドの第二代首相ラール・バハードゥル・シャーストリー、(1964-1965の間)は、この町で生まれ、ここで亡くなっている。2001年インド国勢調査でMughalsarai市の人口は88,386人。またMughalsarai行政区全体では2001年現在116,246人だった。<br />  鉄道操車場とその鉄道施設は有名であり、16の鉄道施設がある。インド鉄道に属する東部中央駅(ECR)ゾーンとなっている。一日約125本の旅客列車が停車する。バラナシ市へは、グランド ・ トランク (一般 GT 道する省略)GTロード経由でMughalsarai駅から北西へ16キロ。<br />      ムガールサライから橋を渡ってバーラナシーへ<br />  ともかくこの町はゴタゴタした町だ。やがて町を抜けるとガンガに掛かる大きな橋梁を渡ってバーラナシーの町に入った。この日はここの「ホテル・タージガンジス」で宿泊。到着は午後4時半ころ。この町はガイド氏の出身地なので、いろいろと夜の町に案内するとのことだったが、私はマッサージをお願いしてホテルから外へは出なかった。<br /><br />    ガンガに小舟を浮かべて早朝の水上観光ー3月1日(水)<br /><br />  1日、早朝6:00、ホテルを出た。現地旅行社からのレポートに目を通すと「ヴァーラナシーの地名は北を流れるヴァルナ川と南を流れるアーシー川の間に位置することに由来する」とあった。もっともインドの歴史を代弁しているのがヴァーラナシーと言われている。市内で購入した絵葉書には祭りでの行進の様子が写っているが、大半の男性が素っ裸で何もまとっていない。「こんなことが許されるのは世界中で恐らくここだけなのではないだろうか」と考えたが、実際にはインドの幾つかの場所で裸行列が行われている。専用車の迎えで河の畔に出て、小船で早朝のガンガ遊覧を楽しんだ。木造の手漕ぎ舟で、船頭、ガイドの他に一人保安要員らしい人と私たち九人の客だけだった。岸辺の沐浴場で沐浴する人、泳ぐ人、ヒンドゥー寺院で朝の勤行をする僧侶、火葬場では幾つかの遺体が荼毘に付されている。日の出を拝む人、聖なるガンガの水で身を清める人、物を売る人、喜捨を要求する人などと出会った。私たちの小船に、小さな小舟が横付けされ、少女が蓮の葉をかたちどった入れ物に立てた赤紫色の蝋燭二個に灯を点した。幾らかと聞くと「5ルピー」と答えたので、小銭を渡すと、燈明はガンガの流れに乗った。燈明流しなのだった。その後には次から次へと物売りが来たが、碌なものはなかった。中でもおかしかったのは、真鍮の小さな壷売りだ。彼は頻りに「ガンガの水を汲んで家に持ち帰ると好い事がある」と説明するが、価値観の相違か、衛生意識のズレか、私たち日本人にとっては「こんな不衛生な水を日本に持ち込んだら、検疫に引っかかる」と考えてしまう。舟を降り、迷路のような狭い路地に入るとあちこちに牛が散歩したり、寝そべったりしている。牛糞もあちこちにあり、悪臭がする中に鮮やかな色彩のガネーシャの祠があった。朝の食事をする様子や、露店に商品を並べる人も見えた。小さなお堂でお参りする人、警察官、大勢の人に出会った。カメラを向けようとすると、ガイド氏が「ここは撮影禁止地区です」と遮った。路地を通り抜け、市内の散策後、ホテルで朝食。 <br /><br />    サールナート博物館と鹿野苑のお参り<br />  午前9時、専用車で仏陀初転法輪の地「サールナート・・・鹿野苑」に向かった。サルナートは、インドのウッタル・プラデーシュ州にある地名。ワーラーナシー(ベナレス)の北方約10kmに位置する。釈迦が悟りを開いた後、初めて説法を説いた地とされる。初転法輪の地。仏教の四大聖地のひとつ。鹿が多くいたことから鹿野苑(ろくやおん)とも表される。現在はインド政府によって整理されて遺跡公園になっている。またこの周辺からは「サールナート仏」と呼ばれる仏像が多数出土し、最高傑作とも評される「初転法輪像」がサールナート考古博物館に収蔵されている。29歳でシャカ国の王城を逃れ、6年間の難行苦行の後、その空しさを知り、マガダ国、ウルヴェーダなるネーランジャ川の水で沐浴し、牛飼いの娘スジァータの乳粥供養を受けて後、体力を回復したシッダルタ王子は、菩提樹の下で禅定に入り、12月8日、暁の明星を見て、「大地有情同時成道」された。後世シャカ族出身の聖者と呼ばれる釈迦牟尼佛世尊=ブッダなのであった。<br />  ブッダ世尊がウルヴェーダの森で悟りを開いて後、自ら覚った法門は「甚深にして知り難く解し難し」として他人に説くことを願わなかったが、梵天の勧請によって、その思いを翻し、この世のどこかには「聞いて解する人」が有る筈だと思惟をめぐらしたところ、自分がかつて教えを問うたアーララ・カーラマとウッダカ・ラーマプッタの二人ならそれが可能だと思い浮かんだが、しかし2人はいずれも既に他界していた。そこで次に思い浮かんだのが、自分がかつて修行していた時に、自分に仕えてくれた五人の出家者であった。彼らはその当時ヴァーラナシー国リシパタナ(仙人の集まる所)にある鹿野苑(現在のサールナート)にいることが分ったので、仏陀は300キロの道を遠しとせず、ソン河・ガンガ河の二つの大きな河を越えて歩いてきたのだった。<br />  私たちはホテルから車で15分ほどしてサールナートに到着。最初に出逢うのがチャウカンディー・ストゥーパ(迎仏塔)である。ヴァーラナシーから来ると考古博物館の少し手前、進行方向左側にある小高い丘のような塚がある。玄奘三蔵の記録によるとここで五比丘が仏陀世尊を出迎えた所だというのである。これは本来塚そのものがストゥーパであったが、その塔の上にムガール帝国の第三代皇帝アクバル(在位1556〜1605)が戦いの勝利の証しとして構築したものという。ここで車を停車して車内からお参り。<br />  次にサールナート国立考古博物館に到着。ここはカメラ、ビデオとあわせて携帯電話の持込が禁止されている。写真撮影が一切禁止されているからだ。インドの伝統的建築様式と思われる赤砂岩風の博物館入り口では、空港並みの厳しい所持品検査が行われた。館内は撮影禁止だが、何故か、館内所蔵の代表的な彫像はすべてその影像が巷間に出回って、入手可能だから、一々撮影する手間が省け、ゆっくりと鑑賞できる。館内に入って左手奥には有名な仏陀初転法輪像が奉られている。―博物館だから置かれていると云うのが適切かもしれないが、委細関係なく七条衣を搭けて礼拝した。その後ゆっくりとお参りし、鑑賞。サールナート様式と言われるうっすらと赤みを帯びた砂岩にふっくらと丸みを帯びた彫像、伏し目がちな面持ち、説法印の何れも、「自分の覚り得た法は、説くことが難しく、これを聞いて理解するものが少ない」という、戸惑いにも似た表情を浮かべている。その他いくつもの彫像が展示されていたが、全てこの像を引き立てるための装飾品に思えた。正面に戻ると、入館時には気づかなかった大きな四面獅子像が安置されていた。恐らく初転法輪像のみに気をとられていたのだろう。しかしこれはこの地に建立されたアショーカ王石柱の頭部として時代を見渡している重要な歴史的彫像であり、インドの国章、紙幣やその他公文書の紋章ともなっている、そのオリジナルなのだった。<br /> 館内を出ると遅まきながらようやくブツダ初転法輪の地鹿野苑のお参りとなった。博物館を出ると、すぐその向かいが遺跡公園となっている。英語のガイド板が記されているが、ガイド氏はほとんど詳しい説明はしてくれなかった。しかも手前右手奥に巨大なダメーク・ストゥーパが建っているので、興味はいつしかそちらに向かってしまう。<br /> しかしここに広がる巨大仏塔遺跡こそが、仏陀世尊が五比丘のために初めて法を説いた場所であり、それを記念するためにアショーカ王が建立したダルマラージカの仏塔遺跡なのであった。漢訳されて法王塔といい、玄奘三蔵が訪問したころには百尺に余る石積みの塔があったと記録されている。唐代の一尺は約29、4センチに相当するから30メートル程の壮大な仏塔だったことが想像される。そしてその手前には七十余尺=21メートル程度のアショーカ王石柱が立っていたと記されるが、現在でもその一部が仏塔の北部に残されている。頭部は博物館に収蔵される四つ頭の獅子像であり、これが現在インドの国章となっている。<br /> 私たちはここで礼拝読経したのちにダメーク・ストゥーパへ向かった。<br />    ダメーク・ストゥーパDhamekh・Stupa<br />  ブッダガヤで正覚を成じた後、ブッダ世尊がここで初めての法輪を転じられた。この仏塔は恐らくサールナートで最も目につく建造物であろう。この塔はDhamekまたはDhamekhおよびDhamekhaと綴られ、その意味は「法の輪」からきているものと思われる。紀元前249年、マウリヤ王朝のアショーカ王によってその原型が構築され、その後紀元500年ころに増補構築されたと伝えられる。アショーカ王建造当初は、荼毘に付された骨の小片、およびブッダとその弟子の他の遺物を安置するためのもので、その原型は大きな石で取り囲まれていた循環的な塚であったとされる。またアショーカ王の石柱はこの近くに建てられている。この塔はその後六度拡大されたが、上部は未完成のままと言われている。<br />  西暦640にサールナートを訪れた玄奘三蔵は、この伽藍に1500人の僧徒が修行しており、主な卒塔婆の高さが、ほぼ二百尺(59m)だったと記録している。