2014/01/01 - 2014/01/01
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nakaohidekiさん
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「大講堂の 闇深くして 真言の
伝法問答 天地に沁む」
和歌山女子師範を出た味村富子の和歌である。根来寺に来てみると参道でこんな短歌の歌碑があるのを見つけてしまった。今年の初詣である。
「一乗山大伝法院根来寺」というのが正式な寺の名である。最盛期には72万石を領地とした大寺院であった。創建は1130年、高野山に覚鑁(かくばん)上人が伝法院を開いたことに始まる。室町時代には朝廷の庇護を受け、坊舎仏閣は450を超えたという。そんな大寺院であるが今は僅かに光明真言殿や大師堂、大伝法院、大塔の幾つかを残すのみである。そうはいっても大塔は多宝塔としては国内最大の規模を誇り、現在国宝に指定されている。
嘗ては栄華を極めた根来寺であるが、このような小寺となったのは信長や秀吉等による紀州攻めによるところが大きい。
ルイス・フロイトによると、もともと紀州は仏教への信仰心が篤く、「四つか五つの宗教が、それぞれ共和国を形成していた」とバチカンへの報告に記している。高野山、粉河寺、根来寺、熊野三山等はそれぞれ僧兵を擁し、根来寺に至っては根来衆という鉄砲隊まで組織していたというのである。
天下統一を目指していた信長や秀吉にとっては、これらを攻め滅ぼす以外にはなかったのである。特に根来寺は当時、紀伊、和泉に八か所の荘園を領有し、経済力、武力ともに一大勢力をなしていたのである。
天正13年(1583年)秀吉は紀州攻めを開始した。秀吉配下の小西行長を首領とする水軍と、陸から秀吉の本隊が十万の大軍を擁して根来へ攻め入ったのである。対する根来衆はおよそ八千。圧倒的な兵力差の前に根来寺は壊滅し灰塵と帰してしまった。450以上あったという仏閣は三日間昼夜分かたず燃え続け、業火の赤く輝く様子が、当時貝塚にあった本願寺からも見えたといわれている。
そんな根来寺に初めて初詣に行ったのである。それほどのいわく因縁のある古刹であるだけに初詣客は多く押し寄せることは当然予想できた。朝早くに出る予定であったが大晦日は、いつものように夜更かしをしたため朝早くの出発は無理となった。
家を出たのは朝の10時。和歌山県日高町からは川辺インターから阪和高速を利用する。およそ1時間40分の道のりである。
和歌山インターで下りて、国道24号のバイパスを走れば岩出町に辿り着く。バイパスを左に入ると根来寺の案内板が出てきた。県道・泉佐野・岩出線で右に曲がるとおよそ20分で根来寺に到着する。ところが根来寺の近くまで来て駐車場まで辿りつくのが大変であった。駐車場の入り口は渋滞の車の列である。これまで順調に走ってきたが寺の周辺に来てなかなか根来寺まで到達しないのである。そういっても仕方ないので、とにかく我慢してトロトロと渋滞の列の後ろを走ることにした。辛抱して約一時間かかって駐車場に入ることができた。根来寺に行くなら早目の出発がお薦めである。
車を降りると桜並木が綺麗だ。もっとも今は冬なので、枯れ木の桜並木であるが、春にはきっと満開の桜が一面に咲き誇りそうである。春の花見は壮観であろうと想像できた。
境内へ続く参道を歩くと露天商が多く出ている。露天を見て歩くのも初詣での楽しみである。僕はイカ焼きを買って食べることにした。まずは腹ごしらえしてからの参拝である。
大谷川に架かる赤い擬宝珠の橋を渡ると「真義真言宗総本山根来寺」の石塔が建っている。いよいよ名刹の中に入る。しかしながら往時を偲ぶ堂宇は僅かしか残されていない。淋しいと感じるのは僕だけであろうか。
本殿の光明真言殿の前には鐘楼門があり、ここには鐘を撞く参拝客が列をなしている。僕もせっかく来たのだからと列の後ろに並んでみた。およそ20分で順番が回ってきたが、並んだ割には鐘撞きは意外とあっさりしていてそれほどの感慨はなくあっけなかった。特に趣のある鐘でもなかったからである。
さて、本殿である。これもそれほどの混雑もなく、比較的早くお参りすることができた。明治神宮や川崎大師のような参拝には体力がいるが、ここは楽に参拝できる。体力に自信のない僕にとっては有り難い限りである。
お参りが終わり境内を散策すると、なんといっても見どころは国宝の大塔である。周りを生垣で囲っており受付で拝観料を払って入ることができる。一人300円である。
この日は快晴で、青空に向かって法輪が天を突き刺すように伸びている様子がすがすがしく見えた。大屋根の反りかえった甍があざやかに綺麗でもある。これほどのものが焼けずに残ったことを有り難いと思ったが、焼失してしまった多くの伽藍が残念でならない。それを思うと京都や奈良の多くの寺社が、米軍の空襲を受けなかったのが僥倖というしかいいようがないと思った。
大塔の近くには大師堂と大伝法堂がある。根来寺の新義真言宗は空海に由来するので大師堂は当然であるが大伝法堂は僧侶が学問したり修業する場所である。この中には本尊の大日如来が祀られている。建立は光明真言殿が1801年、大塔と大師堂は1496年に建てられたものである。また開祖覚鑁(かくばん)の御廟が大塔の裏に奥の院として祀られている。その参道はあたかも高野山の奥の院を思わす霊気に満ち溢れている。奥の院まで参道を歩いてみたが信者の仏塔も多く、ただよう異様な雰囲気に身が竦んでしまった。
高野山の大伝法院が1440年に焼失した後は、この根来に移ってきた根来寺であるが、覚鑁上人はその二年後に没し、ここに眠っている。
いずれにしても根来寺は、このような歴史の中で生きている寺なのである。
地元には『根来の子守唄』が伝わっている。根来寺が庶民の信仰の的であったということもこれを見ても分かると思う。最後にその子守唄を紹介して初詣探訪記の終わりとしたい。
ねんね根来のよう鳴る鐘は 一里聞こえて二里響く
ねんね根来の覚ばん山で としょじ来いよの鳩が鳴く
ねんね根来へ行きたいけれど 川がおとろし紀ノ川が
さんさ坂本箒はいらんよ お不動参りの裾で掃く
ねんね根来の塔の堂の前で 横にはうかよ臥龍松
さんさ坂本室谷の娘 嫁にいたとは住蛇池
注:覚ばん山・・・実在する山ではないが、覚鑁上人が暮らした山という意味。
としょじ・・・年寄(としより)の意。
臥龍松・・・・多宝塔(大塔)の前の松。
川がおとろし紀ノ川が・・・川が恐ろしい紀ノ川。秀吉が根来攻略の際、焼き払った火が広域にわたり、燃え盛る火が紀ノ川の川面を真っ赤に染めたという恐ろしい光景を詠っているといわれている。
さんさ坂本室谷の娘・・・根来山のふもと西坂本に室谷という豪家があった。子どものいない家だったので小野小町のお墓(根来寺にあった)に願掛けをしてお参りしたところ美しい女の子を授かった。娘は成長し嫁ぐ日がきたが、婚礼の行列が住蛇池にさしかかったとき、池から大蛇があらわれて娘をさらっていってしまったという伝説。
- 旅行の満足度
- 4.0
- 観光
- 3.5
- 交通
- 3.5
- 同行者
- 家族旅行
- 一人あたり費用
- 1万円未満
- 交通手段
- 自家用車
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