2014/01/30 - 2014/02/07
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ペコちゃんさん
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旅も中盤に入りました。
プロヴァンス観光の後、リヨンに宿泊し、4日目はそこから北に向かって約6時間のロング・ドライブでロワール地方に到着。
ロワール地方の古城めぐりの観光後、西に向かってトゥールで宿泊。
5日目は、そこから北西に向かって走り、約4時間でモン・サン・ミッシェルへ。
何しろ、フランスの国土は日本の1.5倍と広く、ロング・ドライブは止むを得えません。
山があまりない国ですので、美瑛のような美しい田園風景が延々と続きます。
ゆったりバスで、皆さん、熟睡できたようですが、その間も博学の添乗員さんはズ~と説明を続けていました。
美声の添乗員さん、 ” 私の話は、眠りを誘うようです ” ・・・心地よい説明でした。
写真は、一度見てみたかったモン・サン・ミッシェルの昼と夜の姿。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- ホテル
- 4.0
- グルメ
- 4.5
- ショッピング
- 4.5
- 交通
- 4.5
- 同行者
- カップル・夫婦
- 一人あたり費用
- 20万円 - 25万円
- 交通手段
- 観光バス
- 航空会社
- スイスインターナショナルエアラインズ
- 旅行の手配内容
- ツアー(添乗員同行あり)
- 利用旅行会社
- 日本旅行
-
<4日目>
7時半にリヨンを出発し、ロワール地方に向かいましたが、途中の山や町は昨夜の雨が雪になったようで、真っ白・・・フランスの雪景色も見られて、ラッキー!! -
ドライブインで休憩・・・駐車しているトラックは、左からスカニア(スェーデン)DAF(オランダ)ルノー(フランス)と、国際色豊か。
-
雪の所を通り過ぎると、冬とは思えない青々とした牧草地が広がります。
2012年の名目GDPで、フランスは米・中・日・独についで5番目の経済大国で、特に農業はEU最大(EUの3割)で、米国に次ぐ農産物輸出国。
フランスの北部は小麦・甜菜、西部は乳製品・豚肉・鶏肉・リンゴ、ここ中部は牛肉、中部から南部にかけて果物・野菜・ワイン生産用の葡萄の栽培が盛んです。 -
フランスは、石炭・石油などの燃料資源が乏しいため、電力の大半を原発に頼っており、原発の技術も輸出している原発大国で、原発廃止を決めた隣国・ドイツとは対照的。
原発以外は、水力が7.5%、火力が7%で、風力発電は僅かです。 -
13時過ぎに、ロワール地方の古城の中心にあるブロワに着きました。
ブロワ城が見える中心街を通り、「太平洋酒家」で中華のランチ。 -
飲み物は青島ビールで、料理の味はフランス風中華(?)
お客は私達ツアー客だけではなく、地元の人達も来ていましたので、多分人気のお店なのでしょう。 -
これは、ロワール川にかかるブロワの街中の橋。
ロワール川流域には、アンボワーズ・アンジェ・ブロワ・オルレアン・トゥールといった歴史上の重要都市が点在し、数々の名城が現存しています。
中世に城砦として建造され始めた300を超えるロワールの古城は、有名な城だけでも、30ほどあります。 -
先ず、シャンボール城に行きました。
ロワール渓谷に点在する城のうち、最大の広さを持つシャンボール城は、1519年から建設が開始され、ルイ14世統治時代の1685年に完成。
当時のフランス国王・フランソワ1世(1494~1547)が、イタリアでの戦の際、ルネッサンス様式の建築に魅せられ、帰国後、フランス様式と融合させてこの城を造らせたそうです。 -
もともとは、当時この地を統治していたブロワ伯の城館でしたが、フランソワ1世が狩猟の際に使用するための城として、大々的に増改築をしました。
歴代のフランス王やその他の人々がシャンボール城に滞在し、今のような美しい姿に完成させました。
太陽王・ルイ14世も、そうした王の一人です。 -
440の部屋、84の階段、暖炉へと繋がっている365本の煙突、128mのファサードと、壮麗かつ壮大な城です。
建築様式や装飾には、フランソワ1世のイタリア・ルネッサンス美術に対する情熱が強く反映されており、また、レオナルド・ダ・ヴィンチの発想が多く取り入れられていると言われています。
