2013/12/30 - 2013/12/30
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2013年12月30日(火)、今回のイラン旅行のハイライト、ナグシェ・ロスタム(Naqsh-e Rustam)とペルセポリス(Persepolis)を訪れました。
ナグシェ・ロスタムは、ペルセポリスの北にある巨岩の遺跡で、岩壁にはアケメネス朝歴代皇帝の王墓やサーサーン朝時代のレリーフなどが刻まれています。
ペルセポリスは、紀元前520年にアケメネス朝ペルシアのダレイオス1世が建設に着手し、その息子クセルクセス1世によって完成した聖都で、紀元前331年、アレクサンドロス大王に攻撃され、征服され、破壊されました。
ペルセポリスはヨルダンのペトラとシリアのパルミラとよく比較され、俗に『中東の3P』と言われる“P”のつく3大遺跡の一つで、遺跡好きには外せない世界遺産です。
2010年5月にペトラ遺跡とパルミラ遺跡を訪れていたので、本当にペルセポリス遺跡に行きたかったのです。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- ホテル
- 4.0
- グルメ
- 4.0
- 同行者
- 友人
- 一人あたり費用
- 30万円 - 50万円
- 交通手段
- タクシー 徒歩 飛行機
- 航空会社
- エミレーツ航空
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朝、ヤズド(Yazd)のAzadi Hotel(122号室)を出発。
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出発後まもなく、頂に雪をうっすらと冠したシール・クーフ山(Shir Kuh、4,074m)が見えてきました。ドライバーのアリーさんはとても安全運転でした。
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岩肌にペルシヤ語で何か書いてありました。
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無数に縦に線が入った屏風のような岩山が見えました。土砂漠の中にも変化に富んだ風景が車窓から楽しめます。
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お椀をひっくり返したような面白い形の山もありました。
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ドライブインのトイレ前に掲示された禁煙啓発看板。ちなみにイランでは路上は禁煙ではないので、自由に喫煙できます。
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タフト(Taft)を通過しました。まだヤズド州です。
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はるか彼方の地平線には蜃気楼が浮かんでいました。
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『ヤフチャール』と呼ばれる氷室を発見しました。カシャーンやヤズドといった砂漠沿いの街にしかないものです。小山のような大きなドームが地上に設けられ、中は空洞です。砂漠の冬はかなり寒いので、日陰になったところで氷を造り、ヤフチャールに蓄え、夏にはそこから氷を出して使うそうです。
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トラックの排気ガスが煙る中、TOYOTA車を発見。
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延々と砂漠を走っていると、ときどき道路沿いに16〜17世紀頃のキャラバンサライ(隊商宿)が見られます。
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これは建設途中のモスク。
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積載量が多いトラックの傍を通過するときはちょっと気になります。
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たぶんAbarkuhという街です。
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ドライブインのようなところの左手にモスクがあり、右手には公衆トイレがありました。ドライバーのアリーさんが用意してくださったチャイで一服しました。後から聞いたのですが、イラン・イラク戦争時に8年間戦車の運転手をしていた退役軍人で、とてもまじめで優しい方でした。冬でも日差しが強くてとても眩しいのでサングラスは必需品です。
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公衆トイレには、女性用とわかるように絵が描いてありました。
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高速道路の標識にようやく『ペルセポリス(Persepolis)』の文字が見えました。
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大理石の工場です。
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荒涼とした平原に屏風のような巨大な岩壁が現れたと思ったところ、前方左手に「ナグシェ・ロスタム(Naqsh-e Rustam)」が見えてきました。ペルセポリスの遺跡から車で約10分の場所にあります。
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はやる気持ちを抑えて入口へと進みました。お天気も最高でした。