現状は高さ13mの台座の上に31mの塔が立っているので、総高は43 .6メーター、直径は28メーターとなっている。石の枠組みの中にレンガで構築されている。基壇の最下部は、アショーカ建造当時の構造が残存しているとされる。石の外面の彫刻は、グプタ起源の微妙な花を表示し、壁は塔心から発掘された銘にも記されるように人間と鳥の精巧に切り分けた図でも覆われている。<br />本格的な発掘調査は、20世紀前半に、英国の陸軍大佐カニングハムによって始めて行われた。卒塔婆の幹の上の装飾模様は幾何学的および花柄で刻んで作られており、その龕は佛塔の中心を際立たせる。全体にまんじ(鉤十字)の広帯域から成っている。これらのまんじはその上に、およびそれ以下に走って、素晴らしくたがねで彫ったようなハスを備えた異なる幾何学模様の中で刻んで作られている。それらは衆目を引き時代と共に過去12回も拡張し拡大されたという。最初の発掘中に、石の刻字板が発見されたことは有名だ。それによるとこの佛塔の名前はダメークDhamekとなっていた。それはブッダ世尊がここで最初の説法をされたことを示している。単語Dhamekが法輪を回すことを意味する法輪の変形であることは、一般に歴史家によって一致している。<br />なおカニンガムが発掘した石板には<br />         すべての物事は原因より生じる。それらの原因を如来は説いた。また偉大なる仏陀沙門は、存在の止滅の原因をも説いた。<br />と書かれていたと伝えられている。私たちはダメーク・ストゥーパの一角で読経をし詠讃歌も奉詠してから、この塔を右回りに三遍し礼拝してから、次の根本香積寺への参拝に移った。<br /><br />    ムルガンダ クティ寺院(根本香積寺・初転法輪寺) <br />  ndia Historic Spots (a12) ムルガンダ クティ寺院 Mulagandha kuti Vihara<br />サルナートの東端にある仏教寺院。中央に金色の大きな本尊が置かれ、日本では初転法輪寺(根本香積寺)とも呼ばれる。1931年に建立。壁面には野生司 香雪(のうす こうせつ)(1885-1973)。香川県出身による仏陀の一生が描かれている。<br /><br />    ヴァーラナシーからクシナガラへー3月1日(水)<br />  10:00発、専用車でクシナガラへ向かう。行程265キロ。道はしっかりと舗装されて速度も適当に上がっている。沿道の田んぼは鋤き起こされていたが、田植えはまだだ。相変わらず牛がたくさん放し飼いにされている。小さな黒いヤギも見られた。ブツダもこのあたりの道を往来されたのだろうか。道の両側にはインドボダイジュ、ユーカリ、ガジュマル、マンゴーなどの並木が見られる。ガグラ河の橋梁を過ぎると急に街らしくなり、やがてゴーラクプルの郊外になってきた。ここは少しずつ進むことができるが、自動車、オートリクシャー、リンタク、荷車、自転車、牛車、リクシャー、牛、ヤギ、歩行者のおもちゃ箱道路となっている。この街を通過するのに40分ほど費やした。やがて正面に大きな湖が見えたところを左折すると、どうやら一路クシナガラへの道となった。右手にインド空軍の基地があり、それを通り過ぎると今度はしばらくチーク(沙羅との説もあり)の林が続いた。ゴーラクブルを過ぎると以前工事中だった高速道路は既にかなり完成して、一部は供用も始まっていた。快適に「一路涅槃の径に入らしむ」とお経の文句を口ずさみながら、当然往復切符のつもりで走る。もうあたりは夕闇が立ち込めてきたが、中央分離帯のある高速道路にも拘わらず、時折逆走する対向車の前照灯が目に入る。無灯火の逆走車、荷車や牛の群れ、果ては防護壁を自転車を担いで乗り越えて道路を横断する者。無法地帯と言うか、経済発展に伴い道路だけは立派なものを作るが、利用者の交通規則の順守、公徳心の欠如あるいは住民と施設のミスマッチなのか。運転席のすぐ後ろに座っている私にとっては正に「スリルとサスペンスに満ち溢れた」寿命を縮めそうな旅だ。16:40クシナガラのパティク・ニワス・ホテルに到着。実は私が6年前初めて訪問した時、このホテルを利用し、2度目はロータスニッコウ・ホテルだった。チェックインを済ませ、シャワーを使ってさっぱりした後に夕食をとり、ゆっくりとその晩を過ごした。<br /><br />クシナガラの巡礼、涅槃堂・荼毘塚・ファジルナガルー3月2日(木)<br /> ホテルで朝食を済ませ、私たちは最初に涅槃堂の参拝に出かけた。涅槃堂には早朝だというのに、既にスリランカの巡礼団が幅五メートル、丈2,5メートル程もありそうな大きなお袈裟を10人程の信者が広げて捧げ持ちながら涅槃像の側に進み、これを鄭重にかけていた。管理者の許可を受けているという感じはなかった。通常の寸法で造られた橙色のお袈裟も何体も畳んだまま供えられている。それが次第に増えて行くので、傍らにいるインド人比丘と思しき人が次々と片付けていた。私たちは何となく正に異邦人という感じで、片隅に座り、小声で読経をし、涅槃像を右回りに三遍回った。<br />  それにしても熱心な巡礼団に違いないが、もう少し他人のお参りに気を使ってくれたら、お互いに気持ち良くお参りできるのにと思った。それでも私たちは満たされた想いで、涅槃堂を出て正面左手にある大きな沙羅の木を見上げた。かすかな梢には既に沙羅華の蕾が見られた。<br />  私たちはさらに舎利塔の北側から東手に回ると、そこではインド人の比丘が坐禅をしていた。そこを避けて、少し人通りの少ない場所で香華を手向け、大悲心陀羅尼、涅槃和讃を唱えて礼拝回向した。確かに私たちは念願かなって佛跡巡拜の旅に出て、しかも仏陀涅槃の地にお参りしているのだから、云ってみればプロ野球投手の「一軍のマウンド」にたっているのと同じ、歌舞伎役者のひのき舞台に立っているのと変わらないはずだが、それでも他の参拝者の邪魔にならないように、正面を避けてお参りを続ける姿は、他国の巡礼者には理解できない心境かもしれない。それであっても私は「いま仏土に詣でた」という充足感はみなぎっていた。園内の無憂樹は既に蕾を膨らませていた。私たちは再び涅槃堂の正面を横切り、沙羅双樹の大木の下から西に進むと左手に大きな梵鐘があった。何でもイギリス人の実業家夫人が奉納したものとのことだった。その傍らを通り藪を抜けるとそこにミャンマー寺院のパゴダが金色燦然と輝いていた。しかしそこへ行く前に私は、手前の管理棟のような小さな建物の庭に赤く鮮やかに咲いている無憂樹の花を見つけた。「帰来試みに梅枝を把てみれば、春は枝上に在って既に十分」とはこのことか。否、「無憂華はビルマ寺の側に咲いて既に満開」と表現した方が適切か。<br />  涅槃堂公園東のミャンマー寺を出ると、直ちにバスに乗り込んで荼毘塚に向かった。車で十分と掛からない場所。涅槃堂から東に一.五?にあたる。仏陀世尊が荼毘(火葬)にふされたのを記念して建立されたのがこの荼毘塚(ラーマバール・ストゥーパRamabhar Stupa)である。 高さ15メートル、直径34メートルのレンガ造りである。現在クシナガラの涅槃堂にある涅槃像はこの川底から1876年に発見されるまで埋もれており、掘り起こされた涅槃像を現在の場所に運び涅槃堂を造営した。その北側を仏陀が最後の沐浴をされたというヒランニヤヴァティー河が静かに流れている。私たちはここでも例のごとく周囲を三帀し、焼香礼拝、読経詠讃歌奉詠し、塚の入口を出て、西側から裏手に回り、ヒランニヤヴァティー河の水辺に出た。昔はもっと大きな河だったと伝えられる。そしてもっと涅槃堂の近くを流れていたのではないかと考えながら、クシナガラの巡礼を終えた。しかし私たちはルンビニ方面に直行せず、いったん南東へ18キロほど離れたファジルナガルへ向かった。そこは仏陀に最後の供養をしたチュンダの村という。<br /><br />クシナガラから国境を越えてネパールのルンビニへー3月2日(木)?<br /><br />  チュンダ村の訪問を終え、予想外の満足感と共に私たちはクシナガラを去った。すでに正午を過ぎていたが、なぜか空腹ではなかった。私たちは一路、ゴーラクブルを経由して国境の町ナウタンワに急いだ。高速道路となった国道二八号線を快適に進んで、ゴーラクブルに入った。道はここで国境越えでバイラワ方面へと北進した。これからは一般国道二十九号線で道路の凹凸にしばしば悩まされた。<br />ゴーラクブルの街を通り過ぎて郊外に出る直前のレストランで遅まきの昼食を取った。地図の上ではヴィカス・ナガルVikas nagarという町らしい。食後再び車上の人となると、やがて郊外になり、大きな川が見えてきた。これは川が蛇行で取り残されて細長い池になっているといった感じだ。<br />      国境を越えてルンビニへ<br />  国境周辺の田舎道を三十分ほど走り、道はやがて広い田園地帯に差し掛かった。右手には広葉樹の林が続く。よく見るとチークのあるが、大半は沙羅樹であり、梢にはどうやら花蕾を付けているようだが、遠く高い木なので確認できない。左手に鉄道が見えてきて、しばらく並行して進む。国境の街ナウタンワに向かう鉄道である。アナンドナガルAnandnagarという町で道は西へは州道一号A線で、祇園精舎のあるベーライチ方面。東はマハラジガンジMaharajganj方面の州道八六号線のようだ。