2013/10/25 - 2013/10/25
97位(同エリア140件中)
ひま人さん
五條市は奈良県の南部に位置し、吉野への通り道で観光では素通りする町でした。しかし、文久3年に五条代官所を舞台に、明治維新の魁となる天誅組の変から約150年になる町です。又、約400年前に城下町として建設された五條新町が残されています。その”新町通り”を散策。花の寺として”ぼたん”の「金剛寺」、”花まんだら”と呼ばれる境内に四季折々の花が咲き誇る「観音寺(おふさ観音)」を訪れました。そして天誅組が襲った「五条代官所跡」と長屋門と天誅組の資料が展示されている「民俗資料館」を見学しました。
写真は代官所長屋門。
- 旅行の満足度
- 3.5
- 観光
- 3.5
- グルメ
- 4.0
- 交通
- 3.5
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 1万円 - 3万円
- 交通手段
- 観光バス JRローカル 私鉄 徒歩
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高野山派真言宗、金剛寺山門。今から800年前、平安朝の文化人小松内大臣、平重盛の創建によるもの。江戸時代初期から野原城主畠山義春の菩提寺として復興、奈良町の末期、宇智の大野に流されてきた光仁天皇の皇后、井上内親王と、その子の他戸親王(おさべしんのう)の怨霊を祀る宮寺として、さらに元京都仁和寺、直末の中本寺としての歴史と信仰を有する名刹の古寺です。本尊は薬師如来です。
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金剛寺観音堂
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阿弥陀如来、700年前の鎌倉時代の作で寄木造りで、西方極楽浄土を司り、この世の衆生を救済しようとの誓願を持つ仏さまです。
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金剛寺庭園。
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金剛寺、大師像。
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五條新町。全国88番目、重要伝統的建造物群保存地区。
今から約400年前、関ケ原の戦いの後、江戸幕府が成立のすぐ、慶長13年(1608年)松倉重政が城下町として建設したのが五條新町の街並みです。二見城主だった重政は、城下町の振興策として93軒の町屋を取り立て、その諸役を免除したことで、新町を商人の町として繁栄させました。
慶長20年(1615年)に重政が島原に移った後は、幕府の天領となり、紀州街道に沿う宿場町として発展していきました。 -
新町通り。
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昼食を頂いた和食レストラン「源兵衛」。新町通りの築250年の町屋を食事処として改装したもの。食材は五条の地元の季節の新鮮な野菜をメインに調理した会席料理でした。
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和食レストラン「源兵衛」。
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「源兵衛」前の新町通り(紀州街道)。
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五条代官所跡石碑。文久3年(1863年)8月に前侍従中山忠光(後に明治天皇となる祐宮の叔父にあたる)を総大将とする天誅組が五条代官所を襲撃、代官鈴木氏ら5人を惨殺し代官所を焼き払った。一味は五条の桜井寺を本陣として「五条政府」の樹立を宣言、いわゆる”天誅組大和義挙”です。一味は幕府側の追悼を受け、激戦を繰り返しながら終に東吉野で壊滅したが、この義挙は後の武力討幕の導火線となりました。
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長屋門(民俗資料館)。再建された代官所の長屋門を史跡公園に移築したもの。内部は天誅組の足どりやゆかりの地などの資料が展示された資料館になっています。
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観音寺山門。
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高野山真言宗別格本山観音寺(通称おふさ観音)。慶安3年(1650年)この辺りにあった鯉ケ淵という池の中から白いカメに乗った観音が現われ、それを発見した付近に住む娘おふさが小さな堂を建立して観音を祀ったことが起源とされています。
仏の世界になぞらえて「花まんだら」と呼ばれる境内には四季折々の花が咲き誇ります。なかでもイングリッシュローズを中心に約1800種、2000株のバラとクラマチス・ハーブなどの植物が境内で栽培・展示されています。
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