ダ・ヴィンチは、1516年にフランソワ1世に招かれ、アンボワーズ城近くのクルーの館で最晩年の3年間を、弟子や友人達と過ごしたそうです。 -
フランソワ1世はシャンボール城を、住むための城としてではなく、狩猟のための館として建設しました。
城の周りには、52.5平方kmの広大な森林公園が広がり、31kmの壁で囲まれた禁猟区には、鹿が700頭、イノシシは1000 頭、コルシカ羊などが生息しています。
また、この親子のように、サイクリングを楽しむことが出来ます。 -
シャンボール城からシュノンソー城に向かう途中、遠くに原発が見えました。
フランスでは、現在19カ所で58基の原発が稼動していて、発電量に占める原子力発電の割合は80%ほどもあり、これは世界で最も高いものとなっています。
しかも、電力の12.4%は輸出しています。
この煙は、大丈夫なんでしょうか? -
ロワール川の対岸に「ポンパドゥール宮殿」がありました。
ポンパドゥール侯爵夫人( 1721~1764)は、天賦の美貌と知性を備えたルイ15世の公妾で、その立場を利用してフランスの政治に強く干渉し、七年戦争ではオーストリア・ロシアの2人の女帝と組んでプロイセンと対抗しました。
この宮殿は、ロワール渓谷で唯一個人が所有する元王家のシャトーで、ムナー城と呼ばれています。 -
シュノンソー城に着きました。
この城は、ヴェルサイユ宮殿に次いで、フランスで最も観光客が訪れる人気の城です。 -
シュノンソー城は、ロワール川の支流、シェール川をまたぐように建っている優美な城です。
11世紀に製粉所跡に建てられた城がその起源で、この城はさまざまな変遷をたどりながらフランソワ1世に献上され、その次男で次のフランス王となったアンリ2世が寵妾のディアーヌ・ド・ポワティエに、この城を贈ります。
その後、正妃カトリーヌ・ド・メディシスの城となり、代々6人の女性の城主が続いたため、「6人の女の城」と呼ばれます。
城は、15世紀の城塞の名残のマルクの塔(左側)、16世紀の初期ルネサンス様式の棟(中央)、シェール川に架かる橋にカトリーヌが建てた3層の回廊を持つギャラリー(右側)で構成されています。
また、マルクの塔の右側(手前)にカトリーヌ・ド・メディシス庭園、その反対側にディアーヌ・ド・ポワティエ庭園の2つのフランス式庭園があります。(写真は絵葉書より) -
アンリ2世は、20歳も年上の愛妾のディアーヌ・ド・ポワティエに城を贈りますが、アンリ2世の死後、フィレンツェのメディチ家からアンリ2世に嫁いできた正妻のカトリーヌ・ド・メディシスは、ディアーヌから城を取り上げてしまいます。
以後、アンリ3世の妻ルイーズ・ド・ロレーヌやマダム・デュパンの手を経て、1863年に修復を手掛けたマダム・ブルーズと、女性城主に渡ります。 -
広大な庭園の中に気品を漂わせてたたずむ白い城館。
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マルクの塔(この城の当初の所有者はマルク家)。
添乗員さんが写真のベストポイントを教えて下さり、皆さん効率よく観光することが出来ました。 -
ここが城の入り口。
扉の上部には、シュノンソーを建築した夫婦の紋章(左側はトマ・ボイエ、右側は妻カトリーヌ・ブリコネー)が描かれています。 -
入口の上には、綺麗なステンドグラスがあります。
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1階にあるディアーヌ・ド・ポワティエの居室。
美人だったディアーヌは、2番目の城主です。 -
暖炉の上にある肖像画はアンリ2世の正妻、カトリーヌ・ド・メディシス・・・ちょっと怖い感じのおばちゃん。
自分の夫から城を贈られたディアーヌに対して収まらないカトリーヌは、アンリ2世が亡くなると、ディアーヌをシュノンソー城から追い出し、ショーモン・シュル・ロワール城を与え、3代目の城主になります。
ツアー・メンバーの奥様も、 ” 分かるわよ、その気持ち。私でもきっとそうするわ~ ” と、納得されてました。
左側のドアの上にあるマークは、アンリ2世の「H」とカトリーヌの「C」の組み合わせ・・・ディアーヌの「D」にも見えますが。 -
3階にあるルイーズ・ド・ロレーヌの居室。
