2013/12/03 - 2013/12/03
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tomofukiさん
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中国 重慶に行く機会があった。人口 2800万人と聞いてどんな町と思っていた。
街の中心を揚子江が流れ、街には坂が多い。神戸に似た雰囲気であった。
中国人の同僚と出張に行ったが、人々の話している言葉自体が異なる。中国で最も驚くことは言語だ。
標準語の北京語は、中国人は大体話すが 地方ごとの方言があり、方言で話されると中国人同士でも通じないという。
重慶の料理は、強烈に辛く 火鍋を頼んだが出汁は唐辛子で真っ赤、中に山椒の実が浮かんでいたが 口の中で噛むと
5分ほど ひりひりと感覚がなくなった。
また、日本と同じ山葵があり同じ様に 刺身に付けて食べるがこれも強烈に刺激が強く、鼻から目に抜ける刺激にむせ返った。
重慶には、世界史を変えたといわれる魚釣城遺跡がある。立ち寄ってみた。
- 旅行の満足度
- 3.0
- ホテル
- 4.5
- 交通手段
- 高速・路線バス
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釣魚城を7世紀前の南宋工期 四川安撫制置使(軍事長官)が蒙古軍の侵攻を拒むため魚釣山に城を築いた。
一躍有名にしたのは、モンゴル軍と南宋軍との戦いです。
南宋末期の1243年、急速に勢力を拡大するモンゴル帝国軍がこの地に攻め入ります。僅かに残った南宋軍は、南宋滅亡(首都杭州陥落の1276年)から3年後の1279年まで、なんと36年もの長期に亘り、この釣魚城を守り抜いたとのこと。
最後は、南宋が降伏した後にも抵抗したが、最後の将軍の妻 ”熊耳”の説得により 元に降伏したとのこと。
魚釣城の城壁は、川面に15mの高さで構築されている。
魚釣城の全体を模型にしたパノラマ -
入口の説明より
西暦 1243-1279年 南宋合州の郡身mは王堅の指導のもと、魚釣城の天険を利用して“攻をもって守とし、積極的に出撃し” “耕を戦いと結び付け、抗戦を続けていく”という戦略を貫きました。200以上の戦いを経て 魚釣城は当時世界最強を誇る蒙古軍隊の侵攻を拒み続け “交通の大動脈である嘉陵江をコントロールし蒙古軍の四川からその他地域を侵出する通路を遮断する”という戦略目標を実現しました。 -
彼らは 36年間守り続けたという世界戦争史の奇跡を作った。
1259年 モンゴル帝国第4代汗 モンケハン(元の憲宗)自ら親征して南宋領内深くまで攻め入っていましたが、ここ釣魚城で1259年に負傷し戦死した。 -
南宋鄂州を攻撃していたフビライと北アフリカを攻撃しているフレグはそれぞれの大軍を全面撤退した。それで蒙古の緒親王によりヨーロッパ全域への侵攻が終わり世界史を書き換えた英雄の地として知られるようになった。
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歴史に「もし」はありませんが、もし釣魚城が突破されていたら、モンゲ汗がここで打ち破れて戦死していなかったら、モンゴル帝国は更に領土を拡大し、世界の歴史が変わったとも言われています。
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延々と続く坂道。
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途中の山道がから見えた揚子江。
PM 2.5のせいでハッキリ見えません。 -
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仏像も新しい。
文化大革命で破壊されたとのこと。 -
36年間守り抜いた将軍の像
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岩肌をくりぬいて作った仏像。
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涅槃佛
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重慶は霧の町でした。
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