このあたりから、しっかりとした舗装に変わり、道幅も広く、往来の車両も急に増えてきた。10分もしないうちに、道の両側には大型トラックが北に向って左側に二列、南に向って右側に一列―一列が3〜40輌ほど並んでいた。それは例のHORN PLEESEと書いた代物であった。当初私は検問所の通過待ちで列を作っていると思い、これでは通過するのに半日くらい掛かるのではないかと焦ったが、そうではなく、国境越えの手前で一休みしているところらしい。つまりサービスエリアかドライブインのつもりらしい。私たちの車は道の中央のやや右側に3メートルほど開いた路線を対向車とすれ違ったり、トラックとトラックの間に入ったりしながら、どんどん進んで行くともう左右には商店街が有り、ありとあらゆる生活物資が売られている。車は国境の門牌(ゲート)をさりげなく通り過ぎ広場となった道の左手に注射した。ガイド氏は会員一同に旅券、写真に25ドルを添えて提出するように指示したが、私たちは全員すでに用意していた。受け取ると運転手氏と一緒に入管事務所に消えた。しばくしてガイド氏が入国査証の申請書を持ってもどり、各人に記入と署名を求めた。15分ほどして再び戻ったときはすでに入国手続きは完了していた。運転手氏はネパールのナンバープレートを持ってきて前方の窓際に置いた。我々の旅券には査証と入国許可シールやスタンプがあった。私たちは実際には審査を受けていないのだが、「もう済みました、それでは行きましょう。」ということで検問所をいつの間にか通り過ぎた。所要時間は渋滞と手続きをあわせて50分ほどだった。ただガイド氏が入管職員は「入国と出国について各々500ルピー、合計1000ルピーの賄賂を要求した」と憤慨していた。―とは言っても実際に支払うのは私たちなのだから、本人がそれ程までにムキにならなくてもよかったのではないだろうか。検問所を過ぎると道の両側の街はしっかりと整っているようになり、気のせいなのだろうか、インド側より清潔で都会らしくなってきた。すでにバイラワ市内に入り、さらに進むとバスは左折した。郊外に出てきたころには左側に空港が見えた。バイラワ空港だ。バイラワの正式名称は「シッダルタ・ナガル市」。仏陀誕生のルンビニ玄関口の都市名としては最適なのだが、ここの空港名、市名いずれもバイラワで通用している。午後四時ルンビニに到着。バイラワからルンビニまでは一八キロ。広々とした平原、雨期を待つ田んぼには沢山の牛が放牧されている。往時のシャカ族の故郷がここなのだ。目前に森が見えたあたりを左折して進むと間もなく世界文化遺産に登録されたルンビニの入口に到着。私たちが今夜宿泊するブッダ・マヤ・ガーデンホテルは公園入口南に隣接していた。<br /><br />  世界遺産仏陀の生誕地ルンビニの参拝―3月3日(金)<br /><br />よく晴れたルンビニの早朝、ホテルで朝食を済ませ、六時三十分世界遺産「仏陀の生誕地ルンビニ」記念公園へ参拝した。早朝のためか少し東側に回った入口までバスを進めて入園した。六年前に訪問したときは麻耶寺の色が褐色だったが、今回は創建当時の白に塗りかえられていた。<br />  ルンビニは一九九七年、ユネスコの「世界文化遺産」に登録されている。私たちが訪問した時点では、実によく整備された遺跡公園という感じであり、九年前に新しく建設されたマヤ寺院はあまりにも大きく、しかも出生地遺跡の多くを寺院内に封じ込めた形のどちらかといえば博物館であった。礼拝の中心である誕生標石や誕生彫刻板も防弾ガラスで保護され、はるか頭上の壁間にはめ込まれ、その上複製品の彫像も少し離れたネパール仏教寺院に移されてしまい。何となく誕生の仏陀に親しく御逢いできる雰囲気が感じられない。この印象は多分他の巡礼者も持つことだろうから、いずれ改善されるだろう。またアショーカ大王石柱は、これが学術的な価値を持つことは当然だが、今の技術で馬の彫像を復元して建立当時の形態に蘇らすことも可能と思うが、どうだろうか。<br />仏教の三大聖木<br />そんな思いを描きながら、庭園内を散策し、菩提樹や無憂樹を鑑賞した。太子を出産された折、マヤ夫人が美しい花を愛でて右手を差し伸べた無憂樹はもちろん今は枯果ててないが、庭園のあちこちには大きな無憂樹が茂り、いま丁度開花のときを迎え、赤く咲き始めている。あの鳳凰木のような鮮やかさではないが、いかにも仏誕生の花らしく浅緑の梢にその姿を隠すようにひっそりと咲いていた。最近ことに「仏教の三大聖木」というのがインターネットのホームページ上で取り上げられている。<br />無憂樹=アショーカ………………仏陀誕生の花<br />菩提樹=ボディープリクシャ……仏陀成道の花<br />娑羅樹=サーラ樹…………………仏陀入滅の花<br />この中の菩提樹には日本原産、中国原産、西洋原産、インド原産のものと四種類あり、中国や我国ではそれぞれその原産木が定着している。最近インド菩提樹の日本国内での露地栽培に成功した改良品種が販売されるようになり、私のお寺にも定植した。娑羅樹は従来、日本では「ナツツバキ」がこれに当てられていた。これとは別に、最近インド原産のものが国内に植えられることになったが、こちらは寒さに強いので、そのまま植えられる。問題は無憂樹=アショーカだ。インドや南アジアでは当たり前に繁茂して開花するが、寒さに弱く、現在我では一部の植物園などで温室栽培されているだけだ。ただ私は昨年この樹の苗木数本を入手して栽培している。無憂樹は次のように紹介されている<br />―ムユウジュはマメ科の常緑高木で、ふつう四〜八メートルぐらいのものが多いが二〇メートルを超すものもあるという。樹皮は厚く灰褐色。葉は羽状複葉をなし、小葉はほとんど無柄または短い柄を有し、長楕円形〜披針形で先は尖り、濃緑色でやや革質、表面はつやがある。花は細い枝先や太い枝に叢ってつき、オレンジ〜濃黄色。花弁は退化して存在しないが、瓢箪の上部が四烈し、花弁のように見える。莢は扁平で長く、中に多くの種子を蔵する。(『仏教の三大聖木とその薬効』成瀬忠延著) ―むうじゅ[無憂樹](梵語asoka)釈尊の生母摩耶夫人が出産のため生家に帰る途中、爐毘尼園の菩提樹下で釈尊を生んだ。安産であったため、この樹を無憂樹といい、その花を無憂華という。(『広辞苑』)<br />沐浴池の側らに茂る菩提樹の根本は洞となっており、そこになにやら小さな仏像が祀られていた。そこで焼香礼拝して、一巻の般若心経、釈尊降誕御和讃を唱えて回向した。早朝のためか全体に参詣者は少なかったが、すがすがしい巡礼となった。以前見た「アーナンダ菩提樹」は傷みが激しいのか、あるいは枝が垂れてくるのを抑えるためか、何本もの支柱が建てられていた。<br />また咲きはじめた無憂華の下で会員の女性が、仏陀降誕にあやかって、右手を華に差し伸べて記念撮影をした。麻耶夫人四十二歳の光景を彷彿させる?????????ものだった。<br /><br />クダン、ティラウラコットー怪我の功名でクダンに立ち寄る<br />午前8時30分出発。当初から予定していたネパール側の釈迦国首都とされる「ティラウラコット」へと向った。往時の迦毘羅衛城とされる遺跡だ。・・・・・ところが意外なことに私たちのバスは反対方向のバイラワに走り始めたので、私は大声でバスを停車させ、「これは方向が違う。ティラウラコットは西だ」と訴えた。ガイドのビナイ氏はそもそもティラウラコットへ行ったことがなかった。彼は未だ年が若いせいか、こうしたときの対処方法を心得ていない。いきなり「私は日本語が分らない。それに反対方向に行くと次の祇園精舎への行程が厳しくなる」と言う始末。私は多少なりともここの事情が分かっていたので、「それは了解しているが、初めからティラウラコットへ行くことは、旅行契約にも書いてある。ともかくそこへ行くように」と命じた。・・・・私はそんな態度をとることが滅多にないが、他の参加者の希望もあるのだから、是非とも行き事を望んだ。彼は「遅れて予定の夜行列車に乗れなくても責任が持てない」と捨て台詞を投げたが、無視して強引にバスを反対方向に走らせた。<br />ルンビニを通過し、カピラブァストゥ県の県庁所在地であるタウリハワへと進む。ルンビニから約23キロメートル。街の中心部の交差点を右折し、北に向うと、道は細い田舎道となる。3キロほど進んで右手の森に向うと、そこがティラウラコット遺跡であり、ここがカピラブァストゥの西門のはずである。・・・・・ところがである。タウリハワの交差点を右に回って北に向かうはずのバスが、なぜか左に曲がって南に進み始めた。私は少し黙ってこれに従った。バスが五分ほど走り、町を抜けたあたりの右側に遺跡があるあたりで停車した。私は内心「ここはクダン遺跡だ」・・・始めから時間に余裕があれば、ここに行きたいと思っていたので、私は周囲の仲間と共に車上から、その遺跡を遥拝した。クダンというのはネパール観光の一般客にはあまりなじみのない所だが、ここは出家・修行して仏陀となられた釋迦牟尼世尊が初めて里帰りして、父淨飯王はじめ一族を教化したが、そのおり、王宮に止宿せず、少し離れたニグローダ林(ガジュマル林)を宿としたのであった。その場所に後世、記念のための仏塔が建てられたのがクダン遺跡であった。私たちは「これぞ怪我の功名」とばかり、小躍りして喜んだ。そんなこととは知らない、ガイド氏と運転手は地元の人にティラウラコット遺跡の方向を尋ねて、引き返し始めた。バスは10分ほどして到着した。<br /><br />