その後、アンリ3世がフランス国王となりますが、すぐ亡くなり、その王妃、ルイーズ・ド・ロレーヌが第4の城主となりました。
この王妃は、生涯、喪に服してひきこもり、壁や天井などは全て黒く塗り替えました。
こんな暗くて寂しい部屋で、10年以上過ごしたなんて、スゴイ! -
1階の入口右にある「ルイ14世のサロン」。
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この部屋にあるデュパン夫人の肖像画・・・フランス革命から城を守ったデュパン夫人が5代目。
彼女はヴォルテールやルソーといった啓蒙思想家と親交を深め、芸術家や哲学者をお城に招いて談論風発し、宮廷にサロンというものを導入した知的レベルの高い人でした。 -
地下の厨房。
沢山のフライパンや鍋などが飾られています。 -
「5人の王妃の居室」・・・この寝室は、カトリーヌ・ド・メディシスの2人の娘と3人の義理の娘を記念して、このように名づけられました。
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アンリ4世の愛妾、ガブリエル・デストレの居室。
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4代目城主・ルイーズの相続人、セザール・ド・ヴァンドームの居室。
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シュノンソー城は、女性が城主だったので建物も調度品も女性が好むデザインで、豪快さではなく上品さが目立つ趣があるお城です。
現在、チョコレート業者のムニエ一族が城を購入し所有しているこの城は、各部屋にあるお花を毎日のように取り替えており、どの部屋のお花もとても良い香りがして、本当に素敵でした。
添乗員さんは、「今日はどんなお花かなと、ここに来るのが楽しみなんですよ」と、話していました。 -
礼拝堂・・・最初のステンドグラスは第2次大戦で爆撃にあったため、現在のものは、1954年に作られたものです。
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城から見たディアーヌの庭園。
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ディアーヌ・ド・ポワティエの庭は、16世紀に建てられた入り口の「管財人の家」から見渡せます。
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お城の観光の後は、ロワールワインのお店まで歩いて行き、試飲を楽しみます。
オーナー夫人は日本の方でした。
途中の踏切の横にある駅には、ちょうど電車が止まっていました。 -
ワイン店の周りには、こんなフランス的な風景が・・・
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絵になる夕景です。
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この家も、春には花で飾られるでしょう。
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これは、陶器屋さん。
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今夜のホテルは、トゥールにある「ホテル・イン・デザイン・ジロドー」。
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夕食は、バルサミコ酢のサラダと肉料理。
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ホテル近くの街並み。
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<5日目>
クロワッサンを取ろうと思ったら、 ” お一人様、1個 ” のメモ・・・こんなホテル、初めて! -
私達より先に食事に来ていた日本の学生の団体が、ハムなど食べ尽していました!!
添乗員さんが、学生に ” 貴方達、ハム全部食べたわね! ” と言ってましたが、これって学生が悪いの? ホテルが悪いの?
追加のハムも少ししか出ず、朝からちょっと不機嫌に・・・食べ物の恨みは怖いよ!