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荒涼とした平原に屏風のような巨大な岩壁がありました。ヨルダンのペトラ遺跡の王の墓を連想しました。
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階段もそれなりの雰囲気にしつらえてありました。
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パノラマビューに撮影できないので、まずは左半分を撮影しました。
左からダレイオス2世(アルタクセルクセス1世の子、ダレイス1世の曾孫)、アルタクセルクセス1世(クセルクセス1世の子、ダレイオス1世の孫)、ダレイオス1世の墓です。 -
ダレイオス1世の墓です。王墓の入り口はいずれも高い所にあり、残念ながらペトラ遺跡の王の墓のように中を覗くことはできませんでした。
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右端がクセルクセス1世(ダレイオス1世の子)の墓です。
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イチオシ
クセルクス1世の墓の近くに「騎馬戦勝図(The Triumph Relief of Shapur ?(239-70))」というレリーフがあります。馬にまたがるサーサーン朝のシャープール1世が捕虜となった東ローマ帝国皇帝ヴァレリアヌスの右手を掴んでいる姿が描かれていて、肉眼で鮮明に見ることができるので、感動しました。
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ダレイオス2世の墓の向かいには、ゾロアスター教神殿とみられる石造りの建物が残っています。
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人間を入れて写すと遺跡の大きさがわかると思いますが、観光客も少なく、青空の下、思う存分見学して、撮影することができました。
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ダレイオス1世の墓の下には「バハラーム2世の勝利(Victory of Bahram ?(274-94 AD))」というレリーフがあります。
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「バハラーム2世の勝利(Victory of Bahram ?(274-94 AD))」も良く見ると傑作です。バハラーム2世(Bahram ?)は、サーサーン朝第5代君主(シャーハーン・シャー)です。
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ダレイオス1世の墓の右下方には、シャープール1世の息子ナルセの叙任式を描いた「The Investiture of Narse (A.D.294-302)」がありました。
ナルセはサーサーン朝ペルシア帝国の第7代君主で、シャープール1世の末子です。
従兄弟のハバラーム2世の在任期間に諸王の筆頭であるアルメニア王をしていたと説明パネルに書いてありました。多産(肥沃?)の神、アナヒタ女神(Anahita)から王権を授けられるナルセが描かれているそうです。 -
一番右側の墓がクセルクセス1世の墓と言われています。
「ナグシェ・ロスタム」はダレイオス1世の王墓以外は歴史学者の間でも諸説あり、確定されていないそうです。 -
イチオシ
「ナグシェ・ロスタム」の4つの王墓が、ペスレポリスにアルタクセルクセス2世の墓のモデルになったそうです。
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嬉しかったのは4つの墓を見渡せるこの高台で12月27日夜にテヘランのメヘラーバード国際空港(実際は国内線中心)で出会った日本人女性旅行者と再会できたことです。
12月27日は21時20分発イラン航空IR222便にて、テヘランからイスファハンに向かおうと18時過ぎからメヘラーバード国際空港にいましたが、24時を過ぎて欠航となり、代替便に乗るために翌朝5時30分集合となり、28日早朝のIR236便に搭乗し、イスファハンの空港で別れました。 -
ナグシェ・ロスタムの高台から駐車場方面を見下ろした風景です。
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ナグシェ・ロスタムの売店です。絵葉書10枚を70,000Risで買いました。
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ペルセポリスへの道です。
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ペルセポリスの入場料は150,000Ris(イラン・リアル)でした。1年前は10,000Risで、1年間に15倍に値上げになって、チケットの擦り直しが間に合わないのか、10,000Risのチケットをホチキスで15枚止めたものを受け取りました。
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「ペルセポリス」の入口へと進んで行きました。
「ペルセポリス」は、現代ペルシャ語では「タフテ・ジャムシード(ジャムシードの玉座)」と呼ばれています。
「詳説世界史研究(山川出版社)」によると、「ダレイオス1世は新年祭をおこなう場所として、それまでのバビロンのかわりに、ペルセポリスPersepolisに離宮と祭儀場の建設を始めた。一年の豊穣を祈願する新年祭は、シュメール・アッカド以来の伝統をうけつぐ最重要行事であった。代々のペルシア王は日常はスサSusaにいて、新年祭のためだけここに滞在した。のちにアレクサンドロス大王によって焼き払われて廃墟となった。」ということです。 -
ペルセポリス内にあるHotel Apadana Persepolisはつぶれたらしいです。
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大階段(Terrace Stairway)にはペルセポリス全体の案内がありました。