ふたたびブッダの故郷を訪ねて

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2012/02/27 - 2012/03/05

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erindojunさん

 インドは4回目、3度目の佛跡巡拝。ただし四大佛跡と言われるルンビニ・ブッダガヤ・サールナート・クシナガラをすべてまとめて回ったのは今回が初めて。その旅を無事に円成出来ました。今回少数ながら団体旅行だったので、がむしゃらに旅程を組んだため、ゆっくりとブッダの故郷に額づく事はできなかったーという反省もあります。
 ナーランダ遺跡近くで、私たちのバスはいきなり地元住民から、ボディを叩かれ、罵声を浴びせられました。これは何台か前を先行した観光バスが地元民を撥ねて死亡させた事が原因でした。私たちにその事故の詳細は何も知らされませんでした。しかし今から20年ほど以前には、上位カーストの車が指定カーストの人を轢き殺しても、警察、マスコミ、地元住民までが、見て見ぬふりをして終わらせたという話を聞いた事があります。しかし今回の事故やそれに対応する処置はかなり常識に近くなっていました。ナーランダ遺跡の訪問が出来なかったのは事実ですが、実はインドには一般の日本人観光客がほとんど行かない仏教の古代大学遺跡がいくつかあります。その中で最も有名なのがヴィクラマシーラ大学Vikramaśīla University遺跡です。ビハール州東部バーガールプル県に存在し、ナーランダ大学と共に、後期インド仏教の主要な拠点でした。パーラ王朝の王ダルマパーラ(七八三〜八二〇)によって、八世紀末-九世紀初頭に創設され、アティーシャという高僧はここで学頭を勤めた後チベットに新しい仏教を伝えたことで有名です。一一九三年にナーランダ大学が破壊されたのと同様、その十年後の一二〇三年に、デリー・スルタン諸王最初のスルタン・アイバク配下の将軍の率いるトルコイスラム勢力の侵攻で、大学は破壊され、インド仏教の命脈は絶たれました。またバングラデシュ、ラジシャヒ管区にあるパハルプールの仏教寺院遺跡は世界遺産に指定されています。これも当時の仏教大学遺跡ですが、同じ運命をただっています。ここだけがユネスコの世界遺産に登録されたのは恐らく、世界遺産が少ないバングラデシュに属していたからと考えられます。またこの遺跡近くにジャガッダラ、またナーランダ遺跡近くにはオーダンタプリOdantapuriのそれぞれ大学遺跡があります。こんな事実を聞いただけでも、私はすぐに飛んでゆきたくなりますが、将来の楽しみにしましょう。
 旅行ガイドブックに書かれるインドの宗教は、一部の者の手で情報操作された内容なので、その実態はなかなか理解できません。インドでの挨拶は「ナマステ」ではなく「ジャイ・ビーム」ですよと私が言えば「そんなバカな事はない」と言われるでしょう。12億人口の中、イスラム教徒3億、仏教徒3億、ヒンドゥー教徒5億、その他1億と言えば、「あんたの頭はおかしい」と指摘されるでしょう。
しかしこれがインドの偽らない現実であり、10年もしないうちにインドはさらに大変革されるでしょう。・・・・今回の佛跡巡拝が私に語りかけたインドの素顔は、確実にそれを裏付けつつある事を実感しました。近い将来、5度目のインドを目指す決意を持っています。
 平成24年2月27日から3月5日までの8日間にわたり、再びブッダの故郷を訪ねた。インド旅行の季節として最善の冬期にあたるので、寺の檀信徒、参禅者その他の知人にも声をかけ、9人の同行となった。私は旅行のベテランでもインド旅行の格別な愛好家でもないが、今回、4度目となるので、往復の航空券と初日のデリーでのホテルだけをインターネットで予約し、その他は別にインド国内にある現地ツアーを計画する業者に依頼した。インド旅行では日本の旅行業社への支払いが多くなる傾向があるので、それを抑えるのが理由の一つだった。