私は、夫の持っていたハムを貰って食べましたが、ツアーの皆さん、ブツブツ言っていました。 -
ホテルを出てみると、朝焼けの空が・・・
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今朝は、ツアー中で一番寒い2℃。
これから、今回のツアーで一番楽しみにしているモン・サン・ミッシェルに向かいます。 -
トゥールの市庁舎・・・1905年に、オルセー駅(現オルセー美術館)を設計した建築家ヴィクトール・ラルーによって建設された、重厚な建物です。
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トゥール駅・・・開業は1898年で、市庁舎と同じくラルーが建てました。
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フランスの高速道路を走っていると、こんな看板が沢山あります。
これは通過する町の看板で、その看板には町の特産品や観光名所などが描かれています。 -
看板は、茶と白のシンプルな色合いでデザインされています。
これらのカントリーサインを見ていると、結構飽きません。 -
” シカ飛び出し注意 ” の標識も、よく目にしました。
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高速を降りて、これらの街に行ってみたくなります。
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このサービスエリアで、孫達に恒例の絵本などを買いました。
フランスの絵本は、綺麗でポエムを感じさせるものが多く、見るだけでも楽しくなります。
今、小学生の孫達も、いつの日か私達の買い集めた各国の絵本を、原語で読んでくれるようになったら嬉しいです。 -
今回のバスツアーでつくづく感心したのは、すっきりと美しい道路景観です。
日本と違って、フランスにはゴテゴテした看板など、全くありません。
自然や田園の美しい景観を阻害するものがないことが、どんなに快適なのかを体感しました。 -
モン・サン・ミッシェルの看板が見えてきました・・・もうすぐです。
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あと4.2kmで到着です。
バスの窓から、行く手にモンサンミッシェルの姿を夫が見つけ、皆さんに教えました。
” ワーッ!! ” ・・・車内で歓声です。 -
モン・サン・ミッシェルに着いて、先ずは名物のフワフワオムレツで昼食です。
卵1個で、このボリューム! -
でも中は、泡だらけ?
味は、マアマア・・・話の種に、一度食べれば良いかな。 -
メインはチキン料理。
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食事が終わり、シャトルバスのバス停に行く途中、スーパーがあり、観光の後に皆、買い物に行きました。
地元のスーパーですが、お土産も置いており、島内より少し安いと思います。 -
シャトルバスを降りて、いよいよ島に歩いて向かいます。
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この景色を見たかった!・・・この姿にどれだけ憧れていたことでしょう。
” モンサンミッシェルに行きたい! ” と言ってもピンとこない人が多かった頃から、この神秘的な姿に憧れていましたが、足腰が丈夫なうちに行かないと、階段が結構ハードだと聞いていました。
来ました、来ました!・・・それも、姿が一段と美しく見える大潮の時期を夫が選んでくれ、二人で来ることが出来ました。
感謝、感謝、そして感動です! -
モン・サン・ミッシェルは、サン・マロ湾上に浮かぶ小島に造られた修道院です。
カトリックの巡礼地のひとつであり「西洋の驚異」と称され、1979年「モン・サン・ミッシェルとその湾」としてユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されました。
大潮の満潮時に上空から見ると、まさに浮かんでいます。(写真はHPより) -
サン・マロ湾は潮の干満の差が最も激しい(15m以上)所として知られています。
このため、かつては多くの巡礼者が潮に飲まれて命を落としたといい、「モン・サン・ミッシェルに行くなら、遺書を置いて行け」という言い伝えがあったほど。
1877年に、対岸との間に地続きの道路が作られ、潮の干満に関係なく島へと渡れるようになりましたが、これによって潮流をせき止めることとなり、100年間で2mもの砂が堆積してしまいました。
かつての姿を取り戻すべく、地続きの道路を取り壊し、代替となる新たな橋を現在建設中です(2014年完成予定)。
また、世界遺産の厳島神社がある広島県廿日市市と姉妹都市を結んでいます。 -
15世紀に造られた外郭の城門「大通り門」をくぐり、日本語が喋れない現地のガイドさんと一緒に観光のスタートです。
添乗員さんが、各建物や部屋などを詳しく説明してくれました。 -