ついでにペルシャ語の説明を少し、、、
右から左に読みますが、右端が数字です。
ハートのマークをひっくり返したようなのが5、Vは7、Λは8です。
数字を覚えないと、お店やスーパーで物を買えませんし、車のナンバープレートもペルシャ語のみの表示です。 -
城壁の前が入口になっていて左右に大階段(Terrace Stairway)があり、いずれも111段、高さ10cmで、大きな岩を切りだして造ったもので、馬に乗ったままでも登り降りできるようにしてあるとの英語の説明パネルがありました。
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石の階段の上に木の板が渡してあるので、大きな岩というのは実感できませんが…。
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クセルクセス門です。
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大階段(Terrace Stairway)を登り、最初に見られるのが「クセルクセス門」です。ペルセポリスの正門にあたり、「万国の門」とも称され、左右には頭が人間で翼を持つ牡牛の彫像(人面有翼獣身像)が彫られています。残念なことに、顔面は偶像崇拝を嫌うイスラム教徒によって破壊されてしまいました。
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横から見た「人面有翼獣身像」です。
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クセルクス門を通り抜けると、「儀杖兵の通路(The Army Street)」が真っ直ぐ延びていました。
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儀杖兵の通路を歩く途中で、左手に「グリフォン(双頭鷲像)の像」が2つあり、そのうちの1つです。ライオンの胴に鷲の頭を持ち、幸運と力の象徴とされる鳥だそうです。
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双頭の牡牛の柱頭です。
ちなみに、ペルセポリスからの出土品として、テヘランの考古学博物館に、磨かれて黒く光った牡牛の柱頭があり、12月26日に見てきました。必見です。 -
「未完成の門(The Unfinished Gate)」です。「北東の角には34,000ものエラム語で刻み込んだ粘土の額石が発見されました。」と説明パネルに書いてありました。
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クセルクス1世が完成されたとされる「百柱の間(玉座殿)」です。かつては10×10の100本の柱があり、ペルセポリス最大の宮殿だったそうです。残念ながらいまは柱は立っていませんが、門やいくつかの壁が残っています。
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イチオシ
「百柱の間(玉座殿)」は国事用の公式宮殿で、すべての入口には玉座に座る王や猛獣と闘う王の浮き彫りが施されていて、圧巻です。
最上部には、近衛兵50人の上部の玉座に着く王が高官に謁見する場面が描かれています。 -
入口の両脇の壁のレリーフです。片方は比較的綺麗に残っていました。特に上のほうはよく残っていて、感激しました。前の写真がそのアップです。
下方には大王の近衛兵(親衛隊)が描かれています。 -
もう片方の壁のレリーフはボロボロになっているところもありました。
玉座に座る王を属州民が支える構図で、王の属州支配を誇示するレリーフです。 -
「百柱の間(玉座殿)」は70m四方の空間で、100本の柱も崩壊してがらんとした感じです。
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等間隔に柱が並んでいたらしいですが、石の台座にもしっかり模様がありました。柱は木製できれいに焼失してしまっていますが、石の台座の真ん中に穴が開いていて、ここに木の柱が据えられていたとのことです。
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敷地の最も奥に見えたのはハーレムと言われる王妃の宮殿(後宮)です。逆L字型に並ぶ一角で、女性専用の住居で、全部で20室あります。最も広い住居が王妃の部屋です。
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ペルセポリスでは、アフラ・マズダのシンボルのほか、4つの聖なるものを表すシンボル(ライオン=火、蓮の花=水、牡牛=地、鷲=空気)が随所に見られます。
牡牛を襲うライオンのレリーフは諸説あり、牡牛が冬、ライオンが夏を表し、季節の移り変わり、春(新年)をあらわすシンボルであるというのが有力説だそうです。 -
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アパダナの東階段のレリーフは必見です。
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古代ペルシャでは、春分の日が一年の始まりとされ、ダレイオス1世はこの日ペルセポリスのアパダーナ(謁見の間)に登り、帝国内23の属州、35の民族の使節に接見する『新年の大祭』を祝いました。
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小アジアで流行していたという靴を履いて行進するリディアの使者が描かれていました。
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大きな壺を持ったアルメニアの使者が描かれていました。
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最もアパダーナの宮殿に近い位置に描かれているのが、アケメネス朝のお膝元メディアからの使者。