名古屋から香港経由でデリーへー2月27日(月)
27日(月)中部国際空港09:55発キャセイ・パシフィックCX533便は定刻に就航。機種はエアバス330〇機264人乗り。日本の航空会社はボーイング社製が多いが、キャセイはフランスを拠点とする欧州製のエアバス機を多用するようだ。中型飛行機で、多少空席が見られた。香港国際空港に現地時間13時30分着。デリー行きキングフィッシャーIT32便への乗継時間は約5時間30分。
23時50分、デリーのインディラガンジー国際空港に到着。ここでインド・エンボイツアーの職員モリシュ氏MR monishが出迎えてくれた。私はすでに、エンボイツアー社社長デイーパ・ジェインさんと幾たびかEメールで連絡を取り、この空港で必要な経費をモリシュ氏に手渡し、その領収書を受け取ること、当日私たちが宿泊するホテル・エアーポートシティー・ニューデリーまで専用車で送り届け、かつ翌朝のパトナ行国内線搭乗のため、迎えに来る事を確認していた。しかしモリシュ氏には現金の受け渡し、インド国内旅行の細部に亘る計画書、ホテルのバウチャー等の手渡し以外は周知されていなかった。そこで、私たちのホテルへの送迎を依頼し、取りあえずホテルへ移動した。日本では考えられない事だが、彼らは私たちの宿泊するホテルの名前も場所も分らない。私が用意していたホテルの詳しい住所と電話番号を書き込んだ地図を見せたので、かろうじて該当するホテルへ案内してもらうことができた。
ホテルは国内線の就航するインディラ・ガイディー国際空港ターミナル1A(旧パーラム空港)近くであったが、実は最近、国内線も大半は新しいターミナル3へ変更されたので、結果的には少し離れた場所に行ってしまった。ともあれ初日のインドでの宿泊は、疲れているせいかよく眠った。
デリーから国内線でパトナへ・専用車でナーランダ・ラージギル・ブッダガヤへ
ー二月二八日(火)
前日、インドに着いた私たちはこの日が2日目となるが、実質的にはインドの初日だ。当初、デリー空港7時00分発のゴーエアーG8-341便でパトナへ行く予定にしていたが、その便は数日前になって急にキャンセルされた。私が搭乗券を購入した旅行社に問い合わせると、「貴方たちは当日午後の便または前日もしくは翌日の同じ便に振り替え搭乗する事ができます。」というなんともインドらしい回答が来た。こんな会社は相手にしていられない。急遽エンボイツアー社に依頼して、当日6時35分発エアーインディアAI-409便の搭乗券を確保してもらった。
私たちは午前4時頃起床して、準備を整え旅行社の迎えを待ったがなかなか来ない。一時間ほど遅れて現れたと思うと、今度は「貴方たちの飛行機は10時発に変更となりました。ですからゆっくり出かけていただいて大丈夫です。」―何をか言わんやである。
新しく整備されたターミナル3は従来の国内線とは雲泥の差というか、とにかく日本の中部空港とほとんど格差がないので、逆に以前の空港が懐かしくなった。
午前6時半ころ、空港に着いたので、待ち時間は十分すぎる。時間と共に乗客が少しずつ増えてきた。よく見ると明らかに日本人の高校生と思しき団体の姿があった。会話は間違いなく日本語だ。仲間の一人が声を掛けると、「自分たちはカバディ―というスポーツの国際大会がパトナであるので、それに参加するためにきた」との事だった。ともあれ私は過去3回インド旅行したが、初めからこんなトラブル続きはなかったので、少しイラついていた。しかし冷静に考えると、ここはインドなのだ。日本人の価値観を持ち込まなければ、案外これがインドの素顔かもしれない。―そう考え直したら何か余裕が出てきた。パトナ行飛行機は変更時間の10時ちょうどに離陸した。1時間ほど飛行したころ、左手の窓に白い雲と重なって雲とは別の白い浮遊物が見えた。初めはぼんやりしていたが、次第に鮮やかになってくると、これはどうやら雪を帯びたヒマラヤと確信された。 美しい山並みに見とれていると機体はいつの間にか大きな河の上空を飛んでいた。パトナ上空から見えるガンガである。この光景もしばらく続いた後、機体はパトナのジャイ・プラカシ・ナラヤン空港に着陸した。正午少し前。
私は2度目のパトナ訪問だった。初回は6年前の5月、友人と二人だけの旅だった。その時はクシナガラ〜ケーサリア〜ヴェーシャリー〜パトナとタクシー、アンバサダーの旅だったが。今回はここを起点として『ブッダ最後の旅』を逆行する形、テンポ・トラベラーの旅だ。『ブッダ最後の旅』には、
次いで尊師はガンジス河におもむいた。・・・・・或る人々は舟を求めている。・・・・いずれもかなたの岸辺に行こうと欲しているのである。そこで、あたかも力士が屈した腕を伸ばした腕を屈するように、まさにそのように僅かの時間のうちに、こちらの岸において没して、修行僧の群れとともに向こう岸に立った。
 ガンジス河というのは英語的表現で、地元の人たちは、外国人に対してこの名前を使うが、自分たちは必ず「ガンガ」と呼んでいる。漢訳では「恒河」だ。釈尊当時のパトナはガンガ流域のパータリという寒村にすぎなかったが、仏滅百年後にインドを統一したマウリア王朝のアショーカ王により、「パータリプトラ」と改められ、首都となったのである。
話はかわるが、インド国鉄はいつも満員状態なのに、慢性的な経常赤字に陥っている。これは乗客の半数くらいが「薩摩の守タダノリ」を決めているからだ。何しろどこの駅にも出札口はあるが改札口がない。誰でも自由に駅のホームに出入りでき、列車にも勝手に乗車できる。私たち外国人が乗るA-1,A-2,A-3という冷房付の指定席車は車掌がやってきて乗車券の確認をするが、その他の車両は満員の無法状態だから、押しの強い者が、勝手に座席やら空いた床を占領する。例え車掌が来て検札しても、そのまま無賃乗車を続ける。またサドゥーと言う修行者は無賃乗車が公認されているらしい。
話を元に戻す。ブッダ釈尊がガンガを渡った場所は「ゴータマの渡し」と呼ばれたと記録に残っているが、実際、それがどこであるかは不明だ。先ほどの経文では、ブッダがガンガを渡った事が記されているが、具体的にどのように渡ったかも不明だ。何となく神通力を使って河を飛び越えたようにも窺える。ある研究者は「多分これは無賃乗船ではないでしょうか。乗せないと云っても、本人が勝手に乗り込んでしまえば、それ以上無理矢理に引きずりおろす事はなく、まして相手が修行者だと黙認してしまうようです。」と言う。むかしのことで検証の仕様はないが、あるいはそれが実際だったかもしれない。
飛行機の到着後。バッケージを受け取り、出口に行くと、エンボイ・ツアーから委嘱された日本語ガイドのヴィナイ・ジャイスワルVinay Jaiswal氏が待っていた。彼はバーラナシーの専門学校で日本語を学んだ28歳の青年。ヒンドゥー教徒で、仏教の素養はあまり多くは望めなかったが、日常会話は十分であった。空港には、これから私たちを陸路2000キロの旅に導くテンポ・トラベラーという12人乗りマイクロバスが待っていた。別に運転手と護衛兼乗務員の2人がいた。
今回は事故のため、ナーランダ大学遺跡の訪問が叶わなかったが、私たちはナーランダからラージギルへ直行した。この日はデリー発の飛行機が3時間半遅れて出発し、ナーランダの事故もあり、散々な目にあったが、これ以上のトラブルは無しにしてほしいと願いつつラージギルへ着いた。すでに時刻は4時半を過ぎている。要領よく回らなければならない。最初に立ち寄る予定の竹林精舎公園を省き、霊鷲山に向かった。途中往時の王舎城跡を右手に眺め、左手にビンビサーラ王の牢獄跡も見られたが、目的は唯一つ霊鷲山。到着は五時少し前。ガイド氏は「もう遅いので途中までにしましょう。」と提案するが、委細構わず霊鷲山の石段を登り始める。ここのシーズンオフには盗賊が出没するという情報を得ていたが、まだ下山客の人並みがしげかった。二百メートルほどしてガイド氏が「この辺で引き返しませんか」と声をかけた時の事、背の高い警察官が、「私が一緒に行きます。心配ありません。」ときれいな英語で話しかけた。これぞ「地獄で仏」ではなくて「霊鷲山で警官仏」にちがいない。そう思ってますます元気を出して一気に上り詰めた。三十分くらいだったろうか。
山上で記念写真を写し、わずかな時間であったが十分に満たされたひと時を味わうことができた。
帰路は既に午後六時近くになり、幾らか夕闇が迫ってきた。同行の警察官が笑顔で語りかける。「貴方は以前お逢いしましたね。私はよく覚えていますよ」というのだ。確かに見覚えのある顔だ。6年前、シーズンォフに来て、最初から最後まで付き添ってくれた警察官だった。かれは外国人観光客専任のガードマン役になっていたのだろうか。同時にしつこく物売りをする少年が、片言の日本語で「先生、ここに段がある。気を付けて」といちいち懐中電灯を照らす。最後に警察官とは別に彼にもチップを出した。霊鷲山を出たバスは暗くなったラージギルからガヤへ向かう長い下り坂を急いで降りて行った。
ブッダガヤからバーラナシーへー2月29日(水)
今回のホテルは「ローヤルデジデンシー」。比較的落ち着いた雰囲気を持っている。 インドへきて初めてゆっくりと睡眠をとっての目覚めだった。午前8時出発で最初に大菩提寺の参詣。まだ2月の末だというのに、すでに公園内の「無憂樹」は蕾を大きく膨らませていた。ガイド氏は無憂樹のインド名がアショーカという事が理解できない。園内にある「ナガバキダチソウカ」をアショーカと呼んでいた。私は以前2度、佛跡巡拜をしているが、仏陀正覺の地である古代ウルヴェーラから初転法輪の地サールナートへ直行するのは初めて。「ウルヴェーラ」とは「広い岸辺」の意味で、ネーランジャ川両側にあった森林地帯の総称だが、現在ではガヤ市郊外にある「ブッダのガヤ」という意味を込めて「ブッダガヤ」と呼ぶ。サールナートへは直線で210キロ、道をたどれば、300キロにはなるだろう。
高速国道2号線の旅
私たちは大菩提寺〜セーナ村のスジャータの塔、乳糜林などへお参りして、一路バーラナシーへ向かった。仏陀初転法輪の旅は直線で西に向かうことなく、ガヤを経由していったと伝えられているので、私たちも、比較的そのコースに沿った道のりだった。ガヤから東に進みハンスプルで一旦南下してオーランガバードに出たようだ。ここで高速国道二号線に乗り、一路西に進んでソン河という大河に掛かる橋梁を渡り、ジャハナバード近くのサービスエリヤで休憩し、昼食をとった。道はさすがに有料の高速道路だけあって、快適に走行した。しかし沿道の風景は二千五百年以前、ブッダが初転法輪のためにガンガの彼方、カーシー国の仙人堕處、鹿野苑へ向かった道の風景なのであった。当時としては10日から2週間を費やして歩いたものと思われる。道はいつしかビハール州を通り越しウッタルプラデシュ州へ入っていた。ムガールサライの出口で一般道に出ると道は直ぐにガタガタ道になった。一応は舗装されているが、重い荷物を積んだ大型トラックの交通量が、道路補修工事をはるかに凌駕している。時折補修された部分もあるが、直ぐにガタガタ道となり、車は窪みを避け蛇行しながら揺られて走る。
「ムガールサライ」Mughalsaraiとは漠然と「ムガールの沙羅」を連想するので、なんとなく素晴らしい街という感じを受けるが、ここはデリー方面、コルカタ方面からの長距離列車がバーラナシー方面への乗換駅として重要な拠点となっている。ここの鉄道操車場は、かつてアジア最大の長さを誇っていた。またインドの第二代首相ラール・バハードゥル・シャーストリー、(1964-1965の間)は、この町で生まれ、ここで亡くなっている。2001年インド国勢調査でMughalsarai市の人口は88,386人。またMughalsarai行政区全体では2001年現在116,246人だった。
鉄道操車場とその鉄道施設は有名であり、16の鉄道施設がある。インド鉄道に属する東部中央駅(ECR)ゾーンとなっている。一日約125本の旅客列車が停車する。バラナシ市へは、グランド ・ トランク (一般 GT 道する省略)GTロード経由でMughalsarai駅から北西へ16キロ。
ムガールサライから橋を渡ってバーラナシーへ
ともかくこの町はゴタゴタした町だ。やがて町を抜けるとガンガに掛かる大きな橋梁を渡ってバーラナシーの町に入った。この日はここの「ホテル・タージガンジス」で宿泊。到着は午後4時半ころ。この町はガイド氏の出身地なので、いろいろと夜の町に案内するとのことだったが、私はマッサージをお願いしてホテルから外へは出なかった。

ガンガに小舟を浮かべて早朝の水上観光ー3月1日(水)