門を入ると、左側には「ラ・メール・プラール」というホテル兼レストランがあります。
巨大なフライパンで焼き上げるオムレツが名物になっています。
モン・サン・ミッシェルでホテルを営んでいたプラールおばさんが、お腹を空かせた巡礼者のために、安くてボリュームのある料理を提供したいと考えた料理です。
今ではモン・サン・ミッシェエルのどこのレストランでも食べることが出来ますが、ラ・メール・プラールがこの名物オムレツの元祖です。 -
しかし、口コミを見ると、15ユーロが25ユーロと言われ、最後には75ユーロを払う羽目になり、”ボッタクられた!”という人が沢山いるのには、ビックリしました。
よく確認してからオーダーしないと、こんなことになるんですね。
ツアー仲間のご夫婦が、 ” 美味しいオマール海老を食べたわよ、一人一万円! ” と言っていましたが、今から思うと、これは負け惜しみ・・・
ご主人は渋い顔をしていましたから、きっと思ったより高かったと思っていたのでしょう。
いくらなんでも、ランチに二人で2万円は払い過ぎ! -
鶏のディスプレーが可愛い、プラールおばさんのお店。
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「王の門」を入って行きます。
堅固な造りの城門で、王権の下にあることを分からせるために王から勅命を受けた衛兵が詰めていたことから、この名があります。
城門の上には石落とし、内部には敵が急襲した時に一瞬で降下する鉄格子・ポルタカリスが設けられています。
” フランス人が信じられる人は門をくぐって下さーい! ” ・・・チョッと恐々で門をくぐりました。 -
王の門をくぐって振り返った写真。
右側には郵便局があり、ここで手紙を出すと、モンサンミッシェル郵便局オリジナルの消印を押してもらえるので、親しい人や自分宛に送れば帰国後の楽しみが増えます。 -
土産店などが並ぶ「グランド・リュ」・・・グランド・リュ(=大通り)とは名ばかりで、狭い坂道の参道です。
ハイシーズンの時期は、混雑して大変でしょうね。 -
グランド・リュは登り坂ですが、個性豊かな装飾看板たちが楽しめます。
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モン・サン・ミッシェルの紋章がホタテ貝の関係で、参道のお店には、ホタテ貝のグッズがいろいろありました。
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絵葉書も楽しめます。
下から2番目の左の絵葉書を見て下さい。
フランス全土が晴れでも、ここ、モン・サン・ミッシェルは天気の悪い日が多いようです。(左側の地図)
そこで、 ” I HAVE A DREAM! ” ・・・フランス全土が天気が悪いのに、モン・サン・ミッシェルは ” 晴れ! ” (右側の地図)・・・フランス人のユーモア・ウィットを感じます。 -
「サン・ピエール教会」・・・岩穴を掘り下げて洞窟内に建てらた教会です。
最初に建てられたのは11世紀で、その後15世紀後半に増築されました。
19世紀末、大修道院が廃墟と化すと、代わって巡礼者を迎えるようになりました。
入口には、百年戦争の最中に大天使ミカエルのお告げを受け、フランス軍を勝利に導いたジャンヌ・ダルク像があります。 -
これが有名な「大階段」・・・90段の急勾配の階段を登っていきます。
モン・サン・ミッシェルは全体で300段ほど階段がありますが、登るのが苦手な人は、グランド・リュで買い物などで過ごすという手もあります。
日頃、テニスで鍛えているから(?)私も何とか後れを取ることなく、登り切りました。
ハイシーズンには行列が出来るそうで、オフシーズンに来て正解でした。 -
振り返ると、このような感じ。
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雨水を溜めて、この蛇口から使用していたそうです。
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修道院が造られていった模型が展示されています。
これは10世紀の模型。
708年、アヴランシュ司教オベールが夢のなかで大天使ミカエルから「この岩山に聖堂を建てよ」とのお告げを受けてここに礼拝堂を作ったのが始まりです。 -
966年には、ノルマンディー公リシャール1世がベネディクト会の修道院を島に建て、これが増改築を重ねて、13世紀にはほぼ現在のような形になりました。
これは、11~12世紀の模型。 -
これは、17~18世紀の模型。
中世以来、カトリックの聖地として多くの巡礼者を集めてきました。
百年戦争の期間は、島全体がドーバー海峡に浮かぶ要塞の役目をし、モン・サン・ミシェルの入り口には、今もイギリス軍が捨てていった大砲とその弾が残っています。 -
これは、20世紀の模型。
フランス革命時に修道院は廃止され、1863年まで国の監獄として使用され、延べ1万人が収監されたとのこと。