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「アパダナ(謁見の間)」の列柱。もともとは72本あったそうですが、現在残っているのは12本だけです。天空を突き刺すように聳え立っていて、写真に撮ると本当に綺麗です。
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アパダナの裏にはダレイオス1世のプライベートな宮殿「タチャラ(The Tachara)」が残っています。
大王の宮殿のわりには小さな建物ですが、「タチャラ」は「冬の宮殿」の意味だそうです。 -
ここにも牡牛を襲うライオンのレリーフがあり、あちこちに繰り返し出てきます。
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イチオシ
ダレイオス1世のプライベートな宮殿「タチャラ(The Tachara)」です。建材に磨きぬかれた黒大理石を使っていたために「鏡の間」とも呼ばれていました。
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ここの基壇側壁にも牡牛を襲うライオンのレリーフがありました。
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イチオシ
「タチャラ(The Tachara)」の基壇側壁には、肩に弓と矢筒を掛け、手に大きな槍を持った勇猛果敢なペルシャ兵が描かれています。
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クセルクス1世のプライベートな宮殿「ハディーシュ(The Hadish)」です。
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ペルセポリスの屋根と梁と柱はすべて木でできていたので、火が放たれて一夜で焼けてしまったそうです。等間隔の柱の根元だけしか見れず、想像力を逞しくするしかありません。
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紀元前330年1月、マケドニア王国の若き英雄、アレクサンドロス大王がペルセポリス入城を果たし、紀元前331年ペルセポリスを陥落しました。
ペルセポリス陥落の祝宴の最中、アレクサンドロス大王は遊女の言葉に踊らされて、ペルセポリス焼き打ちを命じ、翌日その愚行を悔いたと伝えられていますが、アレクサンドロス大王自身が火を放ったという説、失火節など諸説あるそうです。
いずれにしても大王の目の前でペルシャ帝国の聖都が崩れ落ちていったことだけは確かです。 -
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「アルタルクセス2世王墓」です。百柱の間から歩いて約15分でした。
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「アルタクセルクセス2世王墓」は、東側の険しい山の中腹に掘られた横穴式の墓で、ナグジェ・ロスタムの王墓とは違って、墓前に約20?のテラスがあり、祭儀が行われたとされています。
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「アルタクセルクセス2世王墓」の基壇に描かれた近衛兵のレリーフも必見です。
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「アルタクセルクセス2世王墓」の前のテラスからペルセポリスの遺跡が一望できました。
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「アルタクセルクセス2世王墓」の反対側、もっと離れたところに別の墓が見えました。
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墓まで登らなくても途中からでもペルセポリスのパノラマを楽しめます。
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「アルタクセルクセス2世王墓」までの道は、一部ガレ場と化し、足元が悪くて滑りやすいので、底のしっかりした靴を履いていない場合は、危ないかもしれません。
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双頭の牡牛だったと思われますが、半分だけの牡牛の柱頭です。
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クセルクセス門です。夕方になってから入場するイラン人と思われる観光客も…。
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大階段を下ってペルセポリスとお別れです。
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大階段とペルセポリスの大基壇。
ペルセポリスは年1度の『新年の大祭』を祝うためだけに建てられたというのが通説ですが、ダレイオス1世とその子クセルクセス1世はギリシア征服を計画してペルシア戦争(前492年-前449年)を起こし、失敗しました。
その宿敵ペルセポリスについて多くの記録を残したギリシャ人が、この聖都については記録を残していないので、ダレイオス1世の秘密の隠れ家という異説もあるそうです。 -
入口近くにミニチュアの模型がありました。
ところで、12月31日は預言者ムハンマドの命日(Death of Prophet Mohammad)でイランの観光施設、土産物屋、官公庁、会社、お店などはほぼ全て閉まります。そのため12月30日にここを訪れるプランにしました。 -
ここまでの移動行程です。ヤズドからペルセポリスまでは約400km、ペルセポリスからシーラーズまでは約60kmです。
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