1日、早朝6:00、ホテルを出た。現地旅行社からのレポートに目を通すと「ヴァーラナシーの地名は北を流れるヴァルナ川と南を流れるアーシー川の間に位置することに由来する」とあった。もっともインドの歴史を代弁しているのがヴァーラナシーと言われている。市内で購入した絵葉書には祭りでの行進の様子が写っているが、大半の男性が素っ裸で何もまとっていない。「こんなことが許されるのは世界中で恐らくここだけなのではないだろうか」と考えたが、実際にはインドの幾つかの場所で裸行列が行われている。専用車の迎えで河の畔に出て、小船で早朝のガンガ遊覧を楽しんだ。木造の手漕ぎ舟で、船頭、ガイドの他に一人保安要員らしい人と私たち九人の客だけだった。岸辺の沐浴場で沐浴する人、泳ぐ人、ヒンドゥー寺院で朝の勤行をする僧侶、火葬場では幾つかの遺体が荼毘に付されている。日の出を拝む人、聖なるガンガの水で身を清める人、物を売る人、喜捨を要求する人などと出会った。私たちの小船に、小さな小舟が横付けされ、少女が蓮の葉をかたちどった入れ物に立てた赤紫色の蝋燭二個に灯を点した。幾らかと聞くと「5ルピー」と答えたので、小銭を渡すと、燈明はガンガの流れに乗った。燈明流しなのだった。その後には次から次へと物売りが来たが、碌なものはなかった。中でもおかしかったのは、真鍮の小さな壷売りだ。彼は頻りに「ガンガの水を汲んで家に持ち帰ると好い事がある」と説明するが、価値観の相違か、衛生意識のズレか、私たち日本人にとっては「こんな不衛生な水を日本に持ち込んだら、検疫に引っかかる」と考えてしまう。舟を降り、迷路のような狭い路地に入るとあちこちに牛が散歩したり、寝そべったりしている。牛糞もあちこちにあり、悪臭がする中に鮮やかな色彩のガネーシャの祠があった。朝の食事をする様子や、露店に商品を並べる人も見えた。小さなお堂でお参りする人、警察官、大勢の人に出会った。カメラを向けようとすると、ガイド氏が「ここは撮影禁止地区です」と遮った。路地を通り抜け、市内の散策後、ホテルで朝食。 

サールナート博物館と鹿野苑のお参り
午前9時、専用車で仏陀初転法輪の地「サールナート・・・鹿野苑」に向かった。サルナートは、インドのウッタル・プラデーシュ州にある地名。ワーラーナシー(ベナレス)の北方約10kmに位置する。釈迦が悟りを開いた後、初めて説法を説いた地とされる。初転法輪の地。仏教の四大聖地のひとつ。鹿が多くいたことから鹿野苑(ろくやおん)とも表される。現在はインド政府によって整理されて遺跡公園になっている。またこの周辺からは「サールナート仏」と呼ばれる仏像が多数出土し、最高傑作とも評される「初転法輪像」がサールナート考古博物館に収蔵されている。29歳でシャカ国の王城を逃れ、6年間の難行苦行の後、その空しさを知り、マガダ国、ウルヴェーダなるネーランジャ川の水で沐浴し、牛飼いの娘スジァータの乳粥供養を受けて後、体力を回復したシッダルタ王子は、菩提樹の下で禅定に入り、12月8日、暁の明星を見て、「大地有情同時成道」された。後世シャカ族出身の聖者と呼ばれる釈迦牟尼佛世尊=ブッダなのであった。
ブッダ世尊がウルヴェーダの森で悟りを開いて後、自ら覚った法門は「甚深にして知り難く解し難し」として他人に説くことを願わなかったが、梵天の勧請によって、その思いを翻し、この世のどこかには「聞いて解する人」が有る筈だと思惟をめぐらしたところ、自分がかつて教えを問うたアーララ・カーラマとウッダカ・ラーマプッタの二人ならそれが可能だと思い浮かんだが、しかし2人はいずれも既に他界していた。そこで次に思い浮かんだのが、自分がかつて修行していた時に、自分に仕えてくれた五人の出家者であった。彼らはその当時ヴァーラナシー国リシパタナ(仙人の集まる所)にある鹿野苑(現在のサールナート)にいることが分ったので、仏陀は300キロの道を遠しとせず、ソン河・ガンガ河の二つの大きな河を越えて歩いてきたのだった。
私たちはホテルから車で15分ほどしてサールナートに到着。最初に出逢うのがチャウカンディー・ストゥーパ(迎仏塔)である。ヴァーラナシーから来ると考古博物館の少し手前、進行方向左側にある小高い丘のような塚がある。玄奘三蔵の記録によるとここで五比丘が仏陀世尊を出迎えた所だというのである。これは本来塚そのものがストゥーパであったが、その塔の上にムガール帝国の第三代皇帝アクバル(在位1556〜1605)が戦いの勝利の証しとして構築したものという。ここで車を停車して車内からお参り。
次にサールナート国立考古博物館に到着。ここはカメラ、ビデオとあわせて携帯電話の持込が禁止されている。写真撮影が一切禁止されているからだ。インドの伝統的建築様式と思われる赤砂岩風の博物館入り口では、空港並みの厳しい所持品検査が行われた。館内は撮影禁止だが、何故か、館内所蔵の代表的な彫像はすべてその影像が巷間に出回って、入手可能だから、一々撮影する手間が省け、ゆっくりと鑑賞できる。館内に入って左手奥には有名な仏陀初転法輪像が奉られている。―博物館だから置かれていると云うのが適切かもしれないが、委細関係なく七条衣を搭けて礼拝した。その後ゆっくりとお参りし、鑑賞。サールナート様式と言われるうっすらと赤みを帯びた砂岩にふっくらと丸みを帯びた彫像、伏し目がちな面持ち、説法印の何れも、「自分の覚り得た法は、説くことが難しく、これを聞いて理解するものが少ない」という、戸惑いにも似た表情を浮かべている。その他いくつもの彫像が展示されていたが、全てこの像を引き立てるための装飾品に思えた。正面に戻ると、入館時には気づかなかった大きな四面獅子像が安置されていた。恐らく初転法輪像のみに気をとられていたのだろう。しかしこれはこの地に建立されたアショーカ王石柱の頭部として時代を見渡している重要な歴史的彫像であり、インドの国章、紙幣やその他公文書の紋章ともなっている、そのオリジナルなのだった。
 館内を出ると遅まきながらようやくブツダ初転法輪の地鹿野苑のお参りとなった。博物館を出ると、すぐその向かいが遺跡公園となっている。英語のガイド板が記されているが、ガイド氏はほとんど詳しい説明はしてくれなかった。しかも手前右手奥に巨大なダメーク・ストゥーパが建っているので、興味はいつしかそちらに向かってしまう。
 しかしここに広がる巨大仏塔遺跡こそが、仏陀世尊が五比丘のために初めて法を説いた場所であり、それを記念するためにアショーカ王が建立したダルマラージカの仏塔遺跡なのであった。漢訳されて法王塔といい、玄奘三蔵が訪問したころには百尺に余る石積みの塔があったと記録されている。唐代の一尺は約29、4センチに相当するから30メートル程の壮大な仏塔だったことが想像される。そしてその手前には七十余尺=21メートル程度のアショーカ王石柱が立っていたと記されるが、現在でもその一部が仏塔の北部に残されている。頭部は博物館に収蔵される四つ頭の獅子像であり、これが現在インドの国章となっている。
 私たちはここで礼拝読経したのちにダメーク・ストゥーパへ向かった。
ダメーク・ストゥーパDhamekh・Stupa
ブッダガヤで正覚を成じた後、ブッダ世尊がここで初めての法輪を転じられた。この仏塔は恐らくサールナートで最も目につく建造物であろう。この塔はDhamekまたはDhamekhおよびDhamekhaと綴られ、その意味は「法の輪」からきているものと思われる。紀元前249年、マウリヤ王朝のアショーカ王によってその原型が構築され、その後紀元500年ころに増補構築されたと伝えられる。アショーカ王建造当初は、荼毘に付された骨の小片、およびブッダとその弟子の他の遺物を安置するためのもので、その原型は大きな石で取り囲まれていた循環的な塚であったとされる。またアショーカ王の石柱はこの近くに建てられている。この塔はその後六度拡大されたが、上部は未完成のままと言われている。
西暦640にサールナートを訪れた玄奘三蔵は、この伽藍に1500人の僧徒が修行しており、主な卒塔婆の高さが、ほぼ二百尺(59m)だったと記録している。現状は高さ13mの台座の上に31mの塔が立っているので、総高は43 .6メーター、直径は28メーターとなっている。石の枠組みの中にレンガで構築されている。基壇の最下部は、アショーカ建造当時の構造が残存しているとされる。石の外面の彫刻は、グプタ起源の微妙な花を表示し、壁は塔心から発掘された銘にも記されるように人間と鳥の精巧に切り分けた図でも覆われている。
本格的な発掘調査は、20世紀前半に、英国の陸軍大佐カニングハムによって始めて行われた。卒塔婆の幹の上の装飾模様は幾何学的および花柄で刻んで作られており、その龕は佛塔の中心を際立たせる。全体にまんじ(鉤十字)の広帯域から成っている。これらのまんじはその上に、およびそれ以下に走って、素晴らしくたがねで彫ったようなハスを備えた異なる幾何学模様の中で刻んで作られている。それらは衆目を引き時代と共に過去12回も拡張し拡大されたという。最初の発掘中に、石の刻字板が発見されたことは有名だ。それによるとこの佛塔の名前はダメークDhamekとなっていた。それはブッダ世尊がここで最初の説法をされたことを示している。単語Dhamekが法輪を回すことを意味する法輪の変形であることは、一般に歴史家によって一致している。
なおカニンガムが発掘した石板には
         すべての物事は原因より生じる。それらの原因を如来は説いた。また偉大なる仏陀沙門は、存在の止滅の原因をも説いた。
と書かれていたと伝えられている。私たちはダメーク・ストゥーパの一角で読経をし詠讃歌も奉詠してから、この塔を右回りに三遍し礼拝してから、次の根本香積寺への参拝に移った。

ムルガンダ クティ寺院(根本香積寺・初転法輪寺)
ndia Historic Spots (a12) ムルガンダ クティ寺院 Mulagandha kuti Vihara
サルナートの東端にある仏教寺院。中央に金色の大きな本尊が置かれ、日本では初転法輪寺(根本香積寺)とも呼ばれる。1931年に建立。壁面には野生司 香雪(のうす こうせつ)(1885-1973)。香川県出身による仏陀の一生が描かれている。