その後、荒廃していましたが、旅行でモンサンミシェルを訪れたヴィクトル・ユゴーは、その美しさに驚嘆して世に紹介し、1865年に再び修道院として復元され、ミサが行われるようになりました。
現在は、3人の修道士が在住し、9人の修道女が近隣の町から通って運営に当たっているそうです。 -
教会尖塔のミカエル像は重さが400kgもあり、現在のものはヘリコプターで吊って取り付けられたそうです。
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大階段を登りきった所にある「西のテラス」は教会正面にある広場で、海抜80mの絶好の展望台です。
干潟の先には緑の湿地が延々と広がり、羊が草を食べに来ますが、そこに生えた草も塩辛く、それを食べた羊の肉はプレ・サレと言われ、一味違う高級品です。(プレ:牧草地、サレ:塩分を含んだ、の意味) -
修道院というよりも監獄のよう・・・
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西のテラスから見た、「修道院付属の教会」。
憧れのモンサンミッシェルに連れて来てくれて、有難う!! -
修道院付属の教会の尖塔には、頂点に剣を抜いて悪竜を退治している金色に輝く大天使ミカエルの像が聳え立っています。
像の高さは4.5mもありますが、余りにも高い所にあるので、小さくてよく見えません。 -
教会の内部です。
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11世紀に完成した教会は、その後何度か崩壊し、その都度修復されて現在の姿を遺しています。
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教会の祭壇・・・祭壇の左手前にある床の丸いガラス状の窓は、直下の「太柱の礼拝堂」の天井に繋がっています。
磨ガラス製のステンドグラスから、燦々と優しい陽射が降り注いでいます。 -
大天使ミカエルの像・・・天足で悪魔(竜)を踏みつけ、右手に剣を持ち、左手に持った秤で天国に迎えられる者と地獄に落とされる者を振り分けています。
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「列柱廊」・・・ラ・メルヴェイユ棟の最上階にある修道士の憩いと瞑想の場。
石柱は全部で227本あり、空中庭園と呼ばれています。 -
列柱廊からも海が見えます。
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列柱廊の中庭から修道院付属教会を仰ぎます。
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石柱はイギリスのパーベック島から取り寄せられた雲母大理石で造られています。
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列柱廊の中庭から食堂が見えます。
塔のように天高く突き出たものは煙突で、換気口につながっているそうです。 -
「食堂」・・・重さを軽くするために、船底を思わせる丸型天井は木造です。
往時は、人と目が合わないように壁に沿ってテーブルが配置され、両側に30人ずつ座り、聖典を朗読する声を傾聴しながら壁を見つめ、黙々と食事をとっていたそうです。 -
シンプルなデザインのステンドグラス・・・59にも及ぶ小窓から美しい光が降り注ぎます。
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大天使ミカエルとオベール司教のレリーフ・・・聖ミカエルがオベール司教の脳天に触れ、モン・サン・ミッシェルを建てるよう命じている像です。
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「迎賓の間」・・・食堂直下にある大広間で、修道院長が位の高い訪問者を歓迎した場所です。
天井まで届く大きな暖炉では、イノシシや鹿を焼いていたそうです。 -
太柱の礼拝堂。
修道院付属の教会にあるゴシック式内陣を支える土台として、15世紀半ばに造られました。
これは、ホタテ貝をモチーフにしたステンドグラス・・・ホタテ貝は聖者ヤコブを表すもので、モン・サン・ミッシェルの紋章です。
ホタテ貝と対になっている絵柄は、壺。 -
建物を支えるために、ぶ厚くした壁にもステンドグラスをはめ込み、光を入れるようにしています。
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直径が8mもある大車輪は、重い荷物や食べ物を下から運び上げるためのもので、中に入った囚人が車輪を廻して引上げます。
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この車輪(レプリカ)は、修道院が牢獄として使われていた1820年に設置されたものですが、修道院建設の際も似たような車輪で花崗岩を引っ張り上げていたと思われます。