ヴァーラナシーからクシナガラへー3月1日(水)
10:00発、専用車でクシナガラへ向かう。行程265キロ。道はしっかりと舗装されて速度も適当に上がっている。沿道の田んぼは鋤き起こされていたが、田植えはまだだ。相変わらず牛がたくさん放し飼いにされている。小さな黒いヤギも見られた。ブツダもこのあたりの道を往来されたのだろうか。道の両側にはインドボダイジュ、ユーカリ、ガジュマル、マンゴーなどの並木が見られる。ガグラ河の橋梁を過ぎると急に街らしくなり、やがてゴーラクプルの郊外になってきた。ここは少しずつ進むことができるが、自動車、オートリクシャー、リンタク、荷車、自転車、牛車、リクシャー、牛、ヤギ、歩行者のおもちゃ箱道路となっている。この街を通過するのに40分ほど費やした。やがて正面に大きな湖が見えたところを左折すると、どうやら一路クシナガラへの道となった。右手にインド空軍の基地があり、それを通り過ぎると今度はしばらくチーク(沙羅との説もあり)の林が続いた。ゴーラクブルを過ぎると以前工事中だった高速道路は既にかなり完成して、一部は供用も始まっていた。快適に「一路涅槃の径に入らしむ」とお経の文句を口ずさみながら、当然往復切符のつもりで走る。もうあたりは夕闇が立ち込めてきたが、中央分離帯のある高速道路にも拘わらず、時折逆走する対向車の前照灯が目に入る。無灯火の逆走車、荷車や牛の群れ、果ては防護壁を自転車を担いで乗り越えて道路を横断する者。無法地帯と言うか、経済発展に伴い道路だけは立派なものを作るが、利用者の交通規則の順守、公徳心の欠如あるいは住民と施設のミスマッチなのか。運転席のすぐ後ろに座っている私にとっては正に「スリルとサスペンスに満ち溢れた」寿命を縮めそうな旅だ。16:40クシナガラのパティク・ニワス・ホテルに到着。実は私が6年前初めて訪問した時、このホテルを利用し、2度目はロータスニッコウ・ホテルだった。チェックインを済ませ、シャワーを使ってさっぱりした後に夕食をとり、ゆっくりとその晩を過ごした。

クシナガラの巡礼、涅槃堂・荼毘塚・ファジルナガルー3月2日(木)
 ホテルで朝食を済ませ、私たちは最初に涅槃堂の参拝に出かけた。涅槃堂には早朝だというのに、既にスリランカの巡礼団が幅五メートル、丈2,5メートル程もありそうな大きなお袈裟を10人程の信者が広げて捧げ持ちながら涅槃像の側に進み、これを鄭重にかけていた。管理者の許可を受けているという感じはなかった。通常の寸法で造られた橙色のお袈裟も何体も畳んだまま供えられている。それが次第に増えて行くので、傍らにいるインド人比丘と思しき人が次々と片付けていた。私たちは何となく正に異邦人という感じで、片隅に座り、小声で読経をし、涅槃像を右回りに三遍回った。
それにしても熱心な巡礼団に違いないが、もう少し他人のお参りに気を使ってくれたら、お互いに気持ち良くお参りできるのにと思った。それでも私たちは満たされた想いで、涅槃堂を出て正面左手にある大きな沙羅の木を見上げた。かすかな梢には既に沙羅華の蕾が見られた。
私たちはさらに舎利塔の北側から東手に回ると、そこではインド人の比丘が坐禅をしていた。そこを避けて、少し人通りの少ない場所で香華を手向け、大悲心陀羅尼、涅槃和讃を唱えて礼拝回向した。確かに私たちは念願かなって佛跡巡拜の旅に出て、しかも仏陀涅槃の地にお参りしているのだから、云ってみればプロ野球投手の「一軍のマウンド」にたっているのと同じ、歌舞伎役者のひのき舞台に立っているのと変わらないはずだが、それでも他の参拝者の邪魔にならないように、正面を避けてお参りを続ける姿は、他国の巡礼者には理解できない心境かもしれない。それであっても私は「いま仏土に詣でた」という充足感はみなぎっていた。園内の無憂樹は既に蕾を膨らませていた。私たちは再び涅槃堂の正面を横切り、沙羅双樹の大木の下から西に進むと左手に大きな梵鐘があった。何でもイギリス人の実業家夫人が奉納したものとのことだった。その傍らを通り藪を抜けるとそこにミャンマー寺院のパゴダが金色燦然と輝いていた。しかしそこへ行く前に私は、手前の管理棟のような小さな建物の庭に赤く鮮やかに咲いている無憂樹の花を見つけた。「帰来試みに梅枝を把てみれば、春は枝上に在って既に十分」とはこのことか。否、「無憂華はビルマ寺の側に咲いて既に満開」と表現した方が適切か。
涅槃堂公園東のミャンマー寺を出ると、直ちにバスに乗り込んで荼毘塚に向かった。車で十分と掛からない場所。涅槃堂から東に一.五?にあたる。仏陀世尊が荼毘(火葬)にふされたのを記念して建立されたのがこの荼毘塚(ラーマバール・ストゥーパRamabhar Stupa)である。 高さ15メートル、直径34メートルのレンガ造りである。現在クシナガラの涅槃堂にある涅槃像はこの川底から1876年に発見されるまで埋もれており、掘り起こされた涅槃像を現在の場所に運び涅槃堂を造営した。その北側を仏陀が最後の沐浴をされたというヒランニヤヴァティー河が静かに流れている。私たちはここでも例のごとく周囲を三帀し、焼香礼拝、読経詠讃歌奉詠し、塚の入口を出て、西側から裏手に回り、ヒランニヤヴァティー河の水辺に出た。昔はもっと大きな河だったと伝えられる。そしてもっと涅槃堂の近くを流れていたのではないかと考えながら、クシナガラの巡礼を終えた。しかし私たちはルンビニ方面に直行せず、いったん南東へ18キロほど離れたファジルナガルへ向かった。そこは仏陀に最後の供養をしたチュンダの村という。

クシナガラから国境を越えてネパールのルンビニへー3月2日(木)?

チュンダ村の訪問を終え、予想外の満足感と共に私たちはクシナガラを去った。すでに正午を過ぎていたが、なぜか空腹ではなかった。私たちは一路、ゴーラクブルを経由して国境の町ナウタンワに急いだ。高速道路となった国道二八号線を快適に進んで、ゴーラクブルに入った。道はここで国境越えでバイラワ方面へと北進した。これからは一般国道二十九号線で道路の凹凸にしばしば悩まされた。
ゴーラクブルの街を通り過ぎて郊外に出る直前のレストランで遅まきの昼食を取った。地図の上ではヴィカス・ナガルVikas nagarという町らしい。食後再び車上の人となると、やがて郊外になり、大きな川が見えてきた。これは川が蛇行で取り残されて細長い池になっているといった感じだ。
国境を越えてルンビニへ
国境周辺の田舎道を三十分ほど走り、道はやがて広い田園地帯に差し掛かった。右手には広葉樹の林が続く。よく見るとチークのあるが、大半は沙羅樹であり、梢にはどうやら花蕾を付けているようだが、遠く高い木なので確認できない。左手に鉄道が見えてきて、しばらく並行して進む。国境の街ナウタンワに向かう鉄道である。アナンドナガルAnandnagarという町で道は西へは州道一号A線で、祇園精舎のあるベーライチ方面。東はマハラジガンジMaharajganj方面の州道八六号線のようだ。このあたりから、しっかりとした舗装に変わり、道幅も広く、往来の車両も急に増えてきた。10分もしないうちに、道の両側には大型トラックが北に向って左側に二列、南に向って右側に一列―一列が3〜40輌ほど並んでいた。それは例のHORN PLEESEと書いた代物であった。当初私は検問所の通過待ちで列を作っていると思い、これでは通過するのに半日くらい掛かるのではないかと焦ったが、そうではなく、国境越えの手前で一休みしているところらしい。つまりサービスエリアかドライブインのつもりらしい。私たちの車は道の中央のやや右側に3メートルほど開いた路線を対向車とすれ違ったり、トラックとトラックの間に入ったりしながら、どんどん進んで行くともう左右には商店街が有り、ありとあらゆる生活物資が売られている。車は国境の門牌(ゲート)をさりげなく通り過ぎ広場となった道の左手に注射した。ガイド氏は会員一同に旅券、写真に25ドルを添えて提出するように指示したが、私たちは全員すでに用意していた。受け取ると運転手氏と一緒に入管事務所に消えた。しばくしてガイド氏が入国査証の申請書を持ってもどり、各人に記入と署名を求めた。15分ほどして再び戻ったときはすでに入国手続きは完了していた。運転手氏はネパールのナンバープレートを持ってきて前方の窓際に置いた。我々の旅券には査証と入国許可シールやスタンプがあった。私たちは実際には審査を受けていないのだが、「もう済みました、それでは行きましょう。」ということで検問所をいつの間にか通り過ぎた。所要時間は渋滞と手続きをあわせて50分ほどだった。ただガイド氏が入管職員は「入国と出国について各々500ルピー、合計1000ルピーの賄賂を要求した」と憤慨していた。―とは言っても実際に支払うのは私たちなのだから、本人がそれ程までにムキにならなくてもよかったのではないだろうか。検問所を過ぎると道の両側の街はしっかりと整っているようになり、気のせいなのだろうか、インド側より清潔で都会らしくなってきた。すでにバイラワ市内に入り、さらに進むとバスは左折した。郊外に出てきたころには左側に空港が見えた。バイラワ空港だ。バイラワの正式名称は「シッダルタ・ナガル市」。仏陀誕生のルンビニ玄関口の都市名としては最適なのだが、ここの空港名、市名いずれもバイラワで通用している。午後四時ルンビニに到着。バイラワからルンビニまでは一八キロ。広々とした平原、雨期を待つ田んぼには沢山の牛が放牧されている。往時のシャカ族の故郷がここなのだ。目前に森が見えたあたりを左折して進むと間もなく世界文化遺産に登録されたルンビニの入口に到着。私たちが今夜宿泊するブッダ・マヤ・ガーデンホテルは公園入口南に隣接していた。