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荷物を運び上げるために、急斜面に設けられたレール・・・足がすくみます。
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「サンテ・ティエンヌ礼拝堂」のピエタ像。
この礼拝堂は、1830年まで遺体を安置する場所だったそうです。
ピエタ像のキリストの頭がもぎ取られ、痛々しさが伝わってきます。 -
死者を祀るために設置された祭壇の下にはA~Ω(アルファ~オメガ、つまり生~死)を表す文字が刻まれています。
19世紀には、ハンセン氏病患者がこの場所に収容されたそうです。 -
「騎士の間」・・・列柱廊の直下にあり、修道士たちが写本や彩色を行っていた仕事部屋です。
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尖塔の上にある大天使ミカエルのレプリカが、売店の入り口にありました。
騎士の格好をして、剣と楯を持って竜を踏みつけています。 -
内部の見学を終わり、外に出ます。
その昔、ここまで巡礼しては来たものの、ここで息絶えた人たちも多くいたそうです。
そういう人たちを葬った、海に通ずる深い深い穴があり、写真は撮りませんでしたが、これを覗き込んだ時は足が震えました。 -
修道院の北側の壁も歴史を感じる、苔むした壁です。
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グランド・リュの外側の城壁を歩いてみました。
海からの風が強かったです。
さすがに、この道を歩いているのは我々夫婦二人だけです。 -
どこからでも、教会の尖塔がよく見えます。
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集合までの時間があったので、一息入れます。
奥には、ムール貝を美味しそうに食べているツアー仲間が・・・ -
皆が餌をやるので、島のスズメは人懐っこく、メタボ気味。
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今日のホテルは、モン・サン・ミシェルの対岸にある「デ・ラ・ディグ」です。
モン・サン・ミッシェルへ2番目に近いホテルで、無料シャトルのバス停が目の前にあり、スーパーも近くて大変便利でした。
ホテルのレストランや外のテラスからは、モン・サン・ミシェルがよく見えます。 -
モン・サン・ミッシェルの黄昏。
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今日の夕食は、ホテル1階のレストランで、生ハムのサラダと白身魚です。
他のヨーロッパ諸国と違って、今回のフランスは魚がよく出て、結構美味しい。
このあたりの沿岸には良港が多く、漁業が盛んな地方です。
1960年代に、ここの牡蠣が病気で壊滅状態になった時、東北から種牡蠣を送って応援しました。
3.11の時、東北地方の牡蠣が打撃を受けましたが、ここから今度はお返しの牡蠣が届いたということです・・・こういう話は嬉しいですね。
夫がここで牡蠣を食べたがりましたが、旅先のことですので、ちょっと我慢、日本に帰ってから美味しい牡蠣を食べましょうね。 -
夕食後、シャトルバスに乗って近くまで行き、夜景観賞です。
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雨がパラついてきて、周りも真っ暗・・・
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でも、ライトアップされた幻想的なモン・サン・ミッシェルが堪能出来ました。
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今回のホテル「デ・ラ・ディグ」は、エレベータがない2階建てで、半分はレストランになっています。
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レストランの利用者は日本人が多いので、メニューも日本語が書かれています。
ノルマンディー産カキ6個が18ユーロなど・・・フランスの消費税にあたるVATは19.6%なので、一般的に物価は高い気がしました。
特に、レストランは高い! -
<6日目>
エレベータがないホテルなので、スーツケースの運搬はポーターさんに頼んでいます。
” 8時出発なので、7時半までに荷物は廊下に出しておいて下さい ” との添乗員さんの話でしたが、ポーターが来ない!!
慌てて添乗員さんや夫たち3人ほどで、皆の重いスーツケースを運んでバスに積み込んで、ヤレヤレ。
7時55分に、若いポーターさんが2人来ましたが、終わった後・・・ちゃんと仕事をしてもらいたいものですね。
添乗員さんに ” 8時には出発と言ったでしょう ” と叱られていました。
この時期は、8時過ぎにやっと太陽が昇ります。
これから、ルーアンに向けて出発!
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