世界遺産仏陀の生誕地ルンビニの参拝―3月3日(金)

よく晴れたルンビニの早朝、ホテルで朝食を済ませ、六時三十分世界遺産「仏陀の生誕地ルンビニ」記念公園へ参拝した。早朝のためか少し東側に回った入口までバスを進めて入園した。六年前に訪問したときは麻耶寺の色が褐色だったが、今回は創建当時の白に塗りかえられていた。
ルンビニは一九九七年、ユネスコの「世界文化遺産」に登録されている。私たちが訪問した時点では、実によく整備された遺跡公園という感じであり、九年前に新しく建設されたマヤ寺院はあまりにも大きく、しかも出生地遺跡の多くを寺院内に封じ込めた形のどちらかといえば博物館であった。礼拝の中心である誕生標石や誕生彫刻板も防弾ガラスで保護され、はるか頭上の壁間にはめ込まれ、その上複製品の彫像も少し離れたネパール仏教寺院に移されてしまい。何となく誕生の仏陀に親しく御逢いできる雰囲気が感じられない。この印象は多分他の巡礼者も持つことだろうから、いずれ改善されるだろう。またアショーカ大王石柱は、これが学術的な価値を持つことは当然だが、今の技術で馬の彫像を復元して建立当時の形態に蘇らすことも可能と思うが、どうだろうか。
仏教の三大聖木
そんな思いを描きながら、庭園内を散策し、菩提樹や無憂樹を鑑賞した。太子を出産された折、マヤ夫人が美しい花を愛でて右手を差し伸べた無憂樹はもちろん今は枯果ててないが、庭園のあちこちには大きな無憂樹が茂り、いま丁度開花のときを迎え、赤く咲き始めている。あの鳳凰木のような鮮やかさではないが、いかにも仏誕生の花らしく浅緑の梢にその姿を隠すようにひっそりと咲いていた。最近ことに「仏教の三大聖木」というのがインターネットのホームページ上で取り上げられている。
無憂樹=アショーカ………………仏陀誕生の花
菩提樹=ボディープリクシャ……仏陀成道の花
娑羅樹=サーラ樹…………………仏陀入滅の花
この中の菩提樹には日本原産、中国原産、西洋原産、インド原産のものと四種類あり、中国や我国ではそれぞれその原産木が定着している。最近インド菩提樹の日本国内での露地栽培に成功した改良品種が販売されるようになり、私のお寺にも定植した。娑羅樹は従来、日本では「ナツツバキ」がこれに当てられていた。これとは別に、最近インド原産のものが国内に植えられることになったが、こちらは寒さに強いので、そのまま植えられる。問題は無憂樹=アショーカだ。インドや南アジアでは当たり前に繁茂して開花するが、寒さに弱く、現在我では一部の植物園などで温室栽培されているだけだ。ただ私は昨年この樹の苗木数本を入手して栽培している。無憂樹は次のように紹介されている
―ムユウジュはマメ科の常緑高木で、ふつう四〜八メートルぐらいのものが多いが二〇メートルを超すものもあるという。樹皮は厚く灰褐色。葉は羽状複葉をなし、小葉はほとんど無柄または短い柄を有し、長楕円形〜披針形で先は尖り、濃緑色でやや革質、表面はつやがある。花は細い枝先や太い枝に叢ってつき、オレンジ〜濃黄色。花弁は退化して存在しないが、瓢箪の上部が四烈し、花弁のように見える。莢は扁平で長く、中に多くの種子を蔵する。(『仏教の三大聖木とその薬効』成瀬忠延著) ―むうじゅ[無憂樹](梵語asoka)釈尊の生母摩耶夫人が出産のため生家に帰る途中、爐毘尼園の菩提樹下で釈尊を生んだ。安産であったため、この樹を無憂樹といい、その花を無憂華という。(『広辞苑』)
沐浴池の側らに茂る菩提樹の根本は洞となっており、そこになにやら小さな仏像が祀られていた。そこで焼香礼拝して、一巻の般若心経、釈尊降誕御和讃を唱えて回向した。早朝のためか全体に参詣者は少なかったが、すがすがしい巡礼となった。以前見た「アーナンダ菩提樹」は傷みが激しいのか、あるいは枝が垂れてくるのを抑えるためか、何本もの支柱が建てられていた。
また咲きはじめた無憂華の下で会員の女性が、仏陀降誕にあやかって、右手を華に差し伸べて記念撮影をした。麻耶夫人四十二歳の光景を彷彿させる?????????ものだった。

クダン、ティラウラコットー怪我の功名でクダンに立ち寄る
午前8時30分出発。当初から予定していたネパール側の釈迦国首都とされる「ティラウラコット」へと向った。往時の迦毘羅衛城とされる遺跡だ。・・・・・ところが意外なことに私たちのバスは反対方向のバイラワに走り始めたので、私は大声でバスを停車させ、「これは方向が違う。ティラウラコットは西だ」と訴えた。ガイドのビナイ氏はそもそもティラウラコットへ行ったことがなかった。彼は未だ年が若いせいか、こうしたときの対処方法を心得ていない。いきなり「私は日本語が分らない。それに反対方向に行くと次の祇園精舎への行程が厳しくなる」と言う始末。私は多少なりともここの事情が分かっていたので、「それは了解しているが、初めからティラウラコットへ行くことは、旅行契約にも書いてある。ともかくそこへ行くように」と命じた。・・・・私はそんな態度をとることが滅多にないが、他の参加者の希望もあるのだから、是非とも行き事を望んだ。彼は「遅れて予定の夜行列車に乗れなくても責任が持てない」と捨て台詞を投げたが、無視して強引にバスを反対方向に走らせた。
ルンビニを通過し、カピラブァストゥ県の県庁所在地であるタウリハワへと進む。ルンビニから約23キロメートル。街の中心部の交差点を右折し、北に向うと、道は細い田舎道となる。3キロほど進んで右手の森に向うと、そこがティラウラコット遺跡であり、ここがカピラブァストゥの西門のはずである。・・・・・ところがである。タウリハワの交差点を右に回って北に向かうはずのバスが、なぜか左に曲がって南に進み始めた。私は少し黙ってこれに従った。バスが五分ほど走り、町を抜けたあたりの右側に遺跡があるあたりで停車した。私は内心「ここはクダン遺跡だ」・・・始めから時間に余裕があれば、ここに行きたいと思っていたので、私は周囲の仲間と共に車上から、その遺跡を遥拝した。クダンというのはネパール観光の一般客にはあまりなじみのない所だが、ここは出家・修行して仏陀となられた釋迦牟尼世尊が初めて里帰りして、父淨飯王はじめ一族を教化したが、そのおり、王宮に止宿せず、少し離れたニグローダ林(ガジュマル林)を宿としたのであった。その場所に後世、記念のための仏塔が建てられたのがクダン遺跡であった。私たちは「これぞ怪我の功名」とばかり、小躍りして喜んだ。そんなこととは知らない、ガイド氏と運転手は地元の人にティラウラコット遺跡の方向を尋ねて、引き返し始めた。バスは10分ほどして到着した。

同行者
社員・団体旅行
一人あたり費用
15万円 - 20万円
交通手段
鉄道 観光バス 飛行機
航空会社
キャセイパシフィック航空
旅行の手配内容
個別手配

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  • クシナガラの舎利塔と涅槃堂

    クシナガラの舎利塔と涅槃堂

  • クシナガラのミャンマー寺の庭に咲く無憂華

    クシナガラのミャンマー寺の庭に咲く無憂華

  • チュンダ村の沐浴池と伝えられる場所。<br />クシナガラの南東18キロにあるファジルナガルは仏陀が鍛冶屋の子チュンダに最後の供養を受けた「パーバー」の町と言われている。ここには現在、仏陀世尊が最後の沐浴をした池とチュンダの供養塔とされるものが残っている。

    チュンダ村の沐浴池と伝えられる場所。
    クシナガラの南東18キロにあるファジルナガルは仏陀が鍛冶屋の子チュンダに最後の供養を受けた「パーバー」の町と言われている。ここには現在、仏陀世尊が最後の沐浴をした池とチュンダの供養塔とされるものが残っている。

  • ルンビニ園の3月初旬、すでに仏陀誕生の花、無憂華は作はじめていた。

    ルンビニ園の3月初旬、すでに仏陀誕生の花、無憂華は作はじめていた。

  • ルンビニの麻耶堂は大きく建て替えられて現在では麻耶寺院という感じだが、ここでは焼香・礼拝・読経・坐禅などの宗教行事は一切行われていない。

    ルンビニの麻耶堂は大きく建て替えられて現在では麻耶寺院という感じだが、ここでは焼香・礼拝・読経・坐禅などの宗教行事は一切行われていない。

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